2人は真剣に相談して子供を迎える決心をする。
そして生まれて来た子供によりタダは思いがけない経験をする…。
それはタダとフロルが惑星開発専門宇宙パイロットとして働き始めて5年ほどが経った時の事だった。ちょっと前の審査でタダはS
2ヶ月ほど続いたミッションが終わり、タダとフロルはシベリースの自宅に戻ってきた。次のミッションまで2週間ほどのんびりできる。
軽く食事を取り、シャワーを浴び寝室に入った。ベッドの中でフロルが話し始めた。
「タダ、オレさ、ずっと考えてたんだけど」
「何だい?」
フロルは少しためらった。
「あのさ、オレ、子供が欲しい」
タダは微笑んだ。
「……いいんじゃない?」
「え?いいの?」
「というか、僕もずっと子供が欲しいと思ってた」
「えーっ!だって、おまえ以前オレが子供欲しいっていったら、ダメって言ったじゃん」
「あのときとは話が別だよ。あのときは君が女性になって半年も経ってなくて、僕たちは学生で、特に君は単位がギリギリだったろ?」
フロルは元々成績がぎりぎりだったところに、入院で休んだりして本当にこれ以上単位を落とせないところまできていた。
「あんな時に子供がいたら、君、絶対に卒業できなかったよ」
ただあのときフロルが子供を欲しがった理由もタダはわかっていた。惑星比較文化人類学は実習が多い2人にとっては数少ない座学の授業だった。同じ教室で受講した女子学生と知り合ったのだが、しばらくして彼女のお腹が目立ってきて驚いた。聞いてみるとシングルマザーになって勉強しながら子育てすると言う。フロルは半ばうらやましそうに彼女のお腹を毎週見つめていた。やがて臨月になり彼女は授業には来なくなった。しばらくして子供が生まれたと連絡があり、2人はお祝いの品を持って彼女のアパートを訪れた。
「本当にここの大学はありがたいわ」彼女は赤ちゃんを抱き上げて言った。
「シッターロボットも補助してくれて安く借りられるし、授業は部屋でビデオを見てレポート書けば単位がもらえるし」
卒業後は人類学関係の仕事に就きたいと彼女は話していた。
「今は僕たちはパイロットとしてのキャリアもできてきた。子供を持ってもいいころだと思うよ」タダはフロルの手を取った。
「君も知ってるように僕は子供の頃に両親を無くして、記憶もほとんどない。入学試験の時に少し思い出したけど、微々たるものだ。
……そりゃ子供の頃はなんで自分だけ両親がいないんだろうってよく思ったよ。長老は何も話してくれなかったしね。でもそのうち、いないのが当たり前で寂しいともなんとも思わなくなった」
タダはフロルの顔をのぞき込んだ。
「でも、君と付き合い始めた時に思ったんだ。君がまだ未分化だったころだよ。僕はもう自分の両親に会うことはできない。でも君と結婚して子供が生まれれば、僕はその子の親にはなれるってね。
……あのときは君に何も言わなかったけど、それは大きな希望だったよ……」
タダは微笑んだ。
「だから迎えようよ、新しい家族を」
「うん!」
タダは手を伸ばして枕元のテーブルの上のタブレットを取った。アプリを立ち上げる。
「僕の長期ピルが切れるのがだいたい3週間後。君の方は1月後に切れるな。……ところで、フロル、生まれてくる子供の性別はどうしたい?」
「え?どうしたいって?」
「男性か女性か両性か」
「うーん、よくわからないな。オレ、どれでもいいや」
「そう。……僕は両性種の子が欲しい」
「え?そう?なんで?」
「うん、いろいろ大変な面もあるだろうけど、性別を自分で選べるっていいと思うよ」
「そうだね。それにここなら長子は男……とか関係ないし。だいたいヴェネでも性別自己決定法案がもう少しで通りそうな時代になったし」
「じゃ、君のピルが切れた時点で病院に行こう。人工授精で両性種の遺伝子を持つ受精卵を作ってもらうからね」
タダはタブレットをテーブルに戻すと手を頭の後ろで組んでベッドに横になり天井を見つめた。
「それから、フロル、子供はどうやって産む?」
「え?おまえやたらと細かいな。どうやってって、どう言う事?」
「フロル、ベビーは夢じゃなくて現実だよ。リスクを考えるなら、人工子宮で誕生まで持っていくのが一番いい」人工子宮を使った出産は今ではまるで珍しくなく、母親が持病のある場合や高齢者、ゲイのカップルなどが使っている。
「え?どうしてさ?」
「君も女性になるのに色々トラブルがあったから、リスクはそれなりにあると思うよ」
「やだよ!」フロルは驚いて大声で叫んだ。「おまえさ、オレがなんであんなに苦労して女性になったと思ってんだよ!自分で子供産めなかったら女性になった意味ないよ!」
「……そうだね」タダは頭の中で素早く色々と考えた。
「わかった。赤ちゃんは君のお腹で育てよう。でも条件がある。毎月必ず検診を受ける事。そして少しでも危険があったらその時は人工子宮に切り替える事」
「……わかったよ」
そこまで言うとタダはフロルの方を向いて言った。「フロル、疲れてる?」
「ううん、全然」
「そう」タダは微笑んだ。「じゃ、おいで」
「ん!」
フロルはぴったりと身体を寄せてきた。タダはフロルを抱きしめると唇を重ねた。もう何度この行為を繰り返してきただろう。愛し合う事は2人の日常の大切な一部になっていた。
タダがフロルの服のボタンを外すとフロルはするりとパジャマを脱いだ。首筋や肩に口付けして、しかしタダはふとその手を止めると毛布を跳ねのけ、あらわになったフロルの腹部に手を伸ばした。ほっそらとした腰。固く引き締まった腹。そこを見つめてへその周りを優しく愛撫する。
「なんだよ、そんなとこ触って」
フロルはくすぐったいのか、くすくす笑いながら言った。
「いや、もうしばらくしたら、ここに僕たちの子供が宿るのかなって思って」タダがつぶやくように言う。
「おまえ、おかしいよ」
フロルのお腹は平らで固く、妊娠した姿を想像するのは難しかった。
「ふふ」フロルは笑った。そしてタダの胸に顔を寄せて、「でも楽しみ」とつぶやいた。
フロルの採卵は仕事の合間を縫って都合2回行った。一度の採卵で両方の卵巣から1つずつ、計2個の卵を取る。結局4個のうち2個が両性種の子供に必要なXY遺伝子を持つ卵子だった。両性種の性染色体はXXYだが、減数分裂により卵子はXかXYの遺伝子を持つ。「確率どおりだな」とフロルが言った。
それにタダの精子のうちX遺伝子を持つ物を使って授精させる。すると受精卵はXXY遺伝子を持つ両性種に育つわけだ。
卵子と精子がそろって授精させる段階になり、医師は質問した。
「他に何か遺伝子操作したいところはある?」
2人は特に考えつかなかった。髪とか目の色とか、別に2人はこだわらなかった。
「じゃ、操作はなしということね」
しかし帰りがけ、建物を出たところでタダはふと気がついた。
「フロル、ちょっと話をしてくる。君は車の中で待っててくれ」
タダは医師の元に戻ると、話しかけた。
「遺伝子操作だけど」
「ええ、何かご希望?」
「……超能力を持てるように遺伝子操作できる?」
「超能力の因子があるのかどうかはまだ学会でも承認されてないわ。でも遺伝子の中で超能力因子だと言われている部分はいくつかあるの。じゃ、一番有力と言われている4カ所はあなたの遺伝子を使うようにしておくわ。ただし、子供が超能力を持てる保証はないわよ」
「了解だ。お願いするよ」
それが1ヶ月ほど前の事だった。
「元気な子を選んで授精させたからね」と産婦人科の女性医師はにっこり笑って報告してくれた。
受精卵はすぐに冷凍保存され、次はフロルの体調を見て妊娠させる段階になった。
着床にはタダも同行した。医師はシリコンの細長いカテーテルを2人に見せた。
「この先に受精卵を乗せて、フロルの子宮に着床させるの。何かが身体に入る感じはするけど、痛みはないはずだからね」
タダは診察台の上に横になったフロルの横に立った。フロルは両手でタダの手を握りしめ、2人は目の前のスクリーンを見つめた。ちょうどフロルの子宮のCT画像が映るように調整してあった。改良型のCTは放射線の照射が無視できるほど小さく幅広く使われている。
「じゃ、始めるわね」医師はカテーテルをフロルの体内に挿入していった。
やがてスクリーンにカテーテルの先が現れた。それは子宮壁に受精卵を押しつけるとしばらくそのままにしていたが、受精卵が壁に付いたのを確認すると、するすると引っ込んでいった。
「10分ほどじっとしていてね。でも、きっとうまくいくわよ」
帰りに医師はフロルに妊娠検査薬を渡した。
「今日明日は反応が出ないだろうから、あせっちゃだめよ。3日目ぐらいからこの検査薬を使ってね。妊娠してたら1週間後にまた来てね」
そして医師は2人を見てにっこりして続けた。
「今日からもうセックスしても大丈夫よ。でもほどほどにね。フロルを大興奮させて子宮が痙攣すると流産する可能性があるから」
「うん、わかった」フロルが明るく答える側でタダは顔を赤らめた。
1週間後、フロルは妊娠していることがはっきりした。その時点でタダはそれ以降の仕事をすべてキャンセルし、あらたに中央宙港のロケット発着陸のグランドスタッフの仕事を1日8時間契約した。
「え?キャンセルするって?」仕事を依頼してきた開発会社の担当が聞いた。
「ああ。フロルが妊娠したんだ」
「でも、君は関係ないだろ?どうして君まで?」
「フロルに何かあった時に宇宙を飛んでたら何もできないだろ?いつもそばにいたいんだ」
「はは、本当に愛妻家だな、君は。だけど2人とも仕事を辞めて収入はどうするんだ?」
「シベリースの中央宙港でロケット発着陸のグランドスタッフを自宅からリモートでやるよ」
「現役パイロットの君なら楽勝の仕事だな。……そうだ、フロル号はどうするんだ?」
タダとフロルは2年前、自分たちで小型探査船を購入し「フロル号」と名付けた。通常開発会社や調査団体からの依頼を引き受けて惑星探査を行う際には、その会社や団体所有の探査船を使う。しかし探査船は細かい仕様がそれぞれ異なり、また使い勝手の悪い点も多々あった。2人は話し合い、貯金をかなり取り崩して思い切って自分たち専用の小型探査船を購入し、使いながら改良を加えていった。優秀とはいってもまだ駆け出しのパイロットの2人にはなかなか大きな出費だった。
「ああ、フロル号は中央宙港の倉庫に保管してある」
「もったいないなあ、使わないなんて。保管料も結構かかるだろ。……そうだ、フロル号を貸し出さないか?」
「貸し出す?」
「ああ、現役パイロットの君がメンテして改良を加えてるんだ。使いやすいはずだぜ。……そうだな、1日10万クレジット出そう。どうだい?パイロットの収入に比べりゃ微々たるものだが、少しは足しになるだろ?」
「助かるね」
「他の開発仲間にも言っておくよ。タダとフロルはダメだけどフロル号は借りられるって」
「ありがとう」
フロルの妊娠は順調だったが、やがてつわりが始まった。
「フロル、食事ができたよ!」タダがダイニングから呼んだ。
フロルはうかぬ顔でテーブルにつき少し食べたが、そこでフォークを置いた。
「ごめん、せっかく作ってくれたけど、もうこれ以上はいらない」
「ああ、無理するな」
共に食事をしていた長老はポットで湯を沸かすとハーブティーを煎れた。
「フロル、これを飲んでごらん」
「長老、フロルはこれ苦手なんだよ」
しかしフロルはカップを手に取ってお茶をすすり「あ、これ、おいしい」とつぶやいた。
「気分が落ち着くじゃろ。食欲がなければ無理に食べなくてよい。栄養なんざいくらでも点滴で補給できる。それより気分を落ち着かせる事が大事じゃ」
フロルはにっこりした。
「フロル、こっちにおいで」長老は言い、フロルが近づくとフロルの額に手を当てて集中した。
「……よくわかんないけど、なんだか落ち着いた」
「そうか、よかった。……横になって休んでおいで」
「うん」
フロルが臨月にさしかかる頃、2人の家にレンタルのシッターロボットがやってきた。「ナニー」といういかにもステレオタイプの名前のロボットは、作られて5年ほどだったが、10万人分の育児記録の情報を持ち、2人にとっては頼もしいおばさんといったところだった。
「出産は」とある日タダが切り出した。「長老のところのクリニックで行う。ここから近いしね」フロルはうなずいた。
「で、僕がペインストッパーをやる」
「何、それ?」
「シベリースの出産では麻酔は使わない。その代わり直感力に優れた者が妊婦の痛みを止めるんだ。薬じゃないから安全だし、痛みを100%止めることはできないけど、意識もあるから自分で行動できる」
「ふーん」
数日後、フロルが食後にソファーにもたれているとナニーが声をかけた。
「もうすぐお産が始まります。クリニックに行きましょう」
「え?オレ、まだ何も痛くないけど?」
「すぐに陣痛がきます。用意しましょう」そういってナニーは必要な物を次々と運び始めた。
「え、だって……」そこまで言ってフロルはお腹を押さえた。「あ、痛っ!」
ナニーは軽々とフロルを抱き上げた。「クリニックに行きましょう。助産師にはもう連絡しました」
クリニックに着くとフロルは早速出産用のベッドに寝かされた。タダはそばについていた。フロルは陣痛の間隔が短くなってきて、時々うめいてた。
——陣痛。どんな痛みなんだろう
タダはフロルの意識に触れ、途端に痛みを感じてうっとうめいた。
「何をやっとる!おまえが痛みを感じても意味ないじゃろ!」いつの間にか長老が診察を済ませて横に来ていた。
「おまえの意識でフロルの意識を覆うんじゃ。こうだ」長老はタダの手に自分の手を重ねた。
「あ、ああ」
フロルは急に痛みが和らぐのを感じた。痛みはあるが遠くにぼんやりと感じられる程度になった。
「タダ、上手いわ!最初はどうなる事かと思ったけど」助産師が、準備をしながら言った。
「フロル、タダはうまくやってるわ。タダは痛みを9割がた防いでくれてる。だからあなたは赤ちゃんを自分で押し出してあげるのよ!」
タダはフロルの痛みを止めながらお腹の中の胎児に意識を向けた。
──コワイヨ……
フロルの体内で胎児のぼんやりとした恐怖が感じられた。
──大丈夫だよ。
タダはテレパシーで胎児に話しかけた。
──愛してるよ。この世は素晴らしいところだ。恐れずに出ておいで。
返事はなかったが、胎児の恐怖はおさまり必死に動き出したのが感じられた。
しばらくすると赤ん坊の産声が聞こえ、部屋は安堵に包まれた。
「よくやった、フロル!」タダが優しくフロルの額の汗を拭ってキスした。助産師が産着に包まれた赤ちゃんをそっとフロルの腕に抱かせた。
「オレ……母親になったの?」フロルはまだ実感がわかないらしく、きょとんとしてつぶやく。
「そうだよ」タダが優しく言った。
赤ちゃんはフロルの腕の中でふわああと泣き出した。
「何言ってんだろ」とフロル。
「お腹すいてるんじゃないか?」
「え?」
タダはフロルの服の前のボタンを外すと赤ちゃんをあてがった。赤ちゃんは熱心に母乳を吸い始めた。
「吸ってるよ!」フロルが驚いたように言う。
「フロル、人は哺乳類なんだよ」
「あら、順調ね」助産師が声をかけた。ついで血圧などてきぱきとフロルのバイタルデータを取る。
「問題ないわね」
家に帰ってからはナニーが大活躍してくれた。一番助かったのはナニーのおかげでフロルが最初から充分な睡眠が取れた事だった。産まれたばかりの赤ちゃんは2時間から3時間おきに授乳しないといけない。夜中に赤ちゃんがお乳を求めて泣き出すとナニーはすぐに赤ちゃんを抱いてタダとフロルの寝室に向かう。フロルのベッドの上体を斜めに起こすとフロルの服をはだけて赤ちゃんに母乳を飲ませた。赤ちゃんが満足するとオムツを替えて抱き上げて寝かしつける。だいたい一晩に3回から4回授乳したが、フロルは、そして横で寝ているタダも目を覚ます事なくいつもぐっすり眠ったままだった。
おかげでフロルの身体はどんどん回復して行った。一カ月後にフロルを診断した医師は、もう充分に2人目を妊娠できると太鼓判を押した。
そしてナニーは赤ちゃんの世話に留まらず、掃除や洗濯など休む間もなく一日中動き回った。タダもフロルもオムツを替えたが、一番よく替えたのはナニーだった。オムツカバーのセンサーを読み取っていつオムツを替えるべきか的確にわかるのだ。
そして一月が経った頃、ナニーはタダに言った。
「赤ちゃんが生まれてからお二人はデートしていませんね。どうですか、そろそろデートしては?」
「え?」
「シベリースの法律では、赤ちゃんが生まれてから1ヶ月経ったら人間のベビーシッターとシッターロボットがいれば、両親は預けて外出できるんです」
「なるほどね」
「人間のシッターは探しておきますね」
次の日、近所に住む高校生の女の子が2人の家を訪れた。
「やあ、君が今日のベビーシッターかい?」
そしてタダとフロルは女の子とナニーに赤ちゃんを預けて久しぶりに2人でドライブをして夕食を楽しんだ。帰って来ると女の子はにこにこ顔で2人を出迎えた。
「赤ちゃんかわいかったです!またシッターさせてください!」
それ以降タダとフロルは週末には外出してデートを楽しむようになった。ライブやコンサートに行ったり、ちょっと豪華なバーで楽しいショーを見ながらディナーを味わったり。
シッターは最初に来てくれた女の子がよく来てくれたが、次には高校生の男の子がやってきた。なんでもシッターの女の子のボーイフレンドだと言う。
「いやあ、彼女に赤ちゃんが可愛いからって勧められて」彼は顔を赤らめて引き受けたが、楽しんでくれて何度もシッターをしてくれた。
さらに数ヶ月して子供ははいはいするようになった。ある時タダは赤ちゃんのオムツを替え、抱いて床に座らせると汚物を片付け始めた。その時ナニーが近づいて言った。
「タダ、それは私がやります。人間は人間にしかできない事をやってください」
「人間にしかできない事?」
「ええ、赤ちゃんに笑顔を見せる事ですよ」
「笑顔?」
「ええ。確かに私達も笑顔を作れるようにできています。でも人間の顔は筋肉の数が桁違いです。人間の笑顔は毎日、いやその時の心の動きで無数に異なるんです」
「へええ」
「そして赤ちゃんは周りの人の笑顔を見て笑顔を覚え、感情が育っていくんです。これは人間にしかできない事です」
「ふうん」
「私達シッターロボットの役割はお父さんやお母さんの家事や雑用をたくさん引き受けて、周りの大人達が心にゆとりを持って赤ちゃんに笑顔を見せる事ができるようにする事なんです。昔、シッターロボットが普及してなかった頃は家事も子供の世話も全て1人でやらなければならないお母さん達が多くいました。本来育児は楽しいものなのに時間に追われて疲れ切ってしまい、子供にゆとりを持って笑顔で世話をする事ができなくなってしまったお母さんも多くいたんです。それを聞いて子供を欲しがらない夫婦も増えていきました。私達はある意味、ご両親に育児の本来の楽しさを味わってもらうためにあるんです」
「わかった。じゃあお願いするかな」
タダはそう言うと子供に向かって「おいで」と言って両手を差し伸べた。タダを見つけた子供は「だぁ!」と言うと嬉しそうに一生懸命はいはいして近寄って来た。タダはその子を抱き上げると抱きしめて頬ずりした。子供は喜んできゃっきゃと笑い声をあげた。
——自分の子供というのはこうも愛おしいものなのか。
そして先程のナニーの言葉が思い出された。
——赤ちゃんは周りの大人の笑顔を見て感情が育つんですよ。
タダははっとした。
——父さん、今の僕に感情があってフロルを愛する事ができるのは、父さんと母さんが幼い僕を愛して笑顔をいっぱい見せてくれたからですか?
心の底で記憶にも残っていない誰かの声が「そうだよ」と答えたような気がした。
その時ドアが開いてフロルが部屋に入ってきた。子供はドアの音を聞いて振り向き、フロルに気づくと「だあぁ!」と嬉しそうに言って両手をフロルの方に突き出した。
「はは、取られたな」タダも笑って子供をフロルに手渡した。
「お腹すいたのかな?」フロルはソファに腰掛けると慣れた手つきで子供を抱き、ボタンを外して授乳を始めた。フロルのお腹は少し目立ってきていた。すでに2人目の子を宿している。
子供を抱きフロルは幸せそうに微笑んだ。穏やかな母親らしい微笑み。そんなフロルの表情を見てタダは心の中で思った。
——母さん、あなたも子供の僕を抱いてあんな幸せな表情をしたんですね。
「……そうよ」心の奥底で記憶にない声が答えた。
タダの胸に熱いものが込み上げてきた。タダは涙を見られまいと、そっとフロルの後ろ側にまわった。フロルはまるで気づかずに、無心にお乳を吸う子供を見つめている。
両親、父親、母親……。意味は知っていても実感が伴わなかった言葉が生き生きとした意味を持った。真っ白だった記憶に美しい鮮やかな色が加えられた。
両親を失ってから20年以上。心の奥底の、もうそんなものがある事もとっくに忘れていた暗い大きな穴が暖かい感情で満たされていった。
親に愛されたという確信はこうも力強いものなのか。それは自分の全てを肯定し、励まし力づけてくれる。これから先、困難に直面しても勇気づけ優しく背中を押してくれる。
——僕は愛されたんだ!
それは世界に向かって叫びたいような明るい感情だった。
やがて子供は満腹になったのか、満足そうに吸うのをやめた。フロルは服のボタンをかけると改めて子供を抱き上げた。
タダはフロルの横に腰を下ろすとフロルを子供ごと抱きしめた。
「なんだよ」
タダは笑った。
「ねえ、僕は親になって、僕の両親を取り戻したんだよ」
「うん?」フロルは意味がわからなくてきょとんとした。タダは笑ってまた2人を抱きしめた。
「ありがとう、フロル」
「なんだよ、いきなり」
タダはそれには答えず、ただ笑って子供に頬擦りした。
——ありがとう、僕らのところに来てくれて。ありがとう、僕が両親に愛された事を教えてくれて。