《シンジが熱出して倒れた》
アスカからの連絡で急ぎ帰宅したミサトが見たのは、台所から爆炎の如く立ち昇る火柱だった。
「……ナニやってるの、アスカ?」
「いやああぁぁぁッ!」
フライパンを握りしめたアスカが懇願するような表情で振り返る。
「助けてミサトっ!」
「あーはいはい……」
ミサトはアスカからフライパンを取り上げ、コンロのスイッチをオフにする。
油を大量に入れたのね……。ミサトは周囲を冷静に観察し、コンロのそばの鍋蓋でフライパンにそっとふたをする。酸素の供給がなくなった火柱はそれで呆気なく鎮火した。
「焼身自殺でもするつもりだったの?」
「ごめん」珍しく、アスカは素直に目を伏せて頭を下げた。あらら、口がひよこみたいに尖ってかわいらしい。
「バカシンジに何かつくってやろうと思って……」
なるほど、確かに台所で悪戦苦闘した跡がある。まな板に鶏肉が置いてあるが、発熱で寝込んでいる人間にフライパンと大量の油で何を作るつもりだったのか。
ミサトはそっとため息をついた。
ーこの子ってこんなにポンコツだったかしら?
よく見ると、アスカは制服姿のままだった。携帯のメールもタイトルだけで本文がなく、よほど慌てたらしい様子がうかがえた。
「だって……ちょっとしんどそうだなとは思ってたけど、家に着いた途端倒れるんだもん」
ミサトはシンジの部屋をそっと覗き込んだ。
薄暗い部屋の中央で、シンジは口まで布団を被って寝息を立てていた。呼吸は少し荒そうだ。制服は乱雑に脱ぎ捨てられていたが、寝床はやけにきれいに整っている。アスカが着替えさせて、寝室まで運んだらしい。女の子一人でそれをするのはかなりの重労働だっただろう。
「エロ……」アスカがシンジの制服を脱がしている様子を想像していたミサトは、妙なことを口走りかけて訂正した。「えらいわ、アスカ」
シンジの額に手を当てる。熱い。間違いなく、無理をしてはいけない体温だった。
「大丈夫かな……」
リビングに戻ると、アスカは俯いたままそう言った。下を向いていて、表情は見えない。
「心配?」
「だって、いきなり倒れるから……」
「アスカが色々してくれたから、大丈夫よ。 本部に連絡入れて明日迎えをよこしてもらうから、病院で見てもらって、二、三日休めば良くなるわよ。アスカもシャワー浴びて着替えてきなさい。晩御飯は私が作ります」
交代で入浴を済ませ、ミサトは台所に立った。アスカが訝しげな表情で覗き込む。
「出来るの、料理?」
「まかせなさいって。こちとら大学時代に体調崩した時だって自分一人で乗り切ってきたんだから、身体にやさしい料理のひとつやふたつ、お手のもんよ」
ミサトは冷蔵庫を物色し、うどんが三玉あることに目をつけた。さすがはシンジ君、私が一人暮らしをしていた時とは比べものにならない量の食材が並んでいる。さりげなくレトルト食品で利用できそうなものはないか探してみたが、残念ながら病人に出せそうなものはストックされていなかった。
大型の鍋にめんつゆを流し込み、うどんを煮込む。簡単だ。消化しやすいように、少し長めに煮込んでうどんを柔らかくするのがポイントだ。
「出来たわよ、アスカ」
「……なんか、すごく辛いわよ、これ」
「え?」
「シンジがこのオダシ? …ってやつ使う時って、ミネラルウォーターで薄めてたような気がするけど……」
「……………」
まさか、そんなはずは。カップラーメンのように全部入れて混ぜるだけの親切設計ではないのか。
ミサトがめんつゆのボトル表記を確認しようとした時、リビングにシンジが入ってきた。
「アンタ、起きてきて大丈夫なの?」
「大丈夫。心配かけてごめんね……」
ふらつく足取りを、無理に正しているように見えた。それでもキッチンまでやってくると、シンジは冷蔵庫からペットボトルの水を取り出してひと飲みした。
「晩御飯、僕が作りますよ、ミサトさん」
「なにいってるの。だめよ、そんな体調で」
シンジは台所の惨状に目をやった。明後日の方向を向いている二人に、笑顔を見せる。
「作ります。大丈夫、これだけ用意してくれてたら、すぐ出来ます。ミサトさんも明日早いんでしょう?」
シンジの手際は鮮やかだった。
ミサトの特濃うどんは、めんをざるに移して一度水洗いし、原液のままのめんつゆはそのまま小鉢に移してざるうどんに早変わりした。カットネギにごま、生姜まで添えられた一品だ。
アスカの鶏肉は人参といっしょに一口大にカットし、微塵切りにした玉ねぎとあわせて沸騰させた鍋で煮込む。灰汁を取ってからコンソメを入れてさらにひと煮立ち。
アスカはそれが食卓に並べられた時、ハッとなってシンジの顔を見た。それはアスカが作ろうとしていたチキンスープと同じだったからだ。チキンスープは、ドイツでは風邪を引いた際に食べる定番の料理である。
「ありがとう、アスカ。おいしくて、元気出るよ」
シンジは笑顔で言った。やはり顔が赤い。無理をさせてはいけないのだ。
「ねぇ、ミサト」
シンジを先に寝かせて、洗い物をしながらアスカはミサトに言った。台所の片付けがこんなに手間のかかるものだということを、アスカは初めて知った。
「どうしたの、アスカ?」
「少し、お金貸してほしい」
※
洞木ヒカリは心配だった。
親友のアスカが朝から思い詰めたような顔をしており、何を話しかけても上の空だったからだ。
「碇くんの風邪がうつったんじゃない?」
昼休みに話しかけても、アスカは首を横に振るだけで気のない返事をするだけだった。時々教室の時計を気にしてはソワソワしている。お弁当がないのは、そうか、碇くんが熱を出して作れなかったからか。
「ご飯はちゃんと食べないと、アスカも倒れちゃうよ」
ヒカリは自分のお弁当から卵焼きをお箸でつまんで、アスカの口にねじ込んだ。
もにゅもにゅ、ごくん。飲み込んでから、アスカは思い出したようにヒカリの方に向き直る。
「そうだ、ヒカリ。教えてほしいことある」
アスカは物音を立てないようにドアをそっと閉めると、買い出してきた重たい荷物を玄関に放り出した。
重いっ……。日用品の類はどうしてこんなにかさばるものが多いんだろう。食材に熱冷まし、看病に必要な物が何かわからず、レシートがとんでもない長さになってしまった。
いつもなら悪態をついて鬱憤を晴らすところだが、これをシンジが毎日こなしているのかと思うと、今日だけは申し訳なさの方が先行した。
《ただの風邪だったよ。寝てれば二日もあればよくなるって。迷惑かけてごめんね、アスカ》
《身体に悪い菌が入ったみたいだけど、そもそも過労気味で身体が弱ってたんじゃないかって。しばらく無理させないようにしてあげましょう》
シンジとミサトからのメールの微妙な差異に、アスカはどこか気持ちが落ち着かなかった。
「入るわよ、バカシンジ」
外から呼びかけてみるが、返事はない。眠っているのだろう。
ー今日だけは、ジェリコの壁は崩壊ね。
部屋に入り、寝ているシンジの額に手を当てる。発熱していることはわかるが、素人にはこれがどういう状態なのかがわからない。息は荒く、苦しそうだ。
それから、アスカはシンジの首元に手を当てた。喉から肩にかけて触れてみると、じっとりと汗ばんでいることがわかって、アスカは少しほっとした。
“碇くん、昨日は寒気が酷かったって言ってたのね? 心配だと思うけど、汗をたくさんかき始めてたらもう治りかけだから、帰ったら確認してみて”
ヒカリに助言をもらっておいてよかった。彼女は妹の面倒をよく見ているから、こういう時のアドバイスには信頼が置ける。
“そんなに心配するほどのことじゃないと思うけど……とにかくちゃんと寝て、少しでもいいからちゃんと食べてお薬飲ませて、水分補給はたくさんさせてね。当たり前のことを当たり前にさせるの。あとは汗をかくだろうから……”
アスカはしばらく逡巡した後、シンジの頬にそっとキスをして立ち上がった。シンジの表情が幾分かやわらいだように見えたのは、きっと自分の都合の良い錯覚だろう。
※
ミサトが帰宅したのは早朝の五時頃だった。
シンジが熱を出しているのにもかかわらず、仕事を優先しなければならない己の立場をミサトは呪った。エヴァ3号機が北米ネルフから松代に輸送されてくる件で、段取りに手間取ったのだ。
《バカシンジは私がみるから、気にせず仕事してなさいよ》
そのメール以降、アスカからの連絡はなかった。大した病気ではないだろうからと任せはしたものの、シンジは時々無茶なことをするところがあるので気が気ではない。
「あぁ、お帰りなさい、ミサトさん」
軽くノックしてから引き扉を開けて寝室を覗き込むと、シンジの元気な声が出迎えた。ミサトは返事を返そうとして、口を開いた状態で固まる。
シンジの枕元に、寝巻き姿のアスカが丸まって眠っていたからだ。しかも、シンジはアスカの頭をなでるような形で手を添えていた。
添い寝? ハダカデアタタメル? いいぞもっとやれ、というミサト本来の性分であるヨコシマな部分と、中学生でそれはまだ早いという保護者としての考えが刹那せめぎ合い、ミサトは言葉が出なかった。
「あの……違いますよ、ミサトさん」
ミサトを考えを見透かしたように、シンジは汚物を見るような目で彼女を見据えた。
「ずっと看病してくれてたんです。おかげですっかり良くなりました」
シンジが言うには、アスカは学校から帰ってから一日中献身的に面倒を見てくれたらしい。
夕食はレトルトのおかゆにシャケのフレークをまぶしたものを用意してくれた。苦手な料理が一朝一夕で出来るようになるわけがないからとアスカは呟いていたが、シンジはうれしかった。洗い物だけでもすると言ったシンジに薬を飲ませて寝室まで引っ張っていき、シャツを脱がせて蒸しタオルで身体中を拭いた後、額に熱冷ましのシートを貼り付けてすぐに寝るように言いつけたのもアスカだった。
「それも、アスカが用意してくれたみたいで……」
シンジの目線の先を追うと、アスカが寝ていたらしい敷き布団の横に、シャツと半パンにパンツのセットが五つも並べてあった。そのうちの手前から三つはクシャクシャになって放置されている。着替えた後のようだった。
「寝汗で服がだめになる度に着替えさせてくれて、助かりました」
それはそれは……。
ミサトはシンジの枕元ですぅすぅと寝息を立てているアスカにやさしい視線を送った。
「愛されてるわね、シンジ君」
シンジは照れたような笑顔を浮かべたが、否定はしなかった。
※
最悪だ。
アスカはぼぉっとする頭の中で、何回目になるかかわからない台詞をまた呟いた。
シンジの快方と入れ替わるように、今度はアスカが発熱で倒れてしまったのだ。
ーなんでミサトは元気なのよ。
ミサトは今日も元気にネルフ本部へ出勤していった。バカは風邪引かないっていうしね、と少し嫌味を言ってみたが、風邪がうつるようなことしたんじゃないの? と言われて返答に詰まったアスカだった。
“あら、やだ。まさか、弱ってるのをいいことに、シンジ君にワルイことしちゃったわけ?”
“うるさいっ! バカシンジ相手にするわけないじゃないっ!”
悪かったわね、ほっぺにキスしたり、着替えさせる時に密着したりして。
ちなみに、アスカの風邪は二日で全快した。シンジのパーフェクトな介護があったからだ。
飲み心地の良いスポーツドリンクに、やたらと口にあう薬膳粥、じんわり冷える氷枕など、快適な病人生活だった。生活スキルの違いだろうが、アスカがシンジを介抱した時のようなドタバタは微塵もなさそうだった。
弱っている時、人にやさしくされるとほろりとする。シンジにスプーンでおかゆを食べさせてもらった後、アスカはふいに、ずっとここにいてよと口にしそうになった自分に気づいていた。
「もう大丈夫なの、アスカ?」
ミサトは出かけにアスカの寝室に立ち寄ってそう訊いた。
「おかげ様でもう元気よ。でもシャクだなぁ、結局私ばっかりバタバタしたみたいで」
「そう思う?」
ミサトは台所の方でシンジがまだ朝食の片付けをしているのを確認してから、アスカをチョイチョイと手招きした。
「これなーんだ?」
ミサトはバックから二枚の縦長の紙を取り出して、両手でそれぞれ垂らしてみせた。
右手の方が、アスカがシンジのために買い物をした際のスーパーのレシートのようだった。左手の方も同じようなレシートだが、長さがアスカのレシートの倍近くある。
「この長い方、アスカが寝込んだ日のシンジ君の買い物のレシートよ♪」
「え……?」
「おこづかい前借りしたいって言われてね。色々買い込んだのね、二週間くらい寝込んでても大丈夫そうな量」
ミサトは手品のように、シンジのレシートの後ろからさらにもう一枚、同じくらいの長さのレシートを垂らしてみせた。
「ちなみにこっちは薬局の分」
ミサトはやさしい表情をアスカに向けた。
「負けたわね、アスカ」
アスカは答えられなかった。やけに顔が熱くてそのまま蒸発してしまいそうだったが、風邪はもう治っているので体調不良を言い訳にはできなさそうだ。
「シンジ君、人付き合いが苦手だからわかりにくいかもしれないけど……アスカのこと、大切なんだと思うわよ」
似た者同士、がんばんなさい。ミサトは祈るように思った。
「ああでも、まだ中学生なんだから、ちゅーより先はだめよ」
「⁉︎ してないわよっ!」
まだ……という言葉をアスカは呑み込んだ。
「シンちゃ〜ん、先に出るわねぇ」
はーい、いってらっしゃい、というシンジの声がキッチンの方から聞こえてドキリとする。アスカが言い淀んでいるうちに、ミサトはウィンクをして出ていった。
「? どうしたの、アスカ?」
洗い物が終わったらしい、シンジが鞄を持ってリビングから出てきた。
「僕らも行こう」
シンジは先にシューズを履くと、玄関の扉を開けて外に出た。ドアを押さえたまま、アスカが出てくるのを待っている。
ーつきあうとか、あるのかな……?
アスカもシンジもエヴァのパイロットだ。普通の学生とは違うし、お互いこれまでの生い立ちも家庭環境も複雑である。
それでもーーこの先、すぐは無理でも、高校生になったくらいでつきあって、二人でどこかに出かけたり、キス……したり。そんな未来が、私とシンジにあってもいいのだろうか。
ー今度はちゃんとした料理、作ってやろうかな。
「大丈夫? まだ熱ある?」
「ううん。……ねぇ、シンジ」
「?」
「看病してくれてありがと。うれしかった」
よかった。素直に言えた。
アスカの最高の笑顔に、シンジも笑顔で返した。
「こっちこそ、この間はありがとう、アスカ。感謝してるよ」
アスカとシンジは、マンションの廊下を並んで歩き始める。
二人の距離は、手が触れ合うにはまだ遠い。だが、アスカが買い込んだレシートの長さよりは近そうだ。
ちなみに、その後二週間、夕食には身体にやさしい料理が並び続けた。ミサトが根を上げたのは五日目の時点だったという。
「もう無理っ! お願いシンちゃん、ビールに合う料理が食べたいっ! うどんとおかゆはもういやああぁぁぁっ!」
了