フリーレンはベッドの上で目を覚ましてからも、しばらくはぼんやりと天井を眺めていた。そしてのっそりと身体を起こすと、うーん、と声を出しながら腕を上に伸ばした。
フリーレンの目覚めに気づいた使用人たちが、慌ただしく家の中を動き回るのを横目に、フリーレンはゆっくりと食事を取ると、書斎に向かった。
ぱらぱらと魔導書をめくりながら、解読を進める。集中力が高まってきたところで、ドアをノックする音に邪魔をされた。
「フリーレン様」
魔導書から顔を上げたフリーレンの視線の先で、初老の男性が朗らかな笑みを浮かべて立っていた。
フリーレンは少し呆れたような表情を浮かべる。
「……またですか。あなたはもう王様になられたのだから、こんなところに気軽に来られる立場ではないでしょう?」
「おや、つれないですな。可愛い生徒がこうして足を運んできたというのに。口調だって昔みたいに砕けたもので構わないのですぞ」
「それはあなたが子どもの頃の話でしょう。講義をさぼってここに迷い込んできたあなたがしつこくねだるものだから、手慰みに魔法を少し教えただけです」
王族だなんて知らなかったし。小さく文句を付け加えたフリーレンを見て彼は可笑しそうに笑う。
「あなたにとっては取るに足らない、気まぐれな日常の一瞬だったのやもしれませんが、私にとっては楽しくて、大事な思い出の一つなのです。ただ、」
そして彼はここで初めて表所を陰らせた。
「今回は、私が王だからこそ、来る必要があったのです」
一瞬、きょとんとした表情を浮かべた後、フリーレンはかすかに顔をしかめる。
「そうか。私、今回はどのくらいの間寝ていたの?」
敬語が外れていることにも気づかない様子で、フリーレンは真剣な面持ちで目を伏せる。
「一年ほどです」
「……一年」
王の答えに、フリーレンは顎に手を当てて考え込む。
一年という時間は彼女にとって決して長い期間ではない。それでも、これまで1日のサイクルで寝起きしていたのだから、異常な事態ではある。それも、今回いきなりこうなったのではなく、ここ数年のうちに1週間あまり起きなかったことも何度かあった。そういうこともある、と呑気に構えていたが、さすがにここに至っては原因を探るべきだろうかなどと思案する。
王はしばらくその様子を見守っていたが、少し調子を変えるように、
「それでですな、フリーレン様。あなたが目を覚ましたらお祭りを開催しようと皆で話し合っていたのですよ」
そう言うと、フリーレンは思い切り嫌そうに表情を歪めた。
「やめてよ。この国のお祭りって、ほぼ神事でしょ? 神様みたいに扱われるあの感覚、本当に苦手なんだよね」
それを聞いて王は目を見開くと、ハッハッハと大きく声をあげて笑った。
「この国の建国の瞬間に立ち会い、魔族や自然災害によって存亡の危機に立たされる度に救ってくださった。この国の人間にとってはあなたは神様以外の何者でもありますまいな。そこは諦めてくだされ」
そんな彼の言葉に、フリーレンは無言のまま抗議の視線を向ける。
「それと、お祭りをするのはもう一つ理由がありましてな」
そう言って、王はまた笑みをこぼす。
「あなたの客人がいらしてる。彼女を歓待するためでもあるのですよ」
彼は自らの後ろを振り返って、そこに立っていたものを招き入れる。
そして彼女の姿を見て、フリーレンはわずかに目を見開く。
「……ゼーリエ」
思わずつぶやいた彼女の名前が耳に届いたのか、彼女は意地悪く口の端を歪めて笑みを浮かべた。
「フリーレン」
町の外れにある巨木の枝に腰かけていたフリーレンの隣に、ゼーリエが降り立つ。
「祭りの主役がこんな所で油を売っていていいのか? 町の連中がお前を探し回っていたぞ」
町の中心に焚かれた、祭りの火に視線を向けながら、ゼーリエが皮肉気に問いかける。
「分かってる。けど、あれだけひっきりなしに来られるとさすがに付き合いきれないよ」
祭りの最中、街中の人間から入れ代わり立ち代わり話しかけられ続けたフリーレンが眉をしかめる。
それを見て、ゼーリエはくっくっ、とおかしそうに笑い、
「誰彼構わずいい顔をしたからだ。まったく、いい気味だ」
とても嬉しそうな表情でそう言う。
「うるさいな。でも確かにヒンメルの真似をしたらこうなるんだって、理解しておくべきだったね」
ため息のひとつでもつきそうな表情で、フリーレンがそうつぶやく。
そして、少し表情を改めて、ゼーリエに視線を向ける。
「で、ゼーリエはどうしてここに来たの? とてもじゃないけどこんな所に来るほど、暇じゃないでしょ?」
そう問われて、ゼーリエも枝に腰を下ろしながら、目を伏せる。
「それは、お前ももう分かっているんじゃないのか? ……いや、私が来たことで、確信に至ったのか」
「そうだね。じゃあやっぱり、私の眠りの長さの原因は――」
フリーレンはふっと空の星を仰ぐ。
「ああ。お前の、寿命だよ」
気遣う様子も見せずにゼーリエは単刀直入に答えた。
「そう」
それに対して、フリーレンも一つうなずきを返すだけだった。
しばらく沈黙が続いた後、
「ゼーリエは、死後の世界の研究をしたこともあるの?」
フリーレンが問いかけると、ゼーリエは少し意外そうな表情を浮かべ、
「ある。魔族を殺す手段としての魔法とは別の視点で、死という結果から逆算して奴らを消滅させられる手段がないかと考えたことがあった」
そう答えた。
「じゃあ聞きたいんだけどさ。死後の世界で、私が看取った人たちに会える可能性って、あるの?」
一瞬言葉を失った後、ゼーリエはまたくぐもった笑い声をあげる。
「今まで私は何人かのエルフに寿命を迎えていることを告げたことがあるが、大体きょとんとした様子だったよ。長く生きすぎて、実感がわかないんだ。そのままピンとこないまま死ぬ者もいれば、間際になって恐怖を感じるようになった者もいた。でもお前はどこかほっとしたような様子だった。それが何故かと疑問に思っていたら、まさかそんな理由だったとはな」
そう言いながら額に手を当てるゼーリエの瞳には、いくばくかの失望があるようにも感じた。
「結論から言うが、可能性はない。死後の世界と呼ばれるものは確かにある。だがそれは、天国とか地獄とか言われるような万人共通の世界じゃない。フリーレン、お前の魂が死後に行き着くのは、お前だけのための、お前だけがいる、孤独な世界だ。最初こそお前の魂にも自我の残り香が色濃く存在するだろうが、そんな世界でそれも急速に失われていく。そうやって、お前の魂は緩やかに世界に融けていくんだ」
淡々と答えるゼーリエに、
「そう」
フリーレンは短く呟きを返した。その目に落胆の色は見られなかったが、どこか思案気に目を伏せた。
けれどしばらくすると、すっと口元をほころばせて、
「でもこんな話、僧侶たちが聞いたら大騒ぎになるだろうね」
そんな軽口を叩く。
「そうかもな。だが必ずしも奴らの言うことも間違いじゃない。死後の世界がどんなものになるかは本人の精神性に影響を受けるようだ。だから人によっては死後に女神に会うやつはいる。もっともそれはそいつが勝手に作り上げた幻にすぎず、実在するものではないがな。それに、さっきも言った通り、その世界を誰かと分かち合うことはない。千差万別な世界ではあるが、そこだけは共通の、絶対的なルールだ」
嘲笑めいた表情を浮かべつつ、ゼーリエがそう言うが、少し表情を改める。
「……いや、そう言い切ってしまうのはフェアじゃないな。さきほどの話も少し訂正しよう。何事にも例外はある。お前がかつて向かったあの場所のように、他の誰かの死後の世界と交差する可能性は極めて低いがゼロとは言い切れない。だが、期待はするなよ。それは例外中の例外で、もしお前が自分の仲間や友人に会えたとしたら、それは『奇跡』と呼んでいい」
そう語るゼーリエに、フリーレンは怪訝そうな表情を向ける。
「ずいぶん念入りに釘を刺すね。なんか今日のゼーリエ、変じゃない? 寿命のことを伝えにわざわざ直接出向いてきたり、私が死後について変に期待してしまわないように気を回したり、優しすぎて気持ち悪いよ」
「おいおい、ずいぶんな言い草じゃないか。……他意はない。何も知らないままその時を迎えてしまうのは、お前も、その周りの人間も、不本意だろう。一応、お前は私の孫弟子だからな。これくらいはしてやってもいいと思っただけだ。後は、まあ。文句の一つでも言ってやろうと思ってな」
苦笑気味に表情を歪めながら、ゼーリエは視線を落とす。
その姿を少し意外そうに見つめながら、フリーレンはゆっくりと微笑を浮かべて、
「なんだ。要はなぐさめてほしかったのか」
そう言うと、ゼーリエは不快気に眉根を寄せた。
「ふん、そんな軽口を叩けるようになるとは、お前も変わったな」
けれど、すぐに表情を緩めると、
「ただ、あながち間違いだと言い切れないのが、腹立たしいことだな」
そう言って、目を細める。
その姿を目にして、フリーレンは眉尻を下げる。
「変わったのはお互い様だね。まぁ、私もゼーリエも何千年も人と一緒に暮らしていたんだ。それも当たり前かもね」
そしてしばらく沈黙が続いた後、頭上の月に視線を向けていたフリーレンが微かに口を開いて呟く。
「ごめん。また見送らせる側にしてしまって」
「驚いたな」
ゼーリエはそう言って目を見張る。
「お前が私にそんなことを言うとはな」
そして口元をほころばせると、
「いいさ。もう慣れている」
淡く微笑んで、目を閉じた。
そんな会話をした数か月後、ゼーリエは自室の窓から満月に照らされた夜空を見上げていた。いつもは静かな深夜の街に、人々のささやき声が厚みを増して耳に届く。
「ゼーリエ様」
ゼーリエの部屋の扉をノックして入室してきたのは、魔法協会の弟子の一人だった。
「ああ。事前に言ってあっただろう」
「はい。ではやはりこれはフリーレン様がお隠れになられたことで……」
「そうだ」
ゼーリエの肯定の言葉を聞きながら、弟子は窓の外へ視線を向ける。
「見事なものですな」
その視線の先に、月に向かって薄い魔力の粒子が昇華していく光景が映る。
あれは長年にわたってフリーレンの身体に貯めこまれていた魔力が、彼女の肉体から魂が分離したことによって、栓が抜けたように漏れ出したものだと説明を受けていた。
そして、魔力量が膨大であるがゆえに、何か予測もつかない現象を巻き起こすかもしれず、念のために警戒するように言われていた。が。
「先ほど連絡が入ったのですが、あの粒子は空に昇った後世界中に拡散して、重病人や重傷者の症状をわずかに改善させたそうです」
報告を聞いて、ゼーリエは絶句した後、苦笑いを浮かべる。
「あいつは最後まで私の言うことを聞かないな」
能力と野心に満ちた人間を集めないと世界は変わらない。目の前のことにとらわれすぎていては駄目だ。出会った頃から何千年も口にし続けていたゼーリエの主張は、ついに最後まで聞き入れられることはなかった。
嫌われたものだ、と独り言ちた後、
「だがお前はあの時、最後に私を気遣ってくれた。私はそれに報いなくてはならない」
そう言って、杖に魔力をこめた。
フリーレンは意識が覚醒したその時点で、状況を正しく把握することができていた。
一度、ぎゅっと手を握ってみて、その後飛行魔法で浮かんでみる。
「こんなに変わらないものなんだな。意識も、記憶も、感覚も、魔力も、生きていたころとほとんど変わらない」
そう言いながら、改めて周囲を見回す。
そこには、見渡す限りの広大な草原に、一本の道が地の果てまで続くような光景が広がっていた。
「これが、私の死後の世界か」
そうつぶやいて、歩き始める。
確かに、この光景も空気感もしっくりくる。けれど何故だろうか。歩き始めて数刻もたたないうちに、理由もなく、不安や焦りや落ち着かなさが心の内に湧いてくる。
すっと視線を上げて、フリーレンは今歩んでいる道の先を見つめる。
おそらく、その道はどこまで進んでもどこにもたどり着かない。それは分かっていたことなのに、改めてそれを思い知らされて足が鉛のように重くなる。
そしてようやく、今自分をさいなんでいるこの感覚の原因に思い至る。おそらくこれは、『孤独感』だ。
けれど自らが出したその答えに納得がいかず、フリーレンは眉をひそめる。理屈に合わない話だ。少なくとも、フランメと死に別れてから、ヒンメルたちに出会うまで、千年近くほぼ独りで生きてきた。孤独には慣れたはずだった。
そしてはたと気づいてしまう。自分が今、会いたいと願ってしまっている人物たちはもう何千年もこんな世界で時を過ごしていることになる。長い時間を過ごすことに慣れた自分でさえこうなのだ。果たして彼らが自我を保ったままでいるなんてことが、あり得るのだろうか。
心の底の方でちろりと点火したその絶望は、次第に心の中で侵食していく範囲を広げ、ついにフリーレンは足を止めてしまった。
ゼーリエの杖に込められた魔力は、想像を絶する程に凝縮されて、直視ができない。人類史上でも例を見ない現象が、今目の前で起こっていると理解して、彼女の弟子は息を呑む。
「フリーレン、お前はこの世界で私についての一番古い記憶を持っていた奴だった。孫弟子でもあるし、気遣いの礼も含めて、これくらいの餞別は送ってもいいだろうな」
わずかに脂汗を浮かべつつ、ゼーリエは笑みを浮かべる。
「受け取れ、フリーレン。『奇跡』だ」
こみあげてくる苦い感情をこらえるように、フリーレンは一瞬眉根を寄せて、俯く。けれどすぐに気を取り直すと、もう一度前を向いて歩き出そうとした。
すると突然、すぐ近くで信じられないほど大きな魔力のうねりを感じて、そちらに目を向けた。
思わず、声を失う。
ほんの10メートルほど先、自宅の扉ほどの大きさの空間に、こことは違う別の場所の光景が蜃気楼のように揺らめいて映る。
そして、その光景の中に、自分と同じように目を見開いて硬直する、ヒンメルの姿があった。
「――あ、」
身動きをとれずにいたわずかな間に、その入口が揺らめき、端の方から消え始めてフリーレンはかすれた声を上げる。が、身体は動かない。
するとヒンメルは、フリーレンの記憶に残る通りの微笑みを浮かべて、
「来い、フリーレン!」
そう叫んで手を差し出した。
フリーレンはゆっくりと一歩を踏み出すと、そのまま歩みを進め、いつしか走り出していた。
当初の半分ほどの大きさにまでなったその入口に向けて、フリーレンが腕を伸ばすと、それをヒンメルがしっかりとつかんで引っ張り上げた。
勢いがつきすぎて、フリーレンは飛行魔法を使っているわけでもないのにふわりと宙を舞う。
「おっと、すまない。つい力が入っちゃったな」
ヒンメルは微苦笑を浮かべながら、彼女の肩をそっと押さえると、器用に両腕で抱き抱えて優しく地面に下ろす。
すとん、と足を地につけたフリーレンは顔をあげて、じっとヒンメルを見つめる。
「どうかしたのか、フリーレン?」
何も言わず、身じろぎ一つ取らないフリーレンに、ヒンメルは問いかける。
「ん、ああ、ごめん。なんだか実感がわかなくて。本当にヒンメルなんだよね?」
「ああ」
ヒンメルはそっと目を細める。
「こんな日が来たらいい、ってずっと願っていた。会えて嬉しいよ、フリーレン」
そして手を差し出しながら、満面の笑みを浮かべた。
一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた後、フリーレンも手を差し伸べて、重ねる。
その瞬間、フリーレンは顔を俯かせて、噛みしめるように囁く。
「驚いた。私は、こんなにも、ヒンメルに会いたかったんだ」
それを聞いてヒンメルは優しく口元をほころばせるが、フリーレンが伏せた顔を上げると、心配そうに眉を曇らせる。
その様子を見て、フリーレンも首を傾げる。と、その動作によって、頬を涙が一筋伝い落ちるのを感じ取った。それを皮切りに、ぼろぼろととめどなくあふれ出していく。
フリーレンはぎゅっと目を閉じて一度指で目元を拭うと、その指を濡らした雫を、とても不思議そうに眺めていた。