「フリーレン。僕たちが今いるこの世界は、とても面白い所だよ」
フリーレンが戸惑う様子を見守りながら、少し間を空けた後にヒンメルはそう口にした。
「天脈竜の背に乗り移れるくらいの高さにまでそびえたつ山脈や、海のように広くて深い地底湖がある洞窟、もしかしたら君より古い時代の都市の遺跡。冒険のし甲斐がある魅力的な場所がたくさんあって、ふとした瞬間に思いもかけないくらい美しい光景に出会うこともある。この世界には人間が一人もいなくて、誰かのためにできることがないのが寂しいけれど、それでも何年でも、何十年でも飽きることなんてない」
楽しそうに語るヒンメルを見て、フリーレンもほっとした表情を浮かべる。
「ヒンメルらしいね」
「そうかい?」
ヒンメルは少し首を傾げると、
「フリーレン。君に見せたかった景色が、いくつもあるんだ。一緒に行かないか?」
そう言って、微笑む。
フリーレンはわずかの間だけ、じっとヒンメルの優しい目を見つめた後、
「うん」
短くそう答えて、そっと目を伏せた。
歩きながら、この世界の見所を語るヒンメルに、適当に相槌を返しながら、
「ところでさ、いつまで手を握ってるの?」
フリーレンはそう尋ねる。最初に挨拶を交わした時に重ねた手は、ずっとそのままだった。
「嫌だった?」
苦笑を浮かべるヒンメルに、
「なんか子供扱いされてるみたいで、嫌だ」
表情は変えないまま憮然とした声で答える。
「君が生きていた時代では、子供しか手をつないでいなかったのかい?」
「……そう言われると、そうでもなかった気がする」
少し考えた後にフリーレンがそう言うと、ヒンメルは声を上げて笑った。
「まぁ、そういう意味じゃないんならいいけど、でも、頭はなでないでね。私の方がお姉さんなんだから、やるなら私の方だよ」
ヒンメルの反応に、フリーレンは眉をかすかにひそめながらそう言った。
「年齢は関係ないと思うけどな」
ヒンメルはそう答えて何気なく視線を彼女の頭に向けると、
「そう言えば、今は髪は結んでいないんだな」
ふと、今気づいたようにそう口にした。
ヒンメルが子供の頃に初めて会った時から、フリーレンは髪を二つに結んでいたが、今はまっすぐに髪を下ろしている。
「うん、昔は自分でやってたけど、フェルンが弟子になったくらいから、弟子とか使用人とかが髪を結ってくれていたからね。別にこだわりがあるわけじゃないから、ヒンメルがそうして欲しいなら昔みたいに結うし、もしヒンメルが結んでくれるならヒンメルの好きな髪型にしてもいいよ」
フリーレンはあまり興味なさげにそう言ったが、ヒンメルは驚いたように目を見開く。
「まさか、君がそういうこと言うとは思わなかったよ」
「? だから、こだわりがないからね。別に変なこと言ってないよね」
怪訝そうな表情でフリーレンが問うが、ヒンメルは何とも言えない表情を浮かべて肯定も否定もしない。
「良くわからないけど、そんなことよりさ」
そしてフリーレンは子どものように楽しそうな表情を浮かべる。
「私、ヒンメルと別れてからもずっと魔法を集めてたんだよ。くだらなくて、笑ってしまうような魔法を星の数ほど。だからさ、ヒンメルにはちゃんと見てもらうからね。私が生涯をかけて覚えた魔法を、同じだけの時間をかけて」
「フリーレン、それは――」
小さな痛みをこらえるかのように、ヒンメルは目を閉じる。
そして今にも口に出してしまいそうな熱情を、懸命に制御しながら言葉を紡ぐ。
「少なくとも君が生きた時間の長さだけ、僕は君の傍にいてもいい、っていうことかい?」
「……うん、そうだね」
そういう答えが返ってくることは、分かっていた。ヒンメルの問いを言葉通りに受け取って自然に返される、深い意味のない答え。
分かっていたはずだ。ヒンメルはもう一度自分自身にそう言い聞かせる。ただ、これまでと違うのは、決定的なまでの生きる時間の違いが今はもうないということだ。ゆっくりやればいい。そう考えながら目を開いていく。
するとまっすぐに向けられたフリーレンの視線とかち合った。
その瞬間、彼女はつ、と視線をそらす。
それはヒンメルにとってあまりにも想定外の反応だった。目の前で器から零れた水を反射的に掬おうとするかのように、いつの間にかフリーレンの右頬に、左手をあてがっていた。
一瞬、愕然とした表情で硬直するヒンメルだったが、
「……っ、すまない」
そう言って、手を引こうとする。が、フリーレンは彼の手を押しとどめるように、そっと自分の手を重ねた。
「不思議だね。感触はあるのに、熱を感じない。それに、」
目を閉じて、ヒンメルの手に頬を擦り付けるように、顔を動かす。
「匂いも、しないんだ。やっぱり、生きている時とは違うんだね」
言葉を失うヒンメルに、フリーレンはもう一度真剣な眼差しを向けた。
「生きている間に、何度も言われたよ。『あなたはヒンメル様を愛していたのではないですか』って。いろんな人に、ヒンメルの話をする度に。それを聞くたびに私は納得できなくて、苛立ちさえ感じていた。でも、」
フリーレンは眉を寄せ、泣きそうな表情を浮かべる。
「今、私が抱いている感情が、そうだって言うなら、きっと、そうだったんだろうね」
彼女の表情を見て、ヒンメルはどこか苦みを含ませながら微笑みを返す。
「フリーレン。きっと君にそれを言った人は、知らないんだ。僕たちがどんな時に、どんなことに対して笑い合ったのか。喧嘩したのか。苦しかったのか。嬉しいと、思ったのか。僕たちがどんな人に会って、どんな敵と出会ったのか。いろんなことを話し合って、意思を共有して、信じあうようになったのか。その全部。その全部の積み重ねが、僕と君との関係性だ。他の人が決めた言葉の枠の中に無理に押し込める必要なんてない。だって、」
ヒンメルは肩をすくめる。
「その枠から溢れてしまったものが、なかったことにされてしまうのは寂しいじゃないか」
フリーレンは軽く目を見張ると、静かに相好を崩した。
それを見てヒンメルも少しほっとしたような表情を浮かべる。
「とはいえ、君はさすがに自分の気持ちを口に出さなすぎかな。特に最初の頃はどうして欲しいのか、どういう気持ちになっているのか、分からなくて困ったよ」
したり顔でそんなことを付け加えたヒンメルに、フリーレンは少し呆れた表情になる。
「でもヒンメルだって、私にどうして欲しいか言わなかったじゃん。どうでもいいことは口にするくせに、肝心な事は、何も」
「はは、それを言われると耳が痛いな」
そう言いながらも、ヒンメルはかすかに目を細めて笑みを浮かべる。
「でも、フリーレン。あの時僕は、フリーレンが孤独感や寂しさに苛まれる未来につながり得る選択をするのであれば、それはフリーレン自身がそれを理解した上で、自分で判断した結果であるべきだと思ったんだ。僕や他人が押し付けたものじゃなくてね」
それを聞いて、フリーレンは思案気に目を伏せて、
「確かにあの頃の私なら、きっとその時点で嫌かそうでないかだけで判断をしていたと思う。その選択が未来でどういう結果につながるかなんて、想像することさえもなく。……今だってそう変わっているとも思えないけどね」
そう肯定すると、淡く微笑んだ。
「それなら、僕たちはもっと口に出すようにしよう。どういうことがしたいのか、どういうことをしてほしいのか。そしてお互いのしたいと思ったこと、してほしいと思ったことに対して、どう思うのか。それで全てが上手くいくとは限らないけど、間違っていたっていいんだ。試して、その結果を積み上げていくことが大事なんだ」
そう言って笑うヒンメルに、フリーレンは眩しそうに眼をすがめる。
「じゃあさ、ヒンメルが今して欲しいことって何なの? あの時どうしたかったじゃなくてさ」
「今? 今か。突然すぎて考える余裕がなかったな」
そう言ってヒンメルは口もとに手を当てると考え込む様子を見せる。
「まぁ、強いて言うと、あれかな。君のことを、抱きしめてみたいかな」
「……え、嫌だけど」
「そうかぁ。嫌かぁ」
しょんぼりとした表情になって肩を落とすが、すぐに表情を切り替える。
「でも、この世界での冒険には付き合ってくれるんだろう?」
「まあ、それならいいかな」
フリーレンの答えを聞くと、ヒンメルは目を輝かせて再びフリーレンの手を引いて歩き出した。
「君と会えた。それどころか一緒に冒険もできる。その奇跡だけで十分だ」
そう語るヒンメルの姿を見て、フリーレンは思い出す。
ヒンメルはいつだって、どうしたいかというフリーレンの答えを辛抱強く待ってくれていた。時にはこうして少し強引に手を引くこともある。けれどそんな時はいつだって新しい景色を見せてくれた。
ああ、この背中は、本当に目に焼き付いていて、いつまでも色あせないのだな。
そんな風に思ったら、なぜか直視することができなくなって、フリーレンはそっと顔を伏せた。
「なぜ! なぜそこでたたみ掛けないのですか、ヒンメル様! 嫌だなんてそんなの本心であるはずがないんですから、もっと追及してください! あの、思春期を迂回してそのまま年を取ってしまった恋愛不感症が、人生の大半の間くらいつづけたボディブローが今やっと効いてきているのに! 何でもいいので、今、ここで、とどめを!」
木の陰に隠れながら興奮気味に小さく叫ぶフェルンを、少し呆れたように見ながら、
「もういいじゃねえか。俺が言うのも何だけど、こういうのってそれぞれでペースがあるんだからさ」
シュタルクがそう言うと、フェルンは少しむくれて、ぽかりと杖で叩いた。
「そんな悠長なことを言っているから、あの二人は生きている間に一緒になれなかったんです。こんな奇跡みたいな状態がいつまで続くか分からないんですから、早く本当の思いを伝え合うべきです」
「それは分かるんだけどさあ」
渋面を浮かべながら、シュタルクがなお気の進まない様子で言葉を漏らすと、フェルンも眉尻を下げる。
「余計なお世話だということは分かっています。でも私はフリーレン様と二人で過ごしても幸せだったでしょうけど、あなたと一緒になることでよりたくさんの幸せをつかむことができた。それを知っているから――」
神妙な表情で語りかけたが、
「あ、待って。待って待って。あ、可愛い。シュタルク、見て! フリーレン様可愛い! あんなに真っ赤になって目をぐるぐるさせて。あんなの見たことない! そっか、反射的に拒絶してしまったけど、時間差で効いてきたんですね。ああ、ヒンメル様、一度でいいから振り返って下さい。今すぐ!」
手で口元をおさながらぴょんぴょんと飛び跳ねるフェルンを、何とも言えない表情でシュタルクが見つめる。
そして溜息をつきながら考える。
確かに、今の状況がいつまで続くのかは分からない。長い時間をかけて色々な世界を見てきたシュタルクにとって、今この瞬間がとても幸せな時間だということは十分に分かっている。
ヒンメルとフリーレンが同じ時間を生きられるということ、そして、フェルンとシュタルクにももう一度同じ時間を共有する機会が与えられたこと。そんな奇跡が人為的なものだとするなら、それができる人物は一人しか思い浮かばないとフェルンは言っていた。だとすればシュタルクは心からその人物に感謝したいと思う。そして、その人物自身にも、幸せな対価があることを願ってやまないのだった。