その日、葛城ミサトが我が家の異変に気づいたのは、洗面所で出勤の準備をしていた時だった。
「バカシンジ! 私、先に出るから!」
怒号に近いアスカの声が家中に響いて、ミサトは振り返った。
「アスカ、お弁当は?」
「いらない!」
ドアを開けて廊下に顔を出すと、アスカが肩を怒らせながら玄関から出ていくところだった。力任せにドアが閉められて、マンション中が縦に揺れたような気がした。
お弁当を手にしたシンジがリビングから出てきて、しばらく呆然と立ちすくんだまま玄関のドアを見つけている。
振り返ったシンジの顔は、困ったような泣きたいような表情を浮かべていた。
※
「で? 結局、アスカの機嫌が悪い原因はなんなの?」
ネルフ本部のブリーフィングルームで、赤木リツコ博士が頬杖をつきながらミサトに苦言を呈した。
尋問である。事実、アスカとシンジのここ数日の不仲はエヴァのシンクロ率低下という事態を招いている。
それがなかったとしても、あの二人の険悪な雰囲気の中で飲む夕食のビールは不味い。
「多分……っていうか十中八九、シンジ君がレイにもお弁当作って渡してるからだと思う」
「シンジ君とアスカって、つきあってたんだっけ?」
「まだだと思うけど……そこはほら、乙女ゴコロってやつよ」
「まったく……思春期って、合理的じゃないわね」
リツコのため息が室内にこだまするようだった。
「でもね〜、シンジ君も感情が読みにくいのよねぇ」
「シンジ君が他人と距離をとるのは、今に始まったことじゃないでしょう?」
「アスカが来てからはわかりやすくなった方よ。それでも、恋愛方面に関してはさっぱりわからないわ。むしろ、レイの方に気があるんじゃないかって思うくらい」
「昔から、男の扱いが下手なのよね、ミサト」
「突然ぶっとい言葉の槍で突き刺してくるの、やめてくれる?」
「シンジ君がわかりにくいなんてこと、ないと思います」
リツコの隣でデクスワークに勤しんでいた伊吹マヤが唐突に発言した。
「珍しいわね、マヤ」
「どういうこと?」
マヤは射抜くような視線でミサトを見る。
「一緒に住んでいるのに、シンジ君のことをちゃんと見てないんじゃないですかって言ったんです」
語気を強めたマヤに気圧されるように、ミサトとリツコは顔を見合わせた。
アスカは帰宅した時、音がならないようにドアをそっと開けて中の様子を確認した。
シンジのスニーカーがない。夕食の買い出しに出かけたのだろう。
「ただいま」
「おかえり、アスカ」
リビングに入ると、ミサトがタンクトップに短パンというラフな格好で缶ビールを飲んでいた。
「今日、仕事休みだっけ?」
「午後からね。シンジ君、買い物に行ってるわよ」
「そ」
下校も別々なのね、とミサトの目は言っていたが、アスカは無視して自分の部屋に鞄を放り投げに行った。
「先にお風呂もらうわね」
「どうぞ」
キャミソールタイプの部屋着に着替え、ミサトと入れ替わるようにリビングに戻る。シンジの帰りが待ちきれないのか、ペンペンが室内を忙しなく動き回っていた。
テレビを点ける気にもなれず、アスカはフローリングの床へ直に座り込むと、膝を両手で抱え込んだ。
ここ数日、ずっとイライラしている。こんな風になったのは、バカシンジが楽しそうな顔でエコヒイキにお弁当を渡しているのを見てからだ。
だいたい、おかしいじゃないか。一緒に住んでいるわけでもない人間にお弁当を作ってあげるなんて。「綾波は一人暮らしだから」とシンジは弁解していたが、ネルフの寮にも入らないのだから、食事や睡眠のコントロールだってエコヒイキの自己責任というものだろう。
(じゃあなに? 私がこの家出て一人暮らししたらおんなじようにお弁当作ってくれるっていうの?)
でも。
それはできないと言われたらー怖くて訊けない自分に、アスカはなおさら苛ついた。
ペンペンがドタドタと足音を立ててアスカの前を横切っていく。
「ペンペンっ。もう少ししたらバカシンジ帰ってくるから、少しは大人しくして……」
ペンペンが妙なものを加えていることにアスカが気づいたのは、その時だった。
もう一度自分の前に来るタイミングを見計らって、アスカはペンペンのくちばしからそれをさっと取り上げた。
手帳……手の平より少し大きいくらいのノートのようだった。表紙が傷んで、酷く使い込まれている。
「……?」
ペンペンを抱き寄せて大人しくさせてから、アスカはそのノートを開いた。
瞬間、アスカは固まって動かなくなった。しばらく放心したようにノートを眺めた後、次のページをめくって、またじっと眺めたまま動かなくなる。それを何度も繰り返した。
アスカが最初に見たのは「式波さんの好きなもの」という文字だった。
シンジに何気なく話した好きな色や、言葉や、食べ物のことが、隙間もないほどびっしり走り書きしてあった。名前は途中から、式波から「アスカ」へ変わっていた。
とりわけ、料理については細かく書かれていた。アスカが朝夕の食事で味付けにケチをつけたものには三角マークがうたれていて、おいしいとほめたものには丸印が入れられている。
アスカとシンジが出会ってから、決して長い時間をこの家で共有しているわけではない。それでも、そのノートはもう半分近くがメモで埋め尽くされていた。
「クェ……?」
ペンペンの頭の上にアスカの顎が乗せられる。やがてあたたかい何かが毛先に触れたような気がして、ペンペンは首を横に捻った。
「ただいま……」
五分ほど経っただろうか。
玄関が開く音がして、シンジの控えめな声が聞こえた。
「あぁ……ただいま、アスカ」
シンジはリビングにアスカがいることを認めると、声のトーンを落として彼女の背中に声をかけた。
ペンペンがアスカの両腕から脱出し、シンジの足元に駆け寄って夕食を用意しろと忙しなく鳴き声をあげる。
「ミサトさんは、お風呂……かな? 晩御飯、作るね」
シンジは台所に移動して、スーパーの袋の中身を冷蔵庫に整理し始めた。
アスカが立ち上がってシンジに近づいたのは、その時だった。
「シンジ……」
アスカの声に、シンジの動きが止まる。
「ごめん……」
アスカがシャツの裾をそっとつまんで、シンジは振り返った。
「アスカ?」
「勝手に怒って、勝手に謝って、ごめん」
「え? いや、アスカが悪いこと、ないけど……」
アスカは俯いていて、シンジから彼女の表情はわからなかった。
「私……」
数秒、間が空いた後、アスカは掠れるような声でつぶやいた。
「シンジの作ったハンバーグが食べたい……」
しばらくきょとんとした後、シンジはパッと顔を輝かせた。ハンバーグは、シンジのメモで花丸がうたれたメニューだった。アスカはさっき、それを見ていた。
「よかった、ちょうど挽き肉があるんだ。少し時間がほしいけど、おいしいの作るからっ。そうだ、目玉焼きも乗せようか?」
「うん……食べたいな」
アスカが恐る恐る顔を上げた時には、シンジはもう冷蔵庫から材料を取り出し、キッチンで料理の下ごしらえに取り掛かっていた。
「あら、おかえり、シンジ君」
入浴を終えたミサトがリビングに顔を出す。
ーあらあら。
キッチンでシンジ君が夕食作りに精を出し、アスカはテレビを見るふりをしながら、気持ちだけシンジ君の方をチラチラとうかがっている。
そんな室内の雰囲気から、二人が仲直りしたことはすぐにわかった。
ーあらあらあら。
「夕食、すぐに作りますから、ミサトさんはお酒でも飲んで休憩しててください」
「ありがと。そうだ、ペンペンの夕食なんだけど、レトルトでいいから、今日はカレーにしてあげてくれないかしら」
「? わかりました」
空腹なのか、アスカに抱きしめられて大人しくしているペンペンに視線を送る。
シンジ君の「アスカノート」に、カレーの匂いがするスプレーを吹きかける案を出したのはマヤだった。そうすれば、夕方お腹を空かせたペンペンが食べ物と勘違いして咥えるのではないか。
“嫌な言い方をして、すいませんでした”
あの日、ブリーフィングルームでマヤは頭を下げた。
“シンジ君は、アスカのことで私のところに何度も相談に来ているんです。女の子と暮らす時に注意しなきゃいけないこととか、帰国子女だから食べ物は馴染みがあるものにしてあげた方がいいんじゃないかとか。普通の年頃の男の子なら、できないですよ、そんなこと”
私に相談に来る度に走り書きをしていた小型のノートがあるはずですーと、マヤは言った。
ーまぁ、ペンペンが偶然咥えて持ってきちゃったんなら、不可抗力よね。
しばらくして、シンジ渾身のディナーハンバーグが食卓に並んだ。
食欲をそそるデミグラスソースにポテトとパセリが添えられ、手製のコンソメスープまで付いている。アスカがテーブルナイフでハンバーグに乗せられた目玉焼きに触れると、半熟の黄身がとろりと溢れてソースと混ざった。
「どう、アスカ?」
じっくり味わうようにほっぺに手を当てている人間に訊くことではないかもしれないが、ミサトは缶ビールを飲み下しながらはやし立てた。
「そうね。まぁまぁ……」
先に調理器具の洗い物をしているシンジの背中に目をやって、アスカは言葉を切った。
「ううん……。すっごくおいしい。私の好きな味」
違うな、とアスカは思う。
好きな人の味、だ。
シンジはほんの少しだけ振り返って、すぐにまた洗い物の方に顔を戻した。その横顔が、アスカを慈しむような、とてもやさしい表情をしていたのを、ミサトは見逃さなかった。
「……ちょっとトイレ」
ミサトは立ち上がって廊下に出た。
ちょっちやらしいけど……と、閉めた引き戸の隙間からリビングを覗き込む。
ハンバーグを口に運び込むアスカの表情はとろけそうなほどの笑顔で、その様子をリツコやマヤに報告するのは、ちょっとできそうになかった。
※
「……で、なんでミサトはまだため息をついてるわけ?」
ネルフ本部のカフェテリアで、リツコは呆れ顔で言い放った。
「いや、だってね……」
数日前までのあのギスギスした雰囲気はどこへ行ったのか、アスカとシンジは仲良く連れ立って登校するようになった。
いや、登校するだけなら以前から一緒だったのだ。
「シンジ、ほら、襟がよれてる」
「え? あぁ、ごめん」
玄関先でシンジの身だしなみを整えてあげるのは、ここのところのアスカの日課だ。
「ほら、これで大丈夫。ホント、あんたって、私がいないとダメなんだから」
「いつもありがとう、アスカ」
その時、お互いの息がかかる距離に顔があることに気づいて、二人は顔を赤らめて俯いた。
それをミサトが遠巻きに見ている……いや、見させられている。ここまでがワンセットで、朝のお馴染みの風景になっていた。
まさかーとミサトはいぶかしむ。
二人が仲直りしてまだ二、三日。まさか、そんなに急に進展することはないはず。
「ごちそうさま」
夜、食べ終わった食器をシンジが片づけると、アスカも後を追うようにキッチンに向かう。
「洗い物、手伝うから」
「いいよ。アスカはミサトさんと休んでなよ」
流しのスポンジを同時に取ろうとして、二人の指先が触れ合う。
「あ……」
「ご、ごめん……」
手を引っ込めるのも二人同時で、そのまま見つめ合うのも二人同時だった。
ミサトは缶ビールをあおりながら、居心地の悪さを感じていた。
それは、ずいぶん昔に自分が置き忘れてきた何かだった。大学時代、加持君と初めてキスをした時のような、あの感覚ー。
ミサトがいることも忘れたように、シンジとアスカは互いに顔を赤らめたまま、なおも潤んだ瞳で見つめ合った。
ーこの二人……やってるな、コレ。
ひとつわかったことがある。
他人のイチャイチャは、たとえ身内のものでも酒の肴にはならない。
了