ジン「ウボァー!」
獣兵衛「お疲れさん、『彼女』が居るみたいだから気を付けたほうがいいぞ」
レイチェル「忠告受け取っておくわ」
ハザマ「うーん、気絶して『彼』の精神世界に来たのはいいですけど、さっさと出たいですね。早く『彼を探しますか』」
大体あってる。本編入ります
人の感情には途方もない力が在る。ラグナ=ザ=ブラッドエッジが復讐のために世界を敵に回すことができたように、怒りという感情は原動力になる一番の感情だと言えるだろう。
ならばこの男の持つ怒りと言う感情が何を産めるのか。壁へと背を預け、斜め下の地面を何の感情も無く眺めることしかできないその男は、一見すれば穏やかにも見えているだろう。しかしその心情は異常とも言えた。自己を構成し芯と成る思考を奪われ、行動を起こすこともできない。見下ろしてしか居なかったはずの誰かに踏みにじられ、何もできない様を晒し、男はただ無感情にそこに在ることしかできなかった。
男の耳にドアを叩く音が届く。それに男は反応することは無い。
「もしもーし? すみませんここ鍵がかかってるんで空けてくれませんかー?」
それは気の抜ける様な自分の声だった。自分、というのは正しくは無い。正確には同じ肉体を共有していたハザマの声であり、分離している今この場所が現実ではない事を表している。
何の反応も無かったからか、ドアノブを何回も回す音が聞こえてくる。やがてそれも聞こえなくなり、一つ溜息を吐いた音が聞こえたかと思えば、部屋を隔てていたはずのドアを蹴りつける音が聞こえた。ハザマが管理室から鍵を取ってくるのが面倒になったのだろう。
そしてドアが蹴り破られるまでそう時間はかからなかった。ドアが倒れて騒音を出すことも、金具が壊れ転がる音が部屋中に響き渡る。自分の視界に入ってきた影に、男は少しだけ顔を上げてそれを見た。
ハザマの姿はそのままだ。白い髪を帽子で隠し、ダークグレーのスーツを身に纏い飄々とした足取りでそこまでやって来た。
「居た居た。やっぱり此処に居ましたか。勘弁してくださいよ自分の精神世界に籠るとか」
部屋の椅子を引っ張り男の前に置くと、入ってきたハザマは背もたれの上に顎を置いて、馬にまたがるように椅子へと座った。
「あ、そう言えばトリニティさんが学内で倒れていましたよ。なんやかんやで『カズマ』さんとしては思うところでも―――」
ハザマがそのキーワードを言った瞬間だった。
部屋の床を殴り飛ばし突然立ち上がった男は、そのまま拳を呆気にとられた表情のハザマの頬へと殴りつけた。ぎょえっ、と情けない悲鳴を上げて姿勢を崩したハザマを負い打つように男は近寄り、その胸倉を上げて怒鳴った。
「テメェは……! 知っていたのか!」
握られた拳は再びハザマへと振り下ろされる。
自分がテルミではなく、カズマという操り人形であったことを。自分が人形に対していった言葉は全て自分にとって皮肉になっていたことに。それを知ってもなお、ハザマはただそれを眺めているだけだったのか。
ハザマの表情はずれ落ちた帽子で少しだけ見えなくなっていた。顔面に痣がつき、口内を切ったのか口から血が零れる。そして男が見たハザマは、やれやれと言った様子で溜息を吐いた。
迷わずそのニヤケ面に拳を叩き込もうと振り下ろすが、それはハザマの額で受け止められた。手に響いた衝撃に男は揺さぶられると、そのままハザマによって足裏で蹴り飛ばされ壁まで弾かれる。
「――ええ、知っていましたよ。貴方が私の前に現れて、知識が此方に流入してきたときから」
それはハザマが男によって自我と体の優先権を得たときの話だ。『彼』というフィルターを通して流れ込んできた境界からの知識は、多くの世界の結末や自分の正体に蒼の魔導書、そして『彼』やテルミの存在を教えた。『彼』と同化することを否定し、自我を確立した後に、『彼』の正体がテルミではなく、カズマという少年の魂であることを知ったのだ。
「――っ! ハザマぁ!」
男は血が滲み出そうなほどに握りしめられた拳をハザマに打とうと、部屋の床を蹴り飛ばしてハザマへと迫る。その瞳には憎しみが宿り、殺そうとさえ男は考えていた。
ゆっくりと立ち上がったハザマは向かってくる男に対して構えようともしない。ポケットの中に手を入れてゆらりと立つと、
迫ってくる男に対して足の裏でその腹を蹴り飛ばした。
かふ、と肺から無理やり息を吐き出され、痛みと同時に男の身体は床へと投げ出される。受け身を取ることすらできず、痛みの苦悶の声が小さく上がるだけだった。
ハザマは軽く自分の帽子を押さえると、誰に言う訳でもなく小さなため息を吐き出した。
「(……やっぱりですか)」
その溜息は自分の予感が的中したことによるものだった。男はテルミの知識と経験を持たされていたが、所詮それは自分をテルミと思わせる一因に過ぎない。テルミからしてみれば男の存在は既にどうでもよく、自分に憎しみを持っている存在に反撃の芽を与える程間抜けではなかった。
男はテルミの知識は持っている、だが既に『テルミではなくなった』以上、その経験が使えることは無かった。彼はただ少し丈夫な肉体と高度な術式、そして強力な魔導書を持っただけのただの一般人に過ぎない。元々誰かを騙し、見下す程度しかできなかったカズマという少年に、曲りなりとも戦闘経験のあるハザマに何かをすることなどできるはずがなかったのだ。
ハザマが真実を知って尚男になにも言わなかったのは、一言でいえば保身のためだった。それを知って何をしでかすか分からない、だからこそ、自身を観測し確実に確立できるまで待ったのだ。
「く、そが」
身体を起こした男はただハザマを睨みつける。ただそれしかできないと、そう理解していたからだ。
自分が見下していたはずのハザマさえどうにもできず、プライドや虚栄心ばかり持ったその存在が、今の『彼』という存在だった。
対するハザマはそんな彼の姿を無様と思う事もなく――怒らせてしまって嫌だなぁと思う程度だった。
「(どうしますかねぇ……そもそも私にどうしろと言うのでしょうか?)」
軽いような思いに見えるがハザマにとってはそうではない。ノエルにハザマという存在を観測され、世界に確立される前までは男とハザマは対等に近い物であったはずだ。だからこそもしも身体が別物だったとしたなら、気兼ねなくハザマは男の事を友人だと言っただろう。……相手がどう思うかはともかく。
だがハザマは世界で生きると言う意味では既に確立された。だからこそ男の手助けをしようと考えることができる。しかし今のハザマはそれを知らず――
「――ああ、そういうことでしたか」
ハザマは有る確信にたどり着き、男へと近づき不良の様に腰を下ろす。
「そもそも――」
―――――――
獣兵衛とレイチェルが対話していた少し前、オリエントタウンには一人の少女――プラチナの姿が在った。布で覆われた等身大の杖を背に、身体全体を包むようなローブを着た彼女だが、どこか少年的な雰囲気も感じられただろう。
しかし普段の治安も良いとは言えないオリエントタウン、顔や姿を隠して行動する者も少なくは無く、訳アリも決して少なくない。そんな場所だからこそ顔を隠すほど深くかぶったフードを気にする人は誰もおらず風景に溶け込んでいた。
「~♪ ~♪ ~~♪」
鼻歌交じりに歩くプラチナの用事はお使いだが、高揚しているという意味では気分は遠足だった。上手く行けば獣兵衛様に褒めてもらえるかも、そんな思いで歩いていたプラチナだったが、雑多な道の真ん中で急に立ち止まる。
「~~♪ っと、よし!」
「? どうしたのルナ?」
自分で自分に語りかける、はた目から見れば奇妙な光景に見えたはずだ。しかしこの町はオリエントタウン、寄ってる浮浪者や狂人手前の咎追いだっている街に、フードの小さいのがぶつぶつ言ってようがどうでもいい話だった。
「ふふふ。セナ、こうやって歩いているうちに、ルナは凄いことを分かったみたいだぞ! 聞きたいか?」
「……うん。一応聞くけれど、なに?」
プラチナの男性人格であるセナは、女性人格であるルナの言葉に嫌な予感を感じていた。
歩いている最中時折会話をすることはあっても、何処に向かっているのかはセナはノータッチだった。獣兵衛のお使い先がゴールであることは知っているが、どう行けばいいのか自分は知らない。恐らくルナが起きている時に獣兵衛から聞いていたのだろうと考えていた。
だがいろいろ歩いてルナが立ち止ったのは雑多なオリエントタウンである。嫌な予感は大きくなっている。
「どうやらルナたち、迷ったみたいだぞ!」
「知ってるよぉ! だからカカのお姉さんについて行こうって言ったのにぃ……」
嫌な予感とは当たる者である。
カグツチまで共に来たとき、赤鬼のテイガーは用事があるためそこで別れたが、トラカカは案内しようかと提案してきていたのだ。カグツチはそれなりに広く、カカ族特有の抜け道などもトラカカは知っている。効率などを考えればついて行くのが正解だっただろう。
が、そこはまだプラチナが子供だった。どうせお使いを済ませるなら自分ひとりの力でやった方がいい。既に来る前に力を借りているのはご愛嬌だが、一人でもできる、と獣兵衛に豪語してしまったのだ。また獣兵衛様が褒めてくれるかも、という可愛らしい思いからの行動だった。
「う、うるさいセナ! セナだって一人で行くことを止めなかったじゃんか! 同罪だぞ!同罪!」
「だってルナが自信満々だったから……うぅ、獣兵衛さまに怒られちゃうかもしれません」
だが裏目に出る時は出るのである。セナが言葉にすればセナの思い違いは無かったし、ルナが言葉にしなければ意地を張る事も無かった。両方重なった不運な結果だ。
「う……別にルナは悪くないぞ! たまたまシシガミってやつが居なかったから悪いんだ! 迷子になんてなってない! シシガミっていうオッサンぽいのが迷子になったんだ!」
それを認める程ルナは年を取っておらず、セナだけでなくお使い先のシシガミにまで当たってしまう。シシガミと言う名前からしてルナにとってはオッサンである。その下のバンクなんてもっとオッサンである。ぶつぶつとあのおっさん禿げろ、と見た事も無いのにルナから要らぬ中傷を受けるバングはその場に居たら泣いてしまうだろう。
「迷ってる子供だから迷子って言うんじゃ……うん、うん、ルナは大人だったよね」
セナの余計なひと言がルナから鋭い視線となって向けられたような気がした。とは言え身体が一つしかないため、彼女たちの間の特別な感覚であるのだが。
しかし迷子だからと言って何時までもこうしているわけにはいかない。子供なら迷ったら何もできないが、幸い獣兵衛の教育もあり、こういった場合どうすればいいのかプラチナは理解している。
「いっぱい人がいるし、誰かからシシガミさんについて聞いてみれば、いいんじゃないかなぁ?」
無難な提案であるセナの言葉にルナも同意する。
だがそこでタダでは納得しないルナ。良いことを思いついたと言わんばかりに手槌を打った。
「よーし、じゃあ目を瞑って、ルナ様が指差していた相手に聞いてみよう!」
「(相手がロリの人だったりしたら、ルナはどうするんだろう……)」
と、此処で少し遊びが入ってしまうのは時間に若干の余裕があるからだろうか。正直セナはロリコンと呼ばれる人種に当たった時の懸念はある。ラグナとかいう獣兵衛の弟子は幼い子供(レイチェル)に罵倒されて興奮するほどの変態らしい。惑うことなきロリの人だ。流石にルナもそれぐらいの判断はできるよね、とセナは思う。
プラチナが手にした棒は丁度反対側に倒れる。そして視界に入った人物に思わず目を丸くした。
「……うん、あの人だ! ……あっ!?」
「あれ? 獣兵衛様?」
本当に偶然入ってきたのは、愛くるしい体つきの獣人、プラチナの愛しの人の獣兵衛だった。勿論獣兵衛はプラチナに対してそのような感情を抱いてはいないが、恋する乙女の思いは一方的だった。ルナはこんなところで出会えるとは思っていなかったため、思わず興奮してセナに話しかける。
「そら見ろセナ! 迷子になった甲斐があったじゃないか!」
「ついには迷子って認めちゃったね……」
セナの言葉など耳に入ってないと言わんばかりの態度で、ルナは獣兵衛へと駆け寄ろうとする。本当ならダイブで抱きつきたいぐらいだった。愛くるしい外見とは裏腹の強靭な体は、容易くプラチナの身体を受け止めるだろう。プラチナが手を振って獣兵衛に声を掛けようとした時だった。
「獣兵衛さまっ……む?」
「あれ? 誰かと話してる?」
思わぬ出来事にとっさにプラチナは身体を店の陰に隠し、顔だけ出して獣兵衛を覗き見る。
彼氏彼女の浮気現場を見てしまったようなリアクションだが、真意はともかく心情はそんな感じだ。
「(あー! アイツっていつもロリコン野郎と一緒に居るっていう意地悪女じゃないか!)」
獣兵衛が話していたのは日傘を差し黒いドレスを着た少女――レイチェルだった。
ルナ自身はレイチェルがあまり好きではない。獣兵衛とよく難しい話をしているのは知っているが、自分が理解できないからか内緒話の様にも聞こえるからだ。そして意中の人物が異性と親しく話していると言うのは、プラチナにとっては危機感を持たされる。
「(どちらかと言うと、あの人が付き纏っているから、ルナがロリコン扱いしてると思うんだけど……もしかして獣兵衛様もロリな人なのかなぁ?)」
「(獣兵衛さまがそんな変態なわけないだろ!いい加減にしろ! ……あ、でもそれならルナも……えへへへ)」
セナの言葉に勝手な妄想をし始めたルナは、いやんいやんと頬に手を当てて悶える。
勿論獣兵衛にそんな趣味は無い。プラチナのしっかり視線は獣兵衛へと向けられていたため、セナにはその様子が見えていた。
「(……なんか割といい雰囲気かも?)」
「(…………)」
獣兵衛は朗らかにレイチェルに語りかけている。獣兵衛の可愛らしい外見と穏やかな口調はプラチナは好きだが、それが自分以外の誰かに向けられるのは複雑だった。
「(獣兵衛様も笑顔だし……あ、レイチェルさん笑ってる)」
「(…………うー)」
ルナが頬を膨らませ唸る。セナとしても獣兵衛様は好きであり、ルナが恋仲になって自分にも影響が出るかもしれないが、まぁいいかと思える様な人物だ。何より育ての親の様な敬意もあった。
そんな獣兵衛が笑顔であるのは嬉しいことでもある。ルナにとっては複雑なことかもしれないが。
「(ちょっと意外かもです。獣兵衛様とはあんまりお話してない印象が在ったけど、満更でもない――って、ルナ?)」
「(ううううう)うあぁあああああああ! 獣兵衛さまぁあああああ!!」
「(ちょ、ルナぁ!!?)」
前述したとおりルナにとって自分の憧れの人物が女性と楽しげに話していると言うのは複雑なことであるし、その複雑な心情を溜めておけるほど彼女は大人ではなかった。
―――――
「ところで気が付いている?」
「……ああ。たしか浪人街に行くように言ってあったはずなんだがなぁ……どうしてこっちに来たのやら」
さてプラチナが覗いていた二人だったが、互いにプラチナが見ていたことに気が付いていた。情報交換はあらかた済ませ、ラグナの事を話したり渦中のカグツチとは言え穏やかな空間が流れていた。
とはいえプラチナには聞かせたい話ではなかった。重要な話や『彼女』があちら側についていると言う現実、ラグナの話題だってプラチナは彼を邪険にしているため良い話題ではないだろう。
「まぁ、聴かせたい話じゃない。執着する理由も……」
獣兵衛さまぁあああああああ!!
そろそろ会話を切り上げようとした時だった。まるで漫画の如く両目から涙を流しながらプラチナが走ってきていた。そして勢いよく跳躍すると、頭からダイブする形で獣兵衛に抱き着いた。
そこは衰えたとはいえ六英雄の一人、勢いを殺すため身体を一度回す様にして抱き留めると困ったようにプラチナに尋ねる。
「おおお、どうしたんだそんなにはしゃいで。迷子にでもなったのか?」
「なってない…じゃなくて! 獣兵衛さまなんでその意地悪女と一緒にいるのさ!?」
獣兵衛の影にすぐさま隠れ、レイチェルに指差しながらセナは尋ねる。
また何か誤解しているな、と獣兵衛は困り顔に成り、レイチェルとしても勝手に自分が獣兵衛が好きだという事にされているため何とも言えなかった。
「随分と可愛らしい姿になったものね……ミツヨシ、もう少し早く舞台に立たせてもよかったのではなくて?」
「親心、というやつで勘弁してくれ」
肩を竦め獣兵衛は答える。レイチェルにとってはプラチナはカグツチと言う舞台に一度も立ったことのない役者でもある。どのように舞台が動くのか、またどう動かせるのかレイチェルにも未知数だった。
「……そう。それならもう一人のあの子にも声をかけてあげたらどうかしら?」
「やれやれ、耳が痛い事を言ってくれるな。連絡が取れない事を知っていて言っているだろう」
「……うー」
プラチナはレイチェルを睨みつけて恨めしそうに唸る。はっきりと娘扱いされて恋人としては眼中にないと言われてしまったのもあるが、自分の分からない事を分かったように言うレイチェルも苦手だった。
「さて、そろそろからかうのは止めるわ。せっかくなのだから、彼女と話してあげたらいかが? 彼女もそれを望んでいるようですし」
「なんでお前にそんなこと言われなきゃならないんだよーだ! 余計なお世話だ!」
レイチェルの態度が上から目線で譲ってあげると言わんばかりに見えたためか、半ばムキになってセナから言葉が漏れる。
「まぁそう言うなプラチナ。……帰る前に一つ、聞き忘れていたことがあってな、それを尋ねてからでもいいか?」
穏やかにプラチナをなだめつつも、雑談を切り上げようと獣兵衛はレイチェルへと確認する。先ほどレイチェルと獣兵衛が二人でしていた会話はあまりプラチナへと聞かせたくは無いものだった。しかしプラチナの三つ目の人格にとってはある意味関係する話でもある。
視線で先を促すレイチェルに、朗らかだった表情を切り替え尋ねた。
「……あの男――ハザマのことは、お前さんはどう見てる」
「……別に、どうとも」
レイチェルの言葉に獣兵衛は少しだけ目を細める。
獣兵衛が初めて見たときはテルミの様だと思った。二度目はあくまでも人間に見えたが、腕に封印された何かはテルミであるのではないかと錯覚させるほどだった。
そうした背景を持つ人物に獣兵衛は心当たりがあった。暗黒大戦のあった時代、六英雄の一人であるトリニティを裏切りナインを殺した男。
カズマ=クヴァル。自身の義妹のセリカの同級でイシャナの学生だった男と、今諜報員としているハザマは同じ環境に居るようにも見える。
故に獣兵衛はハザマという男よりもその中に居る人物に警戒を置いていた。それはレイチェルも同じと考えていたために、彼女の答えは意外な物であると感じている。
「……ハザマ?」
プラチナはなんとなくその言葉を呟き、心に引っ掛かるものを感じていた。聞き覚えもなく今初めて聞いた人名である。それでも何かがそれだけではないと訴えている気がした。
「……どうともってそれだけか? アレは第二のテルミに成り得る存在だろう?」
「……ああ、そういうこと」
レイチェルとしても獣兵衛がどうしてそこまでハザマに対して警戒を置いているのか分からなかった。ハザマとその後ろに居る男について、レイチェルは視界にも入っていないような存在だったからだ。
故にレイチェルは獣兵衛に尋ねる。
「そもそも――」
―――――――
「貴方はいったい誰ですか?」
「アレはいったい誰なのかしら?」
―――――――
ハザマは男を見下ろし尋ねる。ハザマにとって目の前の男が何なのか、それを定義する方が先であったのだ。
故に彼は言う。ハザマが『ハザマ』として生きてきた中で得た物を、フィルターを通さず見た世界で見つけた物を。
「カズマ=クヴァルならテルミさんが喜んで万々歳ではありませんか。そのために
何を言っているのか、男はハザマが言っている言葉に理解が追いついていなかった。
「違うと言うのなら、別にあんなトラブルメーカーに拘る必要ないですよ。酒、薬、賭博、女。快楽を得るための物なんてそこら中に満ちてます。そっちに行った方がまだマシじゃないですか」
―――――――
「貴方はハザマという男とかつての子供を同一視しているようだけれど、あの子供にも確かに分岐点はあったのよ。ただの人間として世界に足跡を残すような存在にもなれた」
少なくともレイチェルが見てきた世界では存在していない。しかしレイチェルの父である、クラウス=アルカードはカズマがまだ人間として歩めると、そう信じていた。
その受け入りだから、という思考はレイチェルにはない。クラウスの想像以上にテルミという悪意は浸透していた。数多の世界の始まりと終焉を見てきたレイチェルが、一度もその結末にたどり着かない程度には。
「でも元来アレには意志は無い。英雄にもなれず、壁が有ればすぐに逃げだしてただ流れのままに全てを預けてしまうような、そんな脆弱な人間が彼よ」
―――――――
無論ハザマが破滅的な思考を持っているわけではない。安易に快楽を得るための方法として出したのがそれらだった。だが、それでもテルミに関わるよりはマシだ。そう思える程度にハザマは人間やっていたのだ。
男はカズマだった。テルミでもあった。だが世界からはその両方を否定されてそこに居る。蒼の継承者によって観測された男は男自身が自分の事を見失っているのだ。
「執着なんていくらでも変わる物なんですよ。少なくとも、私はそうでしたし……あ、テルミさんにとっては違うみたいですけど」
あっけからんとふざけたようにハザマは言う。
くだらない物に意味を見出せばそれは価値に変わる。価値が無いと思えるからテルミと言う存在はああした行動がとれるのだろう。
それを至近距離から見て居なければ、人はごく普通に現実へと帰還する。それを、男はしないのだ。
――――――――
言ってしまえば簡単だ。『カズマ』という少年はテルミと言う悪意が無ければ何も名を残す事も無く、暗黒大戦の被害者の一人として数えられるような、ちっぽけな存在であることをレイチェルは理解していたのだ。
テルミにはそんな弱者を使って自身が舞台に上がることのできる存在だった。知恵や意志が彼に会ったからこそ、出来損ないの道具である少年を使って世界に混乱を齎すことができたのだ。
「テルミが彼の背後にあって簡単に操れる立場にあるのなら、警戒はすべきでしょうね。だけど既に離れた以上、出来損ないな道具は出来損ないなままでしょう?」
故にレイチェルは知っている。ハザマの後ろに居る男が何も動かすことのできない、舞台に入ることすらできない非客人であると。
―――――――
「
―――――――
「
―――――――
「今の貴方はいったい何者なんですか?」
「今のアレはいったい何者なのかしら?」
―――――――
「話はもう終わり? なければ私はもう行かせてもらうのだけれど」
「あ、ああ。引き留めて悪かったな」
レイチェルが断言した言葉の説得力に、獣兵衛は思わず納得していた。
かつて獣兵衛の弟であるトモノリはカズマ、その背後に居るテルミという存在の排除にかかろうとしていた。結果として弟は殺されたが、カズマにそれができたのはテルミ在ってのことだ。
かつてカズマの背後には
風が吹いて獣兵衛が思わず目を瞑ると、既にレイチェルの姿はそこにはなかった。代わりに獣兵衛の隣には、騒いでいたはずが今は大人しいプラチナが居た。
「……ハザマ、カズマ」
反芻するように呟くプラチナに、獣兵衛は思わずポンと頭に手を置いて撫でる。
かつての二の舞にはならない、少なくともその要因がつぶれただけ良しと獣兵衛は考える。
しかしそんな獣兵衛の内心をプラチナは知らず、あわあわと手を振り顔を赤くした。
「じゅ、獣兵衛さま? 急にどうしたのさ。勿論ルナを撫でてくれて嬉しいけど……えへへ」
「……たっく」
撫でていた手を下し獣兵衛はそのままプラチナの額を軽く小突く。きゃん、と可愛らしい悲鳴を上げてプラチナは思わず額を押さえていた。
「ほれ、俺のお使いはまだ済んでいないんだろう? 速くしないと日が暮れるぞ?」
「えぇ~……だってだって、せっかく獣兵衛さまに会えたのに……」
「駄目だよルナぁ、獣兵衛様も用事があるんだからぁ」
セナもルナをなだめるように言うが、その手は獣兵衛の服の裾を掴んだままだった。確かにお使いは大事だけれど獣兵衛さまと離れちゃう、と。様々な葛藤を抱えているプラチナを見かねた獣兵衛は、やれやれと軽く息を吐いて呟く。
過去の話をしたことで獣兵衛自身も多少なりともナーバスになってはいる。しかし自分の子のような存在であるプラチナを見て、若干なりともそれが緩和されたように感じた。
少し何かを考えたように口元に手を当てると、獣兵衛は自分の服のポケットからある物を取り出した。
「? 獣兵衛様?」
「お守り代わりだ。それをもって後は俺のお使いを頼んだぞ、プラチナ」
獣兵衛がプラチナに握らせたのは果物ナイフのような小さい刃の短刀だった。冷やりとした鞘の材質にプラチナは目を丸くするも、押し込む様に獣兵衛にそれを持たせられる。
お守りにしては武骨すぎるそれであるが、ルナにとっては獣兵衛様から贈り物をいただいたという事実の方が嬉しかった。
「…よーし、ルナ様頑張るぞ! ありがとう獣兵衛さま! ルナしっかりお使いを済ませてくるから!」
思わず花のような笑顔を見せたプラチナは、そのお守りを両手に大事そうに持つ。そのままスキップでもしそうな勢いで駆け出せば、獣兵衛の視界からはあっという間に居なくなってしまった。
「おーい、変な人について行くんじゃないぞーって、聞こえんか」
あの調子なら大丈夫だろう、万が一があったとしても、プラチナに預けた短刀は特別な物である。少し早くに立つだろうと獣兵衛は考えていた。
「……分岐点はあった、か」
獣兵衛は思う。100年も前に自分は弟であるトモノリを失った。その要因となった少年にも、確かにテルミと成る以外の道はあったのだと、レイチェルは言う。ならば初めにそれを教えていれば、レイチェルが手を貸してくれれば、そう考えるのは自分の弱さであるとは知っているため、獣兵衛は軽く首を振って思考を四散させる。
ハザマと言う男にも分岐点が有り、だからこそロクデナシであろうとも人間に留まってはいるのだ。だからこそ、分岐した道が再び交わってくれるな、とも獣兵衛は思った。
そんな風に獣兵衛が思っていた人は今……
「……あれ、ここ何処でしょって…あいたたったたたたたたっ!ちょっと待っこれシャレになら」
運ばれたのはいいものの、テルミにやられた後に使った薬の引き起こした、無理な再生術式という副作用でもう一度気絶していた。
次はバング回