モモイの突発的な発想で物事が進んでしまった。
 アリスちゃんがより恋愛シミュレーションゲームを理解できるようになるための方法、そのための擬似的な恋愛関係。
 恋人らしいことをしてあげればそれでいい、そのはずだった。

 ── ── ──

※2022年12月15日にpixivで投稿した作品と同じ内容となっていますが、呼称のみ現在公開されている公式の情報に合わせた修正を行っています。

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【注意】
 当作品は、ブルーアーカイブにおけるメインストーリー「Vol.2 時計じかけの花のパヴァーヌ編 2章 友情と勇気と光のロマン」の公開前の情報を元に、一部作者の解釈を含めて構成されています。
 それらの要素を許容出来る方のみ、お進みください。


天童アリス「ユウカ、アリスの恋人になってください」

 事の発端は、次に開発するゲームの話し合いをしてる時だった。

 次のゲームのジャンルはどうする?

 私はシナリオライターだから、みんなで意見を出し合ってジャンルが決まらないことには動けなかった。

 だって、そうでしょ! 私だけがゲームを作るんじゃないんだから!

 ゲーム開発部の部員である私たち全員まだ一年生なんだから、王道RPGだけじゃなくて、もっと色んなジャンルに挑戦してみるべきだと思う!

 そう言う私に、ミドリが少し怪訝そうな目を向けていた。

 ち、違うってば! ネタが思い付かなくなったから今までの流れを変えようとか、そんなのじゃないから!

 確かに少し前に作ったゲームの完成がギリギリだったのは、私のせいだったけど……

「わたしはモモイの言う通りだと思う……もし挑戦して上手くいかなくても新しい発見があるかもしれない……やってみない?」

 ユズが私の言葉に付け加えるように、言ってくれたお陰で、みんなそれぞれ案を出してくれた。

 

 パズルゲーム、格闘ゲーム、シューティングゲーム……

 

 出されていく案をホワイトボードに書き足していく。

 そういえば、アリスが悩んでいる様子だったから、私から声をかけてみると、ユズの言った「新しい発見」って言葉に引っ掛かってたみたいだった。

「アリス……?」

「アリスちゃんはどう? 何かいい案思い付いた?」

「アリスは……既に新しい発見に悩まされているかもしれません……」

「……どういうこと?」

「はい、恋愛シミュレーションゲームです」

 ユズの問いかけに、アリスは答えてくれた。私はその間にマーカーを手に取って、ホワイトボードに書き足した。

 戦ったり、競うことを目的としたジャンルが並ぶ中、その名前は異色な存在にも思えた。

 アリスが最近遊んでいるゲームは、恋愛シミュレーションゲームだった。

 RPGゲームでも、キャラクターと会話を重ねてプレイヤーの選択次第で仲間になったり、敵のままだったり、ゲームで言葉を学んできたアリスにとって恋愛シミュレーションゲームは、戦闘要素が省かれた会話だけによる延長線のような物かもと思ってた。

 私たちはアリスがそのゲームを遊んでいる様子を、時々見かけていたから、どんな風に遊んでいるかも知っていた。

 いつもみたいに画面の前でペタッと両脚をついて、ドットで表現されたキャラクターたちを攻略してた。

 最初は上手く攻略できないことに首を傾げていて、RPGゲームと勝手が違うことに苦戦してるみたいだった。

 キャラクターと関係が上手くいくことが、ゲームのクリアと直結してるから、そこはアリスにとっても新しい発見かも。

 

 あっ……もしかして悩みって……

 

 アリスが言い終える前に、私はアリスの悩みに薄々気付いてしまった。

 アリスが初めてキャラクターの攻略に成功してハッピーエンドを迎えたとき、私は喜んで「やったね! アリス!」って言ったけど、一瞬だけ反応に間があったのを感じた。

 普段から、口調が移ってしまうほど感情移入をして、クリアした時には無垢にも思えるくらい心から喜ぶアリスの姿が、そこにはなかった。

 

 ──あ、これで終わったんだ。今のが、このゲームにとっての正しい終わりなんだ。

 

 アリスはそんなことを口にしないけど、その時、一瞬だけ見せたアリスの表情を見た私は、そんな感情が入り交じって呆気に取られているような様子に見えた。言葉の意味も、キャラクターの行動原理から心理、結末と、それが当然であるように迎えたハッピーエンドも、全部何をしているのか理解が出来るのに、何故か分からない物を見せられている。そう言いたそうな様子だった。

 私が喜んで祝ってたのを見てから、まるで人形みたいに固まってたアリスの頬っぺたが柔らかく綻ばせられて、いつものように無邪気な笑顔で笑ってた。

『──っ……やりました、モモイ! アリスは初めて攻略できました!』

 今、私たちの目の前で悩みを打ち明けてくれるアリスは、そんな喜びを本当に素直に喜んで良かったのか、未だに悩み続けてたみたいで真剣な表情で話してくれていた。

「初めてキャラクターを攻略したとき、モモイがアリスよりも先に喜んでくれました。あの時のアリスは、喜んでいいものなのか理解に悩みました。アリスはゲーム開発部のみんなを、数々の苦難を共に乗り越えてきた、仲間だと思っています……では、アリスが今までみんなに感じた感情表現は、正しかったのでしょうか……嬉しいとき、悲しいとき、共に感情を分かち合うときに、アリスはもっと肌の接触を試みるべきだったのでしょうか……」

「わ、私は全然大丈夫! アリスとならいつだってハグしてもいいよ!」

「お姉ちゃん……! アリスちゃんが悩んでるのはそこじゃないでしょ!」

「人を好きになるのと、人に恋をするのは違うって話……だよね……」

「アリスの理解不足と思い、他のキャラクターも、他のゲームも攻略してみました。どのシナリオにも、RPGゲームと違った苦難がいくつもありました。アリスは最適な選択肢を選びました。キャラクターを理解して、ゲームから与えられた言葉、行動を選び、確実なハッピーエンドを迎えられるようになりました。その結末にはきっといくつもの言葉があっても言い表せない確かな感動、愛情……そしてスタッフロールまでの間の演出がゲームのキャラクターたちを、そしてプレイヤーを祝福していました……ですが、キャラクターの感情の変化の一つだけが、アリスには理解できませんでした……アリスがモモイたちに感じている友達を思う気持ちとは違う物なのでしょうか……」

 そうだった。私たちが行うリアルなコミュニケーションと違って、いくら会話主体のゲームであっても、プレイヤーができることは、元々用意されている言葉としての選択肢を選ぶだけ。

 どんなに長くて、複雑に見える文面の選択肢一つ一つだって、ゲームを動かしてるプログラムから見れば、『イエス』か『ノー』を飾ってるにすぎないって、アリスの話を聞いて私はハッとした。

 だから、アリスはいくら数をこなしても、アリスに見えてくるのは「正しいと思う」答えを選べば、ハッピーエンドに繋がっているだけだったんだ。

 だったら、私たちがするべきことはただ一つ!

「分かった! 私たちでアリスに恋を教えよう! アリスの恋人になるの!」

「わ、私たちで……!?」

「そ、それは無理があると思うんだけど……」

「アリスが恋を理解できないから、ハッピーエンドを素直に喜べないのでしょうか……」

「だ、だったら先生に頼むなんてどう……!?」

「先生が最近他校の生徒たちに引っ張りだこなの、お姉ちゃんも知ってるでしょ」

 先生はミレニアムだけじゃなく、他校の生徒からも呼ばれ回っていて忙しそうだった。

 この前、久々にうちに来てくれたと思ったら、疲れてるみたいでコントローラーを持ったままうたた寝して、まるでデバッグプレイみたいに、操作してるキャラクターがずっと壁にぶつかったまま歩き続けてたっけ──

「──って、さっきからミドリ反対してばかりじゃん!」

「お姉ちゃんが勝手に話を進めるからそうなってるだけでしょ!」

「だったら聞くけど、ミドリの提案は何なのさ!」

「せめて部活外の人に頼んでみたらいいんじゃない? 特にアリスちゃんを気にかけてくれるような人とか……」

「ふ、二人とも……恋を勉強するのはアリスちゃんなんだから、本人にどうしたいか聞いてみない……?」

「いけない、そうだった……!」

 アリスは言い争ってしまっていた私たちを見て、少し言いづらそうにしてた。

「ごめんね、アリス!」

「ごめんね、アリスちゃん……」

 私とミドリが口を揃えるように「ごめんね」の言葉が重なり、一緒にアリスに謝った。

「いえ……二人がアリスのことを考えてくれていることは伝わってきました……ありがとうございます……」

 アリスはそのまま思ってることを伝えてくれた。

 きっと、先生に聞いたところで、座学でそれを教えてくれるかもしれない。けれど、恋愛のぼんやりとしたニュアンスはもう、ディスプレイの横に積まれた部室の中にある殆どのゲームを通してアリスは分かっていると思うってこと。

 それに先生はきっと『先生と生徒』だからって線引きを守って相手をしてくると思う。ごっこ遊びなんかじゃ、きっとアリスへの心の変化にそこまで変わりないと思うことを。

 部員の私たちとしても、仲良くなった今、そこから恋愛を直接学ぶなんて反ってぎこちなくなってしまうかもしれないし……

 そう思ってるとき、私たちの真横で、バタンと大きな音を開けてドアが開いた。

「──ちょっと! モモイ! これあなたの字でしょ! 部費の申請書、また書く場所間違えてるわよ!」

「えっ……そ、そんなぁ!? 出す前にもちゃんと確認したのに! 」

 鬼みたいな顔をして入ってきたユウカだった。

 私たちは最初はユウカと揉めることが多かったけど、和解してからはこうして時々ユウカの方からうちに来ることが増えていた。特にアリスのことを気にかけてるみたいで、何かあれば『アリスちゃん、アリスちゃん』って放って置けないみたい。それから、たまに一緒にお菓子を食べたり、ゲームして遊んだり……

 アリスのことを気にかけて……?

 アリスに恋を教えられる部員以外の人、それに気にかけてくれている!

 ユウカしかいない!

「……これだぁー!!」

 

 私はユウカに指を差して声を上げた後、そのことも含めて思いきり怒られた。

 

 * * *  * * *

 

 いきなりモモイが大きな声を上げて、指まで差してくるから、何事かと思ったわ。

 アリスちゃんが私の仕事を手伝ってくれるって、モモイが急に提案してきたけど、どういう風の吹き回しなのか気になって事情を聞いてみることにした。

 次に作るゲームのインスピレーションを得る為に、日々実務に振り回されている人のサポートをすることで得られるものがあるんじゃないかってことみたい。アリスちゃんがよく言うRPGゲームみたいな言葉で言い換えるなら、お使いイベントを実際にやってみれば何か見えてくるかもって……確かに不備がある書類を各部活に持っていくのは、他の書類作業ができたはずの時間が取られてしまっているみたいで、煩わしくて仕方なかった……モモイたち、ゲーム開発部もその一因の訳だけど。

 なんだか、アリスちゃんをパシりに使っているみたいで、あまりいい気がしないわ。

 私が断ろうと思っていると「アリス、これはクエストだよ!」って、アリスちゃんに話を振るから、彼女は期待の眼差しを私に向けて目を輝かせてた。

 ……あんな可愛い顔立ちで、綺麗な眼を見せられたら、断れる訳がないでしょ。

 それから私は、部室の外で少し待たされることになった。

 ドア越しに微かに聞こえる話し声。

 主に聞こえるのはモモイの声。それから何かを止めるように突然同じ声量で声を張るミドリの声。ユズとアリスちゃんの声はあまり聞こえなかった。

 姉妹揃って、こういうところは意外と似るものなのね……

 しばらくして、アリスちゃんが出てくると「ユウカ、お待たせしました。今日はよろしくお願いします」なんて言って、可愛く微笑んでくれた。

 

 ──今は私に代わって、アリスちゃんに各部活を回ってもらっていて、私は残りの書類作業の処理を行っていた。

 寮に帰るのを諦めて、夜中に手を付けるつもりだった書類を、まだ日が昇っている間に処理できるなんて思ってもいなかったわ。先生も当番の生徒と執務室で仕事としてるとき、いつもこんな気持ちなのかしら。

 作業が一段落した後、一度深呼吸をした。

 一段落着いただけで、私の目の前にはまだ手付かずの書類が残っていた。やっぱり早く進んでも、まだ残っていると思うと、少し気が滅入ってしまいそうだった。

 アリスちゃんが仕事を引き受けてくれたときの満面の笑み……あの時、胸の中にあった苛立ちで凝り固まった私の心を癒してくれるほどの、天使のような微笑みに見えた。今、それを思い返すだけでも、滅入りそうな気持ちが持ちこたえられていた。

 私から書類を受け取った後、いつものように「パンパカパーン!」ってゲームの効果音を楽しそうな口振りで言ってたけど、アリスちゃんなりのモチベーションの上げ方みたいな物なのかしら。

 ふと時計を見て気が付いた。

 どうせ、どの部活もすぐには再提出してくれないだろうから、書類を返しにいくだけでいいはずだったけど、アリスちゃんまだ戻って来なかった。

 別に、返し終わってるのなら、それでいいけど……

 私は椅子に座ったまま、セミナーの執務室をぐるりと見渡した。

 だ……誰もいないわよね……?

「ぱ……パンパカパーン……!」

 両腕を伸ばして、アリスちゃんみたいに効果音を口にしてみた。一人でもやっぱり恥ずかしいかも。

 ぐぐっと伸びをしている途中、背後から出入り口のドアが開く音がして、私は慌ててデスクに手を戻した。

「──ユウカ! 再提出の書類も預かってきました! ……どうかしましたか?」

「な……何でもないわよ……? それより、アリスちゃん……再提出分の書類も貰ってきたの?」

 私は二つの意味で驚かされた。

 そんな、すぐに書類が返ってくるなんて思ってもいなかった。どの部活も、自分たちがしたいことばかりに没頭して、こういう事は後回しにされてばかりだったから。

「はい、渡しにきたのがユウカではなかったため、きっとそれだけ忙しいのだとみんな慌てて用意してくれました」

「いつも忙しいから、できるならいつもそうしてくれたら楽なんだけど……ありがとう、アリスちゃん」

「はい、これもユウカからのクエストですから」

「ふふっ……そうね、助かったわ」

 また、アリスちゃんは花開くように頬を緩めて微笑んでいた。

 きっと、みんながすぐに出してくれたのは、自身の研究意欲よりも、アリスちゃんの甘やかしたくなるほどの可愛らしい笑顔に負けたのかも。

「パンパカパーン! アリスはユウカの依頼を達成しました!」

「あ、あはは……」

 ほ、本当に見られてなかったのよね……?

 ついさっき、自分でしたばかりのこともあって、変に苦笑いしてしまった。

「これもユウカと、それから好感度のためですから」

「……好感度?」

「あ……ユウカ、カップが空になっています。アリスが注いできます」

「ありがとう……火傷には気をつけるのよ? 」

「はい……! ふふふっ、勇者よ。しばし待たれよ……」

「もう……勇者じゃなくても待ってるわよ」

 アリスちゃんはデスクから私がさっきまで口にしてた空のカップを手に取ると、長い髪を床に引きずりながら、コーヒーメーカーが置いてあるテーブルに向かっていった。

 好感度って……これもゲームみたいな感覚の話かしら? ……それにしても、みんなアリスちゃんの笑顔というか可愛らしさに弱いのね……私もその一人かもしれないけど。

 アリスちゃんが貰ってきてくれた書類の束を手に取って、パラパラと捲って目を通しながら考え事をしてた。

 アリスちゃんは、まるで一から十まで、精巧に作り上げられたような可愛らしい顔立ちをしていた。

 柔らかそうな丸みを帯びた頬。

 透き通るような色白の肌。

 傷一つ無い水晶にも思えるほど透き通ったレンズにも見える澄んだ空色の瞳。

 目蓋から伸びる長い睫毛。

 まるで女の子が子どもの頃に貰う、可愛いお人形のような愛くるしさが彼女には兼ね備えられていた。

 ……本当に不思議な子。

 口元に手を当てて書類に目を通していると、ふわっと深みのある香ばしい匂いが、アリスちゃんの方から漂ってきていた。

 いつも自分で用意することが殆どだから、こうして椅子に座っている間に香ってくるのは新鮮だった。

「ユウカ、お待たせしました」

「ありが……──あっ……」

「……? 紅茶の方が良かったですか? 」

「う、ううん、合ってるわよ! ありがとう」

 アリスちゃんからマグカップを受け取った時、縁に微かに私のリップの痕が残っているのが見えて、恥ずかしくなってしまった。

 ちゃんと拭いてから渡しておけば良かったかも……

 アリスちゃんなら気にしないと思うけど、私も見なかったことにして忘れるべきかしら……

 私は目を閉じて真っ暗なコーヒーに向かって「ふー……」と息をかけて、少し冷ましながら、そんなは恥ずかしい気持ちを紛らわせて、カップを口に近づけていった。

「──ひぃ゛ぅ……! 熱っ……!」

「ユウカ……!? 大丈夫ですか?」

 唇に触れたコーヒーはいつも私が口にする温度よりも高いままだった。

 私はデスクにカップを置いて口を押さえてた。

 そういえば、いつもは注がれてからデスクまでの運ぶ時間と、自分で冷ますのに必要な息をかける数まで考えていたのに、今日はその途中の過程が抜けていて、想定以上に冷めていないままだった。

「んっ……ふぅ……だ、大丈夫よ……」

「ユウカ、見せてください……」

「え──えっ……!? 」

 少し押さえる程度の一瞬の痛みで済んだから、私は口から手を離したその時だった。

 アリスちゃんが私の両頬に手を添えて、私の顔をじっと見つめてきていた。

 アリスちゃんの柔らかい手が私の頬に。

 見つめてくるアリスちゃんの瞳は、今にも顔を引き寄せてしまいそうなほど奥行きがあって、吸い込まれるような錯覚を私に与えてきていた。

 珍しく真剣な顔で私を見てる。

 一瞬、ドキッとしたけど、それ以前に唐突な手伝いの提案から、アリスちゃんの好感度の言葉と、それから何でアリスちゃんなのか、色々気になってることが積み重なっていて、そんな胸の高鳴りもすぐに忘れてしまっていた。

「……大丈夫そうですね、安心しました」

「アリス、ちゃん……?」

「はい……!」

「大丈夫そう」と言いながらも、アリスちゃんは今も私の頬に手を添えて、見つめたままだった。

 ……こんなに可愛い彼女に見つめられ続けるのは嬉しいけど、ずっと感じて違和感がすぐにその気持ちすらも曖昧にしてしまっていた。

「……アリスちゃんの、その……私を手伝ってくれる理由って、本当にゲーム開発のインスピレーションだけ? 他にも理由がありそうに見えるけど……」

「えっと……モモイから聞いていなかったのですか……?」

「仕事を手伝ってくれるとしか聞いてないけど……」

「そうでしたか……では、アリスから伝えます」

 アリスちゃんの両手が私の頬から離されて、彼女は私の前で両手を後ろに組んで、まるでゲームのヒロインのような姿勢で立っていた。

 彼女から直接、はっきりと伝えられた一言が、私たちの関係を変えることになるのだった。

 

「ユウカ……アリスの恋人になってください」

 

 まるで少しずつ桃色に彩られていくような、甘い気持ちを実らせていく関係に。

 

 ────

 

 きっと、最初から恋人になるのだと言い出せば、私が有耶無耶にしてどこかに行くものだと、思われたんだと思う。

「……ユウカ?」

「ちょ、ちょっと待って……! 私が、アリスちゃんの恋人!?」

「はい! ユウカなら、きっとアリスに恋する気持ちを教えてもらえると、モモイたちが言っていました!」

 私がアリスちゃんに恋を教える立場だとして、さっきの行動は明らかに私がリードされているみたいだった。

「あの子たち、またテキトーなことを……」

「テキトーなのですか? ユウカは他の誰よりも、いつもアリスのことを気にかけてくれています……もしかして、ただ迷惑をかけているだけなのでしょうか……」

「違うわよ……迷惑なんて思ったこともないわ……私はただアリスちゃんのことが心配で……そんな事より! さっきの積極的な行動、これじゃまるでアリスちゃんが私に恋させようとしてるみたいじゃない」

「はい、私とユウカはまだ正式な恋愛関係に発展していません。お互いに恋愛的な好感度はゼロに等しいです。このままでは本当に恋人になれないまま、ユウカが卒業してしまいます。これではバッドエンドです」

 アリスちゃんは少し寂しそうに、しゅんと顔を俯かせて、上目遣いで私を見つめるように話していた。

 恋愛的かどうかは分からないけど、既にアリスちゃんの愛くるしさに私の好感度は数値化すれば、かなり高い方だと思うのだけれど……

 これに気付いて貰うには、アリスちゃんの言う彼女自身の『好感度』を上げる必要があるのかしら。それなら、私からもアリスちゃんの胸をときめかせられるようなアプローチをしていかなければ、いけないかもしれないってことよね……

 私は各部活から届けられた部費の申請書の束を、すぐそこのモニターの近くに置いて、デスクに戻していたコーヒーを手に取って口にした。

 私が火傷しかけてから少し会話を挟んでいたのもあって、コーヒーはとっくに飲みやすく、口当たりの良い適温になっていた。

 教えるんだから、まずは確認から必要だと思い、私は空いてるオフィスチェアにアリスちゃんにも座ってもらって、向かい合って話し合うことにした。

 私と同じ背もたれ付きのオフィスチェアに座ったはずだった。

 身長も私とそんなに変わらないはずなのに、アリスちゃんの華奢な体躯から、小柄な少女と錯覚させるかのように、後ろから背もたれが大きくはみ出すように余っていた。

 これで小首でも傾げるものなら、まるで上品なお人形撮影のための被写体のような、様になっている雰囲気さえあった。

 そんなお人形のように大きな瞳で真剣に熱い眼差しをジッと向けられて、息を飲んだ。

「アリスちゃんは恋についてどこまで知ってるのかしら?」

 アリスちゃんが胸に手を当てて、私を見つめるように開いていた目を閉じて、すぅっと一度だけ深呼吸をしていた。

「恋……それは特定の誰かを強く思うこと、それも胸の内から切なくなるほど……キヴォトスの辞書データには、そうありました」

「そう……論理的にはそれで合ってるわ」

 その言葉の中には感情が感じられないくらい、辞書に書かれている説明を思い出すように口にしてた。

「……ですが、アリスは部室にあった恋愛シミュレーションゲームを通して学びました」

 アリスちゃんが続けて語った内容は、その辞書の説明だけでは足りていないということ。

 ゲームの登場人物が持っていた感情は切なくなるだけじゃなく、幸せで胸がいっぱいになって、暖かい気持ちになっているということ。

 言葉だけでは言い表せない感情。

 アリスちゃんが知りたいのは、恋愛を通して学ぶ体験そのものだった。

 体験すると言っても、今のままだと彼女をまるで秘書にでもして振り回すだけになってしまうかもしれない。

 こういう時に最適な行為はやっぱり……

 私はスマホのスケジューラーを開いて、目を通し、比較的に予定が入っていない日を指差した。

「アリスちゃん? この日、空いてるかしら?」

「はい、アリスはいつでも大丈夫です。何をするのでしょうか?」

「デートに行きましょう? 色んな場所に行って、思い出を作るのよ」

「わぁ……これからアリスも、少しずつユウカに攻略されるのですね!」

「攻略……っ!? ち……違わなくもないけど……」

 恋愛シミュレーションゲームとしては、キャラクターとの恋人になる事が目標の訳だから、攻略という言い方で間違っていないのは分かるけど……

 

 私がアリスちゃんを攻略……

 

 言葉のニュアンスだけ聞いていると、少し卑猥な意味にも思えてしまい、私は一瞬アリスちゃんから目線を逸らしてしまった。

 何を考えてるのかしら、私は……

「アリスは楽しみにしています!」

「──もう……今は攻略って事でいいわ。よろしくね、アリスちゃん」

 アリスちゃんの健気にも思える邪な感情一つ感じさせない声と屈託のない笑顔が、私を現実に引き戻した。

 私の提案にアリスちゃんは、ゲームで体験したことを実際に経験できる事に、無邪気な笑みを浮かべながら喜んでいた。

 

 ────

 

 アリスちゃんとデートをすることになった私は、ミレニアム自治区に位置する電気街、春葉原に来ていた。

 ゲーム好きのアリスちゃんには、興味を惹きそうな物が集まっていて、彼女なりに会話を合わせやすい環境が整っている場所を選ぶことが、きっと距離を縮めるのに最適なはずだった。

 元々人が賑わう都市部ではあったけれど、今日は休日なこともあって、歩道や青信号の交差点に人の流れができるほど、人が絶え間なく行き交っていた。

 そんな街の様子を駅の出入り口から見ていた。

「うっ……思っていたよりも混んでるわね……」

 春葉原は家電製品だけではなく、アニメやゲームのグッズの販売店も充実していた。きっと、限定品の販売やイベントが重なって、街により人だかりが作られていた。

「アリスちゃん、もう少し私に近付いて? はぐれないように歩くわよ」

「はい! ……ところでユウカ、はぐれないようにするため、アリスから提案があります」

「……提案? 何かしら? 」

 アリスちゃんが意気揚々と私に手の平を向けてこっちに差し出してきた。

「手を繋ぎましょう!」

「そ、そこまでするの……っ?」

「はい、アリスが遊んできたどの恋愛シミュレーションゲームでも、デートでは手を繋いでいました。恐らく、デートにおける鉄則です」

「~~~っ……わ、分かったわ……」

 街中を行き交う人をよく見てみると、私たちと同じように制服を着た生徒同士が手を繋ぎ合って歩いてる様子が、ちらほらと見えていた。

 私はアリスちゃんに差し出された手を繋いで、人の流れに乗るように街の中を歩き始めた。

 これはアリスちゃんが恋を知っていく為の、擬似的な恋人の関係。

 それは、私がアリスちゃんからも攻略される事を意味していた。

 今日は外出するということもあって、アリスちゃんの雰囲気はいつもと違っていた。

 普段の床につくほど真っ直ぐに伸ばした髪の左側だけサイドテールでまとめた髪は、踏まれたり巻き込まれないように、出発前に私が結ってあげていた。一つの束になるように右後頭部の上で大きなポニーテールを作っていた。それでも束の毛先が、踝に届いてしまっているけれど……

 アリスちゃんの快活な一挙一動の素振りが、元気に尻尾を振る小動物に思えるくらいポニーテールをゆらゆらと揺らして、庇護欲と母性本能を擽ってきてずっと色んな意味で胸がドキドキさせられていた。

 

 ──事前にアリスちゃんと話し合って、デートの行き先が春葉原と決まったとき、私はゲーム開発に役立ちそうな電子部品や新作ゲームソフトのウィンドウショッピングをするものだと思ってた。

 私はスマホを片手に、事前にアリスちゃんから行ってみたい場所として渡された位置情報を頼りに歩いていくと、駅からすぐ見えていた大型家電量販店が段々と離れていくほど、反対方向に進んでいた。

 しばらくして、スマホの目的地を示す場所が見えて来て、画面から顔を上げる低層の雑居ビルが見えてきた。

「……あら? 目的地に着いたことになったけど……ここで合ってるのよね……?」

「あっ……わぁ……! あれです! あの建物です!」

「あれって……レトロゲームショップ? うわっ──ちょっと! アリスちゃん、待って……!」

 アリスちゃんが目を輝かせて、建物を見上げると、私の手を握ってた彼女の指先がキュッと力が入り、ふにっとした柔らかい手が、私をビルの中へと引っ張っていくのだった。

 私の前を歩くアリスちゃんのポニーテールが「こっち、こっち」って手招きするみたいに前後に揺れていた。

 入り口を抜けて目に入ったのは、ゲーム開発部に資料として置かれている物とは比にならないくらい、出入り口から階段がある奥の方にまでかけて棚や、辺り一面にレトロゲームのカセットやゲーム機がまるで壁の前にもう一つ壁を作るように並べられていた。そして、その光景は階段を上ってもなお上の階にも同じように続いていた。

「こんなに……凄いわね……」

「はい! 凄いです……! きっとここには、アリスがまだ知らない冒険が眠っているはずです……!」

 ふふっ、そういうことね……

 ゲーム開発部にたくさんレトロゲームがあると言っても、レトロRPGゲームを全て網羅出来ている訳じゃないから、こうして新しい発見に来たのね。

 ふと、私は近くの棚に目を移した。

 まだ幼い頃に興味はなくても、当時話題だったから見覚えのあるゲームのパッケージがあった。

 そのゲームの棚には、まるで当時から新品を持ってきたかのように綺麗な物から、元の持ち主の下で一緒に時間を過ごしてくたびれてしまった物まで、様々な状態の物が同じ棚に並べられていた。

「アリスちゃん、何か気になる物はあった? 」

「そうですね……あ、ユウカ! 見てください!」

「これは……風船のゲーム?」

「はい、以前にモモイとミドリが部室で遊んでいました。風船で空飛ぶキャラクターたちが相手の風船を先に割って落とすゲームです。二人プレイもできます」

「ふーん……そういう遊び方もあるのね。双子のあの二人なら、スコア……? とか、結構突き詰められるんじゃないかしら? 」

「いいえ、モモイが開始早々誤ってミドリの操作キャラを打ち落としてしまったので、しばらく二人はケンカをしていました」

「何やってるのよ、あの二人は……」

「モモイとミドリは本当に仲が良いです。その後、どちらが悪いか白黒付けるために、落とし合うことを目的でゲームを続けていました」

「ゲームの揉め事をゲームで……平和なのはいいことだけれど、あの子たち本当にゲームが好きなのね……」

 結局、部室にある物だからということで、アリスちゃんは元の場所にソフトを戻していた。そして、その近くの別のソフトに気づいたみたいで、それを手に取って私に見せてくれた。

「これはユズが得意な格ゲー……えっと、これはその前作ですね」

「遊んだことがあるの? 」

「はい! ユズはとても強いです。アリスはユズにリベンジしようと頑張って練習を重ねましたが、今まで手加減されていたみたいで、また負けてしまいました……」

「……えっと、容赦がないのね」

「いえ、ユズはアリスのような初心者にも手応えを感じさせてくれるように、張り合いのある手加減をしていたんです。ユズはゲーマーとしても強いのです」

「そうなのね……」

 知らないゲームだけじゃなく、アリスちゃんは部室に置いてあるゲームを見かけては、私にその時の思い出を話してくれた。

 インドアの遊びの中にも、アリスちゃんにとってはかけがえのない青春にも思える大事なエピソードとして、一つ一つ楽しそうに語っていた。

「──ユウカは何が好きですか?」

「わ、私……!?」

「ユウカは以前に言っていました。小さい頃にもゲームで遊んでいたことがあったと……」

「あ……あの言葉、覚えていたのね……」

「はい、ずっと気になっていました。それに、ユウカとの仲を深めるためにも、アリスはもっとユウカのことが知りたいです!」

 部室で話していた時に、私が発した何気ない一言だったと思う。

 あの時は、話の本題はそこじゃなかったし、流されても特に何も問題のないところだった、私も大して気にしていなかったから今日まですっかり忘れていた。

 それを今になってアリスちゃんに拾われたことが、目を輝かせるほど興味を持ってくれたことが、嬉しくも恥ずかしくも感じる名状し難い気持ちが一瞬だけ、胸の中でふわりと煙のように通りすぎていく心地がした。

「で、でも、私が遊んでたゲームなんてダウンロードしたデータばかりよ……?」

 私の周りで実物を買ってる人なんていなかったと思う。ゲーム機にゲームデータを購入して遊ぶのが殆どだったし……

「……っ! それでしたら、パッケージ版もあるはずです! 一緒に探しましょう!」

 アリスちゃんが店の奥の方へ、私の手をそれがもう『当たり前』のように握って引っ張っていた。

 きっと今日が終わっても、アリスちゃんのふにっとした肉付きの柔らかい手の感触を覚えていられるくらい、今日の私たちはずっと手を握っていた気がする。

 背伸びして手を伸ばして高い段から一つ取ろうとする健気さ一つにすら、私は目が離せなかった。

 元々、私はアリスちゃんの日頃の素振りが、去年まで目に入った物を口に入れてそうな赤ちゃんだった子を見てるみたいで、放っておけなくて離せないからでもあった。そんなはずがないと思うけど、どことなくそんな雰囲気が彼女からは常に漂っていて、私の中にある母性本能がそれに刺激されていたからだと思ってた。

 私たちはしばらく、色んなレトロゲームを探して、目にして、そうして開発部の誰が好きそうとか、話してしばらく過ごした。それから、アリスちゃんが好きなRPGゲームを買ってからお店を後にした。

 そして、春葉原からも出て大通りに抜けると、休憩するためにイートインスペースがあるクレープ屋に入っていた。

 お店の外からでも微かに漂う生地が焼けるが匂いが、店内では食欲を誘うようにより濃密な香りとして私たちの鼻を擽ってきた。

「お腹が空きました……」

「とてもいい匂いだけど、食べすぎに気をつけないと、カロリーが……」

 生クリームに、アイス、フルーツ素材のソース、物によってはケーキまでトッピングされていて、他の装飾なんていらなく思えるくらい色とりどりのクレープの写真やサンプルがカウンターに並んでいた。

 たくさんあって悩んでいる中、アリスちゃんが私の袖を引いて、写真に指を差していた。

「んっ……アリスちゃんは決まった?」

「ユウカ、見てください……! 塩ラーメンもあります」

「……え? もう、ここはクレープ屋よ……? そんな物があるはず……うわっ……なによ、これ……」

「クレープ屋は、なんでもあるのですね!」

「『なんでも』にも限度があると思うけど……ねえ、アリスちゃん? 普通のにしましょう……?」

「はい! では、アリスはこれにします!」

「良いわね、私はその隣のにしようかしら……」

 これ以上、アリスちゃんが当たりハズレがありそうな物に興味を惹かれ続ける前に私からシンプルな物を提案して、ことなくを得るのだった。

 今は向かいの席でアリスちゃんが、小さな口を大きく開けてストロベリークレープを頬張っていた。

「はむっ……むぐ……美味しいです……! 今度、モモイたちも連れてきたいです」

「良いと思うけど、それよりアリスちゃん……ほら、頬っぺたに付いてるわよ? 」

「んっ……すみません……」

「……ふふっ、こういうのは口に付きやすいから気をつけなきゃダメよ? ……──あむっ……」

 アリスちゃんが真っ白な生クリームを口端に付けてたから、私はテーブルにあった紙ナプキンで拭ってあげてから、私も自分の頼んだ物を一口食べるのだった。

 少しビターなチョコレートクレープ。

 クリームが多い気がするけど、今日は歩いたから大丈夫よね……

 一日の目安摂取カロリーとか、そもそもクリームにチョコレートに含まれる脂質とか、色々考えているうちに、目の前で無邪気に頬張っているアリスちゃんに水を差している気がして、私はそのまま目を瞑ってクレープを口にした。

 罪悪感を感じるから、それに背く背徳感が存在する。

 脳が流れ込む糖分に喜んでるのを感じていた。

 口に溶けるように広がるほろ苦く、柔らかな甘味を私は味わいながらも、脳から分泌される幸福感も一緒に噛みしめる気持ちで私は食べていた。

「……あっ、ユウカ。動かないでください」

「えっ、何? ──んっ……」

 アリスちゃんが私の顔を見て、何かに気づいたみたいで、食べる手を止めて、私の顔に向かって人差し指を差し出してきていた。

 頬や口元には付かないように、食べる角度には十分気をつけていたはずだけど……

 私の鼻先に指が当てられて、指が離された時には彼女の指にチョコレートソース混じりの生クリームが薄く付いていた。

「……はいっ、取れました」

「え……う、嘘っ……! ごめんなさい、アリスちゃん……っ……」

 私は慌てて口元を覆って隠すと、アリスちゃんはそんな私を見てクスッと笑うのだった。

「ユウカ、もう付いていません……大丈夫ですよ」

「それなら、良いんだけど……」

「……はむっ」

「あ、アリスちゃん……!? 」

 私が安心して口元を覆っていた手を離したその直後だった。

 アリスちゃんは自分の指に薄く付いたクリームを口に咥えていた。

「少し苦いですね……大人の味がします」

「そんな、拭った物を食べなくても良いのよ……?」

「そうなのですか? ゲームのイベントではよく見るシチュエーションだったのですが……ユウカもアリスのクレープ食べますか? ここに、まだイチゴが詰まってます! 甘酸っぱくて美味しいですよ」

「──っ……」

 自分に付いた物を口にされただけでも形容しづらい嬉しくも恥ずかしい気持ちが込み上げてくるのに、食べさせ合いなんて顔から火が出てしまいそうだった。

 そう思っていると、差し出してくるアリスちゃんの期待の眼差しが、私の断ろうとする言葉に蓋をするのだった。

 まだイチゴが残ってる部分。

 アリスちゃんが食べ進めているのもあって、間接キスは免れそうになかった。

 誘惑するようにクリームと熟したイチゴが詰まった断面を作るようにそれを包装したクレープを向けられて、私が考えすぎなのかもと一度ため息を吐いてから一口食べるのだった。

 生地が崩れ、甘い生クリームに包まれた甘酸っぱいイチゴの酸味に、頬っぺたが落ちそうな心地が口一杯に広がっていた。

「……ん、ふふ……美味しいわね……」

「ユウカ……」

「んっ……どうしたの? 」

 私はまだ口に残る酸味が入り交じったクリームを飲み込んでから、返事をすると、アリスちゃんがしてやったりと言わんばかりに、満足そうに笑みを浮かべていた。

「間接キスです」

「っ……──げほっ、けほっ……!」

「す、すみません……! お水を……お水を貰ってきます!」

「だ、大丈夫よ……!」

 人が気にしないようにしたそばから、まさか目の前の純真無垢そうな子に引き戻されるなんて思ってもいなかったわ……まるで憧れてたことの一つが達成できたみたいに満足げに微笑んでるけど、その口端を上げて笑った表情に、一瞬だけ彼女が小悪魔に見えてしまった。

「アリスちゃん、あまりからかわないで……」

「すみません……ですが、今ので先生が日頃ユウカをからかっている気持ちが分かった気がします」

「そこは、分からなくてもいいのよ……」

「ところで、ユウカ……」

「……? 」

「アリスも、食べていいですか?」

「……もう……はい、私は何も言わないわよ?」

「間接キスをですか? 」

「あげないわよ? 」

「あっ……すみません、もう言いませんから……!」

 私は差し出したクレープを引くと、アリスちゃんが困ったように眉を下げて上目遣いでこちらを見つめてくるのだった。

 嗜虐心を擽るような素振りを見せられて、私もからかってしまった。

 そんな可愛く表情に出されるだけで、それも愛らしくて、その様子が愛玩動物を弄んでるような気分みたいで、胸がきゅっと締められるような罪悪感が沸いてきた。

「冗談よ……はいっ……」

 私はアリスちゃんに食べかけていたクレープをもう一度差し出して、それもアリスちゃんは頬張って美味しそうに食べるから、目の前で幸せそうな彼女の様子だけで、私は胸が一杯になっていた。

「……美味しい?」

「むぐ……んくっ……、はい……!」

「ふふっ……アリスちゃん、また口元付いてるわ」

「ん、ありがとうございます……」

 私はアリスちゃんの口元をもう一度紙ナプキンで拭った後、お互いが口を付けた後の自分のクレープを食べ終わってクレープ屋を後にすると日が沈みかかっていた。

 

 アリスちゃんが口を付けた後の部分を口にする直前、私はチラッと彼女の方へ視線を向けた。

 別に私の行動を気にする訳でもなく、私が口を付けた部分を気にする訳でもなく、残ったクレープのクリームが溢れ出さないように気をつけながら包装紙の中から残りを引っ張り出してもくもくと食べ進めていた。

 何を気にしているのよ、私は。

 彼女が恋による形容し難い気持ちを知るために交わしているデートの中で、彼女には絶対に教えてはいけないとも思える邪な気持ちが私の中にはあったんだと、このとき気付かされてしまった。

 アリスちゃんが口を付けた後の私のクレープからは、ビターチョコのほろ苦さの中に、イチゴの微かな酸味が残っていた。

 

「──駅に着いてしまいました」

「……っ? 他にまだしたいことがあったの?」

 今いる駅から一本の電車を乗ることで、ミレニアムに着いてしまうのだった。

 そんな中、アリスちゃんは名残惜しそうにそう口にしていた。

「はい、まだキスをしていません」

「……それはダメよ」

「ですが……」

「それは、本当の恋人に……アリスちゃんが本当に恋を知った相手とするべきだわ」

「……! 分かりました」

「そう、だから直接のキスはおあずけ」

 おあずけ、そう言い聞かせるように私は口にした。

 その言葉で会話を切り上げさせるようなタイミングで、電車がプラットホームの中に入ってきた。

「……ユウカ、今日はありがとうございました! 」

「ゲーム開発まで期間があるんでしょ? それまでいつでも……は、無理だけど……また付き合ってあげるから、色んな所に行きましょう?」

「はい!」

 私たちは車両に乗り込んだ後、しばらく今日の思い出や、次はいつにするかなんて話し合っていた。

「……経験値をゲットしました。アリスはデートの楽しさを身に付けました」

「いい経験になったのなら良かったわ」

「アリスは日々成長しています。特に今日はユウカのおかげです──んっ……ぅ……」

 こういう時って、頭でも撫でてあげるべきなのかしら。

 ──考えるよりも先に体が動いてた。

 私の隣に座る彼女の頭部に、綺麗にまとめた髪型が崩れないように指先だけ添えて、流れに沿うように撫でていた。

「……これからも手伝ってあげるわ」

「……はいっ」

 アリスちゃんが私の肩に頭を乗せるように寄りかかってきて、私はしばらく彼女を撫で続けていた

 艶やかな黒髪。

 どんなトリートメントを使えば、これだけの滑らかさが出るのかしら。

 それから途中で無言の時間が訪れたとき、私は向かいの車窓に目を移すと、普段青く光って見えるミレニアム自治区の建物が夕暮れに照らされて、淡くオレンジに彩られていた。

『それはダメよ』

『今はおあずけ』

 自分がアリスちゃんに向けたはずの言葉が、私の胸に刺さっているような気がしてモヤモヤしてた。

 私はただ、アリスちゃんが放っておけなく思えるくらい好きだから……でもこれは、庇護欲とか母性的なものからくる好きだと思ってた……

 そもそも、擬似的な関係なのにそれを利用してキスなんてしようすること自体、なんだか無知のアリスちゃんに付け込むようにも思えて、いい気がしないというか……

 

 そう思ってうやむやにしたくなるほど、胸の中には一瞬だけ通り過ぎたはずの名状し難い煙のような気持ちが、胸の中でふわふわと渦巻いて起こる胸焼けにも思える違和感を、あの時は振り払いたくて仕方がなかった。

 

 こうした関係が続いたら、本当に恋人同士になってしまうのかしら。

 

 これが危惧なのか期待なのか。

 車窓のガラスに反射して、私に寄りかかって心地よさそうに目を瞑っているアリスちゃんが見えると、アリスちゃんの方に頭をこつんと当たるように寄せた。

 指先で感じていた髪の感触と、頭部から彼女の温もりが微かに伝わってくる。

 私も今のこの一時に身を委ねるように、ミレニアムに着くまでの間、目を瞑ることにした。

 

 ────

 

 もう……どうして簡単に校舎を壊せるのよ……

 

 私は授業を終えた後にいつも回ってくる仕事を片付ける合間を縫って、アリスちゃんとデートをする日々を送っていた。

 アリスちゃんから擬似的な恋人としての関係になるまでに、大体面倒ごとでも起きない限り回ってくる仕事なんて決まっていたから、それを見越した上でスケジュールを組んでるつもりだった。

 それなのに、どうして席を外している時間が長いときに限って面倒ごとが次から次に起こるのかしら……お金は有限だってあれほど言ってるのに……

 私はデスクの上に積まれた請求書の山を見て溜め息を吐いた。

 

 これじゃ、日頃から仕事を溜め込んでいる先生のことを言えないじゃない……

 

 最近はアリスちゃんとのデートを先に、ミレニアムに戻ってきてから仕事を片付ける日々を過ごしていた。

 授業を終え、仕事を少し片付けてからデートに行って、戻ってきてから残りを片付ける。

 いつも執務室に篭りっぱなしでストレスが溜まるよりはアリスちゃんとの合間を縫って会う時間は、一種の休憩時間にも思えるくらい、気分転換にはなっていた。

 それでも、急な設備の破損の報告が立て続けに来ると、気分転換もただのサボり同然のように仕事を片付けられたはずのロスタイムとなってしまっていた。

 

 少し無理をしたかしら……

 

 うつらうつらと、視界が微かに揺れる中、私は積まれてた書類をひとまず片付けた直後、視界が真っ黒になっていた。

 

 ……ブラウス越しに感じる肌触りのいい暖かな物が背中にかけられる感触で私は目が覚めた。

 ブランケットがかけられていた。

 目を開いても、瞼を閉じていた光景と変わらず辺りが暗かった。そのままデスクにうつ伏せになって夜まで眠ってたみたい。

「──あ、ユウカ。おはようございます」

「アリス……ちゃん……? 」

「まだ眠たければコーヒーを淹れましょうか? カップを取ってきます」

「まって……いまは、いらなっ──きゃぁっ……! 」

「……っ! ユウカ──っ! 」

 カップを取りに行こうとするアリスちゃんを止めようと立ち上がったその時だった。

 寝起きの私は立ち眩みを起こし、踏み出した脚は頼りなく見えるように膝から崩れて、倒れそうになってしまった。

 

 ──ぎゅむぅっ…… 

 

 そして、私の身体は床に……倒れ込まなかった。

 振り返ったアリスちゃんが、直ぐ様私の方へ駆け寄って、抱き止めてくれたみたいだった。

 私よりも華奢な身体だけど、日頃から大きな武器を背負ってるだけあって、私の身体なんてすっぽりと、体幹がブレることなく受け止められていた。

「大丈夫ですか……? 」

「え、えぇ……大丈夫よ……ありがとう、アリスちゃん……」

「良かったです……ユウカ、身体がぽかぽかします……まだ眠たいですか?」

「ええ……少し眠たいかも……」

 眠たかったけど、転びかけたり、アリスちゃんに抱き止められたのもあって、すっかり目が冴えてしまったけど。

「それに、心臓が凄くドキドキしています……」

「それは……びっくりしたから……それ……だけ……──?」

 私はアリスちゃんの胸に飛び込む形で受け止められていた。

 私は彼女の言葉に引っ掛かって、耳に意識を傾けた。

 

 ……鼓動が聞こえない。

 

 彼女の言う通り、私の心臓は抱きしめられて、自分の鼓膜にも伝わってくるくらいドキドキしてた。

 ──アリスちゃんは……?

 制服越しでもはっきり分かるほどの慎ましくなだらかな胸部に、耳が当たるくらい密着してるのに、心音はとても静かだった。いいえ、静かなんかじゃない。

 心音が全く聞こえなかった。

 ゆったりとした息遣い。

 肺の膨らみを感じるほどの胸の起伏。

 制服越しに伝わってくる彼女自身の温もり。

 子どもっぽいミルクのような優しい香り。

 人らしい感触は確かにあった。

 それなのに、心音だけが全く聞こえなかった。

「あ……アリスちゃん……?」

 急に私の胸の高鳴りが、彼女に抱きしめられていた緊張から、まるで禁忌にでも触れる直前の、額や首筋に冷や汗一つ流れるような物へと変わっていた。

「アリスちゃんの……心臓は……どうかしら……ドキドキしてる……?」

 当たり障りのない言葉を選びながら私は口を動かしていた。

 もしかしたら、何らかの臓器移植でそういう物に変わってる可能性だってあるかもしれないから。

「アリスの心臓ですか? ユウカに音が聞こえなければ正常です。アリスの人工心臓は動力源として静かに機能する物ですから」

「……そう、なのね」

 

 人工心臓。動力源。

 

 眼球型カメラとか、人工たんぱく質とか、前にもロボットを思わせるようなことを先生に向かって話していたのを見たことがあった。彼女が口にする、ごっこ遊びのような微笑ましく思える空想上の出来事のような言葉選びが、急に輪郭を帯び始めていた。

 

 ……人じゃ、なかったのね。

 

 アリスちゃんの二の腕部分の袖を握っていた私は、込み上げてくる感情を堪えるように指先に力が入っていた。

 目元が熱くなっているのを見られないように、変わらず俯いたままだった。

 アリスちゃんを強く抱きしめても、私の鼓動が彼女へと流れていくように伝わっていた。流れていって、それっきり。

 彼女からは、返ってこない。

「……ユウカ、どこかが痛むのですか? 」

「だ、大丈夫よ……」

 胸が痛い。

 何も悪くないはずの彼女からの気遣い一つでさえ、今は辛い。

「アリスちゃん……やっぱり、コーヒー貰ってもいいかしら」

「はい……! すぐに用意します!」

「……お願い」

 アリスちゃんが私から離れて、コーヒーメーカーの方へ向かっていく。

 

 見惚れてしまうくらい、作り物のように思えていた可愛らしい容姿が作り物だった。

 お人形のような愛らしさも、綺麗な瞳、艶やかな髪の手触りも、デートの時にいつも握ってくれていた柔らかい手の感触も、全部。

 惹かれる見た目として作られて、初対面の時から私はそれが可愛いからと心惹かれて。

 作り物だと最初から分かっていたら、今まで過ごした時間の捉え方も変わってたのかしら。

 それでも今まで過ごした時間は嘘じゃなかった。

 完成された容姿の中に、文字通り無垢な中身……人格が備わっていて、私は彼女のそれに惹かれるままに惹かれていた。

 

 私を抱きしめてくれていた、温もりと匂いが離れた時、その名残惜しさと、元の体温に冷めていく両肩がやけに寂しく感じた。

 

 そんなの……好きになるに決まっているじゃない……っ……

 

 アリスちゃんに恋人としての気持ちや感覚を教えるはずの関係だったのに、先に恋を自覚させられたのは私の方だった。

 

 椅子に座り直して、私はハンカチを目元を覆うように当てていた。

 コーヒーメーカーの置いてある方から、アリスちゃんの鼻歌が聞こえてくる。

 RPGゲームのテーマソングだった。

 アリスちゃんを部室に迎えに行ったときに、彼女がよく遊んでいたから、すぐに分かってしまうくらい、私も聞きなれてしまっていた。

「ユウカ──……ユウカ? 大丈夫ですか?」

「──……何でもないわ……コーヒー、ありがとう……」

「あっ……待ってください……」

 

 ──ふー……ふー……

 

「──っ……」

 アリスちゃんは私がいつもしているみたいに、コーヒーの水面を優しく撫でるように息を吹き掛けて冷ましてくれていた。

 カップから立っていた湯気が、息に吹かれて流されていた。

 空色の瞳を細めて水面を見つめ、ほんのり桃色に染まる頬を少し膨らませている健気な様子に私の胸がきゅぅっと締め付けられる。

 愛しくて、胸がときめいてる。

 もう取り返しのつかないくらい、私は彼女を意識するようになっていた。

「……はい、これで大丈夫です。もうユウカには、火傷なんてさせません。どうぞ」

「……っ、ありがとう」

 彼女を信じて水面を吹かずにカップに口を付けると、唇が拒否反応を示さないくらいスッと触れることができるくらい冷めていた。

 それでもコーヒーの温もりは確かに残っていた。

 私といる時間が増えて、私がいつもどれくらい冷ましているのか、彼女なりに見てくれているみたいだった。

 こんなにも目の前の彼女は無邪気なのに、私は自分の役割を忘れてしまいそうになっていた。

 

 だって、私は擬似的な恋人なんだから。

 

 私の気持ちは汲み取られなくてもいい。彼女の役に立てれば、今はそれでいい。

 自分の恋心を洗い流すつもりで、コーヒーを喉に注ぎ込んだ。

 飲み慣れていたはずのそれは、いつもよりも苦く感じた。

 

 ────

 

 セミナーの執務室に珠を弾く音が響いていた。

 

 ──パチっ……パチ、パチンっ……

 

 アリスちゃんにブランケットをかけてもらったあの日から、算盤を弾く時間が増えていた。

 もう処理し終えたはずの請求書の数字を見ながら、珠を弾いて……弾いて……

 

 ──カチカチカチっ……

 

 捲っていく請求書の日付が変わると、梁に人差し指を沿わせて端から端へとなぞって、隊列を乱してバラバラになった珠を整列させていく。

 指先で一つ一つ珠を弾く度に、静かな執務室に弾かれ続ける珠同士の音が心地よく木霊していた。

「……はぁ」

 そして、私の溜め息がまた一つ溢れた。

 頬杖をつきながら算盤を弾いていた私は、漂ってくるコーヒーの匂いに気づいていたのに、見向きもせずに書類に目を通していた。

 

 ──パチンっ……パチンっ……

 

 ──コトンっ……

 

 甲高い珠の音が繰り返される中、デスクの空いてる場所から低くて少し重たい音がして私は手を止めた。

 音がした先にはいつも使っているコーヒーカップが置かれていた。

 淹れたての真っ黒な水面から、香ばしい匂いを乗せた白い湯気がゆらゆらと昇っていた。

「……っ、ありがとう、アリスちゃ──」

「──もう……アリスちゃんではなく、ノアちゃんですよ?」

「ノアっ……! ご、ごめん……来てたのね……」

 私と同じセミナーの書記を務めているノアだった。

 ……私が呼び間違えたから、わざとらしく不満な気持ちを表すように片頬だけ膨らませていた。

 私が呼び間違えたアリスちゃんの髪色とは対極的に、体に沿うように伸びた長い白髪(はくはつ)で、私よりも目線が少し上になるくらい背丈が高かった。

「その領収書、先月のではないでしょうか?」

「そうよ……」

「ユウカちゃんがいつもそうしているときは、決まって悩み事があるときではないですか……」

「……別に予算回りの事でも、セミナーの事でも無いわよ……ノアには関係ない事だから」

「うーん……それでしたら……」

 きっと当てられるんだろうと思う。

 私がアリスちゃんに仕事を手伝って貰っている時に、何度か彼女と顔を合わせてるはずだから。

 アリスちゃんは、今はゲーム開発に取り掛かっていて、デートどころではなくなっていた。

 開発に取り掛かると聞いた日、まるで長い思い出作りを楽しんでくれたみたいに、満足そうに微笑みながら私にそれを伝えてくれた。

『ユウカとの経験も活かしてみせます。開発が終わったら、またデートに行きましょう!』

 私はそれに何て返したかしら。

 

『これからの関係も擬似的な物として続くの?』

 

 ……何も聞けてない。

 まるで登下校の分かれ道で笑顔でこちらに手を振って帰る少女を見送るみたいに、ただ『またね』って私は手を小さく振って、それっきりだった。

「……どうやら、あの子との関係が上手くいっていないようですね」

「……私はインスピレーションを得るための手伝いをしてただけよ」

「あら……そうだったのですか? 私、あの子にはユウカちゃんの気を引けるように色々アドバイスをしてみたのですが、余計なお世話だったのでしょうか……?」

「ノアが……?」

 そういえば、いつも何か飲み物を口にする時間にアリスちゃんが来てくれる頻度は確かに増えていたし、あの日、ブランケットをかけに来てくれたのも、偶々にしては物もタイミングも揃いすぎていた。

「……はぁ」

 また溜め息を吐いてしまった。

「ユウカちゃん、これで25回目の溜め息ですね」

「ちょっ……!? 変な物を数えないでよ……! 大体、いつから数えたらそんな数字になるのよ!?」

「ユウカちゃん……今朝の登校時間、教室に入る前に廊下で私と会ったのを覚えていますか?」

「……え、えぇ」

 深夜までセミナーの仕事をして、それからベッドに入ったからよく眠れていなかった。

 思い返してみると、意識ははっきりしていても朝の記憶特有の靄がかかるような光景の中で、確かに私はそこでノアと会っていた。

「私が声をかける前に既に1回していました……無自覚でしたよね? あの時のユウカちゃん、まるで徹夜明けの時のように上の空でしたから」

「……そうだったかも」

「……これは思っていたよりも重症かもしれませんね」

「重症? 私が……? 」

 ノアが何かを考えるような素振りを見せるように、伸ばした人差し指を頬に当てていた。

 そして、何かを思いついたみたいに私が座っている椅子から離れて、出入り口の方へと、余裕のある足取りでゆったりと向かってた。

「ノア? どこに行くの?」

「ふふ……すみません、ちょっとした用事を思い出しました」

「用事……?」

「えぇ……人の乙女心を弄ぶような後輩たちに、少しお灸を据えてくるだけですからっ……」

 ノアは相変わらず涼しげな笑みを作って、こちらを振り返ると、そのまま執務室から出ていってしまった。

 

 ……ノアが用事を忘れることなんて、今まであったかしら?

 

 * * *  * * *

 

 ユウカとの恋人期間を終えて帰ってきたアリスちゃんと、私たちは早速、ゲーム開発に取り掛かることになっていた。

 アリスちゃんが経験したことを元にストーリーに組み込まれた恋愛シミュレーションゲーム。

 アリスちゃんの意見を反映したのは主にメインストーリーではなく、デートの合間などのサブストーリーだった。

 それをお姉ちゃんが組み上げた流れだけは目を通してみた。

 きっと前のアリスちゃんからだったら、ゲームの模倣くらいのありきたりの案ばかりだった。とても王道的なイベント内容ではあったけど、どこか物足りない。

 まるで小学校低学年の子が恋に恋してるような、仲の良い人と会えるのが楽しいから明日も会いたいくらいの、悪くはないけど説得力が欠ける物だった。

 

 ……何か違う気がするけど、何が違うんだろう。

 

 とりあえず、形にしようと私たちは目の前の目標に向かって作業を続ける為に、部室に篭る日々が続いていた。

「──ふふ、お久しぶりです、アリスちゃん」

「お久しぶりです、ノア先輩」

 そんな日々の中、放課後の時間にアリスちゃんを訪ねて、セミナーの書記を務めているノア先輩が私たちの部室にまで来ていた。

「……ねえ、これどういう状況っ!? もしかして、アリスがユウカの手伝いばかりしてたからセミナーへのスカウトだったり……!?」

「しーっ……! そんなはずないでしょっ!」

「も、もしかして、手伝っているときに何かしちゃったのかな……」

 私たちよりも、ノア先輩は頭一つ分くらい背が高かった。

 取り込み中の二人の邪魔にならないように、私たち三人は部室の隅に集まって、その様子を見守っていた。

「アリスちゃん、今日のユウカちゃんはとても気分が落ち込んでいます……」

「ユウカがですか……?」

「……えぇ、今日のユウカちゃんがどれくらい溜め息を吐かれたか、ご存知でしょうか?」

 アリスちゃんが答えられるはずのない質問だった。

 私たちは授業から休み時間、それに今過ごしている放課後まで殆ど一緒に過ごしてたから。ユウカとは全く顔も合わせてなんていない。

「わ、分かりません……アリスは今日もユウカとは会っていないので、答えられません……」

「そうですよね。25回ですよ? 各部活から届く申請書処理と、予算管理に悩まされていた時よりも12回も多かったんですよ」

「え、えっと……」

 

「そんなに……それでも、予算管理の時に13回も大概だと思うけど」

「そ、それだけ、真剣に取り込んでくれているってことだと思う……」

「ちょっと、ノア先輩! そんな答えられない質問をアリスにして、何がしたいの!?」

 

 話に関係ないはずのお姉ちゃんが、困っているアリスちゃんを助けるように話に割って入ろうと、大きな声を上げていた。

「ふふ……すみません、ちょっと意地悪してしまいましたっ……では、単刀直入にお伺いしますね?」

 一度言葉が途切れてから、いつも涼しげな笑みで微笑んでいるノア先輩の様子が少し怖かった。

 セミナーの役員の二人、感情的になりやすいユウカに対して、ノア先輩は理性的な人だった。

 そんな先輩が今、アリスちゃんと面と向かって話している光景は、学園の上下関係とか、役員と部活動生とか、そういったものとは違った雰囲気を纏っていた。

 表面上はいつもの余裕綽々とした落ち着いた様子なのに、見下ろされてると感じる圧のある視線。

「アリスちゃん……ユウカちゃんとの関係を進展させるつもりはありますか?」

「進展ですか……? ですが、ユウカにはそれ以上の関係になるのは本当に好きな人となるべきだと、言われました……」

 

 聞いていて恥ずかしかったけど、アリスちゃんは無邪気にも何度かデートの終わり際にキスすることや、他にも実際の恋人同士がする行為を提案してたみたい。

 今まで曖昧に答えていたユウカは、いつからか、はっきりと断るようになっていたみたい。

 気分転換になってるのなら、分からなくも無いけど、ユウカがアリスちゃんに甘いというには、あまりにもその『甘い』の限度を超えていた。

 明らかに自分の時間を無駄にしてるように思えてしまった。

 

「人の言葉を素直に聞き入れるのはあなたの良いところだと思っています。それでもユウカちゃんだって乙女なんですよ? 自分の本当の気持ちを汲み取ってもらえなければ、恋の病に陥ってしまいます……アリスちゃんは今までユウカちゃんと過ごして何を感じられましたか?」

「アリスは……ユウカと過ごせて幸せでした……また明日も同じように幸せな時間を過ごせられたらと……そう思って過ごしていました」

「素敵ですね……それだけでしょうか?」

「えっ……」

「アリスちゃん、私はユウカちゃんのことが好きです……ユウカちゃんとは、一番の友達でいられれば、それで良いと思っていました。ですが、今のアリスちゃんがそれ以上の進展を望まないと言うのであれば、この後、ユウカちゃんに告白しようと考えています……今のユウカちゃんには誰かが傍にいて支えてあげなければ、いつ倒れてもおかしくありませんから」

「──っ……そんな……」

 

「お姉ちゃん、これって……」

「恋のライバルじゃん……!?」

「えっと……こ、これわたしたちが聞いていい話なのかな……? 」

 私たち三人は小声で話し合った。

 確かにそんな気はありそうだったとか、でも、それなら擬似的な関係をさせる時点で色々理由を付けて止めに入ってたはずとか……ノア先輩の行動にも怪しい点がいくつかあって、今もこうしてわざわざアリスちゃんに伝えずに抜け駆けすることだってできるはずだった。

 

「お二人は擬似的な関係なんですよね? それでしたら、今のユウカちゃんに私が告白したところで、何も問題はないと思うのですが……?」

「そ……その通りです……」

「ふふ、伝えたいことはそれだけです……ユウカちゃんとの恋愛のお勉強、お疲れ様でした」

 

「──何よ、その嫌味みたいな言い方! すっごく不快なんだけど! 」

「お姉ちゃん……! 」

「や、やめようよ、モモイ……! 」

 

「あら……? ユウカちゃんの乙女心が弄ばれ続けていた私も、ずっと不快な思いをしていたんですよ? ……ふふ、私情が込み入っても私は変わらず、皆さんの活動報告を楽しみにしています……それでは……」

 ノア先輩の言ってることに間違いはなかった。

 私たちは、ちょっと間違いがあれば鬼みたいにうるさくて、それでも押しに弱いユウカの人の良さに甘えすぎていた。

 ユウカならアリスちゃんのために何とかしてくれるかもって、そう思って頼りきりだった。

 先輩が部室に背を向けて、ドアから出ようとしたその時だった。

「ま……──待ってください!」

「……っ♪ あら、まだ何かあるのでしょうか……? 」

 脹ら脛まで届くほど長い白髪を、ひらりとカーテンのように靡かせながら振り返ったノア先輩は、どこか嬉しそうな様子で口元を緩めていた。

 むしろ、そっちが本当の目的だったと喜ぶように目を細めていた。

「……アリス?」

「アリスちゃん?」

「あ、アリスちゃん……?」

 私たちは、声を揃えてアリスちゃんの名前を口にした。

 アリスちゃんは、ノア先輩のすぐ目の前にまで近づいて、拳を作るように両手をぎゅっと握りしめて、肩を強ばらせていた。

「あ……あげません……! あなたにユウカは、あげられません……!」

 日頃、透き通っていて落ち着いた声をしているはずのアリスちゃんの緊張感のある声が、部室に響いて私たちは黙り込んだ。

「アリスは……まだ、恋をするという感覚が分かっていません……」

「あら? では、あげられないという気持ちも勘違いかもしれませんよ?」

「それは……はっきりとは分かりません……ですが……ユウカと手を繋いでもう一度隣を歩けないと思うと、アリスはとても寂しいです。アリスはもっとユウカと色んな場所に行きたいです。もっとユウカと過ごしたいです……ですから、あなたにユウカは渡しません……!」

 

「──っ! アリス、それって……」

「アリスちゃん、それってもう……」

「の、ノア先輩……もしかして、アリスちゃんに気付かせるためにわざと……?」

 アリスちゃんは、ユウカに恋をしていた。

 それを恋ではない別の感情として勘違いしているみたいだった。

 それをノア先輩が危機感を煽ることで、アリスちゃんの恋心を自覚させた。

 至近距離のアリスちゃんには見えないように、ノア先輩は私たちに向かってウインクをしながら立てた人差し指を唇に当てていた。

『しーっ……』

 そう言っているような口の動き。

 理知的なノア先輩から、いたずらっ子のような一面が見えた瞬間だった。

「ふぅ……あら、私は『恋のライバル』がいらっしゃったので『張り合いがある』と思って来てみただけなのですが……純真無垢な気持ちには敵いませんね……アリスちゃん? 私はユウカちゃんの所には行きませんよ。代わりにあなたが会いに行ってあげてください。もし行かなければ、明日にでも本当にユウカちゃんを貰っちゃいますからねっ?」

「……っ! はい、ユウカに気持ちを伝えてきます!」

 アリスちゃんは、ノア先輩の横を通りすぎて部室から出ていってしまった。

 ひたむきな愛が実る瞬間を見届けるように、私たちはその後ろ姿を見つめていた。

「皆さん、今日のことは他言無用でお願いしますねっ? 特にユウカちゃんには……それでは~」

 目的が果たせたからなのか、ノア先輩の振り返った後ろ姿は、アリスちゃんに呼び止められる前にはなかった陽気で軽快な雰囲気が漂っていた。

 

「お姉ちゃん……今からでもシナリオ練り直さない?」

「ミドリも? 私も今同じ事を考えてた!」

「こ、恋を自覚した女の子の物語……いいと思う……」

 大変かもしれないけど私たちは作り直すことに決めたのだった。

 一人の友達を祝福するための素敵なシナリオになるように。

 

 * * *  * * *

 

 帰ろうと思ってた。

 セミナーの執務室の照明の代わりになるかのように、沈みつつあった夕焼けが室内をオレンジ色に染めていた。

 この時間、いつもならアリスちゃんが来てくれる時間だった。

「アリスちゃん……」

 キスにも答えてあげたかった。

 能動的なハグにも答えてあげたかった。

 擬似的な関係であることを理由にもっと恋人らしいことをしてあげたかった。

 そう都合よく利用しようと思ってしまうほど、私の下心が彼女を汚してしまわないか嫌で仕方なかった。

 アリスちゃんは素直な子だから、私から距離を置き続ければ、彼女から近付いてくることはないはずなのに。

 椅子から立ち上がって、デスクに広げていた請求書をまとめていた。こうして気を紛らわせるのもいつまで続けていればいいのかしら。

 また溜め息が出そうになったその時、出入り口のドアが勢いよく開けられた。

「──ユウカ!」

「あ、アリスちゃん……!? きゃぁっ──!」

 アリスちゃんは私の胸元に飛び込んできた。

「すみません、ユウカ……アリスは、あれほど付き合ってもらえていたのに、ユウカへの理解が足りていませんでした……」

「理解って……」

「ですが、ノア先輩に言われて気付きました……これではユウカの攻略失敗です……肝心な告白を、アリスはずっと忘れたままでしたから……」

 ずっと欲しかった言葉のはずなのに、私は思わず身構えてしまっていた。

 ノアの用事って、こうしてアリスちゃんに何かして、積極的に突き動かすことだったのね……

 折角、今まで適切な距離を保ってきたつもりだったのに……

「だ……ダメよ、アリスちゃん……私たちの関係は擬似的な物でしょ……だから」

「アリスは……ユウカのことが好きです!」

 決意の揺らぎすら感じないほどの真っ直ぐな眼差しが私に向けられていた。

 そんな綺麗な瞳を目にする度に、擬似的な関係を理由に付け入ったり、自分好みにアリスちゃんを変えていないか不安で仕方なかった。

「わ……私で……本当に私でいいの……?」

「ユウカでなければ、アリスは嫌です……! 好きなんです……ユウカのことが大好きです……」

 アリスちゃんの言葉に胸が熱くなっていた。ずっと欲しかった言葉だから。

「私も……アリスちゃんのこと、好きだった……ずっと好きだった……っ……!」

 言えた。

 そう思った時、今までアリスちゃんに見せないようにしてたのに、胸の内から込み上げるように目元に涙が溜まり、溢れて止まらなかった。

「ふふっ……ユウカ、私たち両思いですね」

「うんっ……」

「……以前、ユウカを抱き止めた時からアリスは感じていました……アリスに鼓動はありませんが、こうして抱き合っていると、胸の中がぽかぽかと温まっているような心地がします……そして、離れるのが惜しくなってしまう気持ちが芽生えてしまいます……」

 アリスちゃんに恋心が芽生えていることが嬉しかった。

 アリスちゃんの中でまだ芽生えたばかりの恋心だから、この気持ちを大切に育んであげたかった。

 両思いになれた私は、変わらずそれを手伝ってあげられるだけで幸せだった。

 アリスちゃんから鼓動が聞こえない分、彼女と密着して、少し圧迫された私の鼓動だけがやけに目立ってはっきりと聞こえてしまっていた。

「ユウカ、ドキドキしていますね」

「あ……当たり前よ……アリスちゃんとこうして抱き合えているんだから……」

「……アリスもきっと、ユウカと同じくらいドキドキしています……聞こえないかもしれませんが、アリスに鼓動があれば、きっとユウカと一緒だとアリスは思います」

「……一緒なのね」

「はい、一緒です……」

 お互いの温もりで体を温め合うようなハグを交わす中、耳を澄ますと聞こえてくるのは、アリスちゃんの呼吸と、耳にうるさく拍を打つ私の鼓動だった……それと、泣きすぎた私の啜り泣くような乱れた呼吸。

 アリスちゃんと同じ感覚を共有出来ているかもって思うと、早く静まってほしくも思えるこの鼓動も悪くなかった。

 アリスちゃんと目が合った。

 お人形みたいに可愛い顔立ち。

 優しく柔らかく頬を綻ばせた彼女が私を見つめて、水晶のような神秘的にも見える水色の瞳が私を見つめていた。

「ユウカ、まだ泣いているのですか……? 」

「だって……アリスちゃんと、両思いになれたから……嬉しくて……」

 アリスちゃんのしっとりとした指先が、私の頬に伝ってた涙を拭ってくれた。

 指先が冷めたく感じるくらい私の顔は火照っていた。

「……アリスも嬉しいです──あっ……」

 そして、涙を拭い終えたアリスちゃんがふと何かに気付いたみたいにハッとしていた。

「もしかして、今がキスをするタイミングなのでしょうか……?」

「……はぁ……ふふっ、もう……アリスちゃん……」

 どこまでも素直でピュアな彼女らしい様子に、呆れるほどの愛しさから溜め息が出てしまった。

 胸が幸福感でいっぱいになって、私はアリスちゃんの顔にかかった前髪を左耳にかけるように避けて、左頬に手を添えた。

「ユウカ……? ん──むっ……ぅ……」

 初めてだった。

 初めてだけど、私は彼女にお手本でも見せるみたいに彼女の唇を塞いだ。

 ふにゅっと沈み込むほど柔らかくて、その中にほんの少し弾力を感じる感触が私の唇に、チュッと音を立てて触れ合った。

 触り心地のいい唇。

 まるでキスするための理想的な感触を求めて作り上げられたような可愛らしくて小さな唇だった。

「ぷはっ……はぁ……」

「……ゆ、ユウカ……?」

 いきなり私からキスをされて、アリスちゃんは動揺するように目を見開いては、ぱちぱちと瞬きをしてた。

「アリスちゃん……こういうのはね、雰囲気で察してするものなのよ? 」

「……っ! また一つ勉強になりました……キスは雰囲気からなのですね……」

「そうよ、だから──んぅっ……!」

 アリスちゃんに両頬を掴まれて、そのままキスされた。

 長い束になった前髪が再び、アリスちゃんの顔を隔てるように元の位置に戻って、私の頬にそれが当たっていた。

「ぷはっ……こうでしょうか……?」

「はぁ……はぁ……い、いきなりしたらびっくりするでしょ……!」

「え……で、ですが、ユウカに雰囲気を察したらと、言われたばかりです……」

「それは、そうだけど……」

「それに、ユウカの表情が、アリスからしてほしそうに見えたのでしたのですが……ダメでしたか……?」

「……──わ」

「ユウカ……?」

「よ……よかったわ……」

「ユウカ……まだキスをしたそうに見えます」

「……アリスちゃんは?」

「はい! アリスは……アリスも、ユウカともう少しだけ、キスをしたいです……」

「アリスちゃん……目、閉じて……」

「……はい……んっ──ちぅ……」

 私はアリスちゃんと両手の指を絡ませ合ってから唇を重ねた。

 指を絡ませて、唇が触れ合った瞬間、アリスちゃんの指先が、可愛らしく私の手のひらに食い込むようにキュッと握ってきていた。

「ユウカ……」

 唇が触れる角度を変えるために、一度口を離すと、アリスちゃんが囁くように呼んでくれた。

 今にも消えてしまいそうな、切なそうな声で。

「アリスちゃん……」

 私も囁くように彼女を呼んだ。

 そして、再び唇同士が触れ合って、私たちは声も発せないまま、恋人繋ぎで握り合った指先に力を入れて、緩めて、手のひらで確かめ合ってお互いを求め続けた。

 全部大人の恋愛のような真似事かもしれない。

 それでも私たちは日が暮れるまで深い口付けを交わしていた。

 まだ酸っぱく思える実りたての気持ちが、ドロッとした甘く溶けてしまうほどの気持ちに熟すまで。


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