流し目でお読みください
思わず身震いする。
あたり一帯は雪で覆われ、毎朝通っているはずの道さえも分からなくなるほどに画一化されてしまった大地を踏みしめる。
踏み抜くたびにさくさくと小気味いい音が奏でられるが、かれこれ三十分は聞き続けている音であるためかもう何の感慨も湧くことはない。
先月ほど前であれば獣たちの生ている足跡が見つかるのだが、もう冬眠したか、あるいは死んだか。
どちらにしても自分には関係のないことではあるが。
辺りに積もった雪を踏みしめ、朝日が差す方角へと歩を進める。
途中、切り株に腰掛け、青く澄んだ大空を見上げる。
なんの意味もない、ただ漠然と行う毎朝の習慣であるが、これを忘れたことは一度としてなかった。
「何を見ている」
木々に囲まれた雪原に、よく透き通った声を耳にする。
「母上」
いつの間にか横に立っていた母と視線が交わる。
どうやら母も、この場所に用があったらしい。
「特に、なにも」
「そうか」
暫しの沈黙が場を支配する。
母はその間、周囲を一瞥するとその後、澄んだ空を見上げる。
「……それは、良いことだ。僻見がない。持たぬということは、私たちとって必ずしも悪いことではない」
朝日に目を細めながら母は言う。
話の髄がまるで見えず、母の視線を辿るが、見えるものは先刻と変わらない空でしかない。
同じ景色であるはずなのに、母と自分の見えているものの乖離の大きさを実感する。
母には何が見えているのか自分にはまるで分らない。
それを見透かしたかのように話が続く。
「焦らずとも、いずれ分かる」
自信の込められた言葉が自分の脳にすとんと落ちる。
それだけのことで、理解していないことを納得してしまう。
「さて、……行くぞ」
母はそれだけ言って木々の間を通り進んで行く。
自分も、置いて行かれぬよう母の後を追う。
木々を避け進んだ先、開けた場所に出た。
木漏れ日が雪で反射し、神々しくも鬱陶しい。
「見ろ」
母が顔を少し上げ遠くを見る。
自分もそれに倣い母の視線の先を辿ると、光に照らされた大岳がそびえたっていた。
「ここからも、見えたのですか」
眩しいながらも目を離せない。
それは普段このような光景を見ないからの物珍しさか、あの山の放つ妖しい美しさからだろうか。
逆に、母は何かを思案したあと視線を下げ、少しばかり顔を顰めた。
「……惜しいな。お前が妖術を扱えたのならば霊峰はお前に任せていた」
霊峰、大昔に強大な妖術を扱い、三十あまりの小国を従えた高名な女王が眠るとされている場所。
その女王の力が地脈を通り、今もあらゆる国々に大きな影響を与えている。
母の言う妖術もその一つだ。
「…そもそも自分は、血を受け継いでおりません」
「関係ない。いつまでも下らない仕来たりに従う義理はない」
母の信念の籠った瞳が自分を射抜く。
母の過去を知っている身からすると軽々しく目を背けることなどできない。
目が合っているだけなのに口の中が乾いていく。
何か言葉を捻りださなければならないのに口が動かない。
あと一、二年もしたら家を出て都へ行き、路銀を稼いで生活しようと思っていた。
刀の振り方は母に教わっていたし、盗賊程度の火の粉なら振り払える自負があった。
漠然とそんなことを考えていた、母と違う、何も成そうとしない曖昧な自分を、否が応でも意識する。
「……まだ時期ではない。今の話は忘れろ」
自分に気を遣い、母が話を切り上げる。
申し訳が立たず、何を言えばいいかわからなかった自分は、小さく頷くことしかできない。
母はそれを見たか見ないか、どこかへ歩き始めた。
何歩か歩いた後、振り返り、腰に携えた刀を抜く。
心なしか少し笑みを浮かべているように見える。
「構えろ」
母の突飛な行動に、少したじろぐ。
母は寡黙で言葉が足りない。
急に何かしたと思えば次の瞬間には思いもよらないことをする。
何らかの考えがあって、それを行動に移しているのだろうが、いかんせん母はその心積もりを語らない。
語るまでもないのか、あるいはただめんどうなだけか。
「何を」
「刀を、だ」
みなまで言わせるなと言いたげにこちらを見てくる。
やはり母は言葉が足りない。
なぜ唐突に打ち合いを始めようとするのか、自分にはてんで分らない。
だが、母の中では明確な考えがあり、それに従っているだけなのだろう。
ならば自分はそれに即するのみ。
腰に携えた刀を手に取り、切っ先を母に向ける。
一分の隙でも見せたら一息もしないうちに切られる。
母との打ち合いはそういうものだ。
一挙手一投足に目を向ける。
だがそれだけでは足りない。
呼吸の音、動きの予備動作、刀の僅かな動き。
そのすべてを見逃さない。否、見逃した瞬間に自分の敗北が決する。
今までの打ち合いで、母に勝利したことはたった一度のみ。
その一度も、まぐれに奇跡が重なった上での辛勝。
実力は隔絶している。
木の枝に僅かながら積もっていた雪が落ちる。
瞬間、母が動く。
一足で距離を詰められ、横薙で刀が振るわれる。
動きは美しいほど最小限に、鋭く。
自分は姿勢を低くして対応する。
回避動作の最中に刀を握り直し下段から円を描くように振り上げる。
だがそれを予測していた母が先に動いた。
下段からの攻撃を横に動いて躱した刹那、刀を頭上に上げ、振り下ろす。
刀で受けたくはなかったが、回避する余裕もなかった。
ギリギリまで引き付け、峰にもう片方の手で力を籠め、受ける。
刀同士が擦れる不快な音が響く。
それに対して、母は表情を変えずに口を開く。
「不得手で受けるな」
自分は単純な力比べでも分が悪い。
にもかかわらず、刀の押し合いになるのはひとえに単純な技術の差である。
「躱す余裕もなく」
「ならん。実戦だったらこのまま断ち斬っている」
無表情で言い切る母を見ると、眉唾ではないことを思い知らされる。
だが、それが分かったところで理不尽を押し付けてくる母との打ち合いでは何の意味もなさない。
力を加減している母との刀の押し合いでも、依然劣勢であることには変わりがない。
状況を打開するため、なんとか技を繰り出そうとする。
「っ!」
が、刹那に横腹へ鋭い足蹴を食らう。
そのまま、踏ん張りが効かず数歩先へ吹き飛ばされた。
なんとか受け身を取ることができ、立ち上がり直ぐに刀を向け構えなおす。
母に視線を向けると、すでに刀を鞘にしまいこんでいた。
…まずい。
率直にその言葉で表せる。
母が納刀をするのは妖術を使用する前動作である。
すでに納められた刀から感じる気配が膨れ上がっているのを感じる。
本来、妖術を扱えない自分の勝ち筋は、母が妖術を使う前に勝負をつけること。
故に、仕損じた自分にもう勝ちの目はない。
だが、ただで負けるつもりもない。
刀を再三握り直し、まっすぐ母を見て構える。
常に仏頂面の母の顔が、少し笑みを浮かべた気がした。
「『
抜刀した刃が視界を埋め尽くす程の桜の花弁を飛ばす。
それ自体は本物の桜ではなく、母の妖術によって具現化された斬撃。
無数の斬撃が、花弁を模して相手を切り刻む。
これが、妖術。
刀の技術をいくら磨けども到達できない、生まれながらの才。
見惚れるほど美しい、無数の桜の花弁を注視する。
加減されているこの妖術ですら、いなしきれなかったら勝敗が決する程の威力を持つ。
浅く息を吸い、目前まで迫った花弁を必要最小限の動きで、斬る。
刀を持つ手を動かし続ける。
視界に映るすべての花弁の動きを見切り、把握する。
そしてそのすべてを斬る、斬り続ける。
いくつかの花弁が刀を抜け、薄皮を切り裂いていく。
一度崩れたら、瞬きもしない間にやられる。
一秒もしない間に千を超える花弁が自分を切り裂きに向かってくる。
ただ刀を素早く振るうだけでは処理しきれない。
常に無駄のない最高の動きを。
思考のすべてを刀を振るう事に充てる。
やがて、落とした花弁の数が数千を超えた時、斬撃の嵐がピタリと止んだ。
もう一度刀を構えようと腕を上げようとするが、刀に鉄がぶら下がったかと錯覚する程に重い。
息が上がりきった体をなんとか落ち着かせようと呼吸をするが、息を吸うたびに肺が悲鳴を上げる。
次に来る母の動きに対応するために思考を纏めなくてはならないのに、うまく考えることができない。
妖術を扱ったからといって母の動きが鈍るわけではない。
今しがたと同じ、常人なら見ることも困難な絶技が絶え間なく飛んでくることには変わりがない。
ならばまず呼吸を整え、態勢を立て―――
「ここまでだ」
いつの間にか、刀を鞘に納め、目の前に立っていた母が普段の表情で言い放つ。
打ち合いの中、相手を見失いここまで近づかれても気づかなかったというのは、目に見えて勝敗が決したということである。
一言二言なにか言いたい気分だが、息も絶え絶えなこの疲労感ではかろうじて掠れた返事をすることしかできなかった。
「帰るぞ」
余力を絞り出したような返事が聞こえたか、母はにべも無く、此方に背を向けて歩き出す。
自分も、呼吸を落ち着かせながら刀を鞘にしまい、ゆっくりと歩き出し母の背を追う。
いつの間にか日は頂点まで登り、カンカン照りで積もった雪と霊峰を照らしていた。
「ずいぶん、成長した」
木を避けながら雪を踏みしめ、妹の待つ家に歩を進めていると、前を歩く母が唐突に口を開いた。
「刀を振り始めて、もう五年です。母の指南も受けています。このくらいは」
「違う。お前の心持ちの話だ。私がお前を拾った頃とは比べ物にならん」
「……汚点です」
「若造が何を言う」
まだ十数年の短い人生の中の、思い出したくない記憶を母につつかれる。
このことは自分の中で上手く消化できていたと思っていたが、ただ時が経ち、記憶が風化しただけだったようだ。
そのことに気づくと、この話をなんとか変えるため、ふと気になったことを母に尋ねた。
「…ところで、妹の稽古はどうですか。もう十三になります。それに、桜小路の血を継いでいる」
「悪くない。妖術も十分扱えている」
「それは良かった」
妹が褒められているのを聞いて、悪い気はしない。
最近はあまり褒めてやれなかったからか、昔、頭を撫でて褒めてやると少し顔を赤らめて照れる妹の姿を思い出す。
歩いていると、雪の上に落ちた枝を踏み折り、ポキッと小気味良い音が鳴った。
前を見ると、辺りが木に囲まれた、いかにもというような一軒家の前に、話中の人物が立っていた。
「兄上、母上、おかえりなさい」
「ああ、ユア、ただいま」
静けさと美しさを内包したような雰囲気に、透き通るような声を持つ、自慢の妹、ユアである。
最近根を詰めすぎていて心配していたがそんなことを一切感じさせないような出で立ちで自分たちを迎えてくれた。
「…兄上、その傷は?」
ユアの心配はわずかに切れ、血が滲んだ自分の頬だった。
この程度の傷は、母との稽古があればしょっちゅうだ。
だがユアは言ってしまえばその程度の傷すらも目ざとく見つけてくる。
この間は服の下にできていたかすり傷までも指摘してきた。
「…危ないから。刀は。この辺りは山賊もでないし。稽古する意味、ある?」
少し目を伏せて語りかけてくる。
自分はこの手の悲しんだ表情を見せられると弱い。
だがそれに意をも返さないのが自分の母だ。
「意味はある。刀が振れなければ人は守れん。振るえれば守れる」
無表情に淡々と言う。
この声の低さは、おそらく怒っている。
母は刀に半生をささげたような人だ。
そんな母に、今の妹の言葉は母の逆鱗に触れるようなものだったのかもしれない。
「ただのかすり傷だ。意味を問い直すほどのものではないぞ」
自分も感じたこと率直に言い表す。
「……ごめん」
悪く言えば流されやすい、よく言えば柔軟な妹は、反旗を翻すことはなく、ただ一言そう言う。
だが心の奥底では納得していないのは、家族である自分以外も分かることであろうが。
「朝食、あるから。食べよ」
そう言っていつも通りの笑顔を見せてくる。
自分の意見よりも、母の気持ちを汲んで話を強引にでも変える。
妹は人を立てるのが上手い。
嫁に入るのだとしたら、兄としては旦那のことを警戒しないといけないと、身が引き締まる思いである。
暖かな家の中に三人で入る。
そこには多少の不満はあれど、確かな幸せがあると、自分は思っている。
故に、あの悲惨な出来事から、家族が歪んでしまうのは仕方がないことだったのだろう
最後駆け足になっちゃった。。。
多分、次話は難しいです。
人物像と世界観設定見直して別作品としてリベンジします。