カヨは、ポーチの中からリボルバー拳銃を取り出した。護身用にとジェニスから贈られたもので、木製グリップには『J&K』というイニシャルも彫られている。弾は6発。撃ち方は、ジェニスから教わっていた。だが実際に、自分の身を守るために使うのは、今回が初めてだった。
口には、ジェニスの指示どおりにスカーフを巻いてマスクの代わりにした。
あとは、部屋を出るだけ。
カヨはゆっくりとドアノブを回し、廊下の様子を
行くしかない。カヨは廊下に出た。
廊下の中央まで来たところで、どこからか悲鳴が聞こえ、カヨは足を止めた。
それは、エレベーターから聞こえたようだった。エレベーターは3階で停止していたが、やがて上に向かって移動を始めた。カヨはすぐに上昇ボタンを押して到着を待った。
だが、もしもあの怪物が乗っていたらどうしよう……カヨは、エレベーターから5メートルほど離れて、ドアに銃口を向けた。「銃は両手で持つと安定するわよ」というジェニスの教えが脳裏によぎり、左手を添えて両手で構え直した。
「さぁ、どっち……アタリか、ハズレか……」
エレベーターが、停まった。そしてドアが開き、中から出て来たのは……顔がブクブクと膨れた中年女性だった。カヨは目を見開いて彼女を凝視した。
「た、助け、て……」
彼女は両手を伸ばしながら近づいて来た。その指も手も、腫瘍のように膨れだしていた。
「来ないで……来ないでっ!」
カヨは、人間だった彼女の右足に向けて引鉄を引いた。彼女は倒れたが、まだ息はあり、しかも体の異変はまだ続いていた。着ていた服が割けるほど皮膚が盛り上がり、やがて頭部がひときわ大きく膨れだした。カヨは堪らず、エレベーターとは反対方面にある非常階段に向かって走った。扉を閉める直前、彼女の様子を見た。それはもう人間ではなく、キノコのような姿をした怪物だった。その怪物は立ち上がり、右足を少し引きずりながらカヨを追いかけようとしていた。カヨはすぐに扉を閉め、ブーツの靴底を響かせながら、屋上へと駆け上がった。
府から避難の呼びかけがなされて、ひとまず大阪城公園に逃げた一家がいた。役所からは「大阪市郊外もしくは他県」への非難が指示されていたが、その一家の父親は「とりあえず近場で広い所」と勝手な解釈をして、大阪城公園に入ったのだった。
「……父ちゃん」
7歳の息子が服の袖を引っ張るので、短気な父親は少し苛立ったが、息子が指差す公園の茂みに居たものを見て、言葉を失った。
それは自動車ほどの大きさがある、巨大な
だがもう、そんなことは関係なかった。巨大グモは一家の存在に気づき、近づいて来たのだ。
「く、来るんじゃねぇ!」
父親はその辺に落ちていた
「い、いやぁーっ‼」
母親は息子の手を引いて、一目散に城跡から逃げ出した。息子は、眼前で起きたことの衝撃の強さから、茫然自失となっていた。
淀川の河川敷では、そこで粗末な小屋を建てて住みついていた浮浪者が川に放尿していた。彼は70過ぎの男で、上の前歯が一本しかなかった。なので地元の子供たちからは「一本じじい」という名で知られていた。これでも彼は帝国時代には爵位を持つ高級官僚だったが、戦後の公職追放の憂き目に遭い、さらに戦争犯罪容疑で実刑判決を受け、10年服役した。その間に家族は離散した。釈放後の彼に居場所はなく、日雇い労働などで食いつないでいたが、今は流れ流れて淀川に居を構える身となっていた。しかも無断で。
彼は河川敷から、巨大な蛾のような生物を目撃していた。万博が巨大生物に襲われたということは何となく知っていたが、あの空を飛ぶ生物がその犯人なのかと、彼はぼんやりと感じただけだった。彼には別に万博も怪獣もどうでもよかった。その日その日を生きるのだけで精一杯だったのだ。
キレの悪い放尿を終えた彼は、
非常階段を上がりきって屋上に出たカヨは、息を切らしていた。
屋上には、誰もいなかった。カヨは、手に握るリボルバーを見て、初めて人を撃った先ほどの光景を思い出した。
「違う、アレはもう人じゃない……人じゃないのよ」
自分にそう言い聞かせながら、よろよろとカヨは歩いた。
その時、上空からボロボロボロという機械音が聞こえ、カヨはハッとした。東側から、ヘリが近づいてる。
「カヨー!」
その機上から拡声器で呼びかけてきたのは、地球上でもっとも愛するパートナーだった。
「ジェニー!」
カヨは笑顔で大きく手を振ったが、拡声器越しにジェニスは叫んだ。
「後ろ! 後ろにいるわ!」
その言葉で振り向いたカヨは、非常階段のドアから何体ものキノコ人間たちが現れているのを目撃した。その歩みは遅いが、確実にカヨを狙っていたのは確かだった。カヨは怪物たちから離れたが、屋上の敷地は有限で、すぐに追い詰められてしまう。
カヨは再び銃を向けて、怪物の頭部を撃ち抜いた。すると怪物は、倒れた。脳をやられたらダメなのか、カヨはそう直感して他の怪物たちにも同じように銃弾を浴びせて倒した。だがリボルバーの弾は、わずか6発。すぐに空撃ちになり、弾切れになってしまった拳銃を怪物目がけて投げつけた。カヨは屋上ギリギリの所まで追い詰められていた。あんな怪物になってしまうのがいいか、それとも飛び降りて死ぬのがいいか、一瞬でもそんなことを考えてしまった。
「カヨーっ!」
それは拡声器からの声ではなく、ロープから宙吊りになって近づくジェニスの声だった。
「ジェニー!」
「掴まって!」
怪物たちがあと3メートルと近づいていたところへ、ジェニスがカヨをしっかりと抱き締めて、身柄を確保した。
「放さないで、絶対放さないで!」
「放すもんですか! もう、怖かった……」
カヨは涙を流しながら、力強くジェニスにしがみついていた。ロープがゆっくりと上げられて、二人は無事にヘリの中へ収容された。
「はっ⁉ そんな……」
臨時対策本部の通信係が受けた報告内容は、信じたくないものだった。
「何ですか? また何か起きたんですかっ」
「よ、淀川の河川敷から、巨大なカマキリが出現したとの報告が……」
またしても奇怪な現象の連続に、小澤は溜息をついた。あの巨大な飛翔生物だけでも厄介なのに、キノコのような見た目のヒト型生物、それに加えて巨大カマキリ……これはもう新手のテロとしか言いようがなかった。
「ん? ……おい、何やアレ」
窓外に目を向けていた原田が見つけたのは、府庁の目の前にある大阪城の天守閣。
そこに、何かが壁や屋根をよじ登っているのが見えた。それは、クモだった。これもまた、成人男性よりも巨大な姿をしていた。しかも一匹ではない、二匹三匹……複数いた。
蛾、カマキリ、クモ……次々と連続する巨大な虫たち。小澤の苦悩はさらに深まった。
「現在、巨大カマキリは飛翔しながら南下中とのことです」
「……臨時対策本部を、伊丹駐屯地に移します。ここはもう戦場ですっ!」
小澤は腹の底から声を出して、一同に命令した。兵庫県伊丹市にある伊丹駐屯地には、中部方面隊の総監部がある。そこで体勢を立て直すことに小澤は決めた。陸自幹部はすぐ伊丹駐屯地と連絡を取り、輸送ヘリの要請を行った。
「佐藤さん、府民に発令している避難勧告を避難命令に引き上げます。民間人の犠牲を極力少なくするためです、いいですね?」
佐藤は異議を唱えることなく、すぐに部下にも伝えて命令を発令させた。もうこうなっては、大阪府という自治体そのものの存続にも関わってきたことを、佐藤は理解していた。
「こりゃえらいこっちゃ。民族大移動ならぬ大阪府民大移動やな」
「言ってる場合ですか。私たちも避難するんですよ所長」
「真矢ちゃん、私怖い……これからどうなるの?」
「とにかく、大阪を出るのよ。今はそれしか出来ないわ」
雅美は不安気な顔をしながらも、真矢の言葉に頷いて見せた。
「輸送ヘリが到着次第、あなた方を安全な所までお運びします。ご心配なく」
話を聞いていた小澤が声をかけて、真矢と視線を合わせた。
「今後も協力してくださいますか? 例の少女たちも気がかりですので……」
「もちろんです総理。私で出来ることがあれば、何でもさせてください」
小澤は微笑して頷き、四人から離れて職務に戻った。
「かっこいいなぁ……やっぱ小澤さんみたいな人っていいよな」
「そんなに好きならアタックしてみたら? 若いボーイフレンドなんて歓迎されるかもよ?」
真矢がふざけて言うと、中條は苦笑して首を振った。
その間にも、カマキリたちは淀川から南へ移動して、人々を捕食していた。それは空腹を満たすためというよりも、栄養摂取が目的のようだった。その表れに、カマキリたちの体は人間を食べる度に成長し、最大のものでは7メートルを超えるものも現れた。それはもうただの〝大きなカマキリ〟の範疇を越えて、1955年に制定された巨大生物対策法の規定に沿って〝巨大生物〟に該当するものだった。
クモたちもまた移動を始めていた。数匹の個体は城東区や東成区に侵攻し、カマキリたちと同様に逃げる人々を襲っては捕食した。そして、体をさらに大きくさせた。
大阪城に残った個体は、大阪府警から派遣された警官隊が射殺を試みたが、クモは俊敏に動いて銃弾をかわし、逆に警官隊が襲われて壊滅状態に陥った。
かつて帝国陸軍第四師団本部として建設され、戦後は大阪市警視庁、そして市立博物館と運命をコロコロと変えた大阪城公園内にある建物にも、クモは侵入した。行政の指示を受けて避難準備をしていた職員たちは全員が犠牲となり、クモは屋上から糸を吐いて建物を白く覆った。その体長は8メートルを超え、さらなる獲物を求めて中央区市街地へと移動を始めた。
中央区の地下鉄・谷町六丁目駅から徒歩圏内にある病院に入院していた福田は、右足の神経が断裂する重傷を負っていて、ベッドから身動きが取れなかった。会社からは例の写真を大絶賛され、入院費用はもちろん、一人部屋の特等病室を用意され、手厚い待遇を受けていた。デスクからは「社長賞は決まったも同然だ。また明日も見舞いに来るからな」と激励を受けたが、その姿はまだ見えない。
廊下が何やら騒々しいことに福田は気づいていた。ナースコールで看護婦を呼び、何事かと訊くと「避難命令が出たんです。準備が出来次第、福田さんも移送しますから」とだけ告げて、看護婦は慌ただしく去って行った。
一体何がどうなってるのか、福田には分からなかった。だがおそらく、あの万博を襲った怪物の影響であることは感じ取っていた。
刹那、廊下から悲鳴が聞こえてきた。しかも一人や二人ではない、複数人の悲鳴だ。
「何だ、いったい何が起きてるんだ……」
右足をギプスで固定された福田は、上半身を起こすことしか出来なかった。何度もナースコールを鳴らしたが、応答はなかった。
ガラスの小窓が付いた病室のドアに、人影が映った。
「おい! 何が起きてるんですか!」
福田はその人影に声をかけたが、返事はない。
どうも妙だった。人影だと思ったその頭部は、人間にしては大きすぎた。福田は、体が震え始めた。
ゆっくりと、ドアノブが回されてドアが開かれた。
そこから現れたのは、全身が茶色と赤紫のマーブルカラーをした、不気味な怪人だった。手足が
福田は絶叫したが、彼にはもうどうすることも出来なかった。足は固定されていて身動きが取れず、しかもその怪人は一体ではなく、二体三体と部屋に入って来た。
「やめろ、やめろーっ!」
福田は半泣き状態で叫んだが、かつて安東健一郎という人名を持っていたその怪人には、もはや人語を理解することも出来ていなかった。
キノコのような怪人は、口から胞子を吐いた。それは福田の口、鼻、耳などから入り込み、やがて福田は咳き込み始めた。そして体に異変が起き始め、手指の変色から始まって腫瘍が膨らみだし、顔にもそれが表れた。
「嫌だ、嫌だ……」
福田の最後の言葉は、それで終わった。
やがて特等病室にもう一体の怪人が誕生し、彼らは部屋を出てさらに仲間を増やすため、他の病室を襲い始めた。
「……まるで、怪獣都市やな」
輸送ヘリの窓外から街を見下ろしながら、原田は呟いた。巨大カマキリ、巨大グモ、そしてキノコ型の怪人……それらが大阪市街地をパニックに陥れていた。真矢も一緒になって下の様子を見て、言葉を失っていた。雅美も見ようとしたが「見ない方がいいわ」と制した。目を凝らすと、人間が無残に捕食されている光景も目につく。それを雅美には見せたくなかったのだ。
輸送ヘリには陸自のUH―1ヘリコプターが護衛についており、機内には重機関銃が装備され、その銃口は常に下に向けられていた。
「小澤総理も、無事に脱出してほしいわ」
輸送ヘリが府庁駐車場に到着してすぐ、小澤は真矢たちを先に乗せて、自分は後の便で行くと告げたのだ。現場最高責任者として、まず民間人の避難を優先させたのは当然のことだった。
空は、茜色に染まりつつあった。
「総理、間もなくヘリが到着します。避難の準備を」
空自幹部に言われて、小澤は頷いて荷物をまとめ始めた。
「大阪は不滅ですよ、総理。あんな怪物どもの楽園にはさせませんよ」
となりで荷物をまとめていた佐藤府知事の言葉に、小澤は頼もしさを感じた。佐藤という男は第一次内閣の時も、女性であるという理由だけで嘲るような答弁をした野党議員に対し、小澤よりも猛烈果敢な弁舌で完全論破した弁士だった。本当は第二次内閣でも続投してほしかったが、持病が悪化して議員を辞職し、故郷の大阪に帰った。そして6年前に回復して、与党府連の要請を受ける形で大阪府知事選に出馬し、現職を破って当選を果たした男だった。共に大阪万博招致と開発に尽力してきた戦友のような存在でもあった。
「伊丹に着いたら、反撃作戦をすぐに実行させます。大阪復興は政府も全力で支援しますから」
「一匹残らず殺虫剤を
二人は目を見合わせて笑った。そして鞄をそれぞれ持ち、残りの職員たちと共に陸自が用意したV―107輸送ヘリに乗り込んだ。二基のローターを全力で回転させ、機体は宙に浮いた。空はもう夕闇に包まれつつあった。
大阪市街地は、すでに都市機能を完全に失っていた。あちこちから火の手も上がり、未だに逃げ惑う人々の姿もあった。小澤は思わずその人々に目を向けたが、それは巨大なクモが吐いた網のような糸にかかり、捕獲されてしまった。捕食されるのは、目に見えていた。小澤は、助けることが出来なかった無念さが胸に刺さり、静かに黙祷した。
突然、機体が大きく振動したのを感じた。
「どうしたんですか!」
小澤が状況をパイロットに訊ねたが、「わかりません、エンジンに異常はないのですが……」と答えるだけだった。
すると、機体の下から何か物音がするのを小澤たちは聞いた。何かがいる。何かが、ヘリの腹にしがみついている。そう直感した。
刹那、操縦席に巨大な鎌が突き刺さり、パイロットの頭部が串刺しにされた。操縦者を失った輸送ヘリは、左右に揺れながら不安定な動きをしだした。巨大カマキリが機体から離れて間もなく、ヘリは大阪湾河口付近の淀川に墜落した。
その頃、英国の首都ロンドン郊外にあるグリニッジ天文台では、アマチュア天文マニアからの奇妙な問い合わせが相次いでいた。
「月の表面に何かがある」
クレーターの影ではないのかと天文台職員は返したが、いや違う、絶対に違うと報告者たちは一様に言った。
「念のため、確認してみようか」
天文台長のラーフ・ネルソン博士は、天体望遠鏡の向きを月に合わせさせた。
「……え?」
最初にレンズの先を確認した研究員は、疑問符を口にした。
「どうした、何が見える」
「それが……とにかく見てください」
驚きを隠せない研究員の様子に不審を感じたネルソンは、望遠鏡のレンズを覗いた。
そこには、月の表面に何かがあるのが分かった。その形状は、羽を広げたバタフライ……見間違いかと思ったネルソンは目をこすってからもういちど見たが、それはやはり蝶だった。しかも月の大きさと比較して、かなり巨大であることが見て取れた。
「……何だ、あれは」
ネルソンはまだ、日本の大阪という土地から出現した巨大な蛾のことを知らなかった。彼がそのことを知るのは、翌日の朝刊とBBCのテレビニュースを見てからだった。