戦後日本は二度、滅亡の危機を迎えた。
一度目は敗戦間もない1947年、
二度目は復興が進んだ1954年、僅かな肉片から復活を遂げ、人類初の水爆実験の影響を受けてさらに成長したゴジラによって。
この二度のゴジラによる災厄を乗り越えた日本だったが、その後も不安定な情勢は続いた。ゴジラの死骸を食べるなどして突然変異を起こした生物の報告が、立て続けに起こった。伊豆半島では翼長15メートルにもなる黒い怪鳥が出現し、家畜や人を襲った。この生物はオソニチンを使用した弾薬を使い、陸上自衛隊の狙撃犯が見事仕留めた。
だが、怪鳥は一羽だけではなかった。その後も同種と見られる鳥類が日本全国で目撃され、警察や自衛隊がその駆除に追われた。
1955年、沖縄に飛来した怪鳥は米軍によってすぐに駆除されたが、その死骸を野良犬が食べてしまった。その野良犬はやがて、体に異変が起こった。体長は20メートル近くまで巨大化し、耳の付け根に黒い
ゴジラは死んでも、その細胞が依然として日本国民を苦しめていた。
これらの事態を受けて政府は翌1956年、国立の研究機関である
ゴジラの細胞には、オソニチンという毒性物質が非常に効果があることが証明されていた。この物質は1954年に発見されるまで未知のものであり、わずか0.01ミリグラム接種するだけで死に至る猛毒だった。この物質は当初、呉爾羅伝説が語り継がれてきた大戸島にしか存在しないオニカブトという植物からのみ抽出されたが、東大化学教授の
このオソニチンは、ゴジラ特有の細胞組織を破壊する効能も持ち合わせ、さらにゴジラ細胞が放つ放射能を抑制する力も有していた。それはゴジラ細胞に影響を受けた生物にも同一の効果が発揮されており、巨大生物現出の際には、警察や自衛隊は必ずオソニチンが搭載された銃弾や砲弾を使うようになった。
1957年、博多市内にある動物園で飼われていたアルマジロがゴジラ細胞に影響を受けた昆虫を食べてしまい、体長30メートル以上の巨体に変化した。球体状に変化する特徴的な表皮は黒い
巨大生物への対処法として、オソニチン搭載の武器を使うという手段は定番となったが、事前に巨大生物の出現を察知できないか、もしくは阻止そのものが出来ないかどうか、政府は巨大生物研究所に対しその研究への注力を指示した。
まず始めたのは、動物園や家畜、家庭で飼われているペットなどに対し定期的にガイガーカウンターを用いて放射能を検出することを義務付けた。これによって巨大化の疑いがある生物は事前に駆除された。だがペットの場合、飼い主が駆除を拒否して訴訟沙汰にも発展したが、司法は「国家国民の安全保護のためやむをえない」と判断し、愛犬愛猫愛鳥などは丁重に供養される形で安楽死させられた。
また日本全国で等間隔に、ガイガーカウンターを設置する策も実施された。街中であれば電柱に取り付け、森林や山脈では装置を設置した。森林などの自然地帯に至っては林野庁との共同事業となり、その管理は林野庁に委託される形となった。
また1958年からは、オソニチンを用いた薬を使うという手段も用いられ始めた。これは元々、東大医学部第三分院に入院していた患者に対し使われていたもので、この薬を用いることで、ゴジラ災害によって体に生じた黒い痣を消滅させることに成功していたのだ。その実績もあり、薬の開発責任者であった
1959年には、一年間の巨大生物発生件数は2件に留まり、翌年からはゼロとなった。大成果だった。
その、1960年。
昭和は、35年で幕を閉じた。
そして皇太子が践祚し、新たに『
巨大生物研究所の尽力もあって、巨大生物がもたらす災害から脱した日本は、急速な経済発展を遂げ始めた。それは
1965年からは、イザナギ景気といわれた好景気が日本に到来し、68年には同じ敗戦国でありながら経済発展を遂げていた西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ経済大国の地位を築いた。56年の経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」の文言のごとく、もう日本は戦後の暗闇から脱し、新たなステージに上がった。そのステージの公開披露宴ともいうべき国際行事が、65年にはすでに決定していた。
1970年、終戦から25年というその節目の年に、日本で初の万国博覧会開催が決定した。
その開催場所になったのは、中世から商業の都として栄えた日本の台所――
敗戦、ゴジラ、そしてゴジラ細胞によって巨大化した生物への恐怖と混乱からも脱した日本は、日本初の万博開催という一大快挙に向けて、開催の準備を推し進めていた。もう恐れるものがない日本国民にとって、それは平和の祭典であり、自分たちがいかに発展してきたかを他国に見せつける絶好の機会でもあった。
開催が、翌年に迫っていた。