病院から退院して行く宛のない彼女を保護し、僕と彼女は一緒に住むことになった。
「わあ、大きい…。ここがあなたのお家なの?」
悠々とそびえ立つ日本邸宅を目に、アイリは感動した様子でその建物を見上げていた。
僕が購入することになったこの武家屋敷は、僕が懇意にしている知り合いである藤村家の藤村画雷氏から買い取ったものだ。藤村氏はこの近くに住んでいる地元の有力者であり、この周辺にある屋敷や土地は、全て藤村氏が貸しているものなのだそうだ。
築年数は30年以上で、広さは約1600平米。母屋は平屋数件ほどの大きさで、近くには道場、風情ある広い日本庭園に、離れには土倉が一棟建っている。
長い間使われることのなかったこの屋敷は、僕が買うまでほぼ廃屋同然だった。しかしほぼ手付かずの状態で廃屋の割には綺麗な方だったので、傷んでいるところをリフォームし、住むことにしたのだ。
僕は長年の暗殺者家業で稼いだ貯金が莫大だったこともあり、屋敷を買うのにそれほど苦労はしなかった。もちろんこの屋敷は一括で購入している。アイリにローンを残すわけにはいかないからね。
藤村氏も長い間持て余しており取り壊そうか悩んでいたそうなので、買い手である僕が見つかって心底嬉しそうにしていた。
これだけ立派な屋敷を譲ってくれたんだ。これからの藤村氏との付き合いは懇意にしなければならない。
「ねえキリツグ、早く中に入りましょう?」
アイリはまるで子どものような表情を浮かべで興奮し、これから新たに住む我が家に目を輝かせている。
記憶喪失になっているとはいえ、彼女は元々子どもの肉体だったんだ。このように年 相応の反応をする方が、むしろ自然と言うべきだろう。
僕の知る『かつてのアイリ』も、長年の間アインツベルン城で過ごしていたこともあり箱入り娘も同然だった。
アイリも、この子と同じように目を輝かせ、表情をコロコロと転がしていたのだろうか。
「ああ、そうだね。さあアイリ、中に入ろう。すごいのはこれだけじゃない。中も見て回ろうか。」
僕は玄関の引き戸を開けて、これからアイリと住むことになる我が家に一歩を踏み出した。
「わあ…いい匂い…!これはなんの香り…?」
「これは木の香りだね、リフォームの時に大工に頼んで1番良くて丈夫な木を使わせてもらったんだ。」
扉を開けると、年季を感じる重厚な木の香りが僕らの鼻腔を通り抜けた。
これは松の匂いだろうか。重厚な雰囲気を感じさせるその香りは、リラクゼーション効果もあるのだそうだ。その香りを嗅いで、アイリは新しいものに目を輝かせるような顔つきで、その香りを嗅ぐのに夢中になっていた。
風情ある松の香りは、これから始まる僕とアイリとの新しい生活を予感させた。
「庭の方にも行こうか。中庭はもっと広いんだよ。」
中庭の方に向かうと、風情を感じる景色が顔を出した。
縁側から望むその景色は、風情のある日本邸宅の庭そのものだ。広さは学校のサッカーグラウンドくらいある。これくらいの広さの庭があれば、子どもが出来たらたくさん遊ぶことが出来るだろう。遠くには松の木が植えられており、離れには立派な土倉が一棟建っている。
「ふふ、手入れが少し大変そうね。」
確かに、この家の広さのことを考えると、庭の手入れどころか、掃除すら苦労しそうだ。
藤村氏に、腕利きの庭師を紹介してもらうとしよう。
それからしばらくの間、僕とアイリはゆっくりと時間をかけて新居を見て回った。
全ての部屋を満足するまで見るのが終わったのは、その日の夕方の日が暮れた頃だった。
一通り新居を見て回った僕とアイリは、夕食の準備をしていた。
「こんなモノしか用意できなかったけど、ごめんねアイリ。」
僕は長年の間、魔術師専門の暗殺者として働いていたこともあり、ほとんどの食事を外食かジャンクフードで済ませていた。料理もほとんど作ったことがなく、厨房に立ったことがあるのもナタリアと暮らしていた頃に作った、ほんの数回程度だった。
「いいのよ。あなたが作ってくれたモノなら。何でも。」
彼女なりに僕を気を遣ってくれているのだろうか。
拙い僕の料理を見て、彼女は僕にお世辞を言ってくれている。その日僕が作ったのは、近所のスーパーで買ってきた野菜と肉で買ってきた出来合いの野菜炒めだった。
しかしとても野菜炒めと呼べるような代物ではなく、ところどころが焦げてしまっていたり、火を通しすぎて野菜が萎びていたりしていたのだ。視覚的に見ても、とても食欲を誘うようなものではない。
それをアイリは、美味しそうと言ってくれた。彼女の気遣いが、少し胸に刺さった。そんな僕の様子を見かねたのか。落ち込む僕の顔を覗き込むように見て、アイリは僕に『ある提案』を投げかけた。
「ねえ、キリツグ。…私も、これから私も料理を作ってみてもいいかしら。」
「…キミが、料理をかい?」
アイリが僕にした提案、それは「これからは自分が料理を作る」という話だった。
「これから一緒に住むのよ?これくらいのことでもやらなくちゃ、あなたに申し訳がないもの。」
彼女の言い分としては、「これから世話になるのだから世話になってばかりじゃあいられない。なので家事関係は、自分に任せてほしい」とのことだった。
僕を傷つけないように言ってくれているのだろう。先ほどはあのように言ってくれてはいたが、アイリ的には内心思うところがあったのだろうか。
「けれどいいのかい?キミはまだ病み上がりだし、アイリの負担になるようなら申し訳ないよ。」
アイリはまだ退院してから少ししか経っていない。そんな病み上がりの彼女に料理をさせるなんていかがなものだろうか。それに記憶を失う前の『アイリ』が、料理をしていたとも限らない。アイリの身体に移植した魂の元々の持ち主は、おそらく子どもだったはずだ。そんな子に、何もかも任せるだなんて、僕の立場がないではないか。そう思っていた矢先のことだった。
アイリは冷蔵庫の方に行くと、先ほどスーパーで買った食材を物色し始めた。
「…挽肉が、あるわね。よし、明日の朝は『アレ』を作っちゃいましょう。楽しみにしててね、キリツグ!」
アイリが冷蔵庫の中を見ていると、二段目の棚に入れておいた合挽き肉に気がついた。
アイリはどうやら、何かを作ろうと企んでいるらしい。何を作るつもりなのだろうか。
彼女に聞こうと思ったけど、どうやらまだ内緒にしたいらしい。明日までのお楽しみとのことだった。
その翌日のことだった。ボクが朝起きてリビングに向かっていると、台所の方から何やら美味しそうな香りが漂ってきた。
「あら、おはようキリツグ。」
肉が焼ける芳醇な香り。
嗅いだだけで食欲をそそるというものだ。
僕はあまり食に頓着がある方じゃないけれど、この匂いは僕が好んで食べるあのジャンクフードの香りに似ている。アイリが何を作っているか確かめるため、僕はアイリのいる台所の方へ向かって行った。
僕は彼女の背中越しに覗き込むように、彼女が調理しているフライパンの中身を確認した。
「これは…、ハンバーグかい?」
彼女が作ってくれたその料理は、ハンバーグだった。
見た目はまだ少し不恰好だが、おおよそハンバーグの形になっている。フライパンの上では肉汁が音を立たせ、パチパチと跳ねている。隣にはまだ焼いていないハンバーグのタネが入っているボウルが置いてあり、タマネギを切ったあとなのだろうか。アイリの顔には涙の跡が一筋走っていた。「朝からハンバーグか、重いな…」と心の中では思いながらも、せっかくアイリが作ってくれたんだ。食べないと彼女の厚意に失礼というものだろう。
「キリツグが何なら喜んでくれるか考えていたら、これが思い浮かんだのよ。」
そういえば僕はアインツベルン城にいた時も、ハンバーガーを好んで食べていたんだったか。僕がハンバーガーやハンバーグが好きなことをこのアイリは知らないはずなのに、どうしてだろうか。アイリはまるでそのことを知っていたかのように、ハンバーグを作ってくれた。
アイリの肉体に魂を移植したことにより、移植した魂に人格が侵蝕されるようなことがあるのだろうか。
「もう少ししたら焼き上がるから、全部焼けたら二人で一緒に食べましょう?キリツグは居間の方にいてテレビでも見ていてほしいな。」
彼女のお言葉に甘え、僕は居間の方でテレビのニュースを見ることにした。
テレビのニュースでは、この間起きた冬木大火災の特集が組まれていた。
…この災害は、他でもない僕自身がきっかけだ。
僕がセイバーに聖杯の破壊を命じ、汚染された聖杯から溢れ出した泥が街を飲み込み、数多の死傷者を出した。
アイリがこうなってしまった原因は、間違いなく僕にある。もしかしたらアイリは、僕ではなくて家族と生きられたかもしれない。この身体で生きることにならなかったかもしれない。既に起き、過ぎ去ってしまったこととはいえ、ついそんなことが頭をよぎってしまうのだ。
テレビを見ながら10分くらい待っていると、台所の方からアイリが出来た料理を持ってこちらにやってきた。
アイリが料理の乗ったお皿を机に並べると、彼女は僕の目の前に出来たてのバンバーグの乗ったお皿を置いた。
「さあどうぞ召し上がれ。焼きたてだから熱いうちに食べてほしいかな。」
アイリは機嫌良さそうに、僕の顔を覗き込み味の感想を求めている。このままいつまでも待たせるのは彼女に失礼かと思い、僕は彼女に従って出来たばかりのハンバーグを箸でほぐし、一つを口の中へ入れた。
「どう?美味しい?」
口の中で旨みがほとばしる。
一口齧ると、口の中に旨みが一気に広がった。アイリが作ってくれたハンバーグは、初めてにしては上出来なくらいよく出来ていたのだ。
「うん、美味い。美味しいよ、アイリ。ありがとう。」
初めてでこれだけ上手に出来ているのならば、彼女に厨房を任せるのはどうだろうか。
確かにこれから生活することも考えると、僕一人で家事を負担するのはあまり現実的ではない。それにせっかくの彼女の厚意を無下にするというのも、これから同じ屋根の下で暮らすものとしてどうだろうかとは思う。
僕が彼女のことを心の底から信頼していたとしても
「僕が彼女のことを信頼していない」と彼女に受け取られかねない。信頼関係とは、些細なことで崩れ去ってしまうものだ。そんなことになるくらいなら、余計な軋轢を生むくらいならば。彼女が良いのならば任せてみるのも一つの手だろう。
「…キミが良ければ、だけど。もしよかったら、これからも僕に料理を作ってくれないだろうか。」
そうして僕は、彼女に料理当番を任せることになった。
◇
それはアイリと過ごし初めて、数ヶ月の月日が経ったある日のことだった。
「ねえ見てキリツグ、今日はパンを焼いたのよ。」
その日、アイリは僕のためにパンを焼いてくれた。うちにはパン窯がないので、アイリが作ってくれたそのパンはオーブンで作った手作りのパンだった。
普段僕がジャンクフードしか食べないせいだろうか。そういうところまで、アイリは僕のことをよく見てくれているらしい。
「美味しく出来たと思うから、あなたに食べてほしいなって思ったのよ。」
アイリは嬉しそうに、僕に向かって微笑んだ。僕も彼女に倣って、微笑み返す。
彼女の肉体に「かつてのアイリの記憶」が残っておりそれが影響しているのか。
それとも本人の人格形成によるものなのか。彼女の性格は、僕のよく知るあの『アイリ』と似たような性格になっていた。柔和でお淑やかで献身的なその態度、その雰囲気は僕の記憶の中に残る『アイリ』そのものになっていた。
「ねえアイリ、何か思い出したことはあったかい?」
僕はそれとなく、これまでの生活で彼女が何か思い出したことはないかを問いただしてみた。
僕と暮らし始めて数ヶ月が経ったのだ。少しくらいなら、何か思い出したこともあるというものだろう。
「…いいえ、まったく。」
しかし彼女は全く心あたりがないようで、キョトンとした表情で首を横に振った。
あれからしばらく経ったものの、彼女は自分の『本来の』記憶も、名前も、元々の姿でさえなかなか思い出せないでいる。
アイリの姿で暮らしているせいだろうか。そのせいで肝心の記憶を思い出すトリガーが、なかなか引き出せないでいるのかもしれない。
まるで彼女から『それら』に関する情報だけが、すっぽりと抜け落ちているみたいだ。
このまま今のアイリの人格でいる期間が長くなってしまうと、きっと取り返しのつかないことになってしまう。
万が一記憶を思い出したとしても、『アイリ』としてのアイデンティティが強くなってしまい、今の彼女の人格に『かつての記憶』は統合されてしまう。そうなってしまっては今度こそ本当に、彼女の人格は元に戻れなくなってしまうだろう。
僕が助けたあの子にだって元々、元の人格の家族のお父さんやお母さんがいたはずだ。
もしかしたら今もどこかで生きていて、必死で子どものことを探しているかもしれない。
彼女を『アイリ』のような性格になるよう仕向けておきながら、僕はそのことに対してひどく罪悪感を抱いていた。
しかし無理やり過去の人格を思い出させようとしてしまっては、それこそ悪手だ。
もしかしたら、過去の記憶と現在の彼女の記憶がぶつかり合って、今の彼女の人格が崩壊してしまうかもしれない。彼女にとっては今の自分こそが、他ならぬ自分自身なのだから。
早く記憶を思い出させないと取り返しのつかないことになってしまうのではないかということと、今すぐ彼女の記憶を呼び起こしては精神崩壊してしまうかもしれないということ。
その二つのジレンマの間で、僕は板挟みになってしまっていた。
「わたし嬉しいわ。キリツグがここまでしてわたしに入れ込んでくれるなんて。」
しかしアイリは、そんな僕の葛藤をよそに、僕に対して感謝の念を抱いていた。
「ねえキリツグ。どうしてあなたはここまでして私のことに入れ込んでくれるの?なんだかまるで、もしかして記憶を失う前の私が、あなたにとって『特別な人』…だったとか?」
アイリのその推理は半分外れていて、半分正解だ。確かに『かつてのアイリ』は、僕にとって大切な人だった。
しかしこのアイリとは、あの大火災の日に出会ったのが初めてだった。ほかでない僕自身が彼女の魂をアイリの肉体へと移植し救助した当事者なのだから、これは断言できる。しかし僕は『今のアイリ』のことを大切に思っていない訳ではない。今のアイリも僕にとって、かけがえのない大切な家族の一人だ。
「…ううん。君が僕と出会ったのは、あの時のあの場所が始めてだよ。」
「いいえ、なんというか。あなたと話していると、まるでこれまでもずっと一緒に暮らしてきたかのような、そんな安心感を覚えるのよ。」
「アイリこそ、ほかに何か思い出したことはあったかい?少しのきっかけでもいい、何かあったら教えて欲しいんだ。」
僕がそういうと、アイリは少し考え込んでから、思い出したかのように『あること』を話し始めた。
「記憶は思い出さないけれど…、最近おかしな夢ばかり見るのよね。」
「おかしな…夢?」
彼女の口から飛び出したその単語は、僕が思いもしなかった、寝ているときに見る『夢』の話だった。
何か元々の彼女の過去に関する手がかりが掴めるかもしれない。
僕はおそるおそる、その夢のことについて彼女について聞いてみた。
「ねえアイリ。聞かせてほしいんだ。キミの見たという夢の内容を。もしかしたら、記憶喪失になる前のキミを思い出すための何かの手がかりがあるかもしれない。」
僕はやや食い入るような姿勢で、隣に座っているアイリに顔を寄せた。僕の突然の接近に、アイリは少し驚いた様子で目をぱちぱちと見開いていた。
「あれは確か、一週間くらい前のことだったと思う。夢の中で、私は家族に囲まれて暮らしてたのよ。家族構成は、お父さんとお母さん。そして私だったと思う。」
彼女の人生に関わることだ。
興味深いアイリの話を、一言一句聞き漏らさないように僕は真剣な眼差しを向け聞いていた。
アイリはホムンクルスとして鋳造されたので、父と母もいないはずである。であればこの記憶は彼女が彼女になる前の、『アイリ』になる前の記憶だろう。
どうやらその夢の中で、アイリは家族3人で暮らしていたらしい。僕があの大火災の日助けた子の身体は小柄で、子どもくらいの大きさだった。それは僕がアイリを助けた時の情報と、状況はピタリと一致する。彼女が見たというその夢が、何か手がかりになるといいけれど。
しかし彼女は、自分が見たというその夢に『ある疑問』を抱いているようだった。
「けれどねキリツグ、それがね、おかしいのよ。」
しかし夢の内容を話し始めた彼女の表情は、どこか自分の記憶を訝しむような表情だった。
それはまるで、彼女自身が「その夢を見るのは道理としておかしい」という確信を持っているような、そんな表情に見えた。
「おかしい…、どこがおかしかったのか僕に教えてくれるかい?アイリ。」
彼女が何に違和感を覚えているのか、情報共有をしなければならない。僕はアイリが緊張しないように優しく、『どこに違和感を覚えたのか』について聞いてみることにした。
しかしアイリの口から語られたその『可能性』は、僕が無意識のうちに蓋をして気付いていないフリをしていた一つの可能性だった。
「笑わないで聞いてね、キリツグ。…夢の中で私は、『男の子』だったのよ。」
アイリが口にした夢の内容。それはアイリが、夢の中で男の子だったという内容だった。
「お父さんとお母さんはキリツグと同じくらいの年齢に見えたかしら。キリツグは老け顔だけど、あれは確か、30代くらいだったと思う。」
夢の中でアイリは、父親と母親と一緒にいたらしい。
その両親の見た目は、僕とほぼ同年代くらいに見えたそうだ。確かに僕は老け顔で、実年齢よりやや年上に見えるのだけれど、実際はまだ20代の後半だ、そこだけは訂正しておきたい。
「お母さんは赤毛で、お父さんは黒髪の短髪だったかな…。住んでいる家も、この家みたいな武家屋敷じゃあなくて、深山町にあるような、ごく一般的な二階建てのお家だったの。」
二階建ての現代風の屋敷。このあたりでは珍しくもない、ごく一般的な家庭のものだ。彼女が言っているように、深山町であれば特段珍しくもない、ごくありふれたものだ。
60年代頃の高度経済成長期に、この街が冬木市として再開発された際に多くの企業、工場が誘致されたこともあって、あのあたりは住宅が多く立ち並んでいる。空港が県東部の円形の半島に誘致される計画もあったらしいが、あれがなければこの街は今ほど発展していなかっただろう。まあそれもあり、向こうは未だ『陸の孤島』と呼ばれているらしいけれど。
両親の容姿についても、特別目を張るようなものはない。赤毛の女性や黒髪の男性など、街を歩けば何人かとすれ違うくらいありふれた特徴だろう。
「夢の中に出てきた男の子の私は色んなことをしていたわ。お父さんとお母さんと遊園地に行ってみたり、水族館行って大きなイルカを見てみたり、友達とプールに行ってみたりもしていたかしら。夏休みには刀匠の鍛治師体験にも行ったりしたと思う。」
彼女の口から語られた夢の内容は、夢にしてはえらく具体的な内容だった。夢の中で起きた出来事はどれも、一般家庭の男の子を連想させる日常的な体験談だ。
それはまるで、かつて体験したことを事細かに説明しているような、そんな印象を受けた。
「けれど可笑しいわよね?私は女なのに、小さな男の子になってる夢を見るなんて。」
そう言えばそうだ。あの時の僕は助けるのに夢中で、その子の性別がどちらかなんて、考えてもいなかった。救助した時のアイリの体は全身が黒焦げだったから、性別の違いなんて確認しようもなかった。顔の皮膚も性別を判断する器官も、大火災による炎の熱傷で焼け落ちてしまっていたからだ。ましてや子どもの身体だ。大人と違って体格の違いや乳房の有無などで判別しようがない。
薄々感じていた些細な違和感は、僕の中で『ある核心』に変わっていた。それは僕が無意識のうちに頭の中から除外していた、一つの『可能性』だった。
僕があの時助けた、全身が黒焦げになっていた『あの子』は、男の子だったのではないかと。
確かにこれまで、おかしいと思うところはあった。トイレで無意識のうちに立ったまま用を足してしまいトイレが大惨事になったりや、二人で近くの公園に散歩に出かけた時遠くでサッカーで遊ぶ少年達を羨ましそうに見たりなど、女の子にしては違和感がある失敗や行動などが度々見られていた。しかしそれを、僕は『記憶を失ったことによるアイデンティティの混乱』だろうと思い、じきに治るものと思い特に気にしないでいた。記憶喪失により患者が普段やらないことをしてみたり、普段興味を持たないことに興味を持ったりなどの症例を、何かの本で読んだことがある。
しかしそれらの症例とは逆に、彼女は料理や家事などが得意であり、それらの特徴は女の子によく見られるものだ。男の子であれくらいの年齢で料理や家事が得意な子は、なかなか珍しいことだろう。人格が『元々のアイリ』に近くなっているのも、臓器移植で移植者の趣味趣向が被移植者に移った事例を聞いたことがある。ましてやアイリの場合は置換魔術により魂を移植されている。いわば全身移植をしているような状況だ。肉体に起因する人格面への影響は、臓器移植と比べると計り知れないだろう。かつてのアイリの人格が、今のアイリの人格に多大な影響を与えていることもあるかもしれない。
だから僕は思い過ごしだと信じ、敢えて意識しないようにしていたんだ。
しかしそれこそが、僕の本当の思い過ごしだった。
「…ねえ、アイリ。もしかしてキミは…。」
そこまで口にして、僕は言葉を濁した。
もしも今『その可能性』を伝えてしまっては、彼女に負担をかけてしまうのではないか?
ただでさえまだ安定しているとは言えない今の彼女のアイデンティティが更にあやふやになり、人格が崩壊してしまうのではないか?そんな想像が、頭をよぎった。
「……?どうしたの?キリツグ。」
…いいや、そんなものは『建前』だ。僕はアイリと、もう二度と別れたくなかったんだ。
それを伝えることによって、『今のアイリ』が『アイリ』でなくなってしまう。それは僕にとって、たまらなく怖いことのように思えてしまっていた。もしも彼女が、本当に男の子だった場合どうなる?僕は彼女に、これまで通りに接することが出来るだろうか。彼女は僕に、これまで通り接してくれるのだろうか?
全てを思い出した彼女は、僕のことを幻滅してしまうかもしれない。僕の元から離れ、この家とは違うどこか別の場所へ出て行ってしまうことも考えられるだろう。それだけは、なんとしても避けたかった。
「ごめんアイリ、なんでもないんだ。さっきのことは気にしなくていい。」
いずれ記憶が元に戻り、彼女が『元の自分を取り戻す』ことがあるかもしれない。
不安なのは僕だけじゃない、アイリだって同じはずだ。
「もし記憶を思い出したら、自分が自分でなくなるのではないか?」
そんな恐怖と、彼女は常に戦っているはずだ。
ならばアイリが自分を取り戻すまでの間、僕は束の間の今の時間を享受しよう。
僕は僕自身の『エゴ』で、彼女のこれから自分を取り戻すかもしれない可能性にフタをした。
僕はさきほどの話題から目をそらすかのように、彼女が焼いてくれたパンを勢いよく口へと入れた。