私は床に転がっていた。
虚弱な私がそういう状態になることは珍しくはないが、私の足が
でも全然びっくりしていないのはなぜなんだろうね。
いつかはこうなるだろうと思っていたからだろうか。
はい、そうですね。
天井を見上げながら、私は犯人と交渉を試みた。
「露伴くん。会話で和解できないか試してみてもいいかい。私を読まないでくれないか」
「あなたほど面白そうな人間を読まないという選択肢は、この岸辺露伴にはないッ!」
「だよね」
少し前、スタンドの使用を私に直談判し、断られ、一旦は引き下がったと思ったのだが、なんだって急に心変わりしたのだろう。
そも、妙齢の女が男の家にひとりで遊びに行くのはよくなかったのかもしれない。
危機感がなくてすまない。
しかし稀代の漫画家に生原稿を見せてくれると言われたら誰でもホイホイ着いてきてしまうと思う。
岸辺露伴は腕を組んだまま鼻を鳴らした。
「音石明は捕まったんだろう」
「ああ、うん」
「彼は僕のところにもやって来てね。いろいろと唆していったよ。だから今まで大人しくしていてやったんだ」
岸辺露伴ってやっぱり「だから」の使い方が変だ。
唆されたから、大人しくする――どうして?
答えは次の通りだった。
「いいか? 僕はアイツに言われなくとも、そのうちアンタを本にして読んでやるつもりだった! だがタイミングが悪かった――言われてアンタを本にしたら、まるで僕が音石明の手先みたいになるじゃあないか!」
何のことはない。彼が極度のひねくれもので、あまのじゃくだというだけの話であった。
ママに片付けなさいと言われて、今やろうと思っていたのにと癇癪を起こすガキか?
それを悪行に適用しないでくれ。本人は悪行とすら思っていないだろうな。
色々と考えていた説得の言葉をすべて投げ捨てた。これはもうどうにもならん。
やると決めればやる男だろう。
岸辺露伴が漫画に向ける情熱は、私の口先で揺らぐような生半可な信念ではない。
「約束しよう。面白くないと思うページがあっても、僕はアンタに失望したりしないぜ」
「だから読んでもいい、とは言わないよ?」
それから、私には彼と同じ約束はできない。
岸辺露伴に「つっまんないなあ!」とか言われて、今まで通りに彼との友情を続けられるかというと不明だ。
私の人生は康一くんのように主人公染みてはいないだろう。
岸辺露伴は、本になった私に触れ、独り言のようにつぶやいた。
「紙が辞書のように薄く、ページ数が山ほどあるぞ……」
無慈悲にも、ぺらり、と最初のページがめくられた。
先ほどまで何をしていたかの記憶がない。
ただピッピッという何かの電子音のような音や、
何者かの人の声が、
ひどく歪んで聞こえる。
目を開こうとしても、
開いているのかどうかさえあやふやで、
何も見えない。
私はこの感覚に覚えがある。生まれたのだ。
生を実感すると同時、死を強く感じていた。
息ができない。血が巡らない。心臓が止まろうとしている。
ああ死ぬのか、生まれたばかりなのに、もう死ぬのか。
痛みと恐怖、それから孤独を強く感じた。
どこか他人事のように、可哀想だなと思った。
生まれたばかりで死ぬのは、あまりに可哀想だ。
そうして、私のスタンドが発動する。
ここが分娩室だということを理解するよりもずっと早く、私は己のスタンドの使い方を理解した。
人の体を乗っ取るこのスタンドは、奪った体を支配下に置き、正確に操ってみせる。
私はこれを、この死にかけた赤ん坊の体に使った。
すなわち、動いていない臓器を無理矢理に動かし、勝手に肺を膨らませて呼吸をした。そしてその場で医療の限りが尽くされて、この赤ん坊は命を取り留めた。
それから私は一生、思い悩むことになるのだろうな、と予感した。
つまり、私はこの体に寄生した、一人歩きのスタンドなんじゃあないかと。
生まれた時から、あるいは生まれてから治療の間で脳死した赤ん坊の体を、我が物顔で乗っ取っているだけの化け物が、この私の正体なのではないか。
私にはこの体が生まれてくる以前の、
この体に私がいないとき、意思をもって動くことはない。
それを都合よく、私がこの赤ん坊自身なのだということと結び付けていいのだろうか。
そう信じたいからという欲が混じった推測ではないだろうか。
私が赤子の皮を被った化け物だというのなら、いつか断罪される日が来るのだろう。
それはこの赤子の家族にだろうか、それとも繧ク繝ァ繧ク繝ァにだろうか
――ページをめくろうとする露伴の腕が動かない。
「少々おいたが過ぎたようですね」
露伴の腕には、見えないほどに細い糸のようなものが絡んでいた。
もちろんそれは私の能力ではない。
私はできる限り呑気に聞こえるよう、こう言った。
「私にとっては頭の痛いことに、意識のない私の体にも本として文字が記載されているようだが――そのおかげで君は私を読むのに夢中になり、私の体に
本にされたままであることに変わりはない。
床に転がったまま、私は助太刀に来てくれた花京院へと微笑んだ。
「いやあ良かったよ、たまたま花京院が近くにいて」
「露伴の家に行くとあなたから聞いた時点で嫌な予感はしていましたよ」
ホウレンソウがあまりにもできていないことを以前責められたので、私は反省した。
いくら友人とはいえ、何をしでかすかわからないスタンド使いの元に単身向かうのは、おそらく報告が必要なことであろうという考えである。
「素子さん、続きを読ませてくれ! まだ君が生まれてから1時間も経っていないぞ、一体どれだけを覚えているんだ!?」
「おい……余計なことを言わないでくれ、もう本当に頭が痛くなるなあ君は……」
興奮冷めやらぬ岸辺露伴に対し私が苦い顔をする横で、花京院は肩をすくめた。
「聞かなかったことにしましょう」
「ありがとう花京院、君は本当に紳士だ。ちょっとは見習ってほしいぜ、露伴くん」
ちなみに露伴くんは、花京院が口で説得しても私へのスタンド発動をやめなかったので、
……
「うわ。……大丈夫かい?」
「ああ、問題ないね」
数日後。
久々に会った露伴くんの顔面が、記憶にあるよりもさらにボッコボコになっていた。
だから私は、思わず開口一番にドン引きした声を出してしまった。
十中八九花京院だ。
だが露伴くんは痛めつけられなきゃ覚えないタイプではありそうなので、仕方のないことかもしれない。
痛めつけられても覚えない場合もありそうなので、ここは花京院の教育を信じることにしよう。
頼んだコーヒーに口をつけた岸辺露伴は、唇あたりの傷に染みたのか、顔をしかめた。
カップを置くと、ぶっきらぼうに言う。
「ちょっとあそこにいる人を乗っ取ってみてくれないか」
「君は変わらないな」
私を探ろうとしたことで痛い目をみたというのに、その探求心に変わりはないらしい。
「何か考えがあってのことだと信じるか。いいよ」
大して考えず、私は能力を使用した。
私の意識は私の体を離れ、男性客の元へと向かう。
岸辺露伴が指さしたのは、カフェにひとりでいた客である。
席を立ち、岸辺露伴と、意識を失いテーブルに突っ伏す私の元へ歩いた。
私が声をかける前に、岸辺露伴はスタンド能力を発動した。
ヘブンズドアーされた私は足から力が抜け、倒れる。
覚えのある感覚が私を襲った。
心が無防備になって、ぺらりとむき出しにされる感覚だ。
店員の「お客様!?」という慌てた声が聞こえるが、彼の耳には届いていないのかもしれない。
ぺらりぺらりと、夢中で男性客を読んでいる。
ため息をついた私は、聞こえているかわからないが、岸辺露伴に言った。
「それほどボロボロにされても、反省しなかったのかい?」
「僕が約束させられたのは、あなたを許可なく本にしないことだ。これはアンタの体じゃないだろう」
「……詭弁では?」
私は男性客の体から抜け出し、己の体に戻った。
岸辺露伴は少しの間、男性客のページに目を通していたが、すぐに本を閉じた。
倒れていた男性客はすぐに目を覚まし、駆け寄ってきた店員に対し不思議そうな顔をしている。
「フン、これで証明できた。あなたの心配していることは起こっていない」
再び私の前へ座った岸辺露伴は、そう言った。
「この男を読んだが、この男の人生しか書かれていなかった」
「……ふむ、そうなんだ?」
「素子さん、もしあなたの体があなたのものじゃないなら、スタンドで体から離れた瞬間、東方素子のページは白紙になるはずだ。スタンドだけを読んだならば、ページには能力情報しかない。しかし違った。僕が読んだのは“東方素子の人生”だ」
私は息を飲んだ。
「僕はあなたの人生を読んだ。つまりその体は、最初からあなたのものだ」
岸辺露伴にページを読まれたのは、数日前のことであった。
「東方素子が自分の体ではないと考える根拠になっている、己の体には適用できないはずの、身体を詳細に操る能力の使用で赤子を蘇生させたことについては、死体になりかけていたから他人の体として認識できたとかそんな程度だろう」
それからこうして会うまでの間、正直、私は怯えていたのだ。
露伴くんに何を言われるか。
彼は私をどう思うだろうか。
人の体を乗っ取る怪物だと、軽蔑されやしないか、不安だった。
私が読まれたくなかったのは、前世の記憶でもあるし、この世界に生まれた時のことでもあった。
律儀に最初の1ページから読み始めた露伴くんは、見事に私が読まれたくない部分を読んでみせたわけだ。
他人の肉体を我が物顔で乗っ取っているだけの化け物が、この私の正体なのではないか。
姉を姉と、父を父と呼ぶ資格が、この私にはないのではないか。
死産だったという悲しみを彼らへ知らせないためを免罪符にし、私は許されぬ罪を犯しているのではないか。
「……露伴くん。ありがとう」
露伴くんの言葉は確かに、長年の不安を消し去ってくれた。
私は、東方素子なのだ。
生まれてから初めて、自信を持ってそう言える。
――そんな日が来るなど、思ってもいなかった。
ふ、と笑った私の声は、気が抜けていた。
「でも人の体を勝手に本にするのはほどほどにしておきなさい」
「わかったよ! 十分反省したさ!」
「ほんとかな」
「人の体を勝手に乗っ取っているあなたに言われても反論しないくらいにはね!」
「そうだね、説教は私もされる側さ」
康一くんの奇跡的ダイエットが発覚するのは、このあとしばらくしてのことである。