『唯一無二、一帖の盾をかけた熱き戦い! 最長距離G1天皇賞春!』
レース場に、実況が響き渡る。
天気は快晴、バ場は良。大歓声に迎えられながら、選手たちがゲートへと入っていく。
その歓声の中、トレーナーは神妙な面持ちでゲートへ視線を向けていた。
『三番人気は七番、マーベラスサンデー』
実況が注目選手の名を読み上げる。三番人気はマーベラスサンデー。最近になって突如成績を伸ばし始めた最近注目の選手。注意すべき相手の一人だ。
『二番人気、二番、マヤノトップガン』
次に名を呼ばれたのはマヤノだった。いつになく神妙な面持ちをしているように見える。
『四番サクラローレル、一番人気です』
そして、最後に名を呼ばれたのはサクラローレル。ここに至るまで度々対決しているが、いずれも結果が伴わず、トレーナーとマヤノにとっては苦しい相手である。
「だが、今日は」
今日こそは、勝つ。勝たなくてはならない。サクラローレルにも、マーベラスサンデーにも、今だ自分と、きっとマヤノの心の底にもこびりついている、ナリタブライアンの記憶にも、勝たなくては。
「怖くないのかい」
ふと、耳にヒシアマゾンの声がする。彼の頭の中には、ヒシアマゾンにブライアンのことを頼んだ時に交わした会話があった。
──そういうわけで、ブライアンのこと、頼んだぞ。
──それはいいけど。それよりアンタ、怖くはないのかい?
──何が。
──このレースさ。きっと今回、あの子は最後のレースって考えるよ。いつも通りにするだろけど、間違いない。アンタ、この一戦であの子を引き止められるのかい? もし上手くいかなかったら? そう思うと怖くないのかって。
「……怖いさ」
ぽつりと、呟く。そうして柵から身を乗り出すようにして視線を下に落とすと、そこにはやや緊張した面持ちでゲート入りするマヤノの姿があった。
「でも、それを見せないのが」
最後の一人がゲートに入る。準備が整った。
「あいつの憧れた、〝大人〟のすることでしょ」
瞬間、ゲートが開き、十六人のウマ娘達が一斉に飛び出していく。
『スタートしました!』
天皇賞・春は三二〇〇メートルの長丁場。スタミナ勝負になるが、それだけに一瞬でも判断ミスをすれば急速に勝利が遠のいていく。スタート直後の混戦は最初の関門といったところだろう。
「マヤノは!?」
激しく競り合う集団に対し、トレーナーは目を凝らす。どこにつけた、どこからレースを始める──
いた。集団中央、内ラチ側につけている。
「よし、まずはそれでいい。様子を見るんだ……」
トレーナーの視線の先、マヤノはあくまで冷静だった。天皇賞はただでさえ長いレース。しかも今走っている京都レース場の三二〇〇メートルコースは、スタート直後に長い坂がある。スタートから坂に入るまでの短い間に自分の立ち位置を固めなければならない。もう今更そんなことがわかっていないマヤノではない。そこで今回、マヤノはレースを中団から始めることにしたのだった。
周囲に目を向けると、すでに列は縦に伸び始めている。先頭を走るウマ娘から後方までそれなりに距離がある。坂を抜けた後がまず最初の勝負になりそうだ。
「他の子は……」
サクラローレル。マヤノの隣を走っている。マーベラスサンデーは──その少し後ろで様子を伺っている。奇しくも注目選手が全員中団に固まった形になった。
「二人とも大人しい立ち上がり……どこで仕掛けてくるんだろう」
不意に中団でサクラローレルが小さく呟く。その視線はすぐ隣を走るマヤノに注がれていた。真っすぐ前を見据えて走るマヤノの表情からは思考が読み取れない。
ローレルの脳裏によぎるのは半年前の秋の天皇賞。長く伸びた集団の先頭を走り、ついにそのまま自分から勝利を奪っていったあの姿。今日のマヤノは確実に強敵だ。ここ最近の戦績はふるわないものの、何か、今日は違う。
菊花賞、有馬記念と、ひたすらに先頭を走ったマヤノがどういうわけか中団にいる。元より決まった戦術を持たない選手ではあるが不気味だった。
ちらと背後を見やる。そこにはマーベラスサンデー。不気味といえばこちらもだ。まるで二人がやりあって潰れるのを待っているかのように感じる。
『さぁ集団は一周目第三コーナーへ!』
そのまま何事もなく直線は終わり、一周目の第三コーナーへと突入する。
「……」
スタート直後から最初のコーナー。まだレースは始まったばかりであり、仕掛ける者はいない。
それで問題ないはずなのだが、トレーナーは妙な不安感を拭えず、腕を組みなおして息をついた。
相変わらずマヤノは中団から出ない。先頭を走るウマ娘はマヤノとの対決を想定していたのか、まるで拍子抜けと言わんばかりの表情をしている。
『先頭からもう一度確認してみましょう、先頭を走るのは──』
実況が状況を説明していく。
『注目選手は皆中団に固まった形に。これはどうなのでしょうか』
『それぞれ無難な走りをしていると言ったところでしょうか。レースが動いたときにどうなるか見ものですね』
「レースが動いたとき……そうだよな」
トレーナーが息をつく。
当然だが、このままゴールまで仲良く走り続けるなんてことはない。 このあとのコーナー、次の直線──そこで何もなければいいが、少なくとも最後の数百メートルには必ず何かが起こる。
どのみちマヤノはどこかで先頭へ出ないといけない。仕掛けるのはむしろこちら側だ。
「……」
同様に、コース上を走るマヤノも同じ実況を聞き同じことを考えていた。
中団からレースを始めたことには、当然意味がある。
マヤノの得意とする走り方は先行策だが、他の走り方で勝負ができないわけではない。ここ最近のレースを経て、それをさらに意識するようになっていった。しかし世間でのマヤノのイメージは先行、逃げで勝負する選手。ましてや天皇賞という大一番でマークされるのは必然だった。
そこで目立つ先頭から離れ、他選手の意識をサンデーやローレルに少しでも散らす。可能な限り自由に動けるような状況に身を置き、後半から飛び出して得意のスタミナ勝負に持ち込んでしまう。マヤノにはそれができる変幻自在の脚質がある。それが今回、トレーナーとマヤノが考えた作戦だった。
レースはそのまま、淀みなく進んでいく。中団に固まった注目選手を中心に立ち位置が細かく入れ替わるが、それでもおおよその順位は大きく変わっていないように見える。
一周目第四コーナーを回り、歓声に送り出されるように集団は二周目に突入する。コーナーを曲がり、再び向こう正面を目指す。
ここまで大きな動きはない。マヤノは中団に潜み、仕掛ける時を狙っている。他選手の注目もローレルやサンデーに散っているように見えた。トレーナーとマヤノの作戦は上手くはまったようである。
一つ誤算があったとすれば──
これは、今回は、そんな型破りなことを考えたのは自分達だけではなかったということだ。
「えっ」
不意にトレーナーが呟く。その視線の先、第二コーナーの坂で──
『おっと動いた! サクラローレルがここで仕掛けたぞ!』
突然ローレルが加速した。中団で様子を見ていたように見えていたが、そこから一気に速度を上げ、力強く坂を登り始める。
「嘘だろ!?」
身を乗り出し、叫ぶ。
「いくらなんでも早すぎる! 向こう正面だぞ!?」
ローレルの突然の加速にレース全体の冷静さが失われる。目の前は大きな坂が広がっているというのにも関わらず、まるで彼女の熱気にあてられたようにそれぞれが脚に力を込めた。
「掛かりでもしたかね……あの子らしくない」
その様子を見てヒシアマゾンが呟く。ローレルの加速は一言で言うならば暴走に近かった。ゴールまでまだ距離のある向こう正面での加速、しかもそこは長い上り坂の途中。
狙いが見えない。リスクが高すぎる。ヤケでも起こしたか。
「……って、皆思ってるんだろうな」
レース場が一人の暴走にどよめく中、当の本人は不敵に笑っていた。
誰もがローレルは掛かってしまったと思った。それ故の暴走だと。
違う。
ヤケを起こしたのではない。〝行ってしまった〟のではない。
〝行けるから行った〟のだ。
「さぁ! 行くよ!」
叫び、前へ飛び出す。本来ならレース終盤でしか見られないようなごぼう抜きが展開され、一気にサクラローレルが先頭に代わった。同時に上り坂が終わり、第三コーナーへと差し掛かる。
ちらと後ろを振り返ると、予想通りの顔が映りこんだ。
「やっぱり来たね、マベちゃん!」
「今仕掛けるんだね! 負けないよっ☆!」
マーベラスサンデー。完全に不意打ちに近い加速だったのにも関わらず、サンデーはそれについてきていた。
『サクラローレルが仕掛けた! サクラローレルが仕掛けた! それを追ってマーベラスサンデーも前に出る!』
「マヤノは!?」
しかしトレーナーにとってはそれよりも気になるのはマヤノのことだ。先頭集団にマヤノはいない。ローレルの加速にサンデーが応じたことで集団は加速し、レースは激しい競り合いと化した中で、マヤノはどう立ち回るのか。想定外のことがいきなり起こったせいで当初の目論みは外れた。
目論みが外れることそのものは想定していなかったわけではない。マヤノだってそれはわかっているはず。
「……いた!」
見つけた。今だ中団。集団の中に不気味に身をひそめている。
「どうする……? この場合は……どうすれば……」
既に集団は二周目の第三コーナーに入っている。じきに第四コーナーへと突入し、最後の勝負が始まる。レースが大きく乱れた以上、ここで何かしらの対応をしなければならないのだが、先頭に飛び出した二人にマヤノがついていっているようには見えなかった。
「無理にでも前に出るのが正解……かねぇ」
トレーナーの後方、少し高い位置の観覧席でヒシアマゾンが呟く。それを聞いてナリタブライアンが少し目を細めた。
マヤノの強みはいくつかあるが、この場合生きてくるのは特定の戦術を持たないという点。逃げも打てれば差しで勝負もできる。レースがここまで急速に高速化した以上、
マヤノも前に出れば最終直線までスタミナ勝負に持ち込めるはずだ。当然マヤノも相応の消耗を強いられるが、それでも菊花賞ウマ娘の方に分があるのは間違いない。
「いや」
が、場所が悪い。今マヤノ含む集団が走っているのは第三コーナー。京都レース場はここだけ隆起しており、坂を上った後、すぐに下り坂になる。通称、〝淀の坂〟。ここを勢いに任せて駆け下りてしまえば、爆発的な加速を期待できる。しかし一方で速度は乗るが過剰に乗り過ぎてしまう。つまり、遠心力に引っ張られてコーナーを曲がり切れず、かえって距離と体力のロスを強いられるのだ。
「それがわかっているから……」
ブライアンがローレルとサンデーに目をやると、案の定少し速度を落としている。ここで少しでも脚を休め、最終直線で二度目のスパートをかける腹積もりなのだろう。
「一手遅かった……!」
同様の分析をトレーナーもその時点で終えていた。柵を拳で叩き、苦い顔をする。もしローレルが飛び出した時点でマヤノも追随できていれば。先ほどそう思ったようにスタミナ勝負に持ち込むこともできていたが──
大外へ投げ出されて無謀な勝負を強いられるか。最終直線まで耐えて無理な勝負を強いられるか。マヤノに示された選択肢はこの二つ。どちらにせよあまりにも厳しい状況だった。
では、当のマヤノはそれをどう考えていたか。
「ローレルちゃん……!? もう行くの!?」
数分前。突如としてローレルが前方へ飛び出した時、マヤノは驚愕の表情を浮かべた。その刹那、隣をサンデーが駆け抜けていく。
「うわ!」
虚を突かれたようにそれに煽られてマヤノが体勢を崩す。その瞬間、レースが急に加速した。一瞬の出来事にマヤノは反応が遅れ、その加速に乗り遅れる。
「く……!」
気づけば上り坂。なんとかついていこうと無理に脚を動かすが、準備もなしに急に加速に乗ろうとしたことでマヤノの調子は完全に崩れてしまった。
ついていかなきゃ──!
そうは思うがそれとは裏腹に速度は乗らない。暴力的な速度の中で自分の立ち位置を維持するので精一杯だった。
「やっぱり……もう……!」
脚が重い。
前に進めない。
それでもなおライバル達は先へと進んでいく。
自分だけが、必死に食らいついて──
「もう……駄目なのかな」
俯いてしまう。
視線が下を向く。
脚が──止ま──
「マヤノ!」
瞬間、周囲の音が変わる。音だけじゃない。光も、空気も、全てが変わり──
『さぁ最終直線! 今年最後の大一番を制するのは誰かーっ!』
そこは、中山レース場。そのコース場を、マヤノは走っていた。
「マヤノ! おい!」
もう一度声がする。見ると、隣に誰か走ってくる。あれは──
「ヒシアマさん……?」
「走りな! もう二度と! 誰も向こうへ行かせるな!」
ヒシアマゾンが前を指さす。釣られたマヤノが前を向くと、その先にはブライアンの背中があった。
わけもわからずその背中を追う。しかし、一向にその背が近づいてくることはない。
「う……!」
「馬鹿だね、変なこと考えてんじゃないだろうね」
耳元でヒシアマゾンの声。
「アンタは何のために走ってたんだい」
「何のためって」
「アイツに一泡吹かせるためだけかい? 本当に? 本当にそれだけ?」
「──」
気づけばまた周囲の様子が変わる。瞬きの刹那、中山レース場はトレセン学園のトレーニングコースに変わっていた。
先を走るのはやはりナリタブライアン。いつもの勝負服ではなく、体操服を着ている。
「なに……これ」
あの時だ。
四年前の選抜レース。ナリタブライアンとの、初めての対決。
わけがわからない。天皇賞はどうした。マヤノは混乱しきった頭をなんとか働かせようとするが、どうにも思考に霧がかかったようにはっきりとしない。
でも、目の前の──この背中だけはそのまま行かせてはいけない気がする。
必死に足を動かす。体を前に進ませる。いつも頬を撫でてくる風が、いやに弱弱しい。
──何のために走ってきたかだって? もうわかんないよ、そんなの。
少し前までは、走っていれば楽しかった。トレーナーと一緒に頑張って、色んなことがわかって、そのたびにわからないことが増えて、またわかって、もっと楽しくなって。
そうやってきた。けど今はもう、わからないことの方が多くなってしまった。
「あっ!」
足がもつれた。大きく前のめりに体勢を崩す。視界の先を走るブライアンの背中が、急激に空へ昇っていく。
終わりだ、もう。
「うーん……あの子……」
その刹那。
スタンドを視線が捉えた。誰か、いる。隣には、トレーナーが。
あれは──アタシ?
「いい感じの時にビュッて踏み込んで、あとはバビューン! って行けばなんとかなりそーなんだけど」
スタンドのマヤノが呟く。呟きのはずなのに、コースを走るマヤノにはまるで耳元で叫ばれたかのようにはっきり聞こえた。
「!」
瞬間、マヤノの脚がひとりでに動き、その場に踏みとどまった。
「ビュッて踏み込んで、あとはバビューン……」
姿勢を僅かに落とす。加速の溜めを作る。
スピードを落とさず、それでいて次の一瞬に起こる爆発の為に備える。僅かなズレも許されない、微妙な塩梅の調節を。
「!」
瞬間、身体が前に飛び出す。それまでの脚の重さが嘘のように、飛ぶように走り始めた。
心の、一番奥底から、何かが湧き上がってくる。一歩、一歩と踏み込むたびに、それが強くなっていく。
──そうだった。
初めてブライアンさんと一緒に走った時、その走りを側で見てみた時。心の底から興奮した。
すごかった。
ワクワクした。
楽しかったレースが、もっともぉーっと楽しくなった。
──そっか。ビュッて踏み込んで、あとはバビューン! ──だよね。
忘れてた。
ブライアンさんに勝ちたいって思ったのも、あの人のことわかりたいって思ったのも、
とってもワクワクして、キラキラしてるように見えたから。マヤもそうなりたいって、心の底から思ったから!
そうだよ。
こんなに楽しくて、ワクワクすること、やめるなんて勿体ない!
マヤノが顔を上げる。そこは京都レース場だった。
視界の先には先頭争いを繰り広げる選手たち。そしてその先をひた走る、ローレルとサンデー。
脚に力を込める。さっきやってみせたように、一瞬の溜めを作り出す。
行こう!
『さぁ! レースは第四コーナーを抜けて最終直線へ! 先頭はサクラローレルとマーベラスサンデー! サクラローレルかマーベラスサンデーか! かわした! マーベラスサンデーかわした! 有馬記念とは違うぞ! このまま二人の決着──』
──ずっとここまで走ってきて、いっぱい楽しいこともして。
『いや──』
──でも、気づいたら何もわからなくなっちゃって、辛くなって。
『外から何か──』
──いつか、また止まっちゃう時が来るかもしれないけど、
『一人突っ込んでくるぞ──!』
──それでもやっぱり、キラキラしていたい!
「ばっ……嘘だろアイツ!?」
「はは……! やってくれるじゃないか!」
「……!」
『トップガンだあぁぁ────っ!』
レース場が大歓声に包まれる。最後の直線、サクラローレルとマーベラスサンデーに並びかけてきたのはマヤノだった。
第三コーナーから第四コーナーにかけての急勾配、それをマヤノは一気に駆け下りる方を選んだ。
当然強烈な遠心力に振り回され、大外へ投げ出されることになったが、構わずさらに加速。自身の制御が効かなくなるまでに加速したマヤノは身体を深く倒し、速度に任せてまるで滑るように無理矢理コーナーを曲がってきたのだ。それまでのマヤノには似つかわしくない、脚へのダメージをまるで無視した、地面を抉る豪快かつ乱暴な走り。奇しくもそれは、かつてのナリタブライアンを彷彿とさせた。
「曲がった……曲がったぞ……!」
終わらない。終わるはずがない。
トップガンがこれくらいで終わるわけがない。トレーナーはマヤノの姿を見て、確信した。
──行ける!
「そうだ! 行けっ!」
コースの傍で叫ぶ。その前を三人が凄まじい勢いで抜けていった。
『これは決まった! この三人だ! やっぱり三強の争いだ! 三強の争いだ!』
「やっとここまで来たんだ……! 負けたくない!」
「二人ともほんっとにマーベラス! まだまだいけるでしょ!?」
「翔ぶんだ……翔べ、翔べッ!」
さらに加速する。三強が一着を争っているのは誰の目にも明らかだった。既に集団は後方へと突き放し、三人が新たな先頭集団を形成している。無理な加速をしつつも堅実にスパートへの準備を済ませていたローレル、それを見抜き最適解を出し続けたサンデー、そして今のコーナーで限界まで速度に乗ったマヤノが先頭を争うのは当然のことだった。
「……曲がった、か……」
その姿を見て、小さくブライアンが呟く。
「……お?」
「どうした、アマさん」
「笑ったね?」
「何?」
言われて、ブライアンがヒシアマゾンの顔を見る。その顔は、本人の意思に反して緩んでいた。
「よく見ときなよ、いいもの見れるよ」
「……」
『抜け出した! トップガンが抜け出した!』
実況がそう叫ぶ。既にローレルもサンデーも後方へ突き放しつつある。しかしそれでもマヤノは止まらない。なおも加速し、速度を増していく。
『速い! 速いぞトップガン! このレースはもう決まりかーっ!?』
「まだだ!」
誰かが叫んだ。トレーナーだった。
「見えないのか!?」
続けて叫ぶ。
「見えるだろう!」
会場がどよめく。
最終直線、その先頭をただ走るマヤノの、その隣に。
見えるのだ。
「今! 目の前に!」
地を抉るような、豪快な走りが。
雷鳴のような激しい足音が。
「伝説が走っている!」
記憶に染み付き、消えることのないその姿が。
「うわああああああぁぁあぁあぁあ!?」
マヤノの隣に、ナリタブライアンが走っている。
その場にいる者の眼球に、突如としてナリタブライアンの幻が映りこんだのだ。
風すら粉砕するような、狂暴で剛直な走り。それでいて見る者をその場に釘付けにしてしまう、美しく流麗な切れ味。忘れるはずがない。誰しもが、そこにいるのはナリタブライアンだと判断した。
そして、その幻を目の当たりにしたのは──
「……なんだこれは」
ナリタブライアン本人すら、例外ではなかった。
「見えるかい」
隣でヒシアマゾンが呟く。ブライアンは何も答えないが、代わりに彼女の方へ視線をやった。
「あれが……アンタを追いかけて、必死こいて走ってきた奴らの姿なんだ。あれはあの子と、あの子のトレーナーが、アンタに追いつきたい一心で生み出したようなモンだよ」
「……」
「すごいじゃないか」
再びブライアンが視線を眼下に戻す。
「どうだっ! どうだ見たかっ! ざまぁ見やがれ!」
その先では、トレーナーが涙と鼻水で見るに堪えない顔をしながら叫んでいた。
『トップガンの独走だ! しかしこれは……えぇいよくわからないがナリタブライアンとの再戦だ! いつかのリベンジなるかーっ!』
会場のボルテージは天を突いている。
何が起こっているのか。なぜ見えるのか。誰にもわからない。そんなことはどうでもよかった。
もう一度、この二人の対決が見れるのだ。細かいことなど気にするだけ野暮というもの!
「さぁ! もっぺん決着つけようぜ!」
身を乗り出してトレーナーが叫ぶと、歓声が爆発する。レースの先頭をただ走るマヤノと、隣で走るブライアンの幻。両者はすでに神速の域に達し、二人だけで激しく競り合っている。
「あぁっ!?」
ブライアンが一歩前に出る。
「差せっ!」
しかし次の瞬間にはマヤノが捉える。
またブライアンが前に出る。
マヤノが捉える──、両者の競り合いは永遠に続くかのごとく繰り返し、見る者は興奮の中に手から汗が吹き出すような緊張を覚えた。
「いけ」
ふと、会場の誰かが呟いた。
「いけ」
その隣の誰かが釣られて呟く。
「いけ」
トレーナーが。
「いけ」
ヒシアマゾンが。
「いけ」
ブライアンが。
「いけ」
「いけ」
「いけ」
「いけ」
「いけえええぇぇぇぇええぇぇぇえええぇぇぇぇええぇぇぇっ!」
割れんばかりの大歓声が上った。
「……!」
──桜が舞っている。桜なんてもう咲いていないはずの、京都レース場に。
その中を少女は走っていた。
あの時と同じ、見えないはずの、そこにないはずの桜吹雪が、突然マヤノの視界を満たした。その中を、ひた走っていく。
──これは──あの時と同じ──
──いや、今は違う。
マヤノはしかと足を踏み込み、前を見据える。
そして、
地鳴りのような歓声が、マヤノの背を、
「マヤ──」
翼を、押した。
「テイク、オ────ーフッ!」
強く踏み出す。これまでで一番の力で。万感の思いを込めて。
『抜き去った──────-ッ!』
マヤノがついにブライアンを後方に捉える。今再び翔び上がった少女は、そのままの勢いでゴール板を、己の過去を、
「!」
越えた。
『ゴ──────────ル!』
***
地鳴りのような歓声が上がる。実況はマヤノが一着でゴールしたことを繰り返し叫び、観客はマヤノの名を叫び続けている。
「……」
肩で息をしながら背後を振り返る。先ほどまで後ろを走っていたブライアンの幻はいなくなっていた。
──今のは──あれは──、
「マヤノ!」
歓声の中、はっきりと名を呼ぶ声が聞こえる。振り返ると、トレーナーがいた・
「トレーナーちゃん」
「やったな! すごかったぞ!」
興奮したように言うトレーナーにマヤノは満面の笑みを向け、二人はいつものように元気よくハイタッチをする。
「さ、ウイナーズサークルへ行こう。皆お前のレースを見て盛り上がってる! 歓声に答えてやろうぜ」
うん、とマヤノは首を縦に振る。と、同時に何か思いつたように表情を変えた。
「そうだ……トレーナーちゃん、ちょっとしたいことがあるんだけど」
「うん?」
一方その頃。ターフからは少し離れた位置の観覧席。
「帰るのかい」
ヒシアマゾンが声を発する。その先にはナリタブライアンの背中があった。
「レースは終わったんだ。もういいだろ」
「……」
ぶっきらぼうに言いながら、再びブライアンが歩き出す──
「なぁ」
それを、ヒシアマゾンが静止した。
「戻ってきたらどうだい」
「……」
ブライアンが振り返ると、ヒシアマゾンはこちらに向き合いながらそう言っていた。
「引退を撤回しろと?」
「そうさ。まだ走れるだろう? あの時だって、誰もアンタの引退なんて望んじゃいなかった。今ならきっと、アンタを満足させられる奴らがいる」
「……は。何を言い出すかと思えば。そんな事を言うために私を連れてきたのか」
『ブライアンさんっ!』
突然、レース場に響き渡る大きな声。突然のことに二人は驚いた。
『ブライアンさん、いるんでしょ! マヤのレース、見ててくれたんでしょ!?』
二人が柵から下へ目を落とすと、ウイナーズサークルでマヤノがマイクを握り、立っていた。
『聞いてください! マヤ、この間の有馬記念からずっと考えてたの。どうすればよかったのか、これからどうしていけばいいのか』
「……」
『考えれば考えるだけわからなくなって、全部嫌になって……もう、アタシはきっとここまでなんだって、そう、思ってたの。きっと、ブライアンさんもそうだったんでしょ?』
ブライアンが腕を組みなおす。
『わかんないまま今日走って、途中までとっても不安で……でも、走ってるうちに、答えがわかったの』
マヤノが顔を上げる。その視線の先にブライアンはいないが、構わず言葉を続けた。
『マヤ、やっぱりキラキラしたい! もっともぉーっと、走っていたい!』
指を天に突き上げる。
『だから、もう一度あなたに挑戦したい!』
「!」
『アタシはあのまま終わりたくない、わかんないまま諦めたくなんてない! 今度は本物のブライアンさんと走って、今度こそ勝ちたい!』
「何を言ってるんだあいつは……」
『待ってるから! ここで、このターフの上で! ずっと! 待ってる!』
そう言ってマヤノはマイクを下ろした。ブライアンに届いたかはわからないが、突然の宣戦布告に会場は再び沸いた。
「……言われちまったね」
その喧騒の中、ヒシアマゾンは意地悪げにブライアンに笑いかける。
「どうするんだい? あの子の挑戦」
「……フン、くだらん」
そう言ってブライアンは柵から手を離し、今度こそ立ち去ろうとする。
──が、
「くだらんが」
ふと、口を開いた。
「悪くは、ない」
そう言ってブライアンは去って行く。ヒシアマゾンの見間違いでなければ、わずかにその口元は緩んでいた。
「……」
「……届いたかな」
「届いたさ、きっと」
ウイナーズサークルは熱狂している。マヤノトップガンの過去最高と言っても過言ではない走り。そして引退したナリタブライアンへの再度の宣戦布告。
マヤノトップガンは飛翔した。再び翔び上がったのだ。
一度は上下を失い、底の見えない厚い雲の中へ囚われ、墜ちていくのを待つしかなかった。しかしそれでも操縦桿を手離さず、必死にペダルを踏み込み、エンジンを吹かし続け、必死に空を目指した。
操縦桿に添えられた手は一つだけではない。マヤノの手と、それを離さなかったトレーナーの手。いつか、トレセン学園のあの場所で、何の偶然か出会った二人は長い長い迂回ルートを経て、今再び、光の中へと帰還した。
少女の翼は幾望を抜け、黎明へ。朝日を背に飛び立つその姿に巻き上げられ、京都レース場に散った桜の花が、いつまでも吹き上がっていた。
こんにちは! ラケットコワスターです!
さて、本作ですが今年の頭にウマ娘オンリーイベントにて頒布した合同誌に収録されていた作品になります。
その第二弾、「冬来たりな馬、春遠からじ」がコミックマーケット103にて頒布されます! 今回ぼくはハルウララ編を書かせてもらっています~、当日はぜひ東リ29bサークル「春一番」のブースへお立ち寄りください!
お品書き→ https://x.gd/3rxq1