恋も愛も、自分には無縁だと、そう思っていた。
それは映画や小説、あるいは音楽の中だけの出来事で十分だし、たぶん、きっと……これから先も────
× × ×
陽が傾いて、夜に移り変わった頃だった。
本日の当番として、執務を手伝いに来ていた鬼方カヨコは、仕事が終わるといつものようにスムーズに帰り支度を済ませた。
両耳にイヤホンをつけ、執務室の扉を開いたところで先生の方を振り返り、「またね」と目で伝えて小さく笑って踵を返したカヨコの背中に、彼は声をかけた。
「カヨコ」
呼びかけに反応して、その場で立ち止まってもう一度そちらを振り返ったカヨコは、首を少しだけ傾けて、なんの用かと目だけで問いかける。
「一緒に食べたくて、ケーキ買ってたんだ。どうかな?」
「それ、もうちょっとはやく言ってよ」
「ごめん。無理にとは言わないけど──」
「食べる」
はあ、とひとつため息をこぼして、しかしすぐに口の
それからその隣に腰を下ろすと、膝の上に両肘をつき、両のてのひらに顎をのせて揶揄うような笑みを浮かべた。
「ご飯より先にデザートなんだね、先生は」
「……確かに、それはありえないね」
「お腹、すいたね」
「出前でよければとらせていただくよ」
「ふふ。ありがたく、そうしてもらおうかな」
もちろん、その心のうちを悟られるほど彼女の表情に変化は見られないが、まだ彼と一緒にいられることは、確かに嬉しかった。
言葉にしなければ、仕草に出すこともない。
ただ傍にいられて、ただ傍にいてくれるのなら、それ以上を望むことだってしない。
それが鬼方カヨコという少女にとって、間違いようのないひとつの正解だった。
「ほら、先生も。もう仕事は終わったんでしょ?」
自分が座っているソファの隣の、空いた場所をぽんとてのひらで叩くと、執務机についたまま出前のメニュー表を眺めていた先生に向けてもう一度微笑した。
「こっち来なよ、先生」
「……カヨコのそういうとこ、抗えない魅力があるよ」
「……? なにそれ」
頭の上に疑問符を浮かべたまま困惑しているカヨコを置いて、先生はいくつかのメニュー表を手にしたままカヨコの隣へと腰を下ろした。
なに頼むの、と覗き込んでくるカヨコにも見えるようにメニュー表を傾けると、「なにが食べたい?」と彼は聞き返した。
「先生と同じもの」
「じゃあ、お寿司でも取ろうか」
「お寿司」
珍しく、目を丸くして驚いた様子のカヨコを見て、先生はたまらずふき出した。
「……ふっ、あははっ! 私はアルより稼いでいるからね」
「そうだね。社長だとこうはいかない」
「アルが社長だと、苦労するでしょ」
「うん。本当に大変だよ」
目を合わせて、お互いに同じタイミングで笑みをこぼした。
バカみたいに身の丈にあっていない部屋を借りるし、後先考えないし、変なこだわりがあって、金遣いも荒いし、見栄っ張りだし、流されやすいし、それで────
「それで、どんな状況でも折れない芯が一本通っているから、タチが悪い」
そう語ったカヨコの瞳は、まるで愛おしいものを思い浮かべているような、彼以外の誰にも見せないような優しい色をしていた。
「たしかに」
「ね」
また、どちらからともなく笑い合った。
お世辞にも、陸八魔アルに社長としての能力が備わっているとは言いがたい。
利益もろくに出してはいないし、むしろマイナスに働くことのほうが多いし、一杯のラーメンを4人でわけあったり、家賃の支払いができなくて公園で野宿をしたり。
それでも彼女を慕ってついて行く者たちがいるのは、それを補って余りあるカリスマ性に、どうしようもなく惹かれているからなのだろう。
「アルはすごいね」
「うん」
「嬉しそうだ」
「……仲間が褒められて悪い気はしないよ」
一変して、ぶっきらぼうにそう言ったカヨコの表情は極めて平静を装っているつもりではあったが、しかし頬は少しの熱を感じていた。
陸八魔アルという女は──彼女がことあるごとに口にする『アウトロー』とは程遠くて、間抜けで、ポンコツで、かわいい面がたくさん先行して思い浮かぶのだが、結局それら全てを彼女はたったひとつの行動でひっくり返してしまう。
仲間想いで、頼りになって、引くほどかっこいい姿を時折り見せてくれるから、陸八魔アルのことをよく知っている彼女らは、離れられなくなってしまうのだろう。
「カヨコのことも褒めてあげようか?」
やや照れくさそうに、頬を赤らめたまま目を逸らしていたカヨコに、先生は問いかけた。
それは幼子がいたずらを思いついたときのような、あるいは老人が花を愛でるときのような、得も言われぬ不思議な笑みだった。
「……」
言葉に詰まったのは、そんな名状しがたい彼の表情に、どくんと心臓が大きく脈打ったから。
「……冗談。無反応は傷つくよ」
覗き込むようにばっちりと捕えていたカヨコの瞳から視線を逸らし、先生は肩を落として大袈裟に落ち込んで見せた。
カヨコの心情を読み取れるほど、彼は敏感ではないし、彼女の心を自身が揺らしたのだと自覚できるほど自信過剰でもない。
「褒めて──」
そろそろ出前を取ろうとソファから立ちあがった彼の服の先を人差し指と親指で掴んで、カヨコは俯いたまま小さく言葉を吐き出した。
「……どんなふうに、褒めてくれるの?」
「……そりゃあ、」
そんなカヨコの頭頂部を見下ろして、視線の先にぽんと右手を置くと、くしゃりとその髪を撫でて彼は笑った。
「こんなふうに、だよ」
置いた手の親指で、髪をなぞるように何度も撫でながら、「いつもありがとう」と、褒めているのかどうかは甚だ疑問な言葉を彼女へと伝えた。
「ん……うん。先生は……ずるいね」
「そうかな?」
「ずるいよ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
頭の上に手が置かれている間は、カヨコは一度も顔を上げなかった。
その頬が、暮れた夏空のように染まっていたのか、あるいは真っ白に染められた冬空の底のような色をしていたのかは、彼は知らない。
けれど、それはべつに知らなくてもいいのだと、触れた手の先から伝わってくる彼女の熱を感じ取って、微笑した。
× × ×
「ふぅん、いい曲だね」
頼んだお寿司と、食後のケーキをたいらげて、ソファに肩を並べて座ったカヨコと先生は、目の前のテーブルに、おそろいのマグカップに入った紅茶を並べて、右と左のイヤホンをわけ合いながら曲を聴いていた。
「先生なら気に入ってくれると思ったよ」
「ていうか、クラシックも聴くんだね」
「意外?」
「いいや。ヘビメタもジャズもクラシックもロックも、どれもカヨコらしいよ」
ふっと息を吐くように笑うと、先生はポケットの中から取り出した携帯をカヨコの眼前に差し出して、「私もおすすめしてもいい?」と、もう一度笑った。
「うん、いいよ。先生のおすすめだったら、私も好きになれるから」
「じゃあ──」
──いつのまにか、雪が降り始めていた。
積もるような雪ではないけれど、降っていることにも気づかれないほどの綿埃のような小さな雪だけれど。
自然と肩が触れ合っていることにも気づかないまま、先生が選んだ曲をわけ合ったイヤホンで聴きながら、瞳を伏せた2人のいるシャーレオフィスを包むように、確かに雪が降っていた。
クリスマスにはまだ少し早い、12月の冬空から、小さな雪が、降っていた。
「……いいね、これ」
「でしょ」
テーブルの上に並んだおそろいのマグカップからたちのぼっていた湯気は、もうどこかへと消えていた。
すっかりぬるくなった紅茶が、時間の経過を教えてくれる。
────まだ帰りたくないな。
彼女は壁にかけられた時計に、一度も目を向けなかった。
────もう少しだけ。帰したくないな。
彼は壁にかけられた時計を見て、苦笑した。
「そろそろ、」
片耳につけていたイヤホンを外して、先生はソファから立ち上がると、ぐっと伸びをしてから息を吐いた。
「帰ろうか。送るよ」
「……うん。そうだね」
名残惜しそうに、ほんの数秒だけ彼から差し出されたイヤホンを受け取ることができなかった。
少しの間をおいてから受け取ったイヤホンをポケットの中にしまうと、彼女もようやく立ち上がり、「ありがとう」と微笑した。
「──ねえ」
上着に袖を通し、マフラーを巻いていた先生の後ろ姿に声をかけ、カヨコは小さく息を吐いた。
「好き……。先生……」
どうして、そんな言葉をこぼしてしまったのかは、カヨコにはわからなかった。
卒業して、いつしか会わなくなって、歳をとって死ぬその日まで、口にするつもりなんてなかったのに。
彼の後ろ姿を眺めていると、自然と、言葉があふれ出てしまった。
「……」
一瞬だけ肩をぴくりと震わせて、動揺した先生は、しかしすぐに平静を装った。
「……ライク?」
「ラブ、かな……」
窓の外を彩る雪は、先ほどより少し、遠目からでもわかるほどに降り出していた。
静まり返った執務室に、カタカタと風が窓を揺らす音が響いている。
カチコチと、時計の指針がズレる音も、大きく鳴っていた。
「……私は、」
永遠にも思えるような、一瞬の静寂。
彼の渇いた声が、彼女の脳内まで届く頃には、もうそれ以外の〝音〟を耳は拾わなかった。
「人を好きになったことがない」
「……」
────外と内の温度差で、熱割れのように、窓ガラスに亀裂が入るような、そんな音が鳴ったような気がした。
カヨコは左手で胸のあたりをきゅっと押さえながら、小さく口を開けて、声にもならない吐息をもらした。
「たぶん。きっと……」
振り返った先生は、〝ごめんね〟と、そんなことを言いたげに、苦笑を浮かべていた。
「どうして?」
そう問いかけた理由は、カヨコ自身にもわからなかった。
ただ、彼の言葉に、「これから先も」と続くような気がして、とにかく遮りたかっただけなのかもしれない。
「……知らないんだよ」
彼は、苦笑したまま続けた。
「それがどんなにいいものなのかも、悪いものなのかも。なにも、知らないんだ」
──ただ、それだけ。
そう言って、彼は寂しそうに笑った。
「愛し方が、わからない」
ラブソングや、恋愛小説は嫌いじゃない。
誰かの恋物語は、聞いていて、見ていて楽しい。
心があたたかくなるのを、確かに感じる瞬間はある。
しかし、それが自分に向けられると、どうにもわからなかった。
人に好かれるのは嬉しいし、ありがたい。
けれど、自分の物語はいつも、そこで終わってしまう。
それ以上の感情は、まるで最初から空っぽだったかのように、どこからも出てこない。
彼は、胸に手をあてて、「どこにも見当たらない」と、笑った。
「……いいことばかりじゃないし、悪いことばかりでもないと思う」
「まあ、そうだろうね」
ずっと、寂しそうに苦笑を浮かべるだけの先生を見て、口を結んだカヨコは、しかしすぐに呆れたようにため息を吐くと、「仕方のない人だ」とでも言いたげにふっと笑った。
「けど──」
「……?」
「でもね、誰かを好きになると、楽しいんだ。私は今のところ、いいことしかなかったよ。先生を好きになって、先生を想うだけで、毎日がきらきらして、幸せであふれてる。……似合わない?」
揶揄うように、いたずらに笑って問いかけたカヨコの瞳は、確かに煌めいていた。
「……」
────過去に気持ちを伝えてくれた人たちにも、同じようなことを言った。恋も愛も自分にはわからないと。すると決まって、彼女らは悲しそうな
だから、初めてだった。
こんなふうに、幸せに満ちた表情で気持ちを伝えてもらったのは。
だから、自然と、笑みがこぼれた。
「いいや。それは、とてもロックだ」
「……ふふっ。なにそれ」
可笑しそうに、顔を見合わせて笑った。
雪の色はもうずいぶんと濃くなっていて、夜空と、コンクリートを白くまばらに染めていた。
〝帰ろう〟。そう言ったカヨコが先に執務室を出て、傘を手に取った先生もその後ろ姿を追った。
凍えるほどに寒い冬空の下を、ひとつの傘の中で2人歩いた。
「そういえば」
目の前で赤く変わった信号機を見上げながら、シャーレオフィスを出て初めて先生は口を開いた。
「私のどこを好きになったの?」
「顔」
その問いかけに、カヨコは間髪入れずに答えた。
「ひどいな」
「そう? そんなもんじゃない?」
そんなもんか……と大袈裟に肩を落とした先生を、彼が手にした傘がずいぶんと彼女の方へ傾いているのを、それを支える大きな手を見つめて、カヨコはふっと笑った。
「顔だけ?」
先生の問いかけと同時に、信号は青に変わり、カヨコは先に足を踏み出した。
それを見て先生もすぐに追いつくと、また彼女の方へと傘を傾けた。
右肩は、触れては溶ける雪のせいで濡れていた。
「……」
傘を支えていた先生の左手に、包み込むように自分の右手を重ねたカヨコは、もう一度揶揄うように目を細めて笑った。
「そんなわけ、ないでしょ」