2年後もしくは106年前 作:requesting anonymity
「エクスペクト・パトローナム!」
ダンブルドア少年はまたしても呪文を唱えて杖を振ったが、しかし何も起きない。
本日の全ての授業が終わり大広間での夕食も済んだが就寝しなさいと規則で定められている刻限までは少々の時間が残っているものの、しかしそろそろ談話室ではなく各々の寝室に引っ込んでいなければ監督生や寮監、あるいは一部の口うるさい肖像画などに叱られてしまう時間になってきた夜のホグワーツで、まだグリフィンドールの談話室に居残っている数少ない生徒の1人である11歳のアルバス・ダンブルドア少年は、未だに守護霊呪文の練習を続けていた。
「そんな根を詰めて、それで成功する呪文なのかダンブルドア」
ダンブルドア少年が一心不乱に杖を振って呪文を唱える姿をソファに座ってただ見ているルームメイトのエルファイアスくんは、急いで取り組まなければならないほどに提出期限が迫った宿題も無く、特段やりたい自主学習もなく、今から何か遊ぶような時刻でもなく、ただルームメイトのダンブルドア少年につきあって談話室に残ってくれているのだった。
「最初の1回は成功したんだから、成功するよ――エクスペクト・パトローナム!」
ダンブルドア少年はまたしても呪文を唱えて杖を振ったが、しかし何も起きない。
ゴドリックの谷にあるダンブルドア家の自宅から両面鏡越しにダンブルドア少年を見守ってくれていた8歳のアバーフォースくんも7歳のアリアナちゃんもとっくに就寝してしまったので、ダンブルドア少年は両面鏡を寝室の自分のベッドの傍、私物の収まった大きなトランクケースに収めてしまっており、よってダンブルドア少年を励ます可愛らしい声援は明日の朝まで再開されない。
「いつもならお前とっくに寝てる時間だろダンブルドア。眠くないのか」
「……たぶん、練習やめたら一気に眠くなる、って思うよ。そんな気がする」
集中力で眠気を押し殺して練習を続けているダンブルドア少年だったが、しかし成果は無い。
普段は大広間で皆と夕食を食べている時点で既に眠気との闘いを初めていて夕食が済んだら速やかに寝る支度を済ませて就寝するダンブルドア少年が今まだ起きているというのはつまり、本人の態度とは裏腹にダンブルドア少年はとっくに眠気の限界で、なのに驚異的な集中力と言えば聞こえは良い単なる意地と頑固さで身体を支えて絨毯を踏みしめて立っているのだと、ルームメイトのエルファイアスはしっかりと理解していた。
(ダンブルドアは絶対に練習をやめた瞬間その場で寝るから、誰かが寝室まで運んでやらないと)
友達なんだからそのくらいの世話は焼いてやるさと、エルファイアスくんは自分だってもう眠いのにそんな決意を固めてソファに座っていた。
「その守護霊呪文ってやつは、そんな必死に練習するほどのものなのか」
こうしてエルファイアスくんがダンブルドア少年に話しかけ続けているのも、ひとえに自分がダンブルドア少年よりも先に居眠りを始めてしまう事態を避けるためだった。
「全然。ホグワーツに居る間は絶対に必要にならない呪文だよ。それに授業じゃ7年生でも本来は習わないって先輩が言ってたから、それって試験でも必要にならないってことだし」
「じゃなんでそんなムキになって練習してるんだダンブルドアお前」
「できるようになりたいからだよエルファイアス。だって、あんなの見ちゃったからさ」
呪文だけに集中しつつも話しかけられたら返答するという器用な真似をしているダンブルドア少年がいま口にした実にシンプルな動機は、ダンブルドア少年だけのものではなかった。
「ポピーちゃんポピーちゃん。あたしあのおばあちゃまがやってた牛さんの魔法してみたいの」
「牛さんの魔法? どの呪文のことかな。どういうものだったか教えてくれる?」
ハッフルパフの談話室の2階、女子寝室へと繋がる樽の蓋のような円形の木製扉が壁にいくつも並び、もたれかかれば吹き抜けから談話室の1階を見下ろせる柵がそのまま天井を支える張りに繋がっている男子禁制のくつろぎ空間で、1年生のシャーロット・クランウェルが柵に背を向ける形で設置されている黄色いソファに座っていた7年生のポピー・スウィーティングに話しかけた。
シャーロットの隣には姉のクレアがぴったりと付き添っていて、ハッフルパフの談話室にはもう1階にも2階にも、数えるほどしか生徒は残っていない。
「……守護霊呪文のことなのよポピーちゃん。シャーロットったら、あのおばあちゃまに牛さんの守護霊をもう1回出して見せてもらえたのがとっても嬉しかったみたいで」
シャーロットの姉で4年生のクレア・クランウェルが妹の発言の補足をしたが、当のシャーロットはそんなの聞こえていないかのように、大きくてまんまるの目を好奇心と嬉しさでキラキラ輝かせたまま、大好きなポピーちゃんに詰め寄っている。
「あたしも牛さん出せるようになるかしら? ポピーちゃんあたしも牛さん出せるようになる?」
シャーロットに鼻と鼻がぶつかりそうなくらいに詰め寄られても、ポピーは顔を逸らしたり仰け反ったりなどは一切せず、シャーロットの目をまっすぐに見つめている。
「ごめんなさいねポピーちゃん。守護霊呪文がどういうものかはダンブルドアくんが教えてくれたんだけれど、この子ったらあんまり理解できてないみたいで……」
クレアは言葉こそ一歩引いた立ち位置から状況を補足するような内容だったが、その目は妹のシャーロットとまったく同じようにしっかりと好奇心で煌めいており、ポピーちゃんポピーちゃんあたしも守護霊呪文で動物さんを出せるようになりたいの、という本音が隠せていなかった。
「私がお手本見せてあげられれば良かったんだけど……ちょっと見ててね2人とも」
ポピーはそう言って、ソファに座ったまま杖を構えて、目を閉じた。
最も幸せな思い出という言葉からポピーが連想するのは、2年前の記憶。
5年生の時、魔法生物学の授業中に、ニーズルのペルセポネにいじわるしていた嫌なスリザリンの男子とレイブンクローの女子に注意をしたらその2人に思いっきりからかわれた、その直後。
「それは笑えないね」
あいつはハッキリそう言ってあのスリザリンの男子の真ん前に立ちはだかって、「僕はポピーの味方」と、態度と行動で示して、わたしを守ってくれたのだ。
それまでは単なる話題の編入生としか思っていなかったのに、あの瞬間から、どうしても、なんとしても、仲良くなりたいと、そうなれたら嬉しいなと願うようになったのだ。
そしてなんと実際に仲良くなってくれて、ハイウィングとも仲良くなってくれて、ハイウィングを守ってくれたり、密猟者のキャンプで見つけたヘブリディアンブラックの卵を親のドラゴンに返したり、ムーンカーフのダンスを一緒に見たり、ケンタウルスのドランとエレクにまで協力してもらってスニジェットを保護したり。
パパとママのことを、わたしは初めてひとに話した。
それから6年生になって、「必要の部屋」に入れてくれて、不死鳥を見せてくれて、グラップホーンに乗っけてくれて、セストラルにも乗っけてくれて、それからハイウィングも一緒に三本の箒に行こうって誘ってくれて一緒にバタービールを飲んだり、魔法生物の図鑑を皆で一緒に作ったり。とにかく今も続いてるたくさんの嬉しいことが、5年生だったあの日に始まったんだ。
あの時のいじわるなスリザリンの男子の本人たるカンタンケラス・ノットだって、今じゃあ私と手分けしてグラップホーンたちに水浴びさせるのを手伝ってくれたりする友達の1人なのだ。
それに私は卒業してからも、ハイウィングとか湖畔の主とかあの不死鳥とかカリゴとかセプルクリアとか、いっぱいいっぱいの魔法生物たちのお世話ができるんだ。それも住み込みで。
なんて幸せなんだろうと思わずにはいられなくて、それもこれも全部、5年生だったあの日に「編入生」と、あの頃はまだ私もそう呼んでいたあいつと、お友達になれたからこそなんだ。
「エクスペクトパトローナム」
ポピーが杖を顔の前に立てたまま静かにそう唱えると、杖の先から噴出した青白く光る霧か煙のようなものはポピーの頭の上でぼんやりと薄く膜のように広がってポピーとシャーロットとクレアの3人を屋根のように覆い、そのままさらに流れ落ちるように広がって、青白く光るドーム状の薄膜となってポピーとシャーロットとクレアの3人をすっぽりと包みこんだ。
「ね。私まだ守護霊呪文で動物さん出せないんだ」
単なる一番仲良しのお友達というだけの関係性では満足できなくなってしまったから守護霊呪文が完璧には上手くいかないんじゃないんだろうかという推測を脳内から追い出しつつ、ポピーはシャーロットとクレアに、自分が今どのくらい守護霊呪文を習得できているのかを説明した。
「今のもあの元気なおばあちゃまの牛さんとおんなじ魔法?」
「そうだよシャーロット。今わたしがやったみたいに、それなりに上手くできてるけど完璧じゃないってくらいの守護霊呪文だと、あんなふうに――なんて言うかな――ぼんやりしたカーテンみたいなものができるの。不充分だけど、ぜんぜんなんにもできないよりいい」
私とあいつは卒業したらあいつのあのホグズミードのお店の地下で一緒に住む約束をしたんだからそれって単なる一番の友達を超えた関係ではあるはずだよね、などと余所事を考えながら、ポピーは相変わらず目をキラキラさせているシャーロットとクレアに守護霊呪文の説明を続ける。
「それで、守護霊呪文を完璧にできたらね、今わたしがやってもうすーいカーテンみたいだったあの光る煙みたいなのが、何か動物の形になるんだよ」
「あたしにもできる?」
そう訊いてきたシャーロットのお顔には、できると言ってほしいと書いてあった。
「もっちろん! 頑張って練習したら絶対できるようになるよ。でも牛さんかどうかはわかんないかな。猫さんかもしれないし、ウサギさんかもしれないし、犬さんかもしれないし、もっと別の動物さんかもしれないからね。どんな動物さんなのかって、みんなそれぞれ違うんだよ」
「ポピーちゃんのはどんな動物なのかしら」
シャーロットより先に、姉のクレアがポピーにそう訊いた。
「それはね。わかんないんだよ。その人の守護霊がなんの動物なのか、どうしてその動物なのかっていう仕組みみたいなものは、まだ誰にもわかんないんだ。だから実際にできるまでわかんない。例えばスリザリンのオミニスの守護霊はニシキヘビで、グリフィンドールのナティの守護霊はキリンだよ。それにヘキャット先生はね、こーんな大っきいヘブリディアンブラックのドラゴン」
シャーロットとクレアのクランウェル姉妹はポピーのその言葉を聴いて、お互いの顔を見た。
「家族でも、仲良しの兄弟とか姉妹でも、守護霊がぜんぜん違う動物なのは普通のことだよ。ギャレスの一番上のお兄ちゃんの守護霊はイタチだけど、その下のお兄ちゃんの守護霊は犬だしさ」
「どうやるのポピーちゃん?」
シャーロットの質問を受けてポピーはシャーロットとクレアにとりあえず着座を促し、2人はポピーを間に挟む形でソファの左右に別れて座り、それから再度腰を少し浮かせてポピーにぴったりと身体を寄せて座り直した。
「じゃあ杖を出して」とポピーが言うと、シャーロットとクレアがそれに従う。
「まず呪文を覚えよっか。『
「
何ら思い出などに集中せずにただ呪文を声に出しただけのポピーに続いてシャーロットが元気いっぱいに呪文を唱え間違えた途端、シャーロットがめいっぱい振った杖の先から茶色と緑色が混ざった暗い色の霧が、ひどい悪臭と共にあたり一面に撒き散らかされた。
「わああぁぁーー!! なんてにおいなのかしら!! あたし何したのかしら!」
「シャぁぁ゙ーロットあなっ、あなた、呪ぅ文を間違えっ……てたわよ…………」
杖を持っていない方の手で自分の鼻をしっかりとつまんだ姉のクレアが、パタパタと手足を動かして慌てている妹のシャーロットにそう指摘した。
「スコージファイ。スコージファイ。スコージファイ。テルジオ、テルジオ、テルジオ……よし。じゃあシャーロット、私に続いて言ってみてね――」
慌てず騒がず杖を振って悪臭と嫌な色の霧をキレイさっぱり除去したポピーはそのまま自分の左隣に座っているシャーロットの方を向いて、改めて呪文を教え始めた。
「エ、ク、ス、ペ、ク、ト」
「えくすぺくと」
シャーロットはポピーの目を見つめたまま、ポピーの言った通りに復唱する。
「パ、ト、ロー、ナ、ム」
「ぱとろーなむ」
「すごい。完璧! じゃあ続けて言ってみよっか。『エクスペクト・パトローナム』」
「エクスペクト・パトローナムっ!」
「上手だねシャーロット、とっても上手! 完璧!」
ポピーちゃんがあまりにもシャーロットを褒めちぎるので、それをポピーの右隣から見ているクレアは妹のシャーロットが今はたしてポピーちゃんに呪文を教えてもらっているのか、それともただ遊んでもらっているのか、どちらなのかが一瞬だけ判らなくなってしまった。
「――それで、ポピーちゃん。杖を振って呪文を唱えるだけでいいなら、そんな『大人でも全然できないのが普通』だとか『霧みたいなのでも出てきたら上出来』なんて評判になってないわよね? 守護霊呪文ってそういうものだって、ダンブルドアくんが言ってたんだけど」
まだシャーロットの方を向いているポピーちゃんの背中に、クレアは問いかけた。
「あ。そうだよ。そうなの。『いっちばん幸せな思い出』を思い浮かべて、最高に幸せな気持ちだけで心の中をいっぱいにするんだよ。それが完璧にできたときだけ、この呪文の効果は出るんだ。けどねぇー。こーれが難しいんだぁー。ほんとにまったく幸せだけの気持ちじゃないとダメだし、心の中をいっぱいにした幸せがちょっぴり弱いだけでも上手くいかないからね…………」
ポピーのその説明を聞いて、クレアはあのダンブルドアくんが最初の1回が嘘か夢だったかのようにどれだけ練習し続けてもまるで成功できていなかった理由が、解ったような気がした。
「色々あれやこれや考えちゃうとダメなのねポピーちゃん?」
「そう。あとは幸せな思い出を思い起こしてるうちに、ちょっとさみしい気持ちになっちゃったりとかするってことも、人によってはあるだろうから……でもきっと、2人は私よりも、もしかしたら7年生の誰よりすんなり守護霊呪文を使えるようになっちゃうかもしれないね?」
「えっ、なんでポピーちゃん私とシャーロットが? とってもとっても難しい呪文だって今――」
ポピーちゃんにふんわりと微笑みかけられたクレアは戸惑ってしまったが、しかしポピーの考えにはしっかりと根拠があった。
「だってあなたたち2人とも『最高に幸せな思い出』なんて……」
そこでポピーは言葉を切ってソファの背もたれに身体を強く押し付け、クレアがシャーロットを見られるように自分の身体を除けた。
クレアがポピー越しに見ているシャーロットは、何やら両手の指を順番に曲げていって、真剣に考え事をしている様子だった。
「今日はダンブルドアくんのすっごい魔法を見ちゃったでしょ。それからおばあちゃまに牛さん見せてもらって、ライオンちゃんの像に乗っけてもらったでしょ。それにそのあとの授業でもコガワせんせいに上手に飛べてるって褒めてもらっちゃったでしょ。それにパパとママがホグワーツに来てくれたでしょ。それにお夕食だってとっても美味しかったし、おんなじお部屋のみんなと一緒に宿題したし、ギャレスのお兄ちゃんたちにも会ったし、ベルヴィナちゃんともお友達になれたし、ポップコーンがとっても美味しかったし、フィニアスくんとお話してる時のお姉ちゃんってなんだかいつもより笑ったお顔がふんわりしてる気がするし、お昼も美味しかったし、朝だって――」
曲げた指をまた伸ばしたりつつ順調に記憶を辿っていたシャーロットは昨日の昼頃まで遡って思い出せたようだったが、そこで急に口を閉じてぐりんと勢い良くクレアとポピーの方を向いた。
「ポピーちゃんお姉ちゃんどうしましょ! あたしぜんぜん選べないわ! だって嬉しいことなんて毎日とってもとってもたーっくさんあるんだもの!」
ほんとうに困っちゃったわという顔をした妹のくりくりとした瞳と目が合ってしまったクレアは何やら身悶えし始めたが、しかしそんなクレアとシャーロットの間に座っているポピーは全く動じることなく、守護霊呪文を上手く唱えるための助言をシャーロットに授けた。
「そうだよね。だってシャーロットはお姉ちゃんと一緒の学校で魔法のお勉強してるんだもんね。私も毎日しあわせだからよーく解るよ。だから私と一緒に、その中から『一番の』『最高の』幸せな気持ちになれる思い出をひとつだけ選んでみよっか。準備は良ーい?」
ポピーは徹頭徹尾シャーロットを肯定し続けながら、順序立てて守護霊呪文を唱えるための準備をシャーロットが整えるための手がかりを、ひとつひとつ与えていく。
「うん。あたし頑張るわポピーちゃん!」
「まずは今日あったことから始めてみよっか。ギャレスのお兄さんたちに会ったことと、お夕食が美味しかったことだったら、どっちの方が『もっと特別に幸せな思い出』だって気がするかな?」
シャーロットは少し考えてから「お夕食は今日もとっても美味しかったわ。けどねギャレスのお兄ちゃんたちに会ったのって今日が初めてなのよ。だからねギャレスのお兄ちゃんたちと会ったことの方が、お夕食より特別な思い出だわ」と結論付けることができた。
「ギャレスのお兄ちゃんたちってね、みーんなギャレスとおんなじ髪の色してるのよポピーちゃん。あたしビックリしちゃった!」
シャーロットがそう言うと、ポピーはまたしてもニッコリと得意げな笑顔を浮かべた。
「ギャレスの親戚のおじさんたちとか従兄弟たちとかに会ったらもーっとビックリするよ?」
「ほんとう?!!」
「ねえポピーちゃん妹を喜ばせ過ぎないで。この子あんまり嬉しいと寝られなくなっちゃうから。8月31日の夜だってそれで寝るのが遅くなって、次の日の朝とってもギリギリに起きたのよ」
クレアがそう釘を刺した瞬間、シャーロットはより一層その目を大きく見開いて、ポピーちゃんから姉のクレアへと視線を移した。
「それだわお姉ちゃん!」
そしてまたすぐにシャーロットは目の前のポピーちゃんへ視線を戻した。
「あのねあのねポピーちゃん、あたしきっと今まででいっちばん嬉しかったこと、どれだか解ったって思うの! それってね9月の最初の日の夜のね、初めてこのお城の中に入ってね、あのお喋りする帽子さんを被った後でね、ハッフルパフのテーブルがどれかって、ウィーズリー先生に教えてもらった時なのよ! だってだって、だってお姉ちゃんが居たんだもの!」
「ポピーちゃんちょっとごめんなさいね」
ここでとうとう限界を迎えたクレア・クランウェルは一言そう断りを入れると、自分とシャーロットとの間に座っているポピーの膝の上に乗っかってまでソファの上を移動して、ポピーに座る場所を自分と入れ替わってもらって、妹のシャーロットを思いっきり抱きしめた。
「私にとって一番の幸せは、あなたがホグワーツに入学してからずっとよシャーロット」
「……じゃあもしかして今あの魔法やってみたらお姉ちゃんも動物さん出せるかしら?」
クレアお姉ちゃんが今どれほどの幸福感に包まれているのかをあんまり実感を伴って理解できていないシャーロットの興味は、あくまでも守護霊呪文に注がれていた。
「シャーロットあなた、呪文は覚えてる?」
妹の目を見てそう問いかけたクレアは、妹のくりくりとした大きくてまんまるの目とふんわりした頬と屈託のない笑顔を見ているだけで心の奥から湧き上がってきて溢れ続ける幸せを抑えきれずニヤケ顔をやめることができないと自覚するのと同時に、とても心の中だけになんて収まりきらないこの圧倒的な幸福感こそが守護霊呪文を行使するのに必要な精神状態なのだと悟った。
心の中を幸福感だけで満たそうと努力してそれを達成するのではきっと不充分で、それをさらに超えるような、溢れ続けてどうにもできないくらいの幸せが必要なのだろうと。
「もちろん覚えてるわ。だっていまポピーちゃんに教えてもらったばっかりよ?」
「そうね。じゃああなたの一番幸せな思い出は何? シャーロット」
「最初の日にね、帽子さんとお話した後でね、ハッフルパフのテーブルにお姉ちゃんが居たこと」
守護霊呪文を唱えるための準備をひとつひとつ再確認していくクレアとシャーロットのクランウェル姉妹をすぐ隣で見つめているポピーは、2年前にスニジェットの卵が孵化するのをケンタウルスたちと共に見届けた時と同じ顔になってしまっていた。
「『せーの』で一緒にやってみたら?」
その光景を見てみたいという欲求のみによって発されたポピーからのアドバイスは、シャーロットとクレアによって実にすんなりと採用された。
「――杖の振り方はどうやるんだったかしらシャーロット」
「くるんってするのよ。ダンブルドアくんが言ってたの!」
クレアは左手で妹のシャーロットをぎゅっと抱き寄せたまま、シャーロットも右手でお姉ちゃんのローブを掴んでぴったりと抱きついたまま、2人とも利き手に持った杖を掲げた。
一体どういう偶然なのか、あるいはオリバンダーさんにしか理解できない必然なのか。クレアの杖とシャーロットの杖は使われている木材が異なるにもかかわらず、外観がとてもよく似ていた。
クレアお姉ちゃんのお顔を見ていると、シャーロットはあの9月1日の出来事を思い出して、とっても幸せな気持ちで心の中がいっぱいになる。ここはホグワーツで、お姉ちゃんはハッフルパフで、あたしもハッフルパフで、魔法のお勉強をしているのだと。
そしてそんな妹の笑顔を見ているだけで、クレアは心の底から湧いてくる幸福感を抑えきれなくなって、それは制御不能のニヤケ顔として止めどなく溢れ続けてしまう。
なんて幸せなことかしらと、2人はお互いを見つめながら再確認した。
「エクスペクト・パトローナム!」
シャーロットとクレアが同時にそう唱えて杖を振ると、シャーロットの杖からは火を消したばかりの蝋燭くらいに控えめな量の青白い霧がぼんやりと立ち昇るだけだったが、クレアの杖から勢い良く噴出した青白い霧は杖の先端から少しも離れていない空中でひとかたまりにまとまって、ちょうど掌に乗る大きさの、もったりとした生き物の姿を象った。
「…………カエル? ずいぶんまんまるで、なんだかニブそうなカエルね……」
創り出した本人のクレアが戸惑いながらそう呟いた途端に守護霊はその形を崩して、シャーロットの杖の先から未だ立ち昇り続けているものと何ら変わらない、ぼんやりと青白く光るだけの単なる霧に戻って、すぐに薄れて消えてしまった。
自分が今どれだけのことに成功したのか、いったいどれほど難しい呪文をうまくできたのかをクレアが実感するためには数秒の沈黙を必要としたが、しかしそれでもクレアは真っ先に、さっきまでずんぐりしたカエルの姿の守護霊が居た杖の先の空中ではなく、妹のシャーロットの顔を見つめて心に浮かんだ言葉のそのままを伝えた。
「シャーロットあなた、できたじゃない! ちょっとだけど、杖から守護霊呪文が出てたわ!」
自分の杖から動物の姿の守護霊が現れたことよりも、妹の杖から盾としてすら不完全な微量の霧状の守護霊がほんのりと現れたことのほうが、クレアは嬉しいのだった。
「あなたは私の自慢よシャーロット……」
堪えられない愛情のままに妹をめいっぱい抱きしめたクレアの腕の中で、その妹のシャーロットの両目はまたしても好奇心と嬉しさでキラキラと輝いていた。
「今のカエルさんが、お姉ちゃんの守護霊なのね。わあ、わああ……すごいすごいすごい! お姉ちゃんすごい! とっても可愛いカエルさんの守護霊! ねえねえポピーちゃん見てた?!」
シャーロットの煌めく視線で射抜かれたポピーは「見てたよ」と言いながらクレアとシャーロットを2人まとめてハグした。
「今日は一緒のベッドで寝ましょうねシャーロット……」
まだシャーロットを抱きしめたまま幸福感に浸っているらしいクレアとは対照的に、シャーロットの興味の向く先はあくまでも守護霊呪文それ自体であるようだった。
「ねえねえポピーちゃん。あたしの守護霊さんもお姉ちゃんとおんなじだったらいいなって思うんだけどね。あたしの守護霊さんはお姉ちゃんとおんなじかしら?」
そしてシャーロットのこの質問は、ポピーを困らせるものだった。
「んんーー。それがね……なんとも判んないんだ。おんなじかもしれないし、全然違う生き物かもしれないの。だって、なんでその生き物なのかってことは、まだ誰も解き明かせてない謎だから。ヘキャット先生なんて言ってたかなあ……心の深ーいところを反映して決まってるんだろう、みたいな、すんごいふわっとした推測しか、まだ誰もできてないんだって」
こんな回答じゃあガッカリされちゃうかなと懸念しつつも嘘や誤魔化しは避けたかったポピーは知っているそのままを伝えたが、しかしポピーの心配をよそに、シャーロットは前向きだった。
「それって守護霊呪文ができるようになってからのお楽しみってことかしらポピーちゃん?」
「…………そう。そうだね、そうだよシャーロット。できるようになってからのお楽しみ。あなたの守護霊も、私の守護霊も、できるようになってからのお楽しみだね」
そしてシャーロットが「あたしがんばる!」と元気いっぱいに宣言した直後、ずっとシャーロットを抱きしめていた姉のクレアは、とてもとても根本的な事実をついに思い出した。
「――あァぁ大変! もう寝なきゃ!! ガーリック先生が今もし見回りに来たら減点だわ!」
クレアとシャーロットがポピーちゃんから守護霊呪文について教わっている間に、寝室に引っ込んで自分のベッドで横になっていなければいけない刻限が過ぎ去ってしまっていたのだ。
「ほらシャーロット、ポピーちゃんに『おやすみなさい』って言わなきゃ」
「そうねお姉ちゃん。ポピーちゃんおやすみなさい。魔法おしえてくれてありがとう」
「おやすみ2人とも」
ポピーはソファから立ち上がって手を繋いだシャーロットとクレアのクランウェル姉妹に就寝の挨拶をしたが、しかしおやすみなさいと言っただけで、自分はソファから動こうとしない。
「ポピーちゃんまだ寝ないの?」
「うん。私はもうちょっと起きてるんだ」
それは明確に規則違反の行為だったが、ポピーにはまだ就寝しない理由がしっかりとあった。
「そうなのね。じゃあポピーちゃんおやすみなさい。あたし今日はお姉ちゃんと一緒に寝るのよ。あ、ホントはダメだから内緒にしててねポピーちゃん! おやすみなさい!」
姉のクレアと手を繋いだシャーロットがぴょこぴょことした嬉しそうな足取りでクレア・クランウェルとルームメイトの寝室へと去って行ったのと同じ時、そんなハッフルパフの談話室からは少々離れた位置にある、ホグワーツの校庭に位置する「飛行訓練の芝地」と呼ばれる場所で、1人の7年生が半泣きになりながら杖を振っていた。
「こいつで最後ですウィーズリーせんせ…………」
「そうかい。それじゃあさっさとやりな」
「アフパドル卿で最後じゃないよ。お前さん忘れたのかいセストラルの像ひとつ消し飛ばしたろ」
「に゙ゃぁ゙ぁ゙あーー……そうでした……レパロ! さあ元の持ち場に自分で戻っておくれ……」
昼過ぎに突発的に行われた決闘でこのオリュンピアス・ウィーズリーへダンブルドア少年と共に挑んだ7年生の女生徒は、本来ならばホグワーツに外敵が襲来し生徒の命が脅かされているという場合にのみ使用する想定の、知る人ぞ知る秘密の防衛呪文「ピエルトータム・ロコモーター」を勝手に使ってホグワーツ全域の彫像や塑像や甲冑を全て戦闘に動員してしまったことと、それらの多くが戦闘によって破壊されたことで案の定マチルダ・ウィーズリー先生から大目玉をくらい、全部自分で直して元通りに原状回復するという罰則を言い渡されて、それが就寝時刻を過ぎた今になってもまだ終わっていないのだ。
「ねえウィーズリー先生ぼくもう寝てなきゃいけない時間――」
「普段は消灯時間になったらすぐに自分の寮の自分の寝室でちゃんと就寝してる、とでも言いたいのかい? 第一、自分で消し飛ばしたんなら自分で代わりを創りな。できるだろう?」
ウィーズリー先生に痛いところを突かれたので何も言い返すことができない7年生の女生徒は、魔法で修復されたアフパドル卿の石像がホグワーツ城内の所定の持ち場へと自分で歩いて戻っていく背中を見送りながら、罰則の最後のひとつである、自分が昼頃の決闘で跡形も無く消し飛ばしてしまったセストラル像の代わりとなる像の制作に、しかたなく取り掛かり始めた。
「ほらやってみな。変身術だって実技じゃホグワーツで一番だろう」
「んんいいーー……どのくらいの大っきさだったかナァ……セプルクリアよりは小さかったよなァ」
もにょもにょと何やら呟きながら7年生の女生徒が杖を振ると、まあ解釈によっては四足歩行の動物を模しているように見えなくもない、捏ねている最中のパン生地みたいな歪んだ形の金属塊が膝くらいの高さの空中に出現してドサリと芝生に落下した。
脚であるらしい4本の突起の長さがそれぞれ違うために、その塊はまっすぐ自立しない。
「……セストラルの像かいこれが」
「そだよ。お顔がこだわりポイントです」
自分で描いた絵も自分で作った粘土細工やら彫刻やらの立体造形物も、この7年生の女生徒は、それを魔法で創り出したかどうかにかかわらず、今までほとんどフィグ先生とウィンストンくんとポピーちゃんにしか見せたことが無かった。
「どうだいウィーズリー先生。上手でしょう!」
7年生の女生徒があんまりにも得意げに胸を張るので、ウィーズリー先生は「これのどこがセストラルだい」とか「こんなのをホグワーツに飾れるわけないだろう」とか「顔はどこなんだい?」というような喉まで出かかっていた言葉の数々を、ひとつ残らず心の裡に押し戻してしまった。
「……半分はうちの伯母様のせいでもあるんだから、まあ今回はこれで良しとしよう」
「ぼくもう寝ていい? オリュンピアスおばーちゃん、直すのいっぱい手伝ってくれてありがと」
7年生の女生徒のその言葉に、ホグワーツ副校長にして変身術教授でもあるマチルダ・ウィーズリーとその実の伯母にして現ウィゼンガモット首席魔法戦士の老婆オリュンピアス・ウィーズリーが、全く同時に「いいよ」と返事をした。
「やあぁーーーったあーーっと終わった………………あぇ? 何の音だいこれ」
遠くから聞こえ始めたその音の正体がなんなのか、何者が森の方からこちらへと駆けてきているのか、そう声に出して誰にともなく訊いた女生徒も、マチルダ・ウィーズリー先生もオリュンピアス・ウィーズリーも既に察していた。
そしてほどなく3人が予想した通り、気難しいエレクに率いられたケンタウルスたちの一団が、ホグワーツ特急すら追い抜いてしまえるのではないかと思わせる勢いで地響きと共に駆けてきて、オリュンピアスの目の前で急停止した。
すでに事情が察せたからか、マチルダ・ウィーズリーは両手で顔を覆ってしまった。
「やあ我が愛する妻オリュンピアス! わざわざ出迎えに来てくれたのかいありがとう!」
ケンタウルスたちの長であるエレクの肩に担がれていたエデュエイダス・リメット・ウィーズリーが、首から下をつま先までびっちりと縄でぐるぐる巻きに縛り上げられた虜囚そのものの姿のまま、いつも通りの上機嫌で最愛の妻オリュンピアスに声をかけた。
棲み家のすぐ傍にヒト共が魔法学校を建て始めた様を成すすべ無く眺めているかのように虚ろで生気の失せた表情をしたエレクも、その横で似たような目をしているドランも、クリスマスツリーの仮装かハロウィンパーティの主役かというくらいに、色とりどりに全身を飾り付けられていた。
誰がそれをやったのかなど、訊くまでもなかった。
「……マダム・ウィーズリー」
「こんばんは。お前はエレクだね。群れの長になったんだってね、おめでとう。それで、今までずっと私のエディーと遊んでくれてたんだね? どうもありがとうね」
姪っ子が家に来た時と全く同じ表情と声色で、オリュンピアスは平然とエレクに挨拶した。
ホグワーツ領に隣接する森に棲むケンタウルスたちの中でも特に気位の高いエレクが激怒を行動や態度で示していないのは、ひとえに少なからずある怒りを圧倒的な肉体的、精神的疲労が完全に塗りつぶして、かき消してしまっているからに他ならなかった。
「連れて帰ってくれ」
宇宙の果てに穴が開いているとしたこんな色だろうなと思わせる暗い目つきになってしまっているケンタウルスたちはそれ以上なにも言わずにただ淡々とエデュエイダスを解放し、来た時と同じ驚くほどの速度でまた森の方へと走り去って行ってしまった。
「……楽しかったかいエディー」
「聴いてくれるのかい! とっても有意義なお茶会だったんだよ我が愛する妻オリュンピアス!」
「そうかいそりゃ良かったね」
そろそろ日付が変わろうとしている真夜中のホグワーツの校庭で、何も言えない姪っ子のマチルダ・ウィーズリーをよそに、エデュエイダスの側頭部にまばらに残った髪は相変わらず眩しく虹色に光り輝いて、エデュエイダスのハゲ頭だけでなくオリュンピアスの顔や周囲の芝生をも、誰かの誕生日を祝っているのかと思うほど賑やかにライトアップしていた。
「ねえウィーズリー先生、ぼく今日ねポピーちゃんと一緒に寝るんだよ。良いでしょ」
「おやそうなのかい、そりゃ良かったねえ。それじゃあもうおやすみ」
7年生の女生徒の発言は「これから規則違反をしますよ」と事前申告したも同然の内容だったにもかかわらず、マチルダ・ウィーズリーにはもうそれを咎めるだけの元気は残っていなかった。
「うん。おやすみなさいウィーズリーせんせ」
きちんと挨拶してホグワーツ城の中へと歩き去る7年生の女生徒のすぐ後ろを、捏ねている途中のパン生地みたいに歪んだ形をした大きな金属の塊がフラフラよたよたと危なっかしい足取りで追いかけて行くのも、マチルダ・ウィーズリー先生は何もせずに見送ってしまった。
クランウェル姉妹の守護霊が何かはファミリーネームが物語ってますが、この当時その生き物は未発見(まだ別種と混同されている)で名前をつけられていないので、言及されるとしても属の名称までとなります。なにせその生き物に固有の学名がついたのが1980年。
吸魂鬼がその場にいないなら、あれこれ考えちゃう天才優等生よりも、夢いっぱい好奇心いっぱいな無邪気な子のほうが守護霊呪文を完全成功し易いんじゃないかと、私はそう考えている。