2年後もしくは106年前 作:requesting anonymity
就寝時刻をとっくに過ぎ、皆が寝静まった後で。アン・サロウはスリザリンの男子寝室に居た。
ホグワーツに入学する前はそうしていたように、ホグワーツに入学してからも2年生くらいまでは内緒でそうしていたように、双子の兄セバスチャンと同じベッドで寝たい気分になったからだ。
しかし、アンはひとつ、彼女にとっては重要な事を忘れていた。
「………そっか。オミニスもおんなじ寝室か」
アンは兄が寝ているベッドに接近し、途中で方向を変えてその隣のベッドの傍に立った。
アンは、そこで眠っているオミニスの寝顔を見つめる。
「そっか、そうよね………」
そしてセバスチャンが寝ているベッドとオミニスが寝ているベッドの間をウロウロうろうろ何度も往復し続けたアンは、そのちょうど中間地点でピタリと動きを止めた。
お兄ちゃんと一緒に寝たくて来た男子寝室だけど、どうしよう。オミニスのベッドに入りたい。
突如己の内から湧き上がってきた煮えたぎるような誘惑を振り切って、アンはセバスチャンのベッドへと向かい、兄が頭まで被っている布団を慎重に、少しだけめくった。
しかし。
「…………先を越されてたかぁ」
セバスチャンの寝顔のすぐ横で、嘴と頭部が白い1羽のワタリガラスが寝息を立てていた。
それを見たアンの心のどこか熱い部分から溢れてきた何かが笑い声になって口から漏れ出すのを、アンはどうにも抑えられなかった。
「じゃあ、しょうがないわよね………。そうよ、しょうがないのよ………」
アンは独りで数秒ほどニヤニヤした後、ぐるりと向きを変えてオミニスのベッドに向かった。
そして次の日。9月10日の朝。レイブンクローの1年生ヘスパー・スターキーが自分の女子寝室で目を醒ましたのは、いつもよりずっと早い時間の事だった。
「あら。おはようスターキー」
「おはようノルちゃん……あら?」
なぜルームメイトのバグノールドがこっちを見てクスクス笑っているのかが判らないヘスパーは数秒ぼんやりと周囲を見回してから漸くうっすらと昨晩の事を思い出して、やっと疑問に思った。
「………ねえ、あたし昨日。いつここまで戻ってきたのかしら?」
「おなかすいてるでしょ。スターキー」
そう言われて初めて空腹に気づいたヘスパーは、自分のベッドの上でちょこんと座り込んだまま、隣のベッドに腰掛けているバグノールドを見つめて訊く。
「なんでわかったの?おなか鳴ってたかしら?」
「スターキーあなた、昨日夕食を食べてないのよ。昨日の最後の『防衛術』の授業が終わった途端に寝ちゃって……それもギャレスの膝の上でね。ギャレスが談話室まで運んでくれて、デールがアナタをベッドまで運んで来てくれたのよ。で、アナタはそのまま今までグッスリってわけ」
そう言われてみれば昨日の夜の事覚えてないわねと、ヘスパーは寝巻きを脱ぎながら思った。
「あなたそれ、ボタンいくつ掛け違えてるのよ………」
呆れたように笑いながら、バグノールドは隣のベッドの上でモゾモゾと着替えに苦戦しているヘスパーの元へと近寄っていった。
「おや、おはようスターキー。おはようバグノールド。今日は早いね」
ルームメイトに世話を焼かれながらもどうにか着替えを終えて、ヘスパーがレイブンクローの談話室へと出てみると、そこには既に何人もの早起きな先輩たちが居た。
「アミくんおはよ!あたし昨日、すごく早く寝ちゃったのよね?」
「そう。お腹すいてるだろう?何か食べるかい?」
アミットがそう訊きながらスッと杖を振ると、皿が優雅に飛んで来てリンゴも呼び寄せられ、杖の先から漂った煙はフォークに変身し、兎を模した形状へと独りでにカットされたリンゴが皿の上に並ぶ。そして目の前で起きたそんな光景に、11歳のヘスパー・スターキーが目を輝かせていた。
「どうぞ。飲み物は何がいいかな?」
さらっとそんな事をしたアミットを見て、談話室の向こうの方で女子たちが色めき立っている。
「アミくんすごい!ありがとう!……あ。ねえこれもしかしてウサギ?」
「そう。東アジアのマグルは昔から、月にはウサギが棲んでるって信じてるんだってさ」
そして始まったアミットの長話を興味津々で聞いているヘスパーを「しょうがない子ねえ」と思いながら見守っていたルームメイトのバグノールドにも、アミットは声をかけた。
「――ところで、きみも何か飲むかい?フルーツ食べるかい?」
「タッカーあなた、そういうのは狙ってやってるの?」
そうじゃあないと理解しつつも、バグノールドはそう訊かずにはいられなかった。
顔も良いし、性格も良いし、成績も良いし、誰にでも分け隔てなく接するし、可愛いところもあるし、何事にも一生懸命に取り組むし、他人の悪口を言わない。だからそんなアミット・タッカーは、本人に「そのつもり」さえあればガールフレンドなんか選び放題だろうなとバグノールドだけでなく多くの女子たちが思っていたが、当の本人にそういった類の興味が有るのか無いのか、後輩たちには全く判らなかった。なにせアミットには浮いた話どころか、根も葉も無い噂すら無いのだ。アミットに関する噂と言えば「どんなに優しくて善良か」を再確認させられるものばかり。
それに加えて、よく一緒にいる友人のアンドリュー・ラーソンとヘクター・フォーリーも、優秀で優しくて端正な顔立ちをした、欠点の見つからない男子である。
「3人で話してるところを見ちゃった」と興奮気味に話す下級生の女子が、それを見たというだけで友人たちから羨ましがられているという風景すら、珍しくはないのだ。
しかし、では今まさにその「皆憧れのタッカー先輩」から優しくされているヘスパー・スターキーが他の女の子たちから嫉妬や羨望を集めるかというと、そうではなかった。
何故ならこのヘスパー、ハッフルパフにおけるあの女の子とその姉や、グリフィンドールにおけるダンブルドア少年と同じくらいには、同級生や先輩たちから可愛がられているのだ。
何にでも興味を示し、好奇心旺盛でいつも楽しそうで危なっかしくて目が離せないヘスパー・スターキーやハッフルパフの女の子の純真さは、一部の生徒には眩しくすらあった。
「スターキーとか、ハッフルパフのあの子とか見てると、自分が如何に穢れた心を持ってるかってのを自覚しちゃうわ………」
「わかる。アタシみたいな『アナクシマンドロスって名前の響きがエロそうよね』とかそういうことばっかり考えてる人間はああいう子の視界に入っちゃいけないのよ」
「…………ちょっと近寄らないで貰えるかしら」
「えっ。…………エロそうじゃない?『アナクシマンドロス』」
「………はじめまして。」
「ええっ」
4年生の女の子2人のそんなヒソヒソ話は、少し離れた位置のソファに並んでそれぞれ読書をしていたヘクター・フォーリーとアンドリュー・ラーソンの耳までしっかり届いていた。
(何の話をしてるんだい全く………)
(きみら今日中に終わらせなきゃいけない占い学の宿題がまだだろう………)
ヘクターもアンドリューも、それぞれに呆れていた。
一方。
「美味しいかい?」
「うん。ありがとアミくん」
「ありがとうタッカー」
フルーツと紅茶を味わっているヘスパーとバグノールドは同じ丸テーブルを囲んで、本人たちとしては優雅な、傍から見ている者からすれば微笑ましく可愛らしいティータイムを楽しんでいた。
「アミくんこれなあに?」
「萎び無花果だよ。ホントは魔法薬の材料なんだけど、僕らの友達が山程栽培しててね。こういう気軽な使い方もできるくらいには収穫できてるんだ。ついでに言うと、それ1個をきっちり絞ると3ガリオン分のエキスが採れる」
思っていたより遥かに高額な品だったその紫色の果物をミス・バグノールドは慌てて皿に戻したが、一方でヘスパーは既に2個めに手を伸ばしていた。
「これ美味しいわねアミくん」
「それは良かった。アイツも喜ぶよ」
魔法薬の材料をそのまま食べるのはやめた方が良いと去年その身を持って実証した友人と、その困った友人がそれでも食べるのをやめないので「安全に味わう為に薬効を取り除く」という、ある意味では本末転倒とも言える努力をし、その方法を確立させてくれたギャレスとサチャリッサに、アミットは今のこの光景をすぐにでも伝えてあげたいと思うのだった。
(ま、あの時アイツが食べてたのは萎び無花果じゃなく飛び跳ね毒キノコだったけど)
名前に「毒」ってついてるのにと、アミットは未だに新鮮な気持ちで呆れることができた。
「こら。何食べてるの?」
そして同じ頃スリザリンの談話室で、その青年は今日もまた注意を受けていた。
「マートラップの触手だよ」
「……ほどほどにしとかないと耳毛が紫色になるわよ」
碧色と紫の管みたいなものをくっちゃくっちゃ噛みながらその女生徒は羊皮紙に向かっている。
「で、それは?宿題?」
「んーんソフロニアに作ってもらったクイズだよ。一緒にやるかいネリダ?」
ネリダ・ロバーツはそれに答えるかのように、その青年の隣に寝転がった。
「見せてー。ふっふふ……これあの子の学年の試験範囲じゃない。ちゃっかりしてるわね全く……『ガンプの元素変容の法則の5つの例外、あとひとつは?』書いてあるのは食べ物と――」
そこに並んでいた4つの単語を確認してから、ネリダは青年の顔を覗き込んだ。
「……アナタまさか判んないの?」
「これじゃないかな、っていうのはあるよ?」
一昨年習った筈の内容なのに、青年は未だその問いに解答するのに「推測」を必要としていた。
「――言ってみて?」
ネリダはとてもとても楽しそうな笑顔で、青年の顔を見つめた。
「んむぇ、えーーーっとねえ………人間?………なにさ。それどういう顔なんだいネリダ」
「見てて飽きないわ。アナタ。表情がコロコロ変わるんだもの」
「……僕もしかして間違えてる?」
「さあ、どうでしょうね?」
クスクス笑うばかりでアドバイスなどはくれる気配が無いネリダ・ロバーツに、青年は頬を膨らませながら別の問題を解かせようとする。
「じゃあネリダこれわかる――『ケルピーを大人しくさせる方法』」
「『手綱をかける事』よね」
「…………ねえネリダ」
「なあに?」
青年は、ネリダ・ロバーツの目をじっと見つめだした。
「泳ぐ練習しない?」
こういう提案の仕方をされる時それは「今から」という意味だと、そして既に決定事項で拒否権は与えられていないのだと、ネリダは過去幾度もの経験から理解していた。
「………朝食の後かお昼じゃダメかしら?」
それでもネリダは、まだちょっと眠いのにそんな激しい運動をいきなりする気は起きなかった。
「――アルバスが泳ぐ練習するとこ特等席で見たくはないかいネリダ」
「やるわ」
周囲で聞き耳を立てていた他のスリザリン生たちが笑ってしまう程のスピードで説得されたネリダ・ロバーツを伴って、青年は床から起き上がって周囲に広げていた羊皮紙やら羽ペンやらをしまい、談話室のあちこちに散っていた何匹ものニーズルやらパフスケインやらを後ろに従えながら、スリザリンの談話室から出ていった。
「声をかけてすらないのに、なんであそこまで言う事聞かせられるんだ」
青年の後ろに列をなして出ていった動物たちを見てクラウチくんが呆れ半分感心半分で言った。
「おや、さてはアイツはもう出てった後かい?」
「まさに今出て行ったところだオミニス」
「おやセバスチャン。今日は早いね?」
「そっちこそ。……誰かさんのせいで寝室に居づらかったんでね。ノットもマルフォイも2人ともとっくに起きてグリフィンドールの談話室に行ったぞ」
「誰かさん」とは誰の事なのか、オミニスはたっぷり3秒考えてから理解した。
「ああ、そう言えばアンはホントは入ってきちゃダメか」
「そうだぞ。僕も今朝マルフォイに指摘されるまで忘れてたけどな。アイツのカバンの中とかウチとか、ホグワーツの寮の寝室以外で寝る時はしょっちゅう僕ら3人で一緒に寝てるから……」
そう言いながらセバスチャンは、オミニスの全身をジロジロと見る。
「………もしかしなくてもオミニス、朝の支度アンにやってもらっただろ」
「そうだけど、それがどうかしたか?」
「………いや、なんでもない」
なぜ今朝だけ同じ寝室に居づらかったのかを言ったほうがいいんだろうなとは思いつつ、制服を着てしまえば判らないんだから別にいいか、と。セバスチャンは気楽に考えていた。
「俺たちもグリフィンドールの談話室に行くか?」
「ああ、そうしようオミニス」
そして2人もまた、連れ立ってスリザリンの談話室から出ていった。
「やあアルバス」
「嫌です先輩」
グリフィンドールの談話室で読書をしていたら知らない外見をしたスリザリンの7年生らしき青年に声をかけられたダンブルドア少年はしかし、即それが誰なのかを理解して、さらにその笑顔から「余計な事を思いついたな」と察して、訊かれる前に意思表示をした。
無駄だと解っていながら。
「えぇ~。アァるバスも一緒に泳ごうよぉ~。泳ぐ練習しようよぉ~」
グネグネと妙な動きをしながらそう言って笑顔を向けてくる青年に、ダンブルドア少年はそれ以上何も言い返さず、ただ溜め息をついた。
「………『も』って事は、既に誰か誘ってるんですね」
「私よ。ダンブルドアくん。………ちゃんと自己紹介した事あったっけ。私ロバーツ。ネリダ・ロバーツよ。一緒に頑張りましょう?」
私にやる気を出させるためにダンブルドアくんを誘ったのか、「今から泳ごう」という提案をダンブルドアくんに了承させるために私を誘ったのかどっちだろうとネリダは疑問に思ったが、たぶんどっちもなのだろうとすぐに結論を出してその青年をじっとりと見つめる。
「どっちも」でありつつ、なんにも考えていないのだろうともネリダは思っていた。
自分の望みに最も近い結果を得るにはどう行動すればいいのかを勘と思いつきだけで探り当ててしまう能力が、このおかしな友人にはあるような気が、ネリダにはしていた。
それはもしかするとオナイ先生が時々言う「この子も『目』を持ってるから」という言葉で説明ができる事象なのかもしれないが、占い学が好きでこそあれども『目』など持っていないと自覚してもいるネリダにとっては、それこそ推測するしかない事柄だった。
「ところでどこで泳ぐの?船着き場まで行くの?」
「それはお昼。今からはこの中で」
そう言いながら青年は、どこからともなく旅行カバンを取り出した。
「ギャレスぅー。カバン見ててほしいー」
「いいよ。おはよう。フィフィ・フィズビー・ビール飲むかい?」
「おはよギャレス!飲む!!」
中身が激しく泡立っている謎のボトルを受け取りながら、青年は旅行カバンをその燃えるような赤毛のグリフィンドール生に渡した。
「ギャレスはそれ何をしてるの?」
ネリダ・ロバーツは、察せていながら訊いた。
「新しい魔法薬の実験中だよ」
また騒ぎを起こすんだろうなと、ネリダにはその光景まで想像することができた。
この2人は想像の上を行くと、理解できていながら。
ギャレスと、今回自分を泳ぎに誘ったこの困った青年。この2人が日々作る魔法薬が原因でどういう騒ぎが巻き起こるのかをその薬が完成する前に察せるのは魔法薬学の成績でこの2人をただ1人上回るハッフルパフ生サチャリッサ・タグウッドだけだろうと、ネリダは思っていた。
当のサチャリッサ・タグウッドが魔法薬学について、自分をギャレス・ウィーズリーとその困った友人に次ぐ「3番目」だと位置づけているのを、ネリダは知らなかった。
誰しもが認める薬草学と魔法薬学の才能を持ったサチャリッサは、自分が天賦の才を持つからこそ、その「才」で自分を上回る友人に、ギャレス・ウィーズリーに。まっすぐに憧れていた。
「ねえギャレス」
そしてホグワーツで教鞭を執る先生方にとっては、特に薬草学教授ミラベル・ガーリックと魔法薬学教授イソップ・シャープにとってはミス・タグウッドは、あの困った子やギャレスとは違って「規則を遵守する」という意識をしっかりと持ち合わせている点が、特にありがたかった。
「なんだいネリダ?」
サチャリッサが薬草学と魔法薬学の成績トップを維持できているのは本人の努力と才能もあるが、その「規則を遵守する」という本来持っていて当たり前の意識に因るところも大きかった。
「それ、何を作ってるのか訊いても良い?」
「これはサチャリッサへのプレゼントだよ。……内緒にしといてね?」
この2人、ギャレスとサチャリッサのお互いを見る目が「少し変化した」のが、ほんの数日前からだというのが、ネリダには未だに信じられなかった。てっきり去年からもう恋人同士なのだと思いこんでいたから。「毎日キスとかしてるのかしらね?」とアデレードとよく噂話で盛り上がったのを思い出して、ネリダは独りで勝手に気まずくなっていた。
「何かの記念日だったりするの?」
「いいや?僕がプレゼントをあげたくなっただけだよ」
サチャリッサあの子幸せ者ねと、ネリダは密かに思った。
「ロバーツ先輩ロバーツ先輩。僕らも早く行きましょう。先輩もう行っちゃいましたよ」
ダンブルドア少年に裾を引っ張られて、漸くネリダは青年が既にカバンの中へと入っていってしまっている事に気づいたのだった。
「おーい、こっちだよ~!」
カバンの中に入ると広がっていた草原の一角にあった家の2階の寝室、の隅においてあった別の旅行カバンの中に広がっていた鬱蒼とした密林の中のルーンスプールの棲息地、の中央に位置する観察小屋の仮眠室においてあった別の旅行カバンの中に入って、やっとそこで青年は止まった。
「こんなのを、………普段からポケットに入れて持ち歩いてるなんて……先輩はホントに……」
「これたぶん、なんかの法律に違反してるんじゃないかって私、思うんだけど……」
ネリダの懸念も当然だったが、青年はどこ吹く風といった様子でケラケラ笑っていた。
2人が青年に連れられてきたそこは、周囲を砂漠に囲まれたオアシスの湖。長袖などとても着てはいられないが、同時にあまり肌を晒すべきではないと直感もする灼熱の日差しの只中だった。
「ホグワーツの湖より、ちょっと大きいように見えますねここ」
ダンブルドア少年は、そう言いながらキョロキョロと周囲を見回している。
「ほらほら2人とも。その服のまま泳ぐつもりかい?」
「僕はこのまま泳ぎますけど。後で乾かせば済む話ですし……まあローブは脱ぎますが」
そう言いながらローブを脱いでなんとなくそのへんの砂の上に置いたダンブルドア少年とは対照的に、青年に水着を渡されたネリダ・ロバーツは少し困った様子でモジモジし始めた。
「あの………着替えるから向こう向いててもらえるかな………」
「ううんじっくり見るよ僕はぁ痛い痛いイタイ」
ダンブルドア少年は、青年の耳を無理やり引っ張ってロバーツ先輩から背を向けさせた。
そしてネリダ・ロバーツは着ていた制服を脱ぎ始めるが、この時代の水着は普段の衣服とほぼ変わらない露出度のもので、この年から15年後の1907年にオーストラリアのマグルの女性アネット・ケラーマンがアメリカ合衆国を訪問した際に着用した「水中での動きを妨げない水着」が原因で公然猥褻の罪に問われるという事件すらあった。
つまりネリダが今まさに着ようとしているのも、膝まであるズボンと肘まである袖の、ほぼ肌着と変わらない外見の水着である。これでもヒラヒラした丈の長いスカートが付属していないだけ、比較的動きやすい部類なのだ。
しかし百年後の感覚からすれば「こんなの普通の服」でも、当時はこれが「水着」で。
それは、つまり。
「あの、あのあのあの………へ、変じゃあないかしら…………」
「可愛いよネリダ。ますます可愛い」
水着に着替え終えたネリダは、身体を隠すように腕を縮めてモジモジし続けていた。
そしてネリダが恥ずかしさを振り切るように勢いよく水に入った、その瞬間。
「ぶあーーーー!!!!……あ。おはようネリダ」
「お、おはようポピー………居たんだ……」
湖面から顔を出したポピー・スウィーティングは、海藻の束のようなものを掴んでいた。
「おはよポピーちゃん。それにカペラもおはよう」
青年がそう言った事で、ダンブルドア少年はスウィーティング先輩が掴んでいるのが単なる海藻ではなく、何らか水棲生物の姿になっているケルピーのたてがみだと気づいた。
「私ね昨日ねハイウイングと一緒に寝たんだぁ!」
「そ、それは良かったわね………」
いつもより目に見えてテンションが高いポピーに、ネリダは少し気圧されていた。
「ねえ先輩」
一瞬目を離した隙に着ていた制服を脱ぎ捨て上半身裸になった青年にダンブルドア少年は訊く。
「あのスウィーティング先輩が、察するに跨ってらっしゃるケルピーに。名前をつけたのはもしかしてタッカー先輩ですか?」
「そだよ。よく判ったねえアルバス」
「ぎょしゃ座の一番明るい星ですよね、カペラ。タッカー先輩がつけそうな名前です」
「ねー。アミットかっこいいよね。泳ぐのも上手だしさ」
「………。」
ダンブルドア少年は、7年生の先輩から目を逸らした。
「なーにを躊躇ってるんだいアルバス。ほら行くよ!」
ダンブルドア少年は咄嗟に逃げようとしたがあえなく捕獲され、小脇に抱えられて成すすべなく湖の中へと引きずり込まれていった。
「よぉーしカペラ!僕と競争しよう!!」
「ちょっとアナタ!!」
ケルピーとその背に乗ったポピーの方へ、湖の中央へと、どんどん湖の深みへ進んでいく青年を、まだギリギリ足がつくネリダが慌て気味に肩を掴んで止めた。
「んー?なんだいネリダ」
「ダンブルドアくんを離してあげて!」
肩まで水に浸かっている青年は、未だダンブルドア少年を小脇に抱えたままだった。
「………あ、ホントだ。」
「ぶあっ!!!!!………っは!!ばーーー!!!はぁーーーっ!!!」
ダンブルドア少年は呼吸ができる喜びを実感しながらネリダ・ロバーツの身体を慌てて掴んだ。
「……………しっ……死ぬかと思った……」
この7年生の困った先輩を非難する余裕すら無くただ本能的な防御反応をとるだけで精一杯なダンブルドア少年は、ネリダ・ロバーツが着ている水着の裾を両手でしっかりと掴んで離さない。
足がつかないのだ。
「………ごめんね?」
青年はダンブルドア少年の様子を伺いながら謝罪したものの、ダンブルドア少年はプイッと顔をそらして謝罪を受け入れることを拒否した。
「ほらダンブルドアくん。むこうの浅いところで泳ぐ練習しましょう。ね?」
ネリダ・ロバーツに連れられて岸へと去っていくダンブルドア少年の背中を、青年は見続ける事しかできなかった。
「今のはアナタが悪いよ?」
「わっ……わかってるよぅ……」
ケルピーを駆って傍に寄ってきたポピーにそう言われて、青年はションボリとしたままポピーの後ろに、大きなウミヘビの姿となっているケルピーの背に跨った。
「競争しないの?」
ポピーがちょっと可笑しそうに訊く。
「……ソンナ、キブンジャ、ナクナッチャイマシタ」
青年は落ち込み、ダンブルドア少年はまだ怯えている。しかしそれとは裏腹に、カバンの中に魔法で誂えられたその広大な砂漠のオアシスには、相変わらず強烈な日差しが降り注いでいた。
ダンブルドア少年は雲一つ無い空を見上げて、思った。
せっかくだから楽しもうと。
「ポピーちゃんギューってしていい………」
「いいよ?」
一方で青年は、ダンブルドア少年を本気で怯えさせてしまったのがまだショックらしく、ポピーを抱きしめながらケルピーの長いたてがみが湖面の下で揺れて身体を撫でるのを感じている。
「カペラはキレイだねぇ………」
青年がポツリとそう言うと、何故かポピーが少し頬を染めた。
「あ!やーっと見つけた!君たちここに居たのか………」
「あー!オミニス!セバスチャン!それに湖畔の主も!おはよ!」
「泳いでるのか?こんな朝早くから?」
思い立ったら即行動というこの困った友人の基本原理を改めて実感して、セバスチャンもオミニスも感心しつつも呆れている様子だった。
「おはよう2人とも。私とダンブルドアくんは泳ぐ練習をしてるのよ」
「おはようネリダ。練習付き合おうか?」
「そうしてくれると助かるわ」
セバスチャンはネリダ・ロバーツと会話しながらローブを脱ぎその下のベストも脱ぎネクタイを外し、あっという間に上半身裸になってザブザブ湖の中に入っていく。
「俺も行ってくるから、俺達の服を預かっててくれるかい?」
オミニスもローブを脱ぎながらここまで乗っけてきてくれた巨大なグラップホーンにそう声をかけ、セバスチャンの後に続いて湖の中へと、ネリダ・ロバーツとダンブルドア少年の傍へと湖面をザブザブ揺らしながら歩いていった。
しかしそれに気づいたセバスチャンは、途端に慌て始める。
「あっ、待ったオミニスお前……」
そしてダンブルドア少年は少し目を丸くし、ネリダ・ロバーツは頬を染めた。
アンのルームメイトであるネリダは、アンが昨日の深夜に突如起き出して「お兄ちゃん……」と呟きながら寝室から出ていったのを薄っすら覚えていた。
そして、それはつまりアンがあのまま男子寝室に行ったのだという事も理解していた。
だからこそ、上半身裸になったオミニスを見て、ネリダは余計な事まで察してしまったのだ。
「ん?なんだい皆。俺、なにかおかしいかい?」
昨日の夜あの後セバスチャンとオミニスの寝室でアンは何をしたのかと妄想が迸って止まらないネリダ・ロバーツは耳まで真っ赤になって両手で顔を覆ったが、指の隙間からオミニスの肩の辺りを凝視し続け、その隣でセバスチャンは「言うべきだった……」と頭を抱えている。
ダンブルドア少年だけが、心配そうにしていた。
「あの、オミニス先輩。………その肩と首に幾つもある痣は、何にやられたんです?」
ネリダが静かに爆ぜた横で、スッとセバスチャンは杖を構える。
しかしオミニスは至っていつも通りに穏やかで冷静な態度のまま、どこの事だろうと杖の先を自分の身体に翳して探り始める。
「ん?………ああ、これの事かな。ホントだね。………たぶんアンだと思うよ。昨日夜遅くに俺のベッドに入ってきてね。寝ぼけて噛みついたりとかしたんじゃないかな?」
アンは全く寝ぼけてなどいない状態で故意に「それ」をしたのだとセバスチャンとネリダは察していたが、その事を理解しているのかいないのかよく判らないオミニスと、如何な話題なのかを明らかに察せていないダンブルドアくんにわざわざ言うのは憚られると、2人とも思っていた。
つまりアンは、オミニスのベッドに入り込んでそのまま眠ろうとして、少々自分を抑えられなかったのだろうと。オミニスの肩と首筋に複数残るキスマークは、我慢しようとして我慢しきれなかったアンの、情動と理性がせめぎ合った結果の産物なのだろうと。
(偉いわよアン………そこで、それだけで留まれるのは偉いわ……)
(やっぱりアンは暫く男子寝室出入り禁止だな)
セバスチャンとネリダは、それぞれにアンを想っていた。
「あ。そうなんですね。何か喧嘩したとかじゃないなら良かったです」
ただ1人、ダンブルドア少年だけが。何も理解していなかった。
「うん。アンが元気になって、また何の心配もなく3人一緒に過ごせるようになったのが、俺すごく嬉しいんだ。アンが呪いを受ける前は3人一緒のベッドで寝たりとかもしてたし。回復し始めてから、つまり去年からもまた一緒に過ごせる時間が増えてきてたんだけど、やっぱり『まだ回復しきってはいないな』って頃はそれでも常にやっぱり心の何処かで心配だったしさ」
だから俺いま毎日すごく嬉しいんだと笑顔で言ったオミニスに、ネリダは何も言えなかった。
アネット・ケラーマン(1887~1975)
オーストラリアの水泳選手で女優。今ある全ての「女性用水着」の基礎を作った人。
19世紀の女性用水着は泳ぎやすいとはとても言えないもので、今で言う「着衣水泳」と大差ない、肌を隠す事最優先の非実用的なものだった。
そこに「機能性」を求めた最初の1人がアネット・ケラーマン。
あと今で言う「アーティスティックスイミング」を考え出した人でもある。
この話でネリダ・ロバーツが着てる水着、「ズボン」って表現はちょっと違うんじゃないかとも思ったんですけど、キャミソールすら未来の発明な時代だし、といって「ブライズ」って単語で「あーあれね」ってなる人間がはたしてどれだけ居るのか、という。
膝まであるかぼちゃパンツとでも言うべきか。とにかくズボン。
21世紀に生きる私たちが思い浮かべるような「水着」はこの当時ありません。だってそれを作り出した人がまだ5歳。