強欲娼婦と哭倉の旅   作:るりつばき荘

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【1】みなしごのみどり

 みどりという女は、その名が実の親から貰ったものかを知り得なかった。

 物心つく前のかすかな記憶の中で「みどり」という名は出てくる。しかし本当は、幼い頃に往来ですれ違ったよその子供が、その母親にそう呼ばれていただけで他人の名前かもしれない。それでも「パンパン女」だの「権兵衛」だのと呼ばれるよりかはずっと響きが良い。故に、みどりはその名を自分のものとして扱っていた。

 

 上記の件から分かるように、みどりは親のいない浮浪児である。齢いくつで独りぼっちになったのかはうろ覚えだ。親が死んだのか、あるいは捨てられて孤独になったのかも分からない。

 毎日陽が昇る前から家々の前を渡り歩き、廃棄されたごみを取り出し調べては、まだ腐りきってない生ごみの表面に貪りついた。戦時中は浮浪児もそこまで多くなかった分、餌場を狙い合って子供同士で争う機会が少なかったのは不幸中の幸いであっただろう。とは言え、戦が長引くにつれ一般家庭でも節制を強いられるようになると、捨てられるごみの量も雀の涙ほどのものとなった。みどりは漁ったごみの量をもとに、その家が後何年で一家離散になるかを邪推するのが暇つぶしだった。

 

 日本が大戦で負けた後、浮浪児はさほど珍しくもない存在と化した。

 生きる上で競争する敵が増え、次第にみどりの餌場には彼女よりも年上の少年達が徒党を組んで占領するようになった。

 いつの事だったか、少年達の目を盗みごみを漁っていたみどりは、そのうちの一人に見つかってしまい集団でたこ殴りにされた。そのせいで、みどりの左手の薬指は今も拘縮し歪に曲がったままである。

 

(生き汚いくそがきが。親が死んだならさっさと後を追いかけてくたばっちまえ!)

 

 目の上にたんこぶを作りながら、みどりは自分と同じような境遇の子供達を憎んだ。

 腹を痛めて産んだ子供が、こんなに醜悪になってしまっては浮かばれないだろう。嘲るように唾を吐く。唾にうっすらと含まれる血は、彼女のものと、彼女が抵抗して噛んだ少年の指から出たものが混じっている。

 悔しさを滲ませながら吐き出したあの罵倒は、自分自身にも返ってくる言葉だ。その事実も、いつかあの唾のように乾いて消えてしまえばいいのに。

 

 

 家、食料、衣服。全てを実の親から恵んでもらえなかったみどりであったが、そんな彼女にも名前同様に出所の不確かな贈り物がもう一つだけあった。

 少女のぼろぼろに薄汚れたもんぺの内側には、常に5㎝ほどの木彫りのブローチが収められていた。花を模した素朴な形のブローチであるが、みどりはそのブローチが何の花を模しているか知らない。また、ブローチの裏側には漢字が彫られていたが何と書かれているかも読めない。小学校さえろくに通えず、ひらがなの読み書きすらまともに出来ない孤児には致し方のないことであった。

 胸元に留めて装いを華やかに彩るものを、服の中へ隠すというのも妙な話である。しかしみどりは幼いながらに人間の浅ましさを知っていたのだ。たとえ宝石のような価値はなくても、他の浮浪児の目に触れればきっと盗まれてしまうに違いない。

 ――質屋に出したとして一食の飯になるかも怪しい品だが、その身を食いつなぐのならあいつらは何だってやる。

 ――本当なら、あたしだってそうさ。

 

 さっさと売れば良いものを、みどりはそのブローチを手放すのを躊躇った。

 顔も声も知らぬ親のこと考えるだけでは腹は膨れない。

 それを頭では十分に理解している。

 しかし、未だに夢を見てしまう。叶う筈がないと分かっていても諦められぬ、半ば妄想にも近い夢だ。

 いつか、お父ちゃんとお母ちゃんが、自分を迎えに来てくれる。

 荒れ果てた路地の片隅、いつ鼠に食い殺されるかも分からない場所で舟を漕ぎながら、みどりは己の懐に手をあてた。

 

 

 

 ある日、みどりは路地で一人の男に声をかけられた。

 日に焼けた肌を持つ中年の男だ。背は低いが腰回りががっしりとしている。

 男はみどりに提案を持ちかけた。

 

「白飯や味噌が食べられる。働き次第じゃ卵や青菜をつけてやってもいいぞ。うちで働かないか?」

 

 聞けば男は、東京の近くで田畑を持っている農家だと言う。かつて子がいたが徴兵や病気でそのまま死に絶え、働き手がおらず困っていると男は訴えた。

 みどりは疑い深い少女だ。いつもなら、警戒心を忘れることなくその話を聞き流すだろう。

 しかし、同時に子供でもあった。大人があの手この手で言いくるめれば、読み書きもできないような、生きる知恵も偏った少女はまんまと男の言葉に誘われて手を取った。

 そこから先の記憶が、思い出す度に耐え難い屈辱となって己を苦しめるとも知らずに。

 

 

 男に連れられた先は沿岸に近い田舎で、到着するなり畑が目に映った。男が自ら名乗った肩書は嘘ではないらしい。

 畑の横を通り過ぎると掘っ立て小屋が建てられていた。男が小屋の扉を開けると、みどりの他にも五人の子供達がいた。歳はみどりと変わらない様子だったが、男女関係なく同じ小屋に収められている。

 みどりはその日から、掘っ立て小屋の六人目の住人となった。

 朝の四時に叩き起こされ、畑作業や土木の清掃を言いつけられ、少しでも座って休んでいるところを発見されると罰を言い渡される。

 村に来て最初に罰を言い渡されたみどりは、その日一晩中素っ裸にされ小屋に入るのを禁止された。

 夜中まで働き、くたくたになっても出てくる飯は具のない味噌汁と漬物だけ。白飯や卵、青菜。男がみどりを誘うときに口にした馳走はいつまで経っても与えられる兆しはない。

 時折付近を通った軍人からチョコレートやガムを貰うことができたが、その機会も稀である。

 働きさえすれば、少ないではあるが飯は出る。

 しかし、小屋の中には男に気に入られようと他の子供の怠慢を嬉し気に告げ口する者もいた。みどりより痩せぎすの坊主頭の少年で、土を耕す際には他の子供達を蛇のように睨みつける。みどりはその坊主が大嫌いで、彼の後ろを歩く度にその人影をぐりぐりと踏みつけねば気が済まなかった。

 

 そして暫くすると事件は起こった。

 畑へ出向く前、着替えをしていると例の坊主がみどりの持っているブローチに目敏く反応した。

 坊主は鬼の首をとったように男に伝えた。

 

「性悪みどりが盗みを働いた!服の中にブローチを隠し持っています!」

 

 告げ口を聞くや否や、男はみどりに詰め寄り肉の薄い頬を引っ叩いた。

 

「こりゃ儂のかみさんの留め具じゃないか!どうやって盗んできた!」

「あ、あたしゃ盗みなんてしてませんよ旦那さん……!これは元々あたしが東京にいた頃からずっと持っていた親の形見です」

 

 みどりの言うことはもっともだった。男は妻の私物が盗まれたと憤慨したが、もともと妻に装飾品を贈るような甲斐性なぞ持ち合わせていない。

 それなのに都合よく私物を盗まれたと勘違いできるのは、盗みを働かれても仕方のない所業をしてきた自覚があったからだった。

 男はもう一度みどりの頬を引っ叩いて彼女を詰った。

 

「盗人の言い訳なんて聞かされちゃ耳が腐る!こんながきを生んだなんて、お前の母親はさぞ間違いばかりのあばずれだったんだろ。だが捨てるべき物は間違えなかったみたいじゃな」

「……」

「そもそも『みどり』なんて笑える名前じゃな。豊かさもない、ただただ貧しいだけの汚い乞食が!」

「……、が……」

「はあ?」

「……畜生が……!鏡でも見ながら喋ってんのかい!!」

 

 叩かれた頬がじわじわと熱を持っていくように、みどりの心にも炎のような熱が燻った。

 かつて、餌場でたこ殴りにされた時のような、悔しさと怒りを孕んだ熱である。彼女の指を折った少年にも向けた激情の刃を、今度は目の前の男と坊主に向けようとした。

 ――あたしのせいじゃない。生まれたのも捨てられたのも、全部あたしのせいじゃない!

 大人の男だろうと、相手は二人だろうと関係なかった。怒りのままに掴みかかってやろうとみどりが一歩踏み出す。

 

 しかし、それよりも早く異変が起こった。

 みどりが鬼のような形相で男と子供を睨みつけると、途端に男が手にしたブローチが宙に浮き上がった。

 

「なっ、なッ、なんだこれは!!」

 

 ブローチがひとりでに手元から離れ、宙を浮いているその光景に男は腰を抜かして座り込んだ。隣に立つ坊主も驚いて悲鳴をあげる。

 みどり自身も、一体何が起きているかを理解できずに一歩踏み出した姿勢のまま固まった。

 

(夢でも見ているのか……?)

 

 呆気にとられていると、事態は更に変化を遂げた。

 腰を抜かしている男の傍らに、無数の白いもやのような物が浮かび上がった。はじめは煙のようにも見えたが、次第にそれは輪郭を為し、やがて子供の顔にも見えた。

 真っ白い無数の顔は、怯える男を無表情で見つめた。

 

「ひッ、ひぃぃッ!!」

 

 みどりは驚きのあまりのけ反った。

 しかし、男と坊主は白い顔など見えていないのか目もくれず、未だ宙に浮くブローチに釘付けになっている。

 突然の不可思議な出来事を呑み込めず、更にもう一歩のけ反る。それと同時に、白い顔がみどりへ視線を移した。

 ――瞬間。

 

「ぎゃああああああ」

 

 ブローチの留め具の先端が男のほうへ向き、そのまま一直線に男の左目に刺さった。

 不意に襲ってきた衝撃から一拍遅れて、男が呻き声をあげた。痛みのあまり両手で左目を抑え地面にうずくまっている。

 隣で立ち尽くす坊主は、恐怖のあまり泣いて小便を漏らしていた。

 いつの間にか白い顔は消えており、みどりの目には再び男と坊主の二人の姿だけが映る。

 

 ――おかしい。一体なんだこれは。さっきの顔は幻だったのか?

 あらゆる疑問が次々と生まれ頭の中を駆け巡った。

 

 

「おーい!大丈夫か!?猪でも出たのか?」

 

 掘っ立て小屋にまだ戻ってきていない住人達と、その他の大人の労働者の声がみどりの耳に届いた。騒ぎを聞きつけて作業場から戻ってきたのだろう。

 混乱から一転、みどりは我に返ると焦りを覚えた。雇い主の男は怪我を負い、その男のお気に入りは小便を漏らして怯えている。

 誰がどう見ても、一連の騒動をみどりが引き起こしたと捉えるだろう。このままでは自分は捕まえられ自治警のもとにつき出されるに違いない。

 

 先程男の左目を突いたブローチは、先端に血を付着させ床に落ちている。

 みどりはブローチを手にすると、慌てて小屋から飛び出した。

 どさくさに紛れて畑から野菜を幾らか盗み、そして二度と村へ戻ってくることはなかった。

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