哭倉村に広がる湖のほとりを、水木は一人歩いていた。
手には龍賀克典から与えられた葉巻が一本、握られている。日頃から煙草を嗜む男であったが、水木の表情には陰りがあった。
彼が歩く少し先には、こんもりと盛り上がった土手がある。その輪郭は、水木の眉と同じような曲線を描いていた。
夜明け前に目を覚ましたとき、檻の中にいたゲゲ郎も、少し離れた位置で眠っていた筈のみどりという女もいなくなっていた。
もぬけの殻になった部屋を見回し、水木はぽかんと口を開けて放心した。
だがそれも一瞬の事。すぐさま飛び上がり、慌てて二人を探すべく駆け出したのは少し前のことである。
幸いにしてゲゲ郎は、彼の下駄の足跡をたよりに捜索するとすぐ見つかった。殺人の疑いがかかっているというのに、呑気にも川原の温泉に浸かりのんびり過ごしていたのだ。しかし、もう一人のみどりの姿は見つけきれなかったのである。
「おい、あんた……みどりという女が何処にいるか知ってるか?」
「お主の妻のことか?自分の伴侶なのに、随分と他人行儀な呼び方をするのじゃな。……いや、待て。あちらもお主のことを、他人みたく呼んでいた覚えがあるぞ」
「!……いや、まあ、いいだろ。人の家のことに首を突っ込まないでくれよ」
ゲゲ郎の指摘に水木は焦ったものの、すぐさま取り繕った。哭倉の村の者――龍賀の家の人間も含めて、水木とみどりは夫婦であると嘘を通してある。それはつい先日村にやって来た、自分たち以外のよそ者にだって暴かれてはならない秘密だった。
ゲゲ郎はじっと水木を見つめていたが、二人の関係性を怪しむ様子はない。しかし、その代わりに意味深長な忠告を残したのである。
「……お主はもう少し、『真っ当な店』に行くよりも自分の妻と語り合う時間を持ったほうがよいぞ」
「その話を蒸し返すんじゃない!」
昨夜、長田時弥を前にしてみどりが言い放ったほら話について言及しているのだろう。ゲゲ郎の顔は至極真面目であったが、事実無根の話に名誉を傷つけられた水木は怒って話を止めた。
彼に釘を刺され、ゲゲ郎もこれ以上昨夜の話に触れることはしなかった。ただ、結局みどりの居場所は分からないようで、首を横に振って水木の質問に答えたのである。
「お主の妻の居場所など知らんぞ。たしか儂が部屋を出たときはまだ眠っているようだったが」
「じゃあ、一体どこに行ったんだ……?」
はあと溜息をつきながら水木は頭を抱えた。妙な真似を仕出かさないという一昨日の約束は、全く守られていない。
彼女が行方知れずとは言え、此処で油を売っている暇はない。
――あの女の居場所については一旦措いておこう。
水木はゲゲ郎を言いくるめた後、まずは彼の処遇について、龍賀家にどう説得するか考えるほうを優先した。
だが、みどりがどこをふらふら動き回っているかは、意外な人物から聞き出すこととなった。
屋敷へ戻る折、水木は奇しくも龍賀沙代と遭遇した。
その際に龍賀家次男・孝三が十年前に村の禁域に足を踏み入れ、ついには心を壊してしまった過去についても説明を受けたのである。
ついでに、沙代は水木と会う前にみどりと会ったらしい。大きな虫を見つけ、吃驚したあまり部屋を飛び出したようだと言う。沙代から話を聞くと、水木は何とも納得しきれない表情を浮かべながらもどうにか頷いてみせた。
あれは自らを身寄りのない孤児であると言っていたが、そんな女が果たして虫程度で騒ぎ出すものなのか。水木とみどりは僅か二日ほどしか行動を共にしていない。だが、その短期間で彼女が強欲で図々しい気性をしているのは嫌と言うほどに分かった。そんな厚かましさを持て余している人間を相手にすれば、虫のほうが驚いて逃げ出しそうなものを。
「なんだ、水木君から東京の話でも聞いているのか?」
「お父様!」
途中、水木と沙代が一緒に歩いているのを見かけた克典が現れ、二人の前で車を止めて話しかけた。それを皮切りに、沙代は彼らから離れていく。
「娘と随分打ち解けたようだな」
「社長、僕は決して……」
「いやあ構わんよ。事と次第によっては本当にあれをくれてやる……。ああ、しかし君はもう既に所帯を持っていたのだったか。まったく、いつの間に?」
「は……ははは……。その、一昨日から昨日にかけて慌ただしかった故に、紹介もできずに申し訳ありませんでした。改めて、妻と挨拶に伺わせて頂きます」
克典の台詞に、水木は苦笑いを浮かべて茶を濁した。時麿の一件もあったせいで、龍賀の人間にみどりを紹介する機会が全くなかった。目の前の克典は笑っているが、言外に非礼を窘められている気配を感じ取った水木は深々と頭を下げる。
そんな彼の挙動を、克典の手が制した。
「まあ、それよりもだ……少し良いかね?」
然る後、水木は克典の部屋へ通され、ある密約を交わしたのであった。
――龍賀が誇る血液製剤、“M”の秘密を探ること。
水木は克典の誘いに乗り、彼から託された葉巻を受け取った。
しかし密約の見返りは、およそ対等の条件と言えたのだろうか。
己の下にいる人間を、体よく使い捨てようとしている。
克典の目に侮りを感じ、水木の胸の中でわだかまりが生じたのであった。
◆◇◆◇
「おっと……?おーい、水木サン、ついでに目玉ー。どこにいるんだい?」
沙代の案内の後、みどりは無事に座敷牢へと戻ることができた。しかし、迎えの言葉が返ってこない。それどころか、部屋の中には誰もいなかったのである。
まさか、と改めて座敷牢の向こう側へと目をやったが、夜明け前に遭遇した亡者の気配もない。
もう一度部屋の戸を開け外を確認するも、やはり慌ただしい空気もなく、ただ蝉の鳴き声のみが響き渡る。
(あの幽霊もどきの影響でもなさそうだし……あいつら、一体何処に行ったんだ?外の様子からしても、あの長田とかいう男に引き立てられた訳でもなさそうだ)
村を訪れてあれよあれよと言う間に牢屋へと押し込められるという、不運な境遇を同じくしたというのに。
――まさか、あたし抜きで旨い話を企んでいるのか?
下衆の勘繰りを働かせ、みどりはひとり勝手に憤慨した。
ともならば、自分も無理やりにでも介入して、一滴でも多くの甘い汁を吸わなければ気が済まない。
しかし、幸運にも見張りに見つからずに部屋へ戻ってきたばかりだ。再び一人で奴らを探して見つかってしまえば、今度こそ何らかの処罰を受ける可能性がある。
浅ましいながらに考えを巡らせた末、みどりは結局部屋に残ることにしたのであった。
「……」
話し相手がいないのであれば、お喋りの声もあがらない。
やがてみどりは横になり、寝ることにした。
昨夜はどうにも寝つけず、あまつさえ夜明けには妙な体験をした。一難が去ったと安堵すると、途端に睡魔が押し寄せてくる。
――そういえば、朝飯はいつくるのだろうか。食べ損ねないようにしなくては。
道祖神の供え物を盗み食いしたが、食べられる飯は全て胃に詰め込まないと。まるで使命のように決意を振り返るが、その間にも意識が薄らいでいく。
その時だった。
「丙江様……!こちらには、――!」
「――……」
部屋の外から、何かを言い合う声が聞こえる。
うとうとと舟を漕いでいたみどりは、不快そうに目を開け、やれやれと戸のほうへ顔を向けた。
その直後、引き戸が音を立てて開けられ、奥から二人の人物が姿を現したのであった。
「なっ……お……おはよう、ございますわ」
「へえ~、ほんとにこんな黴くさい場所に寝てたんだ、アハハッ!」
「丙江様!」
来訪者の相貌を捉えると、みどりの顔にたちまち動揺の色が浮かび上がった。
目の前には、夜明け前に旅館の窓から自分を見ていた女が立っていたのである。
丸々と肥えた頬の上に、厚く塗りたくられた紅がやたらと目を引く。それは、女の下卑た笑いの伴い伸びたり縮んだりと、変幻自在に形を変えた。
女の後ろには、慌てた様子で彼女を宥める使用人らしき年増が控えている。手に朝餉の膳を持っていることから、丁度座敷牢にいるみどり達に食事を運ぶところだったのだろう。
――あの女が、何故ここに?
みどりは固唾を呑んで女の一挙一動に注視した。愛想笑いの一つでもみせれば良かったのかもしれない。しかし如何せん、予期せぬ来客にその余裕も消え去っている。
人も出歩かない時間帯に、一人こそこそと動いているところをこの女に見られてしまったのだ。時麿殺しの犯人も捕まっていない以上、疑われても何らおかしくはない状況である。
よもや罪人として突き出されるかもしれない。
女――たしか丙江と呼ばれていたか――は困惑するみどりをよそに、部屋の中をちらりと見渡した後、口を開いた。
「あれ。あんたの旦那……あの佐田啓二みたいな男と、もう一人のよそ者はどこにいるの?」
「!その、他の部屋に移れないかと、交渉しに行きましたの」
みどりの顔に、更に焦りの色が添えられる。
水木とゲゲ郎が不在である理由を、みどりは把握できていない。しかし、もしその訳を説明できないとなると、いよいよ疑いが強まってしまう。
答えに窮し、何とかしどろもどろに言い訳をしてみる。とは言え、今しがた吐いた嘘もてんで当てずっぽうだ。もし彼らが違う目的で行動していた場合、みどりが虚偽の報告をしていたと後から追及されかねない。
現に、丙江は何やら匂わせるような台詞を呟き、にやにやと笑みを深めた。
「ふうん。誰と交渉しに行ったって?」
「それは、」
「ふふっ、教えてあげましょうか~?」
「え?」
みどりが彼女の言葉に首を傾げると、丙江は未だ後ろに控えている使用人のほうへ振り向いた。
「ねえ、ちょっとあっちに行ってよ」
「え?丙江様、私は奥様に言われてこの部屋を……」
「あんた、このまえ庚子が嫁入り前に使っていた桐箪笥を漁ってなにしてたの?」
「!」
丙江が言い放った言葉に、今度は使用人が言葉を失い固まった。その反応を顧みるに、後ろめたいものを隠しているらしい。
使用人は真っ青な顔になり、辛うじて「失礼しました」と震え声を絞り出すと、すぐさま部屋を出ていった。
そして、室内にはみどりと丙江の二人だけが残されたのである。
使用人を追い払ってまで、どういう意図があるのか。再び、丙江が先程のように繰り返して告げた。
「で、あんたの旦那が誰に交渉しに行ったか教えてあげようか?」
やけに勿体ぶった言い方をするものだ。ただでさえ夜明け前に徘徊する姿を見られ、みどりは下手に出られない。それを良いことに、丙江は小動物を甚振るかのように詰め寄った。
「うちの未通女い姪っ子……まあ、それも見た目だけだけど、フフッ。そう、あんたの旦那はうちの姪っ子に話をつけに行ったわけ」
「そうでしたの」
「あんたも顔くらいは見たんじゃない?器量も良いの。あんたの旦那も、気をつけたほうがいいよ。って言っても、もう遅いか。アハハ」
「…………」
“気をつける”という言葉が何を意味するかは、すぐに分かった。
みどりが黙ったまま視線をちらりと動かすと、丙江は更におかしそうに声をあげる。
そして続けざまに重ねた。
「あんたさ、此処から出て行ってくれない?」
「えっ」
「うちの姪っ子――沙代も年頃だし、傍に侍らすなら田舎の土臭い連中より、東京から来た男のほうが、叔母としても嬉しいし。それにあんたの旦那からみても、うちの家に入って尻尾振るほうが人生楽できるでしょ?」
明け方に遭遇した話を、丙江は一切口にしなかった。その代わり、なんともまあ予想外な話題を持ち出してくる。
「沙代も憎からず思っているみたいだし、ねえ?だから…………邪魔者は、早いところ退散してよぉ」
相変わらずアハハと笑いを添え最後に言い捨てると、丙江は満足したのか部屋を後にした。
再び一人きりだけになった空間に、ぽつんとみどりだけが残される。
すっかり眠気も消え失せ、代わりに不愉快な感情が胸を占めた。
(なんだ、今の女……)
水木なんて、己の成り上がりのために巻き込んだ男の一人だ。丙江は二人の仲を揺さぶるつもりのようだったが、そもそも偽物の関係性にすぎない。ゆえに、どれほど突かれようが痛くも痒くもない。
しかし、わざわざあんな嫌味を吐き捨てるためだけに来たのだと思えば、そのひん曲がった根性に悪態をつきたくなるのがみどりの性分であった。
(金持ちの家に生まれながら、気楽に男に股開いて、あまつさえよそから来た人間に嫌味ぶつけて暇を潰す、だ?とんだろくでなしを抱えたもんだね、この村は……!)
大声を出せば聞かれかねない。今すぐ叫んで溜飲を下げたいのをぐっと堪え、みどりは心の中で文句を連ねる。
(『出ていけ』だって?誰が出ていくもんか!この家の人間と認められて、贅沢し尽くすまで絶対に帰らないさ!)
先程訪れた使用人が置いていった朝餉の膳を乱雑に掴むと、みどりは飯を口いっぱい頬張った。
その勢いたるや、まるで自分を侮った女への、声にならぬ抵抗のようであった。