形見のブローチに龍賀の名が彫られている事実を知ってから暫く経った頃。
みどりは夜行列車に揺られながら、まだ見ぬ哭倉村に思いを馳せていた。
血液銀行に勤める男を客にとったあの日の夜。
男は明け方に起きると、自分がべらべらとみどりに龍賀の情報を喋ったことを綺麗さっぱり忘れていた。
酒の影響で痛む頭を抑えながら、金を放るように投げ捨てる。まるで虫けらのような扱いを受けたものの、龍賀の話を聞けたみどりは男の振る舞いなど気にも留めなかった。寧ろ、龍賀の本家のある「哭倉村」という土地がどこにあるのかさえも教えてくれて有難いとさえ感じられる。
男を大雑把に見送った後、みどりは懐にしまったブローチと少ない貯金を取り出しにんまりと笑った。
僅かな金だが、辛うじて列車の切符は買えるはずだ。
金を数えて更に笑みを深めたみどりは、思い立ったら吉日と言わんばかりに目的地を目指して準備を始めた。
そして、現在に至る。
電球の頼りない明かりの中、夜行列車は山間部を通り過ぎていく。
都会から離れるにつれ、窓から見える景色も木々や真っ暗な空ぐらいで暇つぶしにもならない。
あくびを零すと、みどりは足を組んで列車の座席に凭れた。貧しい生い立ちに反して、身に纏う服は巷で流行りの装いである。ニュールック・スタイルのふんわりとしたスカートに、首元は「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンに倣いスカーフを巻いている。
今からかの龍賀家に向かうのだ。金持ちに至る旅なのに、いつものみすぼらしい娼婦の恰好してはきっと親族と認めては貰えないだろう。
一張羅を買って気合も十分である。形見のブローチに彫られた名前だけで、遠路遥々ここまでやって来た。他人からみれば呆れるほどの富への執念である。
しかし、切符代やその他諸々の金を集めるべく頻繁に売血をしたせいで、みどりは時折立ち眩みや気分の不快感を覚えるようになった。
優れない体調のまま列車に揺られていると、在りし日にはじめて列車に乗った記憶が蘇る。
東京に戻るべく、初めて男に身体を売った。だが今は東京を出るために列車に乗っている。
気分が悪いせいか、幼かったあの頃を振り返ると感傷的になってくる自分がいる。
今から金持ちの一員になるのに、そんな過去は思い出す必要は無い。みどりは己を叱咤した。
しかしその意気に水をさすかのように、列車内は他の乗客達が煙草を吹かして煙が充満していた。故に不快な心地がなかなか消えてくれない。
その上、通路を挟み隣の席に座る男も煙草を吸おうと、ごそごそとマッチを取り出す気配をみせた。
――ただでさえ煙たいのに、すぐ横の風上で煙草を吹かれたら余計臭くなるじゃないか。買ったばかりの服に臭いが移ったらどうしてくれるんだ。
この時代、煙草は娯楽の一つである。
男に抱かれて得た金で煙草を買う娼婦も少なくない。しかし、以前ためしにと煙草を吸って不味いという感想しか出てこなかったみどりは、それからというもの煙草には手を出していない。
だからこそ、吸わない立場の女からしてみれば、他人の吐いた煙草の煙など有害なものでしかなかった。
みどりは眉をひそめ隣の男の顔を見ようと目を開け横を向く。
わざとらしく咳込むか、文句の一つでも言ってやろう。
喧嘩っ早い娼婦は息巻いたが、その考えは男の姿を捉えた瞬間すっと消えた。
年頃は二十、三十代頃か。みどりよりも年上だろう男の顔の左眉には一筋の傷が走っている。そして同じく左側の耳も中途半端に欠けており、穏やかでない経歴を匂わせていた。
だが、みどりの目を引いたのは男の外見でない。
その背後に渦巻く幽霊の姿だった。
マッチを手に火をつけようとする男の背後には、どこか悲し気な表情を浮かべたこの世ならざる者が蔓延っている。
列車内に蔓延する煙と同じようにかすかな気配だった。故に、彼らの姿は生者である男にとっても視えない。
(……顔の傷からして戦場帰りかやくざ者のどっちかだし、あんなもん抱えてるのも納得だ)
幽霊を抱えている男に接触しては、面倒なことになりかねない。
先程までの勢いから一転、開きかけた口を閉じ、目が合わないようみどりは眠り込もうとした。
しかし今度は、男のほうが唐突に立ち上がりみどりのいる座席を見つめ始めた。
しまった、と寝たふりをしながらみどりは焦った。ちらりと一瞥しただけのつもりだったが、じろじろ見ただろうと絡まれるやもしれない。
あまつさえ幽霊持ちの男だ。何か言われてもとぼけるか、あるいは媚びを売ってその場をしのぐ他ない。
わずかな緊張感を胸にみどりが男を警戒していると、更に異変が起こった。
「お主、死相が出ておるぞ」
「!」
すぐ近くで、何者かの声が聞こえた。
驚いて肩を震わせたものの、寝たふりを続けたまま薄目で前を確認する。
幽霊を抱え込んでいだ傷の男は通路を挟んだ隣の座席にいる。しかしたった今、声がしたのはみどりのすぐ前方からだった。
何かが、目の前の席に座っている。
項垂れるように首を下に向けているせいで、その“何か”の顔までは見えない。ただ、薄く開いた目には、紺色の着物と急に薄暗くなった列車の床が映った。
はじめは、横にいる傷のある男の抱える幽霊がみどりに絡んできたのかと思った。稀ではあるがみどりのような、自身の視える人間に接触しようとする幽霊がいるためだ。
だが予想に反し、目の前にいる“何か”は真向いのみどりではなく、傷の男に語りかけている様子だった。みどりのことはまるで意にも介さない。
「この先地獄が待っておる。儂には見えるのじゃ。視えないものが視えるのじゃ」
「なに寝ぼけたこと言ってんだ、爺さん」
このときはじめて、傷の男も声をあげた。己の背後の幽霊には気付いていない様子だったが、“何か”の存在を認識できたようで、気味の悪そうに訝しがる声がみどりの耳まで届いた。
「現にそら、お主の後ろ……大勢ついておる」
その声を最後に、“何か”の気配が消えた。
いつの間にか、列車内には電球の明かりが戻っている。
その時になって漸く、みどりは寝たふりをやめて顔をあげることができた。
――何だったんだ、今のは。単なる幽霊ではないが、明らかに普通の人間ではなかった。
傷の男とみどり以外の人間は先程の異変に気付いていない様子で、辺りには相変わらず煙たい臭いが蔓延している。
鳥肌をさすりながら、みどりは居住まいをただした。
幼い頃から幽霊をみることのできたみどりにしてみても、先程の異変は味わったことのない体験である。
「失礼、ご婦人。そちらの……お連れの男性は、どちらに行かれましたか」
傷の男が、立ち上がった姿勢のままみどりに尋ねる。
たった今、自分に語りかけた“何か”がみどりの関係者とでも思ったのだろう。はじめて自分めがけてかかった声に、みどりは改めて横を向き、傷の男の姿をまじまじと目で捉えた。
“何か”が消えたのと同じように、直前まで男の背にいた幽霊の姿も消えている。
みどりはわざとらしく胡乱な表情をつくり、傷の男に答えた。
「何のことだい?あたしゃ連れの人間のいない独り者だよ」
◆◇◆◇
――変なものをみてしまった。
駅に到着したみどりは、列車内で起こった出来事を思い出しながら次の移動手段を探していた。
傷のある顔、背後にいた幽霊、そして極めつけには他の幽霊とは違う謎の男の存在。
これから栄えある龍賀の家に行く以上、明らかに尋常じゃない奴らに関わる利点はない。
そう考えたみどりは、傷の男に声をかけられても知らぬ存ぜぬを押し通した。男は未だ納得のいかない様子をしていたが、それ以上みどりに食い下がることもせず再び煙草を味わっていた。
奇妙な出来事に遭遇したが、駅を降りた以上もう関わることはないだろう。
近くの幽霊より遠くの縁戚だ。
無事に目的の駅まで辿り着いたみどりは、先程の記憶を忘れるように、前向きにこれからの将来を思い浮かべる。
その足取りは、実に軽やかだった。
だが。
「哭倉村ぁ?お客さん、これまた辺鄙なとこまで行こうとするね。あそこまでの道は随分荒れているし、車を走らせられるのはウチぐらいですよ。本当に行きますか?」
タクシーの乗り場で声をかけた運転手からの返事に、みどりは渋々頷いた。
そして彼女と同調するように、隣に立つ人物――傷の男も頷いたのである。
哭倉村へ向かうには、駅から降りてさらにタクシーを使う必要があった。
しかし目的地が町から離れた場所にあるからか、駅の乗り場に居座るタクシーも一台しかいない。
――今のうちに乗らなければ。
みどりが運転手に声をかけると同時に、何者かの声も被さった。
「「すみません、ちょっといいですか」」
自分以外の声に目を丸くして顔をあげると、列車内で乗り合わせた傷の男もタクシーを捕まえるべく声をあげた。
(げっ、さっきの男じゃないか!)
みどりは苦虫を噛みつぶしたような顔で男をまじまじと見た。
幽霊を抱え、不可思議現象を引き起こした男とまた会うなんて。
男もタクシーを使いたい様子だったが、田舎の駅に残るタクシーは一台しかいない。もし先に男にタクシーをとられたら、次に別のタクシーを探しだすまでにどれほどの時間がかかることやら。
こうなりゃ先にこっちが金を出してタクシーを動かせるしかない。
傷の男が次に口を開くよりも早く、みどりは運転手に用を告げた。
しかし、男も同じ考えだったのだろうか。結局、二人はまたしても同時に目的地を告げたのであった。
「「哭倉村まで」」
「えっ」
「ん?」
素っ頓狂な声をあげ、二人はお互いを見た。
――まさかこいつも哭倉村まで行くのか。
みどりが目を丸くして男を見ると、男もまた同じことを考えていたのか驚いた表情を浮かべている。
一瞬だけ乗り合わせるのを躊躇ったものの、みどりは運転手から言われた言葉に渋々首を縦に振った。
狭い車内にみどりと傷の男の二人が加わった。
タクシーのエンジンが作動し、ぐらぐらとゆれながら駅から離れていく。
何とも気まずい雰囲気に、みどりは窓の外を見ながら腕を組んだ。
「お二人は新婚旅行ですか?それにしては変わった場所を選んだもんですね」
不意に、運転手が口を開く。
どうやら、辺鄙な場所にある田舎に二人もの人間が向かうのが珍しいらしく、みどりと傷の男の関係性を誤解している様子だった。
(冗談じゃないよ!……いや、ちょっと待ちな……)
ただでさえ列車内で妙な出来事を引き起こした男だ。そんな者と良い仲だと勘違いされるのは勘弁願いたいと思ったみどりだったが、ここである下衆な考えがよぎった。
みどりはしがない娼婦だ。男に身体を売り、さらに貧血になるまで血も売った。その甲斐あってハイカラ服やら切符代やらの出費は賄えたものの、残りの金は心許ない額である。
龍賀にさえ辿り着ければ最早今後の心配など要らないが、手元の金は出来る限り残しておきたい。
みどりは下卑た笑みを浮かべた。
そして、隣から否定の声があがるよりも早く、猫撫で声で男の腕にすり寄った。
「いや、違いますよ。隣のご婦人は――」
「ええ、そうなんです!主人と夫婦水入らずの旅なのよ」
「はあ!?」
傷の男が冗談じゃないと咥えていた煙草を落としかけた。
それでもみどりは男の腕に縋りついて白々しく妻のふりを続けた。
「そりゃめでたいですねぇ。あそこは色々と噂があるけど、まあ、楽しめたらいいですね。――それじゃ旦那さん、料金のほうお願いします」
「だから、違――」
「楽しみよねぇ?あ・な・た!!」
運転手が、みどりの大根役者っぷりにころりと騙され、傷の男に料金を請求した。
してやったりと、みどりがは心の中で拳を握る。
他人との相乗りで車に乗れば正規の料金を払わされるやもしれないが、連れ合いとの乗車となればかかる金も安く済む。
みどりが男の腕を抱く力を強めた。まるで有無を言わさないような牽制ともとれる行動に、傷の男は眉を潜めて自らにしなだれかかる浅ましい女を見下ろした。
――何を考えているんだ、この女。
運転手に訂正する意欲も削がれ、傷のある男が大きなため息を吐く。
そして嫌々ながら、目的地に着くまで夫を演じさせられたのである。
「あんた、どういうつもりだ?」
「いったい何の話やら」
哭倉村の少し手前、大きなトンネルのもとでタクシーを降りるや否や、傷の男――水木が訝しがるように目の前の女に尋ねた。
するとみどりはとぼけたように首を傾げ、皆目見当がつかないと再びわざとらしい演技を重ねた。
「いきなり夫婦の真似事なんかさせられたんだ。一体何のつもりで……ああ、わかった。入り用の金を安く済ませるつもりだったのか」
「ご名答。いやあ、助かったよお兄さん。他人の相乗りだったら、お互いがそれぞれ高い金を払わされるかもしれなかっただろ。お兄さんだって得したじゃないか」
「だからと言ってもな……」
水木はみどりを問い詰めながらも、自分で答えに辿り着く。
随分と強欲で、図々しい人間と乗り合わせてしまったものだ。
男が払った額のおおよそ半分を手渡すみどりの姿に、水木は呆れかえった。これ以上付き合っていると、今度はどんな風にダシにされるか分かったものではない。
みどりにとっても、金が安くなるよう一芝居うったが、もう夫婦をする必要はないので男に縋る理由はない。ましてや、幽霊を抱えた相手なら尚更である。
「それじゃあたしは先に行くよ。あんたが龍賀に縁のある人間だったらまた会うかもね」
「龍賀?あんた一体――」
タクシー内での媚びる態度が嘘だったかのように、みどりは足早にトンネルに入り別れの言葉を残した。
途中、水木が何か言いかけたがそれも聞き流しトンネルを抜ける。
しかし彼が後に続きトンネルを潜り抜けると、女の姿はどこにも見当たらなかった。