「馬鹿言うのも大概にして、さっさと帰るんだね」
使用人が突然訪れた来客にぴしゃりと言い放ち、門を閉める。
木製の戸が軋み合う音を背に、すげなく追い返されてしまったみどりは呆然と立ち尽くした。
トンネルを潜り抜け哭倉村に足を踏み入れると、今どき都会では珍しい田園風景がみどりを出迎えた。
戦後の好景気に伴い、日本では環境問題が深刻化している。去年は富山でイタイイタイ病という病が公表された上、今年に入ってからは熊本のほうでも公害による健康問題が出ているとの話も耳にした。
哭倉村も電信柱が立ち並び、山奥の田舎にしては幾分発展している様子である。
それでも、村の中は空気は澄み渡っており、美しい自然が成されていた。稲は青々と伸び、木々の袖には葉が生い茂る。間違っても、東京のような環境云々の問題とは程遠い。
村の入り口付近の砂利道を歩いていると横腹に小さな祠がみえた。古めかしいものの、手入れされた形跡がみえる。村人がまめに訪れているのだろう。
そして村の傍には大きな湖が広がっており、その上に赤い鳥居の立つ小島が浮かんでいた。
道中、迷いながらもなんとか村の奥地まで進むと、ひときわ大きい建物が聳え立っているのが目に入る。
――きっとあそこが龍賀の家だ。
根拠のない確信を胸に、みどりは最奥の屋敷へ歩み続けた。
しかし、無常とも言えるような、当然とも言えるような展開が彼女を待ち受けていたのであった。
「すみません、龍賀さんのお家はここですか?」
「はあ、なんでございましょう」
屋敷にたどり着いたみどりは、その大きな戸を叩いた。
家の中の人間に呼びかけると、扉が開くのと同時に一人の女が現れる。
歳は若く見積もっても四十は過ぎているだろう中年の女だ。割烹着を身に着け手には箒を持っている。
きっと使用人の一人に違いない。
みどりは東京から持ってきたブローチを取り出して続けた。
「こちらのお家に、龍賀……えっと、名前に
「はい?」
素っ頓狂な声をあげ、使用人の女はみどりの姿を頭からつま先までじろじろと見下ろす。
歳の若い、浮かれた格好をした、よそからやって来た女。
ひとしきり眺めると、使用人の女はその外見と先程の妙な発言を併せた上で、ひとつの推理を練り上げた。
「……はあ、なるほどね。どうやって此処を嗅ぎつけたか知らないけど、旦那様の喪が明けない内におこぼれに預かろうって魂胆かい。昔は珍しくなかったよ、こうやってあんたみたいに落としだねを名乗ってやって来る人間が」
「へ?」
「龍賀雨だって?そんな人間いないよ。馬鹿言うのも大概にして、さっさと帰るんだね」
「え、ちょ……っ!」
がたん。
侮蔑の眼差しを向けみどりにそう吐き捨てると、使用人の女はいきなり戸を閉めそれ以上の会話を拒んだのである。
みどりは立ち尽くした。
どうやら彼女のことを、龍賀の縁戚を名乗り金を無心しにきた不埒者だと思っているらしい。
そして悲しいことに、実際に件の推理は概ね当たっている。
とは言え、ここまでやってきて早々に追い返されるのを黙って受け入れられる程、みどりは潔い女ではない。
彼女は扉の向こうにまだいるはずの使用人の女を呼び戻そうと声をあげる。
しかし努力の甲斐もなく、一向に返事は無かった。
「畜生!あの偏屈婆、あたしが龍賀の女になったらぼっとん便所の掃除ばかり言いつけてやる!」
みどりは頭を抱えた。
対応した使用人に恨み言を吐きながら、まだ諦められるかと戸に耳をあて内部の様子を確認する。
すると、何やらひそひそと話し声がみどりの耳に入った。よそから来た女に対して居留守を通しているが、使用人はまだ立ち去ってはいないようだ。あの女以外にも、裏手には他の人間もいるようで複数の声が聞こえる。
「旦那様の喪中だってのに、なんでまたあんな人間が来たんだい。ただでさえ今日は跡継ぎの発表に御籠りの準備で忙しくなるのに」
「村長達はもう中にいますよ。あとで報告しないと……」
「社長のもとにも男が来てただろ。水木とか言う奴」
「あれは東京の血液銀行からだってさ。でもあの傷は訳ありだね」
喪中?跡継ぎの発表?
名家の内部事情を一切知らないみどりは首を傾げた。
何やら龍賀の家では一大事が起こっている様子である。
そしてもう一つ、盗み聞きをするみどりの耳に、聞き覚えのある言葉が届いた。
水木。東京にいた頃、相手にした客も確か水木と言う名前を口にしていた気がする。
――そういえば、夜行列車やタクシーで乗り合わせた男の顔にも傷があったね。
少し前に相乗りした男の外見と照らし合わせ、あの男こそ水木だったかと合点がいった。
みどりのほうがトンネルを先に潜り抜けたものの、道に迷っていたせいで水木のほうが先に龍賀に到着したようである。
だが、今はかの傷のある男を気にしている場合ではない。
結局、あれからいくら戸を叩いても再び開かれることなく時間だけが過ぎていった。
追い返されたみどりは肩を落としたものの、仕方ないので屋敷を去り村人の家を訪ね、宿を探す方針に切り替えた。
しかしそこでもまた、問題が発生したのである。
「……帰ってください。よその方なら村の外の宿を使ったほうがいい」
「今はかみさんが熱出してるんだ。人を入れる余裕はねえや」
村には旅館が一つあったが、件の喪中の影響を受けて休業となっていた。
そのため、みどりは家々を訪ねて金と引き換えに宿の交渉をしたが、どの家の者にもことごとく断られてしまったのである。
中には用事があるからと拒否する者いたが、大体が「よそ者」という単語を出して断ってくる。
最後にはやけくそで襟元をちらりと見せ、いつものように住人の男を誘惑しようと試みたがそれでも効果はなかった。
(なんだい、据え膳すら手を出せない意気地なし!それに、気味の悪い連中ばかりでむずむずする!)
色仕掛けも失敗したみどりは、舌打ちと共に憤慨の意を示した。
確かに、見ず知らずの人間を警戒するのは当然の道理である。親切心を出して家に入れた結果、盗みでも働かれたら笑い話にもならない。
しかしながら、遠巻きにこそこそと噂し合い、その姿に気付いて振り返ると建物や畑のほうに引っ込んでは身を隠す。そんな村人達の様子に、みどりは不快感を抱いてついつい目の届きにくい裏手をつたって移動した。
村の中を歩き回るにつれ、次第にみどりの顔色が悪くなってくる。
もともと、夜行列車に乗っている時から色々あったせいであまり睡眠をとれていない。その上、哭倉村に来る前に頻繁に売血に通っていたので頭がくらくらとしていた。
――あと一軒回ったら少し休憩しよう。
そう思い再び歩き出そうとした瞬間、みどりは頭が真っ白になる感覚に襲われた。
(――まずい)
足から力が抜け焦りを覚えたが、如何せん遠のいていく意識のせいでどうにも支えきれない。
このままでは転んでしまう。みどりは咄嗟に目を瞑り迫りくるだろう痛みに身構えた。
ところが、待っても待ってもやってくるはずの衝撃が訪れない。
未だ優れぬ気分のままゆっくり目を開けると、丁度己の腋の下から差し込まれた紺色の袖が見えた。
「お主、大丈夫か?どれ、一度そこに座ってみるがよい」
顔のすぐ近くで男の声がする。
みどりが驚いて顔を横に向けると、そこには紺色の着物を纏った男の姿があった。
目を丸くしながらも、男に促されるまま木陰の下で座らされる。
深呼吸をしながら暫くの間座っていると、徐々に目のかすみもとれ気怠さも和らいでくる。
少しずつ体調が良くなる中、みどりは礼と共に改めて男の姿を確認した。
「どこの誰だか知らないけど助かったよ。もう少しで
「なに、礼には及ばんよ」
男にしては長めの髪だ。癖もなく伸びた髪は左目を覆っていて、みどりからは片方の目しか見えない。その分、右側のやけにぎょろっとした目が印象的に思える。もともと上背はあるようだが、下駄を履いている分さらに背が高い。
顔つき自体は更けてないが、頭は全て白髪な分おおよその年齢すら見当もつかない。
変わった外見だが、紺色の着流しに下駄を履いた風貌から、おそらく作家風情か何かだろう。
着物の色に夜行列車で遭遇した出来事が脳裏をよぎる。しかし、紺色の着物など男の服にしたら珍しくもなんともない。
どうせこの男はあの件とは関係のない他人だろう。
嫌な記憶を振り払うように、みどりは息を吐き男と列車の関わりを否定した。
「うむ。顔色も少し良くなったようじゃな」
座っているみどりと視線を合わせるように、着物の男が片膝をついて顔を覗き込んでくる。
よそ者を珍しがる排他的な村人ばかりかと思ったが、目の前の人物は親切だ。
未だ体調は完全には治っていないものの、突然降って湧いた好機にみどりはしめたと拳を握った。
「ごほっ、ごほ……。実は、胸のあたりも苦しくて。持病の癪が……」
「まだ体調が優れぬか?」
「ええ。申し訳ないけれど、少し診て頂けませんか?」
「?儂は医者ではないぞ?」
「そう言わずに。後生ですから……」
首を捻って聞き返す着物の男に、みどりは半ば強引に促す。
村人のいずれかを懐柔せねば、本日晴れて宿無しとなる身だ。この際相手を選んでいる暇はない。
――否が応でも男を誑かして今晩泊めて頂こう。幸いにも、こいつは他の村人より性格もましそうだ。
そう考えたみどりは、またしても色目を使って男に媚びた。当然持病なんて持っておらず、わざとらしい咳もたった今都合よく現れた症状だ。
「悪いが、儂は妻一筋でな。見知らぬ女人に関わって、あやつを悲しませたくないのじゃ」
「まあ、そんなご無体な……。げほっ、げほっ」
「体調が優れないなら医者を探してこよう。とは言っても、儂もこの村の何処に医者がいるかは分からぬが」
「へ?あんた村の人間じゃないのかい?」
みどりのくねくねした言動とは裏腹に、相手は頑な態度を貫いている。
既に目の前の女が娼婦であることに気付いているのだろう。みどりが己の身にしなだれかかろうとするのを察した男は、少し距離を開けながら重ねて告げた。
その告白に、みどりは拍子抜けと言わんばかりの間延びした声を漏らす。
村の人間じゃないということは、彼もよそから訪れた客だろうか。しかし、明らかに旅行客らしくない装いをしているが。
今晩の宿を確保すべく色目を使ったみどりであったが、相手も宿の無い人間ならその意味もない。
無駄な時間を使ってしまった、と彼女は大きな溜息を吐いて徒労を嘆いた。
「村人じゃないなら、あたしと同じくよそ者って訳かい。ならあんた、村の何処で宿を見つけたか教えとくれよ。ここの人間たら、よそ者よそ者って言うばかりで誰もあたしを家に泊めてくれないんだよ」
「宿は必要ないから取っておらぬ」
「それじゃあ、知り合いの家で世話になってるのかい?」
「それも違うな」
「はあ?」
――こいつ、さっきから何を言ってるんだい。
みどりは男の的を得ない回答に眉を寄せた。
しつこいぐらいに喉から出ていた猫撫で声は、いつのまにか彼方に消え失せている。あれほど必死に出していた咳も跡形すらない。
いずれにせよ、同じく宿無しの身の人間にこれ以上用事はない。
「あーあ……妙な男に引っかかって、無駄に時間を潰しちまった」
「それは儂のせいなのか?」
「倒れそうになってるのを助けてくれたのは感謝してるけど、これ以上あんたに構ってたら日が暮れちまうよ。ただでさえこっちは今日の宿を見つけきれてないのに」
みどりは仕切り直しだと頭を掻いて、ゆっくりと立ち上がった。少し休んだおかげで、眩暈の気配も感じない。
木を支えにしてパンプスに入り込んだ土くれを落としていると、その横で鋭い言葉に傷ついた男が考え込むように唸っている。
使えない男に構う暇はない。男の大仰な仕草を無視して立ち去ろうとした時、再び声が降ってきた。
「うーむ……。妻一筋とは言え、体調の優れない女人を放り出すのも気が引ける……」
「……?」
「そうじゃ、せめてこれを受け取ってくれ。これを使って、しっかり養生するとよいぞ。それではな」
「!?なんだい、金でも恵んでやろうってかい!?それなら早く言いな!」
そう言うと、男は懐から小さな包みを取り出した。
そしてそのままみどりに向かって包みを差し出す。
渡されるや否や、持ち前の強欲さでこの世を渡り歩いてきたみどりは、遠慮もせずに贈られた包みを受け取った。
男はその様子に満足したように頷くと、いつの間にか霧のように姿を消した。
しかしそんなことなど気にも留めず、みどりは包みに眼差しを向ける。
中身は不明だが、餞別代わりに贈られた品物だ。金銭か、もしくは簡単な食料のどちらかに違いない。
みどりは嬉々として包みを開けた。
包みの大きさからして中に入っている量は少ないだろうが、貰えるものなら何でも嬉しい。
――だが、中身を確認した瞬間その思いも吹っ飛んだのである。
「…………」
包みの中には、新鮮で、つやつやとした蛙の目玉がびっしりと詰め込まれていた。
「……あ、あンの、くそ爺ーッ!馬鹿にしやがってぇ……!どこ行った、絶対ただじゃ済まさないよ!!」
顔が火照ってくるのが分かった。行きずりの女にも優しい男だと思ったのに、とんだ悪質な揶揄いにまんまと踊らされてしまった自分が情けない。
怒りやら恥ずかしさやら、みどりの胸中にはあらゆる感情が駆け回る。東京の安宿で客をとっている時だって、ここまで質の悪い振る舞いをするろくでなしは少なかった。
――見つけたら張り倒してやる。
みどりは鼻息を荒くして激情に身を任せた。
そんな中、雷鳴の如き怒鳴り声をあげるみどりに同調するように、突如轟音が響き渡った。
(!?)
自分が想像している以上に大きな声で叫んでいたかと思ったみどりであったが、どうやら違う様子である。
驚いてあたりをきょろきょろと見回すと、空がぴかりと光った。
直前の轟音から、ずっと地鳴りのような音が続いている。
また転びそうになっては敵わないと、みどりは再び地面に座り込んだ。
(地震?それにしても大きいな)
座ったまま、建物が倒壊しないようにとじりじりと見晴らしのいい場所まで移動する。
暫くすると地鳴りは収まり、何事もなかったように木の葉が風に揺られていた。
みどりは地面についていた手をずらし、恐る恐るもう一度辺りを見回す。
幸い大きな被害も無く無事だったが、ここで彼女の心の中にある焦燥が更に煽られていった。
――寝る場所もない、食料もない(蛙の目玉はあるが)、そしておまけにこの地震――。
とんだ三重苦が降りかかったものだ。
早いところ宿を探さねばならないが、生憎村人達は排他的でそれも難しいだろう。
だからと言って、ここで立ち尽くしてはそれこそ野宿する羽目になってしまう。
腕を組み、みどりは思案した。
最早手段を選んでいる余裕は無い。様々な方法を考えないといけないのだ。
着物の男もとっくにいないし、他に使えるものがないだろうか。
そのとき、ある企みがみどりの頭に浮かんだ。
再び、龍賀の家の大きな門を叩く音があたりに響いた。
「ごめんくださーい!」
今日で何人目になるか分からない訪問者の気配に、使用人の女はやれ疲れたと溜息を零して戸に向かう。
先程の使用人とは違う、今度は若くて小柄な使用人の女である。
短く返事をして使用人は戸を開けた。しかし、その行動が間違いだったとすぐに気付く。
少し前、姉貴分である別の使用人から、妙なよそ者の女が訪れていたと報告があったのだ。すぐさま村長に報告されたため、暫くすればその所在は分かるだろうものの、まさかまた自分から訪ねてくるなんて。
案の定、開けたばかりの扉の前には、他の使用人が噂していたよそ者の特徴に合致した女が立っている。
対応した後、門の前で待たせてその間に男達を呼んでこよう。
そう考え、険しい顔で対応した若い使用人だったが、対照的に目の前の女は笑顔で切り出したのであった。
「こちらに、水木と言う男が訪ねてきてるでしょう?」