龍賀の後継者発表の場に立ち会った水木は、その最中で垣間見た一族の争いに辟易の念を抱いた。
彼は東京の帝国血液銀行に勤める男である。
龍賀家長女・乙米の入り婿であり、龍賀製薬の現社長である龍賀克典とは元々懇意の仲であった。そして、龍賀家の長男である時麿は身体が弱いと噂されていたため、時期後継者は克典になるだろうと踏んでいたのである。
しかし弁護士が遺書を読み上げたところ、亡き時貞翁の跡継ぎには時麿を、そして時貞翁の孫である長田時弥が成人した際には時弥が後を継ぐよう記されていた。
これを受け、克典が遺書をひったくろうと弁護士に詰め寄り、それを皮切りに関係者が次々と争いの輪に加わる。
後継者となった時麿が亡き父を悼み泣きだす場面もあったが、最終的には突如鳴り響いた轟音を契機に一連の騒動の幕が閉じた。
その後屋敷の下働きの少年に案内され、“御籠り”をするため離れに案内された水木は、大きな溜息をつきながら床に座った。
――頼みだった克典も跡継ぎにはなれなかった。あの血液製剤についても探らなければならないのに、どう取り入ったものか。
龍賀家前当主・時貞翁の訃報を聞き秘匿の地、哭倉村まで訪れた。それは単なる哀悼の意を示すだけではない。
大きな野心を胸に哭倉まで来たはいいものの、このまま帰る訳にもいかない。
水木は苛々をかき消すよう懐から煙草を取り出したが、火をつける前に先程の少年が再び姿を現した。
「お客さん、ちょいといいかい?」
芥子色の作務衣を身に着けた小柄な少年が、入口からひょっこりと顔を出す。
龍賀の家には“御籠り”という、葬儀の前夜に各々個室に籠り潔斎するしきたりがある。これに則り離れまで案内されたばかりだ。
まだ用事が残っているのか、と水木が疑問に思うと少年が口を開いた。
「『お客さん』に『お客さん』だぜ。あんたの奥さんだってさ」
「はあ?奥さん?」
水木は独身である。妻はおろか、恋人すらいない。
そんな自分のもとに、伴侶を名乗る人間が訪ねてきているだと?
龍哭に次ぐ出来事に嫌な予感のする水木だったが、流石に放っておくわけにも行かないため屋敷の入り口へ向かった。
「んもう、あなたったら!タクシーの中で喧嘩したからって、一人で先に行くことないじゃない!」
「うわっ!」
水木が入口に姿を現すや否や、何者かが物凄い勢いで駆け寄り抱きついてくる。
不意の衝撃に耐え切れず一歩のけ反る。それでも何とか尻餅をつかないよう踏ん張り、胸元に縋りつく何者かの顔を見て水木は硬直した。
「あんた、一体どうし――」
己が身に突撃した者の正体は、昼にタクシーで乗り合わせた女だった。
少しばかりの時間、行動を共にしていただけの女が妻のふりをして自分のもとまで訪ねてくる。
訳が分からないまま疑問を率直にぶつけようとすると、女――みどりは一層胸元に顔を寄せ、水木にしか聞こえない程度の小声で呟いた。
「(静かに!詳しいことは後で説明するから、今はこのまま夫婦のふりを続けてよ)」
「(はぁ!?あんた何考えてるんだ!どういうつもりで俺のかみさんのふりなんてしてるんだ!)」
「(だから後で説明するって言ってるだろ!借りは返すからこのまま合わせとくれ)」
みどりの小声に返事をしようと、水木の顔が下を向く。傍から見れば、男女が抱き合っているようにも映る。
少年が「かーっ!熱い抱擁だねえ!」と口笛を吹いて冷やかした。
この場には二人の他に、使用人の女連中から対応を押し付けられた下働きの少年しかいない。
たった一人の観衆の声に援護を得たと言わんばかりに、みどりはにやりと邪な笑みを浮かべ水木の耳に顔を寄せた。
「(おたく、血液銀行の水木だろ)」
「(!俺を知っているのか?)」
「(もしこの場であたしが妻じゃないって漏らしたら、門の手前であんたに遊ばれて捨てられた女ですって叫んでやる)」
「(……はっ、やってみろよ!それでどうなるってんだ?)」
なかなか協力に応じない水木に、痺れを切らしたみどりは脅しの言葉をかけた。
それがどうしたと煽り返すように、水木は彼女の台詞を鼻で笑ってみせる。
しかしそんな行動すらも超えるように、みどりは重ねて脅迫を続けた。
「(お得意先の龍賀の本家でそんな失態したら、面子が潰れちゃうねぇ。会社での立場もなくなるかも。おお、怖い怖い)」
「(脅しているつもりか?)」
「(脅してるなんてとんでもない。あたしはただ、女を弄んで執着される男よりも家庭のある男のほうが信頼されるって言いたいだけさ。会社のお勤め人なんかは、結婚しているほうが出世しやすいって言うだろう?)」
――だから、妻がいるフリをしているほうがあんたにとっても得になるんだよ。
あまりにも長く“抱擁”を続ける二人の姿に流石に飽きたのか、少年が欠伸を漏らしながら「もういいから、後は部屋でやってくんねぇか?」と野次をとばす。少し前までは存分に冷やかしていたくせに、猫以上に気まぐれである。
やがて、水木は今日で何回目になるか分からない溜息をこぼして降参した。
「……すまない、こっちは俺のかみさんなんだ。妻として前当主様の葬儀に参列したいって聞かなくて、ついて来たんだ」
やれやれと「伴侶の我儘に振り回される亭主」の仮面を身に着け、水木は少年にみどりを紹介した。
彼が折れたことに、みどりは満面の笑みを浮かべてスカートを翻した。
「主人がお世話になっておりますわ!それじゃあぼく、お部屋に案内してくださいな!」
機嫌よく手を合わせ少年に頼む女の姿は、どう考えても葬儀に参加する人間のものではない。
更に深く溜息をつく水木に、少年は「あんた、随分奥さんの尻に敷かれてんだな……」と同情の目を向けたのであった。
◆◇◆◇
「それじゃ、理由を聞かせてもらおうか」
離れに戻った水木は、つい先程できたばかりの妻を見下ろし険しい顔で問い質した。
何が目的かは知らないが、身分を偽り龍賀の家まで入り込んできた人間である。それも、自分を巻き込んで。
そんな者に穏やかに応じる義務はない。
しかし水木のしかめっ面も意に介さず、みどりは飄々と言い放った。
「いやあ、あんたとトンネルで別れてから宿を探したんだけど、この村の連中ったらよそ者を毛嫌いしてるみたいで全然泊まらせてくれないんだよ。龍賀の家もはじめに来たのに使用人に追い返されるし」
「……それで、俺を使って龍賀の家に入り込んで、今晩の宿を手に入れようとしたって訳か」
「ご名答!お兄さん、やっぱり頭の切れる男だね!さぞかし女からも持て囃されてるだろ?」
「……はぁ~……」
――こんなに格好いい男が独り身で助かったよ。おかげで妻のふりして乗りこめた。
村人の営む宿よりもずっと格の高い家に泊まれることに、みどりは大いに喜んだ。一方、おべっかを使われた水木は頭を抱え突然の出来事を憂いた。
――だが、状況を嘆くばかりではいられない。早いところこの女の考えていることを突き止めねば。
水木はまだ残っている疑問をみどりに投げかけた。
「そもそもあんた、どうして俺のことを知っている?何しに哭倉村まで来たんだ?」
「話せば長くなるよ。飯でも食べながらゆっくり話そう」
みどりは少し前に使用人が運んできた夕餉を指さし水木に告げた。
辺りはもう真っ暗だ。今日一日で色々な事が起きたせいで時間の流れがやけに早く感じる。
水木は彼女の提案を吞み、自分の膳に手をつけた。
「え~っと、まずはどうしてあんたのことを知ってるか、だったね。それは簡単。あたしが最初にこの家を訪れて追い返された時に、使用人がこそこそとあんたのこと噂してるのを聞いたのさ。『東京の血液銀行から水木って男が来てる』ってね」
――本当は、前にあんたの同僚とも寝てたから使用人の話だけが情報源じゃないけど。
心の中で付け足したが、この事実までわざわざ水木に言う必要はないので黙っておく。
水木の一つ目の質問に答えながら、みどりは箸で白米をつまんだ。その所作はかなり粗雑で、箸を使っているというよりも、二本の鉛筆を片手で挟んで遊んでいるようにすらみえる。
「二つ目の質問は、何しに哭倉村まで来たかだったっけ……。まあ、まずはこれを見ておくれよ」
次の質問に対して言及したみどりは、箸を持っていない手で懐から木彫りのブローチを取り出した。
みどりが物心ついてからずっと、肌身離さず持ち歩いているブローチである。
そのまま水木に渡すと、彼は訝しがるように受け取りまじまじと見物する。ブローチを裏返した水木は、そこに彫られている名前を声に出して読み上げた。
「『龍賀』って彫られてあるな……その下の字は削れて何て書いてあるか分からないが」
「実はあたし、小さい頃から親の顔も知らないみなし子でね。でもってそれは、あたしが幼い頃からずっと持っている形見のブローチさ。それに龍賀の名が彫られている……それって、つまり――」
「つまり?」
「――つまり、あたしは龍賀の血を引く人間かもしれないってこと」
真剣な面持ちでみどりが告白すると、水木は耐え切れずに口の中に蓄えていた汁物に咽せた。辛うじて零すことは防げたが、喉の不快感に苛まれる。
いったん口の中の物を嚥下し、その後思いっきり咳き込む。
暫くして呼吸が落ち着いてくると、今度は呆れを通り越した笑いがこみ上げてきた。
「……プッ、あっはっはっは!つ、つまり、あんたは、そのブローチに彫られた龍賀の名前だけをたよりに、哭倉村まで来たって訳か?ぶ、ブローチに、龍賀って書かれてるだけで、自分がその家の人間だって、」
「何がおかしいんだい」
「あんたの理屈に倣って、俺も自分の靴下に龍賀って書いてみるか。そしたら俺も、晴れて龍賀の人間だ、あっはっはっは!」
「馬鹿にするんじゃないよ!あたしは本気なんだ!」
水木の皮肉に、みどりは眉を寄せて怒った。しかし、最早そんな振る舞いが却って笑いを増長させている。
ひとしきり笑い飛ばした後、水木は落ち着かせるように深呼吸をした。
そして、改めてみどりという女について考える。
龍賀といえば、日本の政財界を牛耳る富豪の一族だ。戦時中、とある血液製剤を特定の顧客に卸し、莫大な財産を築き上げた。
名門一家と、あわや宿無しになるところだった女。
みどりの夕餉の膳に目を配ると、碗からはみ出したご飯粒が落ちている。
どうにも、龍賀とみどりの関連性をいまいち信じられない水木はやれやれと頭をかいて切り出した。
「はあ、あんたの事を社長や周りの人間になんて説明すればいいんだ……」
「あんたとあたしは一蓮托生の身なんだ。あんたが困らないように、他の人間の前で妙な振る舞いはしないって約束するよ」
「絶対に変なことを仕出かすなよ。『自分が龍賀の家の人間です』なんて余計なことも言うな」
「分かってるって、ひっそりと調べるつもりさ。それに、いずれちゃんと借りも返すつもりだよ。もしもあたしが龍賀の家の人間だって証明された時には、あんたの上司に便宜を図って出世させてやるから」
「借りは返すって、そのことかよ」
「おやま、不満かい?他のやり方で恩を返せって言うならそうするけど」
そう言うと、みどりはスカートの裾を捲り太腿を露出させた。加えて、流し目で水木を見やるサービスも忘れない。
わざとらしい嬌声を出しながら、みどりは水木を誘った。
しかし水木は全く動じる様子はない。むしろ、冷めた目で彼女を見つめ返してくる。
「冗談はよしてくれ。そら、もう飯を食ったならさっさと寝ちまいな」
「まあまあ、そう焦らずに。夜は長いんだから――」
「そっちの『寝る』じゃない。もう休めって言ってるんだよ俺は」
みどりの誘惑を一蹴した水木は空になった膳を寄せて、布団を敷き始めた。みどりも彼に続いて、自分用にあてられた布団を畳の上に敷き始める。
突然押しかけてきた女房のせいで、後からもう一つと届けられた布団だ。
水木は、みどりと距離を離すように壁に布団をくっつけた。そして彼女に声をかけて、置行燈の火を消す。
布団に潜り込んだみどりは、火が消えるのと同時に瞼を閉じ、睡魔の訪れを待った。
こんなに肌ざわりの良い布団は久しぶりだ。以前、太客が上等な宿に泊めてくれた際にくるまった布団といい勝負である。
――水木も丸め込めたし、あとは明日から龍賀のお偉いさんに色目でも使って接触しよう。
存外、事が上手く運べたと満足しながら、やがてみどりの意識は薄らいでいった。
声が、聞こえる。女の声だ。
みどりは真っ暗な視界の中、かすかに聞こえる声に耳を傾けた。
「名前はもう決めたの。女の子ならみどりにするわ」
女の声が語りかけるように響き渡る。しかし、その相手が果たして自分であるのかはみどりには分からない。
「日陰じゃない、お天道様の下で、健やかに育てるように。豊かな人生をまっとうしてほしいの」
女の声はまだ聞こえる。ひどく優しく、穏やかな声である。
相変わらず視界は真っ暗で何も見えない。聞こえるのは女の声だけ。
それでも、かつての路地裏で体験した凍えるような寒さや飢え、苦しみは一切感じない。
柔らかい綿に包まれたような心地に、みどりはこれが夢なのだと気付いた。
――きっと、この声の持ち主は、あたしの母さんだ。
「みどり」という名を慈しんで繰り返す女の声に、彼女は確信を抱いた。
(母さん、あたし、遠くから会いに来たよ。どこにいるんだい)
声は出せない。
しかし、自分はここにいるのだと、みどりは顔も知らない母親を想い続けたのであった。