碇ゲンドウがアディショナルインパクトを試みた、あの時ー。
碇シンジがネオンジェネシスを起こした、あの瞬間ー。
第9の使徒の生命と、肉体を失った葛城ミサトの意識は混ざり合った。特異な神の領域は、ミサトの魂をガフの部屋には送らなかったのである。
寂しい。
第9の使徒は、その感情をよく知っていた。
長く自身が封印されていた赤い少女の心の奥底には、いつもその感情があった。
サビシイノ……?
大切なものを、失うということ。
だから、この箱庭の世界を作ったのは、葛城ミサトであり、式波・アスカ・ラングレーであり、碇シンジでもあった。
『だから、ひとつになれっていうんですか?』
ーここなら、やり直せるのよ、シンジ君。
『あなたはミサトさんじゃない。そう思い込んでいるだけの、ただの哀れな出来損ないの生き物だ』
僕だって、そうだ。
ーどうしてやり直したいと思ってはいけないの?
『……………』
シンジは答えられなかった。
シンジは、人類補完計画を克服した世界線の自分たちを知っている。
その世界では、ミサトと加持が幸せに暮らしている未来もあった。
ずっと辛い思いを抱え込んできたミサトが、それを望むことの何がいけない?
でもー。
と、シンジは思う。
ー幸せだったでしょう? あの頃の二人でいられて。
『でも、それはきっと別の碇シンジだ。僕じゃないと思う』
ーなにを……。
『これが僕なんだよ、ミサトさん。自分勝手な想いで世界をダメにして。アスカや綾波にも酷いことをして……でも、今、必死にやり直してる。どうしていいかわからないけど、償いがしたいと思ってる。そういう、カッコ悪い自分なんだ』
でも、アスカが好きだと言ってくれる自分だ。
シンジのATフィールドは柔らかく、だが明確に第9の使徒の融合を拒んだ。
ー許さない。
まっすぐ意志的な眼差しを向けるシンジに、第9の使徒は敵意を見せた。
ーヒトリハイヤ。
ーカジクンニアイタイ。
ーニゲ、チャダ、メダ。
ーヒトツ、ニ、ナリタイ。イイ、イイイイィィィィィィィ……!
『シンジッ!』
アスカの意識の断片が割り込んだのは、その時だった。
ー……?
暗く、赤い海の浜辺に、少年と少女はいた。
少年が苛烈な表情で少女の首を絞めている。骨が軋む音が聞こえる。
にもかかわらず、少女はその少年を見上げながら、やさしく頬をなでた。
碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーの物語を、使徒は知らない。その先に何が起こったのかは、今も誰にもわからない。
少年は怯えたように少女の首から手を離し、啜り泣きを始めた。その様子を、少女は蔑むような眼差しで見下ろしている。
その双眸が自分に向けられ、ある言葉を紡いだ瞬間、使徒は短い悲鳴を上げた。
触れてはいけない二人の深淵に、使徒は触れた。
それは、「寂しい」などという生優しい感情で片付けられるものではなかった。
それを言い表わす適切な言葉は、ない。
剥き出しの感情の激流。
相手を掻き毟り、血を流し、罵倒しながら、微笑み合うようなー。
キ
モ
チ
ワ
ル
イ
ー……イ、アアアアアアアアァァァァァァァァァ……!
補完を望んだはずの使徒は、自ら二人との融和を拒絶した。
ー避けて、シンジ君!
「ミサトさん!?」
光が弾け、意識の覚醒は同時に起こった。
だが、バルディエル・キャリアーは錯乱したようにすでにロンギヌスの槍を引き絞っている。
ー直撃……!
死を意識したシンジの横から、アスカが割って入った。
「シンジッ!」
「ダメだ、アスカ!」
アスカがシンジを突き離し、槍の直線軌道に弐号機の頭部が入った。
イレギュラーな事態がふたつ、発生する。
ひとつは、槍が弐号機のモノアイから後頭部を貫通したにもかかわらず、アスカが痛みを感じなかったこと。
もうひとつは、光の濁流を引き裂くように零号機がサイドから現れ、バルディエル・キャリアーに突撃を仕掛けたことだ。
「綾波!」
「これ以上はやらせない!」
ガンマ線レーザー砲の零距離射撃。
リミッターを解除し、フルチャージ状態の砲口を、零号機はバルディエル・キャリアーの胸部コアへ到達させた。
トリガーインパクトの直前、しかし別方向から姿を現したサンダルフォン・キャリアーのマグマ放射が零号機の脚部に接触し、その照準を僅かに押し上げる。
「うぅ……!」
それでも、この攻防の軍配はレイに上がった。最大チャージの一撃は、バルディエル・キャリアーを遥か後方へと吹き飛ばしながら、頭部から肩部にかけてを消し炭にした。
レイは止まないレーザー砲の照射を右方向へ薙ぎ払い、サンダルフォン・キャリアーのみならず、その背後から接近しつつあった二体のエンジェル・キャリアーごと、三体のエヴァもどきの胴体を真横に両断した。
光がジオフロントの天井部目掛け、嵐のように抜けていく。スフィアの境界線で爆炎が巻き起こる中、アスカはエントリープラグ内で放心していた。
「マ、マ……? 守ってくれたの?」
弐号機とアスカの神経接続はカットされていた。代わりに、もうアスカに弐号機を操作することはできなかった。
エントリープラグが強制的に排出され、ハッチがオープンする。
「アスカ、奴らが来る! 早くこっちに!」
「ありがとう……。ありがとう、ママ!」
初号機の手の平へ飛び乗りながら、アスカは叫んだ。
だが、弐号機は何も応えなかった。
ー預かります。
量産型エヴァから、アスカを守ってくれた。
アスカが獣になるのを防いでくれた。
シンジは無意識のうちに、弐号機へー。
キョウコへ。
ー頭を下げた。
「シンジ!」
「アスッ……ん……」
初号機のエントリープラグへ乗り込んだアスカは、LCLで満たされるよりも先にシンジの首へ両手を回し、深いキスで唇を奪うことで、自分自身を満たした。
数日ぶりのキスは、血の味がした。
その途端、エントリープラグ内にアラート音が走り、機体が小さく揺れた。アスカを強制射出しようというのだ。
「ダメだよ、綾波!」
綾波?
思わず口走った自分自身に、シンジは驚く。
綾波レイは、目の前の零号機を立て直しながら、再びレーザー砲のチャージを始めている。
ーそうか。母さんの代わりに、君は……。
シンジとアスカは、初号機の中にロングヘアーの綾波レイの鼓動を感じた。
偽りのこの世界では、一人一役。だからシンジとアスカの世界のレイは、初号機との融合を選ぶことで、スフィアの内部へ強制介入した。
「ありがとう、綾波。ずっと、僕のことを守ってくれて」
アラートが解除された初号機は、バルディエル・キャリアーに向けて体勢を立て直した。その姿勢はもう、背部を丸めた前傾姿勢ではなかった。
バルディエル・キャリアーは吹き飛ばされた上半身の蘇生をすでに終えていたが、頭部の右半分の修復には至っていなかった。周囲に配置したエンジェル・キャリアーも、二体しか確認できない。スフィアの境界線は、不定期に黒と白を反転させている。
回復したくても、できないのだ。使徒は神ではない。アスカとレイが与えたダメージの蓄積は、無駄ではなかった。
そこからわかることがもうひとつある。
ーこいつが宿主として寄生しているのはミサトさんじゃなく、この世界そのもの……。
葛城を頼むよ、シンジ君。
擬似的な補完領域の中で、シンジは加持リョウジの声を確かに聞いた。
シンジとミサトはいつも、言葉が足りなかった。
だが、そういう時にどうすればいいのか、シンジはもう答えを知っている。
ー加持さんの想いごと、ぶつけるしかない!
「帰ろう、アスカ。僕たちの物語に」
アスカは悪巧みをしたような表情でニヤリと笑ったが、シンジの横顔に視線をやって、その笑みが呆けたように崩れる。
一瞬、シンジの表情がひどく大人びて見えた。
それは、二十八歳のシンジとは異なる。首元まで伸ばした髪を後ろに束ね、強い意志を帯びた眼差しで未来を見据えている、高校生の碇シンジ。
その姿にアスカは見惚れ、気づくと頬を赤く染めていた。
「アスカ?」
「なんでもない!」
アスカは目の前のシンジに心の中で謝罪し、同時にもう一人の自分へ嫉妬した。
重なっていた事象は不安定になり、異なる世界の可能性をアスカへ垣間見せた。
高校生の二人は、きっと、理想的な関係だった。そんな未来を紡いだ、アスカとシンジもいるのだ。
でもそれは、別の二人の物語。自分の宝物は、目の前にいる優柔不断で唐変木なシンジだけだ。面と向かって「好きだった」と言ってくれた、このシンジだけなのだ。
「フロントは私! いつも通りにね!」
アスカが前方に陣取り、シンジは後ろから包み込むようにシートへランデブーした。
「いくよ、アスカ。最大戦速。六十二秒でケリをつける」
「言うようになったじゃない」
シンジとアスカは二人で操縦桿を握り締めた。その上から、ロングヘアーの綾波レイの両手が重なったのを、二人は確かに感じた。
《援護します》
零号機の脚部はマグマによる裂傷が激しく、レイはその場にエヴァを片膝立ちで固定し、ガンマ線レーザーを構えた。
「ごめん、レイ」
アスカの感傷的な通信が走る。
「もっと一緒に、レイと出かけたかった」
《ありがとう、アスカ》
いつか、また。
どこかで。
アスカとレイは笑い合い、前方から放たれたゼルエル・キャリアーの光線が二人の通信を遮断した。
「パージ!」
アンビリカルケーブルの排出を合図に、戦場は再び動き始めた。
初号機が力強く大地を駆ける。バルディエル・キャリアーとの軸線上に突き刺さった、弐号機が対量産型戦で手放したビゼンオサフネを奪取し、左へ軽くステップ。直後、ラミエル・キャリアーが腹部の繭から放った加粒子砲が空を裂いた。さらに右斜め前方への踏み込みで、正面に陣取るゼルエル・キャリアーの光線をも回避する。
タイムラグのない使徒幼生体の攻撃を、シンジの状況判断とアスカの反射速度が凌駕した。二人の感情と思考の共感覚を、初号機ー綾波レイがそのシンクロと伝達を完璧なものにする。
「零号機の援護射撃来る!」
「一体はレイに任せる! 突っ込むわよ!」
「右の方が発射感覚が短い、アスカ!」
「フィールド!」
初号機がレフトサイドへ回転しながら宙を舞った瞬間、零号機の二発目とラミエル・キャリアーの加粒子砲が真っ向から激突した。
高密度のエネルギー同士の衝突は空間を膨張・歪曲させ、けれどレイの意志力とレーザー砲の威力が上回る。
原子核のレーザーがラミエル・キャリアーの繭ごと上体を焼き切るが、捻れた加硫粒子砲はそれでも歪な角度で直進し、零号機の頭部へ直撃した。
眩い閃光が爆散する。
《あぅッ!》
「綾波!」
「レイッ!」
《行っ……てッ!》
レイとの通信は、そこで途絶した。
立ち戻っている暇はない。
零号機が崩れ落ちる中、初号機はコンパクトな縦の捻転からビゼンオサフネの一太刀をゼルエル・キャリアーへ浴びせる。ATフィールドとは異なる、エンジェル・キャリアー固有のパワーシールドが刃の侵入を阻害したが、内部電源稼働時間を犠牲にした初号機のフル・アクセルの斬撃はシールドをものともせず、ゼルエル・キャリアーの胴体を斜めに叩き斬った。
かつての強敵も、今の二人の前では役者不足だ。
「来る、シンジ!」
「わかってる!」
初号機の目前で、バルディエル・キャリアーは四本腕へと変化した。
紛い物とはいえ、無から有を召喚できるのはこの世界の創造主の特権だろう。肩部から伸ばした両手にはコピーロンギヌスを一本ずつ携え、残った二の腕にはパワードエイトと黒く禍々しいロングバレルの射撃兵器。
ー悪魔の背骨!?
後に人類が開発する、神殺しの武器のひとつ。それは、すでにチャージを終えて発射体勢に入っていた。
「ズルいッ!」
叫びながら、アスカはすでに、懐に構えたビゼンオサフネを最速で斬り上げている。全てを呑み込むマイクロブラックホールを発射されれば、エヴァといえど防ぐ手立てはない。
「いけえェェーッ!」
当然、シンジはアスカを信じて、彼女と両手を重ねた操縦桿を押し込む。
果たして初号機の真下からの斬撃の方が速かった。肘から切断されたバルディエル・キャリアーの片腕が宙を舞い、コンマ数秒後に発射された悪魔の一撃は、ジオフロントの上空を黒い直線を描いて斜めに抜けていく。
《! うっそおおぉぉぉー!》
凄まじいブラックホールのエネルギーは、山肌を呑み込み、削りながら、駒ヶ岳の射撃ポストで次弾装填をしていたあかしまの肩口を掠めていく。
《なんでこぉなるのおォォー!》
崩れ落ちる瞬間、反射的にマリが放った照準の定まらないライフル弾は、バルディエル・キャリアーのパワードエイトを持つ逆サイドの隻腕にヒットし、遠距離から充分に加速したバレットが手首から先をちぎり飛ばした。
「狙い通りッ!」
「すごい、アスカ! 全部計算してたの!?」
「当ったり前じゃないの!」
嘘だった。
アスカは息をするように、シンジの前では見栄を張る。シンジの手が、身体が、呼吸が、自分と重なり舞い上がっていることを、アスカは否定しない。
ー嘘ね。
うっさいわね、エコヒイキ!
たとえ偶然でも、ここが好機だ。
虚構のはずの一撃が、外世界にリアルな被害を与えた。こいつをこれ以上野放しにすれば、大変なことになる。
内部電源の稼働時間は、残り二十三秒。
ーそうよ、アスカ、シンジ君。
バルディエル・キャリアーの繭にその身を縛られたまま、ミサトは顔を上げた。
ー私を殺して。
ミサトの声を否定するように、残る二本の腕のうち、左手のコピーロンギヌスが諸刃の剣に形を戻す。
「ズルいってのよ!」
「舐めるなぁッ!」
二人の思考を乗せた初号機は、刺突と斬撃の波状攻撃に即座に対応した。
ビゼンオサフネで大剣を受け止め、いなしながら、同時に逆サイドから迫る槍の先端を側面から掴み、力ずくでその動きを制止する。
ー殺して、シンジ君、アスカ!
「いやだ!」
「イヤよ!」
シンジの感情に呼応した初号機が、その握力でコピーロンギヌスの先端を握り込み、へし折る。アスカが鋭く下から振り上げたビゼンオサフネの刃の軌道を追うように、斬り飛ばされたバルディエル・キャリアーの左腕と諸刃の剣が滑空した。
初号機は、そのままビゼンオサフネを放棄した。
親子喧嘩に、これ以上武器は必要ない。
「ミサトさん!」
「ミサト!」
残った右手で掴みかかり、喉元を噛み切るために大口を開けたバルディエル・キャリアーに、初号機はフル・パワーのアッパーカットを叩き込んだ。
にやけた顔面を強制的に閉口させられ、折れた歯が砕け散り、バルディエル・キャリアーの体は地面から浮き上がった。続け様に初号機が放った上段からの苛烈なバックスピンキックは、砂塵を爆炎のように巻き上げながら、第9の使徒の巨体を派手に後方へ押し込む。
前方上空へ錐揉み状に翻った初号機は、全重量と想いを乗せ、バルディエル・キャリアー目掛けて最後の一撃をアグレッシブに加速させた。
「これで!」
「ラストおォォォーッ!」
初号機の蹴りがバルディエル・キャリアーの胸部に深く突き刺さった瞬間、繭状の粘膜で保護されたコアに亀裂が走った。
バルディエル・キャリアーの巨体がくの字に折れ曲がり、なおも初号機は勢いを失わず、脚部をめり込ませる。
『おぉりゃあぁァァァーッ!』
滑るように大地を削りながら、初号機はバルディエル・キャリアーをジオフロント外周まで凄まじい威力で蹴り込んだ。
スフィアの境界にバルディエル・キャリアーが背面から叩きつけられた瞬間、世界を取り囲むスフィア全体が赤く明滅し、初号機から霧散していた光が爆ぜた。
バルディエル・キャリアーの肉体が瓦解する中、白い光がジオフロント全体を包み込む。世界は急速に終幕を迎え、コアの中に囚われたミサトだけを取り残した。
砕けたスフィアの上空に、果てしない青空が広がっているのを、ミサトは見た。
最初から、こんな子供じみた願いが叶うと思っていたわけじゃない。
ただ、会いたかった。
もう一度、二人で見たかっただけだ。
この抜けるような青空を、二人で。
もう、懐かしくなってしまった、あなたとー。
ミサトは、光の向こうに加持リョウジの姿を見た。
抱きしめられ、涙が溢れる。
深いくちづけの後、リョウジは、一度も言ってくれたことがなかった言葉を紡ぐと、笑顔を見せてー。
ミサトの頬を涙が伝う間に、もう彼は目の前にいなかった。
ーミサトさん!
ーミサト!
代わりに、少年と少女が、ミサトの首にしがみついてくる。
いつか、こんな風に三人で過ごした時間があった。
長く忘れていた、かけがえのないものが甦る。
ごめんね、二人とも。
ミサトの瞳から、別の涙が溢れた。
シンジとアスカを強く抱き返しながら、ミサトはもう、寂しくなかった。
「綾波!」
「レイ!」
シンジとアスカの声で、レイは目を覚ました。
零号機から強制射出されたエントリープラグの中、シンジとアスカが心配そうにこちらを覗き込んでいる。
あれから……。
「どうなったの?」
なぜだろう、強く握り締めていた石の欠片を眺めながら、レイは呟いた。
二人に肩を抱かれて、外へ出る。
零号機は大破し、F型装備の初号機と弐号機が片膝をついている。
ジオフロントには、機能を停止した無数の量産型エヴァの死骸が転がっていた。
何か、大切なことを忘れているーと、レイは思う。
大切な、何かを。
「!? あ、綾波?」
アスカが頬に手を伸ばしてきて、レイは初めて自分が泣いていることに気がついた。
「大丈夫、レイ?」
「うん……。大丈夫……ありがとう」
二人は、帰ったのだ。
なぜか、そんなことを思った。
人類補完計画は防がれ、葛城ミサトと加持リョウジは生存し、けれど碇ゲンドウと碇ユイは存在しない、二人目の綾波レイが生き残った世界。
これは、誰も知らない綾波レイの物語。
一度生まれた物語は、形を変えて。
きっと消えずに、続いていく。
やわらかな弾力の上で、シンジは眠っていた。
いい匂いがする。頬をなでてくれる、これはアスカの手だ。
「おはよう、アスカ」
「おはよう……じゃないわよ、バカシンジ」
ぎゅうっと頬をつねられ、シンジは思わず両目を大きく開いて呻き声を上げた。
「! そうだ! 使徒は? エンジェル・キャリアーは!?」
上体を起こして、辺りを見回す。そこでシンジは、自分がアスカに膝枕をしてもらっていたことに初めて気がついた。
駅のホームのベンチだった。
この駅は、見覚えがある。
シンジがミサトに初めて迎えに来てもらった場所。逃げ出したシンジが、ミサトに別れを告げた場所。
「ミサトさ……」
アスカの方を振り返ったシンジは、動きを止めた。体をすり寄せたアスカが、俯きがちにシンジの胸へ額を預けたからだ。
「アスカ……」
「帰ってきたみたいよ、私たち」
どうやらそのようだった。
二人とも、大人の碇シンジと式波・アスカ・ラングレーに戻っている。服装も、第3村を出た時にヴィレから支給されたユニフォーム姿のままだ。
アスカが顔を上げないので、シンジはおずおずと彼女を抱き寄せ、包み込んだ。
「やっぱり、こっちのシンジがいい」
「うん。僕も、アスカじゃなきゃいやだ」
アスカはなおも、顔を上げない。小さく震えるアスカを覗き込むほど、このシンジは野暮ではない。
「生きててよかった、シンジ……」
「アスカも、無事でよかった」
アスカがシンジの背中に両手を回す。
しばらく無言で抱き合った後、アスカが自分から顔を上げて、二人は深く、長く、唇を重ねた。無人の街だ、どうせ誰も見てやしない。
「アスカ……」
「ん……シン、ジ……」
飽きることなく抱き合う二人を引き離したのは、無粋ないびき声だった。
「え……?」
「ごめん……言い忘れてた」
こめかみに指を当てながら、アスカはホーム奥のベンチを指差した。
大した奥行きもないベンチで、どうやったらこんなに酷い格好で眠れるのだろう。
「すごいな」
「なんか、腹立つわね。鼻でもつまんでやろうかしら」
《見ぃ〜ちゃったぁ見ぃちゃったぁ〜♪》
その時、駅のロータリー側上空から、マリの声が響いた。
ホバークラフトで飛行するあかしまがゆっくりと高度を下げ、駅からロータリー付近の風をかき乱した。
「やっぱり生きてたか、あいつ……」
呆れ顔で、アスカがあかしまを睨みつける。
《っぱ、ハッピーエンドには王子様とお姫様のアツいキッスよね〜♪》
機体の外部音声でチュッチュッとキス音を撒き散らすマリに、アスカは両目を吊り上げて拳を振り上げる。
そんなアスカをいさめながら、シンジはもう一度、彼女の方を振り返った。
それは、加持リョウジからのギフトだった。
むにゃむにゃと寝返りをうちながら、葛城ミサトは穏やかな表情で微笑んだ。
※
第3新東京市が復元されるという事件は、未だ復興途上の世界各国を激震させた。
ジオフロントの地下へ向けて縮退を続けていた黒い球体が砕け、内部から膨張するように溢れた光は渦を巻き、空へ向かって霧散した。後には大量の白い鳥が飛び去っていったという。
不可解なその現象は世界中の国が観測しており、巨大な人影を見たという証言まで出回った。
この状況を利用しない赤木リツコではない。
赤木博士は、先の超常現象にあわせて奇跡的に帰還した葛城ミサトを世界復興の神輿として担ぎ上げ、ヴィレと日本こそが世界経済の担い手であると主張。体良くミサトをヴィレ総司令官として復帰させることで、自身は代表から退いた。
「半年以上も行方を眩ませてたんだから、これくらいやってもらわないと困るわ」
リツコは煙草を燻らせながら伊吹マヤにそうぼやいた。科学者であるリツコには、表舞台で組織を統括するようなポジションは性に合わなかったが、彼女がうれしそうなのは、表舞台から退場できたからという理由だけではないだろうと、マヤは思う。
「帰ってくるなら、『後はお願い』なんて、らしくないこと言うなっていうのよ、まったく」
世界は安定していないが、狂っているわけでもない。
そして、いつかのある晴れた朝ー。
「あれ? 出ないな」
コンフォート17の共同廊下。
角部屋のチャイムを押してしばらく待ってから、シンジは困り顔をアスカに向けた。
「また寝坊してんじゃないの?」
アスカはシンジを押し退けると、悪そうな表情でチャイムを連打した。
「ちょ、アスカ」
「いいのいいの。シンジがお節介なだけで、ホントは迎えに来てやる義理だってないんだから」
アスカが十二回目のチャイムを鳴らした時、ドタドタと慌ただしい足音が中から響いて、玄関のドアが勢いよく開かれた。
「だあぁぁーもう! 今用意してるから! 後生だから待って!」
叫び声を上げながら、ミサトは両手を顔の前で合わせてみせる。かろうじて制服には着替えているが、髪は乱れて寝癖も酷い。
「その後生ってやつ、これで六回目なんだけど?」
「ごめんってば、アスカ。もうほとんど用意できるから」
「焦らないでいいですから、ミサトさん」
お願いですから、国防に関する重要な会議にその寝癖のまま出ないでくださいーという言葉を、優しいシンジはすんでの所で呑み込む。
「甘やかしちゃダメよ、シンジ。ミサトはすぐ調子に乗るんだから」
「し、しどい、アスカ……」
「そんなこと言って、この前シンジに晩御飯作らせたの、私まだ根に持ってるから。これからはおいそれとシンジ貸し出したりしないからね」
「そんな、人を便利道具みたいに……」
「だってぇ、毎日毎日書類に目ぇ通すばっかりで大変なんだもん。昨日だって夜まで事務仕事してて寝坊しちゃったんだから」
「ウソだよ、それ」
廊下の奥から、エプロン姿にフライパンを手にしたリョウジが顔を覗かせた。
「母さん、深酒しただけだから」
「リョウちゃんの裏切り者っ」
「あぁーもうわかったから、早く残りの準備してきなさいよ!」
アスカに怒鳴られ、ミサトは苦笑しながら扉の奥へ引っ込んだ。
まったく……と鼻息を荒くするアスカを、シンジはうれしそうに見つめる。
ほったらかしにした息子と暮らせ。
親としての務めを果たせ。
自分たちと同じような苦しみを、自分の子供に背負わせるな。
ミサトに一時間近く正座をさせて、それがシンジとアスカが彼女に課した願いだった。
アスカはやさしいから、こうしてなんだかんだとミサトの様子を見に来るのにつきあってくれる。
「もう少しかかりそうだし、外で待たない?」
「それもそうね」
手をつなごうとしたところで玄関のドアが再び開き、シンジとアスカは勢いよく両サイドに飛び退いた。
「そうだ、アスカ。聞き忘れてたんだけど、シンちゃんにはあのこともう話したの?」
「まだよ! いきなり出てこないでよね」
「はーい」と返事を返しながら、ミサトは笑顔でアスカに意味ありげな視線を投げかけた後、戻っていった。
「? なんの話?」
「あー……まぁ、後で話す」
アスカが早足で歩き出したので、シンジも急いで後へ続く。
マンションの前のガードレールに並んで腰掛けながら、シンジとアスカはぼんやりと空を見上げていた。
快晴の青いキャンバスを、コッペパンのような雲がそよそよと流れていく。壊滅した第3新東京市が復元され、再びそこに人が住むなど、誰が想像しただろう。
「なんか、平和だね」
あくびをするシンジの顔を、アスカは仰ぎ見る。慈愛に満ちた表情で、自身の腹部に手を当てながら。
大きくなってきたら、またレイに服を買いに行くのをつきあってもらおう。
ジオフロントでの決戦。光に呑み込まれたアスカは、シンジと同じように、様々な自分が生きる無数の世界を垣間見た。
あったかもしれない未来。
赤い浜辺の二人。幼なじみな関係の二人もいた。
アスカは思う。
数多ある可能性の、どれが〝正解〟なのだろう?
あるいは、全ての道に等しく価値があるのだろうか?
ただ、ひとつだけ、共通していたことがある。
それは、どの世界線の自分も、シンジのことを好きになるということだ。
十四年の歳月の後、二人傷つけ合いながら、死に物狂いで愛し合い、確かめ合ったこの気持ちは、嘘じゃない。
この気持ちだけは、造り物じゃない。
辛い日々もあったけど、それを懐かしいと感じるのは、自分が今、ちゃんとしあわせな証拠なのだろう。
「シンジ。あのね……」
空を見上げていたシンジが、アスカの方を振り返る。
それをアスカが伝えた時、シンジは一瞬きょとんとした顔を見せた後、ぽろぽろと涙を流してアスカをやさしく抱きすくめた。
アスカはしばらく恥ずかしそうに両手を宙に泳がせていたが、やがてシンジの胸に顔を埋め、抱きしめ返した。
けれどすぐにミサトがやってきて、二人は慌てて離れる。
その様子を見たミサトは、やわらかな笑顔を浮かべて、シンジとアスカを両手で抱き寄せた。
三人の先には、抜けるような青空が澄み渡っていた。
了