1.富、豊かさ、考えるべきこと
2.豊かになるにはどうすれば良いか?
3.交換・貸借が行われる場所―――市場
4.神の見えざる手
5.誰かに何かを頼むこと―――人間が人間として生きること。
6.貸借、貯蓄、そして投資
7.貸借と利息率・利子率の仕組み
8.政治という市場
9.カネ
あとがき
примитивная и дикая экономика
Автор Гангут Курогане
1.富、豊かさ、考えるべきこと
人間は、そして我々は、この世に在って何かをすることで生きている。
この世に在って何かをすること、何かができることは、生きることそのものであると言って良い。
ならば、この世に在って何かをすること、何かができることこそが「富」であると言えるのではないだろうか。
では、この世に在って何かをすること、何かができることが「富」であるならば、「豊かになる」とはどういうことなのか?
それは、今日出来なかったことが明日出来るようになること、出来ることが増えること、ということになるだろう。
ならば、この世に在って何かをすること、何かができることが「富」であるならば、「貧しくなる」とはどういうことなのか?
それは、今日出来ていたことが明日出来なくなること、出来ることが減ること、ということになるだろう。
「貧しくなる」ことは避けられなければならない。
それで人間は、我々は「豊かになる」ことを目指せる。
今日出来ていることは、明日も出来ていなければならない。
それで初めて人間は、我々は今日出来なかったことを明日出来るようになる。
「貧しくなる」ことを避け、「豊かになること」を目指す。
それが人間が、我々が考えるべきことなのである。
2.豊かになるにはどうすれば良いか?
今日出来なかったことを、明日出来るようにするにはどうすれば良いか?
思いついたことを、気が付いたことを試みなければ、何も出来るようにはならない。
ならば今日出来なかったことを、明日出来るようにするにはどうすれば良いか?
そのためには思いついたことを、思いついたままに、自由に試みなければならない。
そのためには気が付いたことを、気が付いたままに、自由に試みなければならない。
出来ることを増やすにはどうすれば良いか?
出来ないことを誰かにしてもらう代わりに、誰かのために出来ることをする。
足りない物を誰かから貰う代わりに、余っている物を誰かに与える。
こうすることで自分も誰かも、それまで(十分に)出来なかったことが出来るようになる。
こうすることで自分も誰かも、出来ることを増やすことが出来る。
仕事や物を交換・貸借することによって人間は、出来ることを増やすことが出来る。
誰かのために何かをすることで、誰かのために何かを与えることで、出来ることを…富を増やすことは出来るのだ。
豊かになるにはどうすれば良いか?
豊かになるには、自由に何かを試みなければならない。
豊かになるには、誰かのために何かをしなければならない。
…自由に何かを試みること、誰かのために何かをすること。
それは人間が、我々がこの世で生きるということそのものでもあるのだ。
3.交換・貸借が行われる場所―――市場
出来ないことを誰かにしてもらう代わりに、誰かのために出来ることをする。
足りない物を誰かから貰う代わりに、余っている物を誰かに与える。
交換・貸借によって人間は、我々は豊かになることが出来る。
交換・貸借が行われる場所を「市場」と呼ぶ。
人間は、我々は生きるために、何かを得るために、市場で誰かのために何かをする。
では市場で何かを得るために、どれだけのことをすれば良いのか?
市場で何かを得るために、しなければならない仕事量を「価格」としよう。
価格が小さければ小さいほど、求める物は得易く、暮らし易い。
価格が大きければ大きいほど、求める物は得難く、暮らし難い。
それでは市場において価格は、どのように定まるのか?
誰かが市場で物を求めるとき、物を得るために出来る仕事量を「需要能」としよう。
需要能をWで、価格をPで表すと…。
P=W-Wq
P:価格
W:需要能
q:誰かの需要量(0≦q≦1)
求める物を全く持っていなければ、人間は物を得るために全力をあげる。
だからq=0ならばP=Wとなる。
求める物を既に持っていれば、人間は物を得るために何かをすることはない。
だからq=1ならばP=0となる。
物を得るために全力をあげなければならないなら、人間は物を得ることを躊躇う。
だからP=Wならばq=0となる。
物を得るために何もしなくて良いなら、人間は物を得ることを躊躇わない。
だからP=0ならばq=1となる。
(だからqは、価格Pの下で求められる物の量…需要量を表せている。)
P=W-Wq
この式は、需要量と価格の繋がりを示している。
需要量と価格の繋がりを示す式を、「需要関数」と呼ぶ。
市場で物を求める人間の数をDとする。
すると…。
DP=D(W-Wq)
=Dw-WDq
この式は、市場で物を求める人間の需要関数を足し合わせた式と捉えられる。
Dq → Qとして、これを市場に於ける需要量とすると…。
DP=DW-WQ
P:価格≡市場で物を得るために必要な仕事量
W:需要能≡物を得るためにできる仕事量
D:需要規模≡物を求める人間の数
Q:需要量≡価格Pの下で求められる物の量
この式は、市場に於ける需要量と価格の繋がりを示している。
この式が、市場に於ける「需要関数」ということになる。
市場にやって来る人間は、物を求める人間だけではない。
物を求める人間に、物を与える…供給する人間もまた、市場にやって来る。
そして物を与えるためには、まず物を産出・製造しなくてはならない。
物を産出・製造するために、実際にしなければならない仕事を「費用」としよう。
費用Cで、価格Pを表すと…。
P=Cq
P:価格(与える人間が、求める人間に求める仕事量)
C:費用
q:供給量
1より多く供給を求められれば、Cより大きな価格が求められる。
Cより大きな価格を示されれば、1より多く物を産出・製造することが出来る。
この式は、供給量と価格の繋がりを示している。
供給量と価格の繋がりを示す式を「供給関数」と呼ぶ。
市場で物を与える人間の数をSとする。
すると…。
SP=CSq
この式は、市場で物を与える人間の供給関数を足し合わせた式と捉えられる。
Sq → Qとして、これを市場に於ける供給関数とすると…。
SP=CQ
P:価格≡物を求める人間に要求される仕事量
C:費用≡物を産出・製造するために、実際に為される仕事量
S:供給規模≡物を与える人間の数…転じて、生産力・供給力の大きさ
Q:供給量≡価格Pの下で与えられる物の量
この式は、市場に於ける価格と供給量の繋がりを示している。
この式が、市場に於ける「供給関数」ということになる。
「価格」とは、市場で物を得るために、しなければならない仕事量だった。
「価格」は、市場で物を求める人間に対して求められる仕事量だった。
価格が小さければ小さいほど、求める物は得易く、暮らし易い。
価格が大きければ大きいほど、求める物は得難く、暮らし難い。
それでは市場において価格は、どのように定まるのか?
供給された物が、物を求める人間に行き渡るときに、物の価格は定まる。
需要量…需要関数のQが、供給量…供給関数のQに等しくなるときに、物の価格は定まる。
需要関数:DP=DW-WQ → WQ=DW-DP → CWQ=CDW-CDP
供給関数:SP=CQ → CQ=SP → CWQ=WSP
需要量…需要関数のQが、供給量…供給関数のQに等しくなるときに、物の価格は定まるから…。
CDW-CDP=WSP → WSP+CDP=CDW → P(WS+CD)=CDW
∴ P=C(DW)/(WS+CD)
P=C(DW)/(WS+CD)
P:価格
D:需要規模≡物を求める人間の数
W:需要能≡物を得るために出来る仕事量
S:供給規模≡物を与える人間の数…生産力・供給力
C:費用≡物を産出・製造するために、実際に為される仕事量
すると価格は、需要規模、需要能、供給規模、費用によって定まる…ということになる。
供給された物が、物を求める人間に行き渡るときに、物の価格は定まる。
需要量…需要関数のQが、供給量…供給関数のQに等しくなるときに、物の価格は定まる。
では物の価格が定まったとき、どれだけの物がそれを求める人間に行き渡るのか?
需要関数:DP=DW-WQ → SDP=SDW-SWQ
供給関数:SP=CQ → SDP=DCQ
価格Pが定まるということは、需要関数のPと供給関数のPが一致すると言うことだから…。
SDW-SWQ=DCQ → DCQ+SWQ=SDW → (DC+SW)Q=SDW
∴ Q=S(DW)/(DC+SW)
Q=S(DW)/(WS+CD)
Q:生産量≡実際に産出・製造され、求める人間に行き渡った物の量(あるいは、提供された役務)
D:需要規模≡物を求める人間の数
W:需要能≡物を得るために出来る仕事量
S:供給規模≡物を与える人間の数…生産力・供給力
C:費用≡物を産出・製造するために、実際に為される仕事量
すると生産量も、需要規模、需要能、供給規模、費用によって定まる…ということになる。
生産量が大きければ、多くの人間に物が行き渡っていることになり、それは市場が豊かであることを示している。
生産量が小さければ、限られた人間にしか物が行き渡っていないことになり、それは市場が豊かでないことを示している。
P=C(DW)/(WS+CD)
Q=S(DW)/(WS+CD)
P:価格≡市場で何かを得るために、しなければならない仕事量
Q:生産量≡実際に産出・製造され、求める人間に行き渡った物の量
D:需要規模≡物を求める人間の数
W:需要能≡物を得るために出来る仕事量
S:供給規模≡物を与える人間の数…生産力・供給力
C:費用≡物を産出・製造するために、実際に為される仕事量
4.神の見えざる手
価格Pと生産量Qは、いずれも需要規模D、需要能W、供給規模S、費用Cによって定まる。
需要規模Dは、もともと市場に物を求めに来る人間の数だった。
供給規模Sは、もともと市場に物を持ち込む人間の数だった。
費用Cは、産出・製造に掛かる時間などで推し測ることができる。
だが、需要能Wはどうか?
需要能は「物を得るために出来る仕事量」だった。
だが、この「出来る」とはどういうことなのだろうか?
「欲しい物のためなら、星の位置すら変えてみせる。」
そんなことを言っても、星の位置を変えられる人間など居るはずもない。
「そんな物のために、指一本動かすつもりはない。」
そんなことを言った人間が、実は百万の大軍を動かすことは出来たりもする。
需要能Wは、物に対する効用の大きさ…欲求の強さも示している。
需要能Wは人間の気分次第で変動するし、変動した需要能Wが「実際に出来る」仕事量と一致するとは限らない。
強気になりすぎて過大になることもあれば、弱気になりすぎて過小になることもある。
必要な物を行き渡らせるために、価格Pと生産量Qを定めるために、需要能Wの大きさは推定されなければならない。
そして市場には、需要能Wの大きさを推定し、価格Pと生産量Qを定める機能がある。
ここで少し仮定を置く。
もし 費用C>需要能W だとすると、需要側は供給側に頼らず、自力で物を得、必要な役務を自ら行うことになる。
だから C≦W
また生産力・供給力…供給規模Sは、今利用出来る資源や技術・知識によって制限を受ける。
しかし物や役務を求める人の数…需要規模Dは、現実的な制限と関わりなく大きくなりうる。
だから S≦D
では、市場は如何にして需要能Wの大きさを推定し、価格Pと生産量Qを定めるのか?
P=C(DW)/(WS+CD)
Q=S(DW)/(WS+CD)
D=2, S=1, W=2, C=1 とすると…。
P=1, Q=1 となる。
今、需要能Wが実はW=2.5であることがわかったとすると…。
P=C(DW)/(WS+CD)
Q=S(DW)/(WS+CD)
D=2, S=1, W=2.5, C=1
→ P=1.111, Q=1.111
価格Pは1.111に上昇し、生産量Qも1.111に拡大する。
このとき価格P=1.111は、費用C=1を超えている。
そして生産量Q=1.111は、生産規模S=1を超えている。
これは供給側が、需要側から費用を超える価格…仕事量を得たことを意味している。
そして供給側が、余分に得た仕事量を産出・製造量の拡大に充てたことを意味している。
Q=1.111を、供給規模Sに代入して計算すると…。
D=2, S=1.111, W=2.5, C=1
→P=1.046, Q=1.162
こうして拡大した生産量Qを、生産規模Sに代入して計算することを繰り返せば…。
D=2, S=1.162, W=2.5, C=1
→P=1.018, Q=1.184
D=2, S=1.184, W=2.5, C=1
→P=1.007, Q=1.193
…
そして、最終的に価格は P=1に戻り、生産量は Q=1.2 になる。
今度は、需要能Wが実はW=1.5 だということがわかったとすると…。
P=C(DW)/(WS+CD)
Q=S(DW)/(WS+CD)
D=2, S=1, W=1.5, C=1
→ P=0.857, Q=0.857
価格Pは0.857に下落し、生産量Qも0.857に下落する。
これは、需要側から得られた仕事量が、産出・製造に要する費用を下回ったことを意味している。
そして充分な仕事量を得られず、供給側が生産規模を縮小したことを意味している。
縮小した生産量Qを、生産規模Sに代入して計算することを繰り返せば…。
D=2, S=0.857, W=1.5, C=1
→ P=0.913, Q=0.782
D=2, S=0.782, W=1.5, C=1
→ P=0.945, Q=0.739
D=2, S=0.739, W=1.5, C=1
→ P=0.964, Q=0.713
…
そして、最終的に価格は P=1に戻り、生産量は Q=0.666 になる。
…市場には、需要能Wの変動に反応して、価格Pと生産量Qを変動させ、安定させる構造がある。
そして実際に価格Pと生産量Qを変動させ、安定させるのは…市場に立つ人間に他ならない。
需要側は、示された価格Pを受け入れ、あるいは拒むことで生産量Qを変動させる。
供給側は、生産量Qを増やし、あるいは減らすことで価格Pを変動させる。
幾千幾万の人間が、幾千幾万の耳目を以て、需要能Wに見合った価格Pと生産量Qを探り当てる。
…市場は、そんな構造を有しているのだ。
5.誰かに何かを頼むこと―――人間が人間として生きること。
市場には物を求めて、多くの人間がやって来る。
しかし市場で物を得るのは、物を与えるのは、一人一人の人間だ。
だから需要側が一人、供給側が一人からなる市場は、最も根本的な市場ということになる。
市場で行われていることは、交換・貸借だった。
交換とは、余っている物を与える代わりに、足りない物を受け取ること。
交換とは、出来ることをする代わりに、出来ないことをしてもらうこと。
…誰かに何かをしてもらうこと。
…誰かに何かを頼むこと。
これが市場で、最も根本的な市場で行われていることなのだ。
生まれてから死ぬまでに、誰にも何も頼まない人間など居るだろうか?
書記局で、あるいは政治局で、書記長の説得を試みる。
議会で、民主党が共和党を、共和党が民主党を説き伏せる。
男が女を、女が男を口説き誘う。
友人や家族に、ちょっと何かを頼む。
生まれてから死ぬまでに、誰にも何も頼まない人間など居はしない。
生まれてから死ぬまでに、一度も市場に立たない人間など居はしないのだ。
市場において、需要側が一人、供給側も一人だとすると…。
(D → 1, S → 1 だとすると…。)
Q= W/(W+C)
P=CW/(W+C)
Q:生産量
P:価格
W:需要能
C:費用
誰かと共に生きる限り、人間は必ず市場に立つことになる。
そしてこの式には、市場の摂理、市場の掟が示されている。
まず生産量Qは、1を超えられない。
して欲しいことの全体を1とする。
ならば生産量Qは、その内のしてもらえる部分を示している。
Q=1のとき、して欲しいことを確実にしてもらえるとする。
ならば生産量Qは、して欲しいことをしてもらえる確率を示している。
誰かに何かを頼むとき、相手は全てを引き受けてくれるとは限らない。
誰かに何かを頼むとき、相手は必ず引き受けてくれるとは限らない。
生産量Qが1を超えられないことは、そのことを示している。
このことは、市場の摂理になっている。
需要能Wは、需要側が物を得るために出来る仕事量だった。
需要能Wは、需要側が供給側のためにする仕事量だった。
何かをしてもらいたいのなら、相手のために何かをしなければならない。
このことは、市場の掟になっている。
これは偶々そうなっただけ、そう見えるだけなのかもしれない。
だが少なくとも私には、この式が市場の摂理や掟を示しているように見えた。
人間が市場に立つとき、誰かと共に生きるとき、沿うべき道を示しているように見えた。
誰かに何かを頼むとき、相手は全てを引き受けてくれるとは限らない。
誰かに何かを頼むとき、相手は必ず引き受けてくれるとは限らない。
何かをしてもらいたいのなら、相手のために何かをしなければならない。
これは正に、人間が誰かと生きるための「道」を示している。
人間か人間として生きるための「道」を示している。
…少なくとも、その一部を示しているように見える。
6.貸借、貯蓄、そして投資
何かを与え、「後で」お返しを得ることを「貸し」という。
何かを得て、「後で」お返しを与えることを「借り」という。
交換とは、足りない何かを得る代わりに、余っている何かを与えること。
しかし、得た何かの代わりに与えられる何かが、いつでもあるとは限らない。
交換は、いつでも出来るとは限らない。
だから市場では、交換だけでなく貸借も必ず行われている。
市場は、交換・貸借が行われる場所なのだ。
私が誰かのために、何か仕事をしたとしよう。
今、その誰かは私に「お返し」をすることが出来ない。
私は、その誰かから「後で」お返しを得ることになる。
…私がした仕事は「貸し」ということになる。
私は仕事をして、その誰かは「得」を得た。
した仕事は私のものだが、仕事によって生じた「得」は、その誰かのものだ。
私がその誰かのためでなく、私自身のために仕事をしていれば、私は私自身の「得」を得ていただろう。
…「後で」私が、その誰かから「お返し」を得ることになったとしよう。
私がその「お返し」に、私が得損ねた「得」を、一部だけでも上乗せして欲しいと望んだとしよう。
ここで上乗せを望む私は、強欲だろうか?
強欲でないと言ってくれるなら、この上乗せ分を「利息・利子」と呼ぶことにしよう。
「貨幣が貨幣を生むなど不自然、従って利息・利子も不自然で間違った存在だ。」
…こう言われることもあるが、この言は正しくない。
誰かのためにした仕事と、仕事から生じた「得」は、厳として存在している。
だから貸借が存在するなら、利息・利子も確かに存在している。
貨幣は、元本としての仕事と、仕事から生じた「得」を記した証書にすぎない。
貨幣は…もともと「借用証」だったのだ。
ところで、何かを使わずに蓄えておくこと…「貯蓄」も実は「貸借」だと言ったら、信じられるだろうか。
今ここに、美味いパンがあったとする。
私は今すぐこのパンを食して、パンの美味さを楽しむことが出来る。
…が、敢えてそうはせず、このパンを蓄えとする…パンを「貯蓄」しておく。
そして「後に」なって、私が餓え、行動不能になったとする。
そこで私が、蓄えておいたパンを食せば…
…私はパンの美味さを楽しみ、かつ、行動不能の状態を回避出来る。
私はパンを「貯蓄」して、将来の餓えに備えた。
そしてこの「貯蓄」は、実は「貸借」でもある。
先ず今の私が、「パンの美味さを楽しむ」ことを、将来「餓えるかもしれない私」に与える。
そして「後で」実際に餓えた私が、「パンの美味さを楽しむ」ことと、「行動不能の状態を回避する」ことを得る。
「パンの美味さを楽しむこと」を元本、「行動不能の状態を回避する」を利息・利子とすれば…
…「貯蓄」は、実は「貸借」でもあると解釈出来る。
そして「貸借」も、見方によっては「貯蓄」に見える。
何かを誰かに与え、「後で」お返しを、利息を付けて受け取る。
これは何かを誰かのところに蓄え、「後で」その誰かから引き出すことに他ならない。
だから「貸借」は、誰かのところに何かを「貯蓄」することだと解釈出来る。
「貸借」も「貯蓄」も、将来に「得」を得る行為である。
だから「貯蓄」も「貸借」も、将来に備えること…「投資」の一形態であると言うことになる。
…そして「貯蓄」は、人間が最初に行った、もっとも原始的な「投資」だと考えられる。
7.貸借と利息率・利子率の仕組み
「貸し」を返してもらうとき、上乗せ分…利息・利子を取っても良いとする。
このとき利息・利子は、どのようにして定まるのか?
先ずは「借りる」側から見てみよう。
「借りる」側が、借り入れたい何か…仕事や物…の量をδとする。
このとき、利息率・利子率をρとすると…。
ρ=1-(η/δ)
ρ:利息率・利子率
η:借り入れた何かの量
δ:借入希望量≡誰かから借り入れたい何かの量
今必要な何かが、全く手許に無かったとする。
このとき「借りる」側は、倍にして返すよう求められても、何かを借りることになる。
だから η=0 ならば ρ=1 となる。
今必要な何かが、既に全て揃っていたとする。
このときには「借りる」側が何かを借りることはなく、上乗せを求められることはない。
だから η=δ ならば ρ=0 となる。
倍にして返さなければならないなら、人間は借りることを躊躇う。
ρ=1 ならば η=0 となる。
返すときに上乗せしなくても良いなら、人間は借りることを躊躇わない。
ρ=0 ならば η=1 となる。
ρ=1-(η/δ)
この式は、借入量と利息率・利子率の繋がりを示している。
この式は、貸借についての「需要関数」ということになる。
続いて、「貸す」側から見てみよう。
「貸す」側が、実際に貸せる何かの量をσとする。
このとき、このとき、利息率・利子率をρとすると…。
ρ=η/σ
ρ:利息率・利子率
η:貸し出した何かの量
σ:貸出可能量≡実際に貸し出せる何かの量
「貸す」側が、貸し出せる分より多く貸すように求められたとする。
このとき「貸す」側は「借りる」側に、倍よりも多く返すよう求めることになる。
だから η≧σ ならば ρ≧1 ということになる。
返すときに倍よりも多くして返す、と言われたとする。
このとき「貸す」側は、貸し出せる分よりも多く貸しだそうとする。
(貸せなかったとしても、貸しだそうとはする。)
だから ρ≧1 ならば η≧σ ということになる。
ρ=η/σ
この式は、貸出量と利息率・利子率の繋がりを示している。
この式は、貸借についての「供給関数」ということになる。
…では、利息率・利子率はどのようにして定まるのか?
借入れる量と、貸し出す量が等しくなったとき、利息率・利子率は定まる。
需要関数のηと、供給関数のηが等しくなるとき、利息率・利子率ρは定まる。
需要関数:ρ=1-(η/δ) → δρ=δ-η → η=δ-δρ
供給関数:ρ=η/σ → σρ=η → η=σρ
需要関数のηと、供給関数のηが等しくなるとき、利息率・利子率ρは定まるから…。
δ-δρ=σρ → σρ+δρ=δ → (σ+δ)ρ=δ
∴ ρ=δ/(σ+δ)
ρ=δ/(σ+δ)
ρ:利息率・利子率≡貸し出された、あるいは借り入れられた何か1に対する上乗せ分
δ:借入希望量≡誰かから借り入れたい何かの量
σ:貸出可能量≡実際に貸し出せる何かの量
すると利息率・利子率は、借入希望量と貸出可能量によって定まる…ということになる。
では、利息率・利子率が定まったとき、どれだけの仕事が、物が貸し出され、借り入れられるのか?
需要関数:ρ=1-(η/δ)
供給関数:ρ=η/σ
利息率・利子率が定まる、とは需要関数のρと供給関数のρが等しくなるということだから…。
1-(η/δ)=η/σ → σδ-ση=δη → δη+ση=σδ → (δ+σ)η=σδ
∴ η=σδ/(δ+σ)
η=σδ/(δ+σ)
η:投資量≡貸し出され、借り入れられ、貯蓄され、備えられた何かの量
δ:借入希望量≡誰かから借り入れたい何かの量
σ:貸出可能量≡実際に貸し出せる何かの量
借り入れることは、貸し出されることである。
そして貸し出すことは、誰かの所に何かを貯蓄することである。
そして貯蓄することは、未来の自分に何かを貸し出すことでもある。
貯蓄することも貸し出すことも、(そして借り入れることも)将来に備えてすること。
そして将来に備えてすることは、投資に他ならない。
だからここではηのことを、投資量と呼ぶことにした。
投資量もまた、借入希望量と貸出可能量によって定まる…ということになる。
ρ= δ/(σ+δ)
η=σδ/(σ+δ)
ρ:利息率・利子率≡貸し出された、あるいは借り入れられた何か1に対する上乗せ分
η:投資量≡貸し出され、借り入れられ、貯蓄され、備えられた何かの量
δ:借入希望量≡誰かから借り入れたい何かの量
σ:貸出可能量≡実際に貸し出せる何かの量
投資量も、利息率・利子率も、借入希望量と貸出可能量によって定まる。
これが、市場で行われる貸借の仕組みということになる。
8.政治という市場
価格Pと生産量Qは、市場での暮らし難さ、市場の豊かさを示している。
価格Pと生産量Qは、供給規模S、需要規模D、費用C、そして需要能Wによって定まる。
需要能Wは、市場で何かを得るために出来る仕事量であった。
需要能Wは、何かに対する効用の大きさ…欲求の強さも示している。
需要能Wは人間の気分次第で変動するし、変動した需要能Wが「実際に出来る」仕事量と一致するとは限らない。
強気になりすぎて過大になることもあれば、弱気になりすぎて過小になることもある。
ところで、市場では交換・貸借が行われている。
市場では、交換だけではなく、貸借も行われている。
そして貸借は貯蓄でもある。
貸しは「後で」返してもらうことになっている。
貯蓄は「後で」引き出されることになっている。
だから貸借も貯蓄も、将来に備えること…投資ということになる。
投資量ηと利息率・利子率ρは、貸出可能量σ、借入希望量δによって定まる。
貸出可能量σは、実際に貸し出せる何かの量だった。
借入希望量δは、誰かから借り入れたい何かの量だった。
貸出可能量σは、資源や技術、知識、人員…そして貨幣(カネ)の量である。
だから貸出可能量σは、現実の条件に制限されていることになる。
対して借入希望量δは、「借り入れたい」何かの量だった。
だから借入希望量δに対しては、何も制限はない。
「五千兆円借りたい」と求めるだけなら、求められてしまうのだ。
借入希望量δが際限なく大きくなると、利息率・利子率ρも高くなってしまう。
利息率・利子率が1に近づいたとき、何かを借りたら「倍にして」返さなければならなくなる。
…しかし、何かを借りて「倍にして」返すことなど、そうそうできることではない…。
「借りる側」にとっての「返せない」は、「貸す側」にとっての「返してもらえない」である。
貸した何かを返してもらえなければ、どうなるか?
「返してもらうはずだった何か」でしようとしていたことが、出来なくなってしまうのだ。
出来るはずだったことが、出来ると思っていたことが、出来なくなってしまうのだ。
需要能Wは、市場で何かを得るために出来る仕事量であった。
だから出来ると思っていたことが出来なくなってしまったら…
…需要能Wは急激に小さくなってしまう。
需要能Wが急激に小さくなってしまったら、生産量Qも急激に小さくなる。
生産量Qが急激に小さくなってしまったら、供給規模Sも急激に小さくなる。
田畑は打ち棄てられ、工場は閉鎖され、商店は廃業し、企業は倒産する。
これは恐慌(パニック)に他ならない。
借りた何かを返せないこと、貸した何かを返してもらえないことは、恐慌を引き起こしてしまうのだ。
借りた何かを返せないこと、貸した何かを返してもらえないことは、防がねばならない。
そのために何をするべきか?
何かを借りて「倍にして」返すことなど、そうそうできることではない。
高い利息率・利子率は、借りた何かを返すことを難しくしてしまう。
ならば、利息率・利子率は低く抑えられなければならない。
利息率・利子率を高くしているのは、借入希望量δであった。
借入希望量δは、誰かから借り入れたい何かの量だった。
誰かから何かを借りるのは、その何かを以て為したいことがあるからだ。
だから借入希望量δは、人間の「為したいこと」の数を示している。
だから利息率・利子率を低く抑えるには…
…「為したいこと」のいくつかを、諦めなければならない。
人間が、「為したいこと」を自ら諦めることは、殆どない。
だから取引によって、交渉によって「為したいこと」のいくつかを諦めてもらうことになる。
だから時には、力によって「為したいこと」のいくつかを諦めてもらうことになる。
(そうすることで、諦められぬこと・諦めてはならぬことが選び出される。)
…これは「政治」に他ならない。
この「政治」も、実は市場で行われている。
「政治」が行われる市場がある。
政治局、書記局、議会、閣僚会議…。
これらは全て「政治」が行われる「市場」なのだ。
そして市場で行われている取引や交渉は、「政治」でもある。
…自分が何かを諦めることで、相手に何かを諦めさせることは「政治」なのだ。
…自分が何かを与えることで、相手から何かを得ようとすることは「政治」でもあるのだ。
生まれてから死ぬまでに、一度も市場に立たない人間など居ない。
だから生まれてから死ぬまでに、一度も「政治」に関わらない人間も居ない。
人間は独りで居るときでさえ、これから自分が何をして、何をしないのかを選んでいる。
これは正に自分を相手にした「政治」…「自治」に他ならない。
だから生まれてから死ぬまでに、一度も「政治」に関わらない人間は居ないのだ。
市場では、貸借も行われている。
借りた何かは返さねばならないし、貸した何かは返してもらわねばならない。
しかし借りた何かは、返せるとは限らない。
そして貸した何かは、返してもらえるとは限らない。
何かを返せないとき、返してもらえないとき、市場・社会は恐慌に陥るかもしれない。
恐慌を避けるために、人間は為したいことのいくつかを諦めなければならない。
何に備え、何に備えないのか、決めなければならない。
何に貸し出し、何に貸し出さないのか、決めなければならない。
…そして、それを決めることは「政治」に他ならないのだ。
9.カネ
私が誰かに何かを借りたとき、私はこの誰かに借用証を出すことになる。
この誰かは借用証に基づいて、私に借りを返すよう求められる。
私は借用証を持っている相手に借りを返すことになっている。
だから借用証を持っていれば誰でも、私に借りを返すよう求められることになる。
貨幣…カネの起源については、他の説もある。
しかしここでは、貸借における借用証をカネの起源としよう。
今私が108円を出して、ミネラルウォーターを買ったとする。
一見すると、私はカネ108円とミネラルウォーターを「交換」したように見える…。
…しかし、実は違う。
この時点で私は店に、メーカーに、そして社会に対して「借り」を作っただけだ。
私は社会に対して、ミネラルウォーターという「借り」を作っただけなのだ。
このとき私が出した108円は「借り」に対する借用証に過ぎない。
もちろん「借り」は返さねばならないが、ではどうやって返すのか?
…私は仕事をして、この「借り」を返すことになる。
仕事をして、給金というカネを受け取る。
これは、私がそれ以前に出した借用証が返ってきたことを意味する。
これは、仕事をすることで、それ以前に作った「借り」を返したことを意味する。
(このとき返した「借り」の中には、ミネラルウォーター108円分の「借り」も含まれている。)
このとき、私の勤め先は私の力…労働力を「借りた」。
だから私の勤め先は、私に給金という借用証を出したことになる。
…そして私の勤め先は、社会に対する務めを果たすことで、(社会を通して)私への「借り」を返すことになる。
人間は、そして我々はカネを用いて借りを作り、借りを返すことで協働し、社会を成り立たせているのだ。
貨幣…カネは、借用証であった。
借用証を持っている者は借用証に基づいて、相手に「貸し」を返すよう求められる。
カネを持っている者はカネに基づいて、相手に「何か」を求められる。
…カネを持っている者は、相手に何かを「命ずる」ことができる。
すると、カネは「権力」ということになる。
だからカネを蓄えるということは、権力を蓄えることでもある。
蓄えられたカネが莫大であれば、蓄えられた権力も強大な力となる。
そしてその巨大な権力は、人間の自由を脅かす力となってしまう。
カネを蓄えるということは、何をどうすることであるのか?
市場では…社会では、多くの人間が互いに「貸し」を与え、「借り」を作っている。
そしてカネは借用証であった。
借用証を得るということは、誰かに「貸し」を与えるということである。
だから、カネを蓄えるということは…
…誰にも「借り」を作ることなく、全ての人間に「貸し」を与えることである。
市場で、社会で多くの人間が互いに「貸し」を与え、「借り」を作っている。
そんな中で、誰か一人が誰にも「借り」を作ることなく、全ての人間に「貸し」を与えているとしよう。
そうすると、どうなるか?
この誰かは、誰にも借用証…カネを与えることなく、全ての人間からカネを得ることになる。
そしてこの誰かは巨大な権力を得て、市場…社会に生きる人間の自由を脅かす存在になる。
では全ての人間が、誰にも「借り」を作らず、他の人間に「貸し」を与えようとするとどうなるか?
…全ての人間が、お互いに「自分から何かを借りろ」と強要しあうことになる。
実際に血を流すことがなかったとしても、これは収奪であり…戦争である。
人間が社会で、市場で生きるとき、どうしても「貸借」は必要になる。
だから借用証としての「カネ」は、どうしても必要になってくる。
しかしその「カネ」を蓄えることが目的になると、どうなるか?
…市場は、社会は、全ての人間が互いに「カネ」を奪い合う戦場になってしまう。
確かにカネを持っている者は、カネによって相手に「何か」を求められる。
しかし、いくらカネを出したところで無いものは得られないし、出来ないことをさせるわけにはいかない。
カネを蓄えることを目的にしてしまうと、人間は、我々は肝心なことを見落としてしまう。
市場に何があって、何が無いのか。
人間に何が出来て、何が出来ないのか。
カネを蓄えることを目的にしてしまうと、人間は、我々は、こんなことすらわからなくなってしまうのだ。
カネは、富ではない…富そのものでは、決してない。
「富」とは…あくまでも、この世に在って何かをすること、何かができることなのである。
***********************
あとがき
「ども、黒鉄青葉です」
「うむ、ガングート・黒鉄だ。」
「ガングートさん、文章を読ませてもらいましたが…」
「ガングートさんって、市場経済に対してそれほど否定的じゃないんですね?」
「共産主義っていうと、生産手段の国有化と計画経済っていうイメージが強いんですが…」
「共産主義即ち国有化と計画経済、というのは誤解だ」
「共産主義の要は、生産手段を…会社や工場、田畑、山林、鉱山、湖沼などを、そこで働く人間自身が共同管理することにある」
「そこで生産される財貨やサービスの価格は、結局市場に決められることになるだろうが」
「市場の状況を見て、何を、どんな風に、どれだけ生産するのかを決めるのは、そこで働く人間自身であるべきだ」
「それで生産手段から上がった利益を、そこで働く人間の事情に応じて、公正・公平に配分することで格差の発生を抑制する」
「…というのが、本来の共産主義なのだ」
「こんなことを他所のソヴィエト艦娘に話したら、私はチトー主義者のレッテルを貼られて吊し上げられてしまうかもしれんが」
「生産手段を国家が保有し、生産物の生産量や価格を、計画によって決めるということは」
「資本主義社会で、独占資本が生産物の生産量や価格を決めているのと大した違いはないんだ」
「肝心なことは会社や工場を、そこで働く人自身が共同管理すること」
「それと、会社や工場が上げた利益は、そこで働く人の事情に応じて公正・公平に配分されること」
「でも会社や工場が生産・提供するモノやサービスの価格は、市場が決めることになる…」
「それって、価格を決める仕組みとして、計画経済より市場経済の方が優れてるって認めるということですか?」
「まあ認めざるを得ないな」
「…言っておくが、私は別に市場経済を、市場を礼賛しているわけではないぞ?」
「市場は、人間が人間として生きるとき、絶対に必要な場所だ」
「どう理屈を捏ねても、どれだけ欠陥をあげつらっても」
「人間は、そして我々はそこで…市場で生きていくしかない」
「私はそう認めているだけだ」
「…市場経済は最悪の経済体制だと言える」
「市場経済以外の経済体制を除けば、だが」
「国家は市場に介入するべきではないと主張する者もいるようだが」
「え?ああ、市場に対する国家の介入は、市場の機能を損ねて、人の自由も奪ってしまうって言う人もいますね。」
「私に言わせると、その主張はどうも無意味に思える。」
「無意味…ですか?…でもこの主張って、今でも信奉してる人は結構居るみたいですよ?」
「そうか…だが、根本的に言って、市場の機能を損ね、人間の自由を奪うのは国家の介入などではない」
「国家の介入じゃない?」
「市場の機能を損ね、人間の自由を奪うのは…正義だ」
「正義…ですか?…でも正義って、人間にとっても、私たちにとっても大切なものじゃないですか?」
「それが人の自由を奪うって、どういうことですか?」
「本文で私が示した市場の摂理、市場の掟はどんなものだった?」
「え?えーと…」
「誰かに何かを頼むとき、相手は全てを引き受けてくれるとは限らない。」
「誰かに何かを頼むとき、相手は必ず引き受けてくれるとは限らない。」
「何かをしてもらいたいのなら、相手のために何かをしなければならない。」
「…でしたか?」
「そうだ、そして正義は時としてこの摂理を、掟を蔑ろにしてしまうんだ」
「正義は実現されなければならない」
「正義の実現のために、あなたはこれを全て引き受けなければならない」
「正義の実現のために、あなたはこれを必ず引き受けなければならない」
「正義を実現することに報酬や対価を求めることは、正義の実現を妨げる悪である」
「こんな風に正義は市場の摂理や掟を軽んじ、正義の実現を人間に強要し、人間から自由を奪うんだ」
「あ、でも…市場で取引をしたときは」
「申込んだ方も承諾した方も、取引…契約に拘束されますよね?」
「だとしたら市場って、もともと人間の自由を制限してしまう性質を持ってるんじゃありませんか?」
「そうだ…自由市場、なんて言い方もあるが」
「人間が市場で、社会で生きている限り、確かに完全無欠の自由なんてものはあり得ない」
「それでも、市場での取引が自由で公正なら…」
「…難しすぎる仕事を強要されることはないし、報酬や対価を得て日々を生き抜くことができる」
「だが正義は、まさに正義の名の下に」
「人間に難しすぎる仕事を強要するし、報酬や対価を求めることを悪としてしまうんだ」
「こんな正義は、人間の自由だけでなく、生存すら脅かしてしまうだろう」
「ところで、政府は小さくあるべきか、大きくあるべきかという議論もあるようだが…」
「青葉、お前は政府は小さい方が良いと思うか?それとも大きい方が良いと思うか?」
「え?いや、急にそんなこと聞かれても、回答できませんよ」
「どちらの論も、論としてはもっともらしく見えますし…」
「どちらの論も論としては筋が通っていて、どちらが正しいのかなんて判断は出来ないと?」
「はい」
「私に言わせれば、それが正解だ」
「ええ?」
「本文でも書いたが、政治という営みは」
「社会から上がる要求や要望のいくつかを、交渉や取引によって諦めてもらう営みだ」
「要求や要望のいくつかを諦めてもらうことで、どうしても諦めるわけにはいかない要求や要望を特定する営みだ」
「そして限られた有形無形の資源を、どうしても諦めるわけにはいかない要求や要望に充てる営みだ」
「もとより有形無形の資源には限りがある…だから政府は小さくならざるを得ない」
「しかし社会から上がる要求や要望を安易に切り捨てるわけにもいかない…だから政府は大きくならざるを得ない」
「だから、政府が小さくなるか、大きくなるかを決めるのは…」
「実際に社会から上がっている要求や要望であり、社会が利用できる有形無形の資源であり…」
「書記局や政治局、議会や閣僚会議で実際に行われる交渉や取引なのだ」
「政府が小さくなるのか、大きくなるのかという問題は…」
「政府は小さくあるべきだとか、大きくあるべきだとかいう理念によって決まることではない」
「だから、政府は小さくあるべきか、大きくあるべきかという議論は…まさに文字通りの意味で、机上の空論なのだ」
「もう一度言うが、政治という営みは」
「社会から上がる要求や要望のいくつかを、交渉や取引によって諦めてもらう営みだ」
「政治という営みは交渉であり、取引だ…だから政治も、市場で行われる営みなのだ」
「だとすると、国家・政治は市場に介入・干渉するべきではないと主張している連中は」
「自分たち自身も政治という市場に介入・干渉していることになる」
「確かに国家・政治は社会・市場に対して様々なルール・規制を課して自由を制限しているが」
「これらのルール・規制も政治という市場で、交渉・取引によって成立したものだ」
「ルールや規制の成立に際して、反対者に対する粛清や虐殺があったとか言うのでなければ」
「頭ごなしに国家・政治は市場に介入・干渉すべきではない、などと言われる筋合いはない」
「…さっき私は、市場の機能を損ね、人間の自由を奪うのは正義だ、と言った」
「正義は一つの理念・理想によって市場・社会を支配し、制御しようとする」
「そして市場の摂理や掟を蔑ろにし、人間の自由を奪ってしまう」
「…だとすると、平等という理想によって社会を支配・制御しようとする共産主義は、確かに人間の自由を奪う正義だ」
「え?ガングートさん、ソヴィエト艦娘のあなたがそんなこと言っちゃうんですか?」
「ここに来てまさかの転向宣言ですか?」
「いや、私は自分の思想・信条に現実的な限界があると認めているだけだ」
「それにソヴィエト艦娘として、これは言わせてもらうが」
「共産主義が人間の自由を奪う正義なら、資本主義も人間の自由を奪う正義だ」
「共産主義や社会主義には、ある程度まとまりのある理論や思想がある」
「対して資本主義にはそういった理論や思想の類はない」
「だが、あえて資本主義を”主義”として、思想として説明するなら…」
「利潤を追求することによって、カネを稼ぐことによって人間は幸福を実現することが出来る」
「だから人間は利潤を追求すべきである、カネを稼ぐべきである」
「…まあ、こんな感じになるだろう」
「人は利潤を追求するべき、カネを稼ぐべき…ですか」
「あれ?でもそれで全ての人がカネを稼ごうとしたら…」
「そうだ、本文でも書いたことだが」
「カネを稼ぐことを、人間が生きる目的としてしまうと」
「市場は人間が互いにカネを奪い合う戦場になってしまうのだ」
「それだけではない」
「カネを稼ぐことを、人間の生きる目的としてしまうと」
「人間は夢や希望、志といったものも失っていくんだ」
「…………。」
「いや、青臭い言い方だというのは認める」
「だが利潤を、カネを追求することが、時として人間から志を失わせるのも事実だ」
「このことについては、お前の方が詳しいかもしれないが」
「いつだったか、どこかの自動車修理業者が、自動車保険の保険金をせしめるために」
「修理に持ち込まれた客の自動車をさらに損壊させていたことが問題になったことがあったな」
「この問題など、カネを稼ぐという目的が、自動車修理で社会に貢献するという志を失わせた典型的な事例ではないか?」
「こんな問題は前にも起こっていたようだし、最近もまた起こったそうじゃないか」
「カネを稼ぐことを優先させて、自分の志を失う人間は…結構居るのだ」
「現代では、人間が何か事業を興すとき」
「何らかの形で、カネを借りることになる」
「借りたカネは、利息を上乗せして返さなければならないから」
「どうしても利潤を、カネを追求することが事業の目的の中に紛れ込んで来る」
「だから現代においてはどんな事業も、常にその志が失われる危険を伴っている」
「そして事業においてその志が失われたとき」
「カネを稼ぐために手段が選ばれなくなったとき」
「出資者も経営者も、従業員も、皆カネを稼ぐためだけに働くことになる」
「出資者も経営者も、従業員も、皆カネを使うのではなく、カネに使われることになる」
「出資者も経営者も、従業員も、皆カネの奴隷になってしまうのだ」
「出資者も経営者も…ですか?」
「伺っていると、出資者も経営者も…お金持ちも、資本主義社会では幸福ではないように思えます」
「ガングートさんって、資本家と労働者が対立している、というような見方はしないんですか?」
「これも他所のソヴィエト艦娘に話したら吊し上げられてしまうかもしれない話だが」
「資本主義という問題は、労働者が資本家を叩いたところで解決するようなものではないと思っている」
「資本主義という災厄は全ての人間から…資本家からも労働者からも、本当に全ての人間から、生きる目的を、意味を、自由を奪ってしまう」
「資本主義を拒否し、克服することは…資本家であると労働者であるとを問わず、全ての人間にとっての課題になっている」
「…私はそう思っている」
「資本主義を”主義”として、思想として説明するなら」
「利潤を追求すること、カネを稼ぐことによって、人間は社会を豊かにし、幸福を実現することが出来るとする思想…ということになるだろう」
「だがこの思想に依って、本当に全ての人間が利潤を追求すること、カネを稼ぐことに専心するようになったら」
「社会は必ず衰退の途を辿ることになる」
「そうなったら、市場は戦場になるから…ですね?」
「それもあるが…」
「カネを稼ぐ最も手っ取り早い方法は、カネ貸しになることだ」
「だがカネを稼ぐために、全ての人間がカネ貸しになってしまったら、社会はどうなってしまう?」
「コンビニエンスストアなどに行くと、投資を奨める広告をよく耳にする」
「投資を奨めるということは、ある意味でカネ貸しになることを奨めるということでもある」
「広告に奨められるまま全ての人間が投資に手を出し、自分の本業より投資の方を重視するようになったら」
「社会はどうなってしまうのだろうな?」
「カネはもともと借用証だった」
「私は社会から財貨やサービスを借りて、借用証としてカネを出す」
「そして私は働くことで社会に借りを返し、出した借用証…カネを取り戻す」
「…カネによって、私は見ず知らずの誰かから助けを得られる」
「カネは淀むことなく社会を流れることによって、見ず知らずの者同士を結びつけ、助け合わせる」
「カネの流れは、絶対に淀ませてはならないものなんだ」
「だが、資本主義の精神というやつは」
「できるだけカネを稼ぐことを勤勉の美徳とし、できるだけカネを使わないことを倹約の美徳とした」
「勤勉に働き、倹約に努め…日々努力すれば神に救われ、報われるとした」
「勤勉に働き、倹約に努めて得られたカネは、富は美徳の証とされた」
「この資本主義の精神は、人間社会にとって大変な災厄なのだが…」
「何故かわかるか?」
「ええと…資本主義の発展・展開が貧富の差を拡大して…って話ならよく聞きますけど…」
「資本主義の精神ってやつが貧富の差の拡大に対して、具体的にどう関わってるのかってことになると…」
「もう一度言うが、カネの流れは絶対に淀ませてはならないものだ」
「だが資本主義の精神は、できるだけカネを使わないことを倹約の美徳とした」
「カネを使わずにため込んでしまったら…カネの流れは淀んでしまうことになる」
「カネの流れが淀んでしまったら、人間同士の繋がりは断ち切られて、社会はバラバラになってしまうだろう」
「また、資本主義の精神は」
「日々努力すれば報われる、と説いているが…」
「…この命題の対偶をとってみろ」
「え?対偶ですか?」
「えーと、努力すれば報われる、の対偶は…」
「報われていないなら、努力していない」
「あ…」
「そうだ、努力すれば報われる、というのは一見もっともな意見のようだが」
「実は報われていない者、現に困窮している者に対する侮蔑の言葉になっている」
「安易に努力すれば報われる、などと言うことは…」
「お前が困窮しているのは、お前の努力が足りないからだ」
「助けて欲しい?甘ったれるな、泣き言を言っている暇があったらもっと努力しろ」
「…こう言っているのと同じことだ」
「努力すれば報われる、などと言うことは…」
「人間が人間を助けることを否定する言葉だ」
「人間と人間の関係を断ち切り、社会をバラバラにしてしまう言葉だ」
「でも努力することって、大事じゃないですか?」
「それは私も認める」
「だが努力が大事なのは、努力すれば報われるから、ではない」
「努力が大事なのは、努力しなければ報われないから、だ」
「人間も我々もこの世で生きるからには、どう足掻こうと努力からは逃れられん」
「と言うか、努力から逃れようとすること自体が、既に一つの努力だ」
「どれだけ努力しようと、報われないときは報われない」
「報われなかった者に対して、お前は努力が足りないなどと言うことは…許されることではない」
「利潤を追求することによって、カネを稼ぐことによって人間は幸福を実現することが出来る」
「だから人間は利潤を追求すべきである、カネを稼ぐべきである」
「できるだけカネを稼ぐことは勤勉の美徳であり、できるだけカネを使わないことは倹約の美徳である」
「勤勉に働き、倹約に努め…日々努力すれば神に救われ、報われる」
「勤勉に働き、倹約に努めて得られたカネは、富は美徳の証である」
「…”主義”としての、思想としての資本主義は、こう説いている」
「だが資本主義は…」
「市場を戦場に変え、人間から生きる目的を失わせ、人間をカネの奴隷にし、社会をバラバラにして、人間の生存をも危うくする災厄なのだ」
「資本主義は災厄…ですか…」
「でも今は、青葉もガンクートさんも、日本で…資本主義の社会で生きていますよね?」
「青葉は、今の日本の社会が、そこまでヒドい社会だとは思わないんですけど…」
「それは日本が、資本主義によって完全に支配されているわけではないからだ」
「さっき私は、自動車修理業者が保険金をせしめるために不正をやらかしたことを例に挙げた」
「この業者の不正は大きな問題として取り上げられた」
「もし、日本が資本主義によって完全に支配されていれば」
「日本人が皆、人間はカネを稼ぐべきである…人間にとってカネこそが全てである、という”主義”に取り憑かれていたら」
「この業者の不正が大きな問題として取り上げられることはなかっただろう」
「だが、この業者の不正は大きな問題として取り上げられた」
「このことは、日本が資本主義によって完全に支配されているわけではないことを示している」
「お話をまとめますと、ガングートさんは…」
「市場を、人が生きる上で避けることが出来ない場所として認めながら」
「資本主義は、市場を戦場に変え、人間をカネの奴隷にし、社会をバラバラにしてしまう災厄だと思ってるんですね?」
「まあ、そういうこととだ」
「思うに、これまで説かれてきた全ての経済理論・経済思想というやつは」
「資本主義という災厄を防ぎ、市場を安全に利用する術を説いてきたのではないだろうか」
「それはちょうど、人間が河川を整備して水の害を防ぎ、水の利を得ようとしてきたことに似ている」
「失敗や誤りが、却って災害の原因になってしまうところも似ている」
「ところで、資本主義という災厄の中核は」
「カネこそが富であり、豊かさであるという”信仰”だ」
「ならば、資本主義という災厄を防ぐには」
「この”信仰”が誤りであることを宣べ伝えれば良い」
「振り返ってみれば、経済学の出発点には」
「カネは富ではないという主張があった」
「人間がこの世に在って何かをすること、何かが出来ることこそが”富”である」
「私は本文でこう書いたが」
「この命題が、資本主義という災厄を防ぎ、人間が市場で安全に生きる一助になれば…」
「…身の程知らずかもしれないが、私は今そんな野心を抱いている」