彼が提督としてこの鎮守府に留まる事となって、暫く経った。流れる時間は特に姿を変えるでも無く、また『日常』が戻って来ている。
破壊された工廠や倉庫、埠頭のコンクリートなどの復旧も急ピッチで進み、此処の鎮守府も、既に以前と変わらない機能を取り戻していた。
陽が廻り、月が巡り、星が回り、朝が来て、昼が来て、夜が来る。時間には掴みどころも無く、感触も無い。ただ過ぎて流れていく。特別な事は何も無い。
ただ変わった事が在るとすれば、彼の態度や姿勢が、より柔和になった。もっと砕いて表現するのならば、彼と艦娘達との、心の距離が縮まったとでも言うべきだろうか。
今までの彼も十分に穏やかであり、誰にでも分け隔て無く優しかった。だが、その一方で、艦娘達に深く立ち入らず、自身の内に立ち入らせない様なところが在った。
微笑みの仮面を被り、常に一歩引いていると言うか。彼独特の距離の取り方だった様に思う。彼は慎重だった。誰も、彼の本心には近づけなかった。
感情を伺わせず、何を考えているのか悟らせない。優しさと共に静かな狂気に身を委ね、自分の命を軽く見る様なきらいが在った。
だが、今は違う。鳳翔の店のカウンターに、今日の秘書艦であるビスマルクと並んで腰掛け、軽く談笑している彼は、あの仮面染みた微笑みを纏っては居ない。
柔らかな笑みは、やけに大人びて見えるのに、相手との間に壁を作るような冷静さや、距離を取るような沈着さは無い。寧ろ、親しみが込められている。
今までと同じようで、やはり違う。彼が、本当の意味で心を開いてくれつつあるのだ。かつての彼を知っている鳳翔には、その変化がとても喜ばしく思う。
異種移植を受ける事と引き換えに、彼は自身が保有する艦娘達を権力から守った。艦娘達の人間性を主張して来た彼は、自身の人間性を使い果たす寸前だったに違い無い。
それを繋ぎ止めたのが、彼が守った艦娘達だった。病室で大泣きしたという彼の感情や涙は、この鎮守府の艦娘が取り戻した、大切な絆の証だった筈だ。
その輪の中に居れる事を誇りに思う。鎮守府の留守を守っていた鳳翔はその場に居ることは出来なかったものの、彼や他の艦娘達を強く信じていた。
鳳翔と同じく、鎮守府に残っていた大和や武蔵、赤城や加賀も同じだったに違い無い。泰然自若として動じず、彼が帰って来るのを待つ彼女達の姿が印象に残っている。
彼女達の心に動揺が無かったのは、やはり野獣が彼の傍に居てくれた故だろう。彼と艦娘達の間に立ち、双方を繋ぐ助けをしてくれた野獣には、感謝せねばならない。
その当の野獣は、ビスマルクと彼を挟む形で、彼の隣に腰掛けて、ビールをコップで煽っている。いつものTシャツ、ブーメランの黒海パン姿だ。
もう結構な量を飲んでいる筈だが、其処まで酔った風でも無い野獣は上機嫌そうだ。更に野獣の隣では、今日の秘書艦であった加賀と赤城が、静かに酒杯を重ねている。
二人は鳳翔に遠慮して酒を頼もうとしなかったのだが、半ば強引に野獣が二人に酒を振舞ったのだ。鳳翔も笑顔でその注文に応えた為、赤城と加賀も断ることが出来なかった。
こんな時にまで気を使って貰っても何だか悪い気がするし、ゆっくりとしたペースではあるが、酒や料理を楽しんでくれている今の方が、鳳翔にとっては嬉しかった。
この穏やかな時間を心地よく感じながら、鳳翔は皿を拭きつつ、彼らの談笑に耳を傾けていた。自然と微笑みが零れるような、暖かな時間だった。
誰が欠けることも無く在る今の時間に得難い幸せを感じていると、「あ、そうだ(唐突)」と、料理に舌鼓を打ちつつ、談笑していた野獣が何かを思い出したらしい。
「今日は俺の携帯端末にィ、“さっさと『ケッコン』しろ”って上層部から通達が来たんだよなぁ(困り顔先輩)。お前(んトコは)どう?」
「えっ」「げっ」と、驚いた様な表情になった赤城と加賀が、顔を上げて野獣を凝視した。
「はい、僕にも届いていました」
「ぶッ!? ゲホっ!!?」
彼の言葉に、今度はビスマルクが呑んでいたビールで噎せ返る。
一方、野獣から彼へと視線を移し、真顔になった加賀は何故か艤装を召還して、すぐに解除した。
変に力んでしまったのだろう。赤城が小さく笑い、野獣は見ていない振りをしている。
『ケッコンカッコカリ』。
艦娘の能力を大幅に向上させるこの儀礼施術の命令が、いずれ二人に下されるであろう事は、ある程度予想出来たことでもある。
割と落ち着いている赤城とは対照的な、加賀とビスマルクの大きな反応に、鳳翔は少しだけ微苦笑を浮かべた。そんな色めき立たなくても……。
ビスマルクがあれだけ激しく咳き込んでしまうのも、驚きよりも“ついに来たか!!”みたいな期待混じりの衝撃の類いに拠るものだろう。
加賀も結構こじらせて居るのだが、無理からぬ。無軌道で唯我独尊な野獣の秘書艦を努める疲れから、穏やかで優しい彼の配下になる事に憧れを抱く様になったのだ。
その辺りの愚痴というか弱音と言うか、そういう酒の席でしか、しかも鳳翔とサシでないと出来ない様な加賀の相談も、この店で何度か受けたことが在る。
「だ、大丈夫ですか!?」彼は心配そうな貌で、咳き込み始めたビスマルクの背を右手で擦ってあげている。その右手には、金属で編んだ様な分厚い手袋がされてある。
それだけで無く、彼の顔の右上半分を覆う黒眼帯も、明らかに傷を隠す為のものでは無い。手袋と眼帯はどちらも拘束具めいていて、かなり仰々しい。
彼は白の提督服を着なくなった。代わりに、黒い提督服を着込む様になり、眼鏡も掛けなくなった。残った左眼の視力も、大きく回復したとの事だ。
間違いなく、深海棲艦の眼球を移植した影響だろう。こうした激しい肉体器官の活性に伴う痛みや苦しみも、当然在るに違い無い。だが、やはり彼はそれを見せない。
伺わせない。その健気さに、少しだけ鳳翔は胸が締め付けられる。切ない気持ちになりそうだったが、ビスマルクの方はそんな余裕も無い様子だった。
「だ、ケホ……、大丈びにょ」と、一頻りゲホゲホした後、すぐに冷静さを取り繕おうとしたが、噛み噛みになって失敗している。
「お前にもきてたかぁ……(分析)。じゃあもう相手は決めてるんだ?(インタビュー先輩)」
咽て涙目になったビスマルクを横目で見てから、野獣はそう聞きつつ彼に視線を戻した。その質問に、加賀とビスマルクが息を呑む。鳳翔も、思わず手が止まる。
「え、ぼ、僕は……」と。彼はその質問を受け止め、逡巡する様に眼を伏せて言い澱んだ。またその仕種が、彼にしては珍しいと言うか、鳳翔にとっては意外であった。
“僕は、まだケッコンについては考えていません”みたいな、困った様な笑顔を浮かべる彼を予想していた。しかし、違う。彼は、落ち着かない様子で眼を伏せたままだ。
「何だ何だぁ、その反応はぁ~?(ねっとり)
まるでこの場に好きな奴が居るみたいじゃねぇかよ(いじめっ子)」
「いえ…、そ、それは……」
「お、図星かな? ちょっと熱いんじゃなぁーい、こんなトコでぇ~?
もう折角だからこの場で告白してさ、終わりで良いんじゃない?(ウキウキ顔先輩)」
「でも、その……、あの……」
ちょっと恥ずかしげと言うか。赤らむ貌に、きゅっと引き結ばれた唇。動揺に揺れる瞳。あ、これは。あらあら。ひょっとすると……。あらあら。どうしましょう……。
彼の反応からして、やはり意中の人物はこの中に居ると見ても、不自然では無いのでは無いか。では、その場合、誰になるのだろう。
赤城か。加賀か。ビスマルクか。それとも、野獣か。もしかしたら、私かもしれない。その可能性に考えが及んだ瞬間、もの凄く苦しくなった。
鳳翔は拭いていた皿を置いてから、視線を彼から逸らし、腕を組むような姿勢で右の掌を自分の右頬に当てる。頬が綻んでしまうのを必死に隠す。
彼の様子からして、意中の人物が出来たのでは。そう期待してしまう。言葉を選ぶ間の、彼の沈黙。その束の間の静寂に、少しの緊張が走る。
加賀とビスマルクは何故か席を立ち、まるで試合が始まる寸前のボクサーの様に軽くフットワークを踏みつつ、首と肩を回し始め、準備運動をし始めた。
すー……、ふー……。と、震えて掠れた深呼吸してから、二人は神妙な表情になり、また席に座った。二人共、挙動不審と言うか、重症と言うか、重篤と言うか。
ただ、赤城だけは、まるで歳の離れた弟を見守る様な穏やかな表情で、彼を見詰めていた。野獣も同じ様子だ。ただ、煽るでも急かすでも無く、彼の言葉を待っている。
鳳翔は、彼の方を見れないままだ。もう拭き終わった筈の皿をまた手にとって、拭き続けてしまう。色々な感情が胸に渦巻いている。こんなのは初めてだ。
空母としての記憶故か。哀悼や悲哀、喪失感に打ちひしがれる事には慣れているつもりだ。
だが、こういう感情には慣れと言うか、免疫と言うか。そういうものが無い。
ドキドキしてしまう。有体に言えば、経験不足という奴だ。どうして良いのか分からない。どんな風に振舞えば普通なのだろう。取り澄ますことも上手く出来ない。
もじもじするしかない。彼に視線を向けている野獣や赤城は、凄く自然体なのに。私も、普通にしないと。でも、出来ない。汗が出てくる。変に思われてしまう。
いや。でも、見れば、チラチラと彼を見るビスマルクは何度も咳払いをしたり、視線をあちこちに飛ばしたり、そわそわしっぱなしだ。
じっと瞑目している加賀も、落ち着いている様に見せ掛けて、ふんすふんすとめっちゃ鼻息が荒い。全力疾走した後みたいになっている。
急に静かになった店の空気が、少しだけ熱を帯びる。不意に、彼が顔を上げた。彼の蒼みがかった左眼と、鳳翔の眼が合う。彼が微笑んだ。肩と心臓が跳ねる。
慌てて俯く。拭き終わっている筈の皿を、さらにゴシゴシと拭いてしまう。自分でも分かるくらいテンパっている。でも、じっとしていられない。恥ずかしい。
其処に彼が、「鳳翔さんは……」と、声を掛けて来たから堪らない。「はぅっ!?」、っと素っ頓狂な声を上げてしまって、心臓が爆発しそうだった。
「僕の様な子供がケッコンすることについて、どう思われますか……?」
此方へと遠慮がちな視線を向けて来る彼も、やっぱりちょっと恥ずかしそうだ。
初めて見る種類の彼の貌に、母性を擽られると言うか、激しく萌えてしまったと言うか。
息苦しくなって来て、頭が回転しない。「えぇと、そうですね……」と上の空で言葉を返す。
彼の言葉は、鳳翔への相談と捉えるべきか。それとも。もっと深読みして、意中の相手は鳳翔なのだと表明していると捉えるべきか。
前者と後者では、天と地程の差が在る。どう取るべきか。焦ってはいけない。そう。此処は慎重に、おち……、落ちちゅいて、彼の様子から、その真意を読みとらねば。
だが、気の早いビスマルクと加賀は、どうやら後者と取った様だ。
「(;д;)ちゃあああああ↑!!?(レ)」と、ビスマルクは頭を抱えて突っ伏した。だが、すぐに身体を起こし、置いてあったビール瓶を引っ掴んでグビグビとやり始めた。
加賀の方は、深すぎる深呼吸の後、悄然と項垂れた。“鳳翔さんだったらしょうがない。もうね。もう……、ほんとしょうがない。”みたいな事を、ぶつぶつと唱えている。
一方で、野獣がその二人の様子を、面白いものでも見るみたいな愉快そうな貌で見ているし、赤城も相変わらず微苦笑のままだったので、落ち着きを取り戻す事が出来た。
「提督が納得して為されるケッコンであれば、
誰と結ばれたとしても……、その、とても尊い選択なのだと思います」
曖昧な言い方になってしまったが、艦娘の身である鳳翔にとってはこれが精一杯である。肯定も否定も難しいところだ。
もっと気の利いた言葉を選べればとも思ったが、さっきからアライグマみたいに皿をゴシゴシと布巾で拭いている鳳翔には無理そうだった。
落ち着いているフリをするのも必死である。ドキドキし過ぎて涙が出そうだ。もう勘弁して下さい。と思いつつ、何とか引き攣った微笑みを返す。
「やはり僕次第と言いますか、僕の意思の問題ですよね……」
微笑みつつも何処か真剣な様子の彼は、鳳翔の言葉に小さく頷いてから、何かを思案する様にまた俯いた。
「真面目かっ!? もうそんな堅苦しいのは良いから(良心) ホラホラ。告白大会、よーいスタート(棒)」
「し、しませんよ。そんなの……。
何で場の勢いで言う必要なんか在るんですか(正論)」
「お、そうだな(納得)」
彼を弄るのにも満足したのか、野獣もそれ以上は追求しない。ただ、彼の様子や反応からは、彼に意中の人物が居るという事は間違い無さそうだ。
ただそれが誰なのかは、先程までの野獣との遣り取りの中では分からない。くすくすと小さく笑う赤城には、心当たりが在るのだろうか。気にはなる。
此処に居る誰かなのか。それとも、違う誰かなのか。軽く息を吐き出してから、自分を落ち着ける様に茶を啜る彼の様子からは、そのどちらとも取れた。
じれったいのだろう。ビスマルクと加賀は激しく貧乏揺すりを始め、手で顔を覆い、擦ったり、髪を掻き揚げたりしている。
鳳翔も、さっきから熱っぽい溜息ばっかり吐いていた。また店の中に沈黙が満ちて、すぐ後だった。
「すまないな、鳳翔。今からでも大丈夫だろうか?」
「無理だったら遠慮無く言ってね。もう遅いし」
暖簾を潜り、落ち着いた足取りで長門と陸奥が店に現れた。
「大丈夫ですよ。どうぞ、ごゆっくりして行ってください」
鳳翔は自分を落ち着ける為、小さく息を吐き出してから、長門と陸奥に微笑んで応えた。
ちょっと申し訳なさそうに目礼をしてくれた二人は、野獣の存在に気付いて難しい貌になった。
いや、野獣の存在と言うよりも、この場の雰囲気の不穏さと言うか。妙に熱っぽい空気に不自然さを感じたのかもしれない。
「珍しい組み合わせだな……」と、ポツリと呟いた長門は陸奥と一緒に、取り合えず野獣達の背後に位置するテーブル席についた。
陸奥は半眼になって、野獣を監視する様に見詰めた。「あんまり呑みすぎないでよ、野獣。明日は私達が秘書艦なんだから、二日酔いなんかして体調崩さないでね」
看病させたりする余計な手間を増やすなと言いたいのだろう。長門も頷いている。そんな二人に、鳳翔はお通しを出し、注文を取る。
野獣の背後の席を選んだポジショニングも、野獣を見張るような意味も在るに違い無い。野獣の方は、「全然酔って無いから、ヘーキヘーキ」と涼しい顔だ。
「前もそう言っておきながら朝方には、
“アーシニソ、シニソ……、はぁあああ(苦悶)”ってなっていたのを忘れたのか」
「それも一回や二回じゃないものね。……しかも、決まって私達が秘書艦の時だし」
非難めいた視線を長門と陸奥から向けられながらも、野獣は軽く笑って見せる。
「俺だって色々疲れてるんだからさ……。
そういうだらしない所を見せるのも、俺がNGTやMTを信頼してる証拠だよ(優しげな視線)」
「ふん、ものは言い様だな」 長門は鼻を鳴らす。
「今更そんな戯言に騙されないわよ」 陸奥も白けた様に肩を竦めた。
鳳翔がそんな遣り取りを長門や陸奥へ出す料理を作りつつ聞いていると、赤城が軽く咳払いをした。
「では……、野獣提督は私達の事も信頼してくれていると解釈しても宜しいのですね?」
少しだけ頬を上気させた赤城が、冗談っぽく言いながら野獣の顔を横から覗きこんだ。
普段は見せない、その可憐な表情に差している朱は、酒のせいだけでは無い様に見える。
赤城の視線を受け止めつつ、野獣は低く喉を鳴らすみたいに笑う。「当たり前だよなぁ?」
そう言いながら、野獣は加賀の方も一瞥した。加賀は何だか嫌そうに眉間に皺を寄せる。
そして直ぐに視線を逸らし、黙って冷酒を呷った。何とも言えない反応だ。
ただ、それでも野獣は気を悪くした風でも無く、ビールの入ったコップを傾けた。
野獣は誰に対してもこういう砕けた態度を取る癖に、言葉の端々に不思議な真摯さが在る。
たまに無茶苦茶なことをしでかすものの、長門達が憎みきれないのもその所為だ。
言葉がキツかった陸奥や長門も、『まぁ、今更よねぇ』『あぁ、今更だな』みたいな空気である。
その空気に険悪さが混ざらないのは、やはり野獣という男の魅力なのだろう。
店の中が微笑ましい空気に暖められ、自然と鳳翔の口許も綻んだ。その時だった。
「ねぇ……、その、提督は、ど、どうなのよ?」
さっきから黙々と酒盃を重ねていたビスマルクが、隣に座る彼をチラリと見てから、ぽしょぽしょと言葉を紡いだ。
「え、僕ですか?」意外そうな貌をした彼も、ビスマルクの方を見た。
一方でビスマルクの方は、もじもじした様子で持っていたコップをカウンターに置いて俯き、両手の人差し指同士をツンツンとやっている。
ただ、声音ほどしょんぼりしている訳でも無く、どちらかというと、拗ねている様な感じだ。いつもの“構って構ってオーラ”にも近いが、ちょっと違う。
呑みすぎだろう。顔も大分赤い。「提督は、私達にはそういうところ、見せてくれないもん」と、唇を尖らせて言う姿は、どことなく暁に似ている。
「僕は未成年で、お酒も飲めませんし……」
戸惑った様に言う彼の様子も珍しくて、鳳翔は料理を作る手を思わず止めてしまった。
「そうじゃないの! そうじゃなくて、もっと私に甘えてくれても良いでしょー?」
其処まで言ったビスマルクは、隣に座る彼に身体ごと向き直った。
「今日だって私が秘書艦だったのに、全然頼って来てくれなかったじゃない?
何でも一人でやっちゃって。おしゃべりの時間もあんまり無かったし。つまんない。
おこよ? ビスマルクはおこよ? もっと褒めて、もっと甘えて来ても良いのよ?」
ビールは悪酔いするという話は聞いた事が在るが、ここまで面倒くさい酔い方になると、どうも酒の種類だけでは無いような感じである。
口調もちょっと幼い感じだ。普段から募っていた彼への気持ちが、ケッコンカッコカリの話題が引き金となって、ビスマルクの中で暴走気味になっているのだろう。
「私、知ってるのよ? 提督、不知火の事、おねえちゃんって呼んでるでしょう?」
そのビスマルクの言葉に、長門と陸奥、加賀が一斉に彼の方を見た。
楽しそうに微笑んでいるのは、野獣と赤城だけである。
料理を再開しようとしていた鳳翔も、気が散ってどうしようもない。
「は、はい……。その、そう呼んでも構わないと仰ってくれたので……」
「じゃあ、私のこともそう呼んでくれたら、許してあげるわ」
言いながらビスマルクはぐいっと彼に顔を近づけて、頬を膨らませた。彼は座ったまま身を引こうとした様だが、突然の事に反応が遅れていた。
ビスマルクが彼に身を寄せて、腰に手を回す方が早かった。ちょうど、ビスマルクが隣に座る彼にしな垂れ掛かるような体勢だ。
それだけでは無く、ビスマルクは彼の胸元に顔を突っ込んで「う~! む~! は~や~く~!」と呻りながら、ぐりぐりと頬擦りし始めた。
もうただの酔っ払いだった。ビスマルクが鳳翔の店で此処まで酔う姿を見せるのは珍しい。しかも絡み酒だ。提督は、もの凄く大きな猫にじゃれつかれてるみたいな状態である。
それでも落ち着いた様子の提督は、抱きしめるでも頭を撫でるでも無く、困ったように微笑んで、ビスマルクを宥めるように彼女の両肩に手を置いた。
「分かりました。でも、少し落ち着いてからにしましょう。
ほら、お水を飲んで下さい。……鳳翔さん。奥の個室をお借りしても良いですか?」
「え、えぇ。どうぞ。すぐにお布団を用意しに参ります」
「いえ、大丈夫です。それなら、僕がやっておきますから。
ビスマルクさん立てますか? 奥で横になって、ちょっと休んで来ましょう?」
抱き着いて来るビスマルクの抱擁を解きながら、彼はゆっくりと言う。こういう時の提督は紳士的と言うよりも、全然隙が無い。
不満そうに唇を尖らせたビスマルクは、渋々と言った様子で彼から離れて、カウンター席に座り直す。それから、彼が差し出してくれた水をゴクゴクと飲み干した。
「じゃあ落ち着いたら、“ビスマルクおねえちゃん”って呼んでくれるのね?」酒で濁った蒼い眼を据わらせて、ビスマルクは立ち上がって見せたものの、覚束ない千鳥足だ。
咄嗟に長門と陸奥がビスマルクを支えようと腰を浮かしかけたが、それよりも先に、彼が席を立っていた。「失礼しますね」
質問には答えなかった彼は、よろめく事も無く、ひょいっとビスマルクを抱き上げて見せる。彼自身、小柄ながらやはり鍛えているのだろう。
突然の事に、ビスマルクがめちゃくちゃ驚いた貌で硬直していたのが印象的だった。彼はそのまま、鳳翔の店の奥へと消えて行った。
それを見送った長門は、少しだけ頬を染めつつ軽く咳払いして腕を組んだ。
「あそこまで酔ってしまうあたり、
やはりビスマルクにも、……思うところが在るのだろうな」
「野獣と違って真面目だし、飲み方は弁えている方よね。ビスマルク。
あんなになるまで飲むなんて、どうせ野獣がまた弄り倒したんでしょ?」
陸奥がじとっとした眼で、野獣の方を見た。
「申し訳無いが、何でもかんでも俺を悪者にするのは流石にNGなんだよなぁ……。
今日は言う程BSMRKを弄ってないゾ。な、AKGもそう思うよな?(同意要請)」
陸奥から向けられる視線に不服そうに言いながら、野獣は隣に座る赤城を一瞥した。
赤城は静かに頷いてから苦笑を浮かべつつ、カウンター席に座りなおし、長門と陸奥に向き直る。
「野獣提督がイジったと言うよりは、先程までの話題の所為だと思います……」
其処で言葉を切った赤城は、言っても大丈夫かどうかを伺うように、野獣をちらりと見た。
隠すことでも無いし、別に言ってもいいゾ。野獣はビールをコップに注ぎながら言う。
それを聞いて、赤城は軽く頷いた。
「提督お二人に、ケッコンの為の指輪と書類一式が届いたそうです。
それで、彼が想いを寄せるひとが居る様子でしたので、それが誰なのかと……。
普段、触れることの無い話題でしたので、盛り上がってしまったんですよ」
「そういう事だよ(肯定)。
単純に、BSMRKが一人で暖まり過ぎて熱暴走しただけなんだよなぁ。
いっつも俺が誰かを苛めてる様な考え方は、†悔い改めて†」
でも、野獣提督の話の振り方も、少々下世話だった気もしますが……。
言い辛そうにだがそう付け足した赤城は、やはり微苦笑を浮かべている。
赤城は割りと落ち着いているのだが、鳳翔は自分の盛り上がりっぷりを思い出して再び顔を赤くしてしまう。
彼の意中の人が自分かもしれないなどと思って、勝手に舞い上がっていた事が、また恥ずかしくなってきた。
加賀も俯いて唇をぎゅうぎゅう噛んでいるし、心情的は鳳翔と似たようなものだろう。
「やっぱり野獣が原因じゃない(呆れ)
悔い改めるのは野獣の方だって、それ一番言われてるわよ?」
話を聞いていた、陸奥はやれやれと溜息を吐き出した。
「全くだな。……しかし、そうか。とうとう彼にも、ケッコンの準備をする時が来たか」
長門が厳かささえ感じる声音で呟き、真剣な様子で瞑目した。何をそんなに深刻そうな貌をしているのか。
鳳翔はちょっと困惑したが、出来るだけ眼を合わせない様にしながら料理へと戻る。とにかく、注文された品は用意せねば。
「まぁ、そういう話題なら、多少盛り上がり過ぎるのも理解出来るわね」と、長門の言葉に続き、ちょっと悪戯っぽく笑ったのは陸奥だ。
「ねぇ、話しを蒸し返して悪いけど、彼が想いを寄せる人って、誰かしら?
やっぱり、大和か武蔵? イジられた彼の反応はどうだったのよ、野獣」
楽しげに聞いて来る陸奥に、野獣は「そうですねぇ……(熟慮顔)」と言いながら眼を伏せる。
「ちょっと前にィ、AOBがアイツの部屋の前を夜中に通ったら、
“はぁ、はぁ……NGTさん、NGTさん……!”って、アイツの切なげな声が聞こえて来た来たらしいっすよ?(大スクープ)。
NGTの事を想って、一人で奥義の練習(意味深)をしていたと思うんですけど(名推理)」
「何っ!!!!!??? それは本当か!!!??(大声)」
叫ぶように言いながら、長門が猛然と立ち上がった。凄いテンションの上げ方だった。
そんな長門を見て、野獣も真面目な貌で頷いた。
「うそだよ(無慈悲)」
「ぐわっ!!?(レ)」
テンションを上げた分の反動も有り、長門が椅子の上に崩れ落ちた。
野獣の嘘だと分かってはいたが、少しでも期待した自分の不甲斐無さにダメージが倍増したのだろう。
「何だよNGT、何一人でポッカポカになってんだよ(棒)」
「黙れ!!」
「冗談はさておき。んにゃぴ、恥ずかしそうに言葉を濁すだけでしたね。
(アイツはあれで意思も強いし口も堅いし、あの反応だけで誰が好きなのかは判断でき)ないです」
野獣に対する彼の態度も少し砕けた感じで、友人とも兄弟ともまた違った、不思議な距離感を感じさせる。仲間、もしくは、親友とでも表現すべきか。
親しい仲の野獣にもまだ予想がつかないのであれば、艦娘達にも推測は難しい。じっと野獣を見据えている加賀も何やら思案しているのか、難しい貌になっている。
料理をしながら耳を欹てていた鳳翔も、残念な様な、ちょっとホッとした様な、妙な気分になってしまう。
「ふーん……。まぁ彼らしいわね」と、陸奥は野獣に軽く笑った。そんな二人の遣り取りを聞いていた赤城がワザとらしく、コホンと一つ咳払いをした。
「野獣提督は如何なのです?
督促の通達が来たと仰っていましたが、もう相手は決めておられるのですか?」
見詰めて来る赤城に視線を返しつつ、「いや全然!(即答)」野獣はきっぱりと言った。
「まだ何も考えて無いゾ。この鎮守府の状況も色々変わりつつあるからね。
ケッコンするかどうかも、今後の状況次第になるけど、まぁ……仕方無いね(レ)」
野獣は穏やかな声音で言いながら、赤城に口許を緩めて見せる。赤城の方は、「……分かりました」と小さく言いながら微笑んだ。
その隣で、酒を呷りつつ片手で顔を覆い、「ハァァアア~~~……(心の軋み)」と、クソデカ溜息を吐き出したのは加賀だ。二人にも其々、思うところがあるのだろう。
鳳翔は、赤城と加賀の二人を見守る様に順番に見てから、二人がこんな平穏な時間を送れることを、心の中で野獣と彼に感謝する。
少しの間、沈黙が降りた。その間に、鳳翔は料理を作り終え、熱燗と一緒に長門と陸奥のテーブルへと運ぶ。鳳翔がカウンターに戻ってすぐだった。
「俺達が誰とケッコンするのかは置いとくとして、お前らの方はどうだよ?
AKGとかHUSYOUはともかく、KGとNGT、それからMTはちょっと心配だゾ(親心)
家庭的というか、母性的と言うか、そういう素質が在るように見えないゾ(超暴言)」
野獣が渋そうな貌で、加賀と長門、それから陸奥を見回した。
「頭に来ました……(正直)」
加賀はめちゃ不機嫌そうに言いながら野獣を睨むものの、座って酒を呷るだけだ。
噛み付くだけ無駄と察しているのだろう。
「な、舐めるなよ野獣。私は女子力もビッグ7だ(意味不明)」
まだ素面の癖にワケの分からない事を言い出した長門は、何故か自信有り気な不敵な笑みを浮かべようとして、失敗していた。頬が引きつっている。
「私だって掃除、洗濯は人並みだし、
料理は……、その……、レンジでドン☆するくらい出来るわよ?(錯乱)」
野獣から視線を逸らした陸奥の言葉も、妙に歯切れが悪い。
「いや、チンしろよ。ドン☆って何だよ……(恐怖)」野獣が難しい貌で呟いた。
レンジ、爆発してませんか……? 鳳翔もツッコミを入れそうになったが、沈黙を守る。
「何だよお前ら、やっぱり駄目駄目じゃねぇか(読み読み先輩)
これでは“一航戦”と“ビッグ7”の名が泣くな。な? HUSYOUもそう思うよな?」
突然同意を求められ、鳳翔は困った。とりあえず、笑って誤魔化す。ただ、加賀や長門、それから陸奥も、野獣については言及しない。
普段の振る舞いや格好が無茶苦茶な野獣が、実は料理やその他の細かい家事を卒なくこなし、生活能力も結構高かったりする事を知っているからだ。
呑み過ぎだりサボったりして仕事にムラを作ったりするのも、本当はワザとなのでは無いかと思う時がある。それはそれで迷惑な話では在るが。
「ぐ……、あっ、そうだ!(唐突)、
ま、また新しい艦娘を迎え入れる予定だと聞いたが、……母港拡張が必要になるな。
おっ、そうだな(自問自答)」
長門は苦し紛れと言った感じで、強引に話題を変えようとしたが、野獣がそれを許さなかった。
「ボコォ拡張(意味深)? いきなり何言ってんすか!?
みんなが安らぐHUSYOUの店で、下ネタは不味いですよ!?
やめて下さいよ本当に!(義憤)」
陸奥と加賀が飲み掛けた酒を噴き出し、赤城も恥ずかしそうに眼を伏せた。鳳翔も同じく俯いてしまう。
「な……っ!? 言っとらんわ!?」と、抗議する長門の声など聞かず、野獣は肩を竦める。
「いきなり下ネタをぶっぱなすとか、お前の女子力ガバガバじゃねぇか(呆れ)」
それと同時だったろうか。
「すいません、鳳翔さん。お部屋とお布団、お借りしました」
ビスマルクを個室に運んだ彼が、カウンター席へと戻って来た。
彼が戻って来たので、流石に長門も声を張り上げるのは止めた様だ。酒と一緒にぐっと言葉を飲み込んで、深呼吸をした。自身をクールダウンしているのだろう。
ただ、酒の肴に頼んでいた料理をペロリと平らげ、自分を痛めつけるみたいに日本酒を喉に流し込んでいる辺り、冷静という訳でも無いらしい。
酒を噴き出した陸奥と加賀は口許を手で拭ってから澄ました顔を作り、取りあえず黙ったまま酒盃を重ねている。
妙な熱が篭っていると言うか、空気が浮ついていると言うか、そういう変化を彼も感じ取ったのだろう。
暖かいお茶を鳳翔に頼みながら周囲の面々の顔を見て、ちょっとだけ怪訝な表情になっている。
「ビスマルクさん、やっぱり直ぐには大人しくしてくれませんでしたか?」
彼に湯吞みで茶を出しながら、鳳翔も何とか微笑む。
顔の赤さを気取られまいか心配だったが、杞憂だった。
「宥めすかすのに時間が掛かりましたが、何とか落ち着いてくれました。
横になって暫くすると寝息を立てられ始めたので、戻って来させて貰ったんです。
ビスマルクさんに飲ませすぎたのも、傍に居た僕の監督不行き届きですね」
彼は両手でそっと湯吞みを受け取り、微笑を返してくれた。
「明日は、ビスマルクさんは非番だと聞いていますが、あの様子では二日酔いでしょう。
お腹に優しい御粥でも作り置いてあげたいので、後で厨房をお借りしても良いでしょうか?」
ビスマルクと言うか、酔っ払いの扱いにも慣れたものと言うか。
「ええ、構いません。どうぞ、お使いになって下さい」鳳翔は快諾し、笑顔で頷く。
NGTよりコイツの方が女子力高いとか、これマジ? と。
その様子を横目で見ていた野獣が、これ見よがしに盛大に溜息を吐き出した。
「パワー重視の巨女はスケベな事しか考えないのか……(諦観)。
おいMT、どうにかしろ(投げやり) KGも連帯責任だゾ(飛び火)」
「おい! その言い方だと、まるで私がただの変態雌ゴリラみたいだろうが!?」
「え、違うのぉ?(レ)
どうせ、いっつもショタバナナ(意味深)の事で頭が一杯だゾ(決め付け)」
「全力で否定させて貰う(蒼き鋼の意思)!!
言っておくが、私の本懐は包容力を軸にした“母性”だ!
例え女子力が多少不足していても、十分にカバーしてみせる!(錯乱気味)」
長門は若干赤い顔で、訳の分かるような分からない様なことを力説して見せる。
自分から火傷をしに行くスタイルなのか……、と。端から見ていた鳳翔も若干、困惑する。
『もう酔ってんのかコイツ』みたいな貌で、野獣も鼻を鳴らした。だが、すぐに何かを思い付いた様だ。
長門と彼を見比べた野獣が、ニヤッと笑ったのを鳳翔は見逃さなかった。
「よう言うた! それでこそビッグ7や!
じゃあ、ちょっとNGTの“母性”ってヤツを、とくと見せてくれや!(キチスマ)」
「やめなされ、やめなされ……。惨い無茶振りはやめなされ……(震え声)」
もう何らかの悲劇が起きるのを察した陸奥が、野獣を止めようとしたが、駄目だった。
「の、望むところだ!」と、酒の入った長門が、野獣の話に乗ってしまったのだ。
その様子を見ていた赤城は苦笑しながら、加賀の方は気の毒そうな貌で、「あ~ぁ……」みたいに息を吐き出していた。
鳳翔もハラハラしながら成り行きを見守るしか無いのだが、お茶を啜る彼は暢気な様子で長門と野獣の遣り取りを眺めている。
「ホラホラお前も見てないで、こっち来て其処に座って!」自分にも火の粉が降りかかろうとしているのを、知ってか知らずか。野獣に呼ばれた彼は、素直に従う。
「分かりました。お隣、失礼しますね」
野獣が指差しているのは、テーブル席の長門の隣だった。
彼は長門に微笑みかけてから、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
その純粋の微笑みに、何か感じるものと言うか、後ろめたい何かがあったのか。
長門が「うっ……」と怯むように身を引いた。空気がピリピリし始める。
とりあえず場のセッティングは終わった様だが、何がはじまるんです?(コマンドー)
「じゃあ、ちょっとオママゴトって言うか、反応テストみたいなのをして貰うから。
やり方はスゲー簡単だから! NGTが母親役で、コイツが子供役でOK? OK牧場?
其々の立場でコミュニケーションを取って、その“母性”を見せ付けてくれやオラララァァァン!?」
野獣は含みのある笑みを浮かべながら、長門に頷いて見せた。
「シチュについては、NGTが決めると反応テストにならないからね。
どうすっかなー、これなー……(沈思)。日常的なシチュと言えば、そうですねぇ……」
要するに“子供役の彼へ母性的なレスポンスをして見せろ”という事らしい。
その内容を理解し、緊張した様子の長門と、少しだけ恥ずかしそうな彼は、お互いに顔を見合わせる。
赤城や加賀、陸奥も、長門がどんなレスポンスをして見せるのかという点には、興味を引かれた様だ。じっと成り行きを見守っている。
無論、鳳翔だってそうだ。ちょっとした適性検査みたいな、妙な緊張感が漂い始める。野獣は何かを思い付いた様に一つ頷いてから、長門と彼を順番に見た。
「じゃあ、“子供が家に帰って来て、それを出迎えるNGT”という感じで、はいヨロシクゥ!
コイツが“ただいま”と言って此処に座り直すから、その後に続いて、親子のコミュニケーション的な会話をやって見せて、どうぞ(面接官並の対応)」
雰囲気が思ったよりもガチになって来たせいか、長門の頬に一筋の汗が流れた。
表情も真剣な様子で固まって強張っているが、この展開は流石に読みきれなかっただろう。
「分かりました。……では長門さんのタイミングで、始める合図を下さいね」
何処か嬉しそうな彼の方は一度席を立って、少し離れた所に立ってスタンバイに入る。
長門は「あぁ、もう逃れられない!!」みたいに、一瞬だけ表情が歪めたが、すぐに真顔に戻った。
覚悟を決めたようだ。酒が入った赤い顔で覚悟も何も無いと思うが、心の準備は必要だろう。
戦闘海域に入る時と同じように、静かに瞑目した長門が呼吸を整えた。
「よし……。は、始めて貰っても大丈夫だ」
長門のその言葉が合図だ。もの凄い緊張感が鳳翔の店を包んだ。息を呑んだのは、鳳翔だけじゃない。赤城や加賀もそうだ。
陸奥も神妙な面持ちで、二人の様子を見ている。野獣だけが、面白そうにビールを呷っている。
彼がゆっくりと歩み寄り、そっと長門の隣に座った。って言うか、近っ。彼は椅子に座ったまま、長門にそっと肩を寄せた。
「あの……、た、ただいま、母さん」
長門に微笑み掛けた彼の声音は、今まで聞いた事の無いような声音だった。
少しの緊張と、ぎこちなさの中に、遠慮がちに甘えようとする信頼と無防備さが在った。
鳳翔は、自分の心に衝撃が走るのを感じた。ひ、卑怯だ。そんな表情をするのは。ずるい。
頬を少し染めた恥ずかし気な彼の表情にも、母性では無い何かを激しく刺激された。
うわぁ……。な、何だか、変なスイッチが入ってしまいそうだ。店の中が静まり返った。
陸奥は眼を丸くして彼を凝視しているし、加賀は持っていたお猪口を取り落とす。
赤城も驚いた様な表情で硬直し、あの野獣ですら同じ様な様子だった。
今日は、何だか特別な日なんじゃないかと思わざるを得ない。
「ぉ、お、おかえ、おか、おか……」
至近距離で向けられた唐突な衝撃に、赤い貌をした長門がニワトリみたいになっていた。
多分、おかえりと言おうとしているのだろうが、言葉を紡げていない。
だが、すぐに深呼吸をしてから、キリッとした表情をつくって見せる胆力は流石だ。
「む……。コホン。あ、あぁ、おかえり。う、うがいと手洗いは済ませたか?」
「はい。済ませて来ました。今日のオヤツは何ですか?」
「ホ、ホットケーキでも焼くか(出来るとは言ってない)」
行き当たりばったりのアドリブだが、長門と彼の台詞は、まぁそれらしいと言える。
だが、その母性を伺い知ることが出来る様な遣り取りでは無い。
長門はもう一度で咳払いをして、台詞を考える様に視線を彷徨わせた。
そして、何かを閃いたように頷いてから、彼に向き直る。
「あ、そうだ!(苦し紛れの本日二度目)
今日は、何か学校でイベントが在ったんだろう? どうだったんだ?」
若干、キラーパスっぽい長門の質問だったが、それに対する彼のレスポンスが不味かった。
「えぇと、……はい。今日は写生大会が在りました」
キラーパスをキラーパスで彼が返して来たのだ。
「んんっ!?!? しゃせ……!!? な、何……ッ!!!?」
長門の方も、平静さを取り戻した様に見せ掛けてその実、反応テストなどと言われてテンパって居たに違い無い。
「クラスの男の子グループに混ぜて貰って一緒に写生したんですが、難しかったですね」
声をひっくり返す長門に、彼は変わらず穏やかな表情で頷いて見せた。
「やっぱり、女の子達の方が上手でした」
「女の子も出るんですか(驚愕)!?」
思わず声が出てしまい、鳳翔は恥ずかしさの余り消えてしまいたくなった。
長門達が一斉に鳳翔を見た。鳳翔は咄嗟に深く俯いて、前髪で顔を隠す。肩が震える。
表情こそ隠したものの、自分の顔が無茶苦茶に赤いだろうことは分かる。顔がアツゥイ!!
あー、もう! 恥ずかしすぎて顔から火がでちゃいそう! 一緒に涙もでちゃいそう!
緊張が高まると、ちょっと冷静になって考えれば分かる勘違いというか、想像の飛躍を制御しきれなくなる。普段しないようなミスを犯す。
この時、長門だけでなく、陸奥も加賀も赤城も鳳翔も、全員が一斉に同じ間違いと言うか、ぶっ飛んだ想像に至っていたのは間違い無い。
絵を描く“写生”が、頭の中に出てこなかった。そんな中で、真っ赤になった長門が、眼をぐるぐると回しながら、レスポンスをしようとしている。
そして、湯だった頭と混乱する思考回路をフル稼働させ、羞恥で掠れた声で長門が搾り出した台詞が、「い、いっぱい出たか?(震え声)」だった。
「えっ」と言う彼の声に被せて、「き、気持ち良くできましゅたか……?(小声)」という、噛み噛みの台詞で続いたのは、切なそうな貌の加賀だった。
「クリーミー♂で、うん! おいしい!!(暴走気味)」と爽やかに言い放った、眼がゆんゆん状態の陸奥のぶっ飛び具合だって負けていない。
「変態ばっかじゃねぇか俺の艦隊ィ!! やめたくなりますよ~、提督ゥ。
おいNGTォァ!! もう、母性もへったくれも無くなってんじゃねぇか!? オォン!?(半笑い)」
流石に野獣も笑うしか無いと言った感じだった。
「ま、まぁ、良いじゃないですか、野獣提督。今日は、成人の日ですし(意味不明)」
何だか訳の分からない事を言う赤城は、あれでフォローのつもりなのか。
声も上擦っているし、今日は成人の日でも無い。赤城の顔も赤い。照れて焦っているのか。
其処に、ドタドタドタっと、店の奥から誰かが走り出て来て、べしゃっと床にこけた。
今度は泣き上戸か。彼女はべそべそとしながら、ふらふらと立ち上がった。
「痛いよぉ! もうヤダよぉ! 仲間にいれてよぉ~(泣)!!
私だけ一人にするのは、アカンもう勘弁してぇ(´;ω;`)(レ)」
収拾がつかなくなりかけているが、其処に別室で寝ていた筈のビスマルクが乱入して来たのだ。
彼が席を立ち上がり、慌ててビスマルクを支えに行く。まだまだ騒がしさは加速し始めたばかりだ。