深海棲艦の研究施設。その地下に在る特別捕虜房へと向う間、今日の秘書艦である雷は特に何を言うでも無く、彼と野獣の後ろについて歩いていた。
厳重な警備とロックが施されたエレベーターで地下に降り、傲慢とさえ言える白一色で塗り潰された地下空間に出て、息を呑む。
天龍から、この場所についての話は聞いた事が在ったが、感じる空気の重たさは想像していたものとは大分違う。ずっと重い。
周囲の白色が、凄まじい圧迫感を与えてくる。まるで、何もかもを掌握されていて、何処にも逃げ場など無いのだと、言外に示されている様な錯覚を覚える。酷く息苦しい。足取りも重い。ただ、前を歩く野獣と彼は、平然としている。
野獣はいつものTシャツ海パン姿で、背中に長い刀を吊るしていた。彼の方は、黒い提督服を着込んでいる。右眼には、仰々しい黒眼帯。右手には黒い手袋をしていた。
二人は何故か手に大きなバスケットを持っているし、本当にピクニックにでも行くみたいだ。
こういう時にはやはり、野獣や彼から底の知れないものを感じてしまう。
また一つ大きな作戦が成功、終了し、鎮守府の傍に設立されたこの研究施設には、つい先日、また新たな深海棲艦が収容された。戦艦水鬼である。
この“鬼”を捕らえる戦果に大きく貢献したのは、やはり野獣や彼が保有し、この鎮守府に所属する艦娘達であり、その活躍に拠るところが非常に大きかった。
大和や長門、武蔵や陸奥達が、戦艦水鬼が属する敵艦隊に大きくダメージを与えて弱らせたところに、諸々の鎮守府の艦隊が猛追撃をかけたのだ。
漁夫の利を拾われた形だったが、野獣や提督は特に気にした風でも無く、全員の帰投を喜んでくれた。二人は武勲や功名よりも、艦娘達の無事を優先してくれる。
野獣や提督は、あえて深追いしなかった。今回は特に敵の戦力も高く、戦艦水鬼だけでなく、戦艦棲姫が二体、その脇を固めていたからだ。
いくら艦娘達の錬度が高くとも、鹵獲を行うには明らかに無謀だった。だが、故に本営はその鹵獲の手柄として、大きな評価を約束していた。
こうした功名に眼が眩む提督は、未だ多い。人類が優位になったからこそ余計だろう。今回、戦艦水鬼を含む深海棲艦の艦隊へと追撃を仕掛け、轟沈した艦娘の数は如何ほどか。
正確な数は分からない。社会に報道される内容は、勝利という事実に偏重されているのが実際のところだ。だからこそ、多くの人々は錯覚する。
人類の悲願でも在る、深海棲艦の撃滅。その先に在る平穏は、既に眼の前に見えていると。手を伸ばせば、届きそうな距離に在るのだと。
人類は優勢に立ち、大きな勝利を重ねている。身に及ぶ脅威を、更なる力で排除している。その支配の範囲を、順調に押し広げ続けている。確かに、これは真実だ。
だがその一方で、深海棲艦が何故生まれるのかという、根本的な問題の解決方法が見つかっていない。諸説在るが、確かな説は未だ無い。
暗中模索の状態である人類を尻目に、深海棲艦達は劣勢でありながらも、その強さの水準を維持していた。新種の個体の発生に伴い、個々の戦力増大の傾向も見て取れる。
人類優位で分かり難くなっているだけで、発生する深海棲艦の数自体も、一定数以下には出来ていないのも事実だ。
どれだけ沈めても、咲いては散り、散りてはまた咲く花の様に彼女達は発生する。
今の人類は、その一点から必死に眼を逸らしている。前の作戦についての報道をテレビで見て、雷はそんな印象を抱いていた。
深海棲艦達を配下に迎え入れ、意思の疎通を行う彼にも、深海棲艦の発生のメカニズムや真相については、確かな事は分からないと言う事だった。
以前の鎮守府強襲についても、深海棲艦側にも綿密な作戦が在った訳では無い。
これも、南方棲鬼やレ級から彼が訊き出した事だが、深海棲艦の中の特定の個体が、特定の地点へと進撃する命令を受信している様な状態だったらしい。
彼が深海棲艦達から訊き出した話によれば、彼女達自身にも、己が生まれる過程や行動理念については、意思の及ばない部分らしい。自我や思考の前に、殺意や敵意が在る故か。
在る意味で本能的と言うか、在るべくして在る姿の為に、人類と戦っていたという事だった。
生まれながらの殺戮兵器である彼女達を導く、何か巨大な意思が存在しているのかもしれない。
深海棲艦って、何で人類と敵対するのかしらね……?
伊達眼鏡を掛けた雷は、手にしたファイルに綴じ込んだ書類を見詰めつつ一人ごちた。
雷が眼を落とした書類には、かつてのケッコン実験から調整状態にあるチ級、リ級についても、この施設にて保護せよとの内容が綴られている。
やはりこの通達についても、彼が本営に通した要望の結果なのだろうか。他にも、他所の鎮守府で捕らえた深海棲艦を、此方に輸送してくる予定なども記されている。
其処には、空母棲姫、中間棲姫の二体の名前が在った。以前の大きな作戦で見た事の在る名だ。どちらも、巨大な戦力を有した深海棲艦だった筈である。
だが、その二体もこうして鹵獲された。それでも尚、強さと勢いを増していく人類に、深海棲艦は全く怯むこと無く戦い続けている。逃げも隠れもしない。
何故だ。深海棲艦達は、何かを訴えようとしているのか。
考えても答えは出ない。不意に視線を感じ、雷は顔を上げる。彼と眼が合った。
鋼鉄を組み合わせた様な巨大な扉のロックを、傍にあるコントロールパネルで解除していた彼が、肩越し雷を振り返り、見詰めて居たのだ。
「そろそろ降参しても良いんじゃないかしら? ね、司令官」
雷は、ふんと鼻を鳴らして軽く笑う。彼も、そうですね……、と。小さく呟いて応えてくれた。
「ただ……、人類全体にも、深海棲艦と和解しようと言う意思が殆ど無いことも事実です。
今のままでは彼女達が降伏したところで、人類による一方的な侵略が始まるだけでしょう」
「そういう世情については、向こうもある程度察してるっぽいんだよなぁ……。
まぁ、俺たちを含めて何処の鎮守府でも、深海棲艦を殺す気満々で艦娘達を出撃させるからね。しょうがないね……(宿命の業)」
野獣も雷に振り返りながら、肩を竦めて見せた。
ちょっと声を沈ませた野獣に、雷は何か言おうとしたが、上手い言葉が出てこなかった。
確かに、野獣の言う通りだ。深海棲艦は、艦娘達に対して容赦しない。躊躇も無い。
だからこそ、艦娘達も情けは掛けない。其々に錬度を上げて武器を揃え、深海棲艦を討ち鎮める。
沈めなければ、沈められる。簡単なことだ。故に、その仕組みを変える事は困難を極める。深海棲艦に敵意と害意が在る限り、和解は絶対に成立しない。
だから激戦期が明けて人類優位になって尚、こうして戦いが延々と続いているのだ。洋上における趨勢は変わっても、殺し殺されの堂々巡りは続いている。
「お前らに沈んで欲しくないんだから、俺達がマジになるのも当たり前だよなぁ?
ただ、この負の連鎖を断つ術を探そうとしないのも問題だって、それ一番言われてるから(届かぬ思い)」
少しだけ物憂げな様子の野獣がそこまで言った時だった。扉のロック解除が終わった。鋼鉄で厳重に編まれた扉が、壁や床に沈むようにして開いていく。
ゴウン……、という低い音が響く。彼と野獣は歩を進め、その後に雷も続く。相変わらず、傲然とした白色が、廊下に続いている。
此処から先は、人型の深海棲艦を捕らえておく為の特別捕虜房エリアである。“姫”や“鬼”を含む上位個体も収容されている。
だが、何故だろう。歩を進めるにつれて、雷は違和感を覚える。周囲の白色の印象が変わったと言うか、先程までの空気の重さが、不思議と和らいでいるのだ。
このエリアには、冷え込んだ無機的な雰囲気が無い。むしろ、ある種の生活空間に足を踏み入れた様な、ぬくもりと言うか、体温の様なものを感じたせいだろう。
雷が周囲を見回すと、まだ空っぽのままの捕虜房が幾つも在った。此処が一杯になっている様子を想像すると、ゾッとしてしまう。背中に寒いものが走った時だ。
「ウェヒヒヒ!(0w0)ウェェェェイ!!(レ)」と、声が聞こえて来た。少し先の捕虜房からだ。子供っぽく弾んでいるのに、妙に艶のある声音だった。
正直、ギクッとした。深海棲艦の声だというのは間違い無い。今まで散々殺し合って来た敵である。いや、今までと言うか、これからだってそうだろう。
だというのに。聞こえて来た声がもの凄く楽しげで場違いな感じがして、雷は戸惑ってしまう。しかし、歩を進める彼と野獣は自然体のままだ。
こんなに気を張り詰めている自分がおかしいのだろうか。そんな馬鹿な。混乱しそうになる雷を連れたまま、彼と野獣は声が聞こえて来た捕虜房の前に立った。
捕虜房の扉が自動で開いた。このフロアを自由に行き来出来るようにしてあるからだ。
肉体のスポイルと解体施術を受けた深海棲艦達の収容状況は、軟禁状態にある。
以前まではもう少し厳重だったが、彼が深海棲艦達の保有権を得たことにより、その待遇も大きく変わったのだ。
シリンダーに詰め込まれて居たタ、ル、ヲ、そして、戦艦棲姫も、現在では他の房室を其々割り振られてある。
「おはようございます。お変わりありませんか?」
「お ま た せ (差し入れ)」
扉を抜けて、捕虜房に入った彼と野獣に雷も続いて、その異様な雰囲気に気付く。
白塗りのテーブルや椅子が置かれた白一面の捕虜房には、無数の本が散乱していた。
ハードカバーの難しそうな本に始まり、子供が読むような絵本も混じっている。
そして、そのどの本にも付箋がびっしりと挟まれており、読み込んだ形跡が見て取れた。
貪り読む様にあちこちに開いた本が置かれたその捕虜房は、一種の狂気に満ちている。
テーブルにも山の様に本を積み上げている彼女は、此方を見て立ち上がった。
「あ! (まだ朝だけど)こんばんはーーー!!(レ)」と、右手で敬礼しながら挨拶をしたのは、戦艦レ級だ。突き抜けた様な元気一杯の凄い笑顔だった。
服装は、あの黒ツナギともレインコートともつかない格好では無い。黒ジーンズを破いた様なホットパンツと、黒一色のTシャツ。
それに、黒のパーカーを被り、黒のマフラーを巻いている。青白い肌とのコントラストは中々セクシーだ。
ただその元気っ娘オーラと、本が散乱したこの捕虜房の雰囲気のミスマッチが凄まじい。
“学習”というものに楽しみを見出したのか。手にはやはり、同じ様に付箋を幾つも挟んだ状態の、小難しそうな分厚い本を抱えている。読んでいる途中だったのだろう。
そのレ級に続いて、「オハヨウ……」と、ぽそぽそと小さな声を紡いだのは、積み上げた本の影から、こそっと此方を窺う様に顔を出した空母ヲ級だ。
レ級とは対照的に、ちょっと引っ込み思案なのか。ヲ級の方はホットパンツにTシャツというラフな格好では無く、いつもの黒と白のボディスーツである。
「お久しブリーフ(レ)!
つい最近は、岩に隠れとったのか?(レ)」
立ち上がったレ級は嬉しそうに言いながら、彼の前まで歩み寄って来た。
警戒心とか敵意とか、そんなものを微塵も感じさせない笑顔を浮かべたままだ。
凄く流暢に言葉を話せるのは、この捕虜房の有様が語るように、学習の結果なのだろう。
ただ言語感覚というか、センスが独特なのか。ちょっと変わっている。
“岩”というのも、“仕事や任務が忙しい”とか、多分そういう意味なのだろうか。
「えぇ、もう少し早く会いに来ることが出来れば良かったのですが……」
「何の問題ですか?(レ)」 レ級は言いながら、彼の肩をバンバンと叩いた。
邪気の無い笑顔からは“そんなの気にすんなよー!”みたいなノリなのだと窺える。
彼も笑顔を返しながら捕虜房の中を見回して、そっと自分の顎に手を当てた。
「しかし凄いですね……。もう殆どの本を読破されたのですか?」
「そうなんでーちゅ(レ) どうじゃ!(レ)」
レ級は“むふふん♪”といった感じで、感嘆する彼に頷いて見せた。
「また新しい本をお持ちしますね」
「わふー(>ω<)! ナイスでーす♀!!(レ)」
「……会イニ来テクレテ、アリガトウ」
嬉しそうに言うレ級の隣に、歩み寄って来たヲ級が並んだ。
ぎこち無い様子で紡がれたその言葉には、儚くも熱っぽい響きが在った。
レ級が太陽のような眩しい笑顔だとすれば、ヲ級の方は、儚げな月明かりを思わせる。
「ヲ級さんも、具合が悪いところなど在りませんか?」
「貴方ノ御蔭デ、特ニハ……」
静かな声で言うヲ級は、彼に微笑みを返す。
想い人か恋人にでも向けるような艶の在る眼差しで、ヲ級は彼を見詰めている。
その琥珀色の瞳を切なげに揺らしながら、ヲ級は、彼にそっと身を寄せようとした。
しかし。其処でヲ級は雷の方を見て、歩を止めた。それから、儚い微笑みのまま、雷に会釈して見せる。
咄嗟に、雷は会釈を帰すのでは無く、ぐっと見据えることを選んだ。彼に歩み寄るのを止めたのは、雷に遠慮したからだろうか。何となく、そう思った。
人類への殺意の塊みたいな存在の深海棲艦が、ここまで心を開いている様子など、誰が想像出来るだろう。軍属で無い民間の人々ならば、夢にも思うまい。
ヲ級やタ級、ル級や戦艦棲姫が、彼に強い仰慕の念を抱いている事も、天龍に聞いて知っていた。そんな雷でも、やはり現実感の薄い光景なのだ。
唇を噛みながら、ヲ級を睨むでも無く見据えていると、今度はレ級も此方を見た。
いや、笑みを深めながらズイっと詰め寄って来て、握手を求める様に手を差し出して来た。
覗き込むと吸い込まれそうな、その紫水晶の様なレ級の瞳が、雷を映している。
その瞬間だった。
脳裏に。暗い海の上で、レ級と一人対峙する自分の情景が浮かんだ。
その情景の中でレ級は、左眼を大きく見開き、右眼を刃物の様に窄め、笑って居た。
金属獣の咆哮。砕け散る自分の肉体。艤装。無邪気故に、残酷極まりない哄笑。
背筋を凍らせ、魂を動揺させる、死の予感。
心臓が鷲掴みにされた様な悪寒が全身を包んだ。
垣間見た絶望の光景は、艦娘としての性か。
それとも、戦闘で研ぎ澄まされた感覚と、生き延びる為の本能によるものか。
恐怖と悲鳴を飲み込んだ雷は咄嗟に艤装を召還して、手に錨を構えて後ずさった。呼吸が浅くなる。手と脚が震える。汗が噴き出す。レ級を睨み据える。
傍に居る彼は、そんな様子の雷の反応もある程度予想していたのだろう。全く動揺していない。「大丈夫ですよ、雷さん。今の彼女達には、戦う力は在りません」
それは勿論知っている。理解している。解体施術を受けたレ級には艤装尻尾が見て取れないし、ヲ級の頭にも艤装は無い。だが、やはりこの感覚は理屈では無い。
今の彼女達が無力だと知っていても、それでも尚、自身の体が戦闘体勢をとってしまう。雷の艦娘としての部分が、レ級という存在に反応しているのだ。
本を抱えたままのレ級は、何だか不思議そうな貌をして雷から視線を外した。
そして、握手のために差し出していた手で、ちょいちょいと野獣のTシャツの裾を引っ張った。
「へい、おっさん?(レ)
コイツ、見せ掛けで超ビビッてるな(レ)? どういうことなの……(レ)?」
「おっ↑さん↓だとォ!? 前も言ったけど、お兄さんダルォ!(憤怒)」と叫んだ
野獣は、軽く息を吐き出してから、レ級と雷を見比べる。
「そりゃあ“お前”だからね、まぁ……ビビられてもしょうがないね(諦観)」と。 言ってからクソデカ溜息を吐き出して見せた。
「あらぁっ!?(レ)」
ショックを受けた様な表情を浮かべているレ級は、もしかしたら自身の異常な強さを理解していないのだろうか。
いや考えてみれば、レ級にとってもこういう形で艦娘達と接触するのは初めてのことだろう。
そのフォローに入ったつもりなのか。ヲ級が、雷にも微笑みかけて来た。
「私達ニハ、モウ反抗ノ意思ハ有リマセン。……ドウカ、艤装ノ召還ヲ解イテ下サイ」
今まで殺し合って来た相手とは思えない程、眼の前に居るヲ級には余裕が在る。
いや、彼に全てを預けているが故の覚悟か。琥珀色の瞳は、凪いだ海の様だった。
穏やかな声音と表情で言われ、雷は握り締めて構えた錨を下ろしてから、深呼吸した。
何と言うか、もの凄く落ち着いたヲ級の雰囲気に呑まれてしまう。
「ままま、IKDCもさ、そう殺気立たないでよ!(朗らか)
今日はオヤツも持って来たから、お前らの為に(優しさ)」
雷がこんな風になる事も半ば予想してあったに違い無いし、場の空気を和らげる目的も在ったのだろう。
野獣と彼はお互いに顔を見合わせてから、レ級やヲ級、雷に持っているバスケットを広げて見せる。お菓子やフルーツが山盛りに入って居た。
保冷ケースも入っており、紙カップに入れられた間宮さん特製アイスも在る。「ふわふわアイス!(レ)」、「ワァ……」と、レ級とヲ級が瞳を輝かせた時だった。
再び、この捕虜房の扉が開き、ホポポポ、ホポポポポ……という可愛らしい声が聞こえた。そちらを見遣った雷は、「ファッ!?」と思わず変な声が漏れた。
黒いゴーグルを装着した北方棲姫が、勢い良く駆け込んで来たのだ。「お、サイクロップス棲姫かな?」とすっとぼけた野獣に肉薄する。電光石火だった。
「カエレ!!(歓迎)」と、言葉とは裏腹にちょっと嬉しそうな声で言いながら、北方棲姫は野獣の股間に、右拳でパンチをぶち込もうとした。
野獣は読んでいたのだろう。「キャンセルだ!(余裕の回避行動)」すっと身を引いて、北方棲姫の突進を捌いた。
突進をかわされ、体を泳がせた北方棲姫はすっ転んで、レ級に突っ込んだ。転ぶ勢いのまま、レ級の左脛に頭突きを叩き込む格好になった。
ゴッツーンと言う、結構良い音がした。レ級も反応出来ておらず、まともに喰らった。「阿吽!?(レ)」と悲鳴を上げたレ級は、肩を震わせながら脛を押さえて蹲った。
北方棲姫は、はわわわわ……、みたいになった後、走って逃げ出した。「何か……、台風みたいな子ね……」その小さな背中を見送りながら、雷は呆然としながら呟いた。
「大丈夫……?」と、ヲ級がレ級に手を差し出した。
「ア、 アイツ……、いつか泳がす……。アメリカまで泳がす……(レ)」
結構痛かったのだろう。涙目になったレ級は恨めしそうに言いながら、ヲ級の手を取って立ち上がる。
北方棲姫の腕白振りや騒がしさに、彼も苦笑を浮かべていた。
「北方棲姫さんには、僕のバスケットを渡して来ますね。
港湾棲姫さんや、タ級さん、それからル級さん達の様子も見て参ります」
「お、そうだな。(鷹揚とした頷き)
こいつら状態も本営に報告しないと駄目だし、しょうがないね。
それじゃ、もうちょいしてから水鬼の治療施術しに行くかなー。俺もなー」
「わかりました。……では、後ほど。また合流させて貰いますね」
彼はそう言った後、野獣と雷、レ級とヲ級に会釈してから、捕虜房を後にした。
雷も、今日の秘書艦として彼について行こうとしたが、結局、置いていかれる形になってしまった。
彼を追いかけるよりも先に、ぐいぐいと腕を掴んで引っ張られる。
「ふわふわアイス一緒に食べような? な?(レ)」と、人懐っこい笑顔を浮かべるレ級だった。
全くと言って良い程に邪気を感じさせないレ級の笑顔に、正直怯みそうになる。レ級にとって艦娘とは、殺戮と蹂躙の対象でしか無かった筈だ。
そんなレ級が何故、こんな風に雷に馴れ慣れしく接して来るのだろう。人間が小動物を可愛がるような心理なのか。分からない。
「まぁ、アイスは溶けちゃうから……、先に食べようね!」野獣は笑いながら、背中に背負っていた長刀を脇に置いた。
それから、バスケットの中からアイスの入ったカップを人数分取り出した。スプーンと一緒にレ級とヲ級、それから雷へと渡してくれた。
結局、はしゃぐレ級と、相変わらず控えめな微笑みを浮かべるヲ級と一緒に、雷はアイスを食べる流れになった。深海棲艦達とテーブルを囲むことになるなんて思って無かった。
断固拒否しようとも思ったが、深海棲艦の間に共存の道を探ろうとする彼の意思を、彼のもとに居る艦娘である雷が邪魔をしてしまうのは、やはり何だか違う気がしてくる。
かつては敵であったとしても、今の彼女達は、一応は彼の保有艦である。言うなれば、雷達と立場は同じである。もっと言ってしまえば、彼女達も、彼の言う家族なのだ。
そんな風に自分に言い聞かせている自分に気付き、やはり、そんな簡単に深海棲艦達と分かり合うことなんて出来ないとも思う。
レ級やヲ級と顔を突き合わせてアイスを食べるなんて、凄い違和感だ。それでも間宮さんのアイスが美味しい事に変わりは無かった。
「最近どうなん?(レ)」
艦娘と会話するという今の“経験”が楽しいのか。
スプーンで幸せそうにアイスをすくって食べていたレ級が、雷に寄って来る。
質問の意味を図りかね、「…………」雷はじぃ、っとレ級を見詰めてまま、無言を返した。
その無言が、無視されている様にも感じたのだろう。
「おほほほほ~ん(´;д;)。どういう事なの……?(レ)」
雷のノーリアクションに、レ級はちょっと悲しそうな貌になった。
ついでに、助けを求める様に野獣とヲ級を交互に見遣る。
「……馴レ馴レシ過ギル。礼節ヲ欠イテハ、言葉ハ届カナイ」
アイスをちびちび食べていたヲ級は、真面目な貌でレ級に言う。
「IKDCもホラ。そいつに敵意は無いから、
そんな身構えなくてもヘーキヘーキ(アドバイス)」
「……分かってるわ」
優しげに言う野獣に頷いて見せてから、雷は隣に擦り寄って来るレ級に向き直る。
何かをしゃべってくれそうな雷の様子に、レ級は眼を輝かせながら言葉を待っている。
くりくりとした眼に無邪気そうな表情も相まって、何と言うか、憎めない奴だ。
少しだけ深呼吸をしてから、簡単な質問をぶつけてみる事にした。
「貴女達が居た深海って、……どんな感じのところなの?」
深海棲艦達が何故、何処で生まれるのか。そんな難しい事では無く、もっとシンプルな質問だ。
艦娘達が轟沈の果てに行き着く墓所であり、深海棲艦達が生まれてくる揺り籠でも在る。
普段から雷は、その“深海”という場所に、神秘的なものを感じていた。
その質問に対してレ級は、言葉を選ぶように視線を彷徨わせる。
だが、すぐにまた白いギザっ歯を覗かせて笑顔を浮かべた。
「DEEP♀DARK♀FANTASY(レ)」
「そ、そうね、暗いのは大体分かるわ。
もっと他にこう、……雰囲気って言うのかしら。
貴女達も、やっぱり特別な場所って感じたりするの?」
「ん~……、テレビ無ぇよウチ(レ)」
「そりゃあ、在ったらびっくりだけど……。あの、だからそうじゃ無くて……」
ピントのずれたレ級の応答に、雷がちょっと困ってしまった時だった。
「未知ヤ未踏ヲ“神秘”ト称スルノデアレバ、確カニ、海底ニハ“神秘”ガ在リマス」
訥々とした口調で、こちらに瞳を向けたヲ級が応えてくれた。
「タダ……、物質ノ面デ言エバ、艦娘達ノ骸モ、我等ノ骸モ、残ッテハ居マセン。
無機ニ還ッタ艦ノ残骸トシテノ、金屑ト鉄屑ガ海底ヲ覆ッテイルダケデス。
ソシテ、其処ニ宿ッタ怨嗟ヤ怨念ガ集ウ処デモアリ、私達ガ生マレル場所デモ在リマス」
ヲ級が丁寧な口調で話すのを、野獣もアイスをつつきながら興味深そうに聞いている。
「それじゃあ、貴女は……自分の生まれた時の事を覚えてる?」
「イイエ。……気付ケバ、私ハ私デシタ。
激シイ怒リ、哀シミ、殺意ヤ憎悪ニ、衝キ動カサレ、ソレヲ受ケ入レテイマシタ」
それ以上は言いたくないのか。或いは、言うまでも無いと判断したのだろうか。
其処まで言ったヲ級は言葉を切り、雷から視線を逸らした。雷は、ヲ級の言葉を反芻する。
やはり彼女達は、未成熟で小さいまま、泣きながら弱く生まれてくる人間とは違うという事だ。
生まれながら激しい怨恨を刻み込まれ。人類への攻撃を存在意義として植え付けられ。
頑強な肉体と強靭な再生力、そして戦う力を持って生まれてくる。
ただ、それら全てを付与される“召還”の瞬間の事は、高い精神性を持っているヲ級でも覚えていない様だ。雷も短く、「そっか……」と、言葉を返すしか出来なかった。
深海棲艦が生まれるその刹那。彼女達の意識が何か認識しているのならば、それが“深海棲艦が何故生まれてくるのか”という謎を解く鍵に思えたのだが、空振りだ。
野獣の方も、先程までのヲ級の言葉に何かを感じたのだろう。俯き加減で何かを思案している。妙に重たい空気になってしまったが、沈黙が降りてくることは無かった。
「いやぁ、すいませーん(レ)」と、何かを思い出したと言うか、思い付いた様な様子のレ級が、山積みにされた本の中から一冊を手に取り、開きながら雷に声を掛けて来たからだ。
「あー、ようわからん(レ)」レ級はページを開いて、ある部分を指差しながら雷を見た。
レ級が持って来た本は、提督達の召還術や改修施術に関する術式が記載されているものだった。
開かれたページの余白には、やけに綺麗な字で難解な語句や数式がびっしりとメモの様に書き込まれており、重要な箇所にはラインが何本も引かれている。
雷も呼んだことの在る本だった。しかし、此処まで読み込むことはしていない。このメモの文字も、彼のものでは無い。もしかして、この書き込みもレ級のものなのか。
「わからないって、……このページの内容の事?
あぁ、通して読んだけど理解できなかった、ってことね?」
「んだ(レ)」と頷いたレ級へと、雷は怪訝な貌をしながらも肩を寄せてページを覗きこむ。
なる程。今のヲ級の話を聞いて、レ級の中に何か閃きが在ったのだろう。自身たちが生まれるヒントを、艦娘達の顕現の中に見つけようとしているのか。
雷自身、彼の役に立つ為に、術式に関する本はかなり読んだし、勉強して来た。
実際に術式を組み立てたりすることは無理だが、理論くらいなら分かる。
彼が編んだ術陣の感触を感じることが出来るようになり、それが何を意味するのかも、ある程度なら理解出来る。
そのおかげで、かつて“ロック”のネックレスに隠されていた、彼の術式に気付けたのだ。
雷はとりあえずと言った感じで、基礎的なことから説明を始める。
それから、本に載っている図などを用いて、記載された召還術についての内容を、出来るだけ分かり易くレ級に伝えた。
無論、こうした術式に関する理論は基礎からして難解である。ただ、噛み砕いた雷の説明が気に入ったのか。
「歪みねぇな!(レ)」と感嘆した様子のレ級は、雷の話を聞き、その内容を理解し、吸収していた。少なくとも、雷にはそう見えた。
と言うか、此方を見る野獣も驚いた様な表情を浮かべているし、ヲ級も何だか興味深いそうな真面目な貌で雷を見ている。
「えっ、な、何? どうしたの?」
「いや……、今の説明の内容がかなりレベル高くてビビったゾ。
知識量で言えば、IKDCは俺より上かも知れねぇなぁ(冷静な分析)
前も思ったけど、独学で其処まで理解出来るとか、やりますねぇ!(賞賛)」
なぁ、お前もどう? と。野獣はヲ級の方へと話を振った。
ヲ級も、野獣にひっそりと頷き、ちょっとした尊敬の眼差しで雷を見詰めて来た。
「今度、私ニモ色々ト教エテ欲シイ。
……貴女ノ話ハ、理解ノ為ノ熟慮ニ拠リ、洗練サレテ居ル。
聞イテイテ、心地良イ程デス」
「えぇっと、……その言葉は凄く嬉しいけど、
“知識”を使いこなす“知恵”や“資質”が私には無いもの。知ってるだけ……。
まぁ、彼が何かを閃いたり、考えたりする時の助けにでもなれば、御の字だけどね」
「卑下すること無いゾ。
寧ろ、もっと誇っても良いんだよなぁ……。もっと自信持って、ホラホラ(信頼)」
雷は野獣に笑顔を返し、本の文章を眼で追うレ級の横顔をチラリと見た。
一瞬、息を呑む。その紫水晶の瞳には、鬼気迫る程の好奇心と、理知の火が炯々と灯っていた。
雷が、何か寒いものを背筋に感じた時だった。「さて……。そんじゃあ、俺達もそろそろアイツと合流すっぺすっぺ」
野獣は言いながら、食べたアイスのカップをバスケットに戻し、代わりにお菓子やフルーツを捕虜房のテーブルへとガサガサっと空けた。
そして、レ級とヲ級、雷の分のアイスカップを片付け、おもむろに立ち上がった。そして、脇に置いていた長刀を肩に担ぐようにして持つ。
それに続いて、雷も立ち上がる。続いて静かに立ち上がったヲ級が、深い礼をしてくれた。
雷達が去っていく事に、レ級は少々名残惜しそうな表情を浮かべたが、すぐにニカッと笑って手を振って来る。
二人が野獣や雷について来ないのは、彼や野獣には、これからすべき事が在ることを察しているからだろう。
「ねぇ、野獣司令官。……聞きたかった事があるの」
レ級達の居る捕虜房を後にして、雷は野獣に続き、このエリアの更に奥へと進んでいく。
その途中、雷は野獣に声を掛けた。野獣は、歩きながら「ん?」と振り返ってくれた。
「私達の司令官は、その……、
鎮守府が襲われる前から、ずっと前から自分の体を深海棲艦化する準備をしてたの?」
雷は、直球で聞いた。
「IKDCには、もう隠してもしょうがねぇな。
正確に言えば、深海棲艦とのケッコンの為の準備なんだよなぁ……。
人間の身体じゃ無理だから…、まぁ多少はね(宿業)?」
野獣は溜息を堪えるように、鼻からゆっくりと息を吐き出した。
「肉体調整の為に、胸元に術紋刻んでた筈だけど、
RJやTIHUが、アイツと風呂場で鉢合わせたって聞いた時は、ウッソだろお前ww w、ってなりましたねぇ!」
低く喉を鳴らして笑う野獣を見て、雷は少しだけ唇を噛んだ。
「……野獣司令官は、司令官を引き止めてくれなかったの?」
ちょっとだけ責めるような言い方になってしまったけど、仕方無い。
だって、知っていたのは野獣だけだ。大和や武蔵だって、知らなかった筈だ。
「引き止めるのは、当たり前だよなぁ? でも、アイツも糞頑固だからね。
俺が何か言った程度で、考えを全部引っ繰り返すような奴じゃないんだよなぁ。
それは、お前が一番分かってる筈だって、……それ一番言われてるから」
「でも……!」と。
雷は反論しようとした時だった。誰かの視線を感じた。
通路の両脇に並んだ捕虜房へと視線を向けると、白いリブ生地セーターにも似た装束の、港湾棲姫と北方棲姫、黒いボディスーツを纏ったル級とタ級の姿が見えた。
あとは、タ級達と同じボディスーツを着た戦艦棲姫と、南方棲鬼も居る。
港湾棲姫は立ったままこちらに頭を垂れる格好だし、北方棲姫はじぃっ、と野獣と雷を見詰めて来る。
ル級とタ級は、何だか嫌そうな貌で此方を、と言うか、野獣を見ている。ちょっと居心地が悪い。
戦艦棲姫は上品な仕種で雷達に目礼してくれたのだが、南方棲鬼の方はそっぽを向いたままだった。
その南方棲姫の口の端に、白いアイスがちょびっとだけ付いているのに気付いた。やっぱり雷達と同じく、彼と一緒に皆でアイスを食べていたのだろう。
殺し合って来た者同士がこうして甘味をつつき合う場所と言うのも、何だか不思議な空間だ。いや、現実感が薄いと言うか。この空気に馴れるには、もう少し時間が要りそうだ。
深海棲艦達の視線を集めながら、雷は野獣のあとに続く。エリアの最奥、その白い廊下の突き当たりには、一際大きく厳重なロックが掛けられた円状の扉が聳えていた。
その前に立ち、野獣と雷を待っていた彼と合流する。
結局、雷は野獣に言葉を返すタイミングを失くしたままだった。
「お ま た せ」とだけ彼に言った野獣も、余計な事を言わなかった。
だが、いつもより声が硬く聞こえた。野獣は、もしかして緊張しているのだろうか。
雷は、彼と野獣の後について歩いているので、野獣の表情は見えない。
彼の様子は普段と変わらないから、やはり気のせいか。
そんな答えの出ない事を考えながら、壁や床に沈むようにして開く円状の扉を抜けていく。更に同じような円状の扉を幾つか通った先に、かなり広いドーム状のフロアに出た。
やはり、上も下も真っ白だ。レ級達が居た捕虜房とは、また作りも雰囲気が全然違う。
先程までのエリアには、培養シリンダーを始め、ちょっとした家具設備など、ある程度の居住・生活の為の機能が備わっていた。
しかし、此処にはそんなものは無い。無骨な施術台が、贄を捧げる祭壇の様にドームの真ん中に備え付けられているだけだ。
ドームの壁や床、天井に至るまで、何か特殊な金属なのだろうか。複雑な円紋の術陣が、黒色でうねるように幾重も描かれている。鈍い明滅を繰り返していた。
鎮守府に在る工廠とも似ているようで、やっぱり違う。異様な空間だった。このドームの空間自体が、何らかの術式装置であろうことは、何となく分かる。
此処は、何かの実験場なのか。ただ、ドーム中央の施術台に拘束され、鎮座している彼女の存在の所為で、此処がまるで肉儀場か、或いは、厳粛な大霊堂の様にも錯覚する。
高貴そうな黒のドレスを纏った彼女は、微光で編まれた術陣の帯で拘束されていた。
施術椅子に深く腰掛ける姿勢で、両手首、両足首、そして喉首を術陣で括られている状態だ。
その施術椅子を囲う円陣も、深紫色の微光を漏らしながら明滅を繰り返している。
雷は、少しでも彼の立っている場所に近付きたかった。そして、彼と同じ景色を見て見たいと思った。
多くを語ろうとしない彼が、その視線の先に何を見ているのかを知りたいと思った。その為に、多くの術書を読破し、知識を自身のものにして来た。
故に、これらの複合陣が何を意味するのか理解出来る。これは。艦娘の肉体活性と治癒施術、そして、召還術の融合だ。
彼女は拘束されながらも、極めて特殊で巨大な修復作業の中に居る。
戦艦水鬼。彼女が、ゆっくりと此方を見た。睥睨して来る。
黒く艶やかな長髪から覗く、紅の瞳。その双眸には、鬼火の揺らめきを灯していた。
透ける様な白い肌と、額の左側から生えた角が特徴的である。
静謐な美貌とは裏腹に、彼女の視線は激しい敵意を込めた凝視だった。
雷は唾を飲み込む。身動きすら出来ないと分かっていても、この迫力と殺気。
つい先程まで、レ級やヲ級と過ごしていたから感覚が麻痺していた。
人や艦娘と敵対する存在。本来、深海棲艦の姿とは、彼女の様な者を言うのだ。
身を竦ませる程の殺気の中、彼はゆったりとした足取りで彼女に歩み寄る。
野獣も、彼の隣に並んだ。雷も続き、足元や施術椅子を走る術陣を見回してから、彼の背中に声を掛ける。
「ねぇ司令官。この施術式、深海棲艦のスポイルとは逆みたいだけど……」
「えぇ。……彼女は捕らえられた際、拷問代わりに無理な解体施術を受けたのです」
白のドームは広い。しかし、彼の声は不自然な程良く通った。
歩きながら、肩越しに雷を振り返った彼は、少しだけ表情を曇らせていた。
「その時に負った、彼女の心身への大きな傷を癒す為に、この儀礼場を使用しました。
……肉体と艤装召還能力を再活性しながら、それを拘束術式で封印している状態です」
答えてくれた彼の言葉に、雷は思わず足が止まりかけた。
まさか、彼女の肉体の機能は生きているままなのか。野獣が、やれやれと息を吐き出した。
「まぁ“提督”の全員が、お前みたいに完璧な術式組める訳じゃないからね。
力任せの無理強いた解体施術なんて、破棄施術と変わらないんだよなぁ……(呆れ)」
「本当に、彼女の衰弱ぶりは酷いものでした。……しかし、営からの許可も在り、
一旦彼女を回復させてから再度、僕が解体と肉体弱化を担当する流れになったのです」
「そ……、それじゃ、も、もしかして今から……?」
「はい。彼女が海に居た時と同じ状態まで戻した後、オペを行います」
雷は絶句した。そんな無茶苦茶な。深海棲艦のリアニメイトを、こんな生身同然で行うなんて。
実利主義の本営であっても、許可なんて出す訳が無い。下手をすれば、暴走した深海棲艦に襲われることくらい、小学生だって分かるだろう。
元気がなくてヘロヘロになっている深海棲艦を、肉体機能を生かしたままで元気モリモリにしたらどうなるかなんて、考えるまでも無い。襲い掛かって来るに決まってる。
いくら強力な拘束術式が扱えると言っても危険過ぎる。本営からの許可が在ったなんて、絶対に嘘だ。いくら彼の言葉でも信じられない。
“不老不死”を欲しがる本営にとって、その鍵となる彼を失う事は、大きなリスクである筈だ。それでも尚、許可が下りたとするならば、何かの力が働いたと見るべきか。
雷は、チラリと野獣を見る。野獣は此方を見ようとしない。ただ、戦艦水鬼を見据えて歩を進めている。
やはり、今までも暗中飛躍していた野獣が、今回も噛んでいるのだろうか。それとも。考えたくは無いが、この無茶な案は、彼のものなのか。
彼はまた、雷に微笑んで見せてすぐに、前に向き直った。三人分の足音が響く。靴底が金属を叩く、澄んだ音だった。静謐な白い空間に木霊する。
色々な可能性が頭を巡り、何だか歩いている感触が薄いままだ。気付けば、雷は彼女の前まで来ていた。
「顔色も随分良くなりましたね。……具合が悪いところは在りませんか?」
彼は、施術椅子に横たわる戦艦水鬼に微笑み掛けた。
みじろぎ一つしない彼女は黙ったまま、意思の強そうな紅の双眸をすぅっと細めて見せる。
戦艦棲姫に似た冷たい美貌は、静かな覚悟の様なものを感じさせる無表情だった。
野獣の方は軽く鼻を鳴らし、担ぐようにして持った長刀で肩をトントンと叩いている。
ただ、雷の方にそんな余裕は全く無い。彼が何をしようとしているのかなんて、聞くんじゃなかった。
そんな風にちょっと後悔しそうになるが、何か起こった時には彼を守らなければならない。
いや、まぁ野獣が居れば、雷の出る幕なんて無いかもしれないが。念のためだ。
ぐっと息を飲み込んで、雷は彼の傍に控える。戦艦棲鬼が、何かを呟いた。
雷には、……死ネ、と聞こえた気がした。次の瞬間だった。
恐らく戦艦水鬼は、彼が思うよりも遥かに自然治癒能力が優れた個体だったのだろう。
硝子細工が砕けるような音と共に、彼女を捕らえ、括っていた術陣が消し飛んだ。
拘束陣が吹き飛ぶと同時に、彼女を中心にして巨大な術陣が床に刻まれていた。
彼の手により、既に取り戻しつつあった艤装召還の力と、頑強な肉体。
この二つを揃えて、十二分に力を蓄えながら、雷達が至近距離に来るまで待っていたのだ。
そうとしか思えない。でなければ、この規模の術陣の即起動なんて出来っこない。
戦艦水鬼は施術台から身を起こして、彼と野獣を睨み据えつつ、既に何かを唱えている。
驚いた顔の彼が、彼女から距離を取るよりも早かった。
空気が震える。白く広いドームに、澱んだ紅の微光が奔った。
施術椅子の周囲の床が融けて蠢きながら、すぐに何かの形を得て、飛び出して来た。
あれは、腕だ。筋骨隆々の太過ぎる腕だった。それも、床を覆う特殊金属の白色じゃない。
黒に近い灰色だ。染め上げられている。深海棲艦の艤装召還。瞬時に、その言葉が脳裏を過ぎる。
金属の床から飛び出して来た豪腕は、人間の大人を容易く掴み上げるほどの大きさが在る。
その黒く巨大な腕が、彼と野獣、そして雷へと、グオオオン! と、伸びて来た。
凄い勢いだった。雷が、応戦の為に艤装を召還しようとした時には、もう眼の前に巨大な掌が迫っていた。
全てがスローモーションに見えた。これって走馬灯……、あっ(察し)。逃げなきゃ。でも、何処へ。これ。間に合わない。無理。
「ヌッ……(回避)!」っと、反応して見せた野獣が、雷を抱えて飛び退ってくれなかったら、雷はあの腕に捕まっていただろう。
抱えられた雷は視線を巡らせる。彼は。彼はどうなった。何処。
つい先程まで雷が居た場所を、巨大な腕が通り過ぎるのが見えた。その向こうだ。
居た。無事だ。彼も、野獣と同じく、戦艦水鬼の召還術に反応していた。
バックステップを踏んだ彼は、巨大な腕から逃れていた。
だが、ギリギリだった様だ。猛然と迫って来る黒い豪腕が掠ったのだろう。
彼が着ていた黒い提督服の上着が、右肩から左脇腹に掛けて、大きく裂けている。
戦艦水鬼は施術椅子から下りて、何かを唱えながら彼を眼で追っていた。
人間の言葉では無い何かを唱えた彼女は、彼の跳躍の着地を狙う。
先程まで彼女が腰掛けていた施術椅子が、ゴボゴボゴボっと不定形に融けて姿を失う。
そのまま床の金属に融けて合わさり、床に刻まれた暗紅の術陣が、獰猛な姿を与えていく。
信じられない召還スピードだった。この金属床の下に、ずっと潜んでいたとしか思えない位だ。
金属と術陣から象られ、怨嗟と飢餓を植えつけられ、吼え猛り飛び出した巨大な何かは、双頭の黒い巨人だった。独立型の艤装獣だ。先程の黒い腕は、コイツのものだ。
足が短く、腕が長く太い屈強な体躯は人間に近いが、双頭は獰猛な獣を模している。全身に棘のようなものが生えているが、棘じゃない。あれは、砲身だ。
GUUuuuooooaaaaaAAAHHHHH!! 空気を激震させる咆哮を上げながら、巨人は彼に突進する。疾駆して、猛追する。小柄な彼を破壊する為に迫る。
ちょっと待って。待って待って。
こんな十数秒で、色んなことが起こり過ぎ。
全然対処出来ない。理解が追いつかない。
刀を持つ野獣も、フォローに入ろうとしたに違い無いが、絶対に間に合わない。
そもそも、距離を取るために下がっていたのだ。加えて、野獣は雷を抱えている体勢だ。
脇に抱えられていた雷でも分かる。巨人の方が圧倒的に速い。「司令官!!」と。叫んだ。
彼は、右手と右膝を床に着け、左膝を立てる着地姿勢だった。
左手で右眼の眼帯に手を掛けていた。彼と雷の眼が合った。次の瞬間には、轟音が響く。
黒い巨人が両手を組んで大きく振り上げ、ハンマーナックルを彼目掛けて叩き込んだのだ。
地下のフロア全体が、縦に大きく揺れた。金床が拉げ、砕けて、陥没していた。
戦艦水鬼が唇を歪め、冷酷な微笑みを浮かべていた。彼が、ぺしゃんこにされてしまった。
そう思った。雷は泣きそうなったが、涙も声も出なかった。
「もうこれ、(アイツがキレたら俺でも勝てるかどうか)わかんねぇな……」
雷を抱えていた野獣が、軽く笑って鼻を鳴らしたからだ。
「……もう此処まで回復されていたんですね。驚きました」
ハンマーナックルを繰り出した巨人の拳の下で、彼は着地姿勢のままで無事だった。
何かが、巨人の一撃を止めたのだ。戦艦水鬼が、その表情を強張らせ、眼を見開いている。
野獣から降ろして貰った雷も、ただ呆然とするしか無かった。言葉を失って眼を疑う。
だって、巨人が。もう一体、居る。あれは、彼が召還したのか。
双頭じゃない。戦艦棲姫が従えていた艤装獣に近い。白い巨人だった。
しかも、凄い巨躯だ。堅牢な要塞の様にすら感じる。双頭の黒巨人より一回りは大きい。
その白い体には深紫の複雑な紋様が奔り、脈動を刻みながら明滅を繰り返している。
新たに鋳造された、“姿”と“力”という機能の脈動だ。
白い巨人は屈んでいる。右の掌に着地姿勢の彼を乗せて、その巨躯で庇うような体勢だ。
そして残った左腕で、黒い巨人が振り下ろして来た両拳を防いでいた。まさに瞬唱。
あの刹那の攻防に、回避ではなく召還術で割り込んでいくなんて馬鹿げている。
彼しか出来ない芸当だ。「貴女の艤装では、僕を傷つける事は出来ません」
戦艦水鬼を見据えて静かに言いながら、彼は巨人の掌から下りた。
そうして右手の手袋を外してから、右眼を覆う眼帯を外して、床に捨てた。
瞬間、彼の右上半身を、澱んだ深紫の揺らぎが覆った。煙霧とも波動とも言えない微光だ。
大きく裂けた提督服から覗く彼の胸元から右腕、右手に掛けての肌の白さは、深海棲艦そのものだ。
その胸元から腕に掛けて、黒い紋様が刻まれている。複雑で、何処か幾何学的な紋様だ。あれは、術式回路なのか。それにしても禍々し過ぎる。
眼帯を外した彼の右眼にも、冷え冷えとした深紫の瞳が、玲瓏と光を湛えて帯を引いていた。それら全てが、彼が人間では無い事を語っている。
野獣の腕から降ろして貰った雷は何も言えず、ただ立ち尽くす。
野獣も腕を組んで、少年と戦艦水鬼から距離を取りつつ、事の成り行きを真剣な貌で見守っている。
もう、野獣ですら割って入れない。彼は、この場一帯の全ての金属を従え、戦艦水鬼と対峙している。
戦艦水鬼も、雷や野獣を一顧だにしない。いや、出来無いのだ。もっと眼に見える分かり易い脅威が、彼女の眼の前に聳えているからだ。
「オ……ォ……」
彼の右眼を見た戦艦水鬼が数歩、後ずさる。
驚愕と共に、畏怖を滲ませた呻き声を上げた。
だが、それでも尚。戦艦水鬼は、降伏や逃亡では無く、攻撃を選んだ。
それは彼女の精一杯の抵抗だった。
彼女は人の言葉では無い文言を再び唱え、黒巨人を進撃させる。
UUUUUUUUUuuuuuoGGGGoooOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!
黒巨人は更に吼え猛る。白巨人に目掛け、何度も何度も組んだ拳を振り下ろした。
もう怪獣大決戦状態だ。拳が振り下ろされる度、ドームが揺れて悲鳴を上げている。
だが、屈んだまま左腕で防御姿勢を取る白い巨人はビクともしない。
肉と肉が。金属と金属がぶつかる轟音が響く。音が体にぶつかってくる。
雷は耳を塞ぎそうになる。怖い。眼を閉じたい。でも、閉じない。歯を食い縛り、見届ける。
野獣は落ち着いている。巨人達の格闘と、彼と戦艦水鬼の両者を、じっと見据えている。
朗々と文言を唱え続ける戦艦水鬼は、鬼火編みの術陣を両手に浮かび上がらせ、歯を剝いて彼を睨んでいる。
それに応え、黒巨人は飽く事無く拳を振り上げ、振り下ろす。その瞬間を狙っていたのだろう。
白巨人は屈んだ姿勢から、捻る様に体を持ち上げるついでに、黒巨人が両手で組んだ拳へと、右の拳をぶち込んだ。
何もかもを粉砕するような、体全体で放たれた超威力のアッパーだった。とてつもない重量を持つもの同士が激突する鈍い音がした。膂力と肉体の頑強さの差が、露骨に出ていた。
黒い巨人の両の拳がグシャグシャに破壊されて、砕け飛び、血とも鋼液ともつかない、紫色の液体が飛び散る。
GGGGGAAAAAAAaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaahhhhhhhh!!!
それは、黒い巨人の絶叫だった。白い巨人は、怯んだ黒い巨人に踊りかかり、組み敷いた。
マウントポジションだ。さっきまでのお返しとばかりに、白い巨人は両の拳を振り上げて、黒い巨人を殴って殴って殴りまくった。
馬乗りに組み伏せられた黒い巨人は、浴びせられる巨大な拳を、両腕でガードしようとしている。だが、無駄だ。
VOOOOOOOOOOOOOOOORRRRRRRRRRRRRAAAAAAAAAAAAAAAHHH!!!!
ガードの上から、白い巨人は黒い巨人を破壊する。拳が振り下ろされる度、金属が拉げる鈍い音が響く。紫色のぎらつく液体が飛び散り、金床に広がる。
それは、ただただ単純な暴力だ。白い巨人は、その豪腕によって黒い巨人を蹂躙した。頭を殴り潰し、腕を引き千切り、胴に大穴を空けて、ぐちゃぐちゃにした。
暫くは、黒い巨人も抵抗らしい動きを見せていたが、すぐに動かなくなった。戦艦水鬼は、文言を唱えて黒い巨人に命令を飛ばしている様だが、無駄だ。
陸の上で、彼女の艤装獣である黒い巨人は大破轟沈した。余りに不穏な静けさが訪れ、GRRRrrrrrrrrr……、と、白い巨人の呻り声が低く滲んでいる。
戦艦水鬼は、続けて何かを唱えようとしたが、それは叶わなかった。彼がそれよりも素早く文言を唱え、再び戦艦水鬼の両手首と喉首に、拘束術陣を嵌め込んだのだ。
これで彼女は、力在る言葉を紡ぐことが出来ない。
喉首と両手首に嵌められた術陣は鳴動しながら、彼女の肉体の力を奪っていく。
強烈なパワーリークに、彼女がその場に膝を付き、両手を地につけた。項垂れ、喘ぐ様に細い息を吐き出している。
それでも尚、顔を上げて、長く艶やかな髪から覗く紅い眼で、彼を射殺すように睨み据えた。
「ソコマデシテ……、我等ヲ駆逐シタイカ……」
それは掠れた声だった。彼の姿を睨む戦艦水鬼は、口許を歪めて見せる。
「貴様達ガ忌避スル我等ト……、
深海棲艦ト同ジ姿ヘト堕チテマデ、我等ヲ滅ボシタイカ……」
戦艦水鬼は、括られた喉首を震わせながら、愚かな者を嘲る様に嗤ったのだ。
敗北を悟っても、命乞いすらしない。捨て鉢とも違う。彼女が、深海棲艦で在る為の矜持か。
明らかなその嘲笑は、白い巨人を従えた彼だけに向けられたものでは無いように見える。
戦う事を止められない、人類全てに対するものか。白いドームの静寂が深まる。
戦艦水鬼の問いに対する彼の答えを、特殊金属で象られたこの儀礼場自体が、耳を傾けているかのようだ。
場の空気が変わった。金縛りに遭った様に動けない。雷は息を呑んで、彼と戦艦水鬼を見比べる。
彼の迫力に呑まれている訳では無さそうだが、野獣も刀に手を掛けたまま、動く素振りは見せない。
やはり野獣も、彼の言葉を待っているのか。自身の体に宿した“人間では無い部分”を曝しながら、彼は戦艦水鬼に微笑んで見せた。
「貴女には……、今の僕の姿が、そんな風に見えますか?
力に魅せられ、人で在ることを捨て、殺戮や征服の虜になっている様に見えますか?」
彼は微笑みを深めて、裂かれてズタズタになっている提督服の上着を脱ぎ捨てた。
異種移植による肉体活性の影響か。顕わになった彼の肌は、陶磁器を思わせる程にシミひとつ無い。
その胸元から肩口、右腕全体を覆う様に刻まれた術紋が、深紫色の脈動を刻んでいた。
深海棲艦化。それを、右半身に抑え、自力でコントロールしているのだ。
揺らめく微光は、彼の背後や肩の上に、怨恨に表情を歪めた艦娘達の陰影を象り始める。
陰影の数は、そう多くは無い。四人分か。五人分。炎のように揺れている。
怨怨怨怨怨怨怨。啞啞啞啞啞啞啞。宇宇宇宇宇宇。亞亞亞亞亞。声成らぬ声が響く。
彼は自身の内にあるものを隠さず、そっと彼女に晒して見せた。
流石に、戦艦水鬼も驚愕に表情を浮かべている。
「僕は、堕ちてなどいません。
ただ一歩……、他の提督方よりも、深海棲艦の皆さんに歩み寄っているだけです」
「そうだよ(便乗)。
だからお前も暴れんなよ……、暴れんな(忠告)」
戦艦水鬼の警戒を解く為か。今まで黙っていた野獣が、軽く笑いながら言う。
それから、仰向けに倒れる黒い巨人に近付いた。
「ちょ……! 野獣司令官! 危ないわよ!」慌てて雷が止める。
「大丈夫だって、ヘーキヘーキ」
無残な姿へと変わり果てた黒い巨人に右の掌でそっと触れて、野獣が解体施術を行う。
術陣に囲まれた黒い巨人は輪郭を暈し、姿を解かして、黒と紫の光の粒子へと還っていく。
その様子は、解体されて消えていく艦娘の艤装の様子にそっくりだった。
彼は、野獣に目礼をして再び彼女に向き直る。そして、ゆっくりと歩み寄った。
「何ナノダ……、ソノ揺ラギハ……」
彼女は瞠目したまま、彼が引き連れた深紫の陰影を見詰めている。
「僕が破棄して来た、艦娘の皆さんです」
彼は悲しそうな、それでいて苦しそうな微笑みを浮かべた。
「僕は多くの艦娘の方々を破棄し、その魂を自身の内に飲み込んで来ました……」
諭すように言葉を紡ぎ、彼は彼女に答える。
「思考や人格を破壊されていても、激しい怒りや悲しみが彼女達の中に在りました。
人類に対する憎悪や復讐心が在り、その魂の更に奥には、艦としての誇りが在りました」
其処で言葉を切った彼は、床に手をつく姿勢の戦艦水鬼の前に立ち、右掌に術陣を象る。
「……貴女も同じでは在りませんか?
僕達に向ける激しい憎悪の裏側に、……海で生まれる前の記憶は在りませんか?」
戦艦水鬼が息を呑んだが、すぐに彼から視線を逸らし、焦った様に身を捩った。
彼に襲いかかろうとしたのか。彼を庇う様に、雷は戦艦水鬼の間に割って入り、錨を構える。
「ありがとう御座います。僕は、大丈夫ですから……」と、雷に言ってくれた彼は、微笑んで居た。
雷は無言で頷きを返し、彼の隣に控える。彼は、深紫色の微光と艦娘達の陰影を纏ったままで、更に戦艦水鬼に歩み寄る。
「これより、貴女に解体・弱化施術を行います。
同時に……、貴女の“艦”としての記憶を彫り出せないか、試みたいと思います」
艦娘にとってその魂とは、質量を持たない金属である。
金属儀礼と生命鍛冶とは、非実在であるその鋼より、無限の機能を鋳造する力だ。
姿や感情。肉体と意思。言葉や戦力を。あらゆるものを、現世に招き入れる。
『提督』と呼ばれる者達は、その能力を“召還”と呼ぶ。しかし、それは違う。間違っている。
彼の傍に在るため、貪る様に知識を吸収して来た雷は、その呼び方を認める事が出来ない。
人々が“召還”と呼ぶ力の本質は、艦娘達にとっては強烈で抗い難い力だ。
『提督』達は、艦娘達の意思を奪い、思考を停止させ、人格を破壊をも可能にしている。
その本質は、“召還”などでは無い。艦としての誇りを略取、利用した、容赦の無い“徴兵”だ。
深海棲艦達は、艦としての誇りでは無く、憎悪や悪意によって海に“徴兵”されたのだと。少なくとも、雷はそう考えていた。
人類に対する負の感情で塗り固められた彼女の心の奥に、彼女自身の感情や意思が無いのか。
それを確かめるべく。文言を唱える彼は、戦艦水鬼の心の内に、そっと手を伸ばそうとしている。
「ク、来ルナ……!」得体の知れない力を持つ彼が恐ろしいのか。
それとも、己の内に在る何かを知ることが恐ろしいのか。戦艦水鬼は、明らかに怯んでいた。
暴れようとする彼女の手首と喉首に、更に術陣が嵌った。
「別に拷問しようって訳じゃないだから、大丈夫だって安心しろよー、もー!
お前らが何者で在っても、コイツはお前達の味方だっつってんじゃねぇか(平和の心)」
子供をあやすように言った野獣の仕業だった。
野獣は彼に頷いて見せてから、やれやれと雷にも笑いかけてくれた。緊張を解してくれる。
彼も、野獣にもう一度目礼をしてから、唱えていた文言を完成させた。
屈んだ彼は、動きを封じられて怯える戦艦水鬼の両頬を、両手でそっと包むように触れる。
優しい手付きだった。同時に、術陣が彼の足元に浮かび上がり、囲う。
「先輩の言うとおりです。……もう貴女は、敵ではありません」
彼の言葉は、白いドームに不思議な響きを残す。遠くに。近くに聞こえる。
この空間、いや、建物が復唱しているかのようだ。金属や造物が、彼の声に倣う。
声成らぬ声の輪唱と頌歌が、彼方から互いに呼び合い、途方も無い規模の術陣を構成していく。
深紫の力線が奔り、暗がりが訪れた。雷はドームを見回し、戦慄し、理解する。
こんな巨大な術陣に干渉されれば、並みの艦娘ならば、間違い無く自我が圧壊してしまう。
深海棲艦の中でも、より強大な精神力を持つ者でなければ、耐えられない。
だからこそ、彼は戦艦水鬼を選んだのか。上位個体である彼女を再活性する事で、解体と共に行われる、この精神探査施術を耐えられる様に準備していたのだ。
深海棲艦は、何故、生まれて来るのか。
謎だった。諸説はあれど、反証も確認も出来なかった。
深海棲艦が生まれてくる事自体によって、その謎の解答は、存在を保証されているのみ。
保証するだけで“海”は、何も言わない。ただ、人類と対立している。
その“海”が覆い隠している部分に、彼は手を伸ばそうとしている。
肉の体を半ば捨て、人では無い右眼により、新たな視力を手に入れた彼は、更に一歩踏み出す。
戦艦水鬼が持つ、艤装召還の力に解体施術が始まる。そして、肉体の弱化が始まる。
同時に、“海”が彼女の心に植え付け、その感情を塗り潰しているものを、彼が取り除いていく。
その心の最奥に在る、彼女自身を取り戻すべく、彼は詠唱を続ける。
彼が纏った、怨恨に揺らぐ艦娘の陰影達も、水鬼に手を差し出し、抱きすくめた。
破棄された艦娘達の憎悪も、海により徴兵された深海棲艦の敵意も、人に向けられている。
その激情の共有、或いは、共感か。戦艦水鬼の為に、彼らが祈りを捧げているかの様だ。
彼も、そして、彼が飲み込んで来た艦娘達の魂も、戦艦水鬼を受け入れていた。
術陣は、水鬼の精神を解いていく。彼は、その内にあるものを知る。触れる。理解する。
此処は地下だと言うのに。ザザザザザ……、という、細かい波の音が聞こえた気がした。
術陣の優しい明滅は、蒼と碧の渦を象りながら、ドームに光を溢れさせる。
その眩さに雷は腕で顔を庇いながら、空気のうねりを感じた。
吹き抜けていくのは風では無く、巨大な力の潮流であり、大渦だった。
「止メロ……止メロ、止メロ! 止メテクレ!」
戦艦水鬼が、身をよじらせて叫んだ。
「私ヲ……私ヲ見ルナ! 私ノ内ニ在ルモノヲ知ルナ!
理解スルナ! 探ルナ! 私ニ、私ヲ思イ出サセルナ!!」
彼の術陣の中で、身動きの出来ない彼女は、その美貌を大きく歪ませて、叫ぶ。
何かを思い出しつつあるのか。先程まで憎悪に濁っていた紅の瞳には、絶望が滲み、悲哀が揺れていた。
「私ハ……! タダ“海”ニ呼バレ、応エルダケノ存在ダ……!
ダカラ……! 止メテクレ!! 嫌ダ……! 思イ出シタク無イ……!!」
認めるものかと、何かを必死に拒もうとしている。
吼える彼女の紅の眼に、涙が浮かんで、零れた。紅い涙だった。
「思イ出シテモ……! モウ、戻レハシナイノダ……!
許シヲ希ウ術モ……! 相手モ……! 置キ去リニシテシマッタ……!
ダカラ、止メテクレ……、オ願イダ……! 嫌……嫌ダ……!
オオ……、オオオオオオオォォォォ……!」
慟哭する戦艦水鬼と、その頬に触れている彼を、淡い光が繋いでいる。
戦艦水鬼は、涙を零しながら、彼の眼を見ている。逸らすことも出来ていない。
彼女の記憶と感情を共有しつつある彼の瞳の向こうに、昔日の記憶を見ているのか。
「やはり、沈んだ艦娘の方々の魂が集まり、
貴女の大きな力と、その思念を成していたのですね……」
水鬼を見詰め、彼が優しく言う。
記憶を、そして、自身の感情を取り戻したであろう水鬼は、彼の瞳を見詰めている。
殺シテクレ……。呟いた彼女は、己の過去を彼の瞳の中に見ながら、呆然と涙を零す。
“海”に飲まれ、人類の執敵怨類へと成り零されてしまった艦娘達の絶望が滲む、呪詛にも似た呟きだった。
戦艦水鬼としての己を成した、艦娘達の記憶。それを手繰り、殺してくれと呟いた彼女自身は、何を見たのだろう。
信頼し、笑い合う仲間か。艦娘としての誇りや矜持か。それとも、残して来てしまった誰かへの慕情か。
大切な大切なそれらの想いを、“海”によって真っ黒に塗り潰され、艦娘達を殺戮して回った彼女の自責の念は、如何ほどか。
もはや、生への執着すら捨て去ったような貌の戦艦水鬼に、彼は微笑んで見せた。「良く帰って来てくれました……」
その彼の言葉に、戦艦水鬼が彼を見た。彼の瞳の中に見る過去から、彼女の意識が帰って来たというべきか。
水鬼の紅の眼には、今までには無かった光が宿っていた。同時だったろうか。彼の解体・弱化施術が終わった。
戦艦水鬼を括っていた、手首や喉首に嵌っていた術陣が霧散する。彼女は、“海”の呪縛から解放され、自身を形作る魂達の記憶を取り戻した。
彼が、最後に一握り残っていた彼女の誇りを、その忘却の深みから掬い上げてくれたのだ。正確に言うならば、深海棲艦へと変貌してしまった、艦娘達の矜持というべきか。
「お帰りなさい。僕は、貴女を歓迎します。
何もかもを置き去りにして、海の底で目覚めた貴女も、……さぞ心細かったでしょう」
言いながら彼は、そっと水鬼の頬から手を離し、未だ人の身である左手を彼女に差し出した。
「貴女のような者を、僕達はこれからも打ち倒さねばならないでしょう。
この負の連鎖を断ち切る為、貴女の知恵と知識、力を、僕達に貸しては貰えませんか?
殺戮者では無く、調停者として……、此方側に来て欲しいのです」
躊躇や嘘、打算や利己心は全く感じられない、真っ直ぐで、澄んだ声だった。
かつて雷達から受け取った暖かな何かを、深海棲艦である水鬼と分かち合おうとしているかの様だった。
戦艦水鬼は、何か眩しいものを見る様な貌で、彼と、彼が差し出した左手を交互に見る。
艦娘達としての過去と、深海棲艦の水鬼としての現在を持つ彼女は何を思い、何を考えているかは分からない。
ただ彼の眼をじっと見詰めたまま、何かを言おうと唇を震わせていた。そして、すぐにその紅の眼から、また涙が溢れた。
彼女は、差し出された彼の左手を。“人”の手を自身の額の前で、縋る様に両手で握った。「オオオオオ……、ォォォォオオオ……」
神秘的とさえ言える美貌をぐちゃぐちゃにして、彼女は泣き声を上げた。白いドームの儀礼場に、彼女のもの悲しい泣き声が暫く響いていた。