少年提督と野獣提督   作:ココアライオン

2 / 30
第2章

 空調の効いた執務室には、万年筆を走らせる音と、紙の擦れる音が響いている。現在、ビスマルクは秘書艦用の執務机に座り、一人黙々とデスクワークをこなしていた。詰まれた書類は山を成しているが、その殆どは既に提督が処理済みである。手を付けねばならないものは、そんなに多く無い。知れている量だ。ミスもしない。さっさと終わらせてしまおう。この束で終わりだ。ビスマルクは軽く息を吐き出す。出撃、演習以外でも、こうして提督の役に立てる事は嬉しいものだ。

 

 秘書艦にも負担を掛けまいとする我らが提督は、割りと一人で何でもこなそうとする。指揮や作戦において、一人で苦心する姿を見た事は一度や二度では無い。何と言うか、彼は極端なのだ。勝利の喜びは皆で分かち合うのに、死ぬ時は一人で去ってしまう様な、度を越えたストイックさを伺わせる。そんな彼は、身分や健康などは二の次に置いて、艦娘全員が生き残る術を模索し続けてくれている。深海棲艦との戦いが終わった後、艦娘達の処分がどうなるのかなど、ビスマルクには全く分からない。本営の思惑など窺い知る余地も無いし、何か口を出すような権利も無ければ、立場でも無い。

 

 “艦”としての記憶と共に、肉体と精神を与えられた艦娘達は、自らを召んだ提督には、基本的には逆らえない。倫理的な見地から推奨こそされていないが、その気になれば、“提督”は保持する艦娘達から思考を奪うことも可能だ。徹底した効率重視と玉砕主義の下、“捨て艦法”などと呼ばれる作戦が確立しているのも、それが理由である。例外無く、全ての艦娘達の意思と精神には、各々の提督の手綱が掛けられている。抵抗は出来ても、反逆は不可能だ。

 

 無論ではあるが、この事実は一般には公表されていない。捨て艦として散って行った艦娘達については、誇り高い艦娘の“報国”として世間に伝えられている。戦況が人類優位に固まった今。その安堵感も手伝って、こうした戦史の裏側を知ろうとする者は少ない。ただ、薄情とも思わない。兵器とは本来、そういうものなのだろう。例え肉の身体を持ち、感情を宿していても、艦娘は兵器の枠を出ない。それが、人類の持つ艦娘に対する認識である。ただ、それだけの事だ。ビスマルクは走らせていたペンを置いて、軽く息を吐き出しながら瞑目する。果たして、一体どれほどの数の“ビスマルク”が、かつての激戦で海に沈んだのだろうか。正確な数を知る術は無い。艦娘と深海棲艦は縺れ合うようにして、成りては沈み、沈んでは生るを繰り返している。まるで繰言の様だ。

 

 人類同士が争った大戦の後。人類はその悲劇を繰り返さぬ様に手を結び合い、平和と繁栄を願った。しかし、物言わぬ海との共存を願い損ねた。数多の屍と骸と艦を飲み込んだ海は、深海棲艦という形で、人類に敵意を向けている。人類が優位に立ってはいるが、この争いに、まだ終わりは見えていない。是非も正義も問うつもりは無い。ただ、水底で海霧に抱かれ、潮に包まれた本当の“私”は、誇りと共に何を望んでいたのだろう。

 

 

 

いや。“今の私”には関係の無い事か。力無く鼻を鳴らしてから、顔を上げて時計を確認する。軽く伸びをして、いくつか書類をファイルに丁寧に綴じ込んだ。書類を捌いていく中で、野獣宛の書類が混ざっているのを見つけて、脇に退けていたものだ。提督に声を掛け、忘れない内に届けておく必要が在るが、……もう少し後でも良いだろう。

 

 時刻は、12時半過ぎ。軽く昼食を済ませた提督は現在、ソファで仮眠中である。昨日も夜遅くまで起きて仕事をしていたと聞いていたので、ビスマルクが強く勧めたのだ。仕事熱心な彼の御蔭で、彼の秘書艦は手持ち無沙汰になることも珍しい事でも無い。それを利用して、提督に休息の時間を作ろうと考えた。別に、やましい気持ちは無かった。実際に、提督が休息を取っている間に、残りの執務は片付ける事が出来たのだ。何も後ろめたいことは無い。断じて無い。「では、御言葉に甘えて。……少し休ませて頂きますね」そう言った提督は、自身の多機能腕時計にアラームを設定していた筈だ。ビスマルクも、目覚ましのアラームが鳴らなければ、どれだけ周りが騒いでも眼を覚まさないという彼の体質を知っている。

 

 提督が寝息を立て始めて、そろそろ15分程経っただろうか。穏やかで静かな寝息を立てる彼の姿をチラリと見て、胸に何か熱いものが満ちてくるのを感じた。“元帥”クラスの提督に送られたソファはブラウンの本革であり、それに合わせた鋲飾りも重厚感に溢れている。彼は、そのソファに横になっている訳では無い。深く腰掛け、背中と首筋をゆったりと背凭れに預けている。眼を閉じた彼の貌は、まるで人形の様だ。長い睫と、通った鼻筋に、形の良い薄桃色の唇。サラサラとした黒髪と、柔らかそうな白い頬。微かに聞こえる、吐息。純真無垢な、安らかな寝顔。ビスマルクに対する信頼の証でもある、その余りに無防備な彼の姿は、理性を動揺させる。やましい気持ちは無かった筈だ。その筈だ。誓っても良い。私は清廉潔白だ。言い聞かせる。必死に言い聞かせるが、駄目だ。さっきまでは人類や艦娘、果ては深海棲艦の未来について憂いていた真面目なビスマルクは、もう何処かに行ってしまった。

 

 あぁ…。ソファになりたい。彼の身体を優しく、柔らかく、しっかりと抱きとめているソファになりたい。

いつも頑張っている彼を、私が抱きしめて上げたい。あぁ、ソファ。……この、ソファめ。ずるいぞ。そんな訳の分からない事を考えている自分を、冷静な自分が止めようとする。しかし、やはり駄目だ。

 

 何時からだろう。こんな風になったのは。提督の表情や、その心遣い、向けてくれる信頼、仕種の一つ一つが心に響いてやまないのは。というか、寝顔を見せてくれる程までに心を許してくれていると思うと、もう何とも言えない気持ちなる。一歩。吸い寄せられる様に、寝ている彼に近付く。自分が何をしようとしているのか。良く分からない。“お、待てぃ(江戸っ子)”そんなビスマルクの脳裏に、“鍵閉めて鍵閉めてホラ(アドバイス)”という、悪魔の囁き声が響いた。抗い難い、強烈な魔力の様なものを確かに感じた。“もっと自分に正直になるべきなんだよなぁ?”。悪魔は優しい声でビスマルクを翻弄する。それに抗うよりも先に、ビスマルクの身体は動いていた。

 

 足音を立てぬように執務室の扉まで歩く。それから、そっと扉を開けて、廊下に誰も居ない事を確認した。扉を閉めて鍵を掛ける。心臓の音が聞こえる。鼓動が。頭の中で響くほどに暴れている。息が荒くなる。身体が火照る。熱い。喉が渇く。深呼吸する。彼に近付く。彼が身を預けているソファに、ビスマルクはゆっくりとのし掛かる。彼との距離が一気に近くなる。彼に覆いかぶさるような体勢だが、彼が起きる気配は無い。穏やかな寝息を立てている。胸がザワザワとする。抱きすくめられる距離に、彼が居る。唾を飲み込んでから、ビスマルクは唇を小さく舐めて湿らせた。

 

「て、提督……。お休みのところ失礼するわね。相談、し、したい事があ、あるのだけれど……」

 

 触れる。彼の左肩に。起きないと知っていながら、軽く揺すってみる。ワザとらしく声を掛けてみる。彼は眼を覚まさない。ビスマルクは更に身体を寄せる。今度は彼の手に触れてみる。小さな手だった。私を召んだ、手だ。頬ずりしたい。いや、もう食べてしまいたい。彼は手袋をしている。ビスマルクは慎重な手付きで、その左手袋をゆっくり、ゆっくりと脱がしていく。“foooo~↑”。“良いゾ~コレ”。悪魔の声を頭の隅で聞きながら、手袋を完全に脱がした。ビスマルクはその手袋を、自身の軍服のポケットに仕舞い込む。“やりますねぇ!” 悪魔の称賛の声が聞こえた。次の瞬間だった。ピピピピピ、と。電子音が鳴り響いた。彼の腕時計からだ。心臓が口から飛び出るかと思った。ビスマルクは慌てて飛び下がったが、自分の脚に蹴躓いて臀部を床で強打した。

 

「~~~~~~ッッッ!!?」 

 

悶絶する。超痛い。いや、でも立たないと。座り込んでいる訳にもいかない。お尻を擦りながら、ビスマルクは慌てて立ち上がって居住まいを正す。頭から一気に熱が引いていく。今になって恥ずかしくなってきた。

 

 電子音のリピートは無い。アラームは一周のみだ。それでも、提督は絶対に眼を覚ます。寝息が止まり、一際大きく息を吸い込んで、彼はゆっくりと瞼を持ち上げて、軽く伸びをした。それから、宝石の様な黒瞳でビスマルクを見上げた。「すみません。お時間を頂きました」と言う、彼の微笑みを真っ直ぐ見る事が出来ず、俯いてしまう。咳払いをして、貌の赤さを誤魔化そうとした。何事も無かったかのように振舞おうとするのだが、喉がカラカラで上手く舌が回らない。

 

「いえ、問題無いわ。……残っていた書類も片付けて置いたから。後はこれを確認しておいて。野獣宛の書類も混じっていたから、届けに行ってくるわ」

 

ビスマルクは早口で言いながら、手の甲で顎を伝う汗を拭った。

 

「え、先輩宛の、ですか?」

 

 提督は胸ポケットから眼鏡を取り出しながら、ソファから立ち上がる。

 

「えぇ。これよ」

 

 ビスマルクは、執務机に置かれたファイルを手に取り、提督に手渡す。先程、書類を綴じたものだ。提督はその書類に眼を通しながら、あぁ、と得心が行った様に頷いた。

 

「僕宛にも来ていましたね。午前中に眼を通した書類の中に、同じものが在りました。ビスマルクさんの御蔭で執務も一段落着きましたし、……あれ?」

 

 提督は、ファイルを持った左手と、何も持っていない右手を見比べた。どうやら、手袋が無くなっている事に気付いたらしい。ソファや床にも視線を向けている。ビスマルクは無意識のうちに、自分のポケットを片手で押さえていた。「……どうしたの?」と。すっとぼけるように聞いたその声は、僅かに震えていたと思うが、提督は気付いていない。

 

「いえ、手袋を失くしてしまったみたいで」

 

 提督は、ちょっと気恥ずかしそうに微笑んで見せた。胸に痛みが走った。さっき拾ったけど、これかしら。そう言って、ポケットから手袋を渡すべきだ。しかし、ビスマルクが何かを言う前に、提督は右の手袋を外して、執務机の上に置いた。それから、ファイルを左手で開いたまま、右手で眼鏡のブリッジを押し上げる。

 

「手袋は、また後で探しておきます。取り敢えずは、先にファイルを先輩に届けに行きましょうか」

 

「え、えぇ…、そうね」と、ぎこちなく頷いて、ビスマルクは提督の後に続く。

 

 扉を開けようとした提督は、鍵が掛かっている事に気付いた。何故内側から鍵が掛かっているのかと、提督が不思議そうに首を傾げていたが、気付かない振りをした。

 

 

 

 廊下に出ると、熱気が押し寄せて来た。空調の効いた執務室に居たせいもあり、照り付ける日差しはもとより、湿気の高さも相まって余計に暑く感じる。日本の夏は暑い。汗ばんで仕方が無い。暑いし、熱い。鼓動が弾んで落ち着かない。提督の斜め後ろに控え、その後に付いて廊下を歩くビスマルクは汗が頬の端を伝うのを感じ、親指の腹でそっと拭う。

 

 自分を落ち着かせるみたいに緩く鼻から息を吐き出してから、斜め前を歩く小柄な背をチラリと見遣った。

白の提督服で正装している彼は、手に持ったファイルに眼を落としている。彼の表情は見えないが、きっと真剣な表情で綴じられた書類に目を通しているのだろう。今日も暑いわね、提督。そんな風に何か声を掛けてみたいとも思うが、それは憚られた。代わりに、提督の白いうなじに視線が吸い寄せられ、思わず見詰めてしまう。だが、すぐに首を振って視線を外す。いけない、いけない。いい加減にしないか。今日の私は秘書艦なのだ。彼の傍に在り、彼を支えねばならない。頭では理解している。

 

 その立場を良い事に、彼を厭らしい眼で見るなど言語道断だ。彼の信頼を裏切る訳にはいかない。いや、もう何と言うか。手遅れと言うか。先程の自分の行動を思い出すと、顔から火が出そうだ。今になって忸怩たる思いが込み上げてくる。彼の背を見詰めていると、不意に彼が肩越しに振り返った。心臓が跳ねるのを感じたビスマルクは一瞬で我に帰ったが、眼を逸らせなかった。ゆったりと歩きながら、彼が優しげに微笑んだからだ。此方に向けられたその儚げな面差しに、背徳感にも似た甘美な切なさが胸を締め付けた。

 

「今日も暑いですね」

 

 つい今しがた、ビスマルクが言おうとしていた言葉だ。彼はビスマルクの答えを待たず、前に向き直った。

ビスマルクは慌てて自分の顔に触れる。頬が緩んでいないかを確かめながら、「そ、そうね」と素っ気無い言葉を返した。心臓が早鐘を打っているのを隠しながら、上擦った声で平静を取り繕う。どっと汗が出て来た。

それに対して、提督服を着込んでいる提督の方はほとんど汗を掻いていない様に見える。

 

「何か、……気に病むことでもありましたか?」

 

 ほんの少しの沈黙の後。穏やかな声音で聞かれて、ギクっとした。噴出してくる汗は、暑さからじゃない。冷や汗だ。もしかしたらと思う。提督は、起きていたのでは無いか。気付いていたのでは無いか。知っているのでは無いか。思わず、提督の手袋を入れているポケットをまた押さえそうになったが、何とか堪える。

 

「別に何も無いわ。どうしてそんな事を聞くのかしら?」

 

「いえ。何処か、思い詰めた貌をされている様に見えたものですから」

 

 彼はまた、歩きながら肩越しにビスマルクに視線を寄越し、ふっと目許を緩めて見せる。ドキッとした。それから彼はすぐ前を向いて、安堵したように軽く息を吐き出した。

 

「何も無いのであれば、良かったです。

 すみません……。変な事を聞いてしまいましたね」

 

 何だか、何も言葉を返せなくなってしまった。他者のことを良く見ていると言うか、彼はその心の機微に敏感なのだろう。艦娘達一人一人の苦悩、寂寥、悲哀と言ったものを感じ取り、その想いを汲んでくれる。他の鎮守府では彼の事を偽善者だ、甘い奴だ、間抜けだと、悪罵する者は少なくない。だが、そういった誹謗の声が完全な的外れである事を、ビスマルクは知っている。その小さな背で、何でもかんでも背負い込んでしまおうとする彼を、支えたい。これからも傍に居て、彼の力になりたい。正直にそう想った時だった。

 

 

 

 

「ハッ……ハッ……アッーー! アーツィ! アーツ! アーツェ! アツゥイ!

 ヒュゥーー、アッツ! アツウィー! アツーウィ! アツー! アツーェ!!

 すいませへぇぇ~~ん! アッアッアッ、アツェ!! アツェ!!

 アッーーー! 暑いっす! 暑いっす! ゥアッーー!! 暑いっす! 暑いっす!

 アツェ! アツイ! アツイ! アツイ! アツイ! アツイ! アツイ!

 アーーーー……アツイ!!!!!」

 

「五月蝿いですね……。デスクワークくらい黙って出来ないんですか(半ギレ)」

 

 廊下の先。野獣の執務室から、叫び声と滅茶苦茶に不機嫌そうな女性の声が聞こえて来た。野獣の叫び声でSMプレイかな? とも思ったが、まぁ違うだろう。女性の声は加賀のものだった筈だ。冷静沈着でクールな彼女が、あそこまで苛立った声を出すのを、ビスマルクは初めて聞いた。女性のものとは思えない程ドスが効いていて、正直ちょっと怖い。執務室に入るのは足踏みしてしまいそうだ。また中から怒号が響いた。

 

 

 

おいKGァ!! 見ろよコレぇ! この無残な開発状況をよぉなぁ! お前がさぁ、資材こねこねしたらペンギンしか出来ないっておかしいだルルォ!! もしかしてワザとかぁ! オォン!? お陰でペンギンまみれじゃねぇか俺の工廠ィ! えぇ! どうすんだよコレェ!?

 

 ……… I did it .

 

 ファッ!? 『やったぜ。』じゃねぇだろオラァァァァン!? もう艦載機の代わりに、失敗ペンギンにプロペラ付けて飛ばす位の勢いでIKEA!! 1145141919810機積み込んで出撃、しよう!(ヤケクソ)

 

 宇宙コロニーか何かですか?。……一応、これが資材の現在状況です。

 

 各種資材が………36! 普通だな(白目)!!? 

 

 やらかしました。

 

 減り過ぎィ!? ウッソだろお前、笑っちゃうぜ!(虫の息)。(何が起きたのか)これもう分かんねぇなぁ……お前どう?

 

暑さにやられた妖精さん達が、大型建造指示書の数値を、桁一つ読み間違えたみたいね。あと回数も。妖精さん達の不調も在り、建造された“艦”は形を成さないまま、艦娘を宿すに至らず解体破棄との報告が来ているわ。

 

はぁ~~~~~……(クソデカ溜息) アー死ニソ……。

 

 

 

 中から聞こえてくる遣り取りからするに、結構な修羅場なんじゃないだろうか。扉の前に立ち、ビスマルクはチラリと隣の提督の方を見た。後で来ましょうと言おうと思ったからだ。だが提督の方は、まったく少年らしく無い、微笑ましいものを見るような、慈しみに満ちた表情でビスマルクに頷いて見せた。

 

「先輩と加賀さんは、いつも仲が良いですね」

 

 多分、あんまり良くないと思うんですけど……(名推理)。ビスマルクがそう言うよりも先に、提督は扉を軽くノックした。「入って、どうぞ!(不機嫌声)」と、何だかヤケクソみたいな声が中から聞こえて来た。

本当に後から来たほうが良いんじゃないかとも思ったが、提督は全く臆さない。提督が扉を開けて、それに続いてビスマルクは入室して少し驚いた。

 

 野獣の執務室には空調が全く効いていない。そりゃあ暑いだろう。今まで歩いていた廊下に満ちた熱気にも負けないくらいの暑さと湿度だった。この中で執務をしろと言われても、中々ツライものがある。そんな中でも、加賀は一度起立して提督に敬礼をし、ビスマルクに向けても丁重な礼で迎えてくれた。一方で、野獣は何時もの黒のブーメラン海パンと、白地に黒のロゴの入ったTシャツを着用している。普段は必要以上に身体を黒光りさせている野獣だが、今は何だかちょっと覇気が無い。外から聞いていただけだが、どうやら備蓄資材がのっぴきならない状況らしいし、無理も無いだろう。提督は手にしたファイルを、項垂れ気味の野獣に手渡した。

 

「僕宛の書類の中に、幾つか先輩宛のものが混ざっていました」

 

「ん、ありがと茄子」 

 

 野獣は意気消沈しているなりに、書類を届けてくれた提督に軽い笑顔を見せる。それから、渡された書類に眼を通しながら、執務机から椅子を引いて、ドカッと腰掛けた。

 

「ふーん……、艦娘だけが罹患する病とか怖いな~……。とずまりスト4(思案顔先輩)」

 

「病魔については、僕達では予防に徹する程度しか対抗策がありませんからね」

 

「お、このHAYARASE-KORAって、特に怖いゾ。艦娘が……艦息子になっちゃう!」

 

「生殖器に変質を齎す病気みたいですね。治療法は比較的簡単みたいですけど…」

 

「SGRとYUDTでユニット組んで、こくまろ☆ゲリラ豪雨をやらかした鎮守府がありますね…、間違いない(狂気)」

 

 

 どうも、結構重要な書類だったらしい。野獣と提督が話を始めたのを尻目に、ビスマルクは加賀の傍に歩み寄った。

 

「空調、全然効いて無いみたいだけど…壊れてるの?」

 

「えぇ。どうも調子が悪いみたい」

 

「暑い中で野獣と一緒だと、余計に大変ね」 

 

 別に嫌味では無い。少しだけ冗談めかして、労うように声を掛けた。加賀の方も、そっと眼を閉じて息を吐き出してから、唇の端を少しだけ持ち上げる。「もう慣れたわ」と、短く言葉を返してくれた。疲れた様なその声音に、ビスマルクも少し笑う。

 

「廊下まで聞こえてたけれど……うわっ。ホントに資材が枯渇寸前なのね」

 

 加賀のデスクの上に置かれた書類を覗き込み、ビスマルクは笑顔が引き攣るのを感じた。対して、加賀の方は何とも無い様な無表情で、鼻を鳴らしながら肩を竦めて見せる。

 

「焦る必要は無いわ。どの道、数日中に本営からの補給が在るもの。遠征に出てくれている子達も居るし、次回、次々回の出撃分くらいなら十分確保出来る筈」

 

「あぁ、そうだったのね。野獣は随分と慌てていたみたいだけど……」

 

 其処でビスマルクは言葉を切って、なにやら話し込んでいる提督と野獣を見比べた。加賀もその視線を倣ってから、「えぇ。補給がある事も伝えていないもの」と、小声で教えてくれた。どっしりと構えているというか、何事にも動じないというか。本当に肝が据わっている。

 

「ふふ。ひどい秘書艦ね。私には真似出来ないわ」ビスマルクも小声で言いながら、笑うのを堪える。

 

「浪費癖を直す良い薬になるわ。まぁ、貴女の提督には、そんな必要も無いでしょうけれど。羨ましいものね」

 

「そう言われると、確かに誇らしいわね」

 

「でも、彼は危ういわ」

 

 不意に、真面目になった加賀の声に、ビスマルクは押し黙った。

 

「艦娘を大事にし過ぎるひとは往々にして、私達の轟沈という事実を消化するのに、とても時間が掛かってしまうものだから。何かあった時、潰れてしまわないよう……支えてあげて」

 

 その声音からは、加賀が提督の身心を案じている事を、確かに感じた。戦場に関わり、前線をうろつく事になる部下を持つ以上、死別の経験は付いて回るものだ。避けて通れない経験であろうことは、ビスマルクも薄々感じている。

 

「優しいのね、加賀は。でも……」

 

 ビスマルクは加賀と眼を合わせてから、野獣との話に花を咲かせる提督へと視線を向けた。

 

「彼はきっと、誰が沈んでも微塵も動揺したりしないわ」

 

 提督と野獣には聞こえないように、声を潜める様に呟かれたその言葉に、何を感じたのか。加賀に驚いたような貌で凝視されて、ビスマルクは慌てて手を振ってみせた。

 

「あっ、ご、誤解しないで! 勿論、提督が冷血人間だなんて言うつもりは全然無いわよ。ただ提督だって、今までに葛藤や苦悩も経験してこそ、今の“元帥”の称号が在る訳だし……」

 

 戦いが激しかった頃の事は、ビスマルクも不知火から聞かせて貰っている。今でこそ人類は優勢を保ち、海上での脅威を抑えて、平穏とすら呼べる日常を取り戻しつつある。だが、現在に至るまでの激戦期には、それこそ数えるのも馬鹿馬鹿しい程の艦娘達が轟沈していった。将棋倒しのように、次から次へと沈んでは建設され、召還され、戦場に送り出され、海の底へ消えて行った。建造された艦から、其処に宿る艦娘を召還出来る、“提督”としての適正を見出された幼い彼も、その光景を知っている筈だ。人類の希望である“提督”となる為の訓練を積んでいる以上、戦況の実情を知らされない筈が無い。

 

 凄惨を極めた当時の各鎮守府や基地、泊地の状況は、幼い彼の精神に多大な影響を与えた事だろう。戦争は、彼が持って生まれた筈の価値観、死生観、善悪、倫理道徳、それら全てを破壊した。死というものが、本当にすぐ身近にあった。提督は、自分の召んだ艦娘から死を遠ざけようとした。結果として。彼は、誰も沈ませない事に重きを置いた。無理な進軍は絶対しない。中破、小破での海域撤退は当たり前。もう慎重を通り越して、臆病としか言いようの無い、当時はどうしようも無い提督だったと、不知火は語っていた。恐らく、本営を含め、他の鎮守府、諸提督の全員がそう思っていた筈だと。まぁ、鎮守府での居心地も最悪だったろう。一時は、彼が召還した艦娘全てを剥奪されそうになった事もある程だったそうだ。

 

それくらい、当時の幼い彼は毛嫌いされ、疎まれ、侮蔑され、攻撃された。他の提督との擦れ違い様、腹を蹴られたり殴られたりも茶飯事だったらしい。それでも尚。艦娘達が当たり前の様に沈んでいく中で、彼は自身の召還した艦娘達を守ろうとした。其処に矛盾は無かった。建造された“艦”に“艦娘”が宿っている以上、彼が召還しなければ、他の提督が召還していたからだ。尊厳も何もかも踏み躙られても、彼は誰かを危険に曝すような作戦を通さなかった。彼は侮辱と暴力と、其処彼処からの白眼視に曝され続けた。しかし。それからすぐに、彼を取り巻く環境は一変する事になる。

 

 建造されて以来、その魂の造形を、誰も招き入れる事が出来なかった艦娘。

 長門と陸奥、そして大和と武蔵の顕現である。

 

 この時、長門と陸奥を召び込む事に成功したのが、野獣だった。

 そして、大和と武蔵を召び込んだのが、提督だった。

 

 人では無いとされる艦娘達の命を守りたいという、幼い彼の願いに、大和型の魂が応えたのだ。この二人を迎えた彼の艦隊は、感情や思考を取り払った木偶では絶対に不可能である、感情を力に変えるだけの“錬度”の高さを実現させた。長門と陸奥、大和と武蔵を旗艦に据えた彼らの艦隊の快進撃は、一部では人類の反撃とまで称されている。もともと評価の高かった野獣はとにかく、周囲を驚かせたのは、やはり“彼”だった。

 

 貴重な戦力である“提督”であるにも関わらず、何の役にも立たなかった筈の子供とその艦隊が、恐ろしい程の戦果を挙げていく様は本営としても思わぬ誤算だった事だろう。誰よりも優しく、争いを好まず、自身が召んだ艦娘達が生き延びる事に全力を注いだ彼の下。どんな危険な海域にも勇猛果敢に突撃し、並み居る深海棲艦の群れを崩し、破壊し、叩き潰し、殺しまくる、強大な艦隊が出来あがっていた。それを機に、彼はもっとも多くの深海棲艦を沈めたとされる提督の一人に数えられるようになり、更に紆余曲折を得て今に至る。

 

 こうした彼の過去は、意外と知られていない。この鎮守府に居る艦娘達は、激戦期が去った後に建造され、召還された者も少なく無いからだ。ビスマルクもその内の一人である。口振りからすると、加賀だってそうだろう。不知火からこの話しを聞いて、提督と野獣の不思議な友情と言うか、その信頼関係にも妙に納得したのを憶えている。艦娘達を大切に想い、信頼する彼は、まだ自身が召還した艦娘が沈むという経験をしていない。有体に言えば、彼には免疫が無いと、加賀は言いたいのだろう。しかし、そんな事で彼がどうこうなるとは、ビスマルクには不思議と想像出来なかった。

 

 

「提督は、私達が思っているよりもずっと強いと、…そう言いたかったのよ」

 

 ビスマルクは、此方を見詰めて言葉を待つ加賀に、首に掛けた細いチェーンを揺らして見せた。提督の間で“ロック”と呼ばれている、薄朱のハート型の金属に、鍵穴を空けたネックレスである。その効果は、提督から艦娘に対する、強制的な思考排除へのプロテクトだ。このネックレスの御蔭で、他の提督からの精神的な干渉はブロック出来る。信頼や愛情の表現だなど、駆逐艦の子達は騒いだりしているが、強ち間違っていない様な気もする。自身が保持する艦娘の、精神へのプロテクトの構築とは即ち、艦娘の自我と意思の尊重に他ならない。捨て艦などには、君を使わないという提督側からの意思表示なのだ。加賀の首にだって、同じものがされている。

 

「もしも私が沈んでも、彼はきっと悲嘆に暮れることなんて無いでしょうけど……。代わりに、彼は“私”の事を決して忘れずに何時までも、覚えてくれていると思うわ」

 

 例え、“私”が沈んだ後で、“別のビスマルク”が、彼のもとに召ばれたとしてもね。加賀が提督の身を案じてくれていた事に感謝しつつ、そう言葉を紡ぐ。それから、肩の力が抜けたような自然な笑みを浮かべて、ビスマルクは肩を竦めて見せた。提督を一瞥してからビスマルクに視線を返した加賀も、ふっと目許を緩めた。

 

「彼の傍に居る貴女がそう言うのであれば、どうやら杞憂だった様ね。確かに、憶えてくれている人が居るというのは、私達にとっては幸せというべきかしら」

 

 こういう柔らかい表情をすると、加賀は本当に美人である。ビスマルクは、私の言いたい事が伝わって良かったわ、と。そう言おうとしたが、出来なかった。こうして話をしている内に、加賀とより強い信頼関係を結べた様に思い、二人で提督の方へと視線を戻した時である。

 

「女の子みてぇな腕してんな、お前なぁ。こんなんじゃ虫も殺せねぇぞ(イケボ)」

 

「んっ……、その、なかなか筋肉が付かない体質みたいで、んぅっ」

 

 何時の間にか野獣が、提督の腕や胸や腹や腰を、服の上から無遠慮に弄っていたからだ。その手付きがねっとりとしていて妙にいやらしく、もう愛撫に近い。少年らしからぬ、やたら艶かしい声を漏らす提督は、何かを堪えるような赤い貌をしている。余りに突然の展開に、ビスマルクと加賀は硬直してしまった。

 

 ゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえた。それが自分のものであると気付くのに少し時間が必要だった。喘ぐような提督の声は、聞いていたビスマルクの背筋にゾクゾクとしたものが走るほど可愛らしい。野獣は左手で提督の身体をまさぐりながら、右手で器用に提督服のボタンを外していく。提督の方も、身を捩ったりして逃れようとしているが、力強い野獣の手がそれを許さない。巧みにその抵抗を抑え込んで、思う様に提督の身体を弄ぶ。困惑したような貌の提督はされるがままで、乱暴な快感に翻弄されている。これは夢なのか。現実なのか。空調が壊れた執務室の昼下がり。過熱した欲望が、危険な領域に突入しようとしている。

 

 屈強な男が、矮躯の美少年を手篭めにする展開から眼を離せない。良いですわゾ^~、コレ。いや。いやいや。ちょっと待て。冷静にならねば。こんな。食い入るように見ている場合では無い。提督の貞操を守るのも、秘書艦の役目だ。そう不知火が力説していたのを思い出す。

 

「まずうちさぁ、こういう細身の体型にぴったりの衣装、完成したんだけど……着ていかない?」 

 

「うっ、く、……あの、僕に、んんっ、何か用意してくれたんですか……?」

 

「Yeah!! 準備万端デーーース!!」

 

 ビスマルクは頭を振って、野獣の狼藉を止めようとしたら、今度は扉がバァン!!と勢い良く開かれた。

加賀とビスマルクは、仲良くビクゥ!、っと肩を跳ねさせた。何事かと思った。執務室に走りこんで来たのは、満面の笑みを浮かべる金剛だった。その手には、何故か島風のコスチュームが握られている。何てタイミングだ。外で聞き耳でも立てながら、頃合を見計らって居たとしか思えない。きっと外でスタンバっていたのだろう。気さくで面倒見の良い金剛は誰とでも仲が良いし、野獣とも別に険悪な関係には無い。寧ろ、色々と協力関係にあるような節が在る。今だってそうだ。さっきまで加賀とビスマルクが話しをしている間に、何らかの方法で野獣が金剛に合図を送ったに違い無い。

 

「最近は特に暑いケド、これなら提督のクールビズにもぴったりネー!」

 

 何がそんなに嬉しくて楽しいのか。金剛の声は弾みまくっていて、其処には悪意も害意も感じられない。

ただ只管に提督LOVEを貫き続ける彼女の笑顔に、流石の提督も困惑顔だ。島風コスを見せつけるみたいに、金剛はずいっと提督の目の前に迫った。提督は、「あ、あの……」と、金剛の嬉しそうな笑顔と、金剛の持っている島風コスを何度も見比べている。

 

「ぼ、僕が着るんですか?」 

 

「Yes! 提督の事は何でも熟知してるから、サイズもピッタリの筈デース!」

 

 未だ困惑している提督に、勢いに任せて島風コスを受け取らせた金剛の言葉には、聞き捨てならないフレーズが在ったが、問題はその後だった。「ンフッ♪」っと、今までと種類の違う、妖しい笑みを浮かべた金剛が、チロリと唇の端を舐めるのを、ビスマルクは見逃さなかった。

 

「おっと、提督はじっとしてて下サイ! 私が着替えさせて挙げマ〜ス!」

 

 提督は金剛から受け取った島風コスで両手が塞がっている。金剛はその隙を狙ったのだ。流石は高速戦艦とでも言うべきか。飛び掛る豹みたいにすばやく身を沈めた金剛は、提督のベルトをカチャカチャとやり始めた。

 

「あの!? こ、金剛さん!?」 

 

流石に提督も腰を引いて逃げようとしているが、それを阻んだのは野獣だった。「お、大丈夫か? 大丈夫か?(一気呵成)」とか言いながら、後ろからも提督の下穿きを脱がそうとしている。酷い絵面だ。

 

「ちょっと! 提督が困っているでしょう!」

 

「其処までよ」 

 

 ビスマルクは金剛を提督から慌てて引き離し、デスクから立ち上がった加賀も、音も無く距離をすっと詰めて、提督にまとわりつく野獣の右脛をトーキックで蹴飛ばした。ゴッ、と言うか、ゴツッ、とも言えない、鈍くて重い音がした。「ヌッ!?(悲鳴)」 野獣が脛を押さえて蹲る。超痛そうだが、まぁ大丈夫だろう。余りに過激なスキンシップを諫めようと、ビスマルクも金剛に向き直るが、突然ハグされた。

 

「ぅえ……!?」 

 

ビスマルクは驚きの声を上げてしまったが、すぐにそのハグは解かれた。途轍もなく嫌な予感がした。ビスマルクの両肩を掴んだ金剛の眼が、キラキラと輝きを増していたからだ。

 

「Good afternoonデース! ビスマルク! 心配要りまセン、No problemデス! ちゃぁんと、Youの分も在りますカラ!」

 

「……え?」

 

 詰め寄って来たビスマルクを一度抱きしめて混乱させた金剛は、バチコーン☆と、ウィンクをして見せてから、指をパチンと鳴らした。執務室の扉が開いた。戦慄せざるを得ない。金剛型姉妹のチームワークはかなり強固と言うか、何でこんなに全力過ぎるのか。其処に野獣が加わることで、セクハラコンビネーションに深みが増す。それをお互いに理解している辺り、相当性質が悪い。今日だってそうだろう。きっと普段から色々と準備したりして、訪れたチャンス(?)を活かし切る為の作戦を立てているのだ。そうとしか考えられない。でなければ、金剛と同じように島風のコスチュームを手にした比叡、霧島までこの場に登場するなんて在り得ない。死ぬほど恥ずかしそうな貌で、最後に執務室に入って来た榛名に到っては、もう島風のコスチュームを着ていた。……榛名改三かな? というか何だこいつら(素)。

 

 あまりのことに暫く動けなかった。野獣の向う脛を蹴飛ばした加賀だって、ビスマルクの隣でポカンとしている。島風コスを着せられ、眼に光が灯っていない榛名が、そんなビスマルクと加賀を交互に見た。それから、今にも爆発しそうな程に顔が赤い榛名は、泣き出す寸前みたいな微笑みを浮かべて見せた。

 

「は、榛名は……だ、大丈夫ですか?(小声)」 

 

 どう見ても大丈夫じゃありません。本当に有り難う御座いました。そんな事を誰が言えるだろう。ビスマルクと加賀は、何も言わずに榛名からそっと眼を逸らした。提督はと言えば、律儀に島風コスを持ったまま、脛の激痛に蹲る野獣に心配そうな視線を向けている。気まずい沈黙が、数秒降りた。ただ、その間にも状況は悪いほうへ突き進んでいく。比叡と霧島が、何かを成し遂げた様な満足そうな笑顔で、ビスマルクと加賀に、そっと島風コスを差し出して来た。えぇ……(困惑)。

 

「痛過ぎてアー泣キソ……。まぁ、取り合えず用意しといたからさ、お前らの分も(優しさ)」

 

 痛みを堪える半泣きのままで起き上がった野獣は、金剛に親指を立てて見せる。それから加賀とビスマルクを見比べた。 

 

「早く着て見せて、どうぞ」

 

「はぁ!? 着る訳無いでしょう!?」 

 

 ビスマルクは差し出された島風コスから、一歩下がろうとしたら、

 

「きっと似合います!」と、眼の前に居る比叡が、力強く頷いてくれた。

 

 笑顔の霧島を眼の前にしている加賀の方は、無言で視線を逸らしたままで黙っている。完全拒否の構えだ。

 

「コス作りは俺も手伝ったのに、着てくれないのは悲しいなぁ…(諸行無常)。まぁ、二人にもファッションの好き嫌いが在るから、仕方ないね(レ)」

 

 睨みつけて来るビスマルクと加賀に対して、野獣は芝居掛かったわざとらしい溜息を吐き出して見せた。霧島と比叡の方は、割りと普通に残念そうな表情で申し訳無く思ったが、島風コスはちょっとお断りさせて貰いたい。というか、妙だ。やけにあっさりと引き下がったのが不気味だが、その理由はすぐに分かった。野獣がにやりと笑ったのだ。

 

「それじゃ無茶言ったお詫びに…。HEI。BSMRKとKGに、美味しいカレーを作ってあげて、どうぞ(ゲス顔)」

 

 クールな加賀の表情が引き攣った。比叡カレー。聞いた事が在る。かつて、余りものを使って夜食用に三人分だけ作られた伝説のカレーらしい。赤城を放心状態に陥れ、加賀を寝込ませ、半泣きにさせた武蔵に「もう……もう、何も喰わん……」と言わしめた逸品だという。比叡本人は割りと料理が好きらしいのだが、その料理に向ける情熱が、味とは完全に明後日を向いている良い例だ。

 

「えっ!? 今日は厨房を使わせて貰って良いんですか!?」 

 

「良かったですね、比叡お姉様」

 

そんな無邪気な比叡と姉想いの霧島の、微笑ましい遣り取りがやけに遠くに聞こえる。

 

「それじゃ一応、鳳翔さんや間宮さんにもお話を通して参りますね! 材料も買って来ないと!」

 

「お、頼むゾ。霧島も手伝って上げてホラ」 

 

もの凄く嬉しそうな比叡に、野獣は鷹揚に頷いて見せる。

 

「比叡お姉様のフォローはお任せ下さい。行って参ります」

 

比叡と霧島は一同に深く礼、提督と野獣には敬礼をして、執務室を後にした。

 

 気の毒そうな貌をしている榛名と金剛は、無言でそっぽを向いている。ここで重要なのは、提督である“野獣”の“命令”が、何処まで有効かという事だ。大破進撃命令の様な、艦娘の思考を奪ってしまう高次の意思洗脳施術における命令は、ロックの掛かった艦娘を対象に取れない。しかし、“規律を守れ”とか、そういう極めて軽微な命令ならば、強制履行させる事が可能である。かつて、赤城、加賀、武蔵の三人が比叡カレーを残すことが出来なった理由も此処にある。“用意された食事は、残さず食べなさい”という、至極当たり前の命令は、艦娘を拘束可能であった事が要因だ。

 

 “命令”としての言葉には、艦娘にとっては特別な力が宿る。簡単に言えば、意思では反対であっても、肉体が提督の“命令”に従ってしまうのだ。艦娘には、もともと“艦”としての生涯が在った故の名残だろうが、それが今、死活問題になろうとしている。見れば、加賀はひどく怯えたような様子で、体をカタカタと震わせながら床を見詰めていた。隣に居るから分かる。顔面を蒼白にさせた加賀の呼吸が、明らかに浅く、速くなっている。え? そんなにヤバイの? 比叡カレー。私も食べるの? ビスマルクは恐ろしくなって来た。

 

「加賀さん、大丈夫ですか? 顔色が……」

 

「KGはちょっと夏バテ気味だけど、ヘーキヘーキ! 比叡カレーを“お代わり”したら、元気百倍だから!(情け無用)。いっぱい食べろよ、KG^~! ホラホラ、嬉しいダルォォ!(キチスマ)」

 

 心配してくれている提督の声を遮ったのは、野獣の濁声だった。

 

「そ、それだけは……! 何でもするわ! だから比叡カレーは……! お、お代わりだけは……!!」

 

 

 ビスマルクはぎょっとした。加賀が、崩れ落ちるみたいに両膝を床につけた。唇を噛み締め、慈悲を願い、縋る様に床に手を付いたのだ。これが悪ふざけでも冗談でも何でも無いことくらい、加賀の追い詰められた表情を見れば、誰だって分かる。しかも、ビスマルクにとっても他人事では無い。このままでは、加賀がこれほどまでに恐れる“比叡カレー”を食べる事になる。断崖絶壁の淵に立たされ、突風に煽られているような気分になって来た。命の危険を感じ、ビスマルクも頭を垂れる。それしか出来ない。

 

「ん? 今、何でもするって言ったよね?(予定調和)」

 

 その野獣の静かな声を聞いて、しまったと思ったがもう遅かった。

 

 

 

 

 

 10分後。ビスマルクと加賀は、羞恥に身体を震わせながら島風コスに身を包み、執務室の真ん中に立っていた。脇に大きくスリットの入った上着に、穿いている意味が在るのかどうかも怪しい程に短いミニスカート、ハイレグ黒パンツ姿である。ビスマルクと加賀のグラマラスな身体付き故に、島風の可愛らしさを引き立てている筈の黒の兎耳リボンも、ただただ扇情的だ。

 

「やっぱり、私の眼に狂いはありませんデシタ!」 

 

二人が島風コスを着てくれた事が余程嬉しかったのか。ノリの良い金剛も、何故か島風の格好に着替えている。その金剛の姿に微笑みを浮かべた榛名の瞳にも、ようやく光が戻り始めていた。ちなみに、カレーの調理がキャンセルされて、しょんぼりしている比叡や、その比叡を励ます霧島も、既に島風コスである。要するに、全員島風状態だ。どうしてこうなった。 ビスマルクが深く息を吐き出し、この世の不条理を嘆いていると、扉がノックされた。「失礼致します」 扉の向こうから聞こえて来た声に、加賀は弾かれた様に頭を上げた。この声は。確か、ニ航戦の。

 

「ま、待ちなさい! 駄目! 飛りゅ……っ!!」 

 

加賀の焦った叫びが虚しく響くのと、扉が開けられたのは同時だった。

 

「あの、野獣提督への報告書ヲァッ!!??」 

 

 相当驚いたのだろう。執務室に入りかけた飛龍は、加賀達の格好を目の当たりにして、驚愕の声を上げて後ろにひっくり返った。その拍子に、書類が廊下に散乱した。無理も無い。ビスマルクが飛龍の立場だったら、同じような反応をしていた筈である。それくらい、今の執務室の様子は異常だ。ただ、執務室に訪れたのは、飛龍だけでは無かった。加賀の表情が、泣きそうに歪んだ。あぁ、何て事だろう。よりにもよって。散らばった書類をテキパキと拾ってくれたのは、飛龍について来ていた瑞鶴だった。

 

「もう~、何やってるんですか飛龍さ、んぉ……」 

 

 この世の終わりみたいな貌をした加賀と、妖怪と出くわしたみたいな貌の瑞鶴の眼が合った。時間が急停止した。飛龍は驚愕の表情のまま、床に尻餅をついた姿勢で金縛りに遭っている。口から魂が抜け掛けているみたいに見えるが、多分気のせいじゃない。ビスマルクは、執務室と廊下を隔てる扉を境に、温度が激変していることを感じた。何だか、果てしなく遠い所に置き去りにされたような気分だ。暑いのに、酷く寒い。飛龍と瑞鶴には、この世界が今、どう見えているのだろう。

 

 ビスマルクはそっと周りを見た。金剛は、何故か自信に満ち溢れたドヤ顔で、腰に手を当てて自身の姿を曝している。比叡は、“に、似合いますか?” みたいな、はにかんだ笑みを浮かべている。霧島は、“変なところは無いですか?”みたいな、冷静な貌のままだ。榛名は、首筋まで赤くさせたまま、じっと床を見詰めている。ビスマルクも榛名と似たような貌になっている事だろう。あー、もう無茶苦茶だよ(棒)

 

だが本格的に無茶苦茶になるのは、多分これからだった。瑞鶴が、五航戦の意地を見せたのだ。

 

「そ……、の……か、可愛い、ですね。加賀しゃ……加賀さん。あ、あにょ、あの、す。……凄く、似合ってますよ?(震え声)」

 

顔の筋肉をフルに使って頬を引き攣らせながらも、健気にも笑顔を浮かべて見せた。愛想笑いや苦笑を超越した、誰かを傷つける事を拒む為の、優しい笑顔だった。急停止していた時間が、急発進した。

 

「パッと見はその! “うわぁ……”って感じでしたけど、その、良く見てみると、な、何て言うか、“……うわぁ”って感じって言うか!(精一杯) ねッ! ひ、飛龍さん! ねッ!!?(必死)」

 

 眼を泳がせまくる瑞鶴は、叫ぶように言いながら、床にへたり込んでいる飛龍の襟元を激しく揺する。その御蔭で、抜けかけていた魂が還って来たのか。飛龍が蘇った。大急ぎで立ち上がり、「お、そうわねっ! 似合ってます似合ってます!(喰い気味)」と、ぎこちない笑顔を浮かべて見せる。先輩を気遣う後輩達の想いに、普段は厳しい加賀も目頭が熱くなったのか。何も言わずに頭を垂れ、右手で顔を覆った。あぁ、居た堪れない。……何も言えねぇ。ビスマルクは逃げ出したくなったが、そうも行かない。肝心の野獣が帰って来ないのだ。瑞鶴と飛龍は、「「し、失礼致しました!」」と勢い良く頭を下げて、一目散に執務室を後にした。

 

 

 それから少しして、加賀が何とか持ち直した頃だ。「お ま た せ」と、えらく高価そうな録画カメラを携えた野獣が帰ってきた。島風コスに着替えた提督も一緒だ。しかし、……凄い破壊力である。改めて島風服の過激さを認識した。

 

 提督の島風コス姿は、未成熟さ故の危険な色気に満ちており、多分、この場に居る全員が生唾を飲み込んだ。野獣のこだわりなのか。眼鏡をして兎耳リボンを着用しているのに、提督はウィッグをしていない。化粧もしていない。いつも通り、ビスマルク達が知っている提督なのである。それが、余計に倒錯的で、背徳的だ。

 

「着心地は、確かに涼しくて軽いですね。トレーニングにはいいかもしれませんが、流石にちょっと恥ずかしいですけど……」

 

「でもその分、色々と効果(意味深)も在るから、多少(の露出)はね?」

 

 提督の華奢な身体と島風コスの親和性はもとより、男の子のものとは思えないような白い脚。恥ずかしげな表情。短すぎるスカートから覗く、黒パンの紐と、太腿、お尻。そして。スカートの前面を持ち上げる、提督の――――何か、凄く、お、大っきくない?

 

 ビスマルクだけでなく、全員が食い入る様に、提督の股間に視線を注いでしまう。想像していたのと違う。もっとこう、ふっくらとしているのを想像していたのに。違う。ふっくら、と言った感じじゃない。ずっしり♂と言うか、こんもり♂と言うか。これマジ? 可愛らしい外見に比べて、下半身(意味深)が凶悪過ぎるだろ……。流石に、このサイズは想定外だったか。

 

「あっ、金剛さん! 鼻血が……!」 

 

 ビスマルクも頭が上せてきていたが、金剛の方はとっくに限界突破していた様だ。提督とのスキンシップも割りと過激で、普段はノリノリの癖に、変なところで初心らしい。鼻を押さえて手を振り、「心配りいまセン! こ、こんなの大丈夫デース!」 と、平気そうに振舞う金剛は、微妙に提督と眼を合わせようとしない。余りに今更過ぎるが、もしかして照れているのか。霧島や、比叡も同じ様な様子だ。提督の島風コスの御蔭で、榛名の顔の赤さも加速気味だ。

 

「私を甘く見て貰ったら困るヨ! チョ、チョット提督のペニ……、いや、えぇと、おちん……ッ! でもなくて! オフィンポが気になっただけデス!(魔球)」

 

 加賀とビスマルクは噴出した。何を言い出すのかこの高速戦艦は。

 

「え、ティンポポ?(聞き間違い) タンポポの仲間か何かですか?」 

 

 心配そうな貌をした提督が、首を可愛らしく傾げる。

 

「そんなの聞き返さなくて良いから(良心)」

 

 会話を切ってきた野獣が、手にしたカメラを構え、全員を画面に収めるみたいに何歩か下がる。いい加減、野獣が何をしたがっているのか理解出来た。ビスマルクが何かを言う前に、加賀が野獣をねめつける。

 

「こんな服まで用意して、何をさせられるのかと思えば……。結局、いかがわしい映像を撮ることが目的だったのね」

 

「ちょっと違うんだよぁ。去年は無かったけど、今年は山向こうの街の神社でぇ、デカイ夏祭り、あるらしいっすよ。じゃけん、地域貢献に俺らも参加して、祭りを盛り上げましょうね~(企業並感)」

 

 

「……え?」 と、加賀が意表を突かれた様な貌だ。

ビスマルクも、思わず眼を丸くしてしまった。

 

「社会全体で見たら、まだまだ“艦娘”とかへの理解も足りないからね。人格が在る以上、艦娘一人一人が道徳の主体である事は、揺ぎ無い事実だって、それ一番言われてるから(未来への憂い)。だから本営にもアピール出来るように、PR映像撮りますよ~今日は~。撮る撮る」

 

 野獣は言いながらカメラを構え、なにやら色々と設定しているのか。ボタンを操作しつつ、金剛、比叡、霧島、榛名の顔を順番に見て、一つ頷いて見せた。その頷きに最初に応えたのは、比叡だった。

 

「社会の人々と触れ合う良い機会として考え、私達も積極的に動いてみようと考えた結果が、この格好と言う訳です!」

 

「最初は流石に、自治団体の皆さんから反対されましたが、提督と野獣司令の粘り強い交渉の御蔭で、参加のOKが出たのですよ。街のパトロールや、ゴミ拾いなどのボランティア活動にも漕ぎ着けました」

 

 加賀とビスマルクに向き直った比叡が、嫌味の無い笑顔で力強く言う。それに続いたのは、眼鏡を理知的にキラリンと光らせた霧島だ。

 

「そうと決まれば、後は如何にImpactを与えるか。これに尽きマス! 後は日程を合わせる必要が在ったので、お祭り日に非番のお二人にお願いしたかったのデス!」

 

「インパクトのある格好と言うことで、島風さんの服装を思い付いたのは私です。けど……ちょ、ちょっと思い切り過ぎました」

 

 不敵な笑みを浮かべた金剛に続き、榛名は恥ずかしそうにそう零した。確かに、これだけ回りくどい事でもされなければ、加賀が島風コスなど着る筈も無い。ビスマルクだって絶対に断っていた。成る程。比叡カレーを利用したのは、確実性を持たせる為だったのか。比叡が全く機嫌を損ねた様子では無いところを見ると、利用された事には気付いていない様だ。島風コスも、一度着せてしまえば慣れるだろうと思っているのだろうが、それに関しては野獣の誤算だ。恥ずかしいものは恥ずかしい。これを着て、大勢の前に出ることを考えると、顔から火が出そうである。どうしようかと視線を彷徨わせていると、提督と眼が合った。いつもの様に、ひっそりとした穏やかな微笑みを浮かべてくれる。

 

「僕達“提督”についての認識も、変えて貰える切っ掛けになればと、考えているんです。艦娘の皆さんを、ただの道具として扱っている訳では決して無い事を、知って貰いたいですね…」

 

 提督が静かに紡いだ言葉に、ビスマルクは拳を軽く握った。艦娘は、ただの兵器では無い。艦娘の指揮を取る提督もまた、艦娘をただの兵器として扱っている者ばかりでは無い。提督は、それを知って欲しいと言う。それは、きっと難しいことだろう。艦娘は人間の道具だと。戦うだけの人形だと。金属が人の身体を借りただけだと。未だ、心無い事を言う者も居るだろう。残念なことだが、これが事実だ。しかし少なくとも、歩み寄ることは出来る。

 

波濤を超え、水平線へと徒歩渡る艦娘も。

陽の廻りに急かされ、地平で喘ぐ人間も。

皆。傍に居る誰かと心を通わせて、彷徨い、いつかは沈むのだ。

そうして沈んだ者達を思い詫ぶ気持ちに、人も艦娘も無い。

提督達が垣間見る淡い希望の先に、ヒトとフネが寄り添う姿が在るのなら。

私も、何か力になりたい。そう思う。正直な気持ちだ。

 

「こんな格好までしてるんだもの。手伝うわ…。私の活躍に期待しなさい」

 

ビスマルクは静かに深呼吸してから、提督に深く、力強い頷きを返す。

 

「………仕方無いわね」と、加賀も、渋々と言った感じで了承した。

 

「うっし、そうと決まればパパパッと色々撮って、終わり! その為の島風コス? あと、その為の余興? 艦娘達の貢献! 皆の笑顔! 金!って感じでぇ!(ノリノリ)」

 

 「金……?」 加賀の眉が吊り上がった。

 

 「あっ(口を滑らせてしまった、と言う貌)…………はい、じゃあケツ出せぇ!(開き直り)」

 

 再び、加賀の殺人トーキックが野獣の脛に炸裂した。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。