少年提督と野獣提督   作:ココアライオン

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短編 番外編3

 時雨が肉体を得たのは、かつての激戦の初期だった。とにかく、野獣と言う男は、何を考えているのか分からない、捉えどころの無い男であった。

初めて出会った時から、野獣は野獣だった。変わった口調や周りを振り回すというか、誰にも彼にも服従しない様な、無茶苦茶な男だった。それは今も変わっていない。

粗暴で礼儀知らずな野蛮人め。野心家で、陰謀家で、気難しくて、偏屈で気侭な、どうしようもない奴だ。周りに居た他の“提督”達は、影では口々にそう言っていた。

野獣は否定しなかった。言わせておけと。相手にしなかった。その代わりに、己が召還した艦娘達を“兵器”ではなく、“仲間”として遇した。その最初の一人が、時雨だった。

 

 野獣が軍属になる前は、まだ学徒の身であったという。暮らしていた港町が深海棲艦達の襲撃に遭い、家族と故郷を失ったという話は、本人から聞いた事がある。

生存者として保護された野獣は、艦娘を召還できる“提督”への高い適正を見出され、本営から徴兵されることになり、軍部に招き入れられたそうだ。

“提督”を養成する施設や機関にて、艦娘達に干渉する施術式などを学んだのだと言う。ただそれは、何処にでも在るような、たいして珍しくも無い、良くある話だった。

似た様な来歴を持つ“提督”達は少なく無い。愛する者達や大切な故郷を奪われた者達の中には、絶望よりも先に、深海棲艦への報復を願う者は多かった。

悲哀という癒えない傷が、憎悪や憤怒の情へと変わる時。その剥き出しの激情は、人を衝き動かすだけでなく、同じ境遇の者へと伝播する。戦争は激しさを増して行った。

 

 野獣という男は、そうした人々の心情を知りつつも、何処か醒めたような眼で世間を見ていた。深海棲艦達への憎しみをぶつけるのでは無く、もっと別の何かを見ていた。

最初から、他の者達とは違う世界を見据えていた。違う何かを求めていた。只管に、何かを探していた。“提督”という立場は、野獣にとって都合の良い道具だった。

少なくとも、時雨にはそんな風に見えていた。飄々とした態度や言動で、重要な役職への誘いも蹴飛ばしてきた野獣は、淡々と、着実に任務をこなすだけだった。

新たに召んだ艦娘達の自我を破壊する事も無く、資源量や戦力を整え、出来ることをただ一つずつ潰して行った。野獣という男は、何処までも清廉潔白だった。

大きな戦果を挙げるようになっても、誰かと望んで交流を持つような事も無かった。上層部には二人ほど、かなり繋がりの強い友人が居るようだが、時雨も詳しくは知らない。

その無頼な振る舞いが災いして、敵も作りまくっていたのは間違い無いとは思う。それでも野獣は現場歴を積みながら、次々に作戦の成功を積み上げて行った。

 

 ただ、野獣の活躍や功績は大きかったものの、全体で見れば、本格的に人類は押され始めていた。劣勢の色が強く、海沿いの街などはしばしば深海棲艦の脅威に曝されていた。

こうした中で、“深海棲艦の上陸”という最悪の事態と脅威に備えるべく、本営は幾つかの計画を立て、準備を進めていた。その内の一つが、陸軍主導で進められた“強化兵”の用意である。

 

 有機の肉体をより強靭に構築する術式の理論化。艦娘と深海棲艦の双方の肉体の研究。この二つに着手したのは海軍が先だった。だが、これらを“人間へと応用”する試みは、海軍よりも陸軍の方が早かった。

陸軍側の焦りも在ったのも、こうした背景の一因であろう。海軍には、深海棲艦と渡り合う戦力として、“艦娘”が居た。しかし、陸軍には、そうした戦力が無かった。

海軍は秘密裏に行われていた実験データを提出し、それを元に、陸軍は人間への干渉を始めた。表向きは、陸軍での艦娘の召還準備という名目だった。

海軍と陸軍の摩擦や確執も、多少は在っただろう。だが、そんなものは瑣末な事だった。あの時の軍部には、禁忌は無かった。戦力を揃える手段の為には、全てが許されていた。

艦娘達へと干渉する施術効果を応用し、人間の肉体を強化する。そんな狂気染みた計画であっても罷り通っていた事は、追い詰められた人類の闇を象徴していたように思う。

 

 

 大きな危険の伴う肉体改造施術計画だったものの、高い施術適正を持っていた“提督”数人が、この計画の“検体”として候補に挙がる事になった。この中に、野獣も居た。

恐らくは、本営からの高評価に対する、周りからの妬みや僻みの類いからだろう。時雨は確信している。あの検体候補の選出は、厄介者を合法的に抹消する為であったに違い無い。

野獣は優秀であったが、職業提督として迎えられた来歴とその言動の所為で、敵も多かったのが災いした。同程度に優れた提督達から目を付けられたのだ。

その頃の野獣は、まだ戦艦などの艦娘を召還出来ておらず、戦果こそ高かったものの、戦力としての価値は他よりも劣っていた。

代りが居るならばということで候補に挙がったのだ。今だからこそ冷静に振り返る事も出来るが、あの頃の時雨は人間というものを見限っていた。失望していた。

自身が戦う理由を見失う寸前だった。しかし野獣は、艦娘達だけでは深海棲艦を止めるに足りなくなった時の為に、“強化兵”への改造手術を粛々と受け入れた。

 

 

 その時に、野獣への施術を担当したのが彼であり、これが出会いとなったそうだ。彼もまた、麾下の艦娘達を人質に取られた状態で、“強化兵”計画への加担を強いられていたらしい。

これも野獣から聞いた話だ。だが実際、野獣が施術を受けるために時雨達と離れていた時には、彼の初期艦である不知火達と、共同で輸送船の護衛にあたった事もある。

少年提督が各地の処理施設をたらい回しにされ、艦娘達を解体破棄して金属へ資材へと還し、その魂を飲み込んでいた時期と重なる。彼は艦娘達を解体するだけでなく、野獣の肉体を人間とは違うものへと変えたのだ。

野獣は彼の手で、人間では無くなった。しかし、野獣はそれを恨んでいる様な素振りは全く見せない。それに、結果的に“強化兵”としての施術のお陰で、野獣は大きな危機を何度か乗り越えている。

この鎮守府がレ級達に襲撃された時や、空母棲姫との一騎打ちなどでは無類の強さを見せた。強化された肉体の力を持ってして、窮地を脱したのは事実だ。ただ、激戦期の頃は陸で戦うような事態には遭遇しなかった。

と言うのも、戦力が整って来た時雨達の艦隊も奮戦し、そのうちに野獣が長門達を迎える事となり、人類の攻勢が始まったからだ。丁度同じ頃には少年提督は大和達を召還していた筈だ。

思えばあの頃から、今に至るまでの艦娘達の縁が続いている。奇跡的に、一人も欠ける事なく。過去に想いを馳せる不思議な気分のままで、時雨は大掛かりな施術椅子に横たわる、水泳パンツ一丁の男を見詰めている。

 

 

 

 此処は、鎮守府内に設けられた野獣用の処置室である。表向きは医務室だが、揃えられた精密機器類の種類も多く、一見すると雑多な研究室のような風情がある。

この施術室の中央にあるのは、歯医者にあるような、斜め向きに倒す事の出来る施術椅子だ。引き締まったその屈強な肉体を晒しているのは、野獣だ。穏やかな呼吸を続けている。

その野獣の身体には、全身を覆う回路図のような術陣が奔っている。浅黒い肌に、蒼い微光の力線を描いている。鼓動のように、緩い明滅を繰り返していた。

また、施術椅子を囲むように、大きな術陣が床にも浮かび上がっている。精巧で緻密に描かれた術陣からも蒼の微光が漏れ、室内を優しく染めている。

横たわる野獣のすぐ隣に佇むのは、両腕を広げた少年提督だ。広げられた彼の両の掌にも、蒼色の微光が渦を巻いていた。彼が纏う黒い提督服を、滲むように照らしている。

彼は朗々と文言を唱えて力線を編み、丁寧に結んで、野獣の肉体に刻む。儀礼術を通して、野獣の肉体が洗礼を受ける。空気がうねっている。吹いてくる。

活力と乱動、成長と復活の風だ。漲る力の流れだ。彼が呪文で呼び、野獣の肉体がそれに応える。ぬくみの在る風が、横たわる野獣の元に集うようにして渦を巻いた。

 

 この施術は、“強化兵”としての施術を受けた野獣への、いわば儀礼術によるメンテナンスである。身体機能の大幅な活性は、その肉体に大きな負荷が掛かるからだ。

そのため、定期的に彼が野獣の肉体の調律を行ってくれている。まぁ野獣本人でも、自分自身の肉体への調律は可能だが、彼にして貰った方が早く、効率が良いらしい。

野獣と少年提督が同じ鎮守府に配属されているのは、こういう理由も多少は関係がありそうだ。時雨がそんな事を考えていると、施術室に流れていた風が止んだ。

「Fooooo~!! 気持ちよくなっちゃいソース……、もう良いよ、ヤバイヤバイ(御満悦先輩)」儀礼施術が終わったのだろう。野獣が施術椅子から身体を起こした。

微光も術陣も消えており、施術室を照らしているのは、無機質な白い蛍光灯の光だけだ。施術椅子から降りて立ち上がった野獣に、彼は柔らかく微笑んでいる。

 

「……特に異常は見られませんでした。

 身体に変調を感じた時は、すぐに教えて下さい。

 アフターリスクが突然来ないとは、言い切れませんから」

 

「今までだって大丈夫だったルォ? 安心しろよ~(強気先輩)。

 万が一って時には、俺自身でも調律施術は出来るんだからさ!」

 

 野獣の口振りに、彼は少し困ったような笑みを浮かべた。野獣も少しだけ笑って、一つ欠伸を漏らした。今は早朝だ。まだ、艦娘達が起き出して来るよりも随分早い時間である。

昨日も遅くまで起きていた野獣は、まだ少し眠気が残っている様だった。もう一度欠伸をした野獣は眼を擦ってから、ぐぐぐっと伸びをしつつ首を回す。ゴキゴキと音がした。

 

「お前の方こそ、身体に妙な感じがしたらさぁ、すぐに言えよ?(イケボ)」

 

施術椅子の傍に畳んでいたTシャツを着ながら、野獣は欠伸混じりの声で言う。

「僕も大丈夫ですよ」彼も普段の調子で答えた。

 

「ほんとぉ?(疑いの眼差し)」

 

「えぇ、視力が上がったくらいです」

 

「その代わりに、感覚が鈍くなってる感じなんだ、じゃあ?」

 

 野獣の言葉を聞いて、時雨は思わず「えっ」と声を漏らして彼の方を見た。

時雨の視線に気付いた彼は少しだけ気不味そうに眼を伏せたが、すぐに苦笑を浮かべる。

「先輩には隠し事が出来ませんね……」と零した彼の言葉は、肯定に他ならない。

「そ、それは本当かい……?」時雨も、恐る恐ると言った感じで訊いた。

ゆったりと頷いた彼は、穏やかな表情のままだ。それが、途轍もなく恐ろしかった。

 

「……恐らく、この躯には必要の無いものなのでしょう。

 緩やかではありますが、痛覚などが大きく薄れて行っています。

 触覚も欠けていく事になるでしょうが、些細な事です。問題はありません」

 

ぬくみの在る彼の声音は、冷静過ぎてまるで他人事のように聞こえた。

 

「それも最近になってからだよなぁ?(慧眼)」

 

 野獣は首に手を当てて、またゴキゴキと鳴らした。

その表情は、怒っているという風でも無い。ただ、何とも不味そうな貌だった。

ボリボリと頭を乱暴に掻いた野獣は、彼の肩に手を置いた。

 

「お前が頑固なのは承知の上だけど、もうちょい弱音でも吐いたれ(アドヴァイス)」

 

「……はい。今度からは、そうします」

 

野獣へと応えた彼も、表情こそ穏やかであるものの、眉をハの字にしている。上手い言葉が見つからなかったのだろう。中途半端な返答だった。

それでも、野獣は一応満足したのか。ぐりぐりと彼の頭を乱暴に撫でてから、彼に背を向けて施術室の扉へと向う。慌てて、時雨もその背を追った。

 

「あっ、そうだ!(唐突) 今日は眠いから、朝のトレーニングは無しにすっか!(怠惰)」

 

 野獣は軽く笑い、顔を半分だけ振り返らせた。「はい……」と、彼も緩く頷いた。そんな短い遣り取りだけをして、野獣は施術室を後にした。時雨も彼に敬礼をして、野獣に続く。

施術室から出て、しばらく歩いた。周りに誰も居ない事を、時雨は確認する。ほんの少しだけ声を潜ませるようにして、前を行く野獣の背に声を掛ける。

「野獣は……、彼が何を考えているのか、だいたいは理解しているのかい?」朝焼けの光が差し込む廊下は寒い。澄んだ空気はよく冷えており、時雨の声はよく通った。

スニーカーを履いて前を歩く野獣の足音は、驚くほど静かだ。足音がしないどころか、重みすら感じないような歩き方だった。「まぁ、多少はね……(おぼろげな推察)」

時雨の方を振り返らないまま、野獣は歯切れの悪い答えを返した。時雨の方を振り返った野獣は冴えない貌だ。

 

「ただ、アイツの思考は読めても、その真意を理解するのは難しいんだよなぁ……」

 

 言いながら、野獣は溜息を吐き出そうとして止めたようだ。時雨は何となくだが、野獣が言っている事に納得してしまう。

こんな言い方が正しいかどうかは分からないが、目的の為ならば手段や過程に拘らないところが、彼には在る。

 

「艦娘達を残して、彼だけが一人去るような……また、前みたいにならないかな?」

 

「ならないっていう保証は無ぇなぁ(ドチンピラ)」

 

「止めなくてもいいのかい?」

 

「アイツは口で言っても聞かないからね。しょうがないね(諦観)」

 

「……野獣は、彼の事を信じてるんだね」

時雨は少しだけ足を速めて野獣に並んだ。時雨は野獣の横顔を見上げる。

 

「そうだよ(強い肯定)」

時雨の方へと視線だけを向けた野獣は、口元を緩めた。

 

「アイツが何かをやらかすにしたって、アイツなりの考えが在っての事だからね。

俺じゃ出来ない事も、アイツなら出来る。(確信)

まぁ小難しいことばっかり考え過ぎて、ちょっと馬鹿なトコが珠に瑕だよなぁ?」

 

 だから、無茶だけしないように見守ってやるのも、俺の仕事の……内や(男気)。そう言った野獣は、喉を低く鳴らして笑う。その笑顔には、普段の父性のようなものは無かった。

古くからつるんでいる悪友の欠点を、面白おかしそうに笑うみたいな、気負いの無い自然な笑顔だった。時雨達には余り見せたことの無い種類の笑顔だった。

時雨は、野獣に何か言おうとしたが、止めた。俯いて、歩く。ちょっと嫉妬してしまいそうだ。野獣と彼の友情や信頼関係は、時雨が思っているよりも、ずっと強い様子だった。

もしかしたら。これから彼が何か大きなアクションを起こしたとしても、それは全て野獣と彼の間で計画されたものだと考える方が、妥当なのかもしれない。

野獣は彼をよく見ている。彼もまた、野獣をよく知っている。互いに心配を掛けまいと、多少の隠し事が出来ても、すぐそれは看破される。先程のように。

そんな二人の関係を、少し羨ましく思う。負けたく無いと思った。時雨は唾を飲んで、唇を少しだけ舐めて湿らせた。勇気を出したつもりだ。少し汗が出てきた。

指輪を貰った時は、勢いに任せて抱きついたりしてしまった。だが、今は違う。何と言うか、冷静なままで大胆な行動をするのは難しい。心臓が早鐘を打つ。

時雨は、隣に居る野獣と、手を繋ごうとした。この時間だ。どうせ廊下には誰も居ない。誰も見ていない。時雨の左手が、野獣の大きな右手に触れる寸前だった。

 

 

 野獣は右手で、口元を押さえた。歩みを止めて、咳き込み始めたのだ。

苦しそうだった。野獣の身体は僅かにふらついた。よろよろと壁に凭れ掛かる。

「だ、大丈夫かい……ッ!?」時雨は慌てて野獣の身体を支えようとした。

その時にはもう、野獣は空いている左手で時雨の動きを制する。「へーきへーき」

口元を隠したままで言う野獣は、笑って見せようとしたようだが、失敗した。

壁に凭れ掛かったままで、また野獣がまた咳き込んだからだ。普通の咳じゃない。

口元を押さえた野獣の右手の指の隙間から、赤黒い血が溢れた。廊下の床にも雫が落ちる。

赤くて黒い、小さな血溜りの斑点がポタポタと出来る。

 

時雨は、自分の心臓が冷たくなるのを感じた。

制止しようとする野獣の手を振り払い、その身体を支える。

Tシャツ越しに触れた野獣の躯は、酷く冷たかった。

その癖、野獣の鼓動の音がやけに大きく聞こえる。強く脈を打っている。

 

「何処か平気なんだいッ!? こんなに身体が冷たいのに……!!」

 

 怒るみたいに野獣に言う時雨は、冷え切っている野獣の身体を支え、抱き締める。

壁に身を預ける野獣は苦しそうだったが、自身の事なんて全然心配してない様子だった。

寧ろ、『やっちまったなぁ……(痛恨のミス)』みたいな貌をして、眉を寄せている。

今の自分の姿を時雨に見せてしまったことを悔やんでいる様子だった。

 

「医務室へ行こう! いやっ、……もう一度、彼に診て貰おう!」

 

「大丈夫だって……、すぐに良くなるからさ」

 

「駄目だよ!! 信じないッ!!」

 

「嘘じゃないんだよなぁ……。ゲホッ! 

あぁ^~……それに、今はちょっと動けないんだよね」

 

 野獣の声音は、しっかりしている。意識もしっかりしている。

それでも安心出来ない。時雨は泣きそうになる。ぐっと堪えた。

右肩で壁に凭れかかったままで、右手で口元の血を拭った野獣は、軽く笑った。

「大丈夫だって、安心しろよ。稀に良く在るんだよね、こういうの(BRNT)」

そう言って、口の端についた血を拭った野獣の身体が、再びぐらついた。

それを時雨は支えた。時雨は祈るような気持ちで、野獣の身体を抱き締めている。

何に祈ればいいのか何て分からない。でも、祈らずには居られ無かった。

 

 医務室へと行こうと言う時雨の言葉を、野獣は頑なに拒んだ。

大丈夫だと。すぐに良くなるのだと言い張った。当然、時雨は納得しない。

酷くなるようなら、引き摺ってでも連れて行くつもりだった。

暫く、野獣と時雨は無言で身体を寄せ合う姿勢になった。

野獣は意地でも座らないつもりか。時雨には体重を掛けない。

時雨は、そんな野獣の背を擦る。泣きそうだった。叫び出しそうになる。

野獣の身体の温度が。抱き締める時雨の手や身体をすり抜けて、零れていく。

そんな錯覚を覚える。時雨は、自分の体や唇が震えて来るのを感じた。

 

 だが、すぐに野獣の身体が熱を帯び始めた。

今度は、抱き締めている時雨が熱さを感じる程だった。

壁に預けていた身体を起こし、野獣は一つ息を吐き出してから、時雨を見た。

困ったような貌で笑おうとしたようだが、バツがわるそうに視線を逸らす。

体のふらつきも無く、しっかりと立っている野獣に、時雨は身体から力が抜けそうになる。

ホッとしたら、不覚にも涙が出て来た。本当に怖かった。また強く野獣に身を寄せた。

 

 今度は、野獣がそんな時雨の背中を、血で汚れていない左手でさすってくれた。

野獣が細く長く息を吐いた。その吐息の音は、廊下の冷えた空気に溶ける。

差し込む朝日の光が、白さを増していた。陽が昇る。野獣は、窓から海を一瞥した。

寄せていた身体をそっと離して、時雨はぎゅっと唇を噛んだ。俯きながら、言葉を探す。

時雨の両手は、まだ野獣のTシャツを強く握っている。その手が震える。

 

「……野獣も、僕達に身体の事を秘密にしていたんだね?」

時雨は、擦れそうな声で訊いた。

 

「まぁ、そうなるな……(苦い貌)」野獣は、肩を竦めるようにして言う。

時雨は洟を啜って、ぐっと野獣を見上げるようにして睨んだ。

 

「どうしてッ!!」声を荒げそうになるのをグッと堪えて、俯く。

一つ息を吐く。時雨が気持ちを静めるまで、野獣は待ってくれていた。

弁解も言い訳もしない。ただ、じっと時雨を見詰めていた。

言いたい事は一杯ある。でも、そんなのを全部ぶちまけて、何の意味があるだろう。

頭の中に、冷静な部分が帰って来る。時雨は、そっと顔を上げる。

 

「どうして、……隠していたんだい? 心配を掛けたくないから?」

 

「まぁ、……そう、なるな(済まなさそうな貌)」

 

 今まで見た事の無い貌になった野獣に、時雨も言葉を詰まらせる。

時雨は、両手に掴んでいた野獣のTシャツから手を放す。また俯いてしまう。

廊下の床を見詰めてしまう。ちゃんと頭が回らないのに、色んな事が脳裏を過ぎる。

上手く言葉に出来ない。もどかしい。時雨が黙っている間に、野獣がまた息を吐き出した。

ゆったりとした、落ち着いた吐息だった。「俺は大丈夫だから、安心しろって」

此方を宥めるような言い方だった。

 

「肉体強化の反動っていうか、軽い後遺症みたいなものモンやし。

 咳き込んでいる時はちょっとキツイけど、すぐに回復するんだからさ?」

 

 ホラ、見ろよ見ろよ。そう言った野獣は、吐血で濡れた右手を、身体の前に持って来た。

そして短く文言を唱えると、野獣の右手を濡らす血液が、蒼と碧の炎となって燃え上がる。

熱を帯びずに渦を巻く、微光の炎だった。「ヌッ!(点火)」その炎が、火の粉となって昇る。

野獣が、炎を灯した右手を強く握りこんだのだ。炎血は海色に解け、揺らぎながら光の粒子となって流れた。

静謐な廊下に還り散る。差し込む朝日の中に、泡のように消えた。野獣の右手には、もう血は残っていなかった。

見れば床に出来た血溜りも、燃えてしまった。跡形も無い。「どうだよ?(いつもの笑顔)」野獣は、その右手で時雨の肩を叩いた。

 

「肉体活性による発作だけど、命に別状は無いから安心!!

 時代劇とかで言う、“持病の癪が……”って感じでぇ……(フェードアウト)」

 

 とぼけた風に言うのは、野獣なりに時雨を安心させようとしてくれているのだろう。

野獣の様子は、もういつも通りだった。さっきまで血の咳をしていた者とは思えない。

 

 少し落ちついて来ると、さっきまで居た処置室での少年提督の言葉が脳裏を過ぎった。

優れた儀礼施術師である彼は、きっと野獣の身体の変調を見抜いていた筈だ。

恐らくは、野獣の言う“発作”が起こりそうな気配だって感じ取っていたに違い無い。

しかし、時雨が同じ場に居合わせていたからだろう。彼は言葉を選んだ。

『特に異常は見られませんでした』。『身体に変調を感じた時は、すぐに教えて下さい』。

自身の肉体にガタが来ている事を、野獣が時雨に隠そうとしている事も、彼は察していた。

その気持ちを汲んでくれた彼に、野獣も『お前の方こそ』と言っていた。

 

 今日まで、野獣は上手く隠し通して来た。

ただ、今日は結果的に、時雨を前に野獣は発作をみせてしまった訳だ。

『アフターリスクがいきなり来ないとは言い切れません』。確かに、その通りの様だった。

野獣は、時雨や鈴谷、赤城にも隠していたに違い無い。

時雨は少し怒ったような貌で、野獣に向き直る。

 

「その発作に隠れてずっと付き合って来たみたいだけど……、命に別状は無いんだよね?」

 

「おっ、そうだな(首肯)」

「だから軽視して、ずっと秘密にしておくつもりだったのかい?」

 

「ごめん茄子」

 

「酷いじゃないか。失望したよ」

 

 時雨は俯いたままで、非難するような声音で言いながら、左肩に置かれた野獣の右手にそっと左手で触れた。その時雨の左手の薬指には、ケッコン儀礼指輪が嵌っている。

大切な絆の証だと思っている。それは間違い無い。いや、ただ時雨がそう思いたいだけだろうか。深く考えるのは恐ろしい。答えが無い。分からない。確かめられない。

時雨が触れた野獣の右手は、少し冷たい。でも、ちゃんと熱が篭っている。時雨は、その野獣の手を強く握った。いや、掴んでいる。でも、野獣は握り返してはくれない。

何だか、歳の離れた妹を宥めるみたいな、済まなさそうな笑みを浮かべている。優しい貌をしている。大切に想われている事くらいは分かるから、責める言葉が出て来ない。

時雨は何かを話す代わりに、野獣の右手を握ったままで、静かに歩を進める。そうして、そっと野獣の胸に額を預けた。抱きすくめるでも無く、ただ額を寄せただけだ。

野獣だって時雨の身体を抱いてくる事は無い。空いた左手で頭を撫でてくれるだけだった。それだけで凄く安心している自分が居ることを感じて、時雨は息をついた。

 

「もう、僕に隠してる事は無い……?」

 

「当たり前だよなぁ?(いつもの笑顔)」

 

「……嘘だ。野獣は僕の事を、……皆の事を気遣ってくれてるから」

 

 だから、野獣は全てを晒さない。肉体の苦しさを見せようとしない。少年提督と共に目指す光景や、其処に到る為に侵さねばならないリスクを明かさない。

それは、そういったリスクは艦娘では無く、野獣達が背負っているからだろう。もしも艦娘達に何らかの危険が及ぶならば、野獣はすぐに知らせてくれるし、対策を打つ。

そういった動きが無いという事は、やはり時雨達は蚊帳の外に居るのだ。何を考えているのかを無理矢理に聞いても無駄だ。時雨が泣こうが喚こうが、野獣は絶対にシラを切る。

「本当に……、失望しちゃうんだからね」拗ねたみたいに時雨が言うと、野獣が少しだけ笑った。「それは許して下さい、何でもしますから(困ったような笑顔)」

 

「ん? 今、何でもって言ったよね?」

 

「えっ、それは……(苦笑)」

 

「じゃあ、もう少しだけ……、このままで居させて欲しいな」

 

 時雨は震える声で言って、少しだけ強く、野獣の胸元に身を寄せた。

野獣はやっぱり、歳の離れた妹の我が侭に付き合うような、困ったような穏やかな笑顔だ。

時雨のお願いを拒まない。抱き返してくる事も無い。

自分の言う事が我が侭だという事は、時雨も理解している。

そう。ちょっと野獣を困らせてやりたいと思ったが、いい考えが思い付かなかった。

それだけだ。これから先も、野獣と一緒に居られるだろうか。無理かもしれない。

漠然とした予感だが、拭えない確信のようなものも同時に在った。嫌だ。そんなのは嫌だ。

いやだ。いやだよ。もっと一緒に居たいよ。此処に居てよ。何処にも行かないでよ。

もしも時雨がそんな風に言えば、野獣はどんな貌をするだろうか。

紛れも無い時雨の本心だが、やっぱり、今のちょっと困ったような貌のままだろうか。

呆れられるかもしれない。苛立つかもしれない。鬱陶しがられるかもしれない。

ただ、優しくも乱暴でも無い手付きで頭を撫でてくれるだけかもしれない。

それとも。全く別の表情を見せてくれるのだろうか。分からない。

ああ。僕は、知らない事ばっかりだ。野獣について、知らない事ばっかりだ。

知りたいと思う。けれど、適当な事を言われて誤魔化されるだろう。

種類は違えど、野獣は少年提督に良く似ている。














遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
昨年は大変御世話になりました。
今回も読んで下さり、また感想を下さり、本当に有難う御座います!
今回の更新で、書き溜めていた分も殆ど投稿させて頂きました。
此処までで一旦の区切りとさせて頂くかもしれません。

ただ、書いてみたい内容はまだまだ手が出せていない状況ですので、
今までよりも少ない文章にはなると思いますが、
加筆修正を行いながら、ゆっくりと形に出来ればと思います。
また次回更新をさせて頂く事が出来た時には、お付き合い頂ければ幸いです。

いつも暖かいお言葉で支えて下さり、本当に有難う御座います!



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