少年提督と野獣提督   作:ココアライオン

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最終章

 レ級と南方棲鬼の強襲を受けた鎮守府は現在、工廠と、幾つかの資材倉庫の崩壊によって大きなダメージを受けた事もあり、その機能を大幅に制限されていた。

本営からの協力と支援により、現在は復旧工事が行われているが、完全にその機能を取り戻すにはまだまだ時間が掛かるだろう。ただ、不幸中の幸いと言うべきか。

ドッグの方は無事であった為、埠頭で大破状態まで追い詰められた天龍、龍田、不知火、長門、陸奥、それに、山城、大鳳達の修復施術は行う事が出来た。

誰一人欠けること無く、この鎮守府の戦力は維持されている。負傷し、約一週間ほど昏睡状態であった彼も、今では意識を回復させている。更に、其処から2週間経った。

 

 

 

「そろそろ、窓をお閉めになりませんか? 御体に障ります」

 

「はい。でも、もう少しだけ……。外の空気が、何だか恋しくて」

 

 彼は、優しげにひっそりと微笑んだ。薄手の被術衣を着た彼は、ベッドから身体を起こして、直ぐ傍に在る窓の外を眺めている。

夕涼みの優しい風がカーテンを揺らし、滲む様な茜色が、手狭では在るが清潔感の在るこの個室を染めていた。遠くには、海と空が見える。

此処は、鎮守府の傍に建設された、深海棲艦研究施設の一室。大掛かりな機械やデスク、医務器具も置かれて居ないので、病室と言った風情である。

彼は、顔の右半分を覆う様な、拘束具にも似た黒い眼帯を付けている。そのせいで、いつもの微笑みが痛々しく見えた。酷く窮屈そうだ。胸が苦しくて、痛む。

ベッドのすぐ傍に木製の丸椅子を置き、其処に腰掛けて居た愛宕は、彼の顔を覆う眼帯にそっと手を伸ばした。静寂の中。手袋を外してから、彼に触れる。

冷たい感触だった。それを嫌がる素振りを見せない彼は、静かに眼を閉じながら、自分の左腕で、自分の右腕を掴んでいる。その右腕も同じく、黒い拘束具で覆われている。

愛宕は、彼の眼帯に触れた手で、そのまま彼の右肩、そして、右腕に触れた。彼の温もりが、悲しい程に遠い。凍みる程に、冷たい。涙が零れそうになる。

 

 彼は失った右眼、そして右腕の代わりに、深海棲艦の肉体部位を移植された。

それが本営からの命令である事を、本営の上層部に太いパイプを持っている野獣が教えてくれた。

 

 意識を取り戻した彼に最初に面会したのは、彼が召還した艦娘でも無く、野獣でも無かった。

本営の命により派遣された、研究員のグループだった。彼が意識を取り戻してすぐの頃、本営は、野獣や艦娘達が、彼と面会することを一切許可しなかった。

かつて、艦娘や深海棲艦を相手に行って来た移植実験は、とうとう“人間”を用いて行おうという段階に来ていた。それを邪魔されたく無かったのだ。

高度な金属儀礼施術を用いた、初の人体実験の検体として、瀕死となった彼が選ばれた。どうせ死ぬなら、役に立ってから死ねと言う魂胆なのだ。

他にも、彼自身が優れた金属儀礼の施術者である事や、多くの艦娘を制御し得る、優れた生命鍛冶の工匠で在った事も、大きな理由だった筈だ。

彼への異種移植のオペレーションは、麻酔無しで行われた。寧ろ、移植施術そのものを、彼自身が行ったと言っても過言では無い。

彼だからこそ可能だった。本営は、その貴重な実験結果を欲し、死掛けた彼を利用した。自らの手で、自身の肉体を“改修”して見せろと命令したのだ。

彼は、その命を受け入れた。自身の持つ高度な施術式と、研究員達の外科処置を組み合わせることにより、彼は、もはや人間とは言えない身体に成り果てた。

一命を取り留めた彼は、しかし、人間である事を許されなかったのだ。

 

 野獣からこの件の真実を聞いて、愛宕は本気で、人類など滅んでしまえと思った。激しい怒りと共に、薄ら寒いものを感じた。

彼から、“人間である”という枷を外したのは人間だ。それは、これから人類が背負うであろう、余りに巨大な負債の始まりの様にも思えた。

人間のルールでは、もう彼を縛れない。いや、それすらも、彼次第なのだ。彼を繋ぎ止めているものは、艦娘達との絆であると、そう信じたい。

何も言えず、唇を震わせながら引き結ぶ愛宕に、彼はやはりひっそりと微笑んで見せる。

 

「身体に違和感も在りませんし、痛みも在りません。

軽い運動くらいなら、もう平気です。少し、歩いて来ても良いですか?」

 

 愛宕の様子に、何かを感じたのだろう。

こんな風に、彼が冗談めかして何かをいうのは珍しい事だった。

 

「何を仰るのです。……今も、地下房から帰って来たところじゃないですか」

声が震えそうになるのを、必死で堪える。

 

「彼女達の肉体の調律は、現状では僕しか出来ない状態ですから」

 

 少しだけ申し訳無さそうに言う彼は、微笑んだまま、困ったみたいに眉尻を下げた。

その頼りなげな表情からは、決して想像出来ないだけの覚悟を持って、彼は本営に取引を持ちかけていた。

自身の肉体を差し出す代わりに、保護している深海棲艦達を、自身の配下とする事を申請したのだ。前代未聞のことであった。

当然の事だが、彼が深海棲艦を率いて、人類側に反旗を翻す事を危惧した本営はそれを却下した。だが、最終的には、その要望は聞き入れられた。

陸戦でレ級を撃破出来る野獣が監視役として居るのであれば、肉体をスポイルさせたまま、尚且つ、海へと出さない事を条件に、捕虜としての深海棲艦を任せられたのだ。

言い方が悪いが、彼は、この施設に保護されている深海棲艦達の所有権を手に入れた。

 

 その報告のため、彼と愛宕は先程まで、この施設の地下房にて、戦艦棲姫をはじめとした深海棲艦達にその旨を伝えに行っていた。

シリンダーに押し込まれた戦艦棲姫が、移植手術を受けた彼の姿を見て、驚愕の表情を浮かべた後に、恩赦を受けるが如く深く頭を垂れていた。

「アぁ……、“よウこそ”」と。待ち侘びた瞬間を迎えた様に、彼女が彼に紡いだその短い言葉には、敬慕と敬愛が深く滲んでいた。他の深海棲艦達も同じ様子だった。

ようこそ。それは、地下房に再び会いに来てくれた彼を出迎える言葉だったのか。

それとも、彼が人間では無く、深海棲艦という生物のカテゴリに足を踏み入れた事に対する歓迎か。

或いは、そのどれとも違う、もっと違う意味が在ったのか。愛宕には分からなかった。

 

 レ級と南方棲鬼についても、その肉体のスポイル、解体施術も、未だ回復しきらない体を推して、彼が自ら行った。

港湾棲姫、北方棲姫と同じく、レ級と南方戦鬼の二人も、今では地下房にて保護されている状態である。

鹵獲された深海棲艦の一極集中によるリスクに関しては、本営でも危険視されている筈だ。

だが、彼の要望が通った点を考えれば、こうした決定にかかる思惑に、野獣の存在が一枚噛んでいるのも間違い無い。

 

 もしかしたら、と、思う。

この鎮守府の襲撃に始まり、捕虜としての深海棲艦を所有するまでの流れは、予定調和なのでは無いか。

彼と野獣は、こうなることを何処かで、既に予想していたのでは無いのか。今のこの状況は、彼らが定めた着地地点の一つでは無いのか。

彼が負傷し、その肉体に深海棲艦の細胞を移植する事まで、全ては想定内のことであり、敷かれたレールの上なのではないか。

 

 愛宕は、其処まで考えて、彼の顔を見詰めた。彼は、その微笑を崩さない。

また、緩い風が吹いた。涼しくて、心地よい風だった。夕陽の赤橙に混じる暗がりが、濃さを増していく。

沈黙が降りた。愛宕から視線を逸らした彼は、また窓の外を見遣る。彼は遠くを見ている。

此処では無い場所を見ている。何を考えているのかも分からない。教えてくれない。

愛宕は黙ったまま、ぎゅうぎゅうと膝の上で拳を握る。俯いて、唇を噛む。

いつもそうだった。彼は、微笑みで壁を作る。すぐ傍に居るのに、近付かせてくれない。

自我を破壊され人形に成り下がった艦娘達が、累々と折り重なっていた、あの艦娘廃棄施設の処理槽で、初めて彼と出会った時もそうだった。彼は微笑んで居た。今でも、はっきりと憶えている。

彼は、愛宕をあの地獄から救い上げてくれた。しかし、愛宕は、彼に何もしてあげることが出来ない。それが悔しい。

 

 提督。正直に言って良いですか?

 私は、貴方さえ無事なら、傍に居させてくれるなら、後はどうでも良いのです。

何処の鎮守府の艦娘がどれだけ沈もうが、知ったことではありません。

勝手にすれば良い。どうせ人間も艦娘も、そぞろ泳いで消えていくのです。

群れているから、その本質が見えていないのです。等しく、誰も救われない。

此処には、光の差す道理などありません。もう、光など来ません。

深海棲艦を撃滅した先に、艦娘の未来などありません。

人類や艦娘を、果ては、深海棲艦の未来まで憂い、終戦と共存、不可侵の道を探ろうとする貴方を、本営は生贄に捧げたではありませんか。

私は、人が怖い。恐ろしい。でも、それ以上に、今は人間が憎いのです。ただただ、憎い。許せない。赦せない。

貴方をこんな姿にして、貴方の優しさにつけ込んで、利用して、追い詰めて、使い潰そうとする本営の意思に、激しい憎悪を憶えるのです。

もう、良いではありませんか? こんな世界、守る価値などありませんよ。放っておきましょう。命を掛けて戦うなんて、馬鹿馬鹿しい。そうは思いませんか?

私達、艦娘の為に、深海棲艦の為に、貴方がどれだけ苦悩しても、本営は知ったことでは無いのですよ。止めましょう。貴方は、貴方を大事にして下さい。

 

 そんな風に懇願しても、きっと彼は、困った様にひっそりと微笑むだけだろう。

あぁ。本営で踏ん反り返り、高みの見物を決め込んでいる者たちよ。見えているか。

曙光に顔を焼かれ、烈日に胸を焼かれ、残照に背を焼かれ、苦悩火に心を焼かれた彼の姿が。

微笑む彼の胸の内に、激しく燃え盛る、数え切れない程の艦娘の怒り、憎しみ、悲しみ、復讐心、それら瞋恚の業火が。

それでも日々昇る太陽の様に、只管に艦娘や、深海棲艦の未来の為に、身と心を砕いて来た彼の絶望が。

持って生まれた筈の全てのものを捧げた、彼の偉大さなど。貴様たちには分かるまい。

もはや海への侵略戦争の様相を呈してきたこの戦いを、嬉々として続ける貴様たちには分かるまい。

彼の居ないところで、勝手にするが良い。貴様達が正しいのだと本当に思って居るのなら、勝手に進め。

進め。進め。進め。征け。征け。征け。征け。死ね。「夕陽が沈みますね……」

静かに言う彼の声音は、穏やか過ぎて、まるで存在感が無かった。

 

 顔の見えない、誰かとしか言いようの無い者達への怨嗟の念に囚われてこそ居たが、病室の外の気配には気付いて居た。

ノックの後、静かに扉を開けて入って来たのは、穏やかな微笑みを浮かべた龍田だった。手には、果物が盛られた籠を持っている。

龍田は彼に軽く頭を下げてから、愛宕の貌を見て、クスクスと小さく笑った。「提督の傍で

、そんな怖い貌をしていては駄目よぉ」

諭す様に言われ、愛宕は彼から顔を隠すようにそっぽを向いた。それから、自分の頬をペタペタと触ってから、緩く息を吐き出した。

「提督が甘えて下さらないから、少し残念がっていただけですよ」。冗談めかして言うが、深く追求もして来ない龍田は、愛宕の心情を見抜いていることだろう。

温和に見えて激情家で、そう見せ掛けた上で、更に冷静沈着な龍田の事だ。言葉は交わさなくとも、色々と察してくれている。

龍田は、愛宕には深く絡まず、扉の傍に置かれてあった丸椅子を持って来て、愛宕の隣に腰掛けた。

ついでに、ベッド横に備え付けられてあった木製の台に籠を置いてから、ぬぅっ、と、彼の顔を覗きこんだ。

それから、すぐに微笑みを深めて見せた。

 

「顔色も大分良くなりましたねぇ、提督」

 

「はい。御蔭さまで」

 龍田の異様な迫力にも全く怯まず、彼が微笑みを返せるのは、慣れと言うよりも信頼だろう。

 

「他の娘達も、提督に会いたがっていましたよぉ。 

 そろそろ、面会の許可を出して上げても良いんじゃないでしょうか?」

 

 現在。面会禁止の命令を引き継いでいるのは彼である。

すぐにでも他の艦娘達を此処に呼ぶことも出来る筈だが、彼はそれをしようとしない。

頑なに、それを拒んでいる。

 

「……いえ。もう、僕には皆さんにお会いする顔が在りません」

 

 その龍田の言葉に、彼がほんの少しだけ眼を伏せて、息を詰まらせるのが分かった。

表情も、一瞬では在ったが僅かに強張ったのを、愛宕は見逃さなかった。

彼は、他の艦娘達と顔を合わせたく無いのかもしれない。

実際、この病室に入ることを許されているのは、愛宕と龍田だけである。

つまり彼の過去、その最も深い部分を知っていた二人だけだ。

 

 ただ、確かに状況は変わった。今回の強襲の中で、彼の過去が曝されてしまった。

彼の身体から滲み出た、死と怨嗟の陰影。姿と機能を持った、無数の艦娘達の亡霊渦。

あの現象を隠し切ることなど不可能だ。何れこうなる事を見越して、彼は野獣に頼んでいたのだろう。

野獣は、余計な混乱が起きる前に、彼の過去と真相を、鎮守府に居る全ての艦娘達に伝えてくれた。

愛宕や龍田の過去や来歴に関しては、野獣は伏せてくれたものの、流石に皆、動揺した様子だった。平静を保っている艦娘など居なかった。

龍田の方は施設と鎮守府を行ったり来たりしているが、あれから、愛宕は鎮守府に戻っていない。

自分の居場所なんて無いような気がしたからだ。それは、彼も同じだったのだ。

 

「皆が会いたいと言っているのにですかぁ?」

 

「えぇ……。もうじき、僕は提督では無くなります。

 末端の研究員として、此処の施設への配属となる事でしょう」

 

「ぇ……」と声を漏らしたのは、愛宕では無く、眼を僅かに見開いた龍田だった。

 

 彼の言葉に、ハンマーで頭を殴られた様な衝撃が在った。全身に悪寒が走る。震えが来た。

龍田へと向き直った彼の表情は、普段と同じく、凪いだ仮面の様な微笑みに戻っている。

本当に、冗談抜きで景色がぐにゃぐにゃと歪んで見えた。

愛宕は思わず立ち上がり、ベッドに身体を起こしている彼に詰め寄った。

縋る様に、左手で彼の右肩を掴んで、右手で彼の左腕を掴んだ。

拘束具の冷たい感触が、更に強まった気がした。この部屋は、こんなに寒かっただろうか。

龍田が呆然としているのなんて初めて見る。だが、それを珍しがる心の余裕なんて無い。

 

「そんな……、どうして!」

 

 もの凄い焦燥感だった。彼を見上げるような姿勢になった愛宕は、縋りつく様に叫ぶ。

しかし、夕陽を横顔に浴びた彼は、またひっそりと微笑むだけだった。

だが、すぐに愛宕は息を呑むことになった。

 

「本営が僕に求めているものが、

 深海棲艦の撃滅でも、洋上の平穏を取り戻す事でも無いからです」

 

 落ち着き払った微笑みを浮かべている背後に、深紫の陰影が滲んだ。

その揺らぎが、数人の艦娘の貌を象り、此方を見下ろしていたからだ。

気のせいかもしれないが、少なくとも、動揺していた愛宕にはそう見えた。

 

「僕に寄せられた期待は、

 深海棲艦や艦娘の皆さんへの肉体、精神への干渉施術を、“人間”へと応用する術を探る事です」

 

 龍田と愛宕は言葉を失いながら、彼を見詰める。

ベッドに身体を起こしている彼は、自身の腕を掴んでくる愛宕の両腕に、そっと触れる。

それから、愛宕と龍田を順番に見て、ゆっくりと瞑目する。静かに息を吐き出した。

何もかもを受け入れて、決心を固めたかのような呼吸だった。

 

「精神施術の応用は、対立者の洗脳の為。肉体施術の応用は、権力を保持する不老の為。

 本営が、僕の様な子供を“元帥”に据えている理由は、こうした俗っぽい欲望によるものでした」

 

ゆっくりと開かれた彼の左眼には、今までに無い程に醒めた光が宿っていた。

すぐ傍でその眼を見詰める愛宕には、人間の眼とは思えない程、無機質な瞳に見えた。

 

「精神や思考への応用は未だ不完全でしたが、

 肉体への金属儀礼の応用は形になりつつありました。

 本営の方々が求める、不老不死の回答の一つが、“此れ”という訳です」

 

 彼は、いつも以上に仮面染みた微笑を浮かべて、自身の右腕を一瞥して見せた。

異種移植。その狂気の実現の為に、本営は、彼が負傷したこの機会を利用したのだ。

彼はそれを拒まなかった。そして見事、自身の身体改修を成功させている。

死や病、衰微や疲労を知らない頑強な肉体が、彼をモデルに完成しつつある。

故に、本営はその魅力に眼が眩んだ。彼を前線基地から外して研究に回したのは、一刻も早く“不老不死”が欲しいのだ。反吐が出る。

 

「提督は、……何故、そうまでして本営に従うのですかぁ?

 今回の件に関しては、本営は完全に提督を使い捨てようとしていましたよねぇ?

 施術が成功したから良かったものの、もし失敗していたら、死んじゃってたんです よぉ?」

 

 今まで黙っていた龍田が、音も無く丸椅子から立ち上がって、ベッドの傍に立った。そして、提督を静かに見下ろした。

声音こそ優しく、表情も笑みを浮かべてこそいるものの、その眼は笑って居ない。怒っているのだろうか。

 

「今のところ、そんな無茶をしたのを知っているのは私達だけですが、

これが大和さんや武蔵さんだったら、朝までお説教ですよぉ?」

 

「……やはり、私達を人質に脅されたのですか?」

 

 愛宕の問いに、彼は黙ったまま答えなかった。別に答えてくれなくても良い。

きっとそうなのだろう。彼は、艦娘達を捨てたりしない。誰一人犠牲にしない。

ずっとそうだった。もしかしたら、私達の存在が、彼の重荷になっているのだろうか。

だから。彼は、鎮守府から居なくなってしまうのではないか。

そんな短絡的な思考が脳裏を過ぎった時だった。彼が言葉を探すように俯いた。

 

「僕は、父と母と過ごした記憶が在りません。

 物心ついた頃には、孤児として施設で育てられていました。

 臆病で人見知りな僕は、いつも独りで、孤独でした」

 

 彼は俯いて、訥々と言葉を紡ぐ。愛宕と龍田は、黙って彼の話を聞いていた。

この部屋からだと、山の稜線とその向こうに海が広がり、茜色に燃える水平線が見える。

橙に輝く遠い海と、沈んでいこうとする夕陽を見詰めながら、彼は眼を細めた。

 

「でも今では、こうして僕の事を心配してくれる艦娘の皆さんや、先輩が居てくれます。

鎮守府に戻れば、僕が居ても良い場所が在って、僕を暖かく迎えてくれる皆さんが居てくれるんです。

僕にとっての故郷は、皆さんが居てくれる場所です。僕にとっての家族は、皆さんなんです。

だから、掛け替えの無い家族や故郷を、僕に出来る戦いで守りたいと、ずっと思っていたんです」

 

 淡々と話を続けていた彼は窓の外から視線を戻し、愛宕と龍田を順番に見た。

真剣な眼差しだった。彼が、自分の事をこうして話してくれる事なんて初めてだから、ちょっと驚いてしまう。

 

「僕は皆さんに会うまで、家族や故郷と呼べるものを持ったことがありませんでした。

 でも、それが守らなければならないものである事は、知っているつもりです」

 

 だからこそ、彼は自身の犠牲を躊躇しない。

其処まで言った彼は、照れ笑う様に小さくはにかんだ。

 

「でも、今の僕には、もう鎮守府に戻る資格なんて無いような気がするんです。

 皆さんの傍に居て、一緒に笑っていては、いけない様な気がするんです。

過去を隠したままの僕は、皆さんを騙して来ました。謝っても、許して貰えないでしょう。

それに許して貰おうとも思いません。命令とは言え、僕は幾人もの艦娘の方々を破棄し、その魂を身の内に取り込んで来た事は事実なのですから」

 

聞きたくない。そんな彼の言葉を聞きたくなかった。

 

「鎮守府から出れば、僕はまた一人ですが、……もう孤独ではありません。

 僕は、得難いものを皆さんから沢山貰うことが出来て、本当に幸せでした」

 

 何で。今。そんな事を言うのか。まるで、今生の別れの様では無いか。

まるで憑き物が落ちたみたいに、肩の力が抜けた彼の微笑みに、胸が締め付けられた。

彼の微笑みが、発動の合図だったのだろう。不意に、キィィィ――……ンと耳鳴りがした。

それは、音と言うよりも、音波と言うか、不吉な鳴動だった。

 

 ベッドの傍にしゃがみ込み、彼の両腕を掴んでいる姿勢のままで、愛宕は慌てて自身の胸元に眼を落とした。

驚愕する。彼から貰った“ロック”のハート型のネックレスが、微振動を起こしながら微光を発し、複雑な術陣を発生させていた。

微光の色は、やはり深紫。彼の顔の右半分を覆う眼帯や、被術衣の上から装着された右腕の拘束具からも、深紫の揺らぎが漏れている。

微光が象る術陣が、艦娘への自我や思考への干渉を行うものであることは、直感的に分かった。同時に、身体が動かなくなった。硬直する。

違う。これは、拘束施術だ。愛宕と龍田の喉首、手首、足首に、彼が編んだ術陣が浮かんでいる。

 

「提督……ッ、何を……!?」

 

 彼の腕を掴んだまま身動きが取れなくなった愛宕は、何とか立ち上がろうとする。

龍田の方も動こうとしている様だが、ぶるぶると腕や肩、脚が震えるだけで動けない。

艦娘は、提督には抗えない。反発は出来ても、抵抗は出来無い。“命令”は絶対である。

この根本的なルールを、この土壇場で思い知る。深紫の微光を左掌に灯した彼は、微笑んでいるのに、苦しそうだった。

愛宕の知る限り、彼がこういう類いの術式を、自身が保有する艦娘に発動するのは初めての事だ。動揺よりも先に、悲しみが胸の内に広がる。

彼が何をしようとしているのか。その微笑から察して、心が引き千切れてしまいそうだ。ああ。そんな。嫌です。嫌です、提督。止めてください。

声が出ない。愛宕の唇から漏れるのは、ヒュー、ヒューという、か細い吐息だけだ。

 

「僕が提督で無くなっても、皆さんの事は、先輩が引き受けてくれます。

後は、完全に僕の我が侭になりますが……、皆さんには、僕の存在を憶えていて欲しく無いのです」

 

 彼は、淡々と継げながら、術陣を左掌の上に編み上げていく。

その明滅に応え、“ロック”のハート型ネックレスが共鳴するように震えが強くなる。

 

 艦娘への記憶に関わる施術式ともなれば、当然、高度なものになるし、時間も必要になる。

だが、彼は普段の様に、文言を唱えて術式を編んだりしていない。だというのに、着々と効果解決の為のシーケンスが進んでいく。

その事に気付き、愛宕は愕然とする。最初から。この“ロック”の為のネックレスに、彼が記憶操作の施術式を組み込んでいたのだ。

 

「これが、最初で最後の“命令”です。僕の事を忘れて下さい」

 

 間違い無い。彼が左掌に宿した深紫の術紋は、起動の為のもの。

つまり、この場に居る愛宕や龍田だけで無く、鎮守府に居る彼の保有艦娘全てを対象に取る。

 

「周到なんですねぇ……。でも、この方法では、

 野獣提督の召還した艦娘達には効果は及びませんよぉ?」

 

 身動きが出来ない龍田は、身体を小刻みに震わせながら食い下がる。

この状況で不敵な笑みすら浮かべて見せる辺り、流石と言うか、凄い胆力だ。

だが、彼はその言葉にも動じない。緩く首を振って見せるだけだった。

 

「いえ……。効果は全員に及びます。先輩には謝らないといけませんね。

僕達の鎮守府で使用されていたネックレスは、全て僕が用意したものですから……。

先輩が召還した艦娘の皆さんのものにも、同じ施術式が組み込まれています」

 

 きっと今頃鎮守府では、突然鳴動を始めた“ロック”のネックレスに大混乱が起きている事だろう。

リモートによる術式の遠隔起動を、この規模でやってみせるなど、人間の精神力の限界を超えている。

彼の言葉を聞いて、ぐっと睨んでくる龍田の視線を受け止めながら、彼は困ったように小さく笑った。

 

「精神や自我への負担は極力抑えてありますので、後遺症の心配もありません。

僕に係る記憶の矛盾も、取るに足らない瑣末な齟齬として忘却される事でしょう。

被害が出た鎮守府にも復旧の手が入っていますし、今まで通りの日常は、すぐに戻ってくる筈です」

 

 彼は、愛宕や龍田の不安を拭うように、優しく言う。

何もかもが、彼の想定内だったのだ。自身の過去が、何れ露見する事も。

艦娘達を人質にして、道徳や倫理を無視した命令が本営から下されるであろう事も。

その後。艦娘達の心に、自身の存在が影を落とすであろう事も。

だから、そうならぬ様に、艦娘達の記憶の中から、自身の痕跡を消すことを選択したのだ。

そうなれば、残された彼の写真や映像を見ても、誰だか分からなくなる。

哀しくもなんとも無くなる。思い出せない。自身の経験が、彼の存在に結びつかない。

本当に微かな違和感だけを残し、艦娘達の記憶の中から、彼は消える。

艦娘の意思は、提督に対抗しえない。無力だ。ネックレスから漏れる明滅が強さを増し、術式が解決、その効果の適応が始まる。

 

 痛みや苦しみは無かった。温もりすら感じる暖かな微光が、愛宕と龍田を包む。記憶消去の施術処置だ。声が出ないのに、叫び出しそうになる。

今。眼の前に居る彼が。誰なのか。分からなくなった。必死に思い出そうとする。彼と過ごした時間を、掴み止めようとする。

なのに。全く思い出せない。掛け替えの無い想い出は、たくさん在る筈だと断言出来る。しかし、それが記憶として形を成さない。

虚ろで薄弱な、掴み処の無い幻か。感触の伴わない夢を思い出すよりも難しい。思い出せ。彼は。誰だ。知っている筈だ。大切なひとだった筈だ。

なのに。分からない。分からない。知っていると証明出来るものが、自分の記憶から抜け落ちて行く。

淡い感覚が、動けない身体を蝕む。しかし、喪失の予感への恐怖は、耐え難い程に現実的だ。

同時に、気を失いそうな程の眠気が来た。瞼が重い。視界が急速にぼやけて来る。

 

「記憶消去の後、お二人には24時間の睡眠を設定してあります。

 鎮守府の自室で眼を覚ます事になる筈ですから、安心して身を委ねて下さい」

 

 安心。安心なんて、出来る訳無い。“私”が“私”である為に大切なものが、薄れて消えていく。優しく、拭い去られていく。

だからこそ、惨い。あんまりだ。酷すぎる。「……許さない、からぁ」。そう聞こえた龍田の声は、明らかに涙声だった。龍田が泣いているところなんて、やっぱり初めて見た。

彼の子供らしく無い、ひっそりとした微笑を見ても、まるでデジャブを見ているかの様な、違和感と既視感しか無かった。

彼が、どんな顔で笑っていたのか。分からない。思い出せない。彼は、誰だったか。

自身の中に渦巻く激情が、悲しみなのか怒りなのかも分からなくなった。

眠気と共に、意識の輪郭が暈けて来て、彼の笑顔が暗くなった。次の瞬間だった。

 

 突然。愛宕や龍田を包んでいた微光が霧散した。消えた。

拘束施術が解け、眠気も消える。同時に、彼が誰だったのかを思い出す。

まだ、彼との絆は生きている。温もりが在る。混乱する。

愛宕と龍田は、拘束されていた姿勢のままで固まってしまう。

それは彼も同じで、「えっ……」と、簡単な計算問題を間違えたみたいな顔をしていた。

三人とも、何が起こったのか理解出来なかった。

 

「ぬわぁぁぁん!! 術式キャンセル間に合ったもぉぉぉん!!!」

大声で言いながら病室の扉を開いたのは、黒海パンとTシャツ姿の野獣だった。

その額にはびっしょりと汗が浮かんでおり、右の掌には葵色の微光が灯っている。

驚愕している様子の彼に、野獣は額の汗を腕で拭ってから、ニッと笑って見せた。

 

「あのさぁ……。申し訳無いけど、

一緒に過ごして来た艦娘達の記憶から、大切な想い出をぶっこ抜いちゃうと、

お前の事を覚えてるのが俺だけになるから流石にNG(分かち合う絆)」

 

 嫌味な無く笑う野獣の御蔭で、愛宕と龍田は、その記憶を失わずに済んだ。

それを理解し、龍田は涙を拭いながら深く礼をして、野獣に道を譲るように一歩引く。

ベッドの傍にしゃがみ込んでいた愛宕は、安堵と共に、彼の胸に顔を埋めた。

彼が驚くと言うか、戸惑うような気配を感じたが、もうどうでも良かった。

彼の香り、温もり、感触、記憶。すべて此処に在る。思い出せる。嗚咽が漏れた。

痛い程に抱きしめて来る愛宕の右肩に、彼は左手で触れる。

その抱擁を解こうとしたのかもしれない。だが、彼は、触れただけに留まった。

野獣を見上げて、少しだけ唇を噛んで、すぐに参った様に微笑んだ。

 

「流石は先輩ですね。気付いていたのですか」

 

「いや、俺は気付けなかったゾ(正直者先輩)」

 

「では、誰が……」

 

「私よ。司令官」

 

 可憐な声がした。愛宕も、彼への抱擁を解いて振り返る。

野獣の後に病室に入ってきたのは、眼鏡を掛けた雷だった。

彼は何かに気付いた様に、微かに呻いた。

 

雷の方は、ちょっと怒った様な貌で、腰に右手を当てている。

左手には、“ロック”の為のハート型のネックレスが握られていた。

そして雷自身も、ネックレスをしている。雷は、ネックレスを二つ持っていた。

以前、漂着した他の鎮守府の“雷”を、雷へと改修した話は、愛宕も聞いている。

あの二つ目のネックレスは、その時のものだろう。

 

「気付いたのは、完全に偶然だったわ。

司令官の役に立てるように、いろんな文献を読んだり、艦娘の召還術なんかについて勉強してる内にね。

私にくれた最初の“ロック”に、ちょっと違和感を感じるようになったの。それで自分なりに調べてみたら、って感じだったわ」

 

 雷は左手にもったハート型のネックレスに視線を落としてから、また彼に向き直った。

艦娘達も、それぞれ艤装の召還や解除を、超常的な部類の力で行っている。

その力の延長線上に、“提督”達の持つ召還や改修、解体、装備の造成などが挙がる。

造物に機能を込める事や、無機から有機への変換を司る儀礼術についても同類だ。

艦娘の身でありながら、雷は独学でその領域に手を伸ばしつつあるという事か。

 

「それで相談を受けた俺が、IKDCと協力して、さりげなくディスペルして回ってたんだよなぁ。

 誰にも勘付かれない様にコソコソ動くなんて慣れてないから、すっげぇきつかったゾ~(遠い眼)

まぁ、お前が俺の行動に勘付いてたら、もっと複雑で解き様の無い施術を用いてただろうし、ま、多少はね?(したり顔先輩)」

 

「なる程。敵を欺くには、まず味方から、という訳ですね。

 艦娘の皆さんには、そんな素振りもありませんでしたから……、気付かれているとは思いませんでした」

 

「まぁ流石に、最後の最後に、ATGとTTTを傍に置いとくのは予想出来なかったゾ。

 御蔭で、ギリギリだったんだぜ☆(MRS)」

 

 野獣の言葉からすると、どうやら鎮守府に居る他の艦娘達への施術も、既に解除されている様だ。

愛宕は安堵し、龍田も緩く息を吐き出している。「先輩は、意地悪ですね」

そう軽く呟いた彼の微笑みは、迷子になった子供が、無理に笑っているみたいだった。

 

「意地悪なのはお前の方だって、それ一番言われてるから。

 と言うか、何勝手に人の記憶から消えようとしてるワケ? 寂しいんだが?(BRNT)」

 

 野獣は特に怒り出したりするでも無く、自然体のままで口許を緩めている。

 

「お前は二回も身を挺して艦娘達を守った。それが事実ダルォ!?

 もっと胸張ってホラ。ウジウジして自分だけ消えようとか、そんなんじゃ甘いよ(棒)」

 

 彼は、黙って野獣の言葉を聞いてから俯いて、無言のまま左手を握り締めた。

唇を噛み締める彼の心には、どんな想いが去来しているのだろう。「ねぇ……。司令官」。

不意に、雷が彼のベッドの傍に歩み寄った。多分、彼も動揺していたに違い無い。

いつも通りの、だが、明らかに不自然な微笑みを慌てて浮かべて、雷の方を向いた。

真剣な貌をした雷は、彼の表情には言及しなかった。

 

「司令官って、いっつもそうよね。大変な事が在っても、笑って誤魔化して。

 ニコニコ笑って『大丈夫ですよ』って言う癖に、今なんて全然大丈夫なこと無いじゃない。

 司令官を支えたいって皆思ってるのに、私達の力の及ばないところで無茶ばっかりして。

挙句、最後にはみんなの記憶からも消えちゃおうなんて、馬鹿みたい。許さないんだから。

私にとって、司令官との想い出は全部、宝物なんだからね! だか、らっ……!」

 

 続けて、雷が何かを言おうと口を開けた瞬間。

その大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れた。

驚いた様子の彼が何かを言う前に、雷が彼の胸の中に飛び込んだ。

雷の顔は、すぐに涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった。

 

 持って行かないで。私の大切な宝物を、持って行かないで。此処に居て。多分、雷はそんな事を言おうとしたのだろう。

だが、嗚咽に混ざってしまった雷の声は、もうその言葉の体を成して居らず、泣き声の一部と化している。

それでも。彼の過去を知って尚、変わらない信頼と敬愛を向けてくれる雷の声は、間違い無く、彼の心に届いていた。

彼の微笑みが、大きく崩れた。彼は狼狽していた。その深い愛情に打ちのめされ、驚愕していた。

 

 そんな彼に追い討ちを掛けるべく、野獣は既に手を打っていたのだろう。

病室の扉が乱暴に開かれた。ブチ破るような勢いだった。「軽巡だ!!(天龍型一番艦)」

部屋に飛び込んで来た天龍だった。肩で息をしている。

天龍は鬼の形相で彼に詰め寄ろうとして、勢い余って途中ですっ転んだ。

「不知火です!(奇襲)」「ぅぐぇえっ!?」

その天龍の背中を踏んづけながら、不知火が彼の傍に駆け寄った。

突然の二人の登場に、流石の彼も眼を真ん丸にして驚いている。

そりゃあ、面会禁止の筈なのに、こんな全力疾走で病室に走りこんで来る奴が居るなんて、普通は思わない。

不知火はその戦艦クラスの眼光で彼を見詰めたあと、すぐに唇を震わせて涙を零した。

何かを言おうとした様だが、結局何も言わず、彼の左肩に額を寄せる。

 

「くそ……! おい不知火テメェ!」

 天龍が起き上がろうとした時だった。扉の方から、ポポポポポポポ……、という音がした。

「えぇ……(困惑)」愛宕は思わず二歩引いた。病室の様子を見守っていた龍田は、あらあら、と小さく笑った。

 

「TARGET……(金剛)」

 

「CAPTURED……(比叡)」

 

「ぼ、BODY SENSOR……(榛名@ちょっと恥ずかしげ)」

 

「EMURATED……(霧島)」

 

 次に病室に入って来たのは、ゴツイ黒ゴーグルを装着した、金剛四姉妹だった。

基本的に何でもノリノリな金剛達も、ここまでぶっ飛んで来ると、流石にちょっと反省すべきだと思う。

というか、四人共服を着ていない。紐ビキニの上から、金色に輝く塗鋼術が施されている。

間違い無く野獣の仕業だ。流石のインパクトに、立ち上がろうとしていた天龍が尻餅を付く。

不知火と雷の眼からは涙が引っ込んでしまっているし、彼の表情だって凍り付いている。

 

E M U R A T E D。

E M U R A T E D。

やたらキツイというか、しつこいエコーが掛かった声を揃え、金剛達は横隊で彼に迫った。

異様な迫力だ。「あぁ^~、良いっすね^~(御満悦)」。ただ野獣だけが満足そうに頷いている。

咄嗟に噛み付いたのは、金剛達の圧力に圧し負け、道を譲るみたいに部屋の隅に寄った天龍だった。

 

「おい野獣! 金剛達と何かやらかすにしたって、時間と場所を弁えろよ! 

 俺が話の輪に入るタイミングを完璧に潰されたじゃねーか!!」

 

「そんな泣かなくっても、あいつと話なんてまた一杯出来るから、ヘーキヘーキ(優しさ)」

 

「ばっ、馬鹿野郎お前! 俺は泣いてねぇぞお前!!」

 

 怒鳴る天龍の声には、しかし、明らかに涙声だったし、安堵と感謝が滲んでいる。

金剛四姉妹が彼に迫る最中。次に部屋に転がり込んで来たのは、曙と満潮、霞と潮だった。

曙と霞は泣き怒るみたいな貌だし、満潮と潮は普通に泣いている。

 

「ちょっとぉーーー! このクソチビ提督!!

 私達のネックレスに何仕込んで……うわぁあぁあああああ!!?」

 曙がひっくり返った。

 

「ちょっ!? 何て格好してるのよ! こ、怖過ぎるッピ(錯乱)!」

 口調をバグらせた霞が、たたらを踏んだ。

 

 四人がベッドに横たわる彼に詰め寄ろうとしたのと同時に、サイクロップス四姉妹が一斉に振り返ったからだ。こういう異質系ホラーにも弱いのか。

「ファッ!? ウーン……(気絶)」。満潮が気を失う。「ひっ!?」と悲鳴を漏らした潮が、満潮を抱き止める。

サイクロップス四姉妹は、くるっと踵を返して、四人に向き直る。そしてすぐさま、

 

EMURATED。

E M U R A T E D。

E M U R A T E D。

と、輪唱しながら、曙達に向って揃って猛ダッシュした。

まるで陸上選手の様な美しいフォームだ。

 

 「ぴゃあああああああああああああ!!?」

 満潮以外の三人は悲鳴を上げて、病室の外へと走り出た。

追い掛け回す気か。サイクロップス四姉妹も病室の外へと駆け出していく。

あのツンツン娘である曙や霞が、せっかく彼との絆を深めると言うか、

去ってしまおうとした彼に、各々が素直な気持ちを伝えに来たのだろうに、追い払うとは。

まぁ、金剛達の行動も、野獣の考えと言うか、指示あってのものなのだろうが、愛宕は、曙達が少しだけ可哀想になって来た。

 

 「うあああああああああああああああああああ!!?」

 廊下の方で、曙達以外の悲鳴が響いた。声からして、長月や皐月を含む、他の駆逐艦娘達だろう。

他にも、この施設の研究員達の悲鳴まで混じっている。どうやらサイクロップスに遭遇したらしい。

 

 それからは、とにかくもう無茶苦茶だった。

 暁や響、電が病室に現れて、やっぱりベッドに身を起こす彼に縋りついて号泣し始めて、続いて入って来た翔鶴や瑞鶴まで、場の空気に飲まれて泣き出した。

其処に更に陽炎や黒潮達が現れ、不知火と一緒になってボロボロと涙を流し、続いてやって来た大鳳は、彼の姿を見た安堵の所為で、すぐに空気に呑まれて号泣し始めた。

駆け込んで来た摩耶は、彼の胸倉を掴んで怒鳴り散らそうとして天龍に止められて、「あんだよぉ! 止めんなよぉ! だってよぉ!」と喚きながら、やっぱり泣き出した。

他にも艦娘達が何人も病室に押し寄せて、追いかけられていた曙達とサイクロップス四姉妹が帰ってきて混ぜっ返し、もう彼はもみくちゃにされていた。

此処に姿を見せない大和や武蔵、長門や陸奥は鎮守府に残ってくれているのだろう。

流石に、鎮守府を空にする訳には行かない。他にも、鳳翔や赤城、加賀の姿が見えない。

留守を守ってくれているのだ。感謝せねばならない。

 

 何で相談してくれなかったんですか。何で居なくなっちゃうんですか。此処にいて下さい。

馬鹿。馬鹿。馬鹿。私の達の為に。ごめんなさい。何にも知らなくてごめんさない。

今度は、私達が守りますから。どうか。私達を置いていかないでください。

嗚咽に紛れた涙声は、確実に彼に届いている。彼の頬が引き攣っていた。

この場を見守っていた愛宕も、この熱気と言うか、感情の渦に当てられる。

涙が溢れてくる。龍田も同じ様子だった。

 

 野獣は、泣き出した周りの艦娘達に狼狽している彼に、ゆっくりと歩み寄った。

 

「どうだよ? (皆、これからもお前と一緒に)居てぇって言ってんじゃねーかよ。

 お前の過去とか、人質にしちまった負い目とか、人間じゃなくなったとか、そんなのはもう良いから(良心)

 だからオラオラ、俺達の“真ん中”に来いよオラ(クソデカ愛情)」

 

 言いながら野獣は、いつもの様に、彼の頭をぐりぐりと乱暴に撫でる。

 

「いっつも艦娘とか深海棲艦の事ばっかり考えてんな。お前な。

 確かに共存の道は欲しいけど、その未来にちゃんと自分の幸せも加え入れろ~?(イケボ)?

 俺達の前から居なくなるなんて、もう許さねぇからなぁ?」

 

 野獣を見上げる彼の頬が引き攣った。その瞳が潤み始めている。

 野獣が仕組んだのであろう、この馬鹿騒ぎの持つ深い意味を、彼なりに感じ取ったに違いない。

 

「お前が飲み込んで来た、艦娘共の悲しみとか復讐心は、また何れ必要になる時が来るかもしれないダルォ?

お前はお前なんだから。その時の為に、今は胸の内にしまっとくんだよ! エンジン全開! 分かったか!?(超笑顔)」

 

野獣の言葉に、この場に居る全員が頷いた。

 

「僕だって……、

 本当は皆さんと、一緒に居たい! 離れたく無いに決まってるじゃないですか!」

 

 

どうやら、彼にも限界が来た様だ。

彼が、こんな風に声を荒げるのは初めてだった。

 

「こうするのが一番良いと……。せっかく、決心したのに。

やっと、気持ちが整理出来たのに! そんな風に、言われた、ら、ぼ、く……は!」

 

彼は、今まで堪えていた何かを吐き出すみたいに、滂沱と涙を零した。

続く言葉は、もはや形を成さなかった。先程の雷と同じく、泣き声に埋もれてしまった。

 

僕は寂しくなんて無いぞ。孤独だって、怖くなんか無いぞ。

恐れを知らない。恐れを見せない。一人でも平気だ。誰も沈めたりしない。見捨てない。

もしも。万が一。誰かが沈んだって、その悲しみを見せたりなんかしない。

誰も不安にさせない。僕が、皆を守るんだ。僕が出来る戦いで。家族を。故郷を。

弱くても良い。動じてはいけない。笑うんだ。笑え。笑え。微笑みを、自分の貌に縫い付けるんだ。

きつく縛って、押さえつけて、剥がれない様にしないと。僕は、提督なんだ。

そんな風に自分の情動を押さえ続けて来たせいで、泣き方を忘れてしまったのかもしれない。

そう思ってしまう程、彼の泣き方は無様で、余裕の無い、幼子の様な泣き方だった。

あー……。あー……。と、彼が声を上げるたび、彼が纏っていた何かが剥がれ落ちていく。

 

 一人の人間の意志や正義が、組織の巨大な力に押し潰される事もあるだろう。

彼の正義や信念、狂気や理知が、それを上回りつつあった。それは、本営の焦り方からして間違い無い。

だが、たった今。艦娘達が繋いだ絆が、更にそれを凌駕したのだ。

 

「お前の配属先は、ウチの鎮守府以外には無いって、はっきり分かんだね。

 じゃけん、ちょっと本営にちょっかい出しに行きましょうね~(天下無双)」

 

 もう一度、彼の頭をぐりぐりと乱暴に撫で回した野獣は、優しい空気で満たされつつ在る病室を出るため、扉に向った。

その背中に向って、愛宕と龍田が敬礼する。いや、二人だけでは無い。他の艦娘も涙を拭って、それに倣い出した。

有り難う御座います! 誰かが言った。野獣は肩越しに振り返って、敬礼する艦娘達にひらひらと手を振って見せる。

 

「礼を言うのは、俺の方だって、それ一番言われてるから(仲間想い先輩)

 お前らの御蔭で、凝り固まったソイツの心が、やっと救われたんやなって……」

 

 野獣は、未だ泣き続ける彼を肩越しで一瞥してから、次に艦娘達を順番に見た。

 そして軽く笑った。ありがとナス。短く言って、野獣は病室をあとにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 施設の出口に向う広い廊下を、時雨は野獣と並んで歩いていた。

 

 病室とは少し離れた場所で、時雨は野獣を待っていたのだ。

彼の病室から帰って来た野獣は喋らない。表情は穏やかで、嬉しそうだった。

だから、時雨も何だか嬉しかった。冷たい廊下を歩く音が、静寂の中響いている。

時雨にとって、野獣と居る時の無言は、苦痛では無い。今だってそうだ。

気まずいなんて事は無い。時雨が秘書艦の時の野獣は、結構寡黙だったりする。

長い期間、初期艦として野獣の傍に居た時雨は、他の艦娘よりも、野獣を知っている。

少し話がしたくなって、野獣のTシャツの裾をちょっとだけ引っ張ってみた。

 

「ねぇ、野獣。これからどうするつもりなんだい?

 本営にちょっかいを出すと言っていたけれど、既に彼への辞令は出ているんだよね」

 

「そんなモン幾らでも変更出来るって、安心しろよー(ガバガバ人事)

 アイツに人体実験を迫った糞共も割り出したし、ま、多少は(圧力的脅迫も)ね?」

 

「彼を検体として扱うのは、本営の総意では無かったのかい?」

 

「そうだよ(肯定)。そういう過激な奴らも今は少数派で、

これからも重要な戦力として、アイツを鎮守府に据え置く方針が多数派だったんだよなぁ……」

 

「まぁ、そうだよね(HYUG並感)」

 

「ついでに言うと、アイツを深海への特使みたいにして、

 一気に不可侵状態にまで持ち込もうって言う、超少数派も居るんだよなぁ(鬼謀)」

 

「人類が大きく優位に立って居るのは事実だけど、それはなんと言うか、現実味の無い話だね」

 

 時雨は軽く笑う。きっと、野獣の冗談だろうと思った。

だが、野獣は時雨の笑みを見ても、やはり何も言わなかった。

少しだけ眼を窄めて、また前を向いた。寒気がした。

 

「まさか、野獣は……、その考えに賛成なのかい?」 声が震えた。

 

「んな訳無ぇだルルォ!? 冗談はよしてくれ(割とマジ)」

 

「いや、その、ご、ゴメン。

 急に野獣が雰囲気を変えるものだから、てっきり……」

 

「でも状況によっては、俺もその案の賛同者に成り得るゾ。

 アイツ自身が特使を志望するか、人類に戦う力が無くなった時とかは、仕方無いね(レ)」

 

 時雨は、上手く言葉を返せず、代わりに沈黙を返した。

つまりは、彼を提督の立場に戻す成算は既にあるが、その後はどうなるかは分からない。そういう事か。

確かに時雨も、大きな作戦がある度、磐石である筈の人類の優勢が、累卵の上に在る様な危うさを感じることも在った。

海は敵意こそ持っていても、敗北も勝利も欲しない。ただ、永遠に戦い続ける。その自然の力に対抗する術が、“艦娘”のみ故か。

 

「おっと、この話はここで終わりッ! 閉廷!

 今日の夜には、鎮守府に俺のツレも二人来るから、晩飯済ませとかなきゃ(使命感)」

 

「友達が来るのに、一緒にたべないのかい?」

 

「ま、二人共お偉いさんだからね。

どうせ来る途中に、美味いモン喰ってくるだろうし、しょうがないね(渋い貌)。

一緒にビール飲むくらいだなぁ(分析)……ちゃんと冷やして来たか~?(いつもの)」

 

「一応ね。冷やしては来たよ」

 

「やったぜ」

 

 深刻な空気にすることを避ける為だろう。野獣は明るい声で言いながら、時雨の肩を叩いた。

歩く速度を少し上げた野獣の背中を見詰めながら、そのあとに時雨も続く。広い廊下には、野獣と時雨だけだ。

確か、今日は寄り道をしないと言っていたが、実はもうした後だったりする。野獣は時雨を連れず、深海棲艦が捕らえられた地下房へ足を運んでいた。

其処で、野獣と戦艦棲姫を始めとした彼女達との間に、どんな遣り取りが在ったのかは分からない。

 

 だが恐らく、彼に関することだろう。それくらいは容易に想像出来る。

深海への特使。その目的は、繰り返される争いと潮汐の神へのコンタクトか。

深海棲艦を生み出し、其処に感情すら与えた、“海”という優れた技術者へのコンタクトか。

不可侵の約定を結ぶ相手と言うか、その主体が何なのか。時雨には判断する事が出来ない。

そもそも、そんな約定を守る相手なのかどうかさえ怪しい。

“海”と“人”の間に介在する深海棲艦は、不倶戴天の敵だ。

困難は多い。ただ、それを乗り越えるヒントとして。

自らの意思で人では無くなった彼の存在が、大きな意味を持ちつつ在る。

彼は今。人の味方であり、深海棲艦の味方でもある。

野獣は、人の味方でも無いし、深海棲艦の味方でも無い。彼の味方だ。

少なくとも、野獣の背中を見詰める時雨には、そう見えた。

 

「あ、そうだ(唐突) SGR、腹減らないっすか?」

不意に、野獣が振り返った。

 

「そうだね(便乗)。もういい時間だし、お腹が空いたよ」

 

「ですよねぇ? この辺にィ、上手いラーメン屋の屋台、来てるらしいっすよ。

 奢ってやるから、一緒に喰いに行きましょうね~(太っ腹先輩)」

 

「うん……。ありがとう、野獣」

 

 傍に居て、思う。野獣は、何処にでも居る様な普通の人だ。

気配りや思い遣りが在って、優しくて、強くなろうとしている、普通の男の人だ。

 

俺はこんなに無茶苦茶な奴だ。

誰も、俺のことなんて理解出来ない。

変な格好をして、常識外れで、思いも寄らないことをしでかして。

そうやって周りを振り回して、大物然として、変な奴を演じてる。

誰も俺を縛れない。誰も俺を理解出来ない。俺は特別で、特殊で、最悪な奴だろう?

そんな風に、野獣は今まで振舞っていた。でも、そんな化けの皮が剥がれようとしている。

少年提督が幾重にも被っていた仮面を引き剥がしながら、

野獣もまた、心の奥底に隠した真摯な優しさを隠せなくなって来ている。

いや、人間なんて皆そうだ。その心の本質を、自分自身で完全に謀ることなんて出来無い。

上手いか、下手かの違いだけだ。初期艦として野獣の傍に居た時雨には、他の艦娘よりも、その本質が見え易い場所に居た。

幸運だったと思う。願わくば、これからも傍に居たい。彼を支えようとする野獣を、支えたい。

 

 野獣が何故、そんな振る舞いをするのか。

それは分からない。いつか、野獣が教えてくれるだろうか。

ああ。それにしても。色々と安心すると、お腹が空いた。

野獣と一緒に、早くラーメンを食べたいと思った。

 








 

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