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夏場の太陽が暮れ泥む頃。シャーレの扉を開くと先生が泣いていた。
些か以上に強いエアコンの風の下、短く切り揃えた黒髪を靡かせる先生は、デスクに突っ伏して、声をあげて、時たま息苦しそうにえずいて泣いていた。
私は、先生はもっと大人な——両目から一筋ずつ涙がゆっくりと溢れて、それをハンカチで拭うみたいな、そんな泣き方をするものだと思っていた。けど、違った。
涙が止まらないみたいで、スーツの袖を目に当てがってごしごしと拭いていた。きっと、目だけじゃ無くてその周りも真っ赤になっていると思う。鼻が詰まって上手く息が出来ないみたいで、時折鼻をすすっては苦しげに咳をして、それからまた声をあげて泣いていた。
子供みたいな泣き方だったけど、格好悪いとは思わなかった。
先生がいつから『先生』なのかを私は知らない。けど、先生の在り方を形作ったのはきっと彼の人生そのもので、相当に長い時間、誰かを教え導く理想の存在であろうと努めて来たんだと思う。誰かの思いとか願いとか重たいものを引き受ける一方で、自分のネガティヴは心象の暗幕の内に放り込んでしまって。そんな事を泣く時の息の仕方すら忘れるくらい続けて来た彼に、憐憫を覚えた。
思い違いで無ければ、今先生がこんな事になっている原因を私は知っている。ごくごく個人的な事で、それでいて先生の心に決定的な傷をつけるのには十分すぎる一幕。つい先程、似合いもしない格式ばった文面を伴って送られて来た暫しの当番制休止のメールを思い出す。詰まる所、誰にも会いたくないと。普段一も二も無く生徒を選ぶ彼が。
けど、そんな彼だからこそ、『先生』の仮面を外して、今こうして感情剥き出しで泣き喚く姿が好ましく思えた。
大人の人が泣いている時にどうすればいいかなんて私は知らない。けど、今の先生の姿が私にとって第三者のままで居るには余りに辛抱堪らないものであるのは確かで、気付けば扉を音を立てず閉める事も忘れてオフィスの中に踏み出していた。
床をずんずんと踏みしめながら”せんせい”と声を掛けるけど、嗚咽するばかりで先生の反応は無い。近づいてみると、先生が小刻みに身体を震わしているのに気付いた。その背中は普段より一回り、二回りも小さくて、見た事も無い彼の幼い姿が重なった。
先生の真っ赤になったお耳に顔を近づけてぽしょぽしょと”せんせい”と呟いた。先生は意外と初心だから、いつもなら照れたりする筈なんだけど、泣き続けてこれ以上無いくらいに熱を持った身体では反応が分からなかった。
確認の意味を込めて、矮躯の背中にとんとんと触れながら再び”せんせい”と一言。でもやっぱり梨のつぶて。言わずと知れた”仏の顔も三度まで”って言葉があるけど、元の形は”仏の顔も三度撫ずれば腹立つ”らしい。原型では三度目で怒ってて、詰まる所私が何を言いたいかって”もういいですよね?”ってこと。別に怒ってる訳じゃ無いけど。
背中側から手を回して、両手で先生の肩を持ち上げる。抵抗は全然無くて、袖を目に当てたまま、嗚咽の中に『ふぇ?』って惚けるような声。かわいい。
先生がデスクにへばりつく前に、膝の上に乗ってしまう。勿論、先生を正面から見る方向で。重力のまま、お尻の形が変わる位に押し付けられた先生の脚は硬くて、大人の男性って感じがした。文字通り赤ちゃんみたいに真っ赤な頬との対比がおかしい。
息がかかってしまう位の距離でひんひんと体を震わせる先生を黙って見つめていると、泣き顔が恥ずかしいのか、徐に俯いて手の平で顔全体を覆うようにしてしまった。くぐもった泣き声が漏れ出る。かわいい。かわいいけど、良くない。今、先生はちゃんと泣かなきゃいけないから、自分から先生のパーソナルスペースに入っておいてなんだけど、私の視線を気にして欲しくなかった。
「顔、あげてください」
飛び出した声色の甘さに自分で驚く。けど、先生はそんな事気にしてないのか顔を覆ったまま首をフリフリと振った。
「そうですか」
あぁもう、本当にこの人は——
先生の体を背もたれに押し付ける。身をぶんぶんと捩って抵抗してたみたいだけど、如何せん先生は非力で、元の身体の造りが違う私をどうこう出来る膂力は無かった。顎が上がったのを確認して、絡みつけるように先生の両の手首をそれぞれ掴む。人体の中でも細い部位の筈なのに、私の小さな手では精一杯伸ばしても指先同士触れることさえ出来ない。けど今は、その逞しさすら愛しくて、傷つけないようにゆっくりと腕を顔から引き剥がした。
露わになった先生は——あぁ…ふるふると痙攣する唇をきつく結んで、可哀想な位充血したまん丸な瞳から浜の真砂のように止めどなく雫を溢していた。
脳内でバチバチと何かがスパークしたみたいな感覚を覚える。普段はだらしない位にふにゃっとした柔和な表情を浮かべていて、時折子供みたいないたずらっぽい笑顔を見せてくれて、でも私たちの為なら鋭利なくらい真剣な先生。
そんな先生が泣いて、泣いて、ぼろぼろに崩れた顔は心臓が震えるくらい甘美で、綺麗で、やっぱりかわいかった。
先生の腰に手を回して、勢い良く抱き寄せる。見た目には矮躯でもやっぱり、抱いてみると硬くてごつごつした感触。けれど、全身に伝導していく温度はじんわりと包み込む陽だまりみたいだった。片手を先生の頭に乗せて、黒髪がさらさらと流れるままに頭皮を撫でる。
「先生」
今日の昼過ぎ、先生はシャーレ顧問として記者発表に臨む予定だった。シャーレ発足から現在に至る迄の活動内容の公表、そしてこれからのシャーレの指針を示すのが目的の、言ってしまえば一組織の、単なる広報活動の一貫だったんだけど、先生自身のプレゼンスの高さのお陰で注目度は高かった。キヴォトス全土で生中継が放送されていたし、私もミレニアムの食堂で大勢の生徒に紛れてスクリーンを眺めていた。
放送開始からおよそ2分。先生が脇から登場した瞬間に、皆——キヴォトス全土がざわついた。
先生のチャックが、開いていた。純白のスラックスの股間部分が紡錘形にぱっくり開いていた。
けど、これだけならそんなに問題でも無かった。勿論だらしなくて恥ずかしい事ではあるけど、元々親しみやすい人だから、下着の柄で一つジョークを飛ばすくらいはしてくれたはずだった。そのはずだったのに
先生は、スラックスの中にパンツを履いていなかった。
気付いた者から息すら忘れて半開きの口を晒し、訪れた暫しの沈黙。それが過ぎ去った後はもう酷かった。あちこちで上がる大歓声、全身真っ黒のスーツ男、木の人形、顔の無い男が何処からとも無く会場に現れて大きな拍手をしたかと思えば唐突に消えて、先生は立ったまま気絶して———
「その——」
「聞いて下さい」
「私は、先生をバカにしたりしません」
「あの時、先生が空から帰還した時の事です。先生は全裸で、満面の笑みを浮かべて、息子さんが前後左右縦横無尽活気横溢に暴れ回るのを気にも止めずに爆走して来ましたね」
「全裸が気にならなかったとは言いません。けど、あの時の私はそれ以上に、先生が生きているのがただただ嬉しかったんです」
「今日の事も——そうですね」
「先生の息子さんがお元気そうで、私は安心したと言いますか——」
先生は、今度こそ大声で泣き始めた。
完