「フッフッ! シュッシュッ!」
未だ日も昇りきっていない早朝、一人のボクサーがトレーニングに励んでいた。
彼の名前は
川原沿いの道を時折シャドーボクシングを挟みながら駆け抜け、朝焼けが広がる時間帯には汗だくになりながらジムへと続く商店街の道を駆け抜ける。
「フッフッ! シッシッ!」
減量は今の所成功、後はベストな体重をキープする為に食事メニューとトレーニング計画を忠実に守るのが彼に課せられた課題だった。
無心になって走り続ける彈、デビュー戦の相手は小学生時代からの友であり、一足先にプロになった
彼の所属する
「ハッハッハ! ヒッヒッヒ! フッフッフ!」
小学生の時から所属するジムの看板を背負う意気込みで走る中、その足が急に止まって、そして直ぐに走り出す。
彈が一瞬だけ足を止めたのはパン屋の前、焼きたてのパンの香りが鼻腔を擽って誘惑をして来る。
このパン屋の名前は
彈も此所のパンを食べて育ち、中でもこし餡がギュウギュウに詰まったあんパンが大好物。
散りばめられたゴマも香ばしいパン生地も最高だが、自家製のこし餡の上品な甘さと滑らかな舌触りは既に他の店の物とは別物、蛇無おじさんのパン屋のあんパンというジャンルとさえ考えている。
「……我慢だ、我慢。トレーニング開始前に沢山食べただろうが」
だが、しかし、今の彼は厳しいトレーニングと食事制限の真っ最中。
決められた食事以外なんて言語道断、それを破るのは万会長や食事メニューを考案して用意してくれているジムの皆への裏切りであり、同じくベストコンディションを整えているであろう友への侮辱だ。
消化の良い物を食べてからトレーニングに励んだせいか空腹を覚え、引き返して買いに行きたいという考えが頭を過る彈だが、鋼の精神でそれを追い出した。
故に誘惑を断ち切ってジムが見える場所まで走り抜ける彈、その背中に声が掛けられた。
『そこの君、お腹が減っているのかい? ならボクの顔をお食べ』
一瞬意味が分からず、変な奴に遭遇したと思った彈は振り返らずに走り抜ける。
今は大切な試合前、変質者に絡まれて警察沙汰は勘弁だ。
「ヘヘヘ! お前も随分と目立つようになったって事だろ。そんな変な奴なら見てみたかったぜ」
「いや、関わりたくないっすよ、会長」
ゲラゲラ笑う万とゲンナリした表情の彈、普通に考えれば後者の方が一般的に正しいのだろうが、変質者について話すのは此所まで。
デビュー戦の期日が迫る中、彈には他事に向ける余裕は存在しない。
この後も厳しいスパーリングや徹底的に管理された食事が待っているのだから話を終えると同時に彈の頭からは抜け落ちる。
この日、最後に行ったのはサンドバッグへの打ち込み。
浮かんでは消える憎くはないが勝ちたい相手である潜林の顔に目掛けて拳を振るい、叩く叩く叩く。
その表情は野性的であり、試合について考えれば血が騒いだ。
「……良いなあ。餃子にラーメン、唐揚げに炒飯。食べたいんだよなあ」
この日、夜の練習を終えて自宅に帰ろうとした彈の視界に入ったのはこってり系スープで有名なラーメンチェーン。
例の店のあんパンと同様に中華料理が大好きな彈にとって抗うのは難しい誘惑だ。
ちょっとだけ、と甘やかしそうになる心を歯を食い縛って抑え込んで足早に店の前を通り過ぎるも軽い空腹を覚えてしまう。
家の前には明るく夜道を照らすコンビニ、普段買っている雑誌のついでにホットスナックか中華まんの一つでも、更なる誘惑が彈を襲い、彼は慌てて自分の部屋に飛び込もうとしたのだが、鍵を回すと同時に腹が鳴った。
グゥゥゥゥッ! と大音量、誰かに聞かれれば羞恥心で顔から火が出そうだが、幸いな事に夜中だから人の耳は無い。
そう、夜中だ、何か食べれば体にあまりよろしくない時間帯だ。だが、彈は空腹だった。
「よし。寝よう。寝たら朝御飯の時間がやって来る」
それでも空腹の誘惑に負けたりはしない。幼い頃からの夢である世界王者になる為に彼は鋼の意志で誘惑を振り払おうと……。
『大丈夫かい? お腹が減ってるなら無理は駄目だよ』
振り払おうとして、昼間と同じ声に固まる。
まさか家にまで着いて来たのかと警戒しながら振り向くも誰も居ない。
空腹から来る幻聴だったのかと納得してドアを開けた時、また聞こえた。
『此処だよ。ごめんね、驚いたかい?』
声は後ろの少し上の方から聞こえていたと気が付き見上げたその先、満月をバックにそれがいた。
マントをはためかせ空を飛び、黄色のグローブに真っ赤な服、そしてつぶらな瞳と巨大な鼻がある丸っこく巨大に顔。
『こんばんは。ボク、アンパンマン!』
「アンパン…マン……?」
何かは分からないが取り敢えず人間ではないと判断する彈、だって頭がパンだし、更に付け加えるなら頭の一部をむしり取って差し出してるし。
『お腹が減っているならボクの顔をお食べ。甘くて美味しいよ』
「いや、試合前なので遠慮します」
静かに閉まる扉、掛けられる鍵、困り顔のアンパンマン。
「何だあれ? 本当に何なんだあれ?」
あんなのを幻覚で見てるなら自分の頭は末期なのかも知れない、と彈は本気の本気で心配するが、それはそうとして一つ気になる事が。
「美味そうな匂いだったよな……」
何時焼かれて何処からどんなルートで来たかは知らないがアンパンマンは美味しそうな匂いがしたのだ。
それこそ空腹を更に増幅させる極上のパンの香りだろう。
「畜生! 負けるものかよ!」
この日から彈とアンパンマンの戦いの日々が始まった。
『お腹空いてるんでしょ? 食べなくちゃ体に悪いよ?』
『ほら、凄く美味しいよ。食べてごらん』
『たんこぶならどうだい? 甘くないよ』
悪意は感じない、寧ろ善意しか感じない、どちらにしろ迷惑だったので彈がどれだけ拒否しても現れる。
「本当にしつけぇな、お前も。大体、何のためにこんな事をしてるんだよ?」
もう三日後には試合となる日の夕方、彈は夕日で赤く染まった草むらに座り込んで隣のアンパンマンに問い掛ける。
彼に頭を食べさせようとする一方で木から降りられない子猫を助け、車に牽かれそうな犬を救い、自称宇宙の帝王の兄の悪事を止めた。
まさにヒーローと呼ぶべき存在なのだが、だからこそ自分に構う理由が分からない故の問い掛け。
その答えは普段から浮かべる優しそうな笑顔のまま語られた。
『泣いている人、困っている人、お腹がすいた人、みんなボクの顔を食べると、ニコッと笑顔になるんだ。その笑顔を見るとね、嬉しくて僕も自然に笑顔になる。そしてね、ここがとってもあたたかくなるんだ』
胸の辺りに手を当てて語るアンパンマンは本当に幸せそうで、ちょっとだけ羨ましくなった彈。
それでも今は顔を差し出されても食べはしないが……。
「あっ、そ。なら、次の試合に勝てたら貰うわ。じゃあ、それまでは現れるなよ?」
『うん、分かった!』
この約束の通り、アンパンマンは彈の前に現れず、そして試合当日。
「焦るな、彈! 押されてるが試合は決まってねぇ!」
相手は小学生の時から競いあっていた相手、最後の試合もほぼ互角。
だが、たった一年、されど一年。プロの世界で揉まれた潜林は急成長を見せ、真下から迫るアッパーやボディブローは彈の記憶よりも遥かに威力が高い。
回転を加えた拳はドリルで穴を空けられているかにさえ思えた。
「負けねえ。負けられねえ。アイツは約束を守ったんだ。俺が破ってどうすんだ」
もう押せば膝から崩れ落ちそうな状態でも彈は崩れず、そして愚直な迄に真っ直ぐな一撃が潜林の体の芯を捉えた瞬間、試合に決着がついた。
第三ラウンドにてKO勝ち、彈のデビュー戦は勝利で終わり、そして……。
『はい、どうぞ』
「おう、悪いな」
その日の夜、今から祝勝会に向かおうと準備する彈の前にアンパンマンが現れて頭の一部を差し出せば、彈は迷わず受け取って口に運ぶ。
「つぶ…餡……」
こし餡派の彈は膝から崩れ落ちた
ノリと勢い