村には言い伝えがあった。
『山には「おやまさま」がいる。』
少女は、度々そう聞かされて育った。母親に連れられ、山にお供えものをしに行ったことだってある。けれど、その「おやまさま」が一体誰なのか、少女はなにも知らなかった。
どうして木の実があるのに食べてはいけないのか。どうして、誰も着ないのに綺麗な服を作るのか。
少女には、納得がいかなかった。
「ねえ、ばばさま。おやまさま? ってだあれ?」
「さあ、誰だろうねえ。」
むーっ、と少女は祖母をぽかぽか叩く。「おやまさま」が誰なのか、少女は一度だって答えを貰ったことが無いのだ。
「ホントはばばさまも知らないんでしょ!」
「そんなことあるもんか。会ったことだってあるさ。私も、お前のかかさまもね」
「じゃあおしえてよー。」
「やなこった。知りたかったら、お山でみんなと遊んでおいで。そうしたら、そのうち分かるかもしれないね。」
それを聞いて、少女はまたむくれるのだ。
「……さむい。」
その日、少女はいつものように、村の子どもたちと山で遊んでいた。今彼女がいる木の
少女にとっては知る由もないが、彼女はいつの間にか、落ち葉で覆われた小川を踏み越えていた。
ぽかぽか陽気に身を任せ、うろの中でうっかり船を漕いでしまったのが運の尽き。気付けば日は落ち、明かり一つない森の中で一人きり。
「……ははさま、心配してるかな。ととさまも、ばばさまも。」
「夜の山には、入ってはいけない」。口を酸っぱくして言われることだ。夜の山は、獣たちのものだから。
「こわいよ……。」
うろの中で、少女はぎゅっと身を縮めた。遠くで、何かが吠える声が聞こえた。近くで、何かが歩く音がした。
がさがさ、ごそごそ。何かがうろの前を掘る音と、獣臭い荒い息。少女は目を固く瞑り、必死で息を殺す。
『……なんじゃ、こんなところにおったか。』
そんな中で聞こえたのは、童女のような、或いは青年のような、はたまた老人のような声。恐る恐る目を開けた少女は、思わず息を呑んだ。
狼がいた。栗鼠がいた。猪がいた。熊がいた。虫も、草花も木々も、獣も。ありとあらゆるこの山の住人が、その隣に寄り添っていた。
「……おやま、さま……?」
山で大きな声を出すと、おやまさまが真似をすることがある。聞こえた声は、そのおやまさまの真似する声にそっくりだった。
けれど、その姿は、少女の母親にそっくりだった。けれどよく見ると、髪型も、服装も、何もかも違う。
そして彼女は、少女の母が縫った服を身に纏っていた。
少女の言葉に、彼女は少しだけ寂しそうな顔をする。
『助かったぞ。今度はぬしらの仔たちも見せておくれ。』
彼女は傍らにいた生き物たちにそう声をかける。それを聞いた狼は、わふっ、と満足気に吠え、他の生き物たちを引き連れてまた暗闇の中へと去っていった。
『夜の山は、人のいる場所ではない。……が、今宵くらいは傍にいてやろう。ぬしも、話相手にもなってくれ。』
少女の隣に座り込み、腕を回して少女を抱いた彼女は、そう話しかける。
「もしかして、おやまさま?」
『おやおや、随分と懐かしい呼び名じゃな。そう呼ばれるのも久しぶりじゃ。』
そう言って、彼女――「おやまさま」は、また寂しげに微笑んだ。
「でも、かかさまに似てる。」
『なるほど、そうかそうか――ぬしは、あやつの子か。それとも、孫か?』
「おやまさま」が挙げた名は、彼女の祖母と、母のものだった。
「ばばさまとかかさまを、知っているの?」
『もちろん。』
そう言って、「おやまさま」は、語り出した。少女の祖母の、昔話を。どうやら少女の祖母も、昔こうして、「おやまさま」に助けられたらしかった。
「ばばさまが……。ふふっ、そっか。」
『わしばかり喋るのもつまらん。今度は、ぬしの番じゃ』
「わ、わたし?」
『そう言っているじゃろう。ほれ、はよう、はよう。』
急かされ、少女も話し出す。「おやまさま」のこと、祖母のこと、母のこと、彼女自身のこと。
どれほど経っただろう。気付けば隣に「おやまさま」の姿は無く、空は白み始めていた。
「あれ……。おやまさま……?」
「……おいしいっ。」
プチッと弾ける酸味と甘味。空腹が紛れ、少女の顔に笑みが溢れる。
「ありがとう、おやまさま!」
そう言って、彼女は村の方へと駆け出して行った。
「ばばさまっ、ばばさまっ!」
「なんだい、騒々しいね。……おや、帰って来られたかい。」
「おやまさまに、会ったよ! おやまさまが、助けてくださったの!」
母親と父親と、村中の大人に一通り叱られた少女は、興奮が抑え切れない様子で祖母の家へと飛び込んだ。
「おお、そうかそうか、お前もおやまさまに――」
会ったのかい、と続くはずの言葉が、不意に途切れた。直後、二人の間を、柔らかな風が通り過ぎる。
――中々楽しかった。此度は助けてやったが、「次」は無いぞ。気を付けよ。
「……おやまさま?」
「おや。お前にも聞こえたのかい?」
「ばばさまも?」
ふっ、と祖母の顔がほころぶ。
「中々どうして、楽しいことをしてきたじゃないか。どれ、ばばさまにも聞かせておくれ。」
そう言って、祖母は少女を膝に乗せた。
「ばばさま、それより! さっき、おやまさまが!」
「ああそうさ、おやまさまは、ああしてあたしらを見守ってくださるのさ。そら、今度はばばさまが聞く番だよ。」
「えっとね、かくれんぼで、小川を越えちゃって――。」
春が来て、夏が過ぎ、秋が終わって、冬が明け。幾年かの時が過ぎた。
「かかさま! ほら、まっかなはっぱ!」
「そうね、きれいね。」
そして、今年もまた、秋が来た。
母となった少女は、落ち葉を振ってにまにまとしている息子を連れて、山道を歩く。その腕いっぱいに木の実を抱え、彼女が手ずから縫った服を携えて。
「いい、山には『おやまさま』がいて、私達を見守ってくださるのよ。」
「おやまさま?」
「そう、おやまさま。だからこうして、木の実や服をお供えするの。次の秋まで私達を見守って下さいって。」
「かかさまは、会ったことある?」
「ええ、あるわよ。私も、私のかかさま――あなたのばばさまもね。」
「ぼくも、会える?」
「そうねぇ……。」
その時、二人の頬を、風が撫でた。彼女は、それにふと顔を上げると、頬を緩める。
「おやまさま次第、かしらね。」
「え〜!?」
不満げな少年の声が森にこだまし、木々がくすくすと葉を鳴らした。
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