作中に出てくる「アザラシ幼稚園」は、実在の施設やアザラシ達の名前を描写しておりますが、こちらはあくまで小説ですのでフィクションとしてお考えください。
また、チャット欄の会話や細かな出来事の時系列などは、私の記憶を頼りにしているため、事実とは異なる場合もございますがご了承ください。
改ページありのピクシブバージョンはこちら→https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=23901801
また、こちらの小説は、オペブイ#13にて電子書籍として無料頒布しております。
内容は変わりませんが、電子書籍版にはあとがきが追加されています。
そちらもよろしければご覧くださいませ。
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年末年始、といえば師走という名からして誰にとっても慌ただしい物と相場が決まっているが、今年、つまり二〇二四年から二〇二五年にかけてのそれは、私の人生の中でも類を見ないほどに
まずは、十二月の後半。同居している夫さんこと鯨が、ついに職場でコロナをもらってきてしまったのである。
結婚してから約五年来、コロナから逃げ切っていた我が家ではあったが、いつかはこんな事も起こるだろうとは思っていた。幸いにして咳もそこまで酷くはなく、頭痛や熱・鼻水以外に重い症状もなさそうだった為、大人しくリビング兼寝室で寝ていてもらう事にして、我が家の隔離生活が始まった。
しかし、果たしてどの程度まで隔離や消毒を徹底していれば、感染が防げるのか。未知な事すぎて何もわからない。とりあえず、台所や私の部屋へと続く扉は封鎖したが、洗面所やトイレなどの共用部は患者も使用を余儀なくされるし、その場合はどのくらいの頻度で消毒や手洗いをしていたら安全な事になるのだろう。
我が家では鯨が一切料理を出来ないため、もし私まで倒れてしまった場合は、買い出しすら行けずに地獄を見る可能性が高い。とりあえず熱を出す前にと、疲れでよろよろの体でスーパーへ向かい、うどんやゼリー飲料などの日持ちして発熱時も摂取が楽そうな食材を買い溜めしてきた。ついでに消毒液やアルコールティッシュの追加も。長期間使えそうな大きな野菜や液体物を多く買い物籠に突っ込んだ結果、帰りのエコバッグは鬼のような重さになった。それでも、雪の中で車を出してくれる人間が今は寝ているので、この重さを転ばないように自転車で家まで運ぶしかない。
そして、帰宅して食材を冷蔵庫にしまう前には、手洗いうがいのついでにトイレのドアノブや蓋、洗面所の蛇口のハンドルをアルコールで拭きまくる。アルコールは噴射した後拭き取らなければ意味がないと聞いたので、普段もったいなくて使わないペーパータオルも湯水のように使いまくった。とりあえず鯨が一回トイレを使うごとに障りそうな場所はアルコール消毒していたし、もちろん自分も手をアルコール消毒したので、あまりの頻度で消毒しすぎて手が荒れた気がする。
それが終わったら、昼ご飯を作って鯨の部屋へ差し入れし、自分は調理器具を洗ってあちこち消毒した後で若干冷めたご飯を食べる。下げられた食器を洗い、部屋の換気と加湿器の水の補充を行い、一日おきにトイレの掃除とマットの洗濯もして、夜ご飯を作って入浴した後は、風呂場の掃除と換気・脱衣所の消毒も行って……
ずっと家にいるはずなのに、一日中何かをしていたらその日が終わっていた。普段は使わない神経を使いまくるので、とにかく疲れた。できるだけ患者がいる部屋の空気を吸えないし、家の中では別室にいてもずっとマスクだし、洗濯物に触れたり掃除をする時にも使い捨ての手袋を使う。私があまりにも過剰に気を遣いすぎたのかもしれないが、とりあえず自分がうつらない為にはそのくらいの事はしなくてはと思っていた。持病はないが元来の体の弱さがあるので、もし私が感染した場合どの程度重症化するか、頼れる人間がいない状況で如何に療養できるのか、自分でも見当が付かなかったのである。
「やばいな……動けるには動けるけど、疲れたな……」
隔離生活二日目。なんかもう、そんなに時間は経っていないはずなのに、めちゃくちゃ長い時間が過ぎたような気がする。インターネット上の仲間から励ましをもらい、実家からも救援物資が届く事になったので、それを頼みの綱にしつつ、私は自室の机で呆然と夕飯を口に運んでいた。
体が緊急事態と学習したのか、朝からゴミ出しにも起きられたし、自分でも意外なくらいの量の家事をこなせている。そして何よりも意外だったのは、今のところまだ私が症状らしい症状を見せていないという事だった。ただでさえ体調を崩しやすい私に、異様なまでのストレスと労働量が加わったら、コロナにかかるのも時間の問題だと腹を括っていたのに。
何だかんだ頑張ってるなあ、自分……と思いながら、死んだ目でご飯のお供に見る動画を、YouTubeで探していた。いつも何となく追っていて見ている投稿者やチャンネルは結構あるが、今はYouTuberの動画も、ゲーム実況も何となく見る気になれない。かといって癒やし系のコンテンツを開く気にもなれず、何かこう、脳を疲れさせずに漠然と流していられる物はないだろうか……
と、思っていた私の画面に、英語のタイトルが付いた室内プールのようなサムネイルが流れてきた。ライブ映像のようだ。「Seals live」と書かれている。簡単な英語は読めるので、何となく察しはついた。
(これ、噂に聞くアザラシ幼稚園というやつかしら?)
オランダにある、アザラシの保護施設が配信しているライブ動画だ。何のきっかけか日本でバズって、それまで視聴者が全然いなかったライブカメラに突如サイバー攻撃と勘違いされる程の日本人が殺到し、日本では「アザラシ幼稚園」の異名が流行った。その後もアザラシ幼稚園独特のミームがファンの間で生まれたり、スパチャを通して多額の寄付が集まったりして、一部界隈でかなり盛り上がっているという噂を聞いた事がある。
そういえば、一度か二度覗いてみた事があるが、その時はすぐ飽きてしまって大して眺めもせずに退散したのだった。今なら時間もあるし(というか部屋から出られないし)、ぼーっと見るには丁度いいかも。
私は、自分のタブレットで動画のサムネイルをタップした。こぢんまりとしたタイル貼りの室内では、プールのあるエリアとプールサイドのエリアが柵で仕切られており、柵の内側には二頭、プール側には三頭のアザラシがいる。外が明るく、プールの室内もカラー画面だ。という事は、現地は昼。画面の左上を見ると、現地時刻が表示されている。オランダと日本では時差があるので、当然と言えば当然だが不思議な感じだ。
(これは……? 区切られている子達には、何か意味があるのかな?)
文字書きの性で、チャット欄をついつい目で追ってしまい、ご飯を口に運びながら状況を把握する。今の日本は夜の時間だからか賑わっているようで、流れていく文字を総括すると、どうやら左側の子達はうまく魚を食べられない組で、さっさと魚を食べてしまう子達を柵の内側に隔離して、食べる練習をさせようとしているらしかった。
(なるほど)
が、プール側の三頭は、泳いで遊んでいる子、プールの周りをぽよぽよ周回している子、部屋の入り口の柵から外の景色をじっと監視している子ばかりで、プールに沢山魚は沈んでいるのに一向に食べる気配がない。というか、そのうち約二頭ほどは、そもそもプールに入る気すらないような感じだ。
『アイリーン、お魚おもちゃだと思ってるのかなw』『全然食べないねぇ』
チャット欄に文字が飛び交う。プールの中で派手に泳ぎ回っているすらっとした子が、アイリーンらしい。確かに、さっきから見ていると魚を口に咥える気配はあるものの、咥えながら水の中を泳いで遊んだり、咥えては離したり。挙げ句の果てには、プールサイドに咥えたお魚をぽいっと上げて干している。陸地で食べたいのかと思ったが、水揚げした魚にも全然手を付けないので、そういう訳でもないらしい。何を考えているのだろうか。
『ウィレムは頑張ってプールに入ろう?』『ほら、アイリーンが誘いに来てるよ』『ウィレムだけまだ毛が全然生え替わってなくてバブみが強い』『ちゃんと抜けるのかな、これw』
(産毛が抜けてないってことは……このまっちろな子がウィレムね)
確かに、一頭だけ目立って白い子がいる。チャットの情報を総合すると、どうやらこのエリアにいるのは全員がハイイロアザラシの赤ちゃんで、嵐の日に親からはぐれていた所を保護されたらしい。なので五匹とも幼い子供のはずなのだが、ほぼみんな毛が抜け替わって灰色っぽい体になっているのに対し、ウィレムだけは白い。ふわふわの赤ちゃんみたいだ。
(これなら、私でも見分けが付きやすいな)
そのウィレムは、どうやら保護された時の天候の影響もあるのか、水に苦手意識があるらしく、一頭だけ極端にプールを避けて入ろうとしない。仲間のアザラシが目の前で泳いでいるのに、警戒して絶対に入ろうとしないのだ。チャットの話を見ていると、掃除をしていた飼育員さんに脚で強制的に落とされたり(ハイイロアザラシはかなり凶暴で噛まれると人間が怪我をするので、触る時はあえてゴム長靴を穿いた脚を使って優しくアザラシを移動させているのだそうだ)、仲間のアザラシに引き摺り込まれて慌てて水から上がる場面もあったらしい。それでもやっぱり、プールには入ろうとしないのだという。シークバーを使えば十二時間前までライブカメラを遡って見られるので、巻き戻しながら名場面を発掘し、現地時間でのタイムスタンプをチャット欄に残している人もいた。
「……ふふっ」
マスクをし続けて筋肉が強張り、まともに笑顔を浮かべられていなかった顔に、思わず久方ぶりに笑いが戻った。アザラシといえば泳ぐのが専売特許みたいなものなのに、泳ぐのが嫌いなアザラシなんているのか。そして、ウィレムの他にも、頑なに泳ごうとしないアザラシがもう一頭。
『エリック、今日も自宅警備?』『お外好きねぇ』『何が見えてるんだろ』
一人じっと、外へと続く出入り口の柵の前で寝そべる背中に、どことなく黄昏れた雰囲気を感じる。この子がエリックのようだ。やがて柵から離れてプールサイドをうろうろ動き始めたが、この子もプールに入ったり魚を食べたりする気配はない。
『エリックも、スムークとかクラースに比べたらまだ小さいよね』『プール見学組、巡回に入ります』『動きがしゃちほこみたい』『尾鰭大丈夫かなあ』
どうやらエリックは、尾鰭をあまり動かさない事が見守っている人達に心配されているようだ。まだ小さいので動かし方を自分でもあまり分かっていないのか、それとも何か他の要因があるのかは分からないが、希にプールに入った時も泳ぎ方がぎこちない事が指摘されていた。陸地に上がって移動する時は、尾鰭を上げたままでぴょこぴょこ前進する。その特徴ある動き方が本当にしゃちほこそっくりで可愛らしく、他のどのアザラシとも違っていたので、エリックも見分けが付きやすかった。
(という事は、消去法で柵の内側にいる子がスムークとクラースだね)
体が黒く、一番大きいのがオスのスムーク。クラースは、「嬢」を付けて呼ばれているあたり女の子らしい。二頭ともかなりずんぐりむっくりとしていて、よく二頭一緒にいる事が多いと書かれていた。
(アザラシにも、色々な性格の違いがあるんだなあ)
マニアな日本人の観察眼、さすがと言うべきか。水族館でアザラシを見ても、一匹ずつ見分けをしようとまでは流石に思わなかったが、逐一チャット欄で誰かが話している事もあり、外見や行動の個性が強い子は何となく名前を覚えられてしまった。たった数十分の間見ているだけで色々な事がわかり、私は感心しながらライブ映像とチャット画面をぼんやりと見つめていた。
それから、家族のコロナ隔離期間と看病が続く間。気が向いた時に、何となくアザラシ幼稚園の様子を覗いて観察するのが、私の日課であり癒しになっていた。
夕方頃にライブカメラを覗くと、オランダは丁度夜明けを迎えて、アザラシ達の朝ご飯を与えにスタッフさん達がやって来る。この施設には、アザラシの状態に応じてフェイズ1からフェイズ3までの三段階のプールがあり、ライブカメラも三台分設置されている。病気や怪我をしていたり栄養状態が悪かったりしたアザラシ達が、適切な処置や治療を受けながらフェイズ3まで進級し、健康に問題がないと判断されれば、晴れて海へと運ばれ放流されるらしい。他に、カメラに映っていない別のプールや個室の病棟にも、多くのアザラシが保護されているようだ。
フェイズ1のカメラに映っているハイイロアザラシ達五頭は、全員がまだ赤ちゃん。よって、朝のプールの騒ぎは、他のカメラ以上にどったんばったんな様子が窺える。
まずはスタッフさんが全員を取り外しできる柵の中に囲い、背中に馬乗りになるような形で一頭ずつアザラシを保定し、もう一人のスタッフさんが漏斗付きのチューブをアザラシに咥えさせて、そこから水分やビタミン剤をタイミング良く流し込む。ここにいるアザラシ達はまだ自力で十分なほど餌を食べたり水分補給が出来ないようで、これは割とどのアザラシもやられていたのだが、保定されながらひたすら暴れる子と、その後ろから構って欲しそうに奮闘するスタッフさんへちょっかいをかける子とで、朝から大騒ぎだ。タオルが大好きなアイリーンは、自分の番が回ってくるまでは、床に放り出された余りのタオルをちゅばちゅば吸ったり噛んだりしながら遊んでいる。取り上げられると、ご機嫌を損ねてふて寝していたので、思わず笑ってしまった。
それが終われば順次柵の内側から外へ出し、プール側で食べる子達と、柵の内側で食べさせてもらう子達に分かれて、ご飯タイム。プール側のスムークやクラースは、器用に泳ぎながら投げ入れられたニシンを食べていてすっかり慣れたものだが、ウィレム達はがっちり体を保定された上で無理矢理ニシンを口へと突っ込まれているので、当然大暴れしている。命を繋ぐために必要な処置とはいえ、かなり苦しそうに見えるので、若干心が痛い。見ている人達も賑やかに応援していた。
本当に幼く、まだ魚を食べられない頃の給餌は鮭のお粥から始まるらしいが、自然界に戻った時には自力で餌を捕らなければならないのに、いつまでもお粥という訳にはいかない。なので、自分で魚を食べる気配を見せないウィレム・エリック・アイリーンの三頭には、スタッフさんがかなり奮闘して強制給餌しながら、絶賛魚の味を覚えさせている最中らしい。
野生のハイイロアザラシなので、もちろん給餌する側が手を噛まれる事もあるらしく、見ているだけでかなり体に力が入ってしまいそうな現場だ。口に魚を入れられても、食い千切ってなめろう状態にするだけで全然飲み込んでくれない子もいる。これは、スタッフさん達は栄養補給や体重管理に苦労しそうだ。
午前中にカメラを覗くと、オランダの現地は夜中になっているが、その時も赤ちゃん達はもぞもぞ動いていて、お互いにお互いの体を吸い合いながら数珠つなぎになっている事もある。親から引き離された年齢が小さかった為、本当はまだお乳を吸っていてもおかしくない年頃らしく、保護された赤ちゃん同士で互いの体を吸い合っているらしい。
ウィレムは一番の甘えん坊で、隙あらば他のアザラシ――特に肉付きのいいスムークやクラースの方へと吸いに向かって行くが、たまに嫌がられてぺちぺち叩かれている。みんな、自分はちゅぱりたいが誰かにちゅぱられるのは嫌らしい。二匹がプールで泳ぎ始めると、水に入るのが嫌なウィレムは、プールの周りをうろうろしながら吸い付くチャンスを狙っている。近付きたいなら自分も泳げばいいのに、頑なにぐるぐるプールの縁を這って回るだけなので、マラソンランナーみたいになっていた。そして、スムーク達の体が一部分でもプールサイドに出ようものなら、即座に吸おうとして怒られていた。
そんなアザラシ達だが、一緒に保護された縁もあってか、どことなくお互いに仲間意識が強いように感じる。何だかんだで、体を吸われても結局諦めてなすがままにされている事もあるし、仲間が給餌を嫌がって暴れていると、柵の外まで心配そうに様子を見に来ている事もある。泳げる子達は活発に泳いで掃除用の長いホースで遊んだり、互いに水を掛け合ったりしているし、ウィレムやエリックがプールサイドで水泳拒否をしていると、水面から顔を出して「一緒に泳ごう!」と誘っているような仕草を見せる。
ライブカメラで見るアザラシというのは、想像以上にずっと面白いものだった。チャット欄で色々と解説してくれる人が多いという要素もあり(しかも九割が日本人)、何だかそれを見ているだけで、この隔離期間で味わっていたやるせない孤独感が癒され、自分は一人じゃない、ここを見ている人も、ここのアザラシちゃん達も頑張っているんだ、という気分にさせられる。
家事で一日が終わってしまい、部屋に籠もってやれる事と言えば、新刊の執筆くらい。集中して作業をするにはいい環境だが、かと言って一人の時間をこうも長々と過ごすと、それはそれでどことなく気力が枯れ果ててしまう。そんな心に、束の間の優しさと潤いを与えてくれたのが、遠いオランダの国で運営しているアザラシの保護施設だったのだ。
けれど、動物の成長というものは、人間以上に本当に早い。
隔離期間のたった十日近くで、私は幾つもの印象深いアザラシ達の成長を目にする事になったのだ。
***
異世界を渡ってくる都合でと言うべきか、ボクにはこの世界のコロナはうつらない事はわかっていたけど、あまり忙しい時期にボクがのこのこ顔を出すのも迷惑な気がして、しばらくはサキに会いに行くのを控えていた。隔離でリビングが使えないし、そうなるとボクが居られるのはサキの部屋か台所だけになる。土日は夜羽達もいるのに、更にボクまで押しかけたら、部屋が手狭になってしまいそうだ。
そう思っていたが、少し落ち着いた頃に、サキの方から来ても大丈夫だと連絡をくれた。聞けば、最近は鯨さんも病状が快方に向かい、指定された五日間の隔離期間後はすぐ勤務に出られる状態になったので、ようやく紫咲も日中は気を遣わなくていい時間帯が出来て、少しゆっくりできそうだという事だった。とはいえ、もうすぐ年末の長期休みに入ってしまうので、鯨さんが仕事でいないのも、ほんの二日ほどの間らしいけれど。とにかく、このままの状態が続いては鯨さんの身もサキの身も心配だったから、軽症で済んだみたいで本当によかった。
仕事は立て込んでいる時は数日家を空ける事もあるけれど、大体は夜になると必ずサキの家まで通っていたから、随分と久しぶりに感じるような気がする家の敷居を、ボクは跨いだ。換気がなされて寒い玄関と、いつもと違って扉で封鎖されたリビングを通り過ぎ、ボクはほんのりと灯りが点いたサキの部屋を、暖簾の外側から覗いた。
「サキ? いる?」
「ああ、
「さっき、
目映子さんは、夜羽達の魔界版の保護者みたいな感じ。ボクも名古屋で何回か会った事がある。夜羽達も懐いているし、困った時は遠慮なく幾らでも預かってくれるので、ボクらも大助かりだった。
疲れてはいるものの思ったより明るい顔で、紫咲は笑ってお箸を上げた。
「フライパンで焼き過ぎちゃった、ただのチキンだよ? 胸肉だから、夜翰さんには脂肪が足りないかも」
「何言ってるの。それはサキの方でしょ。タンパク質、ちゃんと足りてる?」
「大丈夫。今日は納豆と味噌汁も付けてるから」
普段は料理が置かれる事のない、紫咲の自室にある作業机の上には、タブレット端末と並べてランチョンマットの上に夕飯一式とお茶が用意されている。こんなに長々と鬱屈した状況が続いて、自分だってカップラーメンだとか簡単なインスタントで済ませてしまいたい気分だろうに、長時間顔を合わせる事すら許されない鯨さんの分まで手作りで用意しているのだから、本当に偉い。簡素でも、紫咲の食卓はいつものままだった。
隣に椅子を用意して座りながら、ボクはタブレットに映っている映像に目を向ける。
「それは?」
「アザラシ幼稚園だよ。今日も、卒園の様子が動画で上がってたんだ」
「……アザラシに幼稚園なんてあるの?」
「幼稚園は俗称で、本当は野生のアザラシの保護施設なの。日本じゃなくて、オランダにあるんだけど。ライブカメラで保護部屋の様子を配信してくれてるんだけど、フェーズ1からフェーズ3まで進級して、無事に太って健康になれたら海へリリースされるから、卒園なんだよね」
「ああ、なるほど」
ごろごろした丸くて長い石みたいなアザラシが、泳いだり寝そべったり、思い思いに過ごしている。タブレットを触ると、画面を拡大する事も出来るらしい。体は結構大きく見えるけど、ここがフェーズ1という事は、この子達はまだまだ太らなきゃいけないという事か。映像の細やかさと施設のサービス精神にボクが驚いていると、紫咲があっと声を上げた。納豆を食べながら目を白黒させている。
「どうしたの?」
「みっ、見て」
何だかライブのチャット欄も俄に活気づいている。何事だろう。傍目にはアザラシが泳いでいるだけのように見えるが、紫咲はそのうちの一頭を、箸を持った手で指さした。
「こ、この白い子……ウィレムって言うんだけど、今まで全然プールに入らなかったの。水が怖かったみたいで。今、ほら、見て。泳いでる!」
紫咲は嬉しそうだ。何気なく泳いでるように見えるけど、確かに他の三頭に比べたら、動きが少しぎこちないだろうか。白い体は、プールの水の中でもよく目立った。
「ほんとだ。ていうか、アザラシにはちゃんと名前が付いてるんだ」
「私も詳しくは知らないんだけど、寄付をするとアザラシの里親になれるらしくって」
「えっ。ま、まさか、本当に大きくなるまでその人が飼ってる……って、訳じゃないよね」
「うん。何ていうか、推しのアザラシに課金する感じかな。だから、海外からでも里親になれるし、里親はいっぱいいるみたい。で、多額の寄付を積むと、名付け親になる権利が貰えるんだと思う」
「なるほど、そういう感じか……いい商売してるね」
しかし、こんなに大量のアザラシを保護して育てるとなると、どれだけお金が掛かるのか見当もつかない。寄付を集めるには、結構いい制度に思えた。払ったお金はちゃんと施設の運営や治療の為に使ってもらえる訳だし、リアルタイムでその使い道が見られるのも安心材料の一つだし。寄付した人達にも、見守っているアザラシへの愛着が湧くだろう。
「えっとね、この泳ぎが上手な子がアイリーンで、大きいのがスムークで、ちょっと灰色っぽいのがクラースかな」
「全部覚えてるの?」
「ウィレム以外は、正直判別怪しいんだけどね……ほとんどチャットの人に教えてもらってるし」
ボクが驚くと、紫咲は照れたように笑った。確かに、ウィレムは体の毛が大部分白いから、素人目にも分かりやすいけど。これ、きっと抜けたら分からなくなるんだろうね。
「ちなみに、私は見た事ないけど、少し前までヨハネスって名前の子もいたみたいよ。無事海に帰ったらしい。特集動画作ってるファンの人がいたみたいだから、今度見てみようか」
「マジか」
サキから他のアザラシの名前を聞いた時に、洋風の名前ならひょっとしてと思ったんだけど、まさか本当にいたなんて。けれど、一度使った名前はもう使われないだろうし、自分の目で同じ名前のアザラシを見送れなかった事が、残念なような良かったような……。って、ボクまでもうすっかりアザラシの魅力に取り込まれてしまっている。そんなに面白いのか、と思って、ボクもサキの視線の先を思わず追った。
「信じられない、今日はすごい長時間泳いでるよ……前は、ちょっと水に浸かってもすぐ出ちゃう感じだったのに」
「それでチャット欄がこんなにお祭り騒ぎなんだ。クラッカーの絵文字がすごいな」
「ウィレム、たまに泳ぐ事もあったらしいんだけどね……次の日になったら、自分が泳げた事を忘れちゃってるみたいでね……」
「そんなアザラシいるんだ……」
まだ子供のアザラシみたいだし、それも仕方ないのかもしれないが、なんかちょっと意外だ。アザラシ以上に、遠い国の人間が一丸となって熱い声援を送りまくっているのも、また滑稽というか、面白いというか。
「ねえ、もう一頭、プールに入ろうとしてない?」
「あっ、ほんとだ。なんか触発されてる。この子も全然泳がないタイプなんだよ」
ボクが気付いてそう言うと、紫咲も画面に顔を近づけた。入ろうかどうか迷うような素振りを見せていた一頭が、にゅるりとプールの端から体を滑り込ませる。プールの中がアザラシだらけだ。
「すごい! すごいよ、エリックも泳いだ! 五頭一緒に泳いでるところ、私初めて見た!」
紫咲がそうはしゃいだ声を上げて、ボクと手を取り合った瞬間。ばしゃりと、一頭が即座にプールから上がる。
「あ……」
「終わるの早かったね、五頭同時の瞬間」
流石に、五頭が同時に泳ぐには狭かったらしい。ぽかんとして声を上げる紫咲と目が合ったボクは、思わず声を上げて笑ったのだった。
また別の日。
「そういえば、エリックはかなり強制給餌で無理矢理食べさせられてたんだけどね。今はセルフイーターになったみたい。自分でプールで泳いで食べれるのよ。ほんの数日の間の事なのに、お魚の味を覚えたアザラシの成長ってほんとに早いねえ」
用意したおやつのせんべいを一緒に食べながら、サキはそんな事を言った。小魚の味がするせんべいらしい。確かにちょっと、魚らしいというか練り物っぽい風味がして独特の風味だが、ボクは嫌いじゃない。目の前で魚をもらっているアザラシ達を目に、自分も魚を食べているような気分になりながら、ボクは言った。
「そんなにすぐ、食べられるようになるんだ?」
「ほんと、それこそ私がコロナの看病を始めた頃くらいには、イヤイヤがすごかったはずなんだけどね。『お魚は美味しい』って事を覚えたアザラシちゃんの変貌ぶりって、本当に見てて目覚ましいというか、別人みたいで面白いよ。口に無理矢理突っ込まれて苦しそうに食べてた子が、水の中でおそるおそる魚を食べるまでに成長して、今ではすっかりおねだりするようになるんだもん」
今まさに、件のエリックがプールの中で魚を強請っている最中だった。もう今回の食事は終わってしまったらしいが、魚用のボウルを抱えたスタッフさんの後を、プールの中からずーっと追い回している。美味しい物をくれる人だと学習したんだろう。録画で他の子達への壮絶な強制給餌も見た事があったので、紫咲の話から豹変ぶりを想像し、あまりの現金さにボクは思わず笑ってしまった。
「一回味わうと、それがちゃんと自分の食べ物だって分かるんだな」
「ね。おかわりしそうなぐらい元気になってると、こっちも安心するよ」
「そういえば、給餌の時間は決まってないの? この間見た時は、もう少し早かった気がするんだけど」
「夜翰さん、相変わらずすごい細かい所までよく観察してるね……。チャットで見た限りだけど、ここはあくまでアザラシが野生に帰れるようにする為の保護と訓練を行う施設だから、定時に餌をあげないようにしてるんだって。その時間になったら必ず貰えると、勘違いして待つようになっちゃうから」
「なるほど、わざと時間をズラしてるのか。確かに、海に出たらいつでも必ず魚にありつけるとは限らないもんな」
思わず唸ってから、ボクは朝の食事の様子を眺めた。ここは、生き物を飼ったり芸をさせたりする水族館とは、また別物なのだ。もしアザラシをずっと同じ施設の中で飼育するなら、もっと優しく食べやすい餌を作って給餌する方法もあるだろうし、もっと人の言う事を聞くようにトレーニングする事もできる。アザラシを甘やかしすぎない程よい距離感といい、野生の事を随分考えられていると思う。ここの人達は、アザラシを守るだけじゃなくて、彼らが人の手を離れて生きていく事を考えなければいけないのだ。
それもまた、アザラシへの愛の形なのだと思うと、何だか柄にもなく感慨深くなってくるような。名前があるくらいだし、職員さんも見ている人も、愛着はあるだろうけど、お別れする時はきっと嬉しくて寂しい気持ちになるんだろうな。
「その卒園の様子って、動画になってるの?」
「うん。毎回撮影出来るわけじゃないみたいだけど、今回のは動画に上がってた。私が見始める前からいた子達だろうから、成長の様子を見守ってきた訳じゃないけど、四匹もぽよぽよした子達が元気に海に入っていって壮観だったよ。見る?」
リリースの様子を、紫咲と一緒に観察する。木箱の蓋が開けられた瞬間、濡れた砂浜から弾むように海に移動していくアザラシ達は、確かに全員がはち切れそうなくらい丸々と太っていて健康そうだ。まっしぐらに海に向かって行く子もいれば、確認するようにスタッフの方を振り返りながら水に入っていく子もいる。今の赤ちゃん達もみんないずれはこんな風になるのかな、と思いながら、ボクは紫咲の隣でコーヒーを啜っていた。その時を、今度はサキと一緒に見守れたら、ちょっと楽しいかもしれない。
コロナがサキの家にもたらした苦労は大変なものだっただろうけど、一緒に見られる小さな楽しみが増えた事が、ボクは嬉しかった。
「そうだ。たまにはアザラシを見習って、サキもゆっくりしてよね」
「あ、アザラシを……? 見習って……?」
ボクの言葉に、サキは目を点にした。これだけアザラシを観察しているくせに、まさか想像がつかないんだろうか。ボクは呆れて言った。
「サキは、隙あらば馬車馬みたいに動き回りすぎなんだよ。ずーっと趣味の事か家の事ばっかり。それもいいけど、あんたは過度に集中すると自分すら顧みなくなる癖があるんだから、たまにはアザラシらしく、転がって寝てればいいのに。この子達の中には、病気や怪我の子もいるんでしょ。そういう時は、大事にしてもらってご飯食べて遊んで、安全な場所でごろごろ寝てるのが一番なんだから。今だってそうだよ。ここ一週間は明らかにオーバーワークだったんだから、自分を甘やかすにはアザラシぐらいペースダウンしてダラダラするのが、丁度いいんじゃない? アザラシだって、ゆっくりしてるように見えて一生懸命生きてる。サキと同じだよ」
焦げ茶色の瞳を真剣に覗き込んで言うと、紫咲は少し照れたような頬で、恥ずかしそうにちらちらと睫毛の下の視線をボクに向けた。
「や、言わんとしてる事は何となくわかるけど……。そんなに、アザラシにたとえて言ってもらえるなんて。よ、夜翰さんの口からそういう事聞くのが、何か意外で」
「何さ、柄じゃないって? 自分がやりたいなら幾らでもキャラとか先入観を壊していいって、そう言ったのはあんたでしょ。あんたの事は、恋人になってからもなる前からも、とびっっっきり甘やかしてるつもりだけど?」
「それは十分わかってます! 十分すぎるくらいにわかってるけど。う~ん……だからこそ思うんだよ、もう十分贅沢してるんじゃない、私? だって、うちで必要な物やお金はみんな鯨さんが用意してくれて、寂しい時にはこうやって夜翰さんが支えに来てくれて。私はちゃんと、守られながら幸せに暮らしてるよ。その中で掴めない物とか掴み取らなきゃいけない物は色々とあるけど、それでもこんな大変な時に、休んでいいんだよって言って安心させてくれる人がいるだけで、私はとっても幸せに思うの」
ふわりと、カップを手に包んだ紫咲が満足げに笑った。相変わらず、変なところで欲が控えめというか。ま、そういうところが好きなんだけど。甘えたような悪戯っぽい瞳で、紫咲が隣のボクを見上げる。
「このままじゃ、一生卒園できそうにないね、私は」
「サキは、野生の紫咲じゃないでしょ。せいぜい、一生幸せにボクや鯨さんに飼い殺されておいてください」
「今、さりげなく怖い事言わなかった?」
怖かろうと何だろうと、きっとそういう執着すら、あんたがボクに与えたものだ。願わくば、海に出る時も一緒がいい。これも、ここにいるアザラシ達と同じように、一緒に過ごしているだけであんたが与えてくれる何気ない幸せの弊害なのだろうか、と思いながら。ボクは隣でそっと目を閉じた。
***
そうして、大晦日にはギリギリ紫咲宅の隔離も解かれ、疲れはしたけど無事に年越し出来てよかったね、と。
そう言って終われれば、年末の一騒動を片付けた気持ちで、和やかに残りの冬をゆっくり過ごす事も出来たんだろう。
けど、それで終わらなかった。終われなかった。
年が明けて間もなく、紫咲は、彼女のお祖父さんを亡くした。
とても長生きされた方で、ほとんど老衰みたいなものだったのだという。知らせを受けて、紫咲はすぐに喪服や荷物を準備し、通夜と葬儀が執り行われる前には実家へ帰った。その間、いくら普通の人の目には見えないとはいえ、色々と慌ただしい紫咲の実家をボクみたいな奴が踏み荒らすのもあれかと思ったので、紫咲とは時々異空間にある本丸で顔を合わせる以外には、ほとんど会えなかった。
サキの家族の人たちがみんな明るかったおかげで、紫咲もボクが思ったよりは普通の顔に見えたのだけど、でも多分辛かったと思う。お祖父さんとはいえ、自分の身近な家族を亡くしてお葬式に出るのは、初めてだって言ってたから。地元にいる時の彼女は、とにかく慌ただしく家族を手助けしながら細々と立ち回ったり、普段は会わない親戚と話したり、見慣れない親戚の顔を少しでも覚えようと努めていて、とても悲しみを感じる暇はなさそうだった。それだけに、何て声を掛けていいのかもわからなかった。悲しい気持ちや辛い気持ちを蒸し返すのも何か違うし、かと言って無理に明るい話題を振るのも何か違うような気がして。
結局ボクは、実家で珍しく長い期間を過ごした紫咲が今の家へ帰って来てから、彼女が訥々と語る家族やお祖父様の話に、ただ隣でじっと耳を傾けては相槌を打った。お風呂に入っている時や、夜眠る前、一緒の布団に入っている時。前触れもなくぽつぽつと始まる思い出話の最中、ふと紫咲の涙がこぼれる事もあったけど、その気持ちがあふれるままに、堰き止める事がないように、ボクはできるだけそっと肩を抱き続けていた。
冬が少しずつ明けてきたとはいえ、まだまだ北陸の気候は寒い。今日も、日が落ちて窓の外が暗くなり始めた紫咲の家で、ボクはコーヒーをご馳走になりながら、紫咲の話す家族の話を耳にしていた。
サキは、お父さんやお母さんとも仲がいい。彼女がお葬式の際、実に五年ぶりに実家で過ごして大歓迎された時の話を、ボクはまだ全部は聞けていなかったのだ。今日のおやつも、サキのお母さんが引き出物と一緒に送ってくれたもの。地元のスーパーで買ってきたというかりんとうのお饅頭は、トースターで炙るとカリッとして香ばしく美味しかった。そう伝えると、サキは自分のカフェオレを炬燵机に置きながら、ほっとしたように笑った。
「よかった。別にそれ、富山の名産でも何でもないんだけどね。奥州平泉のおやつが、たまたま富山のスーパーに売ってただけだから」
「ご当地お土産って訳じゃないのに、サキの好きなおやつだからっていう理由で実家から送ってもらえるんだ……サキのお母さん、優しいんだね」
「どこでも買えるからとか関係なく、娘が喜びそうな物は何でも入れてくれる人だからね……。買ったけど食べる暇がなかった物は実家で食べてくれても良かったのに、かまぼことかそういうのも全部入れてくれたし。あと、私の大好物の干し芋でしょ。美味しいよってお母さんがお勧めしてくれたけど、何故か新潟には売ってないメーカー物のお菓子でしょ。着替え以外の荷物があまりに多いから、最初に使った段ボールより一回り大きいのじゃないと送って貰えなくなっちゃって、申し訳ないやらありがたいやら」
自分も黒糖の香りが芳しいお饅頭を口に運びながら、サキがほっと一息つく。片付けるのも大変な量だと言っていたけど、それだけの愛をいっぱいに受け取っているサキは、いつもどこか幸せそうに見えた。
「……ボクがいっぱい聞いちゃってもいいのかな、こんな話」
思わずそう尋ねると、紫咲は一瞬きょとんとしてから、苦笑いを浮かべる。
「私は、むしろ家族の事話せる相手がいてすごく助かってるけどね。夜翰さんこそ、ごめんね。つまらなくない? よその家の話なんて」
「ボクは、すごく楽しいけど?」
ボクの出身である近未来の二〇五〇年代も、家族観は今と大差はないと思う。古くさいところはいつまでも古くさいし、でも核家族みたいな家庭もどんどん増えている。ボクは子供の頃、両親が離婚して母親の方に付いていった。医療機器メーカー勤務だった父親とは、面会の時に社内イベントへ連れられて、川辺でサケの放流会なんかはやったことがあるけど、あの頃のボクはただ親のお飾りで、綺麗な息子に愛想を振りまいて欲しいだけの父親には愛情なんて物はないんだと思っていた。
今は成長して、父に対する感情も母に対する感情も、少しは変化したけれど。でも、ボクの家庭は紫咲みたいな田舎の一族って感じの家じゃないし、祖父母ですらあまり会った事や思い出がなくて縁が薄い。紫咲のように、小さい頃からどっちの祖父母にもうんと可愛がって貰えたなんていう家の方がボクからすると珍しくて、少し胸が痛むような心地を覚えながらも、やっぱり興味深かった。お葬式の規模ややり方だって全然ボクが知っているのとは違うし、そこでサキが聞いてきたという紫咲の家のご先祖様や家族の話は、田舎めいていながらもどれもそこはかとなく愛に溢れていた。
サキが、こんなお人好しになっちゃったのもわかる気がする。サキ自身の努力や葛藤ももちろんあるだろうけど、サキは自分が受けた愛情を結局は裏切れないし、それを人にも向けようとする人だ。たまには疲れたり悩んだり文句を垂れたりもしながら、生きていく姿を愛おしいと思う。
「それなら、いいんだけど……。ありがとうね、いつも付き合ってくれて。そうだ、アザラシちゃん達もそろそろ起床の時間かな」
紫咲がタブレットを立てて、ライブカメラを表示させた。ボクも一緒に見るのが習慣になってしまって、横から画面を覗き込んだ。
紫咲がお葬式に行って変わってくるまでの間にも、アザラシ達の状況は随分と変わった。ボク達が最初に見ていたアザラシ五頭は、もうフェーズ1の画面にはほとんど映っていない。まず、一番大きかったスムークとクラースが、フェーズ3の大きな屋外プールへと進級。今では、広いエリアでのびのびとした泳ぎを見せてくれている。そして次に進級したのが、意外にも一番赤ちゃんみが強かったウィレム。続いてエリック。この子達はフェーズ2のカメラが付いていない側のプールに進級したので、リアルタイムで成長を見守る事は出来ないが、スタッフさんによる施設のライブ配信では、元気そうな姿が映っていた。魚を干して遊んでいたアザラシ・アイリーンは、どうしても食べる事を覚えられなかったようで、しばらく個室付きの保護棟で個人特訓をする事になったらしい。どうにか食べられるようになって外のプールに進級したものの、食べる量やペースが他のアザラシと合わなかったのか、フェーズ1の室内プールに出戻りになって今に至る。
なので今、フェーズ1のカメラでアイリーン以外に映っている子達は、病気や手術後に回復して、新しくフェーズ1にやって来た新顔のアザラシ達ばかりだ。入れ替わりが激しくて、本当にいっぱい保護しているんだなというのがわかる。フェーズ2のカメラに映っているゼニガタアザラシ達まで含めると、流石に個体の見分けまではなかなか手が回らないが、分かる人には分かっているようで、チャット欄の会話をぼんやりと眺めているだけでも面白い。別に判別が出来なくても、アザラシ達がのんびりと過ごしている様子を見られれば、それでいいしね。時々体調を崩して餌を戻してしまったり、食べない子もいたりと心配も多いが、プロの管理の元できっとみんな無事にすくすく育ってくれると信じている。
「紫咲は、アザラシが好き?」
そういえば、改めて聞いた事はあまりなかったような気がする。よく考えたら、今も紫咲の部屋には大きなアザラシの抱き枕が転がっていて、紫咲が好きそうな事は自明の理だったのに。すると、サキは少し照れて恥ずかしそうに答えた。
「好きだよ~。私、今でも小さい頃に買ってもらったアザラシのぬいぐるみ持ってるぐらいだもん」
「ぬいぐるみ……って、あれの事じゃなくて?」
「あのアザラシの抱き枕? あれは、本当は私のお母さんのやつなの。昔にお母さんが買って、私が小さい時はどんなに欲しがってもお母さんのよって言われてたんだけど、実家で全然使ってないみたいだったから、嫁に出る時に強奪してきちゃった」
「強奪て」
「この間、私のおじさんが話してたの。いとこの子達が、実家に帰ってくる度におじさんの家の物を何でも強奪してくから海賊みたいなんだって。でもそれ、私もちょっとわかるの。家に帰った時、私が寒がりだから、お母さんがレンジでチンするタイプの湯たんぽを貸してくれて。私も一個持ってるんだけど、実家のはそれの倍はあるサイズだったの。だから布団に入れると寝る時にめちゃめちゃ足があったかくてね。こりゃ快適だ~ってずっと言ってたら、そんなにいいなら使い差しでよければ持って行きなさいって言われて。これも荷物で送って貰っちゃった」
「ここにも海賊が一人……」
思わず数えると、サキが声を出して楽しそうに笑うので、ボクも釣られて笑ってしまった。でも、紫咲のお母さんは優しい人だから、娘が欲しいって言ったらきっと何でもあげちゃうんだろうな。
「お母さんも昔いっぱいお母さんに貰ったから、あげたくなるんだって言ってたよ。夜翰さんのママとパパも、きっとそうだったんじゃない?」
「あの人達は自分の財力を誇示して子供の気を惹くアピールしたいだけだから、あんたの家とは違うでしょ。……でも、サキの話を聞いてると、本当はそういう面もあったのかなって思えてくる。ほんの少しだけどね」
「きっとそうだよ。心はすれ違ったかもしれないけど、夜翰さん、すっごい可愛がられてたと思うよ。お金持ち度の規模は、ちょっと庶民のうちじゃ違いすぎてよくわかんないけど」
恥ずかしながら、普通の家ではそんなに毎日新品の服やおもちゃを買い与えられたり、箱に入ったボンボンショコラをおやつ感覚で貰えたりする訳ではないらしいという事を、直生や紫咲と暮らして初めて知った。まあ、今では割と庶民感覚に近付いたと思うんだけど。
ボクにとって、親っていうのはサキが言うほど美しいものじゃなかった。特に父親なんか大っ嫌いだったし、母親とも不仲ってほどじゃないけど、父親と同様ボクには「綺麗な子供」としての価値しか見出してないんだと思ったから、どっちにも冷めた感情は抱いてたと思う。けど、サキの家や直生の家である鈴木家の皆を見てて、あの時は本当はこうだったんじゃないか、なんて、今思い返すと改めて気付く親の心に、ふと動かされる機会は増えたような気がしてた。だからって何が返ってくる訳でもないし、親が離婚した事実だって変わらないけど、母は母、父は父なりに、ボクの幸せを願っていた部分はあったんだろうなって事ぐらい、今は理解している。
ふとコーヒーカップの縁をなぞって、ボクは呟いた。蘇芳に塗られた、紫咲がお気に入りのカップだ。
「サキが昔から、ボクに家族を大事にしなよって事あるごとに言ってくれるのも、それが理由? 年末やお正月の時も、ボクがここへ来るより、家に帰るのを優先してやれって」
「うん。まあ、もちろん絶縁並みに仲が悪いとか、家族から逃げないと自分の心身が脅かされるから一人がいいとか、そういう事なら全然止めないんだけど、でもそうじゃないんでしょ。パパさんもママさんも、まだ生きていて、夜翰さんの事を大切に思ってるんでしょ。だったら、別に無理はしないでいいから、少しくらい顔を見せてあげたら本当に喜ぶよ。ずっとセブンスコードとかこっちの世界に入り浸りで帰って来ないと、二人とも心配するでしょ」
「まあね。一応、あっちの世界では、ボク一人暮らししてるし」
セブンスコードはバーチャル空間なので、神経転移をする為の装置とパソコンがあるリアルのボクの部屋は、何の変哲もないワンルームマンションだ。そこから、都内の実家や友達の家に顔を出したり、はたまた夜羽が贈ってくれた魔法のコンパクトのお力も使って、世界線を超えた直生の家や紫咲の家へお邪魔したり。バーチャルと現実どころか、異世界の間も移動して生活している。それが今のボク。
直生のいるオメガバースの世界では芸能関係の仕事もしていて、長期間留守にする事も多いから、いらない心配を掛けて騒がれる前にと、ボクは一応両親には本当の事を全部話している。十八年間、大人も周囲も騙すような嘘をいたるところで吐き続けてきた経験もあって、ボクはもう嘘は懲り懲りだと思ったし。まあ、ボクのパートナーのうち一人は世界軸の隣り合った異世界にいる舞台俳優で、もう一人は既婚者だけど旦那公認だなんて聞いたら、両親には頭でも打ったのかと思われたし、実際今でもどの辺まで受け入れてくれてるのかはわからない所があるけど。
「おかげさまで、ママと大晦日にディナーしてくるぐらいの事はしてきたよ。父親は、仕事が忙しかったみたいで別日に会ったけど」
「そかそか」
「変なの。それで、なんで紫咲が嬉しそうなワケ? ボクと会う時間が減ると、寂しくない?」
「それは寂しいよ。特別な日を一緒に過ごせないのも、ちょっと残念だな~って思うし。でも、私より君のママ達の方がずっと、寂しいだろうからさ。折角少しは子供と打ち解けて、腹を割って話が出来るようになって、残りの人生を過ごせるんだから」
そんな風に思える紫咲は、やっぱり大人だなと思う。ボクだったら、恋人や友人との時間や自分の時間を奪う存在なんて、普段は家族や肉親であっても煩わしいと思っちゃいそうだから。そう伝えたら、紫咲は苦笑いして首を振った。
「私だって、もうちょい若い頃は普通にそんな風に思ってたよ。それに、ほんとに相手の事を思いやれる大人だったら、そもそも未来ある若者である夜翰さんと付き合ってなんかないと思うけどね。こんな、夢女の力で世界まで捻じ曲げて」
「それは……まあ、サキだけじゃなくてボクだって選んだ事だし」
どんなに茨の道でも一緒にいられるのなら、あの世界で共に困難を乗り越えてきたサキの手を、二度と離さないと誓ったのはボクの方だ。それはひょっとして世界に背を向ける行為なのかもしれないし、一対一の倫理観が強い世界では許されないのかもしれないけど、それでも。強い目で見つめると、サキは穏やかにボクへ微笑む。
「だから、こうやって一緒にいられるだけで幸せ。この夜翰さんを夜翰さんにした要素は私だけじゃないし、外の世界に君を支える人達がいて、それを家族と呼べるのなら、せめて私もそんな人達を大切にしなきゃなって思うだけだよ。……多分年齢的に、私は実の親と過ごせるの、長くてもあと二、三十年かな~って思うの。認知症の可能性とかも考えたら、そのうち何年くらい私の事認識して貰えるのかも分からないし。昔は親といるのがしんどくてたまらない時期とか、ただ逃げて独立すれば解決すると思ってた時期もあったから、結婚して家さえ出られたら自由になってラッキーって思ってた。でも、やっぱり想像したのとは色々違ってたね。誰かと結婚しても孤独が癒せる訳じゃないし、自分が好きな事を思い通り出来ないのは、別に親や実家環境とはあまり関係なかったのかもなって思って。どこに住んでいたって、考え方や在り方を自分なりに合うように変えようとする努力は、自分でできたはず。それを面倒くさいし怖いからって、自分から勇気を出して行動したり、譲りたくない事を絶対に譲らないって主張しない限りは、何も変わる事なんてないのに。動かない事を選んだのは、結局私なんだよ」
「紫咲……」
そういえば、結婚したばかりの頃、紫咲も結構鯨さんの事を愚痴っていたなと思う。少しも土日に遊びに連れて行ってくれないとか、スマホばかりで全然こっちを見て話してくれないとか。誰かと向き合ってコミュニケーションを取る時間に、たとえばゲームや動画で気を散らしたまま純度の高い注意が自分の方に向いてこないと、紫咲は怒る……というより、寂しい思いをしているみたいだった。誰かに顔を見て話を聞いて欲しいとか、自分の話を聞き漏らさず集中して聞いて欲しいとか、そういうのは人として当たり前の欲求だと思うけど、鯨さんと「恋人」ではなく「夫婦」になった紫咲には、そういう事は叶わなくなった。
それをどう解消してったのかと言えば、ボクらみたいな創作世界の住人に話したり、はたまたネット上で話をできる人を探したり。夫である人本人に求める事こそ諦めているけど、でもそれを“不満”だと紫咲は思わないようにしているみたいだった。完璧な人などいないのだから、何かをやってもらっている代わりに何かは我慢しなくては、と。それと同じ事を……それまで煩わしいと思う時期もあった肉親にも、紫咲は感じるようになったのかもしれない。許せる事が増えた、と言ってもいいのだろうけど。
ほんの少しぬるくなったコーヒーを口に運びながら、ボクは言った。
「離れてみると、分かる事っていうのもあるんだよね。ボクだって、失くした時に後悔してばかりだった」
「ね。だから、残りの三十年くらいは、ただ楽しく親に可愛がられる娘でいたいかなって。親の愛はちょっと、私がかつて理想にしてたような方向性とはズレてる事もあるかもしれないけど、でも今ではありがたいなって思うし、ありがとうって伝えられる残り時間は限られてるから。夜翰さんは若い分、私よりもっと沢山時間が残されてるでしょ。だから、無理しなくていいけど、後悔しないようにね。どんなに、自分はもう会えなくて大丈夫って思った家族でも、突然いなくなっちゃうと、やっぱり色々と込み上げるものがあるから」
少し寂しそうな笑みで、紫咲が言う。別に彼女はお祖父さんを嫌ってた訳じゃないけど、単に体の具合や金銭的な理由で、結婚してからはなかなか地元に帰れなかった。家を空けては鯨さんが生活に困るという理由や、ほんの束の間の旅行でも帰宅後に体力を使って寝込んでしまうだろうという事、それを分かっていた実家から強く求められなかったという事もあるのだろう。お祖父さんが不調に見舞われたという話を聞いてから、気候がいい春にはお見舞いに行く心づもりでいたらしい。だが、結局それは間に合わなかったのだ。
「実家で話を聞いたらね、私よりうんと遠くに住んでるいとこの方が、何回もおじいちゃんに会いに来てあげてたの。私と違ってちゃんとお仕事もしてて、ずっと忙しいはずなのに。体調崩したら小説書けないから、なんて理由で帰らない私より、ずっと会いに行ってあげてた。それがね、すごいショックだったの。一番長いことおじいちゃんと一緒に住んでた孫って私だったはずなのに、薄情な孫だったなって」
「……そんな事ないよ。紫咲がお葬式に駆けつけてあげただけで、きっと嬉しいって思ってる」
「そうだと、いいんだけどね。人が亡くなった後って、残された側は結局そういう風に思う事しか、出来ないから。どんなに探しても、答えなんて聞けないし。それに、多分緊急事態で体にブースト掛かったのもあるんだろうけど、結局私は一人で電車に乗って、無事に行って帰って来れちゃったわけじゃない? こんなに寒くて一番辛い時期だったのに、コロナにも罹らず。やろうと思えばこんな簡単にできた事、どうしておじいちゃんが生きてる間にやらなかったんだろうって……やっぱり、若干の後悔は残っちゃうよね」
もう泣く事はなかったけれど、若干瞳を潤ませた紫咲が、微かに鼻を啜ってからボクの方を見上げた。
「ごめんごめん。アザラシの話だっけ。夜翰さんに、いい物見せてあげる」
そう言って、紫咲は立ち上がると、自分の部屋のハンガーラックの上から何かを下ろしている。袋に入っているのは、確かまとめて保存してある紫咲のぬいぐるみ達だったはずだけど。そこから取り出した白いもふもふした物を両手に嵌めて、紫咲はリビングへと踊るように戻ってきた。
「じゃ~ん」
「これか、アザラシのぬいぐるみ。本当に好きなんだね」
「えへへ、そうでしょ」
照れたように笑った紫咲が、一頭をボクの方へ差し出す。パペットタイプで、中に手を入れて動かせるようになってるみたいだ。子供向けを想定されているのか、ボクの手にはちょっと小さい。ボクよりまだ小さな紫咲の手にもちょっと小さすぎるみたいだ。一頭を紫咲が手に嵌めると、親指と小指を入れたアザラシの両手がぴこぴこと動く。真っ白で、これもアザラシの赤ちゃんみたいだ。ボクも片手にもう一頭を嵌めながら、サキにぬいぐるみを近づけた。
「サキって、どっちかっていうと猫が好きなイメージが先行してたから、アザラシは知らなかったな」
「猫はねえ、自分でも好きだと思ってるけど、本当はお母さんの影響が大きいのかなって最近思ってる。私のお母さんが、猫好きだから」
「へえ」
そういえば、たまに紫咲の両親が家まで遊びに来てくれた時、一緒にお母さんと猫カフェまで行ったりしてたっけ。LINEのスタンプも、サキのお母さんのは全部猫だったような。
「家では飼わないの?」
「実家で飼うのはちょっと、環境的に難しくてね。でも、お母さんは自分の実家に猫がいた事あるから、ずっと好きだし飼いたいみたい。私、大学生の時もお母さんと猫カフェとか行った事あるし、野良とか人んちの猫と遊んでるところも見た事あるんだけど、猫の相手してる時のお母さん、キャッキャして本当に楽しそうでね。私はずっと猫が好きだと思ってたけど、もしかしたら猫じゃなくて、猫と遊んで楽しそうにしてるお母さんを見るのが好きだったのかなって……」
鼻を触って、ちょっと照れくさそうに紫咲が言う。
「なるほど。まあ、紫咲らしいんじゃない?」
誰かに笑ってて欲しい、喜んで欲しい。そんな感情は、行き過ぎると自分も相手も壊してしまう物になりかねないけど、サキは相手の好きな物を自分も好きになる事で、少しでも喜んでもらえたら……と、自分を染めやすい傾向を持っているみたいだ。ボクの好物だからって、サキの苦手な青紫蘇をたまに買ってきて素麺に入れたり、同じく香りが強くて苦手だって言ってた春菊を買ってくるようになった時は、流石にびっくりしたけど。そうやって、相手の大事にしているものに近付こうとするサキの姿勢を、ボクだって好ましく思う。たまに、自分をすり減らしてしまわないか心配にはなるけどね。
「それで本当に紫咲の好きなものになったんだったら、ボクはそれでいいと思うよ」
「ね。自分の好みって、結局はどこまで人の影響を受けて形成されてるか、よくわかんないものがあるしね。アザラシも、私が好きって言い出したのか、こんな風にぬいぐるみをもらってこれが好きなのねって言われ続けたから好きになったのか、よく覚えてないんだけど……。でも、幼稚園の頃に自分で描いた、アザラシの絵本が今でも残ってるの。うちのお母さんが気に入ってずっと取っておいたから、小学生の時にその中身をもっかいリメイクしてね。夏休みの宿題提出も兼ねて絵本のコンクールに出してみたら、ちっちゃいのだけど賞を取った事があったの」
「いや、それもう相当好きじゃない? 入賞ってすごいじゃん。しかもアザラシの本」
「ふふ、ありがとう。押し入れにあるから、今度見せてあげるよ」
小さく笑って、紫咲がパペットでボクのアザラシの頭にキスをする。それを見ていて、ボクは気付いた。
「そういえば、こっちはちょっと汚れてる……?」
ボクが持っている方のパペットは、紫咲のと比べて明らかに年季が入っており、ボクは首を傾げた。ほとんど同じデザインのパペットに見えるけど、こっちの方が色も全体的に黄ばんでるし、触った時の毛の感触がこう、ふわっというよりも、洗いざらしのタオルみたいにぼさっとしているというか。すると紫咲は、ちょっと苦笑してから、片手でボクのアザラシの頭を撫でて言った。タグのところには、紫咲の名前が描かれた木彫りのストラップがぶら下がっている。
「あはは、この子の方がちょっとみすぼらしいでしょう。これはね、私が小学生くらいの時に、お父さんが大阪の水族館で買って来てくれたやつなの。仕事柄、大阪まで行く機会なんて滅多にないし、娯楽系に興味のないお父さんが水族館に行ったっていうのもちょっと信じられない話だったんだけど、娘にお土産を買いたいと思ってくれたのかしらね。それを私はゴマちゃんって呼んで、すっごく気に入ってて。夜寝る時は毎日一緒だったし、お風呂にも一緒に入れてたし。可笑しいでしょ、ぬいぐるみなんて普通洗濯しちゃダメなのにね」
「サキが小学生って事は……二十年以上前じゃない? 物持ちいいんだね。そんなに長い間、ずっと大事にしてるんだ」
「ぬいぐるみ、いっぱいあって人に譲ったのも処分したのもあるけど、ゴマちゃんは大事に残してたみたい。こっちの子は、自分がもう少し大きくなって初めて家族旅行で同じ水族館に行った時に、新しく買ってもらった方なんだ。でも、昔来た子も捨てないでずーっと一緒に持ってた」
なるほど、同じ水族館で買ったから、似たデザインのパペットなのか。サキが持っている二代目ゴマちゃんのタグには、記念のつもりなのか、黄色く変色した値札が紐でそのまま残されていた。どちらも古いものには間違いないだろうけど、サキがこうやって大人になった今でも身近に置くぐらいに、大切にされてきたぬいぐるみ達なんだ。
二つのゴマちゃんを膝に乗せて、撫でながらじっと見つめていると、紫咲が不思議そうに横から尋ねた。
「どうしたの?」
「いや……セブンスコードみたいなバーチャル空間で仕事をしてる時って、わざわざヴィンテージ風に作られた物以外、こんな風に古い物に触る機会、なかったから。こういうのってやっぱり、リアルの世界じゃないとわからない事だよね。大体の物は、古くなったら買い替えたり捨てられたりするけど、この子達の手触りも色褪せも、全部サキと思い出を積み上げてきた証で。そういうのは、データじゃ再現できない事だと思うから……ボクはサキと出逢えて、あんたの大切な物に触れられて、よかったって思う」
「夜翰さん……」
「ボクは、この体は嫌いだって、セブンスコードの外側の世界には戻りたくないって、前に言ったことあるけど――現実世界の体じゃないと、感じ取れない事も沢山ある。それこそ、あんたみたいな人に触れて変化を感じる事も、この子達に触れる事もね。だから、ありがとう」
「変化っていうか、私の場合は老化じゃない?」
「だから、それも全部」
最近また執筆で寝不足になっているのか、それとも実家の件でまだ色々考え事を引き摺っているのか、少し隈の残る目元に指先を這わせると、サキはゆっくりと照れたように笑った。
「……じゃあ私は、夜翰さんにありがとうって言って貰える事にありがとうだね」
暖かそうな服のまま甘えるようにボクの隣へくっつくと、サキはおもむろに片方のアザラシを手に嵌めて、ボクの前でパクパク動かした。
「ボク、ゴマチャンダヨ。ボクモ、アリガトウ」
「ンッ」
「だって、夜翰さんがアザラシを見習えって言うから……」
そういう意味じゃない! と思ったけど、面白くて笑いが止まらなくなってしまう。服の袖で笑いを隠しながら、ボクはそっぽを向いて震えていた。
「ゴ、ゴマちゃんはどこに住んでるのかな」
「キタノウミダヨー。デモ、サムイノキラーイ」
「ご飯はちゃんと食べてる?」
「オサカナダイスキー。マグロタベターイ」
随分餌代が高つきそうなアザラシだな。小さな頭を撫でていた手をふと止めて、ボクは言った。
「ゴマちゃんを飼うには、どうしたらいいんだろう」
「ゴマチャン、カエナイノ。オオキクナッタラ、ウミニカエッチャウンダヨ」
ごっこ遊びの時まで、そんな切ないガチレスをしなくてもいいのに。きょとん、と首を傾げる黒いつぶらな瞳を見て、どこか泣きたい気持ちになる。ふとボクは、傍にいたもう片方のアザラシを手に嵌めると、紫咲に言った。
「サキ。片方の手を出して」
「?」
パペットが嵌っていない方の掌を、サキがボクの方へ向ける。
「ぎゅっ」
その手を、ボクが持っているアザラシのパペットで掴んだ。ぬいぐるみが小さいから、大きな掌を体いっぱいで抱きしめているみたいだ。それを見ていたサキの顔から、一瞬虚を突かれたようにすべての表情が抜けて――そして、涙が溢れた。
「やだ。もう、泣かせないで」
「これで泣いちゃうくらいだったら、相当疲れてると思うけどね。あんまり無理しないでいいんだよ。あんたが大丈夫って思うまで、ゆっくり人に甘えて、休んで、泣いたらいい」
ふざけた態度の裏に、本当は誰かに優しくして欲しい気持ちや、泣きたい気持ちをいっぱい隠している事ぐらい、今のボクならわかる。ぬいぐるみ越しでも決して離さないように、その手をぎゅっと掴みながら、ボクは空いた手でサキの体を抱き寄せた。
「ねえ、サキ」
「うん……?」
「サキは、ボクの家族の事を大事にして欲しいって言ったけど。この場所だって、ボクにとっては大事な家族なんだよ」
驚いたように、サキの涙に濡れた瞳がボクを見る。血は繋がってないけど。人間どころか、悪魔も天使も神様もいて、ごった煮みたいな仲間だけど。それでも、家族は家族。へんてこで、どんな世界の中にいても一番愛おしい場所。当たり前のような大切を、心から慈しみたいと思える場所。
「だから、血のつながりには決して及ばないかもしれないけど、あんたの抱える現実には勝てないかもしれないけど、ボクの事も頼って。ずっと傍にいるから。それに――ボクも、あんたにはずっと傍に居て欲しい」
照れ臭くて、普段は伝えるのを躊躇ってしまうような言葉。でも、思っているならこういう時にはまっすぐ伝えなきゃ。忙しさや慌ただしさの中で、愛はいくらでも簡単に流れていってしまうから。いつ目の前の相手がいなくなってしまうか、人生の残り時間が何分何秒なのかわからないこの世界で、恥ずかしさや面倒さに負けてもいい愛の言葉なんてない。ボクは、そう思うから。
アザラシ同士をくっつけるように、自分のパペットの頭をぐりぐりと押し付けたサキは、ボクの肩口に寄り掛かる。
「ありがとう。私を選んでくれて。今年も、これからも、ずっとよろしくね」
「こちらこそ」
これからも、一緒に見ていく。紫咲と、新しい仲間と一緒に、この世界を。多少の変化があっても、それすらも飲み込んで乗り込んでいけるほどに、もっとしなやかに強くなりたい。そう強く思いながら、ボクはすぐ隣のぬくもりと小さな白いふわふわを、両腕の中に閉じ込めた。
参考:
Zeehondencentrum Pieterburen(ピーテルブーレンアザラシセンター)
https://www.youtube.com/@zeehondencentrumpieterburen/featured
こちらの施設は、2025年にラウエルウオーフのワッデン海世界遺産センターに移転予定です。
現在は既に一般入場は終了していますが、ライブカメラは施設稼働の最終日まで行ってもらえる予定と聞いています。(現在の施設にいる子達は、閉鎖までに全員が卒業予定)
移転先のワッデン海世界遺産センターでも、ライブカメラは設置して頂けるとのこと。これからもアザラシ達の成長を見守れるのが楽しみですね。