色々あった末に香澄がみんなを巻き込んでポピパのオリジナル曲をぜんぶ録音する話です

1 / 1
戸山香澄の遺言

 

 

 

 ポケットの中で握るココア缶の温かさも、駆け足のスタッカートに切れる白い息も、待ち合わせの時間もギターの重さも頬の赤さも耳の冷たさも全部全部、吸い込んでしまいそうな寒空だった。薄ら白い冬晴れの下、香澄は友達の家へと走っていく。

 所属するバンドの練習場所として友人宅にある蔵の地下を使わせてもらっていた。ご家族への挨拶もそこそこにみんながいるはずのそこへ駆け込む彼女は、妙な胸騒ぎを感じていた。

 静かだ。晴れた休日なのに、まるで重い雪に閉ざされてしまったみたいに。既にいるはずの仲間にまだ届かないことは承知していながら大きく足音を立てて地下へ向かう。

 

「ごめーん! 思いっきり寝坊しちゃって──」

「おたえ!? ……あぁ、香澄か。悪い」

「え、う、うん……」

 

 階段をいくらか降りるや否や、金髪を二つ結びにした友人──有咲が血相を変えて振り向いた。香澄はぎょっとして足を滑らせそうになるが、有咲の必死の形相に転んでる場合じゃないと察してどうにか踏み留まる。

 背中のギターを前に回して大事に抱え直し、慎重に降りながらあたりを見回した。ドラムのスローンではなくソファで、香澄を心配して浮かしかけた腰を下ろした沙綾が手元のスマホに視線を落とし、隣ではりみが小さな手で彼女の背を撫でている。

 背の高く長い黒髪が大人びた、それでいて少し変わり者のギター大好きな友人、花園たえの姿はどこにもない。

 

「……おたえに、なにかあったの?」

「わかんねー……けど、もう約束の時間過ぎてんのに連絡もないのは、絶対ヘンだ」

 

 すぐさまスマホを取り出してグループラインを見るが、自分の遅刻しそうだという連絡が最後だった。起き抜けの頭で打った誤字のあるそれが三十分前。新しく沙綾の『おたえどこー? もうすぐ練習始まっちゃうよ!』という明るく取り繕ったメッセージが投げ入れられるも、既読は本人を除いたこの場の三件分だけ。よく見ればそれ以前のメッセージ──昨晩の他愛もないやりとりの時点から、彼女の反応はないようだった。

 

「風邪……だったら連絡くれるよね。きっと」

 

 自分でも分かりきっている呟きに、りみが力ない首肯で答えた。

 まだ足りない酸素を吸い込んで考える。たえは変わり者ではあるが義理を欠くことはまずしない。遅刻しそうなら連絡を寄越すだろう。自分ですらそうなのだから、ランニングをよくする彼女なら信号待ちの間にでもそれくらいする余裕があるはずだ。

 なら、連絡する余裕すら奪われる事態。

 すぐさま思いつくのは事故だが、昨晩から既読がついていないのが引っ掛かる。

 以前、自分たちと他所のバンドでたえの予定がブッキングして大変なことになったことがある。二の轍を踏まないためにも体が動くなら彼女は絶対に報告してくれるだろう。このPoppin‘Partyというバンドが彼女にとって大切であることを疑う余地はない。なら、同じくらい大切なものに、なにかがあったのだ。心に体が追いつかないような。

 バッと有咲の顔を見る。膨らんで溢れそうになった気持ちをどうにか言葉に束ねようと四苦八苦する香澄の百面相に、彼女は頷き返した。

 

「……香澄、まだ走れるか?」

「走る!」

「途中でバテたら返って……いや、わかった!」

 

 野暮は飲み込んだ。友達のためなら千里だって走るだろう。自分の方が体力は怪しいのだから、腹を括るのはこっちだと思い直した。あまり走るのに向いた格好とは言えないが手は尽くそうと、有咲は「ちょっと待ってろ!」と階段を上がっていく。

 

「スニーカーに履き替えてくる! 香澄は息整えて、沙綾とりみは……あー、おたえの家まで全力ダッシュするからっ、覚悟決めとけ!」

「大丈夫、もう出来てるから!」

 

 自分で頬を叩いて立ち上がった沙綾の即答を背に、彼女は出て行った。

 走るならひとまずギターはお留守番だ。香澄はギターケースをソファに優しく横たわらせて、少しでも身軽になろうとコートのポケットからココアも取り出し……それを改めてしまい込んだ。

 

「香澄ちゃん、それ置いてかなくていいの?」

「うん」

 

 りみの心配げな上目遣いに、香澄は微笑みを作って返した。

 

「あったかい飲み物飲んだら、きっと元気になれるから」

 

 

 

 

 励まし合いながら走って、途中でちょうどやってきたバスに飛び込んで。どくどくうるさい鼓動に耐えながらバス停が遠のいて行くのをぐっと見送って、ようやく降りたらまた一目散に駆けていく。その間、とりあえず事故の痕跡のようなものがなかったことにひとまず胸を撫で下ろしたが、不安はまだ消えない。家の中でなにがあったかもわからないのだ。

 こんなに長い道は初めてだった。いつまでいつまでも見えてこない友達の家。やっと覗いた塀に思わず声を上げながら、香澄はインターホンを押すのも忘れてドアに飛びついた。

 

「おたえっ、大丈夫!?」

「あっこらばか、不法侵入になるだろ!?」

 

 有咲が叫ぶもお構いなしに香澄はそのまま家へと入ってしまったが、彼女が階段をどたどた駆け上がる音はしても人の声はさっぱり聞こえない。しばらくしても親御さんの姿すらないので、残された三人で思わず顔を見合わせた。

 やがて、常識を緊張と不安と友情の波が飲み込んだ。いっそ元気でなくてもいいからたえの顔だけでも確認しなくてはと、罪悪感に足を震わせながら三人も玄関を潜る。

 

「……あれ?」

 

 最初に気付いたのはりみだった。

 

「……うさぎが、飛び込んでこないね……?」

 

 沙綾と有咲も一瞬置いて思い出した。花園家を訪れると、初めの頃は足下に毛玉を侍らせたたえが顔を出していた。そして幾度目かの訪問になると臆病な彼らも主人の友人たちを覚えたのか、特に好奇心旺盛な子たちがよく飛び出してきたものだった。まさかと思って早足になる。

 

「おたえ!」

 

 開けっ放しのドアに雪崩れ込む。

 ソファの上で横から香澄に抱き締められたたえが、膝に一羽のうさぎを乗せて青白い顔をしていた。

 

「みんなも……あぁ、ごめん……蔵練の時間」

「そんなのいい! 大丈夫なの!?」

 

 沙綾が真っ先に駆け寄って、後ろを有咲とりみがついていく。主人の仲間を遠巻きに囲むうさぎたちはどこかへいなくなるでもなく、じっと成り行きを見つめていた。香澄にされるがまま力なく抱かれているたえはゆるゆると首を振ると「沙綾、練習は大事だし『そんなの』なんて言っちゃダメだよ……」とズレたことを言う。沙綾は気にせずにずんずん近づいて間近で顔を覗き込んだ。

 

「体調は!? 熱とか、貧血起こしてたりとかしない!?」

「沙綾ちゃん、そうだったらむしろ静かにしてあげなきゃいけないんじゃ……」

「あっ、そうだね……ごめん……」

「……どうしたんだよ、おたえ。なにがあったんだ?」

 

 覚悟を決めた有咲がとうとう尋ねた。たえは沈痛な面持ちで目を伏せ、膝の上のうさぎを震えた手で撫でる。茶色いうさぎだ。彼女の家族として幾度となく話題に上がった一番の兄弟分のような存在で、オッドアイだからかオッちゃんと呼ばれている。

 彼は膝の上で、ぴくりとも動かない。

 

「オッちゃんが……」

「……まさか」

「そんな……」

 

 香澄の抱き締める腕が強まる。たえは彼女の手にそっと触れて、絞り出すように言った。

 

「お腹を壊しちゃって……」

 

 横合いからうさぎに飛びつかれた有咲が派手に転んで、りみが巻き添えになった。

 

 

 

 

「まあでも、なんだ、うさぎにしてみりゃ腹痛も只事じゃないか……」

 

 事情が事情なので、一同お手洗いで改めてしっかり手を清めてから。

 たえの部屋に戻った途端に足下へ群がってくるモフ溜まりに背中のうさぎを返しながら、有咲は自分に言い聞かせた。

 人間であれば馬鹿馬鹿しいことこの上ないが、うさぎに拾い食いするなと責めるのも酷だろう。そのあたりの管理を長年うさぎたちと暮らしている花園家の人々がきちんとしていないはずもないから、たぶん運が悪かったのだ。

 聞けばオッちゃんが体調を崩したのは昨日の夕方とのこと。動物病院にはすぐさま掛かり容態も落ち着いていたそうだが、家族の一大事とあれば楽観視できようはずもない。一晩中うさぎにつきっきりだったのであれば憔悴ぶりも当然というものだった。

 香澄から受け取ったらしい缶のココアを啜って一息吐いたたえが「ご心配おかけしました」と畏って頭を下げるので、みんなすっかり安心して格好を崩した。

 

「家族の方が大事!」

「だな。まぁ、一言くれたら、あんま慌てなくても済んだけどさ……しょーがねー」

 

 きっぱり言い切る香澄に、妙にもじもじした有咲が追従した。沙綾に「有咲もありがと、真っ先に飛び出してくれて」と微笑まれてそっぽを向く。ふたりのやり取りに優しく口元を綻ばせながら、りみは足下の一羽を撫でて言った。

 

「でも、とりあえずは大丈夫……なんだよね? よかったぁ」

「うん。毛玉とかでときどきあるんだけど……今回はなかなか吐き出せなかったみたいで」

「大変だったんだな……」

 

 ちょうどやってきた本人がどこかくたびれた顔でぶうぶう鳴くので、たえとふたりで優しく撫でてやる。酷い目にあったぜとでも言いたげにどっしり座るのがなんだか面白くてしばらく接待していると、突然たえが「はっ!」と声を上げた。

 

「遺言を聞いておかなくちゃ!」

「……………………すまん、お前なに言ってんだ?」

 

 思わず手が止まった有咲の手をオッちゃんがてしてし叩く。「あーはいはい、ほら」と再開してやった途端に穏やかになる当の本人はまだまだくたばらんわいと吐き捨てそうなふてぶてしさだが、飼い主はそのまま話を進めた。

 

「いつなにがあるかわからないって、今回で身に染みた! だから今のうちにお葬式のこととか、やり残したくないこととか聞いておかないと!」

「うさぎの終活を考えるやつ初めて見たな……」

「しかも本人に聞くつもりなんだ……」

 

 有咲と沙綾が苦笑いするのを尻目に、たえはふんすふんすと息巻いてオッちゃんを抱き寄せた。つい先程までその家族の体調を心配して絵の具を血管に流したみたいな青褪め方をしていたはずの彼女は「オッちゃん、最期になにしたい?」と些か穏やかでない聞き方をする。これからトドメを刺す悪役かよ、と口をついて出そうになったツッコミを有咲は必死に飲み込む。どの道不謹慎な気がするが、まだマシなはずだと信じて。

 オッちゃんは鼻を鳴らした。たえは神妙に耳を傾け、重々しく頷く。

 

「…………」

「えーと、おたえ、オッちゃんはなんて言ってるの?」

「……うさぎは、声帯がない!」

「なんなんだよ!」

「あ、待って行かないでうさぎたち……はぷしょんっ」

 

 耐えかねた有咲が噴き上がり、いつの間にかソファの上で大人しくなっていた香澄がうさぎ布団に逃げられてくしゃみをした。セーターは着ていても動物に包まれていた一瞬前と比べれば寒い。恨みがましい顔で有咲に抱き付きながら、香澄は「なんの話ぃー……?」と尋ねる。

 

「みんなに遺言を聞いてるの」

「…………えっ私たちうさぎ鍋になるの!?」

「落ち着け、うさぎが死ぬわけじゃないし私たちが代わりに生贄にされるわけでもない」

 

 りみはうさぎの被り物をしてチェーンソーを振り回すたえの想像を振り払って「香澄ちゃん、えっとね……」と説明を始めた。花園ワールドを理解し切れている気はしないが、高校生になってから青春のほとんどを共にした仲間のことである。

 

「うさぎでも、私たちでも、いつ死んじゃうかわかんないものだよね。急病かもしれないし、旅行先に猟奇殺人ピエロが出てくるかもしれないし」

「どんなもしもだよ」

 

 ホラー好きというよりはB級映画好きみたいな例を持ち出すりみにツッコミを禁じ得ない有咲だった。りみはおどけたようににっこり続ける。

 

「悔いを残さないためには、遊びも勉強も全力で頑張りたい……けど、それが叶わないときが来るかもしれない。だからせめて、後のことだけでも決めておけたら、振り向かずに全力投球して生きていける……かも、しれないよね。それは人だけじゃなくて、きっとうさぎもそうだろうなぁ、って、おたえちゃんは思ったんじゃないかな」

「おー……そうかも」

「なんか、深い!」

「お前の感想は浅いな……」

「まあ、急にこう言う話されてもピンと来ないよね……」

 

 自分のことなのに他人事みたいに感心するたえとよくわかってなさそうな香澄に有咲は呆れ顔で、沙綾は苦笑いだった。一方、素直に褒められて面映そうなりみは、女の子座りした膝の上でくしゃりと指を組んだ。

 

「でも、遺言かぁ……言葉のインパクトは強いけど」

「……うん、大事だよね。いつなにがあるかわからない、っていうのはさっき、確かに過ぎったわけだし」

「縁起でもねーけど……そうだな」

「うぅ〜ん……」

 

 ティーンエイジャーたちは思案顔になった。

 そのときはいつか、どんなに目を逸らしたくても必ず来る。生きてる限りは必ず。

 たえは凛と眉を引き締めて、うさぎ一羽一羽と目を合わせる。

 

「団十郎はどう? どんな最期がいい? パープルちゃんは?」

「……なんか、みんな怒ってない?」

 

 香澄が首を傾げるや否や足下をダンダン踏み鳴らすうさぎたち。不満を露わにしているのは末のことを尋ねられたものばかりなのだが、態度の割に離れる素振りは見せない。なんだろうと顔を見合わせてしばらく、最初に気づいたのは沙綾だった。

 

「ひょっとしてさ、おたえを遺していくのが嫌なんじゃない?」

「……なるほど?」

「あー、この天然が心配なわけか」

「そうなの? オッちゃん」

 

 うさぎに言葉が通じているのかは結局わからないので、たえがなんとなく当たりをつけて「ごめんね」と抱き上げると、オッちゃんは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。それから鬱陶しげに暴れて手から逃れると、のしのしとうさぎたちの輪に戻っていく。

 

「おたえちゃん、前にオッちゃんのこと彼氏って言ってなかったっけ」

「どっちかっていうとぶっきらぼうなお父さんみたいな感じするね」

 

 娘を心配する頑固親父の風格あるうさ耳を眺めながら口々に言うりみと香澄に「じゃあ」と腕組みするたえ。

 

「私の遺言は『心配しないで』かな」

「お……」

 

 有咲、絶句。

 

「……おっ、お、お前が死ぬのかよ!?」

「え? 死ぬわけないじゃん。まだいっぱいギター弾くし、おばあちゃんになりたいし」

「こ、このヤロー……!」

 

 あまりの衝撃発言を咀嚼しきれていなかった一同は、その後にけろっと返ってきた「死ぬわけないじゃん」の方を先に飲み込んだ。感情が追いつかないでぽかんと隙間が空いたような感覚のまま、沙綾が溢す。

 

「私はどうだろ……お母さんが倒れたときに色々あったし、『無理しないで』とか?」

「沙綾が言っても説得力ないだろ……」

「それはそうなんだけど、ほら、反面教師っていうか?」

「私は、うーん……お姉ちゃんに『ベースありがとう、お返しします』とか、『映画のDVDは好きに観ていいよ』とかかなぁ」

「りみの手持ちはほぼほぼホラー映画じゃねえか」

「不吉だ」

 

 不意に遠くに見えた仄暗までの距離感が曖昧なまま、不思議と恐ろしさもなくそんなやり取りをする四人に、香澄はうんうん唸って混ざれない。丸いクッションを抱き締めたり頭に被ったりして、とうとう涙目になると吠えた。

 

「……思いつかなーい!」

「お前にゃ似合わない話題だよ、死んだあとのことなんか」

「に、似合っても困るけど……! ていうかそもそも、みんなが死んじゃうことなんか考えたくないよー……寂しいじゃん……」

 

 ぷるぷる震える香澄を見て、たえはやっと気付いた。部屋の隅に行ってしまったオッちゃんに声をかけながら近づいて、ぎゅ、と抱き締める。小さく鼻を鳴らしたオッちゃんはそれきり、大人しく腕の中に収まっていた。

 

 

 

 

 

「遺言、かぁ」

 

 ──私が、いつか死ぬときに言い残すことって、なんだろう。

 

 ギターを弾いてもご飯を食べてもお風呂から上がっても、それは香澄の頭の中にずっと漂っていた。検索エンジンがベッドに腰掛ける彼女の手の中で待ち惚けして、ぽかんと開いた空欄にはらしくもなく物騒な履歴が並んでいる。『遺書 なに』『遺言状 書き方』『意思表示カード』『終活ノート 書き方』『悔いのない生き方』……これから死んじゃうみたい、とは声に出さなかった。

 

 いつか、ライブハウス『SPACE』で言われた言葉が過ぎる。

 

 ──『やりきったかい?』

 

 あのとき聞かれたのは演奏のことだったけれど。

 遺言はきっと、人生をやりきったときに出てくるのだ。

 あるいは今日までの日々を、余すことなく燃やし尽くして駆け抜けていれば。

 

「……私はあと、なにをやってないんだろう」

 

 星の見えっこない天井を仰いで目を閉じた。外から車の走る音がする。一階で洗い物の音がする。ベッドの軋む音がする。鼻先から薄く呼吸の音がする。首の骨が鳴る音がする。体中を巡る血流の音がする。心臓の音がする。深く深く耳を澄ませても、心はうんともすんとも応えない。ひとりぼっちの残響が薄っすらと部屋の隅にいるだけだった。

 

 香澄はスマホを畳まれた布団の上にぽふっと投げると、相棒のランダムスターを手に取った。

 それから、Poppin'Partyの楽譜たちも。

 

「……残したいこと」

 

 漠然とした焦りに突き動かされて、香澄はもぞもぞとギターを弾いた。どうしたってか細い生の音色のまま掻き鳴らす。こっちじゃない気がするような、でもなにかを手繰り寄せつつあるような。今度は歌を歌ってみる。夜にライブくらい声を張り上げたら近所迷惑になるから抑えるけど、どうしてか、ちらつくものがあるような。

 予感だけを頼りに思いつく限りのことをし始めた。歌のメロディを弾いてみる。歌詞を読み上げてみる。ハミングをしてみる。自分ひとりの曲ではないから、練習のときにみんなが言っていたことを思い出してみる。楽譜の裏やメモに使ったルーズリーフに残されたそれらを声に出してみる。少しずつ湧き上がる気持ちを、片っ端から拾い上げては言葉にしてみる。走らせるペンが追いつかないのがもどかしくて足をバタバタしながら、放り投げたスマホを拾うと今度はビデオをつけた。

 

「……あー! たぶん! 後で恥ずかしくなる気がするけど!」

 

 カメラの前で顔を赤くしながら、香澄は『遺言』を残し始めた。

 辿々しい押さえ方、テンポもめちゃくちゃ、染み付いたフォームも知らない動きも思いつくまま、ランダムスターの震わせる弦を指先で抑え付ける。

 そして思いつく限りの気持ちを端々までありったけ、言葉に詰まれば形になるまでうろうろ歩き回ったりもしながら、部屋中にちりばめるように喚き始めた。

 

 

 

 

 

「……で、弁明はあんのか。きらきらぼし」

「ありません!」

 

 翌日。

 のうのうと家まで迎えに来た容疑者を有咲は呆れ顔で待ち受けた。

 

「なんだ『遺言ビデオ』って。しかもよりによってCiRCLE常連バンドのグループに貼りやがって。挙げ句なんで昨日に限ってスヤスヤ寝てんだよこら。説明大変だったんだぞ」

「居ても立っても居られませんでした!」

「あーそうかい」

 

 不穏なタイトルと結構長い奇行の一部始終公開により、香澄は受付のお姉さんからライブハウスCiRCLEお騒がせ罪の疑いで書類送検されている。

 証拠か印籠か、スマホの画面を突きつけて問い詰める有咲に対して、香澄容疑者は今までにないくらいすっきり晴れやかだった。ぺかーと朝日より明るい笑顔に溜め息を返す。一月の早朝にしては寒さ穏やかな通学路にローファーの踵を響かせながら、マフラー越しに有咲はぶつくさ文句を垂れた。

 

「そりゃーさぁ、私たちもちょっと無神経だったっつーか、友達になんかあったかも、って心配した後にあんな話したら思い詰めることもあるかもだけど……奇行も限度があんだろ限度が。流星堂に勝手に入られたときのこと思い出したぞ久々に……」

「えへへ……ごめんなさい」

「……別に、いいけどよ」

 

 それきりむっつり黙り込んだ有咲の周りを散歩が嬉しい飼い犬みたいにくるくる回りながら、香澄はしばらく通学路を歩いた。

 校舎の頭が遠くに見えてきた頃、有咲がやっと口を開いた。

 

「……聞いてもいいか?」

「え、なになに」

「…………遺言の話、あれで一区切りついたのかよ」

 

 香澄が止まった。

 晴れ模様はどこへやら、無表情で虚空を見つめだして有咲がぎょっと驚いたのも束の間、みるみる青くなった彼女は重装備で温かそうな友人の手を勢いよく取った。

 

「おわっ、なんだ急に──」

「全然足りない!」

「……はぁ!? 足りないってお前……あれでもか!? なんかギター回しとかベッドにダイブとかしておいて!?」

「まだ全ッ然! やってみたいことも、やろうなんて考えもしなかったことも、いっぱい残ってるもん!」

 

 捲し立てる彼女の目の色には覚えがあった。先程も思い出したばかりのファーストコンタクト──ランダムスターと香澄が邂逅した瞬間の色だ。夕焼けの中で一層赤く燃えていた、恒星のような熱の色。

 あの頃と違うのは、自分がそれにすっかり焼かれてしまっていること。

 

「そうじゃん、せっかく色々書き出したんだしバンバンじゃんじゃかやってみないと!」

 

 香澄が走り出そうとする。ギターに馴染んで少し硬くなった指先は、まだ有咲の手に緩く絡んだまま。

 

(ああ、引っ張られるな、これ)

 

 踵を返して、片手を突き上げて、香澄は振り返ろうともしない。

 

(朝から走んな、人を引っ張んな、つーか叫ぶな……しょーがねえなほんと。一緒に走る身にもなれっての)

 

 結局、有咲は学校まで香澄に置いていかれることはなく、かと言ってひとりで教室に向かって彼女をそこらへ置いていくのでもなく、音楽室まで息を切らしながら引き摺られていった。

 

 

 

 

「コード自体はわかるんだろ? そう、そこがレで、ここがファのシャープな。右手は……」

 

 吹奏楽部も合唱部もいないらしい音楽室で、有咲は自分より少し小さな香澄の手を鍵盤の上に置く。「ピアノ弾いてみたい!」と言い出した彼女に簡単なレクチャーをしていた。

 

「ほれ、たーんたたーん、たたーんたたー」

「う、意外と難しいっ」

 

 歪んだギターのロングトーンに特徴的なピアノのフレーズが乗る『キズナミュージック♪』のイントロ。独特の切なさがある響きに加えて作ったのが比較的最近なこともあって香澄の耳にも馴染んだ曲だが、いざやってみるとなかなか弾けなかった。

 右手をぐ、ぱ、っと丸めたり開いたりしながら、つるりと照る白鍵を左手でもう一度なぞってみる。

 

「コードチェンジはそのままスライドするだけだし、こう、ノリで行けそうな感じするんだけどなぁ。オクターブまで指開けないよー」

「そうか? このくらいなら全然いけるぞ」

「……うーん、手の大きさ一緒くらいだよね。有咲の方がぐわっ、っていけるのすごいね!」

「流石に年季だろこればっかりは。お前だって、左手は普通に開くだろ?」

「あ、ほんとだ」

 

 隣に立って指の開きを実践してみせる有咲の手に上から重ねてみたり、すんなり押さえられた低音側のコードだけだばだば鳴らしてみたり。興味津々でピアノを触る香澄の膝下には、ノートが開かれていた。

 

「にしても、遺言の話から飛んで『死ぬまでにやりたいことリスト』作ってくるってお前……」

「だって、言い残すこととか考えてたら『こんなに色々やってないことある! やらなきゃ!』って思っちゃったから」

「沙綾が難しいって言ってた数学の課題やったのかよ」

「…………あっ」

「はー」

 

 これ見よがしに溜め息を吐くと香澄の目が明後日の方向へ泳ぎ始める。深いことなんてなんにも考えてなかった顔だ。死に支度みたいな真似をして心配させてくれた猫耳頭にどう説教してやろうかと眦を吊り上げる有咲に、怯えた香澄が顔の前にノートのバリケードを立てて防戦の構えを取ったところで、音楽室のドアがノックもなく開かれた。

 

「やっぱり。おはよう香澄、有咲」

「おたえ! おはよー!」

「命拾いしたな……おはよ、おたえ」

 

 ノートを椅子に置いて脱兎のごとく駆け出す香澄をたえが出迎える。

 後ろ手にクラシックギターを持って。

 

「……待て。なんだそれ」

「セッションしようと思って」

「……お前のか?」

「ううん、準備室に置いてあるやつ」

 

 返して来いと言われる前に「この間、貸してくださいって言ったら、チューニングだけきちんとしてくれたらいいよって」と付け加えるたえは、ピアノの方へ視線を向けると首を傾げた。

 

「もしかして、香澄が弾いてたの? さっき」

「うん!」

 

 たえの眉がしおしお垂れ下がった。

 

「……ギター、やめちゃうの?」

「辞めない辞めない辞めない! 違うのおたえ! 触ったことないなーって思っただけで! 浮気じゃないの!」

「そうなの? ……これ、弾く?」

「ひ、弾かせていただきます!」

 

 恭しく頭を下げて両手でギターを受け取ると、香澄はさっき弾けなかった右手のオクターブフレーズをちょっと速めて弾いた。

 

「すごいね香澄。クラシックギターの指板って広いのに」

「えへへ、さっきピアノ触ってて指ぐおーって開いてたから……」

「…………」

「か、悲しい顔しないで! ほんとに浮気じゃないの! 信じて!」

「『遺言ビデオ』のせいじゃねえのか」

 

 有咲がじとりと呟くと、依然しょんぼりしているたえは小さく頷いた。彼女は長い睫毛を翳らせてぽつり、ぽつりと溢す。

 

「……死んじゃうのかなって」

「え」

「うちに駆けつけてくれたときから、ずっと元気なさそうだったから。オッちゃんは元気になったけど、香澄は段々落ち込んでいって、そのままで……ひょっとしたら、最後の思い出作りにあんな変なことしてたのかな、って」

「香澄、ごめんなさいは」

「ごめんなさい!」

 

 頭を下げる香澄のつむじにまだ言葉が落ちてくる。

 

「沙綾はまだわかんないけど、さっき会ったりみは悲しそうだったし……」

「えっ嘘!? りみりーん! ごめーん! ごめんなさーい!」

 

 うわーん、と涙声で叫びながらギターを置いて音楽室から飛び出してしまった。ひやりと風を取り残していった彼女の背を見送り、ふたりはとりあえず、彼女のノートを拾い上げた。

 

「……おたえ、なんかあいつ『死ぬまでにやりたいことリスト』作ってたぞ」

「……弾き語り、ピアノ触ってみたい、やまぶきベーカリー制ハ、もっと歌いたい、今の気持ちを残したい、ポピパフォーエバー……」

「ポピパが解散するみたいな筆振りだな……」

 

 内心少し呆れている有咲だったが、たえの真剣な眼差しに気付いて「まあ、あんま思い詰めなくても……」と宥めようとする。しかし、たえは首を振って微笑んだ。

 

「大丈夫。それに、私たちで叶えてあげられそうなこと、いっこ思いついたよ」

「……へぇー。聞かせて」

 

 時計をちらりと見ながら頭を寄せる有咲に、たえが耳打ちする。

 

 

 

 

 

 一方、音楽室を出てあちこち駆けずり回った香澄は、教室でしゅんとした顔で自席に着いていたりみに正面から抱きついているところだった。他所のクラスから彼女が飛んできて賑やかすのはいつものことなので対して注目もされない。反対からは沙綾がりみの頭を撫でている。

 

「ごめんねりみりん……さみしい思いさせたね……」

「よしよし、もう大丈夫だからねーりみりん」

「香澄ちゃんも沙綾ちゃんも、そんな甘やかさなくて大丈夫だよ……小さい子ちゃうし……」

 

 訛りを出して不貞腐れたような言い方をしても離れる素振りがないのでしばらく可愛がるふたりだったが、沙綾が思い出したみたいに「そういえば」と口火を切った。

 

「あの『遺言ビデオ』、結局なんだったの?」

「えっとねー……うーんと……やり残したこととかやってないこと多すぎる! なんかやんなきゃ! が爆発した感じ……?」

「うーんパッションかぁ……まあそうだよね……」

 

 沙綾は肩透かしを受けたようなホッとしたような、微妙な苦笑いを浮かべた。香澄が死を匂わせるほどの悩みを抱えていたら流石に気づけたはずだと信じているが、それでも友達のことである以上心配は心配なのである。

 りみは香澄の肩を掴んで押し退けつつ、目を合わせて尋ねた。

 

「自分の生きた証を残したかったー、とか、そういう感じだったの……?」

「……むん」

 

 腕を組んで考え込む。やりたいことはとりあえず列挙したものの、気持ちを深く掘り下げたわけではない。改めて自らの胸に問うたところ、返ってきたのは歌詞を書いているときのような、行き場を求めるあやふやな衝動ばかりだった。

 

「……誰かに知ってほしい、ってわけじゃない、かも。いや、うーん……」

 

 もちもちの頬をきゅっと引き締めて険しい顔で悩む香澄の頬をつっつきながら、沙綾が助け舟を出した。

 

「とにかくなにかしたい、やったっていう証明もほしい。でも、それを人に受け取ってもらうかは一旦どっちでもいい、って感じかな?」

「そう、かな。……できたら、知ってくれる方が嬉しいかも。でも、うん。まずはとにかくやりたい、って感じだなぁ。今感じてる楽しいこととか、好きなこと楽しかったこと、色んなキラキラドキドキを……まずは、形にしたい」

 

 だから音楽やってるんだもんね、と締め括った彼女は、音楽室に置かせてもらっているランダムスターに思いを馳せた。弦を爪弾くたび、感動や思い出を奏でるたび胸に響く輝きを、自分はまだ歌い尽くせていないのだ。

 香澄の削り出した原石に、りみは感嘆の息を漏らした。

 

「香澄ちゃんは、お星さまなんだね」

「お星さま……?」

「うん。持てる力の限り目一杯輝いて、それをいつか未来の誰かが受け取るのって、なんだかお星さまみたいじゃない?」

「あー……香澄は今、誰かに光を届けてドキドキさせる星になりたいのかも」

 

 ふたりの言葉が、きらりと香澄の胸に流れ落ちた。瞬いて一条描いた軌跡を心の奥から掬って反芻する。

 

「星に、なりたい」

「……なんだ、らしいじゃん」

 

 沙綾がはにかんだ。

 彼女がまだ香澄と出会っていない頃、母が体調を崩して倒れたことがある。母の代わりに助けになろうと大好きなドラムを辞めて、家業であるパン屋の手伝いに励んでいた。後悔は絶対にないとしても、暗く苦しかった時期。それを照らしてくれた香澄に死の気配を背負ってほしくはない。

 

(星になりたい──あのとき、私にキラキラドキドキをくれたような、星に)

 

 (かさ)に覆われていた核心を捕らえて頬が火照る。昨晩の暴れ出しそうな熱さではなく、冷えた指先がじんわりと解けるような。ココアを飲んでほっと零れるような。

 胸に手を当てて湧き上がる気持ちをおずおず確かめていると、教室のドアがすぱんと開いた。

 

「──香澄! こっちにいたか!」

「チャイムまであと十分しかないよ、今の内に予約しないと」

「有咲、おたえも!」

 

 急ぐあまり猫を被るのもすっかり忘れて息を荒げる有咲は、つかつかと香澄の前までやってきて尋ねる。

 

「なるたけ直近で、一日空いてる日は!」

「えっ、ら、来週! 土曜日!」

「機材はなんとかじいちゃんのコレクションとかおたえの伝手でどうにかするし、わかんねーこととかはCiRCLEのスタッフさんとかにちゃんと依頼してやってもらう──だから、今あるポピパの曲っ、全部ぜんっぶ録るぞ!」

「……………………へ?」

 

 

 

 

「麻弥さんが来てくれたのもびっくりですけど、まさか友希那先輩まで来てくれるなんて……」

 

 丸いシルエットの高級そうなマイクの脇にぽつんと立ちながら、香澄はマイクチェックをしている長い髪の美人──友希那にしみじみ呟いた。

 Poppin'Partyの初めての録音は、行きつけのライブハウスCiRCLE──ではなく、楽器もアンプもずらりと並んで輪になった、いつもの蔵の中で行われる運びとなった。内輪とはいえここで何度かライブをした実績と『ポピパの全てを残したい』というコンセプトから、むしろ相談を持ち込まれた店側からこの形を打診されて今に至る。

 派遣されてきた有志スタッフは二名。片や極度の機材オタクにして押しも押されぬアイドルバンドの凄腕ドラマー、片や香澄たちと同じライブハウスからプロデビュー決定まで駆け上がった気鋭バンドのフロントマンだ。素人バンドの収録で使うには贅沢極まりない。

 自前で持ってきてくれたらしいPCとミキサーを確認している麻弥が「いえいえ、光栄な話ですよ」と朗らかに答えた。

 

「初めての収録って特別なものですから、呼んでもらえて嬉しいです。それにポピパは同じ箱で活動してる仲間ですし、助けになれるならいくらでも」

「……少し、思うところがあっただけよ」

 

 麻弥と対照的にクールにふいと顔を背ける友希那だったが、その耳が少し赤いことに気づいた香澄は「ありがとうございます!」と頭を下げた。友希那は気恥ずかしそうに咳払いして「それより、確認するけれど」と表情を引き締める。

 

「形式としては、アルバムじゃなくてスタジオライブの音源を作りたい、ということでいいのね?」

「はい!」

 

 力強さの根拠は、教室で有咲の宣言を聞いた日の放課後、改めて尋ねた香澄に彼女が返した言葉だった。

 

『全部……って、全部?』

『ん。お前、あのノートに、もっと歌いたい、今の気持ちを残したい、ポピパフォーエバーって書いてたろ』

『う、うん』

『ポピパの歌詞はお前の気持ちと、私たちとの毎日と、キラキラドキドキしたいって夢の結晶だろ』

『有咲……』

『あのノートに書いたこと、一年半ちょっと積み重ねてきた私たちの音楽で、全部やれる。これで足らないとか抜かしたらタダじゃおかないからな』

 

 頭が良くて気が強そうに見えて、その実シャイでか弱い友達にあそこまで言われて自信を持てないような友情を培った覚えは、香澄にはない。

 

「始まりからぜーんぶ繋いで、今の気持ちをありったけ歌ってこそ、私たちらしいと思って!」

「そう。……ええ、きっとそうね」

 

 ボーカリストとして尊敬する先輩からのお墨付きも受けて、彼女は気合たっぷりにスタンドのギターを掴んだ。

 大したエフェクターも持っていない彼女のセッティングは極めてシンプル、青いオーバードライブひとつ噛ませてアンプに挿せばおしまいだ。チューニングを変える曲も一緒くたにしたセットリスト。合間の会話も録音して、Poppin'Partyというバンドの全てを詰め込む構成になっている。

 

「沙綾、『Step×Step!』の足踏みやんなくていいの?」

「流石にこうマイクとか色々ある状態でやったら転びそうだしねー。演奏に全力! ってことでお願い」

「わかった、気持ちだけ一緒に足踏みするね」

「そうだ、りみりんりみりん、おやつっていうか休憩用にチョココロネ用意してあるけど……食べながら弾く?」

「えっ…………い、いいのかな」

「マイク汚れちゃうかも」

「……貴女たち、いつもこんな感じなのね」

「えへへー」

 

 各々しっかりと音の確認はしつつも緩い空気感だった。この蔵にあれこれ機材を運び込むのは初めてのことで、テーブルを退かすわ限られたスペースにマイクが何本も立つわケーブルはあちこち這うわで物々しいことになっているが、それでも平常運転である。

 どんな状態であれ、この場所に五人で揃っているならホームなのだ。香澄は今、人生で一番無敵の気分だった。

 和気藹々とした空気に「では、そろそろいいでしょうか」と麻弥の号令が響く。

 

「まりなさんからのご厚意でスタンド類は貸して頂けましたし、機材もアンプ類は概ね市ヶ谷さんのお祖父さんのコレクションと、あとはジブンたちの私物です。普通のレコーディングと違って時間や金銭的な制限がありませんので、リラックスしていきましょう!」

「はーい!」

 

 香澄を筆頭に元気な返事が返ってきて麻弥は嬉しそうだった。モノ作りの現場は張り詰めることもあるからこそ、基本的には明るく楽しいほど良い。

 

「リハーサルはどうしましょうか」

「はい!」

 

 たえが綺麗な姿勢で手を挙げた。

 

「はい、たえさん」

「リハーサルも録音回しておきたいです! 音割れとかしてもいいので、本当になにからなにまで、全部残したい」

 

 たえの要望は麻弥への返答だが、尋ねた彼女も含めた全員が友希那へと視線を向けていた。

 バンド仲間であっても他校の先輩で、比較的交流の薄い香澄たちにしてみれば友希那の印象はストイックの権化と言って差し支えない。音割れしてもいいとは作品に対する姿勢としてどうだとか言われないか冷や汗を流す後輩一同だったが、当の本人はあっさりと「じゃあ、そうしましょう」と受け入れてしまった。

 

「特に専用でマイクを立てる必要もないわね」

「ええ。むしろ空気感の記録をメインにするなら、ステレオのルームマイクで録った全体に適宜個別の音を混ぜて最低限のバランスだけ整えるくらいが……」

「あ、あの、ほんとに大丈夫なんですか!?」

「無理なことなら無理と言うわ」

 

 思わず声を上げた香澄に友希那が淡々と切り返す。

 

「今日の私たちはただのアシスタントよ。貴女たちの指示に文句は言わない……それに、戸山さん」

「は、はいっ」

 

 ガチガチに固まった香澄の強張った顔に、少しだけ眉を緩めて。

 

()()が貴女の音楽なのでしょう?」

「──!」

「それなら、この場所で鳴っている音楽であることを強調した作品にするのがクオリティを上げる意味でも最善だと思うけれど。……大和さんは?」

「同意見です」

 

 水を向けられた麻弥は頷き返して、改めてたえに答える。

 

「花園さんも、Poppin'Partyがどういう場所(バンド)なのかわかっているからそう仰ったんだと思いますし。大賛成ですとも!」

「あとは……そうね。長丁場になるだろうから、バックアップも含めて一気にフリーズしないことを祈るだけね」

「ひぃ……!」

 

 先輩に脅かされて機械に弱そうな後輩たちが慄くのをくすくす笑いながら、麻弥はこっそりRECを押した。

 

 

 

 

 

「『たとえ未来不確かでも走り続ける Train いつか辿り着けばいい』──」

 

 持ち込んだPCの画面に走る無数の波形はピークを割ることなく、淡い青春の輝きを刻み続けている。フリーズの心配もどうやらなさそうで、友希那はヘッドフォンを少しずらして生のサウンドに身を委ねる。

 

「『この夢の先までみんなで進んでいこうね 一緒に 進んでいこうね』」

「……良い歌ね」

 

 自分の率いるバンドとは方向性の違う、しかし確かに熱を感じる音色が鼓動に解けていく。

 彼女が手伝いを買って出た理由、「思うところがあって」というのは、まんざら照れ隠しでもなかった。

 

 戸山香澄に興味を持ったから──いや、衝撃を受けたからだった。

 

 父の道を断った音楽フェスへの出場とプロデビューの決定。大願をふたつ成就させ、AO入試で受験も早々に片付けた。少し時間が出来て、余裕が生まれた代わりに背中を焦がしていた熱が収まってしまったような、穏やかながらどこか空しい冬を過ごしていた。

 行きつけのライブハウスに通っているバンドのメンツで組まれたグループチャットを覗いたのはそんな退屈な晩だった。日課として曲を作り歌の練習をし、ただルーチンワークをこなしていた彼女のもとに幼馴染から連絡が飛んできて──花を吹き散らす嵐のような、みっともないほど明け透けな、荒々しい剥き出しの叫びを見た。

 アンプにも繋がっていないニッケル弦の荒い音。弾き語りというにはあまりに原始的な声の氾濫。カメラの前で思いつく限りの心を表わす言葉を吐き出し尽くして、終いにはただただ叫びながらコードを部屋に満たし続ける彼女の()に、剥き出しの光を見た。

 

(ずっと、強くありたいと、気高くあろうと、頂点に咲けと……丹念に研ぎ澄ませて磨き上げて、整えた歌を歌ってきた。でも)

 

 題名は『遺言ビデオ』。

 普段リハスタで顔を合わせたり、周囲から伝え聞いて感じる印象からは影も形も浮かばない単語と──極彩色の感情の奔流。

 

(あんなに、心臓ごと心を抉りだすような歌を、私は歌えたことがあったかしら)

 

 表現の世界において技術は大前提にあるべきだとは思う。しかし同時に、素朴なものの中にある美しいものを忘れてしまいたくはなかった。

 だから友希那は、らしくもなく後輩の手伝いなんてものに名乗り出たのだ。

 

「『肩が触れあってる 次の駅まで同じ夢をみさせて Train』」

 

 香澄の歌が優しく線を引く。発声も歌い回しも友希那に言わせればまだまだだ。

 でも、胸に響く。その日あったことを話すような、明るく綻んだり震えて潤んだり、等身大で紡がれるからこそ。

 

「……この声に、貴女たちの世界の全てが刻まれているのね」

 

 思わず口にするのを止められないくらい、拙く未完成な歌声のこれからが楽しみになっていた。

 

 リバーブが薄れていって余韻も余す所なく録り収めところで、ぐー、と誰かのお腹が鳴った。

 多分マイクに乗った。

 りみの顔が真っ赤になっていた。

 

「……さーや! そろそろ私お腹空いちゃったなぁー!」

「そうだね香澄! 私もちょっとエネルギー切れてきたし補給したいかも!」

「わぁーなんとあんなところにチョココロネ! チョココロネがあるよ! 他にもやまぶきベーカリーのパンが勢揃い!」

「返って可哀想だろ……」

「おやつにしよっか。お腹いっぱいにならない程度に」

 

 りみが顔を覆って蹲ってしまったのをコロネ片手にみんなで慰める光景を、友希那は不思議な気持ちで見つめていた。馴れ合いは唾棄すべきものだったはずなのに、どこか愛おしく、かけがえのないものに映る。

 

「……いえ。馴れ合いと仲が深まることは、きっと別物ね」

「そうですねー」

 

 音が乗らないように潜めながら、独り言に麻弥が相槌を打った。

 

「勿論、初対面のメンバーとでも上手く合わせられる人はいますが……互いのことをよく知って、好きになって寄り添って、呼吸が合わないと良い演奏になりにくいんじゃないでしょうか。良くするための努力であるなら、馴れ合いとか嫌な呼び方をしなくていい……と、ジブンは思うんですが」

「……ええ、同意見よ」

 

 バックアップとして走らせている二台目を素早く保存、再開させながら、友希那はぶっきらぼうに首肯して──

 

「せっかくだし、次入れ替えてチョココロネやる?」

「あっ良いかも」

「あの曲さぁ、なんかコーヒー飲みたくなるんだよな」

「モカもそんなこと言ってたなぁ。『お口の中で甘さがさら〜りと溶け出し、コーヒーの苦みもまろやか爽やかに和らげてくれるマリアージュ〜、モカランガイド三つ星です』って」

「なんかそれだとモカちゃんと蘭ちゃんが評価してるみたいだな……」

「チョココロネやったらー……White Afternoonやって、STAR BEATやって……?」

「香澄はどっかに書き出しとけ」

「White Afternoonは紅茶っぽいよね」

「おたえ、まさかそれ午後のこ──」

 

 ……頷いた顔を上げた頃には、少しだけ呆れていた。

 

「……元気なものね。今日も寒いのに」

「外はともかく、ここは温かいですから。……寒いといえば、予報ではこれから雪でしたね」

「……雪が降っても融けるのではないかしら」

 

 残すは数曲。日もすっかり傾いていたが、冷え込む外のことなんてどこ吹く風な蔵の中だった。

 

 

 

 

 

 息を揃えて重ねる全音符、切ないコードに鐘のようなピアノが乗る。『キズナミュージック♪』のイントロが煌めいた。

 

 最後はこれがいいと言ったのは誰でもなかった。最後まで名前を温め続けて他を挙げられるだけ挙げ尽くしたセットリストに、香澄がなにも言わずそっと書き加えたラスト。

 

「『教室の窓の外はしゃぐ声 木漏れ日はキラキラ降り注いで』」

 

 人生の最後に残すもの。残される誰かに託すもの。進んでいく、短くなっていく人生の残りありったけを振り絞って届けるもの。

 奏でる一音一音が、いつか、幼い頃感じた衝動を追いかけることに費やした青春(じぶん)の遺言になる。そう思って始めたからだろうか。

 

(新学期の、みんながいる教室に向かってるときみたいなありふれたことから、文化祭のことでぶつかったり悲しんだりしたことも乗せて書いたんだっけ。私だけじゃなくて、みんなで意見出し合って)

 

 まだ未来に続いていく、エンディングじゃなくて一区切り。

 でも。

 

(なんだか、走馬灯みたい)

 

 色濃く浮かぶ情景が結び付いて唇から弾けていく。仲間たちと歩んできた日々を編み直す五十曲を駆け抜けて、その歌声は一種の究極へと近付きつつあった。ロングトーンが消えていく間際の揺らぎひとつで言葉に込められた全てが思い起こされるような、共感されるボーカリストとしての究極。

 友希那は最後の理性で音を立てるのは堪えながらも、立ち上がることを禁じ得なかった。

 

(これだ。──あぁ、これだ。純粋な技巧だけでは足りない、『気持ちの篭った歌』の、到達点)

 

 快哉を叫びたい心の片隅で冷静な自分がいる。これはまだ原石だ。感情表現が先走って歌そのものの完成度は落ちているし、そもそも基礎がなってないせいでバテかけてもいる。生来の声質に助けられているところがかなり大きいし、全員で歌い回すこの曲だからこそ際立って聞こえているのもあるはず──それでも。

 

(仲間と共にバンドで歌う……同じ夢を見て、絆を重ねる意義の結晶がここにある)

 

 自らの音楽に殉じる覚悟だけでいいと馴れ合いを切り捨てたかつての友希那はもう居らず、彼女はもう絆の大切さは知っている。

 だからこそ、計り知れない衝撃。

 

()()()()()。私たちが歌う理由は、私たちの音楽は、誰にも左右されなくていい)

 

「『奏でよう! 何度でもいつまでも』──」

「『精一杯! Forever for dreaming!』」

「『歌を信じる』──!」

 

(『星になりたい』だっけ。誰かの輝きになる人って、みんなこうなのかな)

 

 麻弥の眼裏に描き出される背中はふたつ。敬愛するセンターと主演俳優。香澄もあんな輝きを放つようになっていくと信じるのは難しくない。

 友希那のヘッドホンがずれて首に掛かる。呆然と立ち尽くす彼女の服の裾をそっと引っ張った。背を支えて優しく座らせながら、香澄の歌に笑みを溢す。

 

(がんばれ……違うな。大丈夫です。大丈夫ですよ)

 

 消え入りそうな優しい歌声と煌びやかなコードストローク。間奏に入っていく溜めのフレーズで顔を見合わせて楽器を振る彼女たちは今、世界に五人きり。始まりから最新までを閉じ込めたヴォイジャーレコードは、少なくともふたりに届いた。ならば、これから先も。

 

 ふたりが眩しく目を細めて見つめる先。香澄は体の中の息を一旦吐き尽くして、深く深く吸い込んだ。華やかなピアノソロを奏でる有咲に元気を示すおどけたウィンク。いつもの呆れたような笑みを受け取ったら、頭の中はまた歌でいっぱいになっていく。

 

(この歌を書いたとき、どんなことを思ってたっけ。こうなることまでお見通しだったっけ)

 

 有咲が星の降るようなグリッサンドでたえにソロを渡す間奏の中、これから口にする歌詞を思い返して香澄は首を傾げたくなった。なんだか笑ってしまいそうな、くすぐったいノスタルジー。

 

「『いつか思い出に変わったとき この歌を聴いたならどんなことを感じるかな?』」

「『愛しくて 優しく 嬉しくて 切なかった思いすべて 抱きしめ』──!」

 

 沙綾からりみへ、有咲へ、たえへ。そしてみんなで、歌い繋いでブレイク。

 未来に向かって歌いながら過去にも浸るなんて大人みたいな贅沢はまだ遠慮したい。

 目の前の今がこんなにキラキラしているのに、後ろを向くのはもったいない。

 

「『キズナミュージック 心震えて 勇気あふれて 涙がでちゃいそう』」

 

 原曲と少し変えて、少し長く間を置いたら香澄の弾き語りで進む。体に染み付いたBPMで奏でるランダムスターの音色に乗せて、最後のサビへみんなを連れていく歌を。

 

「『歌おうよ みんなで声高らかに 明日の歌を 未来への歌を!』──」

 

 ストロークをゆったりと零して目を閉じた。ディケイ、サスティーン、リリースの残響までしんと静まって──とくん、とくん、と鼓動を聞いた。

 

(まだ、生き足りない)

 

「『そんな』──」

 

 目を開けて、ギターを振り上げて──一斉に。

 

「──『ミュージック 大好きな歌 約束の歌 永遠の歌 届けよう! わたしたちいつだって 精一杯! Forever for dreaming!』」

 

 たまらず駆け出すようなシンコペーションで重なる歌を、五人で宇宙へ打ち上げる。振り下ろした勢いでちょっぴり手元がブレる。たえが目を輝かせてヘッドを掲げる。りみが揃えた爪先で小さく跳ねる。沙綾がイタズラっぽく微笑んでスティックを回す。

 

(辛気臭い顔したと思ったら急に変なことするわ、覚悟決まった目で演奏するわ……気が気じゃなかったってーの。)

 

 有咲は香澄の顔を見て、やっと少し安心した。

 

「『キミと一緒だよ』!」

 

(人の気も知らないでまったく、良い顔しやがって)

 

「『Forever for dreaming! キミを信じる──』」

 

 イントロと同じフレーズでのエンディング。香澄たちのバックに有咲のピアノがまた重なる。最後の見せ場だからって香澄の好きな星みたいにはしてやんねーよと、努めていつも通りに弾き終えた。

 

「……終わったぁー! うわぁー……」

「はー……流石に大変だったなぁ」

「お疲れ沙綾。何十曲やったかな」

「数えたらもっと疲れそう……明日は筋肉痛だなぁ」

「お疲れさま、沙綾ちゃん」

「あー、利くぅ……ありがとりみりん……」

 

 香澄がギターを置いて端に寄せていたソファに飛び込むのを皮切りに、みんな疲れを自覚してへとへと倒れ込んだ。バイトに趣味のランニングに鉄人なたえでさえ肩をぐるぐる回してストレッチを始め、家の手伝いで日頃重い物をよく運ぶ沙綾もタムにもたれ掛かって肩揉みを受けている。

 指を組んで伸びをしていた有咲はすっかり気を抜いていたが、視界の端で先輩たちがPCを操作しているのに気づいて「あっすみません!」と声を上げた。

 

「任せっきりなのにダラけちゃってすみません。どうでした……?」

「……少なくとも、途中で切れたり飛んだりはしていないわね。変にノイズが乗ってる様子も……ええ、今のところはなし。保存もしたわ」

「じゃ、じゃあ!」

「問題なし。……頑張ったわね」

「……ぃよっし!」

 

 言い出した責任と長丁場、どころか楽しかっただけで疲労度なら修羅場と言って差し支えない現場を潜り抜けた達成感がガッツポーズを叩き出す。仲間内でもあまり見ない姿にちょっと驚く沙綾たちだが、本人は香澄を叩き起こそうとしていた。

 

「どうだ香澄、流石にこれで満足だろ!」

「──はっ!」

 

 がばっと跳ね起きて、彼女は有咲を見つめ返した。それからバンドの仲間、協力してくれた先輩と順々に巡って、胸に手を当てながら目を閉じる。

 そして、居住まいを正すとふにゃりと微笑んだ。

 

「……まだ全然!」

「え」

「えっ」

「だって……私が今歌い切って残したのは、さっきまでの私だから」

 

 みんながポカンと声を漏らすのも構わず「んしょ……」と立ち上がってギターを手に取る。一旦気が抜けたからかピッキングも押弦も力が入っていなくて「あー、もうげんかいー」と弱音を言いながらも笑みはそのままで。

 

「私、まだ足んない! 今の全身全霊を出し切っても、明日も、明後日も生きてくんだもん。みんなともっと歌いたいし、新しい曲いっぱいやりたい! バレンタインが来たらチョコの曲とか作りたいし、先輩たちに卒業ソングとか送りたいよ!」

 

 ピックを取り落として、それでも手でコードを弾いてみせる。彼女のギターはまだ溌剌と色彩豊かに歌っている。

 

「明日も明後日も来年も十年後も、一生ともう一秒先まで最高の人生でしたって言えるように生きて……最後に『あー、あともうちょっとだけ』って、笑えるように」

「……じゃあ、またやるか」

「うん!」

 

 晴れやかに笑う香澄に毒気を抜かれて、有咲もちょっとだけ湧き上がった怒りがすっかり雲散霧消してしまった。彼女がわざとらしく溜め息を吐くのを見て一層にこにこする香澄は「二次会するぞー!」と言い出した。

 

「お泊まりしたいお泊まり!」

「香澄ちゃん、流石にご迷惑なんじゃ……」

「…………」

「有咲?」

「……………………取ってある。許可」

「有咲ー!」

「いえーい」

「あー! 暑苦しい! 離れろ! ……このっ、今日もう力入んねえ……!」

 

 有咲が香澄とたえに挟まれて揉みくちゃにされたのをほっこり眺めながら、沙綾とりみはケーブルを手早く回収して巻いている麻弥とPCを片付ける友希那に頭を下げた。

 

「先輩方、今日はありがとうございました」

「あの、先輩たちもよかったらもう少し……」

「お誘い頂けるのは嬉しいんですが、夜から天気が怪しいらしく。今のうちにお暇しようかと」

「そうですか……」

 

 さっさとケースに機材を納めた麻弥は恐縮そうに頬をかく。そこに沙綾が「じゃあ!」と休憩に使ったテーブルから袋を掴んできた。

 

「お土産どうぞ! やまぶきベーカリー特製、冷めても温めても美味しいキッシュです!」

「わ、ありがとうございます!」

「じゃ、じゃあ友希那先輩にはこれも……! ミックスってすごい頭使うって聞いたので、チョコクロワッサンを」

「……ありがとう、牛込さん。良い出来にするから楽しみにしていて頂戴」

「はい!」

 

 機材をアタッシュケースにしまいキャリーで引く麻弥を連れ立って、自分のマイクをケースに納めた友希那は後輩たちに見送られて蔵を後にした。外に出れば風が冷たいが、覚悟していたよりは寒くなかった。果たして電車は大丈夫かと空を見上げると「……お、運が良かったですね」と麻弥が目を丸くする。

 

「晴れてましたね」

「……ええ。杞憂だったわね」

 

 藍色の沖にカシオペア座が薄く灯っている。白い息がふわりと浮かんで、あっという間に透き通っていった。

 

 

 

 

 

 少し経って、進級を控えた春休みのこと。

 せっかくだからとBlu-rayディスクに焼いたあの日のライブ音源を鞄に入れて、香澄は友希那の呼び出しに応じていた。商店街にある馴染みの喫茶店に顔を出し奥に席に通されると、そこには頬にかかる髪を耳に掛けながらコーヒーカップに口を付ける友希那が座っていた。「お待たせしましたー!」と駆け寄る香澄に彼女は目礼で返す。

 

「……ごめんなさい。事務所の絡む用事でもあるから、人目を憚るようなことをさせて」

「いえいえ! なんかちょっと、スパイみたいで楽しいです! そうだこれ、例の……」

「ありがとう。こうして形になると、関わったひとりとしては嬉しいものね」

 

 五色のペンで彩られた白い円盤を受け取ってそのままテーブルに置くと、前置きもそこそこに友希那は要件を切り出した。

 

「ボーカロイドはわかるわね」

「は、はい! ネットで結構聞きますし、カバーもやったりしますから」

「うちの事務所で今、私の音声ソフトを作る企画が立ち上がっているの」

 

 香澄はポカンとして、それから「えっ!? すごーい!」と我が事のように喜んだ。

 

「欲しいですユキナロイド!」

「声は抑えて頂戴、念のためね」

「あっごめんなさい……でも、それ私に話しちゃって大丈夫なんですか? こう、秘密的な……」

 

 もっともな疑問に、友希那は「まだ確定ではない話だけれど」と前置きして続ける。

 

「モデルになった歌手や声優が明かされていない、匿名のボーカロイドもいくつか世にあるそうね。私がモデルのものは、普通に名前を公表することになるそうだけれど……もうひとつ、匿名のものも作ろうか、という草案が上がっているの」

「へぇー……」

「それを聞いて私は、貴女を推したの」

「ほぇー……えっ!?」

 

 目を白黒させる香澄が落ち着くのを待って、友希那は先に受け取ったディスクをそっと撫でた。

 

「求めてるのは誰かの胸に響く声であること、歌唱技術よりも入力された歌詞に共鳴する声であること……真っ先にこれを思い出したわ。あのときの貴女の歌声は、まさしくそうだった」

「友希那先輩……」

「……私がこの企画を引き受けたのも、あのときの貴女の言葉がきっかけよ」

「え?」

「『遺言』」

 

 物々しい言葉を引っ張り出す友希那の目に茶化す色はない。香澄はきゅっと唇を引き締めて耳を傾ける。

 

「人生の最後に残す言葉を考えた、と言っていたわね。最後の瞬間に残す気持ちを、生きてきた事実を残したいと」

「……はい。そうはいっても、なんかメッセージとか考えてたわけではなかったんですけど……」

「わかってるわ。私もそういうつもりではないし……残したものを有意義に使ってもらいたいと考えたら、ドナーみたいだと思ったのよ。私は歌に生きている……なら、この声を残せるなら、誰かに生かしてほしい」

 

 ドナー……臓器提供。香澄は遺言について考えたときに、そのことまで調べたのを思い出した。意思表示カードに提供の意思を記し、死後はそれに則って処理される。

 知らず、胸に手を置く。それから擦り上げて、喉に。

 

「声の移植なんてことが可能なのかは知らないけれど……合成音声として残すなら、悲しみに暮れて詩を書き殴りたい、それを歌いたくても歌えない誰かの声になることができる。なにも失うことなく」

「……誰かの、声に……私の声が、誰かの気持ちに」

「どうかしら。資料は貰ってきているから考えてもらえたら──」

「やります!」

 

 ふんす、と鼻息荒く言い放つ香澄に友希那は眉を顰めた。

 

「……そう答えるだろうとは思ったけれど、親御さんに持ち帰ってから考えなさい」

「友希那先輩は即決じゃなかったんですか?」

「…………親に話を通すくらいはしたわ」

 

 バンドメンバーの真面目な元風紀委員に叱られたことは伏せた友希那を香澄は疑わなかった。

 

「いいと言うなら、私は構わないけれど……」

「やりたいです! ……私の声が、誰かのあやふやな夢を結晶にして、走り出すための道標になれるなら。誰かのキラキラドキドキになれるなら、やりたい!」

「一応しばらく待つから、今日は持ち帰りなさい。……でも」

「?」

「ありがとう」

「……えへへ」

 

 カフェラテを一杯とケーキと共に近況報告をして、それから友希那とは別れた。

 資料を入れたクリアファイルを鞄に大事に納めて、くすんだ春空に手を伸ばして歩く。薄曇りの淡い色から花びらが一枚落ちてくる。

 

「……私にとってのポピパが見つからない誰かが、もしも、私の声を見つけてくれたら」

 

 雲の上は、きっと澄んだ青空が広がっている。

 

「もしも、誰かの夢が、また誰かのキラキラドキドキになったら」

 

 青空の向こうには宇宙がある。

 星が瞬いている。

 誰かに光が届く日を、きっと待っている。

 

 

 

 

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。