海の底で月明かりに照らされている。

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 心を海に喩えます。



月に滲む

 

 海の底にいるみたいだ。

 そんなことを、ずっと考えている。

 俺の人生は海の底だ。

 息苦しい、海抜0メートルを越えたマイナスで沈んでいる。自由に息はできない。口だって動かせない。水圧で潰されそうになりながら、暗い水の中で(もが)いている。波の向こうは滲んで、何があるのかも分からない。

 そんな世界で、俺は生きている。

 

 

 

 使える物ならなんでも良かった。

 ピアノを弾いた──部屋がトロフィーで満ちた。どうでもよかった。

 ギターを弾いた──表彰状が嵩張るようになった。どうでもよかった。

 ドラムを叩いた──メジャーデビューの誘いを受けた。どうでもよかった。

 曲と一緒に詩を描いた──仕事にできる、と言われた。そんなことは、本当にどうでもよかった。

 

 人に言わせれば、満ち足りているらしい。

 皆、俺を才能の塊だと言う。

 天才だと()(はや)されて生きてきた。

 「君の音は素晴らしい」なんていう、聞き飽きた賛美句がしつこく耳朶に残っている。数十年音楽で生きてきた両親も、同じようなことを言っていた。

 

 自分で認めてしまうのは鼻につきすぎる行為にも感じられるが、かと言って謙遜しすぎては嫌味のようになってしまう。だからまあ言ってしまうと、確かに俺は恵まれていた。

 持って生まれた才能であったり、生まれ育った環境であったり、運でさえも恵まれていたと言っていい。とにかく、音楽を嗜む他人からすれば喉から手を出してでも欲しいものの多くを、俺は当たり前に備えていた。……やっぱりこういう言い方をすると、どこか角が立つように思えるな。どこかに上手い表現が転がっていないだろうか。

 

 ただ、ひとつ言わせてもらうなら。

 その全てがプラスだとしても、帳尻合わせのように俺にはマイナスが付いてまわっていた。

 簡単な話だ。

 俺には、何かが足りなかった。

 明確に足りない何かがあった。

 己を満たせない理由があった。

 

 足りない。未だに足りない。どれだけ音楽をやっても、どれだけ曲を描いても、穴は埋まらないまま、ただ数年が過ぎた。

 表現欲に終わりはない。

 足りない何かを探したまま、なんでも良かったから、使えるものはなんでも使った。どうかこの心を満たす何かがあればと願って、何もかもをした。

 それでもまだ足りていない。まだ満たされない。

 

 だから音楽を描いていた。

 俺は想像力という海に沈むことしかできない。

 俺は音楽を奏でることしかできない。

 いつからだったのかは忘れてしまった。

 いつまで探すのかも分からない。

 ただ、どうやら俺には何かが足りない。それだけはわかっている。

 

 何かを描きたい。

 オスカー・ワイルド曰く、芸術活動は長く続く自殺行為だという。なら、俺は俺の人生で何かを描きたい。自分を満たす何かを描きたい。そう思い始めた頃から、気がつけば水の中で沈んでいた。

 一切の光も差さない海の底で、ずっと足りない何かを探していた。

 

 

 

 雑音(ノイズ)で溢れる駅前のロータリー。褪せたそこに、自作の音楽で彩りを与える。それが俺の習慣の一つだった。

 人賑わいがそこまで激しくないこの駅は、駅長さんの好意でギターの演奏を大目に見てもらっていた。

 

 歌が付いていない、ギターコードの集合を無心に音楽へと変えていく。

 集まる群衆も響く拍手も、嬉しくはなれど満たされることはない。何が足りないのかさえ分からなくて、とにかく音楽を奏でていた。

 

「ねえ、そこの……ギターを弾いていた」

 

 湊友希那。その少女に出会ったのは、そんな日が続いた中学三年の冬の日だった。

 中学に入学してから吹奏楽部に入ったはいいものの、人間関係の悪化は避けられなかった。往々にして特殊な人間は爪弾き者だ。学校の部活動なんていう小さなコミュニティでさえ例外ではない。

 

「今弾いていた曲、聴いたことがないのだけれど」

「そりゃ、世間に出てる曲じゃないからな」

 

 二週間で吹奏楽部を退部してからは、ひたすらに音楽にのめり込んだ。真面目に学生をして、放課後は外で音楽。ライブハウスに通いつめたり、こうして自宅から数駅離れたロータリーでギターを弾く日々。

 そんな日々の一片で、彼女と出会った。

 

「……もしかしてその曲、あなたが?」

「まあ」

 

 演奏が終わり観衆が各々の生活に戻ってから、後片付けに勤しむ俺の正面まで歩いてきた彼女が開口一番に言い放ったのは、そんな言葉だった。

 

 演奏後に話しかけてくる人は、実のところかなり多かった。俺の音楽を褒めてくれるのが大半で、あとは妬みだとか陰口だとかを吐き捨ててくる人がたまにいるくらい。

 前者は当たり前だが嬉しくなる。

 後者は、意外にも割と傷つく。自分の人生を音楽で結びつけようとしている俺にとって、音楽の否定は自分自身の否定と同じだったからだ。

 そういうことがあるから、そそくさと撤退するべくギターを仕舞おうとして。

 

「もう一度、聞かせてもらえるかしら」

「なんでだ?」

「何か掴めそうだと思って」

「何かって、何」

「それは、分からないけれど」

 

 そこまで会話をして初めて、顔を上げた。

 この近くの女子中の制服から視線を上に移す。まず、綺麗な銀髪だな、と思った。次いで金色の瞳。可憐ながら強かで芯のある表情の裏に、どこか脆さがあるような気がした。

  

「あなたの曲から、何か得られるかもしれない」

「……まあ、いいけど」

「なら良かった。早く始めましょう」

「ちょっと待て、お前さては意外と強引だな?」

 

 切り離したギターとアンプを繋ぎ直す。うずうずとする顔つきは、どことなく楽しそうだった。さっきの張りつめた表情より、ずっといい。  

 

「ちなみにギターしかないぞ?同期音源持ってきてないから」

「十分よ」

「で、何をするの」

「さっきの曲、歌詞は作ったのかしら」

「いや、まだだな」

「ならそこからね……もう一度通してみて。私が同時に歌詞を付けるわ」

「……一回で付けれるか?」

「ええ」

「……やってみろ」

 

 なんだ、これ。

 ギターを握る手に力がこもる。ノイズをシャットダウンする、集中時特有の独特な聴覚に息を吐く。自分の体ごと音に乗せようとする、その重み。

 久しぶりだ、この感覚。

 しばらく理由を探して、納得がいった。

 なるほど、俺は少し怒っているらしい。俺の作った曲を一度聴いただけで合わせて詩をつける?まさか。それができるほどこの曲は単調だと、彼女はそう言っているのか。

 

「──────」

 

 ギターを弾く。

 アンプ越しの音で色を与える。音楽は絵に似ている。現実という大きなキャンバスに、自由に色を塗るような。駅前のロータリーは茜色。路地裏は薄墨色。商店街は淡青色。音楽を聴いた人が、そんなことを思い出すように。そんな風景を見るように。そういう音楽を、俺は指で(はじ)く。

 一番サビを弾き終えたあたりで、いや、と思った。

 単純な色だ。色そのものではなく、その色の在る場所が。誰もが「こうだ」と思う、簡単に情景が浮かぶような音。その情景にあるべき当たり前の色。

 

 ───足りない。

 

 それでは足りない。現実味(リアリティ)は要らない。自分の知るカタチに落とし込む必要はない。想像力という重力から抜け出すように。海にいるというのなら、表現力の波を作る鯨のように。

 もっと。もっと。もっと。足りないのなら、足す。波を重ねる。そうしてギターを弾くだけ。

 間奏を弾き終えて二番に入る──その途端に。

 

「───♪」

 

 歌が聞こえた。力強く叫ぶようでありながら、繊細で柔らかな歌声。

 ぞくりと、確信めいた予感が背筋を走る。場を支配される直感に思考が止まる。細かな調整をした色で描いた絵に、原色で溢れた筆を振るわれるような錯覚。俺のギターしかなかったキャンバスに、色が重ねられている。……いや、重ねるというよりも。

 

「……上書きだ」

 

 (うた)が響いている。即興で作った詩が、俺のギターと並んで鳴っている。AメロもBメロも、サビも、Cメロにも。この曲に俺が込めようとした何かを、彼女は的確に吹き込んでいた。

 

 その事実に戦慄した。

 この出来を、時間にして1分にも満たない時間で。俺の曲を、さっき一度聞いただけで。このレベルの歌を、このレベルの歌唱力で。

 

 曲が(うた)に。旋律が旋律(うた)に。

 呑まれる。彼女の歌声の圧倒的な存在感に、俺のあらゆる音が呑まれていく。けれど、それは彼女にとっても同じこと。どちらかが少しでも油断すれば、その瞬間もう一方がこの曲を支配する。俺のギターと彼女の歌声が、曲の主導権を競い合うように鳴り続ける。

 

 彼女の詩に合わせるようにアレンジを入れる───即座に歌詞の合わせ方を調整する。

 彼女の歌声のクオリティが上がる───メロディの転調で追いつく。

 張りぼてだった一曲が完成する様を見た。一瞬毎にクオリティが上がる。一フレーズ毎に音色が揃う。別々だった歌とギターが、一つに溶け合うような感覚。

 はは、と掠れた笑い声が漏れる。こんなの、あまりにも無法だ。

 

「どうだったかしら……その顔、聞くまでもないようね」

「めちゃくちゃ良かった。俺には作れない」

「そうね。私にとってもいい経験になったわ」

「……完璧だった。歌詞も歌も。俺が今まで一人で作ってきた音楽のどれよりも」

「当然よ」

 

 あの短時間で作り出した歌詞。彼女の歌声。それが合わさっただけで未完成の曲が完成したという事実に、がつんと頭を殴られたような気がした。

 何度かバンドに混ざって演奏をしたことはあった。けれど、俺のギターにここまで付いて来たのは彼女が初めてだった。そして何よりも、セッションと同時進行で曲が完成していく過程。その曲が、俺の今までの最高傑作になったという確固たる現実。自分の常識をたった一人に覆されて軽く眩暈を覚える。

 その天才と呼ぶことですら烏滸がましい暴力的なまでの才能を聴いたうえで、一つ結論付けた。

 

 ああ───なんて、釈然としない。

 

「あなた、名前は?」

「……音無(おとなし)、でいい」

「苗字?」

「まあいいだろ、下の名前は。えっと……」

「私は湊友希那。音無さん、一つ提案があるわ」

「演奏はもう無理だぞ、帰宅ラッシュ中はさすがに迷惑だ」

 

 気が付けば一時間ほど演奏を長引かせてしまった。やけに拍手の音が大きいと思ったが、どうやら俺も彼女も無意識のうちにヒートアップしていたらしい。

 

「ライブハウスに行ったことはある?」

「まあ、基本的にはずっといるけど」

「ならいいわ……明日、この近くのライブハウスに来て頂戴」

「そこに行けばいいのか」

「ええ。放課後に」

 

 淡白な会話だ。ほとんど業務連絡と変わらない、端的に過ぎていく掛け合い。お互いそれがデフォルトなあたりどこか似ているのかも、なんて思考が脳裏にちらついた。

 

「この曲はまだ完成していない。完璧な曲にするには、もう少し時間がかかるわ」

「たしかに」

「だから、明日。あなたにもそのつもりがあるのなら」

「むしろこっちからお願いしたいくらいだ。よろしく、湊さん」

「ええ」

 

 約束とも言えない会話をして別れた。

 ギターケースを担いで歩き出す。茜色だった駅前はすっかり宵闇に染まってしまった。冬の夜だから手先が(かじか)んで感覚が鈍い。混んでくるとギターケースを抱えて構内を歩くのも一苦労だ。こうなる前に帰りたかったのに、と(ひと)()ちてから改札を通った。

 白く吐く息が、どこか苦しかった。

 

 

 

 次の日、件のライブハウスで湊さんと出会った。

 受付のスタッフの人と会話をしているところで、「ちょっと」と背中から一声。声質が力強いタイプだからか妙な迫力がある。それでもどことなく可憐な雰囲気を感じるのは、彼女の声の特徴だった。

 

「何をしているの」

「見れば分かるだろ、初めてだからいろいろ教えてもらってるんだよ。部屋の使い方とか、受付とか、予約の仕方とか」

「ライブハウスにはよく行く、と言ってたわよね」

「細かいシステムが違うんだ」

 

 はあ、とため息。機嫌を損ねてしまったらしい。

 

「スタジオの予約、入れていい?時間の無駄よ」

「俺思うんだけど、湊さんって結構フィーリングで生きてるよな」

「なに?」

「なんでも」

「はあ……予約、二人でお願いします」

「はーい……あれ、友希那ちゃんが個人練じゃないの珍しいね?」

「そうなんですか?」

「音無さん」

「悪かった、行くか」

 

 軽口を叩きながら用意された空きスタジオへ向かった。けど実際俺の評価は間違いじゃないと思う。駅の近くのライブハウスという情報からここにたどり着くまで、どれだけ苦労したことか。

 

 スタジオに入った途端、何を言うまでもなくギターとアンプを繋ぎ、同期音源のセッティングを始める。湊さんも手伝いながら、準備が終わるのと同時にマイクの前に立った。

 会話はなく、受付前で投げ合っていた雰囲気はとっくに霧散している。

 昨日の曲を、もう一度。擦り合わせるまでもないそんな共通認識を、行動だけで示し合わせながら。

 

「準備はいいかしら」

「いつでも」

 

 なら、始めて。そんな声に続けて、昨日のものにアレンジを加えたイントロから弾き始める。同時に響くのは今朝自宅で録った同期音のドラムとベース。どこか安っぽいように感じるが、無いよりはマシだろう。昨日の完成は俺のギターと彼女の歌だけのもの。他の楽器が加われば、表現の幅ががらりと変わる。だから、今日は昨日の焼き直し。この曲を、本当の意味で完璧にする。ギターでメロディを。ドラムで全体のテンポを。ベースで下地を。キーボードでまとまりを。そうして、最後にボーカルが入る。

 

「───♪」

 

 ──歌声。世界そのものを震わせるかのような、そんな(うた)

 耳に届くアリアに手が震えた。息が詰まった。見えていなかった壁を見せつけてくるような、そんな気がした。それは乗り越えられない絶望というよりも、飛び越えてみせろと語りかけてくるような。昨日あれだけ聞いておいて、まだこんな風に思えるなんて。

 

 俺の音楽が自分の何かを満たすためのものだとするのなら、彼女の音楽は自分を証明しようとするものだ。

 

 俺は自分のために、自分を満たすための音楽しか作れない。それは芸術を作る上で理想的であると思っているし、間違いだと思ったことはなかった。

 

 一方で彼女の歌は、彼女自身の叫びだった。目を閉じれば情景が浮かぶ。感情を込めた声に胸を締め付けられる。当たり前のように与えられたその表現力の中に、彼女の強い意志がある。自分の歌を証明してみせると叫ぶような、明確な芯がある。

 

 同期音が物足りない、なんて考えていた数秒前の自分が情けない。物足りないどころじゃない。あと少し質が悪ければ邪魔にさえなっていた。

 

「────はあ」

 

 演奏が終わると同時に、疎かになっていた呼吸を再開する。修正にかかった時間はたった数分。昨日よりも格段に速いペースで、この曲は完成にまで至った。

 

「いい曲ね」

「そりゃどうも。湊さんの歌は───」

「言う必要はないわ」

「?」

「音無さん、すごく嬉しそうだから」

「……だろうな」

 

 嬉しい。確かにそうかもしれないが、正確じゃない。悔しさと妬みが俺の今の感情の半分を占めている。けれどそれを補って余りある興味がある。湊友希那という一人の歌声に、俺の人生で一番の興味を惹かれている。

 

 どれだけ才能があっても、自分の音楽では自分を満たせなかった。足りない何かの正体でさえ分からない日々にも、正直飽きが来ていた。

 そんな中で、彼女に出会った。

 それはまるで、現実という湿地帯にからりとした風が吹くような。

 久しく感じていなかった高揚に、どうしようもなく振り回されているのを実感する。

 

「どうだった、俺の曲は。なんか気になるところはあったか?」

「いいえ、不満点は無いわ」

「なら良かった。そこで湊さんに提案なんだけど」

「何かしら」

「まだ完成してない曲があるから、一緒に完成させないか」

「私と?」

「湊さんと、俺で」

「やるからには中途半端なものは許さないわ」

「もちろん。完璧な曲を作るつもりだ」

「……構わないわ。私も最初からそのつもりだった」

「よし。じゃ早速始めるか」

 

 それだけ言って、ギターを弾き始める。さっきまでとは違う、彼女にとっては聞いたこともない曲。俺の付けた色しか載っていないキャンバスに、彼女が色を上乗せする。

 一度弾き終われば、サビに歌詞が付いた。

 二度弾き終われば、AメロとBメロに色が付いた。

 三度目からは調整。俺が彼女の歌を引き立たせるように、彼女が俺の曲を生かすように。アレンジという名の仕上げを、リアルタイムで更新する。

 

 音楽が一頭の鯨を(かたど)って、スタジオを悠々と泳ぎ回る。言葉のオキアミを呑みながら、大きな尾びれと鼻先でメロディの波を掻いて進んで往く。耳から身体の中に入って、沈んで、心の海に深く潜って往く。

 そんな光景を幻視した。そんな感覚を幻覚した。彼女の歌はそんな没入感を感じさせた。演奏を続けた数時間はほとんど一瞬で過ぎ去った。

 

「ここまで手応えのある曲は久しぶりだわ」

「何より。俺も湊さんの歌には驚かされてる」

「お互いにいい刺激みたいね。音無さんは明日も空いているかしら」

「まあ、放課後なら」

「それなら、明日からは私が作った曲を持ってくるわ」

「湊さんの曲?」

「その通りよ。明日も最高の曲を作るから」

 

 スタジオの予約時間が残り5分になったあたりで、俺の用意した曲はすべて完成した。

 俺が作った曲は別のものへと変化していた。彼女の色になったわけではない。ただ、絶妙なバランスで俺の曲の中に彼女の歌が混ざった。例えるなら、もともと一つだったものがあるべき形に戻っていくような。彼女も似たような感想を覚えたらしい。

 

「じゃ、明日もここで。また」

「ええ」

 

 軽く手を振ってから、見慣れない夜道を歩いた。  

 やけに暗い道が、海底のように見えた。

 

 

 

 曲を作っては持っていき、次の日は彼女から曲を手渡される。その繰り返し。

 そんな交流が始まってから一週間後には、受付ではなくスタジオで顔を合わせた。

 

「一人で予約できるようになったのね」

「見直したか?」

「別に、普通でしょ。一週間かかったのは遅いくらいよ」

「いつも湊さんが来るの早すぎて、とっくに予約してあるからなんだよな」

 

 一週間の付き合いを経ても、彼女の歌の魅力を分析し切ることは出来ていない。

 今日は、少し趣向を変えてみることにした。彼女の声だけでなく、彼女そのものを見つめてみる。彼女の心があるとしたら、きっと喉の下。彼女の声が描く世界は、どうしてあそこまで強固なのか。

 

「いくつか曲を作ってきたわ」

「これ、もう歌詞まで付いてるぞ」

「全体的な出来に納得がいってないの。音無さんからのアレンジを踏まえてみたい。特にイントロと、Cメロからアウトロへの繋ぎね。気になるところは自由にして頂戴」

「そこまでやると、俺の曲になっちゃうかもだけど」

「構わないわ。あなたの思うようにアドリブをかけてみて」

 

 湊さんが曲を持ってくる日は、最初とは逆の形で音楽を奏でているのが常だ。つまり、俺の曲が先なのではなく、彼女の作った雛形をなぞっていく。

 既存の曲をアレンジすることは比較的少ない。家で話題の曲をアレンジすることはあれど、それを外で弾くことはなかった。誰かの模倣で作り出した芸術を自分の人生と結び付けたくはない、というちょっとした意地のようなものからだった。

 

 ある程度弾き慣れてから、マイクに顔を近づける湊さんを見やった。彼女はまっすぐに立って歌っていた。姿勢だけではなく、その心持ちも。神様が与えたかのような厚みのある声で、繊細に歌ってみせる。その迫力に、自然とこちらも背筋が伸びた。

 

 歌を生む口先に迷いはない。しばらく声を出しては、納得のいかないパートを歌い直して更新する。一切の無欠を追い求めている。

 歌唱力はその辺りのプロにも負けない。メンタルの強さも問題ない。

 ただ、やっぱり釈然としない。その全てが、執念じみていることだけが違和感がある。

 ここ一週間で、彼女は俺とは違う何かを追い求めているような、何かに苦しみながら歌っているような。そんな確信を抱き始めていた。

 

「私は、頂点へ行く」

 

 その言葉には、どこか焦りがあったように思う。

 

「どんな壁があるとしても越えて、メジャーの世界で自分の歌を認めさせてみせるわ」

「そういうことか」

「音楽をする理由を教えてほしい、なんてずいぶんと急な質問ね」

「ちょっと気になっただけだ。そんな深い意味はない」

 

 その執念の火種までは分からなかったけれど、彼女の中で(くすぶ)る衝動そのものは分かるような気がした。彼女には、俺のように漠然とした目的ではなく、はっきりとした輪郭を持つ到達点がある。

 

「なんて言うか……いいな、明確なゴールがあるのは」

「……音無さんは、なぜ音楽を作るだけなのかしら。このレベルの曲なら売ることだって」

「たかだか15歳だからな。生き急いで音楽を売る必要はないってだけ」

「意外だわ。自分の音楽でメジャーデビューをしたいとは思わないの?」

「まあ、おいおいは」

 

 俺が曲を作るのは完全に自分のためだ。音楽だけで生きていたい。けれど、部屋で一人ギターを弾くだけでは生きていけない。このまま何も変わらなければ、いずれ音楽で食べていかなきゃいけない人間になることくらいは分かっている。

 

「でも今はとりあえず、生活のために音楽を作らなくていいからな。できればそういう歳の間に、売るためじゃなくて、自分が救われるような、人生が模すような曲を描きたい」

「人生が、模すような」

「そう。人生が模倣するくらいの、俺の音楽を描きたい」

「……私には分からないわ」

「だいぶ変わってるってことは自覚してるから」

「自覚しているのね」

「なんだその意外そうな視線は」

 

 彼女の持ってきた曲は半分だけ完成した。もともと数が多かったのもあるが、俺が彼女の世界観に慣れるまで時間がかかったのも原因だった。知らない人間が作った曲のアレンジは難しい。もうしばらくすれば、慣れるのかもしれない。

 

「音無さんにも苦手なものがあるのね」

「俺を何だと思ってるんだ。次までに終わらせてくる」

「楽しみにしているわ」

「ああ、また」

 

 ライブハウスを出てから、彼女の背中が見えた。どこか孤独を感じさせる背中が物悲しかった。

 背負い慣れたギターの重みを、水圧みたいだと思った。

 

 

 

 交流を始めてから一ヶ月が経った頃、彼女は改まったように話しかけてきた。

 

「音無さんの曲を歌うときは、普段と違う気がするの」

「どんな風に?」

「分からないわ」

 

 一ヶ月間ほとんど毎日のようにギターを弾いてきて、湊友希那という人間について少し分かったことがある。彼女と俺は少し似ていた。

 才能と努力量に裏打ちされた圧倒的な歌唱力。常に上へ目指そうと無駄を排除する姿勢。自身の持つすべてを音楽へ注ぐ精神。俺が知る高みへ至る人間としての要素を、彼女は過不足なく持ち得ていた。

 

「私はあなたと違って、自分のために音楽をしているわけじゃない。でも音無さんの曲を歌うときは、まるで自分のために歌っているようで。でもそれは……」

「良くないこと、か」

「ええ。頂点に行くのなら、そんな感情は要らないはず」

「まあ確かに」

「だから、自分でもよく分からないの。なぜこんなことを考えているのか」

「そんな気に病まなくてもいいと思うけどな」

「?どういうことかしら」

「一人で抱え込む必要がないってこと」

「そうは言っても……」

 

 ギターを弾く。

 彼女の作る曲にもすっかり慣れて、最近は二人での共同製作が増えていた。

 

「あれ、伝わんないか」

「?」

 

 音で彩る。

 いつの間にか、俺のキャンバスには彼女の付けた色が残っていた。

 

「いるだろ、ここに。湊さんが好き勝手吐けるやつ」

「───なによ、それ」

 

 初めて、自然と漏れ出たような笑顔を見た。友人と言うには遠く、知り合いと言うには近い距離感。お互いに似た者同士であるからこその、気軽な掛け合い。どうやら、この関係性は彼女にとっても心地良いものらしい。なら、もっといい曲を描きたい。少しでも、彼女の心の支えになるような。

 

 彼女から「また明日」と言って別れたのも、今日が初めてだった。

 二人で歩く帰り路が、少しだけ色付いている気がした。

 

 

 

 

 あるときは一週間に一度だったり、はたまた五日間連続だったり。特に約束をするでもなく、ライブハウスで会ったら同じスタジオに入るだけ。そんな不規則な逢瀬は、お互い高校生になってからも続いていた。

 高校入学と同時に一人暮らしを始めたと伝えたときは驚かれたが、家の事情だと言うと彼女にも思うところがあるのかすんなりと納得したのも懐かしい。

 

「音無さん」

「うん?」

「少し、聞いてほしいことがあるのだけれど」

「ああ、全然いいけど……珍しいな」

「そうかしら。あなたには言っているような気がするわ」

「言われてみれば」

 

 高校一年生も残り半分を切った頃。銀杏の匂いが記憶から過ぎていく時期に、彼女の思いつめたような声を聴いた。

 この一年近く、彼女と音楽をしてきた。いくつもの曲を作ってきて、それなりに手ごたえのある曲も多い。それでも、俺を満たす何かは見つかっていない。未だに俺は海の底で何かを探していた。彼女も同じなのだろうか。そんなことを考えて、今日もギターを弾いている。

 

「遠慮せず言ってくれ。話聞くくらいならできるから」

「……なら、一つ」

「ああ」

「声の出し方も、表現力も、何もかもがまるで足りない。こんな歌じゃ、私は──」

「頂点に行けない?」

「……ええ。その通りよ。今の私は、思ったように歌えていない」

 

 眉をひそめて相槌を打つ湊さんに、確かにと思う。ここ数日、彼女の歌は調子が悪いような気がしていた。

 それは技術力云々の問題ではなく、どちらかと言えば彼女自身がどこに向かうか分かっていないような。彼女が自分の歌で示す道に、ずっと迷いがあるような。そんな直感が付き纏うスランプに、彼女は陥っているようだった。

 

「原因はある程度分かっているわ。私のお父さんの話は覚えているかしら」

「……覚えてる」

 

 忘れられるわけがない。彼女が歌う目的。彼女の父親の破れた夢も、その無念も、彼女の中で燃ゆる復讐心も。

 追い詰められたような表情で彼女が語っていたのを、今も克明に覚えている。

 

「お父さんは自分の好きな音楽ではなくて、売れる音楽を作らされて。結局───」

「それがきっかけで、音楽を辞めた」

「ええ。私はずっと復讐のために歌ってきた。お父さんを切り捨てた、あのフェスのためだけに」

「今は違うのか?」

「……いいえ。その覚悟は今も変わっていないわ。私は頂点へ行ってみせる」

 

 言葉とは裏腹に、迷うように揺れる瞳。彼女の金色がここまで揺らぐのを、俺は初めて見た。

 

「……けれど、こうして音無さんと音楽をしてきて少し分からなくなったわ。音無さんの言うような、生活のために音楽を作り、売るメジャーの世界。その頂点で本当に自分の音楽が歌えるのか。そんなことを考え始めたら、音楽をする目的が分からなくなって」

「……難しい話だな」

 

 音楽をする理由。それは、こと彼女にとっては生きる意味に等しい。

 生活のために音楽を作る。かつて彼女の父親が苦しめられた葛藤で、今この瞬間彼女が直面している自己矛盾。無責任な言葉をかける気にはなれなかった。

 

「……湊さんは、自分の音楽は好きか」

「好き……とは言えないわ。私はお父さんの無念を晴らすためだけに歌っているから。私は他の人のように、音楽が好きなことを理由にできない」

 

 彼女がそばにある椅子に座る。人二人分ほど空いた距離で、俺も腰を下ろしてから静かに弦を弾いた。

 

「俺の個人的な考えでいいなら、ちょっとだけ」

「……ええ」

「音楽の目的は復讐じゃなくても良いんじゃないか」

「え?」

「例えばだけど」

 

 ギターを弾く。あの冬の日に完成させた懐かしい曲のイントロを、スローペースで。目を瞑ってでも弾けるコードを、丁寧に。

 

「俺は、最初は自分のために曲を作ってた。でも今は、湊さんのために曲を作ってる。良い曲だって湊さんは言ってくれるけど、ちょっと違う。今の俺は、湊さんのためだから良い曲が作れてるんだと思う」

「………」

「だから──最初の理由なんてどうでもいいんだ。音楽をする理由も、生きる理由だとしても、自分がしたいことがなんであれ。なんなら無くたって」

「けれど───」

「分かってる」

「何が」

「湊さんは欲しいんだろ?確固たる信念とか、明確な目的とか、揺るぎない自分とか。じゃあ、見つけないとな」

 

 視線を逸らされた。一見不機嫌にも捉えられるこの仕草が恥ずかしさからくる癖のようなものだということを、俺はこの一年間で学んできていた。

  

「……音無さんには?」

「俺?」

「音無さんには、あるの?音楽をする理由や、生きる理由が」

「それがあるんだよな、意外と」

 

 音楽以外は無駄だと言う彼女の言い分は分かる。実際、俺もそう思って生きてきたのだから。でもきっと、俺にも彼女にもそれ以外の拠り所はあって。

 

「今は、湊さんの為に曲を作りたい。いい曲を作れば作るほど、俺は俺を満たす何かを見つけられる気がする。まあ理由はそれだけじゃなくて。好きなんだよな、歌ってる湊さんを見るの」

「………………そう」

「あとは生きる理由……そうだな。好きな作家の新刊とか、今日の空模様とか、ここのカフェテリアの新作メニューとか」

「それって」

「後半、結構くだらないだろ?でもほら。こんな風に、大したことでもない出来事が生きる理由になったりする。音楽をする理由も同じで、湊さんにとってもお父さんだけじゃない」

「……私は、そんな風に考えることなんて」

「そんなことないと思うけどな」

 

 言って、猫に向けた彼女の笑顔を思い出した。ほどけたような、締まりのない笑顔。

 

 色を付ける。スタジオに差し込む茜色を邪魔しないように。アップテンポなコード進行を少し転調させて。

 

「普通に考えたら、俺との関係なんて音楽の上達においてもう必須じゃない。こうして話してる時間も無駄で、喉のケアとか歌の練習とか作曲に当てた方がぶっちゃけ有意義だ」

「確かに、そうね」

「でも湊さんは、こうして俺と過ごしてるだろ?」

「……それは」

「そういうのを見つければいい。不純物。必要ないもの。効率を度外視した無駄なものが、案外大事な理由になる」

「けれど、私は……こんな風に、音楽に真面目に向き合えていないから──」

「それは違う、湊さん」

 

 自分の音楽は復讐のためでしかないと、彼女は言うけれど。たぶん、それが全てではない。

 たとえ本人が、復讐を(まき)にすることでしか音楽ができないと思っているのだとしても。

 ひたむきに走ってきた純粋さだけは、誰にも否定できない。その純粋さだけでしか辿り着けない場所も、きっとある。

 

「別に、叶えたい夢だけじゃなくてさ。知らなくても何不自由なく生きていける、ただ少しだけ生活が豊かになるかもしれない程度のもの。そういうのだって、湊さんの糧になるはずだ」

「……難しいわ。音無さんは、いつ見つけたの?」

「俺も見つけたのは最近。それも湊さんのおかげで。だからって言うのもおかしいかもしれないけど──たぶん、湊さんも見つけられる」

 

 それは例えば、海に沈むだけではなく、波の向こうの月明かりに必死に手を伸ばすような。そんな無駄が、俺だけではなく彼女にとっても救いになるのかもしれない。

 

 テンポを上げる。青色の原色がパレットに染み付いている。俺の音楽の中に彼女がいるような気がした。

 

 その日はもう歌わなかった。スタジオの予約時間が終わるまで、彼女は俯いたまま何かを考えていた。

 見上げた夜空はやけに高くて、どこか波打っているみたいだった。

 

 

 

 対応を誤ったらしい。珍しく弱音を吐いた湊さんの雰囲気に当てられたのか、はたまた悩みを打ち明けてもらえた嬉しさからか。なんにせよ、余計なことを言い過ぎたのが良くなかった。

 あの日以降、彼女と会話らしい会話をしていない。ライブハウスで一緒に歌うこともなくなり、俺も個人練を目的にスタジオを予約するだけ。会話どころか彼女を見かけることもきっぱり無くなってしまった。

 

 どうしたものかと考えながら、今日も一人で弾いたギターを仕舞う。曲を作っても出来が悪いし、ギターはあまりに音が酷くて聴いてられない。この一週間ずっとこんな調子だ。我ながら情けない。一年にわたる彼女との交流は、いつの間にか俺に欠かせないものになっていたらしい。まだ予約時間が余ってるスタジオから出て、気晴らしにカフェテリアへと出向いてみる。

 

 エスプレッソを頼んで、角砂糖一つ。座るのは角の椅子。すっかり慣れてしまったルーティーンに身を任せる。カフェテリアエリアの角にある窓は、眩しすぎない角度で茜色が差してくるから気に入っていた。これも不純物。生きるのになんら必要ない、無駄なもの。音楽におけるそれを、湊さんは見つけられただろうか。

 

「相席、いいかしら」

「どうぞ」

 

 久しい声が耳に届くとともに、視界の端で銀色がきらめく。見慣れた羽丘の制服が、薄い茜色に色付いていた。

 

「久しぶりね」

「一週間しか空いてないけどな」

「スタッフの人から聞いたわ、寂しそうだったって」

「プライバシーの侵害だ」

 

 温かいコーヒーを口に運ぶ。冬も近くなってきて、外の夕暮れの光はすぐに暗くなってしまいそうだ。感じないはずの冷たい風が頬を突き刺す錯覚に身が震えた。

 

「見つかったか?湊さんの不純物」

「……ええ」

「よかったら教えてくれないか。参考にするから」

「参考って……」

「まあまあ」

 

 ある程度心の整理がついたからか、態度がいつもよりしおらしい。

 彼女は俺の向かいに座ってから、視線を横に移した。

 それにならって窓を見る。ちょうど、山の向こうに隠れようとしている夕日と向き合うような格好。

 

「思い出したことがあるの」

「ああ」

「昔は、音楽が好きだった。お父さんの音も、私の歌も」

 

 黙って続きを待つ。

 踏み込みすぎるのはよくない気がしたし、一人で抱え込みがちな彼女の独白を邪魔しようとは思えなかった。

 彼女なりに悩んで考えて、それで答えが出たというのなら、それを(そそのか)した俺が聞かないわけにもいかない。

 

「いつからか変わってしまった。音楽は憎しみを向けた、復讐のための道具になった。けれど、今はそれだけじゃなくて」

 

 湊さんはそこから何度か躊躇うような素振りを見せたが、結局続く言葉を決めたようだった。

 

「……私はあなたとの歌、好きよ」

 

 夕日が落ちる。窓から差し込む光は人工の街灯だけで、茜色は一切含まれていない。それでも、窓に映る自分の頬には薄い朱色が差しているような気がした。

 

「まだ、自分の歌が好きとは言えないけれど……そうね、あなたと歌を歌っているときは、本当に楽しい。きっと今はそれだけを理由にして、私は歌える。そう思ったわ」

「十分だと思うけどな。納得いってなさそうなのはなんでだ?」

「……頂点に行く。その目的は変わってない。けれどそれだけで足りるのかは分からないから」

 

 もっと高尚な何か。確固たる理由。そういうものが輝かしく見えるのは、きっと今を生きる人間の性質だと思える。俺自身がそうだったから、余計に。

 

「だから、見つけるまで歩くつもりよ」

「音楽をする意味を?」

「ええ。それがどこにあるかなんて関係ないわ。どんな高みだろうと、私は駆けあがってみせる。そこで見つけた理由が、きっと私の最果てだから」

「それは、いいな。そっちの方がずっといい」

 

 その方が彼女らしいと、素直にそう思った。

 たった一年間の付き合いとは言え、彼女が真っ直ぐに前を向ける人間だということは分かっていた。俯くより顔を上げて、まなじりを強くしながら未来を睨む。湊友希那という少女の魅力は、きっとそういうところだ。

 

「けれど今はとりあえず──いつか自分の歌を好きだって、そう言いたい。それが今の私なりの、音楽をする理由」

 

 遠慮がちにこちらを向く金色を横目で見ながら、ぬるくなったコーヒーを口に運んだ。……体感気温よりも外は寒いのだろうか。こんなにも早く冷めるなんて思わなかった。

 

「それだけ。……最近、来れなくてごめんなさい」

「気にすんな。……その、こっちこそ、いろいろ偉そうに言って悪かった」

「なぜ謝るの?」

「いや、今考えたら上から目線すぎたなって。同い年なのに」

「別に、気にしていないわ」

 

 言って、彼女は窓越しに空を仰いだ。

 時間がゆっくりと流れる感覚。お互いに踏み込みすぎない沈黙。それが、俺と彼女の間に設けられた一番心地よい距離感だった。

 

「私は、頂点に行く」

 

 何度目かのその言葉に、以前のような焦燥は無かったように思う。まるで、ぽつりと零れ落ちた事実確認。

 

「一人ではなくて。あなたとなら、二人で頂点に行ける気がするわ」

「買い被りすぎだ」

「ついて来れないかしら」

「まさか」

「調子が悪そうだったと聞いたけれど?」

「……誰から聞いたんだ?」

「ふふ、図星なのね」

「……そっちがそういうつもりなら、こっちにも考えがある」

「?」

「──これからもよろしく、友希那」

 

 髪がはらりと肩から落ちる音。窓を見ていたはずの彼女の瞳がこちらに向いているのが分かる。

 冷めてしまったコップを思い切り(あお)る。エスプレッソの苦味が柔らかく喉を通った。

 

「……そう言えば、あなたの名前をまだ聞いていなかったわ」

「言ってなかったか」

「もうすぐ一年経つのに」

「機会が無くてな」

 

 じ、とこちらを睨んでくる眼差し。どうやら一方的に名前で呼ばれたのが気に食わないらしい。名字にさん付けだけで呼び合う関係。その距離感に、もう少し踏み込んでみたいと思った。俺の気持ちだけじゃなく、彼女もそうあることを少しでも望んでくれているのなら。

 

「……奏人(かなと)。音無奏人だ」

 

 淡い微笑と目が合う。彼女も同じように思ってくれていたようだ。

 

 頭の中でメロディが鳴った。

 彼女の歌が鳴った。俺のギターが鳴った。

 茜色に染まる駅前。薄墨色の路地裏。淡青色が並ぶ商店街。褪せていた風景が、以前よりもはっきりと見えた気がした。

 

 

 

 

 海の底にいるみたいだ。

 そんなことを、ずっと考えていた。

 俺の人生は海底だった。

 息もできず踠きながら、口から溢れる泡ぶくを見つめていた。一切の光も差さない暗闇の中で、水圧の重みに潰されて。波の向こうは分からない。濡れる鼓膜から音は聞こえない。ただ沈む実感だけを頼りにするしかない。

 そんな世界で、俺は生きていた。

 

 

 

 

 彼女に名前を教えてから一ヶ月が経った。

 時間がそれだけ経過すれば、当然のことながら日が落ちるのも早くなる。

 いつも通りの時間にライブハウスから出る頃には、すっかり夜の帳が降りていた。

 吐く息がひどく白い。季節はとっくに冬に戻って、もうすぐ年も明ける頃。天気予報は初雪が降るなんて言っていた気もする。

 

 ギターケースを担いで、知らない道を歩きだした。今日はなんとなく、家以外のところに行きたい。

 路地裏を抜けて、右へ曲がって、開けた場所の向こうに丘が見えた。街灯しか灯のない道。海底みたいな明度に郷愁じみた懐かしさを覚える。

 

 ちりん、と鳴る音に意識が戻る。気がつけば後ろに迫っていた自転車が、俺を睨んでいた。雪が降るから早く帰りたいのだろうか。体を退けて、道を譲って、やっと歩いた道のりを俯瞰する。悴む指先に、手袋をしてくればよかったと思った。ギターを弾いていた指先が少し痛い。

 視線を小高い丘に戻す。できるだけ高いところへ行こう。海の底から一番遠い場所へ。天国に一番近い場所へ。

 

 上空で輝く月の光が、ひどく弱々しく思えた。

 

 

 

 来たこともない丘の上で白い息を吐く。街灯とベンチが一つずつあるだけの、粗末な場所。ぽつんと闇を切り取った街灯の下に立つベンチは、あまりにも寂しい。古い木造のベンチに腰掛けて、何も考えずギターを構える。もちろん、構えるだけ。こんな寒さでは指が動かない。

 

 今更になって思う。俺はずっと自分勝手だった。こんな時にさえ考えるのは音楽のことだ。

 ギター。

 駅前のロータリー。

 ライブハウスのスタジオ。

 エスプレッソを呷ったカフェテリア。

 

 脳裏で巡る景色は、いわば走馬灯だろうか。月光のように優しい、波の走馬灯だ。

 

 俺は海の底にいる。

 海底に背中を付けて寝そべっている。

 息もせず、踠いていた手足は動かない。

 

 俺は俺の人生を全て描いてしまった。そう思える出来の音楽を、数分前に彼女と一緒に作った。それだけでもう良いと思えた。ずっと足りなかった何かの正体までは分からないけれど、それでも空いていた心は埋まった。

 

 何がきっかけなのかも、どうして急に曲が描けたのかも分からない。けれど、満たされたことだけは事実だった。

 

 ならきっと、それでいい。あとはゆるやかに死を待つだけでいい。思い出は十分作れたと思う。

 

 目を閉じる。目蓋の裏に、何かが見える。その向こうに、誰かがいる。あの日から脳裏を離れない、少女の顔が思い浮かぶ。

 

 

「───奏人!」

 

 

 目を開ければそこには、目蓋の裏で見た一輪の花が立っていて。

 

 

 

 

「……なんでそんな泣きそうな顔してんの、友希那」

「……っ、あなたがさよならも言わずに家と真逆の方向に歩いたかと思えば、こんなところで座り込んで目を瞑ってるから、かしら」

「あー、それは」

 

 どう考えても俺が悪い。

 こんな冷える夜に一人で外を出歩いて座ったままなんて。見方によっては何かよからぬことを考えてるのでは、なんて思われても文句は言えない。

 

「悪かった。でも友希那が考えてるようなことじゃないから」

「本当かしら」

「信用がない」

「そのくらい、様子がおかしかったわ」

「まあな」

 

 肩で息をする友希那は視線をあちこちにやった末、最後はあきらめたようにため息をついた。

 

「それで、どうしてこんなところに?」

「いろいろ考えてみたことがあって」

「……そう。なら、教えて頂戴」

 

 どうやらこのまま会話を続けてくれるらしかったので、さりげなく座れる場所へと誘導した。

 二人掛けのベンチに、吐息が聞こえる程度の余白を空けて座る。

 使い慣れたエレアコの弦に指を掛けても、音は鳴ってくれない。ぺこん、と初めてギターを触った時のような間抜けな音がした。それきり沈黙に身を任せて、彼女の息遣いが落ち着くタイミングを見計らう。

 

「友希那には言ったことがあると思うんだけど、俺はずっと自分のために音楽をしてた」

「ええ」

「自分を満たすために音楽をして、自分の人生が模すような曲を作って、それで満足できたら終わりだって、そんなふうに考えてた」

「終わり?」

「音楽も、人生も」

「極端ね」

「自分でもそう思う」

 

 オスカー・ワイルド、という人間がいた。

 『芸術が人生を模倣するのではなく、人生が芸術を模倣する』というアイルランドの詩人の言葉に、かつての俺はひどく共鳴してしまった。俺は、彼のことを模倣していた。

 

「友希那、今日の曲はどうだった」

「……上手く言えないわ。奏人と私がよく使う進行や転調もいくつかあって、メロディもそこまで難しいわけじゃない。けれどすべてを表現できた気がしなかったわ。それに歌っているときの充足感と、歌い終わった瞬間の喪失感が異常だった。あれは……」

「あれが、俺の全部だった」

 

 俺にとって、俺の人生は音楽を模倣するだけのものだ。俺が描くのは音楽でありながら、自分自身の人生でもある。芸術活動は自殺行為。俺がいるのは海の底。ならきっと、今の俺はこの生を終えている。

 

「なんて言うか、見つかったんだ。もう満ち足りた」

「結局、何が足りなかったの?」

「さあ。分かんない」

「分からないのに、そんな満足そうなのね」

「そうなんだよ」

 

 足りないものが見つかった。空いていた穴は埋まった。音無奏人という一人の人間は、海の底で一つのエンディングを迎えた。このまま死んでもいいとさえ思える、完璧な終わり。自分の音楽を描き切った俺に、これ以上音楽を作る必要性はない。

 

「だから、このまま死んでもいいって思ってたんだけど」

「………」

「思ってたより不純物が残ってて」

 

 まだギターを弾いていたくなった。

 パレットの上で、彼女の色は褪せなかった。

 家で一人穏やかに死んでいくよりも、してみたいことができた。

 

「今は、まだ息をしたいって思う」

「……変わったのね」

「まあ、いろいろあった。心境の変化みたいなものが」

「そう……」

 

 沈黙を破るように、風が吹いた。冬の澄んだ空に浮かぶ光源は、その存在をいっそう激しく主張している。

 

「ずっと、俺は俺を満たすためだけに音楽を作ってた」

 

 今は違う。音楽を作る目的に、彼女がいる。

 自分を満たすための音楽じゃなく、彼女と生み出す音楽に執着し始めている自分がいる。彼女との日々に、この上なく惹かれてしまった。

 飾り気のない言葉で言うのなら。俺は、彼女と共に生きていきたいと思った。

 

「それ以外の理由が何か見つかったのかしら」

「いくつか。俺は結構わがままらしい」

「例えば?」

「今はただ、友希那の行く最果てまで俺も一緒に歩きたい」

「………」

「あとは……友希那が自分の歌を好きになれる日まで、ずっと見ていたい」

「……それまで?」

「いや、それが過ぎても。できるなら、ずっと。ずっと長く友希那の歌を聴きたい」

 

 あの日見た明媚(めいび)が、今も目蓋の裏に貼り付いている。

 なんて単純。褪せた海の底で聴いた彼女の歌声に、最初から魅せられてしまっていたというだけの話。

 

「同じ道を歩かせてくれないか、友希那。俺は友希那の隣で一緒に音楽をしたい」

 

 波が揺れている。月光に照らされた景色が視界に入ってくる。

 

 俺の体は、海底から浮上している。

 

「──そういうことなら、一つだけ聞いておくことがあるわ」

 

 空を仰ぐ。青色の潤いを帯びた黒い夜空に、無数の星が煌めいている。

 星々に向けた額の上で、ぽつんとした冷たさが溶けた。満月の光は泡ぶくのような雪を照らして、夜空に佇んでいる。随分と局所的な雪だ。墨色の空から星が降るように、白い光が落ちてくる。

 こんな風景を、俺は海の底から見られただろうか。気が付いていなかっただけで、波の向こうはずっと色褪せてなどいなかったのかもしれない。

 

「奏人」

 

 鈴のなるような、と形容するにはあまりに力強い凛とした声。

 長い銀髪が風に揺れる。頬に毛先のくすぐったさを感じながら、彼女を月みたいだと思った。

 

 俺はあの冬の日、茜色の駅のロータリーで欠けない月に出会った。そんなことを考えている。

 海の底で見た、微かな月光を思い出している。

 不思議と、もう息苦しくはなかった。

 

 

「あなたは、私にすべてを賭ける覚悟がある?」

 

 

 その問いに、迷うことなく口を開いた。

 ようやく、海から上がったようだった。

 


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