水木が沙代の幽霊と出会い記憶を取り戻す話です
阿鼻叫喚の地獄となった地下室で沙代は水木の首に手をかける。どす黒い思いが全身を埋め尽くしている。
貴方と一緒にクリームソーダを食べたかった
貴方と一緒に東京の電波塔に登りたかった
貴方と一緒に子供を育てたかった
貴方と一緒に色んな世界を見てみたかった
それなのに、貴方に希望を託したのに、貴方は目を反らした
水木さん、水木さん、水木さん
沙代は水木をまっすぐ見つめながら首に当てた手に力を込める。
これは呪い。貴方は貴方を殺そうとした人を忘れないでしょう。
貴方が楽しい時、嬉しい時、幸福の絶頂期に罪悪感と共に私を思い出せるように。貴方に呪いをかけます。
愛から変質した怨嗟の思いは彼女の肉体を長田の槍が貫くまで続いた。
夢の中で水木は南太平洋のとある島にいた。わずかに月明かりが射し込む森の中を彼は銃剣を持ちながら敵陣に向かって走っている。玉砕だ。共に走る戦友たちは皆言葉にならない叫び声をあげている。水木も一緒に声を張り上げる。
敵陣から数えきれないほどの銃弾が発射される。空に照明弾が飛び辺りが昼間のように明るくなる。すぐ右を走っている芦崎が倒れ、彼の口から叫び声が消えた。漫画が好きな男で、木の枝があればずっと地面に漫画を描いているような奴だった。あいつの漫画で人が死ぬときは断末魔を上げていたが、芦崎は黙ったまま地面に伏している。
おい、芦崎、起き上がれ!
そう活を入れるが芦崎は全く動かない。
後ろを走っていた三田が前に飛び出した。愛郷心にあふれ地元の民謡をいつも口ずさんでいた。だが、あいつの口は今は苦し気な怒声を上げている。そんな三田も突如黙り込み地面にくずおれる。
起きろ、動いてくれ、三田!
必死の嘆願も三田にはもう届かない。
今度は左前を走っていた大垣がのけぞる。一旦態勢を立て直すがすぐに地面に突っ伏す。あいつは落語が上手く、特に怪談噺が得意だった。『死神』の噺の途中で死んだふりをしたのを見た芦崎が本当に死んだと勘違いしたこともあった。だが、今腹から血を流す大垣の様は決して演技ではない。
頼む、死ぬな!
そう怒鳴るが大垣は全く動かない。
はるか右方で澤岸に手りゅう弾が当たる。野球が好きで、隊の中で一番体力があった。甲子園に出場したことをいつも自慢していた。
どうしてお前が俺より先に逝くんだ!
泣きそうになりながら水木は叫ぶが澤岸は爆煙の中に消える。
北松が倒れる。妻がくれたという千人針をいつも持ち歩いていた。徳岡の体がちぎれる。たらふく食いたいといつもぼやき、ジャングルの青いバナナをかじっていた。村谷が沈み込む。病気の父をいつも心配していた。
死ぬな、死ぬなよ
水木の声に返事をする者はいない。
藤岡が、川田が、有馬が、根津が死んでいく。
何故だ、何故、俺だけ死ねない
水木は大きく咆哮する。もう彼以外に叫び声をあげる者は残っていない。銃弾の音と手りゅう弾の音と水木の叫び声だけが戦場に轟く。
殺せ!殺せ!俺を殺せ!!
自身の叫び声に揺さぶられ目を醒ますまで水木の悪夢は終わらない。
水木はがばりと布団から跳ね起きる。荒い呼吸を繰り返しながら額の汗を拭う。必死に周囲を見回す。いつもの布団、いつもの天井、いつもの壁、いつもの寝室だ。窓の外に見える景色は暗く、時間が夜であることを教えている。隣室に繋がるふすまが開き奥の部屋から母が顔を出すのを見て、水木はようやくほっと息を吐く。
「お母さん、鬼太郎は?」
数週間前に墓場で拾い上げた赤ん坊の様子を尋ねる。母はちらと部屋の奥に目をやったが、すぐにこちらに心配そうな視線を戻す。
「あの子はすやすや眠っているよ。それよりおまえの方は大丈夫かい?」
「大丈夫です」
そう言って水木は頷くがまだ心臓は苦し気にリズムを鳴らしている。額に貼りついた脂汗を腕で拭う。
「まだ、悪い夢を見るのかい?」
子供を心配する母から目を反らす。
「少し、外の空気を吸ってきます」
母の問いには直接答えずに、水木は布団から抜け出す。上着を羽織ると逃げるように外に飛び出た。
苦しい胸を押さえながら近くの原っぱをあてどもなく歩き回る。月のない夜であった。わずかな星明りが辺りを照らしていた。たばこを忘れたのに気づき、白髪を乱暴にかき回す。たばこを取りに家に戻る気はなかった。母と顔を合わせればうなされていた理由を詳しく聞かされるに決まっている。いまだに母にはあの戦争の事を話したことはない。自分が死にかけた話などしたら母親に余計な心配をかけるだけだからだ。水木は記憶を腹の中に閉じ込めるように強く口をかみしめ、とにかく歩き続ける。水木の脚が葉っぱを擦る音がかすかに聞こえる以外、虫や鳥の声も聞こえない。この世に誰もいないと思うくらい寂しい原っぱである。一人勝手に家を飛び出しながら、水木は寂しさを埋めてくれる場所を探していた。かつて会った鬼太郎の親の様なお化けでもいてくれたら賑やかになるのにと思う。
『それは幽霊だな』
水木の頭の中で大垣の声が聞こえた。いつかの記憶が甦る。映写幕に活動写真が映るように、幽霊とお化けの違いについて雄弁に語る戦服姿の大垣が闇の中に鮮明に蘇った。
『いいか、幽霊とお化けの違いは出てくる時刻だ。草木も眠る丑三つ時に現れるのが幽霊。明け方のかわたれ時を過ぎてから現れるのがお化けだ』
鼻息荒く語り終えた大垣の顔から見る見るうちに生気が消えていき、全身が赤黒く変色する。
『おい、水木、お前――』
うわごとのような言葉を発しながら彼がこちらに手を伸ばしてきた。
水木は慌てて首を左右に振り目の前の幻影を振り払う。体のバランスを崩しながらよたよたと前に進む。近くにあった井戸に手を付き大きく呼吸を繰り返した。
「あの、水木さん、大丈夫ですか?」
後ろから急に声を掛けられる。水木は慌てて振り返る。
「誰だ!」
怒鳴りながら無意識に銃剣を手で探すが、ここが戦地でないことに気づき手の動きを止める。
「誰、ですか?」
水木は丁寧な言葉で聞き直す。
「覚えていませんか?」
相手が落胆した声を出す。水木は目の前の暗がりに浮かぶ人影をじっと見つめる。背丈は水木より一回りは小さい。その輪郭と先ほど聞こえた声からして、若いおそらく未成年の女性だろうと当たりを付ける。だがこの澄んだ声の知り合いは水木の記憶の中にはいない。ヒントを探そうとさらに目を凝らすと、リボンの着いた黒い長い髪と左目の下に泣きぼくろが見えたような気がした。だが、水木はそのイメージを打ち消す。こんな暗い夜に髪の色や顔のほくろまで見ることは不可能だ。相手の表情すらわからないのだから。
「やはり、わかりませんよね?」
女性が落胆した声を出す。
「すみません、すぐに思い出します」
「いえ、思い出さなくても大丈夫です」
人影は音もなく移動し水木の横に立つ。
「私のことは、そうですね、ただの幽霊だと思ってください」
水木は彼女から何か懐かしい感覚を覚えた。
俺はやはり彼女を知っている。彼女の隣に立ち、彼女と話したことがある。
水木の脳の中で何かを抑えた重いふたが開こうとする。だがその中身を吟味する前に彼女の声がし、ふたはすぐに閉じられる。
「何かお話をしてくださいませんか?」
「話、ですか?」
「ええ、東京の話を。水木さんが東京で見てきたものの話を」
幽霊に促されるままに水木は口を開く。
「では、最近できた有楽町のデパートの話を」
強烈な既視感を感じながらも彼はぽつりぽつりと話し始めた。彼女が何者で目的が何なのか全くわからない。だが、今の水木にはそんなことはどうでも良かった。何か、戦争以外の話ができ、あの悪夢を一時でも忘れさせてくれるなら相手が誰であろうと話の目的が何であろうと構わなかった。
デパートの話から始まり、喫茶店でのランチ、後楽園での野球の日本シリーズ……。彼女に促されるままに話は多岐に広がっていく。気が付くと一時間ほど経っていただろうか。いつの間にか胸のつかえは取れていた。水木は喋っていた口を止め彼女の方を見る。それを待っていたように彼女が話しかけてきた。
「水木さん、そろそろ私はおいとましなくてはいけません」
「そうですか。長話をしてしまいました」
「あの、水木さん」
幽霊が遠慮がちに尋ねてくる。水木は彼女の顔がある辺りを見る。まだ辺りは暗いままで彼女の顔の動きは全くわからない。
「どうしましたか?」
「また、お会いできませんか?水木さんの気が向いた時で良いので」
少し寂し気に問いかける彼女に笑顔で頷き返す。
「わかりました」
どうやらこの幽霊は話し相手が欲しいようだ。こちらも悪夢で目覚めた時に話し相手が欲しかったのだから願ったり叶ったりである。
「では水木さんのお好きな時にこの井戸に来てください」
彼女の声に頷こうとするが、彼女の真剣な気持ちを弄ぶなよと頭の中で誰かが助言する。
突然の声に水木は戸惑いながらも素直に従う。
「私が来ないときは貴方は一日中ここで待つことになってしまいます。それでは申し訳ない」
「大丈夫です。幽霊なので暇なのですよ。いつまでもお待ちしていますよ」
「そんなわけにはいきません。次合う日取りを決めましょう。そうですね、来週の同じ曜日はどうでしょう」
二人で日取りを決めると彼女は礼を言う。すると、辺りを冷たい風が吹き抜ける。まるで墨汁が水の中に溶けていくように彼女の輪郭がぼやけ、あっという間に姿が見えなくなる。目の前は何もない闇と化した。
水木はゆっくりと家に帰る。玄関にたどり着くころには東の空が明るくなっていた。かわたれ時であった。
沙代は井戸の前で水木を待っていた。彼との待ち合わせはもう四度目になるが雨の降る夜は初めてだ。夜の冷たい雨が彼女の体を通過するたびに体が内側から冷やていく。氷のように凍てつくほど雨が通過しても全く濡れない体が自分の死を無言で伝えている。
どのような過程でそうなったのか沙代にはよくわからない。あの日、あの人の前で息絶えた後、気づいたときには魂が現世を彷徨っていた。そうなった過程はわからないものの、自分が成仏できない理由は直感的にわかった。彼への呪いが効いていないのだ。あの時念じたどす黒い呪いがまだ彼女の手の中で燻っていた。
水木さんは私のことを忘れてしまっている。あの人に思い出してもらえないと私は成仏ができない。そんな確信が彼女の中にはあった。
悲しさと恨めしさがないまぜとなった気持ちを抱きながら現世を彷徨った。一人でトンネルを抜け、一人で橋を渡り、一人で東京にたどり着く。そして東京を当てもなく漂い、ようやく水木と出会うことができた。そこで彼の記憶を呼び覚まし呪いを完成させこの辛い現世から去るはずだった。だが、彼女はそうしなかった。
ああ、私は悪い子です。貴方の記憶が戻らなくて良いと思っているのだから
沙代は自責の念にかられながら真っ暗な地面を見つめる。水木と再会したあの時、沙代は彼の記憶が戻らなければ、もう一度二人でやり直せるのではと思ってしまったのだ。そして実際、そのようになっている。彼は週に一度はこの井戸まで会いに来て話をしてくれるのだ。
彼女の上に落ちていた雨粒が止む。いつの間にか水木が近くにやってきて傘を差しだしていた。
「お待たせしました。ええと……」
水木のすまなそうな言葉が聞こえる。
「お久しぶりです、水木さん」
「すみません、まだ貴方のことを思い出せなくて」
「良いのですよ。そのままで」
「いえ、そういうわけには。実は少し心当たりがありまして、以前、とある村に仕事で行ったときに記憶喪失になってしまいまして、もしかして貴方はその時に出会ったのではないかと」
「水木さん、無理に思い出さなくても良いんですよ」
沙代は水木の話を強引に遮った。死ぬ前には彼に覚えていてほしいと願ったのに、今では彼の記憶が戻ってほしくなかった。彼には哭倉村での汚い自分のことを忘れ今の姿だけを見てほしかった。たとえ彼が記憶を取り戻したいと思っていても。そのため、彼と会うのは顔が見えない夜中だけにし、こちらのことは極力話さなかった。
「思い出さないわけには」
「そんなことより、傘ですけど」
なおも思い出そうとする彼を無視し話題を強引に変える。沙代は上に掲げられている傘に触れる。
「水木さん、幽霊に傘は必要ありません。自分のために使ってください。水木さんが濡れてしまいます」
「そういうわけにはいきません。幽霊でも冷たい雨は嫌ではありませんか?それに二つ持っていますから、俺は大丈夫です」
水木が闇の中で腕を振ったようだ。雨粒を弾く音が彼の頭上でも聞こえる。どうやら水木は両手に一本ずつ傘を持ち、片方を沙代に片方を自分の上にさしているようだ。
「水木さん、私は傘を持つこともできませんから。このままでは水木さんの腕が疲れてしまいます」
「気にすることはありませんよ」
彼の優しさが心に染み込む。彼と話すたび、彼の親切心に触れるたびに彼女の手に残っていた暗い怨念が浄化されていく。
「あの、でしたらそちらの傘に入れさせていただけませんか」
思わず大胆な提案をしてしまう。
「すみません、はしたないことを言ってしまって」
慌てて言葉を続ける。不安に襲われ彼の方を見る。彼は少し黙っていたが明るい声で答える。
「いえ、構いませんよ」
片方の傘をたたみ二人で一つの傘の下に入る。すぐ横にいる水木の気配が沙代に伝わってくる。真っ暗で見えないが、彼の左目を切るようについた傷も欠けた耳もすぐ目の間にあるのだ。
横の水木が話し始める。何度も会う内に話題は東京の事だけではなくなっていた。家で世話をしているという赤ん坊の話、東京の外の世界の話。それらを聞くのが今の彼女の幸せであった。
「少し濡れてしまいますね」
そう言ってさらに水木に近づく。二つの影が寄り添い合い、長い長い会話を続ける。その様子を一つの目玉が草むらから窺っていることに二人は気づかなかった。
沈みかけている太陽の光が居間に射し込んでいた。鬼太郎が大の字に寝転がりグーグーグーと寝息を立てているのを水木は優しい目で見つめる。
赤子は可愛い。それがたとえ他人の子でも、幽霊の子であってもだ。はいはいをしながらこちらを追いかける姿も、つかまり立ちをする姿も何物にも代えがたい愛おしさがある。まあ、今日みたいに手づかみでご飯を食べようとして食卓を散らかしたのはあまり楽しくはなかったが。
「いや、それも彼女なら楽しんでくれるかもな」
そう一人呟き水木は井戸の幽霊のことを考える。
彼女と出会ってから数カ月、自分の生活が随分楽になった。相変わらず悪夢は見るし、仕事も子育ても大変だ。夜に彼女と会うと寝不足にもなる。それにも関わらず、精神的な負担はかなり減っていた。井戸で彼女と話をするだけで胸の中の重しが小さくなり体が軽くなるのだ。始めは幽霊に乞われ話をしていたのに、今では自ら望んで話をしていた。話題もその場で思い出したことではなくなり、最近ではおいしいものを食べた時や鬼太郎の成長に感動した時に彼女に話したらどんな反応をするかを考えている。それほど彼女の存在は水木の日常にとけこんでいた。
「俺も変わったな」
水木は一人苦笑しする。照れた顔を隠すようにちゃぶ台に置かれた新聞に手を伸ばし目の前で開く。汚職、紛争、殺人、企業の倒産、雑多な記事が目に飛び込み、思わず水木は新聞から目を背けた。よくもまあこんなにも嫌な事が起こるものだと思いながら新聞をめくり視線を紙面に戻す。すると一人の男が移った写真が目に飛び込んできた。毛深い上衣と耳まで覆う帽子で身を包んだやせこけた男がこちらを黙って睨んでいる。記事によればどうやら写真の男はシベリアからの引き揚げ兵のようだ。
「はあ、まだ戦争は終わってねえんだな」
水木は嘆息まじりに呟く。それに答えることなく写真の男は黙ってこちらを見続けている。
忘れるな、思い出せ
男がそう語り掛けてくるように水木には感じた。水木の脳裏に戦地の記憶がフラッシュバックする。飛び交う弾丸、行き交う怒声、血の匂い、爆発音、死臭。無意識の内に水木は胸を抑える。
「忘れるわけねえだろ」
水木は小さく呟く。庭から吹き込む風が水木の頬を撫でた。
「お主、死相が出ておるぞ」
突然、背後から甲高い声が聞こえ、水木は驚いて背後を振り向く。きょろきょろ周囲を見渡す。
「ここじゃ。相変わらず見えるべきものが見えとらんのお」
庭に面した縁側に白い小人のようなものが立っているのを水木は見つけた。それは奇妙な小人であった。胴体は人間の胴体を手のひらの大きさまでに縮小したような形だ。だが、顔があるべき所にむき出しの目玉が一つ乗っかっているのだ。
「何だお前は」
そう聞きながらも水木は落ち着き払っていた。新聞を床にそっと置き、鬼太郎を起こさないように静かに目玉の方へ近づく。最近は井戸で幽霊と会話をしているし、少し前には墓場から生まれた鬼太郎を拾った。その前には包帯を巻いた男と四谷怪談に出てきそうな女の幽霊夫婦と会っている。流石に妖に対する慣れが生じてきていた。
「なに、ちょっと忠告じゃ」
目玉はさも当然のごとく縁側に胡坐をかいて座り、水木を見上げる。その目にはどこか寂しそうな雰囲気が漂っていた。
「わしのことは思い出さんでも良い。まずはあの娘の事を思い出してやるのじゃ。そうせねば、あの娘は永遠に現世に囚われたままになってしまう」
目玉の言う『あの娘』が井戸であっている幽霊を指しているのは水木にもすぐにわかった。だが、その前の言葉の意味がわからず、水木は聞き返す。
「俺はお前にも会ったことがあるのか?」
目玉はどこか嬉しそうに頷く。
「のお、水木よ、ゲゲ郎という男を覚えておるか」
その言葉をきっかけに水木の脳裏に膨大な映像が流れ込んでくる。
葬式、殺人、妖怪、湖に浮かぶ島、斧、桜、髪で片方の目を隠した男、リボンを着けた少女
それらは次々に頭に浮かんではすぐに消えてしまった。全ての映像が消えると後には耐えがたいほどの頭痛だけが残った。水木は頭を抱える。
「何だ、何なんだよ」
目玉は水木の困惑をよそに喋り続ける。
「あの娘と会い続けることはお主のためにもならん。彼女の中にくすぶった呪いはいずれ二人を――」
「少し待ってくれ」
目玉の言葉が耳に響くのすら痛く、水木は目玉の言葉を遮ろうとする。だが、目玉は必死に語り掛ける。
「逃げてはならん。向き合うのじゃ。あの過ちを見つめなければ二人とも先には進めんぞ」
「待ってくれと言ってるだろ!」
部屋に響く自分の声すらも頭痛の種になる。それでも水木はいらだちにまかせて言葉を吐き出す。
「どこの誰かもわからない目玉に親父のような説教されても、思い出せないんだ。少し、待ってくれ」
声は次第に小さくなり最期には懇願するような小声になっていた。目玉は腕を組んで少し考えていたが、一度頷く。
「わしの見立てではもう時間は残されておらんのじゃが。まあ、相棒の言葉を信じるとしよう」
そう言ったのち、小人は頭―いや、目玉か―を傾け部屋の奥を眺める。それにつられて水木も後ろを向く。そこでは鬼太郎が先ほどと変わらず眠っており、新聞の写真の男は相変わらずこちらを見つめている。水木が縁側に視線を戻すと目玉はすでに姿を消していた。
目玉に吹き込まれたせいだろうか、その日水木は久々に悪夢を見た。
玉砕からの帰還を報告した水木に上官のビンタが飛ぶ。
「貴様ァ、なぜ戻ってきた!!」
上官が怒りの籠った目で水木を睨む。その顔が次第に歪んだと思うと別の人の顔になった。
「どうして裕二が死なねばならんのだ」
村谷の父親が水木に怒鳴り散らす。水木は必死に村谷の戦死の報告をしようとするのだが、それを父親に遮られ胸倉をつかまれる。父親の目に涙が浮かぶのが見える。
「なぜ、お前ではなく裕二が」
また相手の顔が歪み別の人の顔になる。敵国の軍服に身を包んだその男は必死にこちらを睨む。全身から血を流し、呼吸すらままならないというのに、その青い目は殺意にあふれている。男が海外の言葉を叫ぶ。意味は分からないはずなのに、そこに込められた闇のような殺意が水木の肌を貫く。次の瞬間、青い炎が燃え上がり敵国の兵を包み込む。炎から焼けただれた死体が飛び出してきた。その顔はいつのまにか戦地で死んだはずの芦崎の顔になっていた。
「なあ、水木、よく聞け――」
腐りかけた腕を伸ばし、皮膚がはがれた顔をこちらに向けてくる。男の顔の目があるべき場所には真っ黒な眼窩が一対あるだけだ。
いつもの悪夢ならこの顔も戦争に関連する誰かの顔に変わるか、目の前の景色が消え玉砕の場面に一気に切り替わるはずだった。
だが、芦崎の顔が次第に歪むと、今度は女の顔になった。戦争であったことのない少女の顔に。
「水木さん、どうして――」
リボンを着けた黒い髪の女性が水木の首を絞める。その目は悲しみと憎しみを宿している。
水木は抵抗をせずに彼女が首を絞めるに任せる。最期に彼女に謝ろうと彼女の名を呼ぼうとしたところで、水木は目を覚ました。
月も出ていない暗闇の中、水木は速足で草むらをかき分けていく。途中で石に躓き膝をすりむく。だがすぐに立ち上がり進み始める。目当ての井戸にたどり着き荒い息を整えた。
「いませんか、あの――」
そこで水木は自分が彼女の名前すらわかっていないことに改めて気づいた。地面に落ちるように座り込み、井戸に背中を預ける。
「いるわけがないよな」
自分を慰めるようにつぶやく。そもそも会う約束をしているのは明日の夜なのだから、彼女がここにいるはずがない。それがわかっていても彼女の声が聞きたかった。今夜の悪夢を和らげてくれる相手がほしかった。
「水木さん、どうして?」
求めていた声が聞こえ、水木は顔を上げる。黒い影がこちらを包み込むように立っていた。それを見て水木はようやく安堵の息を吐く。
「すみません、どうしても貴方に会いたくて」
彼女にあえて気が緩んだのだろうか、発せられた声は弱々しく泣きそうであった。相手にもそれが伝わったのだろう、彼女が隣に腰を下ろすのがわかった。
「何かあったのですか」
「はい」
返事をしたもののその先の言葉が出てこない。悪夢のことも戦地の体験も彼女には、いや誰にも話をしたことはない。一緒に暮らしている母親でさえも薄っすらと察しているだけで、こちらから話したことはないのだ。だから一体何から話せば良いのか順序だてることから始めなければならず、それは辛い過去に向き合うことを意味していた。
「すみません、少し、頭の中を整理させてください」
「では、私は少し辺りを散歩してきますね」
そう言って立ち上がった彼女を呼び止める。
「いえ、できれば側にいてくれませんか」
随分と弱気になっているのは自覚していた。だが、少しの間でも一人になるのは寂しかった。彼女が座りなおす気配を感じ、水木はほっと息を吐く。
「ここで待っていますから」
隣の彼女の気配を感じながら、じっくりと水木は自身の暗部へと向き合う。数分後、震えた声で詰まりながらも水木は戦争の体験を話し始めた。
水木の話に沙代は隣で耳を傾ける。彼の話はあちこちに飛び、話の続きをまとめるために長く黙り込むこともあった。それでも沙代は余計な口は挟まず、ひたすら聞き役に徹した。
哭倉村にいた頃、沙代自身も無性に誰かと話したくなる夜があった。それは時貞の相手をさせられた夜であったり、その時の光景を突然思い出した夜であったりした。恐怖が突然体を包み込み震えが止まらなくなるのだ。昼間ならなんとか乗り越えられる恐怖も夜の闇の中では果てしなく巨大化し簡単に沙代を押しつぶしてしまう。そんな時、恐怖を分かち合える人がいればどれだけ助かったかだろうか。だが、実際には従弟の時弥や父の克典に打ち明けることはできず、心を亡くした孝三では話が通じず、村に染まりきった母や叔母たちに相談はできなかった。そんな孤独の中から助けてくれる誰かを待ちながら恐怖に震え長い夜がただ過ぎ去るのを待つことしか出来なかったのだ。だから、沙代はあの時の自分がしてほしかったように、ただひたすら水木の話を聞き続けた。
「ハエが俺に卵を産みつけたんだ。それが痛くて、俺は死ねなかったことに気づいたんだ」
苦し気に言葉を吐き出した水木がまた黙り込む。彼の戦争体験は想像を絶していた。彼の会話の中で次々と人が殺されていく。まさに地獄だった。だが水木の苦しみは地獄を彷徨った苦しみではなかった。それは地獄から一人生還したことから出る苦しみだった。彼は苦し気に言葉を紡ぐ。まるで懺悔をするように。
「皆、虫けらのように死ねと言われ、虫けらのように殺された。簡単に皆死んでいく。なのに、俺だけ死ねないんだ。俺だけが生き残った」
そう言ってから彼は口をつぐむ。話は終わりかと沙代が思い始めた時、水木がおもむろに口を開いた。
「少女の夢を見たんです。彼女が俺の首を絞める夢です。以前、俺が仕事である村に行って記憶をなくしたことは話したでしょう?」
「はい」
沙代は震える声で返事をする。水木の記憶のふたが開きかけているのがわかる。だが、それを止めることは出来なかった。彼の口調はあまりに弱弱しく、今無理やり彼の口を塞いだらそのまま彼の存在が消えてしまいそうに思えたのだ。
「その村では大規模な災害が起こって、また、俺だけ生き残ったんです」
何度か荒い呼吸を繰り返してから彼はか細い声で話を続ける。
「きっと夢の少女は村の人です。一人生き残った俺を恨んで、俺に死んでほしくて、化けて出てきたんですよ。俺も死んだ方が良かったんだ」
「そんなことありません!」
沙代は強い口調で水木の言葉を否定した。彼がこちらを向くのがわかる。彼は沙代がかけた呪いに苦しめられている。その呪いを解けるのは沙代しかいない。彼女は彼のいる辺りを強く見つめる。
「私は水木さんが生きていて良かったと思います。きっと水木さんが生きていて嬉しい人は大勢います」
「戦地にいなかった貴方に何がわかる!」
水木の大きな声が墓場に響いた。悲しみと怒りとやるせなさの混じった声で水木は続ける。
「あそこでは簡単に人が死ぬ。一緒に見張りをしていた有馬が死んだ。俺が小便に行っていた間にだ。同じ飯を食っていた根津が翌日にはマラリアで寝込み、三日後には死んでいた。数歩隣を走っていた澤岸が敵に撃たれて死ぬ。全部、俺が死んでもおかしくなかったんだ。あいつらもきっとそう思っていたはずだ」
水木が小さく鼻をすする。地平線がだいぶ明るみ始めている。彼の影が震えているのを沙代は確認できた。沙代は優しく語り掛ける。
「確かにお仲間のことはわかりません。でも村の少女のことはわかります」
水木がこちらを向く。絶望に染まった彼の表情がぼんやりと確認できる。きっと相手からもこちらの顔が見えているはずだ。それでも沙代は話を続ける。
「貴方に会うまで夜が怖かったんです。でも貴方に会えて少し怖さが減ったんです。夜が来れば、明日になる。明日になればまた貴方と会えるから。貴方が私を助けてくれたんです」
地平線から日光が差し込み、互いの顔を照らす。水木の目が大きく開かれ口が丸く開く。震える唇で彼が名を呼ぶ。
「沙代、さん」
沙代は悲し気に笑みを浮かべる。この時が来てしまったのだ。
思い出さなくて良かったのに。綺麗な私を見てくれればそれで良かったのに。
そんな言葉を沙代はぐっと飲み込む。それよりも彼に伝えなくてはいけないことがある。
「あの村で水木さんの首を絞めたのは、決して死んでほしかったからではありません。水木さんの優しさに触れて、水木さんに好きなってもらいたくて、それでも思いが叶わず、せめて水木さんの記憶に残ろうとしたんです。忘れられるのは寂しいから」
自責の念で息が詰まるが沙代はすぐに言葉を続けた。
「あの時は本当にすみませんでした」
それを聴いた水木が強く首を左右に振る。
「謝らなくてはいけないのは俺の方です。あの地下で貴方から目をそらすべきではなかったんです。俺があの炎の中から貴方を助け出せたはずなんです」
「私の方こそ。水木さんはこんな私を東京に連れて行ってくれる気だったのに。それを信じられずに私は罪を犯してしまった」
彼の戦争体験を聞いた今ならわかる。相手の暗い部分を知っても失望しないということを。だがそれがわかるのが遅すぎた。
足先の感覚がなくなっていくのがわかる。下に視線を向けると足が小さな光の粒に分解されて、その粒は空気中に溶けるように消えていく。その様子を水木も視界に捉え、早口で言葉を繰り出す。
「今からでも間に合いませんか。貴方と一緒にいられないのですか」
沙代は首を横に振る。もう膝まで消え始めている。
「だったら俺も連れて行ってください」
水木が井戸のふちに手をかけ立ち上がる。空いた手が沙代の手を掴もうと伸びる。だが、彼の手は虚しく彼女の手をすり抜ける。それでも水木は必死に沙代の手に自分の手を重ねる。彼の生きる者特有の温かみが沙代に伝わってくる。沙代はそっと手を離す。かつての自分なら水木を連れて行ったかもしれない。だが、死んだ今ならわかることがある。それを伝えなくてはいけない。
「水木さん、クリームソーダはどんな味ですか?」
突然の問いに水木は言葉に詰まる。彼女は構わず質問を重ねる。
「新しい電波塔から東京を眺めたらどんな景色でしょう。鬼太郎さんはどんな子に育つでしょうか。あの村の外は、世界はどんな風景であふれているのでしょう。生きていなければ見れない景色、感じられないぬくもり、味があるのです。いつかこちらに来るまで精一杯生きてください。たくさんその目で見てください」
水木は拒否するように首を左右に振る。もう一度手を伸ばし、上半身しか残っていない沙代の体を掴もうとする。だがまたもやその手は彼女の体をすり抜けてしまう。
「俺は、俺は貴方に何も返せていないじゃないですか」
「そんなことありません。水木さんとこうしてお話しできたこの数カ月はすごく幸せでした」
できればもっと貴方と
彼女はそう続けたくなるのをぐっと堪えた。
「それでも、水木さんが何かしてくれるのなら、一つ、私のわがままを聞いてくれますか?」
彼が頷くのを確認してから沙代は恥ずかし気に笑う。
「貴方の下の名を教えてください。ずっと『水木さん』でしたから」
水木が震える声で名を告げる。生命力にあふれたその名を沙代は心の中で繰り返す。大きな傷が残る彼の左目にそっと指を添える。
心の中で彼のフルネームを唱える。かつての呪いを上書きするように強く強く念じる。
これは呪い。死にたくなるほど苦しんでいる人に生きてと伝える呪い。
水木さんが辛い時、悲しい時、不幸のどん底の時に私の言葉を思い出せるように。貴方に呪いをかけます。
「貴方に生きていてほしい。もっともっと生きていてほしい。そう願う人が少なくとも一人ここにいたことを忘れないでください」
沙代の指が光の粒となり消え始める。指の下に隠れていた水木の瞳が現れ沙代の目と合う。彼はまっすぐにこちらを見つめたまま大きく息を吸い込む。
「待っててくれますか?」
「え?」
彼の言葉を思わず聞き返す。
「あと、50年か60年したらそちらに行きます。クリームソーダの味も電波塔からの景色も全部伝えに行きますので、待っていてくれますか?」
沙代の目から大きな涙がこぼれる。好きになった人が彼で良かったと心から思った。
「はい、待っています。貴方が来るまで沙代は60年、70年、いえ、もっと遠い未来でもお待ちしております」
そう言った口の感覚がなくなっていく。もう腕も肩も残ってはいない。目を凝らし眩い光の粒の間から水木の顔を捉え目に焼き付ける。次の瞬間には沙代の意識は現世から離れていった。
沙代が消えて暫くの間水木は井戸の横でうずくまっていた。折り曲げた膝の上に顎を乗せじっと目を瞑っている。瞼の裏側で哭倉村での出来事がでたらめに次々と蘇ってくる。それを一つずつ拾い上げ、はめ絵を解くように丁寧に並び替えていく。何度も自責の念に襲われ井戸に身を投げようとさえ思うこともあった。だがその度に沙代が耳元で囁く。
『生きていてほしい』
その声を必死に掴み、取り戻した記憶を組み立てようと気力を振り絞る。次第に哭倉村を舞台にした巨大な悲劇が姿を現した。
村の惨劇、おぞましい秘密、沙代との別れ、時哉の死、ゲゲ郎との別れ、彼の妻を背負っての逃避、そして逃避の中で水木を護ってくれた戦友達の霊。
水木の目から涙が一筋零れた。
「お主はあの娘の魂を救ったのじゃ」
甲高い声が聞こえ水木は目を開いた。声が聞こえた足元に目を向けるとそこに目玉の妖怪が立っていた。目玉の妖怪が水木の足にそっと手を置いている。それを見ながら水木は自嘲気味に呟く。
「救ってなんかいない。また俺だけが生き残った。皆死んでしまったんだ」
「助けられた命もある。お主はあの村から一人の女性を連れ出したではないか」
確かにあの村から一人の女性を、友の妻を助け出した。だがその事実も水木の心を慰めることはない。
「彼女もいつの間にかいなくなっていた。どこにいるかもわからない」
目玉は小さな腕を組むと一人語り始めた。
「あの女性には子供がおった。お主は二人の命を救ったのじゃ。それだけではないぞ。お主と約束をしたおかげで女性の夫も生き延びることができた」
「そいつだってどこにいることか」
「その夫婦は村から出て人間から隠れ暮ら始めたのじゃが、お主は見つけたではないか。そしてお主はそれを世間には黙っておった。おかげで男は妻の最期を静かに一緒に過ごすことができたんじゃ。そしてお主は二人の子も救い、育てておる。そして父親はお主の横でこうして話をしておる」
沙代との出会いをきっかけに蘇った記憶が目玉の妖怪の台詞によってカチリと現在とかみ合った。
「お前、まさか」
「わしは約束は守る男じゃ。わしを座敷牢に閉じ込めたままにしておくどこぞの嘘つきと違っての」
目玉の妖怪にゲゲ郎の姿が重なった。
墓場で鳥の鳴き声が響き渡る。とっくに夜明けを迎えていた。
朝刊に戦争の記事が載っている。水木はそこから目をそらさずに最後まで記事を読む。水木の頭の中で戦地の記憶が蘇る。胸が苦しく汗が垂れる。
『生きていてほしい』
また、彼女の声が聞こえる。そっと自分の目の傷をなぞる。新聞を畳みながら水木はゆっくりと深呼吸した。そばで寝転んでいる鬼太郎の頭をそっと撫でる。
「そろそろ出かけるのか」
鬼太郎の頭の中から飛び出したゲゲ郎がこちらに声をかけてきた。
「ああ、あいにく人間には仕事があるんでな」
水木は立ち上がると台所で洗い物をしている母に声をかける。
「いってきます」
玄関の扉を開け水木は光の中へと踏み出す。
ゲ謎のネットの考察や感想を読みながら自分なりにハッピーエンドを探した結果がこれです
水木の戦争のトラウマってどうなったんだろうとか、水木と沙代さんにもっと時間があれば関係が変わっていたのではとか思いながら書きました
水沙代で締めるはずが、いつの間にかゲゲ郎がおいしい所を持って行ってしまった……
ゲゲ郎のヒロイン力が高すぎた……