普段、踏み入ることのないエリアに、セフィロスは足を踏み入れた。
研究員たちがガスト博士の名前を口にしていた。もしかしたら、彼が戻ってくるかもしれない。彼の手掛かりが見つかるかもしれない。
そんな思いを胸に、セフィロスは研究員や博士の目をかいくぐって、研究室から脱走した。
しかし、都合良くガスト博士の手掛かりが見つかることは一切なく、セフィロスは見慣れない廊下をがむしゃらに歩き、時折何らかの研究室として使っているらしい部屋を覗くことしかできなかった。
なぜ、彼はいなくなってしまったのだろう?
なぜ、自分にはなにもないのだろう?
その問いを必死に飲み込んだ。口にしても、誰もその問いを真面目に聞いてくれないと、わかっているからだ。
そんな時、黒い人影に気づいた。
壁を背もたれにして、うつむいている男。黒髪に黒い服を着ているせいか、白い――というよりも青白い肌が妙に目立つ。
じっと彼を見つめる。
新しいハカセかケンキュウインだろうか?
彼ら彼女らは自分たちの研究のために、寝食を忘れてしまい、時折こうして床に寝転がっていることがある。
放置してもよかったが、ここは窓が近く、気温が低い。このままでは風邪をひいてしまう。
「あの、起きれますか?」
返事はない。
「ここで寝たら、風邪をひきますよ」
揺り動かすと、ようやく彼が目を覚ました。ぼんやりとした赤い瞳はすぐに驚愕に見開かれ、男はセフィロスの腕をつかむ。
「ルクレツィア」
人の名前。多分、女性の名前だ。
聞き覚えの無い名前で呼ばれたのが、自分であることに気づき、セフィロスは首を傾げた。
「人違いですよ」
それが、彼――ヴィンセントとの出会いである。
母の友人だと言った彼は、セフィロスにセフィロスの母――ルクレツィアの話をした後、『そうだ。私はヴィンセントという。ルクレツィアの護衛をしていた』と雑に名乗ったあと、セフィロスを研究員に引き渡した。
大事な研究があるからにげだすんじゃないとこってりしぼられたセフィロスを見て、ヴィンセントは『ゆるしてやってくれ』と研究員をなだめている。
そんな時、不快な笑い声が聞こえた。宝条だ。
「ヴィンセント、意識が戻ったのか」
喜色を含んでいるが、それは今まで意識不明であった男の無事を喜んでいるものとは、違うように思えた。
――いやな気分がする
こういう感情を、なんといえばいいのか、ろくに人とかかわってきていないセフィロスにはわからない。
思わず、ヴィンセントの背広の裾を掴んだ。なぜ、そんなことをしたのかわからない。けれど、ヴィンセントならば、この嫌な気分を払ってくれるような気がしたのだ。
その行動にヴィンセントは少し驚きながら、セフィロスの頭をやさしくなでた。嫌な気分が少し晴れたような気がした。
「この短時間でよく誑し込んだものだ。実験体同士、気が合うのか」
その言葉を聞いたヴィンセントは、宝条をにらみつける。
「そのような物言いはやめてもらおう。彼も、私も、人間だ」
その言葉を聞いた宝条は『クックック』と深いな笑い声をあげる。
「そう思いたいのならそう思っていればいい」
小馬鹿にするようなセリフを最後に、宝条はどこかへ行ってしまった。
あの男は嫌いだ。いつも、苦しい実験ばかりする。
「セフィロス」
ヴィンセントが、セフィロスに声をかけ、また頭を撫でた。遠い昔、ガスト博士がやってくれたような、優しい手つきだ。
頭をなでていた手は、頬に触れ、背の高いヴィンセントがセフィロスと目線を合わせるようにしゃがむと、優しくセフィロスを抱きしめた。
「セフィロス……セフィロスのことは、私が守ろう」
そう言われたのは初めてだ。誰もかれもが、セフィロスを優れた存在だと言う。そのくせ、意志は必要ないとばかりに、実験動物扱いをしてくるものだから滅茶苦茶だ。
しかし、ヴィンセントはまっすぐにセフィロスを見て、彼に手を差し伸べてくれる。
おずおずとヴィンセントの背に自分の腕を回す。
すると少しだけ力を込められた。苦しくはない。むしろ、心地いい。
ヴィンセントが身体を離す。どうにも名残惜しくて、一瞬セフィロスの手がヴィンセントを追った。
その仕草が我ながらどうにも子供っぽくてセフィロスは少しだけ恥ずかしくなった。しかし、ヴィンセントは気づいているのかいないのか気にした様子もなく、優しい目でこちらを見ている。
誰かに呼ばれた彼がこちらに背を向けた時、セフィロスは思わずかれの背広の裾をつかんだ。
「あ」
こんなことをしても困らせるだけだ。また研究員たちから叱られてしまう。
「ごめんなさい」
手を離そうとした。しかし、その手をヴィンセントが包み込むように触れる。少し冷たい指先。かたい皮膚がセフィロスの手の甲をなでる。
「大丈夫。すぐに戻ってくるよ」
「本当ですか」
「ああ」
ヴィンセントがセフィロスから手を離すと同時に、セフィロスもヴィンセントの背広から手を離す。
「こちらへ」
ヴィンセントが部屋から出ていくのと同時に、控えていた研究員が無機質な声で『今日の実験を』と言った。
シャワーで返り血を流し、夕食を終えると、セフィロスは窓のない部屋に閉じ込められる。
出入り口のほかに、水道とトイレに続く扉があるそれは、人間を軟禁するために作られた部屋だ。
大人用のベッドにごろりと転がり、セフィロスはぼんやりと扉を見た。
――ヴィンセントさん、来なかった
研究員に聞いたら、『明日すぐにあえる』と雑な返しをされた。
一瞬、彼もガスト博士のようにいなくなってしまうのではと思った。
――そんなはず、ない
そう思いたい。
彼の暖かな手を思い出し、セフィロスは両手で自分の身体を抱きしめるようにして、丸くなった。
今日の実験はどこからか連れてきたというモンスターとの戦闘だ。かたい皮膚に覆われたそれは剣を力任せにふるったせいか、剣が折れてしまった。それでも折れた剣でなんとかとどめを刺し、今日の実験は終わった。
血のにじんでいた手のひらは丁寧に消毒と治療をされている。それをぼんやりと眺めながら。セフィロスは目を閉じた。
夢を見た。
誰かが呼んでいる気がする。
さあ、こちらへ
誰だろう。
わたしの かわいい子 さあ、こちらへ
母さん?
声のする方へ足を向けた時。誰かに手を掴まれた気がした。いや、掴まれているわけではない。ただ、触れていると言った方が正しいくらいに弱い力だ。手のひらの傷をいたわるように優しく触れているその手は、『あちらへ行ってはいけない』と忠告しているようにも思えた。
ガーゼ越しに触れたその手は……
――ヴィンセントさん?
ECの少年セフィロスを可愛い生き物だと思っている人間が書いたショタセフィロスです