兄の葬式に行くだけの話。

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涙がとうに涸れたから

 

 

「あの」

 

 少し煙草臭いシートが居心地悪かった。タクシーの席に付いているあのつるつるした飾りは何の為にあるんだろうか。

 舗装もろくにされていない畦道を走る運転手は集中しているのか、こちらの呼び掛けに何の反応も示さなかった。

 別に此方も返事が欲しい訳じゃない。ただ口に出して、少しでも自分の中で整理したいだけだ。それに疎らに建ち並ぶ家々と田圃、遠くに小ぢんまりと座っている色褪せた山林を眺めているのにも飽きた。

 

「訃報って、なんか変ですよね。自分の頭の中には生きて喋ってるその人がいるのに、言葉だけで『死んだ』って言われても頭ん中のその姿とすぐには結び付かなくて」

 

 普段意識する事のない、死に輪郭を与えられるような。だがそんな物があったって早々飲み下せるものでもなかった。

 

「もう駄目なんだなって気持ちと、信じられるかよって気持ちが混ざって、噛み切れない肉の筋をずっと口の中に入れてるみたいで」

 

 血色の悪い半笑いを貼り付けた自分をバックミラー越しにちらりと見ると、運転手は何も言わずハンドルを握り直した。それで自分も黙って窓の外を眺める事に集中した。

 代わり映えのしない景色が続く中、ぼんやりと照り続ける太陽に何度か雲が差しては流れてゆく中。料金を表すメーターだけが、確かに前進している事を示していた。

 

 

 

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 田舎の町役場に勤めていた兄が死んだ。五歳上だった。

 実家を出てから何年会っていなかったかは覚えていない。四、五年程だったかもしれない。仲が悪かった訳ではない、と思っているのは自分だけかもしれない。

 少なくとも兄を殺したその聞き馴染みのない病名を、彼の口から聞いた事は終ぞ無かった。ただもし聞かされていたとして、どうしたかと問われれば答えに困る。仕事を辞めて兄の少ない余生に寄り添う程の気概は、多分なかった。

 

 兄はよく「兄弟って他人の始まりなんだ」と言っていた。ただ彼はたった一人の弟が死に瀕していたならば、形振り構わず全て捨て去って隣にいてくれるだろう。そういう人だった。

 だからきっと兄は何も言わなかった。そして兄の言葉はきっと正しい。自分と彼は、どこまでいっても他人だ。

 

 

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 何年かぶりに帰ってきた実家は記憶の中の物と相違なかった。ただそこには一人、欠けていた。悲鳴でも上げるかのように軋む扉を開けると、上がり框で父が靴を磨いている。

 少しだけ顔を上げて此方を見つめると、また襤褸布で革靴を擦り始めた。その隣を通り過ぎ、振り返る。萎れた背中は、こんなに小さかっただろうか。

 

 何一つ変わりない筈の家がどこか小さく感じたのは、きっと自分の方が変わってしまったからだ。歩く度みしりと鳴る廊下を進む。それがどうにも煩くて、ずっとこの家が嫌いだった。

 寿命が近付いているのか、どこか薄ぼんやりとした蛍光灯の照らす居間で母が俯きながら座っていた。

 

「夕方にはお兄ちゃん、集会所に連れて行くから」

 

 泣き腫らしたのだろう、赤く染まった目頭を拭いながら母は絞り出すように呟いた。流しに溜まった皿を見るにこの数日、何も手に付かなかった事が手に取るように分かる。

 業者の会館ではなく、地域の集会所で兄の通夜と葬式は執り行うらしい。地元の人間が総出で手伝いに来るんだろうな、と想像して溜息を吐く。

 酒や料理が振る舞われ、兄との最後の夜が久々に会った親戚同士の思い出話の肴にされると思うと酷く陰鬱な気分になった。

 兄の居場所を聞くと、母は微かに震える指先で障子の向こう側を指した。

 

 

 仏間は線香の匂いで充たされていた。

 白い面布を当てられ、部屋の真ん中に敷かれた少し綿の潰れた布団に寝ているのが兄だという。毛羽立った畳に膝を突いて、白く染まった首元にそっと触れてみる。台所の床のようにひんやりとしていて、その温度に何となく"死体は法律の上では物として扱う"という話を思い出した。

 

 

 壁に掛けられている鳩時計が十五時を告げた。自分も兄も、幼い頃はこの間抜けな鳴き声がどうにも怖くて仕方なかった。

 線香を上げようとして手が止まる。何本上げればいいのか、どうやって上げればいいのか何も知らなかった。

 少し考えて、あるだけの物に火を付けて香炉に突き刺した。昔、兄と一緒にこの悪戯をやって母に死ぬほど怒られた事がある。

 座布団を枕代わりにして寝転がると、天井の木目を眺めながらぽつりと呟いた。

 

「俺にも、何も教えてくれなかったよな」

 

 兄が地元の公務員になった事は、ずっと父の自慢だった。出来の悪い弟が都会に出て、横文字のよく分からない職に就いた事を恥じていたのとは反対に。

 けれど自分は、本当は兄が画家になりたかった事を知っている。書き直す前の進路選択のプリントと、美大の願書を震えながら握り潰した事を知っている。

 

 

 兄に早く幸せになってほしい、と母は頻りに見合い話を持ってきていた。

 けれど自分は、本当は兄が東京に行ったあの子をずっと好きだった事を知っている。毎月欠かさず返ってきていた手紙が段々少なくなって、終いには何の音沙汰もなくなって。それでも箪笥の奥に、大事にそれを収めた缶を仕舞っていた事を知っている。

 

 

 それらを兄の口から聞いた事は、終ぞ無い。

 

「幸せって何だろうね」

 

 返事は無い。そんな家が嫌で衝動的に飛び出した自分が兄よりも幸せか、と問われれば肯定も否定もできない。結局の所、貼り付けられた皮一枚が異なるだけで皆同じなのかもしれない。

 幸せな振りができるかどうか、そんな違いしか無かったのならこの家に残って父や母を喜ばせ続けた兄の方が幾分ましな人間だろう。

 

 

 欠伸混じりに身体を起こす。

 せめて顔だけでも拝んでおこうか、と面布に手を掛けようとして止めた。

 何となく、兄は自分に死に顔を見られるのを嫌がるような気がして。代わりに胸の前で組まれている手を握ってみる。

 幼い頃は自分の一回りも二回りも大きかった筈のそれは呆気ない程に小さく、細く、頼りなかった。

 訳もなく酷く寂しかった。

 

 

 

 

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 通夜は予想通り退屈で、早々に退散する事に決めた。ぼんやりとしか顔を覚えていない親族や同級生をあしらって、長ったらしいだけの読経を聞き流す。

 別にこんな町に何の未練も無かった。無くなった、という方が適切かもしれない。

 

 ただ一つ、遺影の写真が気になった。はにかむような笑顔で此方を見ている兄は最近撮られた物ではない。

 そもそも兄は写真に撮られる事があまり好きではなかったから、そんな表情の物が残っている事が意外で、つい母に訊ねてしまった。

 

「なあ。兄貴のあの写真、いつ撮ったの?」

 

「……一度あんたの住んでる所にお兄ちゃんが訪ねていった事があったでしょう。一泊だけして、そのまま帰ったの覚えてないの?」

 

 そういえばそんな事もあった。別に何も本当に特別な事はない、ただ兄がやってきて自分の家に泊まって帰っただけ。観光も何もない。

 ただある日突然兄に「顔、見に行っていいかな」と電話で一言だけ伝えられて、本当にその言葉通り顔を見て帰っただけだ。

 

「覚えてるけどさ、別に何も大した事してない。ただ近所を散歩して、美味くもないラーメン屋で飯食って、この写真だって兄貴が一緒に写真撮りたがったから、俺の住んでるアパートの前でお隣さんに一枚だけ頼んで」

 

 ああ、なんで。

 

「大した事、してない」

 

 なんで、俺は。

 

「あの子がそうしてくれ、って言ったから。『あの時が一番楽しかったから』って」

 

 母のその言葉を聞いて何故だか無性に腹が立った。

 もっと、あっただろ。別にここが地獄な訳でもない、こんな所にだって兄なりの幸せはあった筈で。

 馬鹿騒ぎの続く集会所を出て、空を見上げる。白い息を吐きながらそう遠くない道をゆっくりと歩く。明日にはこの町を離れられると思うと少しほっとした。

 無言で何も考えずに歩き続ける内、腹が立っているのは自分自身にだと気付いた。

 

 

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 葬式には通夜よりも多くの弔問客が来ていた。どうやら兄は随分と慕われていたらしい。読経もそこそこに、兄に縁あるという人物が入れ代わり立ち代わり挨拶をしている。馬鹿馬鹿しい。

 

 兄の上司だという初老の男が、涙ながらに"兄が如何に優秀で町の希望であったか"について語っていた。それがどうにも気持ち悪くて反吐が出そうだった。

 お前らが兄の何を知っているんだ、と拳を握り締めた後、諦めたように力を抜く。

 自分だって何も知らないのに、こいつらに腹を立てる権利なんて無かった。彼らは彼らの知る兄を悼んでいて、自分は自分の知る兄を悼んでいる。ただそれだけの違いで、どちらが間違っているという話でもない。

 

 欠伸の出そうな程長ったらしい挨拶が終わり、ようやく兄を納めた棺がゆっくりと運び出されていく。花で豪奢に飾り付けられたそれを見て、どうせ燃やすのに贅沢だなとぼんやり思った。

 

 

 集会所の外では運転手が霊柩車に骨壷を積んでいた。鳳凰の絵柄が描かれているそれは矢鱈装飾ばかり派手で、自分の目には酷く悪趣味に映った。

 あんな所にこれから押し込められる兄を気の毒に思って、それと同時にそこに納まる程に小さくなるのだという事実に嫌気が差す。そんな物、兄と呼べるのだろうか。

 それでいいのかと思った瞬間、身体が動き出していた。少なくともこのまま兄が骨になるのを行儀良く見届けて、明日からまたいつも通り過ごすくらいなら家を飛び出した意味がない。

 

 

 その勢いのまま、父が胸元に抱えていた遺影を力一杯に殴り付ける。

 割れた硝子が指を切って、赤い血を写真の中の兄に垂らした。それでも彼は笑っていた。

 だから自分も、誰一人声も上げないまま静まり返る空の下で腹を抱えて笑ってやった。

 

 

 地面に倒れたまま父が怒号を上げる。母が半狂乱になりながら掴み掛かってくる。そんな物に目もくれず、困惑した人の輪を掻き分けて此処ではないどこかにただ走り続けた。

 

 もうこの町に戻ってくる事はないだろう。

 こんなにも形振り構わず全力で走るのはいつ以来だろうか。喘ぐように浅くなった呼吸は、いつしかまた含み笑いに変わっていた。

 

 白い面布を被せられ、横たわる姿ではなく。

 趣味の悪い骨壷に納まった、小さな姿でもなく。

 

 あの日、はにかんだような笑みで自分の隣に立っていたあの姿だけが自分にとっての兄だ。それでいいんだ。

 

 次第に腹の奥から込み上げてくる物を抑え切れなくなって弾けたように笑い出す。後ろを振り返れば、もう誰もいなかった。太陽がただ眩しかった。

 

 泣いているのか笑っているのか自分でも分からないまま一息ついて、スマホで地図を確認すると最寄り駅まで歩き出す。父を、母を、この町の人間の連絡先を丹念に一つ一つ消してゆく。少し迷った後『兄貴』と書かれたそれも消した。

 ざまあみろ、と衝動のままに吐き捨てた。何に対してなのか、自分でもよく分からないまま。

 

 

 兄弟って他人の始まりなんだ。

 その言葉は、きっと兄の優しさだった。その内、少しずつ顔もぼんやりと思い出せなくなる。それでも自分は生きていける。

 

 

 

 

 

 


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