車輪は回り続ける。
清濁併せ呑んで、止まることなど知らないように。
誰も止め方なんてわからないから、回り続けるしかないのだ。

1 / 1
未完成。


車輪

 職場での昼休憩中、休憩室に充満した灯油の匂いに脳を痛ませながら、画面に一筋の傷が入ったスマホに一通の通知が入る。

 一日だけ、私たちの子の面倒を見てくれないかな。

 亜麻色のポニーテールを揺らした彼女が打った文字を見て、こめかみを押さえる。文字から焼けたパンの匂いが漂うような気がして、灯油の匂いよりは幾分かマシだと思ったけど、文字の内容は変わらない。

 は?なんで私なんかが沙綾の子を。

 沙綾とは一昨年の冬に、同窓会で会って以来で、連絡なんてたまにしかしない。子供の写真も、その同窓会の時に見せてもらっただけで、おそらく彼(もしくは彼女)は、その時の写真よりももっと大きくなっているだろう。

 ふつー昔振った女に子供の面倒頼むか?私なら頼まねーぞ、たとえそれがどれだけ信頼できる奴だったとしても、プライドと気恥ずかしさが邪魔して頼めないぞ。

 しかし、思い出してみれば沙綾は過去のしがらみとか因縁とかそういうのは綺麗にさっぱりと切って置いて、それはそれとしてと頼み込んでしまう、妙な潔さがある人物だった。実際問題、そういったところが私が彼女に惹かれた一因でもあった。

 

 私は子供が嫌いだ。言うことは聞かない、意思の疎通なんて困難でしかない。そのくせ一丁前に私たちと同じ言葉を発する。十年熟せば幾分か私たちの社会性と倫理観に近づくのだろうけど、それにしたって私には別の生物にしか見えない。

 結婚願望はあっても、子供を持ちたいなんた高尚な希望なんてない私に、そんな不相応な大役が務まるのか?務まるわけがない。

 ここは丁重に断らせてもらおう。一日だけとはいえ、まともに面倒を見れる気がしない。

 鞄に手を突っ込んでアイコスを探しながら、スマホに断る文を打とうと指を滑らせていると、続けてもう一文追加された。

 

 有咲にしか頼めないの。

 

 つくづく自分が単純な女だと恨めしくなる。たまにしか使わない、親からプレゼントされたSUV車の運転席で、無骨な黒いハンドルを指でコツコツと叩く。

 朝、出る前には三本しかなかった吸い殻は、気がつけば九本に増えていた。おかげで車内は心地のいいメンソールの香りが漂っていて、消臭スプレーを絶えず吹かせ続けるハメになった。

 さすがに子供と同じ空間で吸うわけにはいかないだろ、人として。今日一日、摂取できなくなるだろうメンソールの味に一時的な別れを告げながら、同乗者を待った。

 コンコン、と助手席側の窓を小気味よく叩いたのは、亜麻色の髪を下ろした沙綾だった。窓を開けると、風に乗って焼けたパンの香りが車内に入ってきた。

「開けていい?」

「いいよ」

 ドアを開けると、私の腰の位置ぐらいまでしかないだろう背丈の少年が、ナップザックを背負って助手席に座った。緊張しているのか、車内をチラチラと見て、心配そうに沙綾の方に顔を向けた。

「あいさつしな麦。今日麦と一緒にいてくれるお姉さんだよ」

「お姉さんって…おまえと同い年だぞ」

「まだおばさんって歳でもないでしょ」

「その…麦くん?から見たらババアだよ私たちは」

 麦は少し驚いたように私を見て、小さく「名前…」とつぶやいた。

「……有咲。市ヶ谷有咲。今日一日、まあよろしく」

「有咲、子供相手にも人見知り?」

「ちげーよ。慣れてないだけ」

「人見知りじゃんそれ……麦、有咲お姉ちゃんはすごく頭が良いから、勉強とか教えてもらいな」

「もう忘れたよ内容なんて」

 教科書は全て燃やした。譲るような人なんていなかったし、私の手垢が染み付いたボロボロの本なんて誰が欲しがるのだと年末の片付けの際に全てを燃やした。燃え滓になれば、胸に残ってた小麦の香りが薄らいでくれるような気がしたから。

「……よろしく、お願いします」

「……ん」

 この歳の子供にしては礼儀正しく、まだ未熟な身体に見合った小さな声に、私も年甲斐もなくぶっきらぼうな対応をしてしまう。

「なるべく早く迎えに行くようにするから。頼むね、有咲」

「はいはい。VIP待遇おまかせあれ」

「ははっ、よろしくね」

 旧友の前では、そんなおどけた言葉を紡げるのに。

 いつまで経っても、私は変われない。

 

 沙綾の家から二つ目の十字路で信号待ちをしていると、麦は私のスマートフォンを興味深そうに見ていることに気がついた。

「何か聞くか?」

「う、ううん。いい」

 子供のくせに、甘えないんだなこいつ。

 沙綾の教育がよっぽど行き届いてるらしく、助手席に座る彼は年不相応に大人びている。家ではもう少し子供っぽく振る舞っているのだろうか。大人しければ別にそれに越したことはないのだが、それにしたって調子が狂う。

「私の好きな曲でいいか?」

「うん」

「お母さんと同じの流すかも」

 スマートフォンの再生ボタンを押すと、軽やかなドラムと共に、底の抜けたバケツを叩く音のような女性の歌声が流れ始める。

「ジュディマリ。お母さんも好きだろ?」

「……知らない」

「はっ?マジか、沙綾のやつジュディマリ聞かなくなったのかよ」

 ジュディマリのように音楽をやりたい。Over Driveを聞いたとき、五人全員が胸に秘めたと思っていたが、どうやら私の思い込みだったようだ。

 まあでも、思い出なんて所詮は過去だ。YUKIの童心溢れる歌声も、TAKUYAのシャープで鋭いギターも、全て私の背後で鳴っているだけなのだ。

「麦くんは何聞いてるの?」

 共通の話題が手からこぼれ落ちたので、ジュディマリを分岐点に分かれた枝を辿っていく。

「色んなの。ブルーノ・マーズっていうやつとか、レッチリ?ってやつ」

「……洋楽か〜」

 さすが太鼓叩きの女だ、自分の子供への音楽教育は意識が高い。

 信号で停まったタイミングでレッド・ホット・チリ・ペッパーズの、Universally Speakingをかける。その時の話題に沿って曲を流す作業は、さながらラジオDJのようだ。一本道の大通りを走り、速度が四十五キロを超えたあたりで、隣からペタペタと頼りのない未熟な音を纏ったリズムが聞こえてきた。一瞬だけ目をやると、彼は自分の膝を曲に合わせて手で叩いていた。

「麦くんはドラム、やってるの?」

「アンパンマンのやつで叩いてる」

 麦の背丈に合わせて買ってやったのだろう、アンパンマンのドラムセットが置いてある部屋の風景が簡単に思い浮かぶ。

「お母さんに教えられて?」

「ううん。太鼓があって、棒があったから、テレビでやってるみたいに叩いた」

 自ら進んで叩きはじめたのか。これは将来有望なドラマーになるな。

「ドラムは楽しい?」

「……わかんない。いくら叩いても、レッチリみたいにならないから」

 楽器というのは一人で完結することのできる、世界への入り口だ。けど一人ではその世界の広さには限界があって、もっと広く、色彩鮮やかにふるには、いつかその世界を外に向けて鳴らして、ぶつかって、グチャグチャになりながらなんとか形にしていくしかない。

「他に楽器はやらないの?」

「やらない。叩いてリズム取ってるのが楽しいから」

 母親の血つえーなこの子。

 よく見れば、横顔は沙綾そっくりだ。長いまつ毛と、ウサギのようにクリッとした目は、特に沙綾に似ている。

 懐かしい横顔だ。

 昔、この横顔に毎日焦がれていたんだよな。

「…そっか、それは、楽しそうだな」

 つい言葉に湿度が宿る。

 その湿度は、沙綾と話してる時のそれに近かった。

 

 夜ご飯は、デリバリーで寿司を注文した。あと普段は手をつけない、唐揚げなんかも飼ってきた。

 久しぶりにものでいっぱいなったエコバッグをリビングの大テーブルの上に置いて、唐揚げを電子レンジに突っ込む。

「お母さんのご飯じゃなくて申し訳ないから、今日は贅沢に行くぞー」

「家でお寿司食べるの初めて」

「だろー?でも、お母さんが毎日飯作ってくれるのはありがたいんだぞ?」

「お母さんのも美味しいけど…」

 麦は落ち着いた態度とは裏腹に目を輝かせてマグロの赤身を眺めている。毎日沙綾の料理を食べれているというのに、なんとも贅沢な子供だ。

 麦はマグロの赤身とサーモンを交互に口に運ぶ。リスのように口いっぱいになった麦を見て、思わず笑ってしまう。麦茶を注いだグラスを麦に差し出して、私は子供の頃好きではなかったアナゴを口に運んだ。今となっては、この食感もタレの味も、どことなく安心感がある。

 そういえば、ポピパで回転寿司に行った時、沙綾は必ずマグロとサーモン交互に口にしてたな。とはいっても途中でイカとか軍艦巻きとか挟んだりはしてたけど、最初は必ずマグロとサーモンだった。

 寿司の食い方までDNA継いでるのか。

 生命への無限の可能性に苦笑いをこぼして、またアナゴを一つ口に運んだ。

 

 麦を先に風呂に入れて、私はこの隙にヤニを摂取しようと電子タバコに手を伸ばした。が、部屋に匂いがついて麦が怪訝な顔をして、寝れないとか言い出したらどうしよう。初めての同居人の存在に邪魔をされて、結局電子タバコを吸うのを諦めて、年末に職場からもらった缶ビールを開けて一気飲みした。

 酔いは回らなくて、ただ脳みそが、今日のSUVの車輪のように回転し続けた。

 

 麦を見ていると、沙綾と過ごした日々を思い出す。

 電車で席に座る沙綾を初めて見下ろした日。

 席替えで窓際になった沙綾を、遠くから見つめた日。

 テスト勉強の時、彼女にしては珍しく自信のない、申し訳ないと八の字眉を披露してくれた日。

 

 全部、思い出してしまう。

 そして存在しない山吹沙綾が、私の記憶に広がっていく。

 

 大学の時、一本の傘に身を寄せ合って駆けた土砂降りの帰り道。

 指輪を受け取って、涙ではなく向日葵のような笑顔を見せた日。

 出産の日、笑顔を浮かべて、けれど緊張したように眉毛を少し曲げた日。

 

 彼が媒体となって、私の記憶に沙綾が溢れていく。

「…コレ飲んだの、失敗したな」

 ただただ重くなった身体に鞭を打って、麦と入れ替わって、私は軽くシャワーを浴びた。

 

 発展途上の小さくて細い身体。青いリンゴのように形だけができあがっている顔立ち。安心しきった穏やかな寝顔は、私のありもしない記憶を呼び起こして仕方がない。

 麦が私と沙綾の子であったなら、きっとこんな生活が続くのだろう。

 朝、起きてリビングに行けば先にご飯を食べている麦と、キッチンに立つ沙綾がいる。お弁当が作ってあって、袋に包んでくれている。

 家を出る時には二人が見送ってくれる。行ってらっしゃいの声を背にし、二人は私の姿が見えなくなるまで、手を振ってくれている。

 昼休憩中には、沙綾から昼寝中の麦の写真が送られてくる。可愛らしい姿を見てニヤける私に怪訝な視線を向ける同僚。そんな同僚に視線なんてどこ吹く風で午後も頑張る私。

 家に帰れば、二人が迎えてくれる。おかえりなさいの笑顔を正面から受け取ってしまって、思わず抱きついてしまう。麦を連れて風呂に入って、今日の疲れを洗い落として、夕飯の席について、三人で川の字になって眠って、安心しきった寝顔を晒す沙綾と麦を見て、私はまた笑顔をこぼして…。

 

 ポケットに突っ込んでいたスマホのバイブが鳴って、現実に戻される。私の妄想と寸分違わぬ寝息を立てている麦と、その隣には空虚だけがある。通知の主は沙綾で、そろそろ寝た頃?と顔文字付きでメッセージを送ってきたのだ。

「ダメだ」

 大きくため息をついた私は、鞄から電子タバコを取り出し、ベランダに向かいながらスティックを本体に差し込んだ。ベランダに出ると、私の自惚れを嘲笑うように、冷たい風が私の頬を刺した。

 月明かりに照らされて、メンソール味の蒸気を吸い込んで吐き出すことで、底のない泥水に浸かっていた片脚を元の位置に戻した。

 こんなに不味かったかなあ、コレ。

 気がつけば必需品となってしまっていた電子タバコを睨みつけつつ、吐き出す蒸気を冷たい風に乗せてみせた。

 かつて吹っ切れたはずの沙綾への熱に、麦という存在が薪をくべた。その事実が私の脳を、心臓を、臓物を、全てを蝕んでいく。

 今日一日、私の視界には沙綾の影がチラついていた。まるで私たち三人が家族で、休日に一緒に遊びに行ったとでも主張しているように。

 いくらそんな存在しない記憶を紡ぎ続けても、こうしてメンソールの香りを吸い込めば、私は一人なのだという事実が押し寄せてくる。妄想に溺れるぐらいなら、不味くてもコレを摂取し続ける方がマシだな。

 ますます悪化する電子タバコへの依存に辟易とする。

「何してるの?」

 ベランダへ出る時に起こしてしまったのか、窓を少しだけ開けて麦が顔を覗かせる。急いで電子タバコの電源を落とそうとするが、吸わなきゃ別にいいか、とヤケクソ気味な妥協が浮かんで、電子タバコをできる限り麦から遠ざけて微笑みを浮かべる。

「起こしちゃったか」

「ちょっと音がしたから…それ、何?」

「んー……杭」

「く、い?」

 まだ知らない言葉に目をパチパチとさせる麦に思わず笑ってしまう。

「そのうちわかると思うから、まだ知らなくていいんだよ」

 というより、できれば知らなくていいものだ。

 ありえない分岐点に想いを馳せて、ありもしない光景に焦がれて、けれどそれではダメだと現実に縛り付けるものなんて、無い方がいいに決まってる。

「……麦はさ、お母さんとお父さん好きか?」

 なんとなく、月の光に酔った私は、らしくもないセンチメンタルなことを聞いてみた。

 好きという言葉は、時を重ねるにつれてさまざまな意味がミルフィーユ状に重なっていく。人は次第にその層を重く感じて、その内の一層に指差すことにものぐさになっていく。私はものぐさで、好きから距離を置いた人間だ。

 麦は難問を解く時のクイズ王のように俯いて考えて、んー、と可愛らしい声で唸る。

「片付けしろって言われるし、勉強しろって言われるし、早くお風呂入れって言われるし……」

 つらつらと、今まで一度もこぼさなかった不安が出てくる。けれどそのどれにも、ネガティブな邪気は宿ってなかった。

「でも大好きだよ。早く、家に帰りたいもん」

 ああ、そうか。

 それを聞いて、私は心底安心した。

「……その気持ち、大事にしろよ」

 電源の切れた電子タバコを片付けて、麦と川の字になって眠る。カーテンからわずかに月の光が差していて、その僅かな月明かりを頼りに、麦の背中をさする。

「おやすみ、有咲お姉ちゃん」

「ああ、おやすみ」

 呼吸が整い、麦の寝息が聞こえたところで、私も眠りについた。

 

 車輪は滞りなく回る。

 まるで六十秒動き続けるだけの秒針のように。

 まるで人の感情を嘲笑う人生のように。

 回る車輪はやがてある家の前で止まって、ひとりの男の子を下車させる。男の子の両親が出迎えて、笑顔で車輪に手を振る。

 男の子が母と父に抱かれたのを確認した車輪は、また回りだす。次はどこで止まるのか、わからないまま、錆びついて、軋んでも、回り続ける。必死に、止まることを忘れてしまうほど回り続けることだけが、車輪にとっての命の使い方だから。

 車輪は回り続ける。

 どこまでも続く灰色の寒空が、青く澄み渡るまで。





傷ばかり作る日々
無情に続く道を抜けて育む意志
水溜りに映る君
頭上に結ぶ虹
全ては美しい

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。