例えば八幡が在るだけで、救われる人々 作:八幡愛
原作:やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
タグ:R-15 残酷な描写 アンチ・ヘイト 完全なる理解からなる完全なリスペクト 八幡への否定は間違っている
調査隊はそれを確かめるべくカナガワ地方へと向かった。
八幡は何も特別なものを持たない人間だ。
別に魔法や超能力が使えるとか使えないとかそういった話ではない。
才能に溢れた訳でもないし、人を引き付ける魅力もない。
オリンピックに出られるといった、誰から見ても特別な人間では当然ない。
かといって、誰かの特別になれた訳でもない。
天才でも秀才でも鬼才や異才でもなく凡才。
敢えていうのならば、凡才未満。
何の特別にもなれない人生を送り、何の特別にもならない人生を終えるのだろう。
何かのナンバーワン、誰かのナンバーワンになれない人間は、オンリーワンとしての価値を持たない。
しかしそれの何が悪いのだろうか?
特別でなければ価値がないのなら、世の中の二、三割の人は無価値とされてしまうのでは無いだろうか。
比企谷八幡とは、別にイケメンじゃなくても、別に頭が良くなくても、別に運動ができなくても、例えつまらなくても、それでも主人公になれる。
ということをオタクの世の中に教えてくれた存在だ。
だからこそ、彼が何の特別にもなれない事は、寧ろアイデンティティと呼んでも良い。
それを否定する者がいたら、特別になりたいけれど特別になれない自分を慰める言い訳に、八幡の名前を使っているに過ぎない。
八幡がボッチであることに共感をしておきながら、八幡が人気物になって欲しいと望むのは矛盾だ。
八幡が体力や運動神経がない事に共感をしておきながら、八幡にスポーツや戦闘を成功させたいと願うのは矛盾だ。
成功とは無縁な自分のアバターを成功させたいという妄想であり、所謂「俺くん」を大成功させる際に名前だけ既存のキャラクターのものを貼り付けて「俺」を叩かれないようにする行為でしか無い。
八幡が陰キャなのに成績も良くない事に共感をしておきながら、八幡にリーダーシップを発揮して欲しいと夢見るのは、完全なる矛盾だ。
人気者で、体力も運動神経も良く、リーダーシップを発揮しているのは葉山だ。
彼は明確なる成功者としての生まれだ。
遺伝子レベルで勝利したものが、競争社会において勝利経験を積んで、競争=勝利を楽しいものだと認識し、競争やそれを制するための努力を苦痛とは思わず、更に努力を重ねる。
人気者で、体力も運動神経も良く、リーダーシップを発揮している人が葉山に共感をするのなら、それは間違っていない。
八幡はジョジョで言えば、絶対にジョナサンの立ち位置にはなれない。
誰もが認めるヒーローになるスペックは、根本的に足りていない。
彼がなれるとしたらポコだろう。
無能故に卑屈で、負け続けて無力を理解して諦めて、それでも弱者なりに意地を見せて、自分だけでは何も解決する能力が無かったとしても、弱者の意地が誰かの助けになるという立ち位置になら、八幡でもなれる。
逆にそれ以外の活躍方法はないが、だとしてもそれもとても立派な事だろう。
これを否定すれば、それすらも出来ない人々の全否定になってしまう。
どうせモテないから、どうせ有名大学にはいけないから、どうせ勝てないから、それは確かに事実だろう。
だからといって何の努力もしない人々が、それでも何か努力してみる事は、それ自体は悪ではないのだから。
とはいえ、基本的には八幡は、勉強も頑張らず漫画やスマホに時間を費やし、良く寝て良く食べるが運動もせず、何かを生み出す訳では無いが死ぬのが怖くて生きている。
そういった人間なのだ。
何をやっても成功しないのは、実際に全ての基礎となる基本スペックが低いからだ。
それを散々自覚させられ続けて来たから、諦観が強い。
しかし、自尊心だけは高かった。
さりとて、向上するための努力に時間と気力を費やす事はせずに、休みの日もスマホを弄って一日を終える。
諦観は強いが、自尊心も強いので、「過去に成功を重ねていた自分」という、ありもしないもしもばかりを妄想して、無駄な時間を積み上げつつ、今には何一つ挑戦しない。
当然未来は良くならない。
寧ろ周りが挑戦したり、成長したり、リスクに賭けたりする中で、自分だけが何もしないのなら、相対的に悪化するだろう。
日本が落ちぶれていくと言われているのも、実は多くの嘗て貧困とされていた国々が、これまでの低層から中層まで上がってきただけで、別に日本は現状維持は十分に出来ているのと同じ理屈だ。
過去に成功していたらと考えて何もしないのでは、今を成長させ続けている相手に抜かれる可能性はそれなり以上に高いと分かっていても、失敗する可能性ばかりを言い訳にして、面倒くささと不安から何一つ始めないのだ。
やり始めも遅く、熱量も低い。
それでは、多くの人々に抜かされていく、当初比較的前にいただけの人になってしまう。
勿論、当初から比較的前にいなければ更にドン底扱いだ。
八幡はシコシコするのが大好きだった。
マンガやゲーム、それも自分が高校生の頃までのもの。
それに出て来る美少女キャラクターの二次元エロ画像で毎日シコシコと自己発散する。
元気な女性よりも、大人しい女性。
ショートカットよりもロングヘアーが好きだ。
自分の一人称は「僕」よりも「俺」を使いたいにも関わらず、女性には「あたし」よりも「わたし」を求めるのは、彼なりの強がりなのかもしれない。
そして、現実の女性よりも、絵の方が興奮するようになってしまっていた。
現実よりも美しく、現実と違って自分を見下して遠ざけないスマホの中の美少女達。
八幡はただただそれらのエロ画像を眺めてシコシコとやっていた。
ヤる為のリアルな相手はいないし、下半身のアレも小さいのに、性欲だけは人一倍どころではなく、莫大にあった。
学生時代も社会人になってからも、家を出る前に必ずシコシコと一発やらなければ気が済まず、その結果遅刻したことも何度かあった。
絶頂する事だけが目的となり、身体が最適化して勃たずに絶頂するまでになった八幡だったが、その原因であるシコシコし過ぎと、運動不足、そして耐え症の無さを改善するために何かをしようともしなかった。
使われもしない遺伝子を垂れ流すだけの存在である。
しかし、それの何が悪いのだろうか。
贅沢は出来ないし、自慢も出来ない。
誰かを助ける余力も無くはないが、その気はない。
けれども人のお世話にならずに生きてはいる。
何も特別な事は出来ずに、何も秀でた能力もない。
それでも、それでも八幡は存在している。
それが誰かに褒められる訳でも尊敬される訳でも無い。
しかし、称賛も敬意も向けられなくても、生きているだけの事は出来る。
それでも良いではないか。
それが比企谷八幡の本質だ。
これを否定すれば比企谷八幡に近しい存在全てが存在する事も許されなくなってしまうだろう。
それはあんまりだ。
比企谷八幡が存在する事は許されても良い。
賢くなく、不細工で、運動も出来ずに、人にも好かれない。
そんな人々が存在する事くらい許されても良い。
八幡には何も出来ない。
誰にとっても、八幡を助けるメリットはない。
八幡を助ける義務もない。
八幡に価値を見出す者はいない。
けれど八幡は生きている。
それだけでは不満だというのなら、ボッチで不細工で学歴も収入も運動神経も低い人の存在自体を否定することになる。
それはあんまりだと、存在くらいは許してやってくれと。
それを自らの存在により証明したのが、比企谷八幡だ。
故に、ボッチで不細工で学歴も収入も運動神経も低い人々にとっては、間違いなく比企谷八幡は存在しているだけでヒーローになれるのだ。
八幡は、高校卒業後に中小企業で働くか、Fラン卒業後に非正規で働くといった選択肢があったが、恐らく八幡にとって最も向いているのは、特別職公務員(政治家は含まない)であろう。
所謂、警察・自衛隊等だが、体育会系のノリである職場で周囲からは蔑まれる属性を持つ八幡ではあるが、こういった仕事で一番大切なのは賢さでも運動神経でもない。
ただただ耐え凌ぐ事だけだ。
少なくとも下っ端でいるのならそうなる。
諦める事と、昨日と同じ今日を繰り返す事。
言われるままに従うこと。
機転も気遣いも、それらと比べれば大した重要ではない。
これなら八幡には以外と向いていたりする。
バイトもバックレた八幡だが、高校はバックレなかった。
それだけで、そういった職には適正があるのだ。
勿論、上を目指すのは八幡には無理だ。
しかし居座る事だけなら八幡にも可能だ。
こういった職場では女性は少なく、男性は多い。
女性からすれば選び放題であり、わざわざ八幡を選ぶ人はいない。
だから八幡に彼女が出来ることはないだろう。
マッチングアプリも無意味だ。
アレはイケメンが総取りするシステムであり、八幡にお溢れはこないし、接触するのはアッチ系のお店のレベルが上がって、弾き出されたオバサン達が、個人売春目的で話し掛けてくるだけであり、それ以外は八幡には来ない。
しかし、八幡には結婚相談所がある。
こういった場所では、公務員という八幡の強さが出て来る。
八幡としてではなく、公務員という名前で見てもらえる。
こうなると五歳上から十歳上の非正規職の女性と結婚出来るようになるだろう。
打算のある結婚は可愛いものである。
そこに妥協は無いのだから。
結婚に至る最大の理由は、妥協である。
多くのカップルには妥協があり、多くのカップルの不幸は妥協に原因がある。
妥協をしなければ結婚は出来ない。
それをしなければ何時までも付き合うことも出来ない。
今時は付き合うことも出来ない人は、結婚とは縁が無い。
もはや八幡には、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」なんて言葉は残されていない。
非モテに青春は無いし、二十五歳を超えたら青春は出来ない。
出来るとしたらイケメンか顔を補える天才的な成功者、若しくは勘違いしたフツメン&グロメンだけだ。
それでも生きてさえいれば良いではないか。
何の面白みもなく、誰にも手にとって貰えない物語の主人公に、八幡みたいな何かというラベルを貼り付けて生きて行く事そのものは否定されない。
否定される事は決してない。
俺は八幡に似ている。
そう言い聞かせるが、その人生という物語において、青春もラブコメも無縁な男性達。
誰にも手にとって貰えない、ヒロインも活躍シーンも何一つ存在しない不人気なリアルの主人公。
彼等が存在することすら否定しなくても良いではないか。
そういった人達はいる。
確かにいる。
この小説の読者にはいないだろうが、全国には多くいる。
それでも、存在していても良い事を、比企谷八幡という存在が教えてくれた。
やはり俺には青春もラブコメも無いけれど、俺が存在する事はまちがっていないものとする。
それこそが、俺ガイルの本質…いや、俺ガイルが読者達に与えた核心なのだ。
俺がいるだけで、俺にとっては満足だ。
という話だ。
俺が出来るでも、俺がするでもない。
何かの高い能力や成果があるわけでもない。
俺ガイル…。
俺が居る。
ただそこに居るだけ、在るだけの人間だ。
人財では間違いなくなくて、人材ですらない。
ただ在るだけの人在。
それでも、それでも生きているだけで、存在しているだけで良いではないか。
八幡という記号は、それをオタクの世に識らしめたのである。
もし仮にこの作品を侮辱と捉えられたのなら、とても残念です。
この作品は「弱くてもいいじゃないか」という主旨なのですが、「八幡は弱くない強い!! 強くない八幡は偽物で無価値だ!! 弱い八幡には価値がない!!」としてしまっては、八幡という本質を全否定している事になりませんか?
「弱い八幡は存在してはいけない」という方は、強い存在ですか?
そうでなければ、自分自身を存在否定していませんか?
私はそんなことをして欲しくは無いと思います。
八幡が、弱くても無能でも容姿が悪くても何も得られなくても、それでも存在は否定されない世界こそが、八幡に共感する人々にとって最
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