本文章は◆l872UrR6yw氏による「俺が、俺たちが大和政権だ」の二次?創作です。
 史実との整合性をとろうとしてもガバってますので大らかな気持ちで御覧ください。

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Wiki○edia風味を目指してみたが難しいですね


薊城の戦い(仮想)

薊城の戦い

 

 薊城の戦い(けいじょうのたたかい)は、中国の五胡十六国時代末期の405年に日本(倭)と東晋との間で起こった合戦である。薊とは現在の北京の事である。

 火薬兵器が歴史上確認された初めての戦いであり、所謂第三次日晋戦争中最大の戦いである。

 


 

概要

 

合戦まで

 4世紀中、日本(大和政権)が前燕や高句麗などを滅ぼし朝鮮半島から満州、華北地域へ勢力を拡大し、その結果として東晋、北魏の領域と接触する事となった。

 

 接触領域における日本の範囲は現在の河北、山東であり、東晋側領域は河南、江蘇であった。

(詳細な領域については歴史的決着がついていない)

 また北魏領域の山西とも接触していた。

 

 369年に東晋の簡文帝は娘を日本の神居皇太子(後の神居帝)に嫁がせることによって当時行われていた第二次日晋戦争を終結させ、疑似的な同盟関係を結ぶことに成功した。(太元の和約)

 

 この和約は、日本側に中国各地の港を開放し、山東の地を認めるものであった。この東夷に対する屈辱的な講和は、当時の東晋政権内部に対日強硬派と呼べる勢力を出現させた。この対日強化派は纏まっていたわけではなく、それぞれ個別の人物だったが、後の第三次日晋戦争の引き起こす存在であった。

 

 簡文帝から孝武帝の時代では軍の大敗と廃帝(海西公)の故事(幽香帝による首都強襲と皇帝捕縛)を引き合いに出す説得によって、日本懲罰を叫ぶ対日強硬派は抑えられていた。

 

 その後東晋内部で孫恩の乱による混乱や、桓玄による簒奪を経て国力が低下したが、逆にこれが日本懲罰の動きとなった。衰えた国力の補填に、日本が中華沿岸部や華北に蓄えた富を奪う動きとなった。

 

 東晋側は日本懲罰の開始を幽香帝死後と定めていた。当時の中華世界での幽香帝は軍神として、また鬼(日本語としては幽霊にちかい)と捉えられており、正面から戦い勝つのは不可能と考えられていた。(晋書には不確かな話として「賢者曰く、日本の幽(幽香帝)と戦うのは項羽と韓信の二人の偉大なる将が必要である」と残されている。安帝の復位に活躍した将軍劉裕もまともに戦ってか勝てるかは分からないと残している)

 

 また幽香帝が率いる兵士たちも日本鬼子と恐れられ、一人の兵士に対し三人で当たるよう指示されたという。また彼らの鋼鉄製の装備品はその後の中華地域の装備品に影響を与えた。

 

 安帝が復位した404年に幽香帝が崩御したとの情報を得た東晋側は戦争を決意、まず旧前燕地域の漢族に接触した。日本がやってきたことによって利権を奪われていた漢人達のなかで、田中(でんちゅう)*1なる人物は東晋に対して、日本への反乱を約束し、勝利の暁には旧斉の地域を任せてほしいと要求した。

 

 405年に東晋は謝玄の息子、謝麗(しゃれい)*2を将軍に任じ、100万の軍を与え華北の日本領へ進攻させた。

 

 この時安帝の復位に活躍した劉裕は後秦に逃れた桓玄軍残党に備える為として、対日懲罰軍司令官には任じられなかった。これは、これ以上劉裕の発言力が増大するのを防ぐ東晋内部の政治的な動きであった。

 

 この時北魏も晋軍に乗じて軍を華北に進めている。(⇒日魏紛争)

 


 

戦いの推移

 

田中の反乱

 田中により発生した反乱軍はまず、山東の古都である濰坊を占領した。日本がこれに兵を向け

反乱軍を鎮圧した。鎮圧後、逃げようとする集団を捕まえたところ晋人であることが発覚し、日本はこの反乱を晋によるものと認識した。

 

常山の戦い

 北魏は軍を太原より華北へ進軍させたが、日本領域西端の常山で足止めされた。在地守備隊300人と現地住民による抵抗によって進軍は停滞。都市包囲中に薊城から派遣されてきた日本騎兵部隊による急襲により北魏軍は瓦解、北魏との戦い日本の勝利で終了した。

 常山にはこの戦いで活躍した現地住民を称える碑が残されている。

 

薊城の戦い(前哨戦)

 田中の反乱と北魏の攻撃により兵力を分散していた日本に、河南より進軍してきた東晋軍を押し止める兵力が無かった。

 日本側は南部地域に点在していた戦力を薊城に集中させ、籠城を決断。当時の方面軍司令官坂上阿溢(さかのうえのあいつ)*3は本国へ増援を要請する使者を出すとともに、派遣していた戦力を帰還させようとした。

 

 対北魏軍は騎兵が主力であり、帰還要請を受け取るとすぐさま薊城への帰還を開始した。対北魏軍が薊城に帰還する寸前に東晋軍先軍が薊城郊外に到着していた為、対北魏軍はこれを撃破しつつ薊城に入城した。この戦いはただの偶然ではあったが、東晋軍首脳部はこれを敵の策略と見た為、薊城攻撃を全軍終結後とし、軍を薊城からやや離れた場所へ布陣させた。

 この行動に坂上阿溢は喜び、帰路を遮断されていた反乱鎮圧軍を海上機動させ、薊城まで軍を帰還させることが出来た。

 

 東晋軍先軍到着時の薊城守備隊はわずかなもので、帰還した騎兵を合わせても薊城を防衛しきれないと坂上阿溢が書き残しており、東晋軍先軍だけでも薊城を攻略できたというのが後の晋書に記載された評価である。

 

薊城の戦い(第一次薊城の戦い)

 8月10日、東晋軍全軍が到着し、謝麗は軍議を開いた。副官の一人諸葛夏(しょかつか)*4は「戦わずして人の兵を屈するは善の善と言います、我が軍の威容の前に東夷は戦わずして屈服するでしょう、まずは使者を派遣するべきです」と延べたが、臧堂弦(ぞうどうげん)*5は「拙速は巧遅に勝ると言います。すぐさま全軍にて攻撃すべきです」と述べた。

 

 謝麗は迷ったが、まずは使者を送ることとした。これは単純に夷狄は中華に屈服するだろうという考えでは無く、なるべく兵力の損失を抑えたいという考えからだった。

 この時までに東晋は度重なる反乱や戦争で国力が疲弊しており、兵の質や装備に大いに問題を抱えていた。戦って勝てたとしても兵を損えば戦後にまた反乱でも起きた場合耐えられないと考えたとされている。

 

 謝麗は敵軍の兵力を少ないと考え、軍を4方に分け、攻撃させた。坂上阿溢は4方に分けられた軍をよく観察し、もっとも練度が低い西側の軍に対して鉄砲を投入した。当時の新兵器である鉄砲(火縄銃)を現地協力者と取り扱いが可能な士官に渡し、城壁の上から撃たせた。

 とてつもない轟音と、矢に比べて見づらい銃弾による死傷はたちまち兵の士気を下げた。そこに待機させていた騎兵を投入し散々に打ち破った。その後騎兵達は他方面への攻撃を伺う動きをし、他三方向での攻撃を中止させた。

 

薊城の戦い(第二次薊城の戦い)

 9月に日本の満州、朝鮮半島からの増援が到着した。この軍は大砲を伴っており、これは城壁に設置された。

 

 東晋軍は日本騎兵への対策として逆木を作成し、また攻撃を一方方向に絞ることで攻撃を厚くした。轟音を伴う敵新兵器について調査を行ったところ、死者の体内から鉛の球がでてきたことから、弩のようなもので球を飛ばしていると結論づけた。火薬に対する知識が無い為、音は兵士を委縮させるものとして、弾と音を結び付けなかった。音自体は竹を火に欠けた時の音だと結論付けた。弾が飛んでくる対策として木や竹による盾を作り、兵達に持たせた。これらの対策にかかる時間で日本側の増援が到着してしまった。

 

 9月22日に再度の攻撃が行われた。東晋軍は攻撃は南からに絞り、側面を逆木と槍兵で固め日本騎兵を牽制した。

 破城槌や攻城塔による攻撃が行われ、その間を盾持ち兵が走り、その後ろを梯子を持った兵士と剣兵が続いた。また投石器による攻撃も併せて行われ、城内への圧力を加えた。

 

 攻城塔が近づいた時、城壁に据えられた大砲が火を噴いた。その一撃で近づきつつあった攻城塔が粉砕され、外れた弾は人間を砕いた。砕かれた人間の一部が散乱することで、それに驚いた兵たちの士気は砕かれ敗走したが、戦場の中の一部だったため戦闘は継続された。

 

 梯子をもった兵士たちが壁に到着し、壁にかけた時、鉄砲、大砲に続く日本側の新兵器である手榴弾(当時はてつはうとも呼ばれた)が使われた。

 壁の下に来ていた兵士たちを鉄片と衝撃にて死体に変えた。

 

 一昼夜の戦闘を経ても東晋軍は薊城の城壁も城門も破ることはできなかった。

 攻城兵器の消耗をみた謝麗は攻撃を中止させた。

 

薊城の戦い(第三次薊城の戦い)

 二回の薊城への攻撃によって日本側の兵力は消耗したが、東普側からみるとまだ意気軒昂に見えた。薊城内の実態は戦力の2割が死亡し3割が負傷してとされている。また城内の協力者の3割が死亡し、3割が負傷したとされている。

 

 東普側は攻城兵器の補充を行いつつ、大砲(東普側は巨大な弩かもしくはカタパルトの一種と捉えていたとされる)から放たれた鉄弾を回収し、この攻撃を継続することは難しいと判断していた。東普といえどもその大きさの鉄塊を大量に用意する事は難しく、況や東夷がそこまでの工業力を持つとは考えられなかった。

 謝麗の副官の一人孟奇(もうき)*6は「東夷が持つ怪しげな兵器(鉄砲や大砲、手榴弾の事)によって兵たちの士気は下がっております。ここは撤退すべきでしょう」と述べたとされるがこれを拒否し、攻城兵器の増産を指示した。

 

 10月初頭に天津に斗々璃(ととり)皇太子率いる日本本軍が到着した。これを聞いた謝麗は城攻めを諦め野戦を決意したとされる。

 

 10月15日に薊城郊外(現在の廊坊付近と思われる)にて戦闘が起こった。薊城での戦いではないが、一連の薊城の戦いの一部と見られている。

 

 日本軍の軍楽隊の音楽が鳴り響き、薊城での戦いで用いられた以上の鉄砲、大砲が放たれたことで、午前に始まった戦闘は昼過ぎには東普軍は崩壊という形で終了し、謝麗は撤退した。

 

 斗々璃皇太子は敵軍追撃より領域の回復を優先したため、消耗しながらも東普軍は建康まで撤退できた。

 


 

戦後の影響

北魏

 日本との戦闘による戦力の消耗はあったものの逆襲の進撃が無かったため日本の消耗も大きいと判断、夷狄へ懲罰を行ったと勝利宣言を行っている。そのためか、日本側の代替わり時に日魏戦争が起こされた。

 

東晋

 戦いに失敗した謝麗は処刑された。

 日本側が東晋へ進撃してこなかったことから東夷に打撃を与えたと勝利宣言を行っている。

 戦力消耗の結果、北西から勢力を伸長しはじめた後秦との戦力差が後秦側に傾き、押され始める。

 また、さらなる挽回をかけて第四次日晋戦争を含む華北戦争がこの後起こる。

 

日本

 上皇崩御や践祚による代替わり時に毎度外国に寄る侵攻を受けていた為か、通常の対応だったようで古事記での記事は少ない。

 ただ、斗々璃皇太子以前では攻め込んできた国へ逆侵を行っていたが、今回の戦争では行われなかった。結果として再度の戦争が発生したと判断したようで、次の第四次日晋戦争では東晋消滅まで戦うこととなった。

*1
架空人物

*2
架空人物

*3
架空人物、この時点で坂上という名字は多分存在せず坂上田村麻呂の先祖、東漢氏すらまだ日本に来てないけど、まあいいよね

*4
架空人物

*5
架空人物

*6
架空人物




反省
①Wikip○diaの歴史風に書きたいけど小説っぽくなってしまう
②この時期の日本人の名前が分からないため、日本人っぽい名前が作りづらい
③架空の中国人を出すと歴史上いそうで怖い、というかどんな人物がいたかわからん、もっと三国志みたいに人増やして
④劉裕生かそうと思ったが、いらなかった可能性有り

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