洞爺丸召喚 〜青函連絡船、新世界に就航する〜 作:ペジテ市民A
異界の国家ムー北部のある港湾都市にて、災害支援を監督しているのは、衆議院東京第4区トップ当選の代議士太刀川であった。太刀川が支援体制の構築に着手した初日には、剛腕を振るう異邦人への不信感が強くあった。しかし、北部の名門と知られるナーカル医科大学の学生達から信頼を得ると、これを組織化し、支援活動に当たらせた。
まず、地区ごとの避難先を整理し、炊き出しを始めた。これにはキリストの宣教師達が大いにその手腕を発揮した。
物品の分配、生活ゴミの処理から便所の掃除に至るまで、優秀な学生らが指導し、太刀川と学生達で決定した方式、規則で避難所を運営した。1週間のうちに元の居住地区を基礎に自治組織が組織され、避難所の運営は自治組織に移管されて、機能する様になっていった。
さらには、行方不明者の捜索や焼け跡の片付け作業も町会単位で始まり、洞爺丸などによる強力な資材の供給を受け、急作りのバラック街が起こりつつあった。
これは正しく関東大震災の時の東京都心部の風景であった。ただし、当時大正12年の東京よりも、技術・社会の発達度合いが低い中でこの成果を実現したのは、太刀川や青函連絡船に乗った日本人達が昭和29年の人間であり、また大震災の復興だけでなく、日本各地にて空襲からの復興をまさに成し遂げようと言うところにあった人々であったからだ。
つまり、町の復興は2度目3度目の者が多く、手慣れてすらあった。その者たちが、家を焼かれ人を失った痛みを一先ずは気にせずに働けば、その活躍は目覚ましくあって当然であろう。
太刀川は、ムーの人々の復興への強い意志と日本人の復興の経験を原動力に、卓越した組織操縦の手腕を以て、2週間ほどにしてナーカルの町を復興の段階へ推し進めたのである。それも住民の力がより発揮される、隣人達が結束した都市へ向かう復興であった。この時ナーカルはムー国でも随一に、自治組織が発達していた。都市が膨張する中で隣人間の関係が薄れていた時勢に、災害を奇貨としてより強い現代的都市へ進歩したのである。
同時にこの2週間、太刀川はこの世界の情報を集めてもいた。
福祉もなければ、労働者は保護されず、産業は独占されている。所得、資本の不平等は拡大の一途で、労働者に農民、女性などは社会から疎外されていると言って良い。
ムーの現状は金ぴか時代のアメリカに相似する。
太刀川は1人の政治家として、社会主義者として、労働運動家として、今日のムーを憂いた。そして、1人の日本人としては、こんな世界で同胞を苦しめるわけには行かないと言う思いが沸々と湧き出していた。
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汽笛が長く2回響く。日が傾きかけた頃、この日最後のナーカル支援臨時便が中継地点のアピアを発った。船は洞爺丸、船長は近松であった。
洞爺丸があの台風の元より、この海に放り出されてから二月。近松は元の、青函連絡船1隻の船長の立場に戻っていた。乗客達がナーカルや近隣の町に仮住まいを得て、陸に登ったからには、近松が乗員乗客全員の代表である必要はないのだ。
ならば、近松は本領である所の船長に戻り、ナーカル復興の為に、臨時需要に応え対価で船員を食わせる為に、ナーカルと周辺の都市を往復して、必要な物資を輸送していた。
ただし、いきなり転移したのだから問題は大いにあって、例えば、青函連絡船5隻に対して、船員の交代は上から下まで居ないのである。当直の交代は組めるのだが、青函連絡船は、函館か青森に停泊している間に乗組員をそっくり交代させるダブルハンド制を以て、船員の労働時間などについて律する船員法に適う勤務制度としていたのだ。
よって、連絡船と共に転移してきた船員だけでは、通常の運航は出来ないのである。
「緊急時であるから無視するべき」
という発案は勿論あった。しかし、
・社会党所属の代議士の目がある。
・超常的な転移現象が無ければ重大インシデントでは済まされなかった事態の直後である。
・不慣れな海域にして、不慣れな規則の下での航海である。
などの、抗うべくも、逆らう道理もない条件下であったので、中継地などでの停泊時間を長く取って運航しているのであった。
近松などは近頃、
「そろそろこのムーの、現地の船乗り達を教育して、洞爺丸の乗組員とする試みをしなければならないナ」
などと考えていた。災害援助に一区切りついた後も洞爺丸を動かしたいと思えば、新しく船会社を興してやらねばならないだろうとも算段していた。
「経営は浅賀総支配人以下に頼めるだろう。どうにか鉄道をやりたいと言っていた事だ、鉄道連絡船はあの人らも手放したくはないだろう。
青函の局長が居ないのは不便だが、しかし海主陸従が約束された様なものだ。これは喜んで良い。連絡船を中心に路線を作って行くのが当座のところとなるだろう」
この2ヶ月、異界に転移してしまった乗員乗客たちの中では、このムーの地でどう生活基盤を築くかが問題であった。日本に帰る方法を盛んに探しているのは僅かで、あとの者は神仏へ祈りを欠かさないくらいであった。
その僅かな者の一人である、物理学科の京大生も、被災した大学の設備復旧を兼ねて物理実験に明け暮れている段階で、どうにも目処は立ちそうにない。
あるとすればそれこそ神仏の心変わりである。しかし、神仏の思し召しで転移したのだろうと考える人々も、洞爺丸を荒海から救う為に転移させたもうたのではなく、ムーの人々を救う為にこそ我々を送ったのだと言う考えがあった。或いは、助けを求める両者を引き合わせたのだと。
そうであれば、直ぐの帰りは期待しないのであった。父母から伝え聞いた物語りにある、神隠しになぞらえば、ふと現世にたち現れるのは数年の月日の後である、と言うのが常だ。数年、数十年は覚悟して、いや、いつか帰りうると気楽でいれば良い。
後年から振り返れば、こういう奇妙な心持ち、この気楽さは、日本人たちがこの国に根付き、この国の人々と、そしてこの国における「近代」と言う時代と良い関係を取り結ぶにあたり素晴らしい原動力となったのである。
余談はさておき、ナーカルと言う町の復興はまだ掛かるが、復興であるからには、新たに興すものがなければならない。近松はこの青函連絡船を資本とした会社を、大復興の嚆矢にして大黒柱とせねばならないと確信し、構想を練るのであった。
3時間程で、洞爺丸はナーカルに着いた。港内に入ると補助汽船が寄って来て、洞爺丸を上手く埠頭に着けた。この補助汽船は昔ながらのムー人による曳舟会社が運営しており、最初に異世界人と取引を行った会社の一つと言えよう。これのお陰で初めの日の3倍は効率よく係留ができる様になった。
更に、洞爺丸が艫付けしたのは岸壁ではなく、車輌運搬用の
これが先日ついに完成するや、荷下ろしの能率は5倍に跳ね上がった。軌間を合わせてレールを敷き、各船の車輌甲板に載せていたシャーシに荷物を載せて、集積場まで乗り入れるのだ。
これを面白いと思ったのは市の港湾局長である。港の事務所で毎日夜復旧の指揮を執っていた港湾局長は、この仕組みを理解すると、港中に軌道を敷く計画を立てさせた。軌間は青函連絡船のそれと同じ、狭軌を採った。ムーでは主流で無かったが、先の大嵐の為に崖崩れで閉鎖された炭鉱から、車庫に収められていた狭軌のトロッコが運び出されたので、これを利用出来ると考えたのである。
今はまだ計画段階だが、鉄道と聞きつけた浅賀札幌総支配人に続き、札幌鉄道管理局長の西森、旭川の大津、釧路の金谷と押しかけ、計画に加わった。北海道の鉄道を管理する国鉄の大幹部連中が、広くはない一港内に敷く軌道について計画する様子は、全く奇妙であった。
近松として興味があるのは造船所の復旧であった。ナーカルの造船所はクレーンが倒壊しその復旧が待たれるが、新しいクレーンが完成すれば、洞爺丸などの設計図を元に、新造船を建造する計画が始まるのだ。
まずは5隻の青函連絡船を改装する事を小目標として始まった。と言うのは、
「船尾開口部から海水が波打って入り、出て行く前に次の波が押し寄せた」
と言う証言が、排水を試みた甲板員から上がっているのだ。どうにもこの車輌甲板に通ずる大きな開口部が問題であるらしい。これは乗組員も、どんな難航の時にも経験のない現象であったが、先述の京大生に問うた所、
「踟蹰*1と言うのをやると、波高や波長、波周期によってはそう言うこともあるだろう」
と言う返答だった。
この大問題は、海水が波打って入って来た訳だから、開口部に蓋をするのが一番であろうと結論された。他にも、救助艇や機関室上の開口部の改良、発電機の配置変更など、対策したい点や山の如しであった。
そうして、造船所と協議した所では、まずムー製の商船を何隻か、連絡船の設計、そして台風15号による連絡船難航の教訓を取り入れて改装し、経験を積む。そして青函連絡船の改装に取り掛かり、最後に船尾開口部に水密扉を取り付ける事となった。
他にも、事業を興した者がいた。例えば、元芳田自由党*2の代議士で、函館で水産業を営んでいた永倉と言う男は、「乗客の食い扶持となる」為に水産会社を立ち上げた。経験豊富で確かな手腕に加え、ムーの市場においては新鮮な手法によって、なかなか良い滑り出しであった。
他にも高名な歌劇女優の鷹野は避難所が閉まる前から無償の劇を披露し、今や地元の劇団員と団結して全焼した劇場の再建に尽力している。
宣教師たちは市民から人格者として尊敬されていて、その説教は未だ飽きられていない。
米軍人はその指揮能力、組織力、身体能力、工兵的技能を以て復興の大車輪となっている。ムーの兵隊とは警戒されつつも大いに交流し、その先進性でムー軍人を驚愕させ、ついにはハウ少佐がムー陸軍兵学校顧問に推薦されると言う話まで出ていた。
地球からやってきた人々は、この国に馴染み、この町を更に明るい方は連れて行く力強い仲間となっている。近松は彼らを渡した船頭として、感慨深く、偶然にも歴史の偉業に携わったと言う興奮に満ち溢れていた。
平坦な筋書きでありましたが、ここで一区切りとします。
向後は内政パートですが、公共放送の某バタフライ効果な歴史番組風につづめて、早く原作主人公の登場を迎えたいと思います。