大きな書架と、隙間なく並べられた本の群れが見えました。本たちを支える棚板は、掘り込みを施された木材です。木目の模様が照明から降り注ぐ光を浴びて、歩くたびにその色合いを変えました。黄色であったり、黄緑であったりと、それはさまざまに変化しますから、きっと棚板ごとに木材が違うのだと思います。随分と凝ったその景色は、そして随分と懐かしい景色でもありました。
かつて訪れていた頃、そこはいつも微かな音がポツポツと響く図書館でした。
利用者の方は大抵散らばって本を読んでいるようで、見えない場所からも、身じろぎの音であったり、ペンが走る音であったりと、耳に届くものがありました。ですがそれは微かですから、少し心持ちが変われば届かなくなリます。
私はようやく見つけた古書に夢中になって、立ったまま一息に読んでいました。吐息を吹き終えて、ふと本から視線を外すと、視界の端にこちらを向く顔がありました。
同じような背丈で、切長の青い瞳がとても深い色合いの女の子です。彼女の視線は書棚でも、私の手元の本でもなく、どうやら私に向いているようでした。
私はなんだか気恥ずかしくなってしまって、繋がっていた視線を外しました。しかし彼女のいる机の上でその動きが止まります。そこには見覚えのある題名の古書が置かれています。間違いなく、私が探していた古書のひとつです。どのような本なのか具体的に表すと、かなりニッチな分野に属している工学の本でした。
同じ分野に興味を持つ、同じ年頃に見える女の子が、そこにいるのだと気付きました。
顔を上げると彼女の青い瞳に、私の瞳の赤が薄く映り込んでいたことを、ふと懐かしく思いました。それは一見奇妙な既視感でした。
視線が記憶と同じように上がります。そこにはつい思わず笑みが漏れるような、とても綺麗な紫色がありました。
その色合いに思わず見惚れて、そして私は、これが夢であると悟りました。過去が虚像として浮かび上がっていることに気づいたのです。
同じ歳で、同じ工学分野に興味を持っていて、そしてとっても博識なその少女に、過去の私は小声で、けれど食い気味に話かけました。彼女は微笑んで、小さいのに耳に浸み込むような透き通った声で返事をします。今の私はその様子を見下ろすようにして、ただ聞いていました。
そうです。この時、私が古書について話を振ると、少し微笑んで、とても興味深い工学的研究アプローチについて話してくれて、そして私はあなたの巧みな語り方に魅了されたんでしたね。
筋道の立った、わかりやすく、それでいて聞き取りやすい言葉の連なりを聞いていると、かつてのように湧き上がるものを感じました。
あなたの説明はとてもわかりやすくて、それでいて面白くて、興味深くて……
羨ましい。
あなたのようになりたい。同じ言葉を並べてみても、私の説明はとても面白そうとはいえなかった。それでも近づきたい……
断続的な記憶が視界の端々に映り込み、ペンが紙を引っ掻く音が聞こえてきます。いくつもの夜がひとときに集まって、私の現在が押し流されてゆくのを感じます。現実が遠ざかるにつれて、過去の虚像のみならず、かつての感情がふつふつと浮かび上がってきました。
過去の記憶という泥濘から、仄かに暗いものが透けてゆきます。例えば、彼女に対して言いたかった、けれど言えなかった言葉です。思い出したくなかったそれを私は飲み込もうとして、けれど夢の中の豊美コトリは呟きだしました。
私はあなたになりたかったわけではないんです。すぐに気づいたんですよ、「豊見コトリ」は、「立涌ソヨギ」になることはできないんじゃないかって。
そう思っているのに、それでも諦めることができない。だから違うアプローチを試すことにしました。あなたが狭くわかりやすく説明するなら、私はもっと広く説明してみよう。
あなたになれなくてもいい。ただ、私はあなたに……
手のひらの痛みで目が覚めました。
腕をあげてみると、ひどく手のひらに食い込んだ爪が見えました。指はこわばっていて、ゆっくりと動かすとこわばった関節がきしみます。血が指の爪の先から少し垂れているのをみて、私は親指でそれらをぬぐいました。
それから手指の痛みに眉を歪めながら身体を起こして、そして昨日、彼女を見かけたことを思い出しました。
見知らぬ生徒と楽しげに笑い合っている姿が閉じてもいない瞼に映り込みますから、私の体はつい、随分と深い溜め息を吐いて、表情をいつも通りのものに変えようとしました。
電源がついていないスマートフォンを持つと、やはり手のひらの傷がジクジクと痛みます。無視して暗い画面の反射をみると、私の顔は全くもって、普段通りの笑みに見えました。ですが両手はやはり、小さく萎んでしまっています。
冷たい水でも顔に浴びせて、頭を冷やすことにしました。
廊下に出ようと立ち上がり、ついでに窓のカーテンを開きました。そとは僅かに明るくて、そしてそこには無表情の少女が映り込んでいます。口を閉ざし、歯を噛み締めて、爪を手のひらに食い込ませている女の子です。私は彼女から目を逸らして、歩き出しました。
再び爪を傷跡から離すと、痛みで涙が少し浮かびます。洗面台から水が出始めたのに、すぐ傷口を洗うことを躊躇するほどの痛みです。
痛みをこらえながら、私は傷口と、爪に入り込んだ血を洗い流しました。
痛みが薄らいでから少しして、鏡を見ました。そこに映りこんだ私の手指は緩く伸ばされ、また顔の表情も緩んでいます。けれど手のひらにははっきりと爪の跡があったので、それを隠すように、少し包帯を巻くことにしました。
そんな日がありました。しかし時はことごとく、ただ過ぎ去ってゆきます。気がつくと、私はことごとくを忘れていました。
私が所属するミレニアムサイエンススクールは、広大な学園都市であるキヴォトスにおいても特に理系として名高い学校です。そしてその中でも特に実績を持っているのが、エンジニア部です。
そういうわけですからたくさん学ぶことがたくさんあります。特に猫塚ヒビキという同級生と、白石ウタハという先輩は、それはもうとても魅力的な人物です。
彼女たちに追いつこうと日々頑張っているのですが、例えばヒビキが入部してすぐに開発実績(しかもとっても面白い!)をあげているのに、私はどうも、見せれるようなものを作れていません。
ちょっと悔しいので、その日もまた、発表できるだけの作品を生み出そうと張り切っていました。
私がいつものようにエンジニア部の部室に入ると、聞き覚えのない声色で話しかけられました。見ると、ヒビキがやけに真剣な表情でこちらを見ていました。彼女のそのような表情を見るのは初めてのことでしたから、私は驚いて「ど、どうかしましたか」と返します。すると彼女はこう切り出しました。
「コトリ、ソヨギさんに会ってみない」
予想外の言葉でした。私は立涌ソヨギに関することを、それこそミレニアムサイエンススクールに入ってから一言も話していませんから、エンジニア部のひとがこの名前を出すなんて、本来ならありえないことです。
不自然に硬直した笑顔を動かせないまま、私は口を動かします。首筋が突っ張って、背中まで板のように固まったのを感じました。
「え、ええと……それは立涌ソヨギさんのこと、ですよね」
ひとまず、できません、と呟こうとして、けれど食い気味にヒビキは続けます。
「彼女の友人から話を聞くことができたんだけど」
「私は」
思わず遮った声がひどく低いので、私は少し驚きました。ヒビキもまた驚いた表情を浮かべました。私の表情は笑みから全く変わっていなかったはずなのに、おかしいな声色だと感じます。
ですが言葉が溢れて、どうも変えられません。
「決して、ソヨギに会いたいわけではありません。むしろ会いたくないんです。私は彼女に、今の私をみられたくない。みせられるようなものじゃないし、みせたいものがないんです」
ヒビキは少し押されたようにのけぞって、けれどこちらに、改めて真剣な表情で語りかけました。
「コトリ、彼女自身も会いたがっているんだよ」
彼女の黒い瞳を見ないままに、私の口からまた、言葉が溢れていきます。
「だから会いたくないんです。絶対に、あの笑みが消えるところだけはみたくないんですよ。私が、私は彼女に見合うほど上手く喋れないし、だから……ですから」
気がつくと崩れていた口調に驚いて、私は自分の口を塞いで、俯きました。振り返ってみると、後で思い返すなんて絶対にしたくない言葉たちだったことに戦慄しました。
なんだかひどく胸が苦しくなって、頭がきんと冷たくなって、それから手のひらが少し痛みました。
すると扉が開く音がして、そこから静かで、それでいて耳に残る声が響きました。
「それじゃあ初めから笑っていなければいいのかしら」
立涌ソヨギがそこに立っていました。
気がつくと、私は彼女を見ていました。そしてソヨギをまっすぐとみるのは、随分と久しぶりですね、なんてことを思いました。
「わたしはあなたの説明が上手だろうが下手だろうが、聞いていて笑みを浮かべれるから、あなたと話していたのよ」
ソヨギは鉄でできたような無表情のまま、小さな口を動かしました。その声はかつてと同じく、頭に染み入るようでした。
「コトリ、ひとまず聴きなさい。はっきり言うけれど、わたしのことを嫌ったから離れたのだと思っていたし、だから会わなかったわ。ですからあなたがわたしを嫌っていない以上、私に会わない理由はない。」
そこまで話してから、彼女は強く言い放ちます。彼女の青い瞳が、私の瞳を覗き込むように思いました。
「そしてあなたを思いやる気もなくなった」
「え!?」
思わず口から声が漏れます。ですがソヨギは全く表情を変えません。
「当然でしょう、あなたはこちらを慮るばかりに余計なことをしでかしたのよ。私が同じ轍をゆく道理はない。これからは勝手にそっちへ行くから」
急展開に混乱に陥った豊見コトリは、しかししばらくの沈黙のあと、はいと答えを返しました。周りのエンジニア部のひとがどんな様子かなんて、ちっともわかりません。ただ立涌ソヨギという少女とその声を捉えているだけで精一杯です。
私はそんな自分を、どこか遠くからみている気がしました。
次の日、私は混乱を引きずったままで、エンジニア部の部室に向かう最中も、我ながらそわそわと、ポケットの中のスマホを触っていました。指先で弄る画面の奥には、新しく追加された連絡先があります。
昨日の夜からずっとそうでした。送る文言も思いつかず、つい睡眠不足になってしまいましたから、少し頭が重い気がします。考えのまとまらないままですし、どのような顔色に見えるのか、ちょっと不安でした。なのでなるべく普段通りに振る舞いたい、なんてことも思います。
ですから部室の扉を開いてすぐに挨拶をしようと口を開いて、けれどそこからは、ただ細い息だけが漏れました。
ソヨギが私の机のそば、私がいつも使っている椅子の上で、ヒビキの作業を見ています。じっと動かない視線を受けながら、けれどヒビキはいつものように作業をしています。
なんだかぼんやりとしていると、気がつくとウタハ先輩が側にいて、小さな声でささやきました。
「君の作業を見たいんだって」
私はびっくりしてしまって、返事をしないまま勢いよく先輩の顔を見ました。ウタハ先輩は微笑んで、指をさします。促されるままにソヨギの方をみると、彼女はやはり、私の椅子に座ったまま、しかし今はこちらを見ていました。
ぎくしゃくと近寄って、先日までやっていた作業を始めます。
口を開いたり閉じたりするのがやめられないのに、言葉は「ああ」とか「ええと」のようなものしか出てこなくて、そして視線もふらふらと彷徨います。ふいにソヨギの顔をみると、私の赤い瞳が彼女の青い瞳に映り込んでいて、慌てて焦点をずらしました。気恥ずかしさから顔が熱くなってきます。
ソヨギは気にした素振りも見せないまま黙っていますから、再び私はチラリと視線を向けました。やはり、こちらをじっと見ています……
「あ、あのですね!」
私はつい口を開いてしまいました。豊見コトリがどのような作業をしているか、短くわかりやすい説明を頭の中で組み立てて、ジェスチャーで示しながら解説します。ただ、頭の中がいっぱいになって、自分がどんな風に喋っているのかさっぱりわかりません。ただソヨギの微笑みと、あの青く澄んだ視線だけが意識の中を埋め尽くしていました。
そしていつの間にか、もう解説することはなくなっていました。驚いて手元を見ると、作業はすべて終了していて、完成した私の開発品だけがありました。
これなら、発表に出してもいいかもしれないですね、なんてことを思います。
手元から視線を外すと、ソヨギは笑みを深めて、「ちょうどいいし、お昼にしようか」と言いました。私はもうびっくりしてしまって、つい視線をあたりに彷徨わせました。確かに時計はちょうどいい時刻です。そしてエンジニア部の皆は黙ったまま作業をしています。いつも騒がしいエンジニア部とは思えないほどの静寂でした。
こちらに向いたウタハ先輩の視線に必死にアイコンタクトを送ると、ウインクだけが返ってきました。
再びソヨギを見てギクシャクと頷いた私の手は、柔いのに確かな力で引き上げられたのでした。
彼女の少し暖かい指にひかれてついたのは、小洒落たカフェテリアでした。
私とソヨギはそう大きくはない机を挟み、互いにメニューを持ちました。けれど私は、そして彼女も、視線は高いままです。ですからすぐに気が付きました。
立涌ソヨギの瞳は青く、澄んでいて、そして私をじっと覗き込んでいます。それは彼女から受けたことのない視線でしたが、不思議と感じられる感情がわかりました。彼女は私に疑問を抱いているようでした。なぜそのような行動をするのかという疑問です。
そう思ったとき、私は猛烈な羞恥心と、理解しがたい怯えを覚えました。なぜ私が今日のふるまいをしたのか、ということについて、そしてそれを立涌ソヨギがみていたということについて、ようやく実感が湧いてきたのです。
取り繕いたいあまり、喉が囀ります。豊見コトリはいかにもメニューから食べたい品を見つけたという風な声色で話しかけました。それをソヨギは少しだけ見返して、そしてまず一言。
「それも、良いと思うわ」
そう微笑んで返しました。
私は安堵すると同時に、私はなにかが散り散りになったように思いました。そして反射的に吐き出しそうになった言葉を噛みこらえて、ふと、それがいったいどんな言葉だったかと不思議に思います。
思い出せないので、相槌を返しました。それは私の耳には、そうですか、と聞こえました。
ソヨギは私をやはりじっと見ていましたが、やはり微笑みを湛えたまま、やはり何事もないかのように口を開きました。
「そうよ、私はあなたが何を選んでもいいと思う」
布団に包まり目を閉じていることに気がつきました。
瞬く間に時が過ぎてゆくという言葉は、比喩ではなく全くもって正しい表現です。夜は随分と更けているのに、微睡はまだ遠く、すぐそばに記憶が寄り添っていますから、私は瞼の裏、あるいは頭の奥深くで今日を振り返りました。鮮やかに浮かび上がってくるその景色、音、そして言葉に、私の感覚はだんだんと鋭敏になっていきます。
やがて、目が冴えてしまいました。私はもぞもぞと起き上がり、作業机に向かいました。取り出したノートに、ペンが走り出します。
まるで遠くから覗き込むような気持ちで、私は豊見コトリが書いている言葉を口の中でなぞりました。
腕の動き、みじろぎ、髪を弄る指先、足を伸ばした時の微かな音。ソヨギの声、眼差し。そして豊見コトリの放った言葉。
ぴたりと、動けなくなりました。
その文字から滲み出す記憶に、どこかが奇妙な痛みを訴えます。口の中がいやに甘くなって、やがてそれが血だと気がつきました。
歯が舌の端をかすりながら、強く噛み締めあっていますから、私は口を開きました。すると大きな吐息が漏れました。
息をすることを忘れていた体が苦しみを訴えましたから、しばらく荒い呼吸を続けると、その音がやけに耳に残って、私はなんだかいやになったのですが、これまたどうしてか動けず、随分と長い間、その場に立ちすくんでいたのでした。
「豊見コトリ」が「立涌ソヨギ」と話している声を私が聞いていると、どうしてもその豊見コトリという存在が、あまりにも不安で不完全なものに感じて、いっそのこと崩してしまいたいと思い、あるいは置き換えてしまいたいと思い、はたまたどこか別のところへとやってしまいたいと思うのです。
感覚的で非論理的な感情だと、私はそれを定義します。しかし不可解であったとしても、それは豊見コトリにとって間違いなく存在する感情なのです。
指先、ペン先、インクの染みるノートの紙の表面を通して、聞き覚えのない声色で語りかける聞き覚えのある声を聞きました。
豊見コトリはこのように語りました。
「あなたが思っているほど立涌ソヨギは完璧ではないし、豊見コトリは不完全でもありませんよ」
私は口元を抑えようとして、けれどペン先は走りますから、ノートが動かないように強く、強く抑える腕を目の端に捉える他になすことがありませんでした。
声というものは音の連なりであり、そこから意味や意図を類推するのは、聞き手の行う理解や解釈という行為に基づく試みによるものでしかありません。
しかしその明るく朗らかで聞き覚えのある声は、しかし冷たいメスを頭蓋の内に差し込むようにして、するするとその言葉を理解させてゆきます。
氷のように痛みを伴う温度が脳漿に染み渡り拡散してゆくのを感じて、私はむしろ熱いものが皮膚のうちを迸っていることを理解しました。
汗でしょうか?いいえ、私は全くもって汗をかいていません。それは血管を押し流すようにして押し出されている血そのものでした。脈動が一見不規則なリズムと規則的な周期をもってその音を響かせています。
「これは知覚過敏ですね、自律神経失調症が近いようです」
やはり明るく朗らかに喉が囀ります。ですが、私は気がつきました。
私はただそのことを、穏やかに受け入れているようでした。
そしてそれを入れ子のように豊見コトリが知っていることを私は知りました。
立涌ソヨギという人物と話していると、なんだか穏やかな気持ちになって、それでいて楽しくて、胸の内からぽかぽかと熱が染み渡るような気がします。
それは彼女のある種受動的な部分が大きく関係しているように、私は考えています。
ソヨギは話すとき、短く簡潔でわかりやすいようまとめた状態で語ることを好みます。しかし聞き手に回った場合、むしろまとまっていない言葉を聞くときにこそ、笑みを浮かべます。
そんな言葉を脳裏に浮かべると、しかしそこから類推される言葉が、私の表情を困ったように歪ませるのを感じました。
暖かいという感覚は寒暖差や温度差によって発生するので、もとよりある程度温度が低くなければ、伝播することもないでしょう。彼女の言葉で暖まるということは、私の身体が冷えているのでしょうか。
いいえ、暖かい、熱いという感覚は比較ではありません。ただの知覚情報であり、神経の刺激にすぎませんから、たとえば非常に冷たいものに触れた時など、冷たいものを逆に熱く感じたりする場合があります。
私はそこまで言葉を並べて、では、などと続けようとして、けれど先ほどあげた表現が逆説的な論法を否定していることを思い返し、安心したのでした。
私は、もしかすると、ここまで感じたことは全て夢なのではないかと思いました。
ずっと夢を見ているのではないでしょうか。
論理性や連続性を失った現在が絶え間なく続いて、そして今日が終わったのを感じて、私は自らを心配に思います。
ですが私は、それとは別のことが最も不安でした。
もし、これが一種の狂気や精神疾患だとするならば、「豊見コトリ」が「立涌ソヨギ」に抱いていたこれまでは、同様なのでしょうか。
そのことを否定したいあまり、歯が噛み合った末擦れて、嫌な音をたてました。
私は瞼を閉じています。電気を消した部屋は暗いようで、瞼の裏もまた黒く、見えるのは私の妄想であったり想起などといった幻覚的なものでしかありません。
音もまたそうです。過敏になった知覚から、錯覚を起こしているのです。
「……コトリ?」
「え?」
そう口から音が漏れるのを聞いて、ハッと我に返りました。
気がつくと隣にソヨギがいて、私は慌ててそちらを向きました。
彼女は怪訝そうな表情でこちらを見ています。私はえへへと笑って誤魔化して、なんの話をしていたか頭の中で反芻します。
そう、確か……
なんの話をしていたんでしたっけ。
私はえへへと笑って誤魔化しました。だからでしょう、ソヨギはやはり不思議そうに、こちらを見ています。
話題を切り替えようと、笑いながら考えました。しかし困ったことに何も思いつきません。何も……
私は本当に、笑いながら誤魔化すほか、なすすべがありませんでした。ですから言葉を吐き出すことができなくて、けれどそのおかげで自分の変化を知ることができました。
私は随分と、彼女に似た格好をしています。豊見コトリとはこのような服装だったでしょうか……そう思い返して、きっとそうだと思いました。
やがて夕焼けが視界を赤焼けた橙に染め始めて、立涌ソヨギの頬が美しい陰影を生み出すのが見えました。街並みもまた色合いを変えてゆきます。
他愛もない話をしながら、道を歩きました。車の通らない、人通りの少ない道です。ですから空気は静かで、私たちの言葉ばかりが耳に残りました。
だんだんと影が地面を伸びてゆきます。空を見上げれば、地平線の方が白んでいて、どこか奇妙に思いました。
この現象は、一体なんだったでしょうか。
ソヨギに聞くと、困ったように笑いましたから、私は彼女も知らないのだと思います。
私たちが帰路を歩み終える頃には、もう日が沈んで、空が青紫に染まっていました。夜に飲み込まれかけの雲が暗い色合いで浮かんでいます。
その端に月がありました。大きな月で、少しだけ欠けているようで、やや歪んだ楕円でした。それでも美しいことは間違いありません。
私は彼女が、月よりもずっと綺麗な笑顔で別れを告げるのを見送りました。
ノートにペンが走ります。染み出したインクが黒く太い筆跡となって刻まれるのを目で追っていると、その内容も自然と入ってきます、
今日のことが書いてあるようでした。自らの筆致でしたが、私はまるで他人の作業をいているように思います。
ふと、ノートが随分と増えたことに気づきました。作業机の上に乱雑に散らばったままのノートがいくつもありましたから、片付けようと手に取って、そして何の気なしにパラパラとめくりました。
エンジニア部の皆の写真が挟まれています。私は気崩した制服で笑っていて、なんだか気分が悪くなりました。それが随分と奇妙に感じて、私は自らの服を改めて見ました。
見慣れた服です。私はソヨギがこの服を着ている姿を想像しました。同じ服装の立涌ソヨギ、しかし豊見コトリよりもずっと魅力的に思えます。
私はなんだか頬が熱くなって、再び作業机に向き合いました。
ノートにしみがついています。
私は鳴り響く着信音を無視していることに気がつきました。
慌てて端末を開くと、見覚えのある名前が写り込んでいましたから、私は電源を落として、ふと自分の行動が奇妙であることに気がつきました。
ノートを開くと、しみがついています。
インクが滲んでいるのでしょう、筆跡が濃く、太く刻まれたその表面は少し汚れてくすんでいます。
うまく読めない私を傍に置いたまま、豊見コトリはその文字を読み上げました。
「豊見コトリはかなり病的に変化しています。記憶が支離滅裂な部分がいくつも見受けられ、行動も異常です。
問題なのは、私がそれでも彼女の模倣、つまり立涌ソヨギに近づこうとすることを、全くもって微塵もやめたくないと思っていることです。より言うならば、私はもっと彼女に近づきたいのです。
このことを否定する理論、理屈、言い回しは、ノートに山のように積み上がっていました。もちろん私自らの筆跡でです。
最近の出来事を確認できる範囲で把握したところ、私はエンジニア部の皆に随分と心配されているようです。まだどれほど危険な状況かはっきりとは伝わっていないようですが、さまざまな点から異常であることが伝わっているはずです。
それでも私は豊見コトリという存在が足りていないと感じています。
やや狂気めいている自らの思考に辟易しながらも、私の腕はペンを握り、私のノートは新しいものに変わり、そしてインクがページに染み込んでいきます。
ちなみに今書いている内容ですが、読めていません。文章を理解することができないのです。これは非常に危険な状態だと私は考えています。」
思わず笑みが漏れました。理由のわからない笑みでした。もしかすると文章の内容を想起した豊見コトリが笑ったのかもしれませんが、私にはさっぱり理解できない笑みでした。
ノートを書き終えた私は病院に連絡しました。
誰にも知られないように、ひっそりと。
ふと気がつくと、小綺麗になった机に、空になった薬の包装が残っています。
私は気がついたことに気がついたので、穏やかな気持ちで薬と水を飲み込みました。
けれどそのせいでソヨギが遠ざかったように思って、寂しくて、涙がこぼれます。
そんなはずもないんですけれどね、私にはもちろんわかっていることでした。ただ、豊見コトリにはわからないことなのです。ただしその差異がこのような事態まで引き起こしたわけですから、もはや直視しないわけにはいきません。
事実を並べるとすれば、ミレニアムサイエンススクール所属の豊見コトリとしてのふるまいは、決して立涌ソヨギに見せられないものではないけれど、どうしても豊見コトリには受け入れられないというだけなのです。
そんな、まったくもって些細なことだというのに、私にはそれがどうしても受け入れられないでいるのです。
私はペンを取ることなく、整頓され段ボール箱に入れられたノートを取り出して、ぱらぱらとめくりました。
私はそこにある言葉を咀嚼するたびに、豊見コトリの胸が苦しくなるのを感じました。
しかし理路整然とした私による否定は間違いのないことにみえました。
ですから私ははっきりと言い聞かせました。
「今日こそ、私はソヨギに完璧な説明をします」
言葉の端々に震えがありましたが、言い切りました。
私はいつもと違って身支度をおざなりに整えて、いつものように部屋を出ました。目の端に映った窓からはいつもよりずいぶんと明るくなった空が見えましたが、私は気にせずにゆっくりと歩きました。
ミレニアムサイエンススクールは大きな自治区を持つ学園であり、高度な技術が端々まで採用されています。例えば通学手段はモノレールなのですが、これは大人数が乗るにもかかわらず、揺れも音もなく、それでいて高速で動きます。
私は通学ラッシュから時刻が随分とずれたおかげで、これまた随分と空いた車内を見渡して、そしてそのおかげで広々とした車窓からの景色を見ました。ミレニアムサイエンススクールがある、巨大なミレニアムタワーが、太陽の光を受けてきらきらと輝いています。
私がここを、その中でもエンジニア部を目指すことにしたのは、自分でも捉えられない不安から目をそらすためでした。工学に適性を持っていた私からすると順当な進路でもあったのですが、わき目も振らずに向かったのは、それが大きかったように思います。
私は今も立涌ソヨギに憧れています。ですが私が考える完璧な豊見コトリとは、立涌ソヨギではありません。
それが随分と不安でした……いいえ、今も不安です。
私は車窓に寄って、自らの顔を映りこませました。丸みを帯びた赤い目は、ソヨギの切れ長の青い目と全く違います。
それを脳裏に刻むようじっとみていると、モノレールのアナウンスが目的地到着を告げました。
私は車窓から目を離して、歩き始めました。
往路を終えてエンジニア部の部室前につくと、そう歩いていないのに、足が随分と重く感じました。
豊見コトリは何度もまばたきをしながら、頬を両手で掴み、口をきゅっとしぼめました。それでも私は部室に入りました。
空調の効いたその空気が随分と冷たく感じて、私は体のこわばりを再び自覚しました。
ソヨギはウタハ先輩の作業をみていました。彼女は私をみて少し驚いたようで、目がぱっちりと開きました。けれどいつものように、あるいはいつもより微笑んで、こちらをじっと見ました。それはやはり真っ青な瞳です。私はそこに映りこんだ豊見コトリの赤色をはっきりと目に捉えて、それから口を開きました。
「ソヨギ、あなたに説明したいことがあるんです。長くなりますが、聞いてくれますか?」
立涌ソヨギは少し不思議そうな表情をして、もちろんと返しました。
私はミレニアムサイエンススクールの豊見コトリとして、説明を始めました。
それはもう長い説明です。私がどのようにソヨギと出会い、彼女をどのように思い、それからどのように考えて、どのように行動しようとしたか。なぜできなかったのか。なぜソヨギから離れたのか。それから……
口が渇き唇がひび割れだした頃、私は我ながらようやく、口を閉ざしました。私はふと、我ながら完璧な説明だったと思いました。
あまりにも長い語りに、ソヨギは流石に疲れたようでした。その様子をみて豊見コトリの肉体が怯えるのを私は感じました。
ソヨギは少し目尻の下がった微笑みで、こう言いました。
「はじめに説明したつもりだったけれど、わたしも初めから説明したほうがよさそうかしら」
私はもちろんですと言いました。
明るく、朗らかに。