豊見コトリは説明を切り上げた、
その表情は彼女らしからぬ寂しげなものであった。
どうしたのかと友人のひとりが聞くと、そちらを向いて、しかし瞳の焦点を崩したままに、ぼんやりと宙を見ながら、彼女は独り言のように語り出した。
「数年前……
あそこはいつも、微かな音がポツポツと響く図書館でした。利用者の方は大抵散らばって本を読んでいるようで、見えない場所からも、身じろぎの音であったり、ペンが走る音であったりと、耳に届くものがありました。
けれどそれは微かですから、少し心持ちが変われば届かなくなリます。私はようやく見つけた古書に夢中になって、立ったまま一気に読んでいましたから、その気配には全く気づきませんでした。
吐息を一つ吹いて、ふと本から視線を外すと、目の端にこちらを向く顔がありました。同じような背丈の女の子で、切長の青い瞳がとても深い色合いだったことを覚えています。
私はなんだか恥ずかしくなってしまって、繋がっていた視線を外しました。すると机の上に珍しいものが留まって、私はつい、微かに声を漏らしてしまいました。
その題名は私が探していた古書のひとつで、正直に表すとかなりニッチな分野に属しています。
同じ分野に興味を持つ、同じ年頃に見える女の子。
顔を上げると、彼女の真っ青な瞳に、私の瞳の赤が薄く映り込んでいたことを、はっきりと覚えています。
とても綺麗な紫色でした」
豊見コトリは微かに笑った。柔い、似合わない笑みだ。
「彼女はやはり同じ歳で、同じ工学分野に興味を持っていて、そして博識でした。私が古書について話を振ると、少し微笑んで、とても興味深い工学的研究アプローチについて話してくれました。
ですが、それよりも印象に残ったのが、彼女の巧みな語り方についてです。
筋道の立った、わかりやすく、それでいて聞き取りやすい言葉の連なりを聞いていると、 私はなんだか、彼女がきらきらと輝いてみえました」
コトリの口調に熱が入ってゆく。普段の語りとはまた違う、見覚えのない熱である。
赤い瞳が爛々と輝いて、彼女の涙型に歪んだレンズに映り込んだ。
「彼女の説明はとてもわかりやすくて、それでいて面白くて、興味深くて……
羨ましい。
彼女のようになりたい。同じ言葉を並べてみても、私の説明はとても面白そうとはいえなかった。それでもなりたい……
何度も練習しました。
それに、とっても勉強しました。
私はあなたになりたかった。
あなたに……」
言葉の勢いが、だんだんと萎んでゆく。
しかしその瞳は、表情は、やはり熱にあふれていた。
「気づいたんです。
豊見コトリは「」になることはできないんじゃないかって。
そう思って、けれど諦めることはできなくて……
違うアプローチを試すことにしました。
彼女が狭くわかりやすく説明するなら、私はもっと広く説明してみよう。
あなたになれなくても、私はあなたに」
唐突に、彼女は言葉を切った。
表情が暗くなり、そして歯を噛み締める音が響いた。
コトリの指が握り拳となり、縮む。
「……昨日、彼女を見かけたんです。
見知らぬ生徒と楽しげに笑い合っていて。
私は、あの日、「」を見て怖気付いて、後退りして。
でもできない。私にはできないんですよ」
彼女はふと、息を吐いて、表情をいつも通りのものに変えた。
全くもって、普段通りの笑みに見えた。
けれどその手は、小さく固まったままだった。
「あ、あはは。
……なに言ってるんでしょうね、私。
すみません、ちょっと、頭を冷やしてきます」
豊見コトリは廊下に出て、窓をみた。
無表情の少女が映り込んでいる。口を閉ざし、歯を噛み締めて、爪を手のひらに食い込ませている。
笑みを浮かべようとして、できなくて、彼女はそのまま廊下を歩き出した。
しばらくして、いつもような雰囲気を纏えなかったまま、豊見コトリは気恥ずかしげに部屋に戻った。
手指は緩く伸ばされ、頬も緩んでいる。
けれど手のひらにははっきりと爪の跡があったから、彼女はそれを隠すように、少し指先を曲げていた。
部屋の空気もまた、戻っていなかった。
しばらくしても会話が弾むことはなく、そして皆帰ったわけだが、けれど彼女らは変わらず、悩んでいた。
コトリを心配した彼女らが密談を行うのは、当然の流れだったと言える。
次の日、豊見コトリはいつものように振る舞い、いつものように去った。
全くもって、知ったままのコトリだったから、むしろ彼女たちは心配であった。
そしてある日、コトリがいつものように皆に会うと、ひとりが真剣な表情で話しかけた。黒髪の生徒である。
コトリが驚いて「ど、どうかしましたか」と返すと、彼女はこう切り出した。
「コトリ、「」さんに会ってみない」
コトリはぴたりと止まった。
不自然に硬直した笑顔から、声が漏れる。
「え、ええと。
それは「」さんのこと、ですよね」
できません、とコトリが呟いて、けれど食い気味にその少女は語ろうとした。
「彼女の友人から話を聞くことができたんだけど……」
「私は」
コトリは低い声で遮った。
表情は笑みから全く変わっていなかった。
「決して、彼女に会いたいわけではありません。むしろ会いたくないんです。
私は彼女に、今の私をみられたくない。
みせられるようなものじゃないし、みせたいものがないんです」
「コトリ、彼女自身が会いたがっているんだよ」
それを聞いた途端、豊見コトリは激昂した。
その場の誰も聞いたことのないほど、激しい声だった。
「だから会いたくないんです! 絶対に、笑顔が消えるところだけはみたくない!
私が、私は「」に見合うほど上手く喋れないし、だから……だから」
笑ってくれない。
そう呟いて彼女が俯いた、そのときである。
扉が開き、静かで、しかし耳に残る声が響いた
「それじゃあ初めから笑っていなければいいのかしら」
「」がそこに立っていた。
コトリが先日語ったそのままの、青い瞳の少女であった。
コトリは顔をあげず、黙った。
しかし「」は気にせず続けた。
「私はあなたの説明が上手だろうが下手だろうが、聞いていて笑みを浮かべれるから、あなたと話していたのよ」
その言葉にコトリと若干名が驚愕の表情を向けた。
「」は鉄でできたような無表情のまま、小さな口を動かした。
やはり透き通るような声色である。
「コトリ、ひとまず聴きなさい。
はっきり言うけれど、私のことを嫌ったから離れたのだと思っていたし、だから会わなかったわ。それで色々気に病みました。ですからあなたが私を嫌っていない以上、私に会わない理由はない。
そしてあなたを思いやる気もなくなった」
「え!?」
思わずコトリの口から声が漏れた。
「」は全く表情を変えずに返す。
「当然でしょう、あなたはこちらを慮るばかりに余計なことをしでかしたのよ。私が同じ轍をゆく道理はないわ。
これからは勝手にそっちへ行くから」
急展開に混乱に陥った豊見コトリは、しかししばらくの沈黙のあと、はいと答えを返した。
コトリの友人たちはその様子を嬉々としてみていた。
それから豊見コトリが「」といる姿はよく見かけられるようになった。
コトリはそれまで友人に見せたことのない表情を覗かせるようになった。
それは彼女にとって隠したい表情であり、そして隠せなかった表情でもあった。
羨望のような、憧れのような、吟味のような、あるいは恋のような。
彼女自身、浮かべていることを知らないそれを、「」はじっと、コトリの赤い瞳と、そこに映り込んだ自らの青い瞳とともに見ていた。
「」という少女は、豊見コトリという少女に対して、極めて単純に好意的であった。
同じ興味関心を持ち、自らに対して常にポジティブな関わり方をしてくれるそのあり方に対して、純粋な肯定を持って接した。
だからこそコトリもまた、「」をよく想い、そして考えた。
この少女に近づきたいと。
友人たちはある日、豊見コトリが少し痩せていることに気がついた。
元々コトリはジャンクフードを好み、運動を好まず、ウエストに四苦八苦しているような女の子であったから、その変化は好意的に受け取られた。
知人たちはある日、豊見コトリの説明癖が収まったことに気がついた。
元々コトリは一から十まで全て解説したがっていたが、必要な部分だけを教えて切り上げるようになった。その変化は好意的に受け取られた。
他人たちは、豊見コトリという少女が優秀であることに気がついた。
所属するエンジニア部の中でも良識的で、とても接しやすい人物であると考え出すようになった。その変化は好意的に受け取られた。
誰にとっても好意的に受け取れる変化であった。