「ここ押さえて」
言われるままに、私は男性の足首を押さえて固定した。自分より何倍も太くゴツゴツとした足。伸び放題の毛は、風呂場の水気を吸って湿っていた。
ダンッダンッ
「──っ」
衝撃が男の脚を伝って、私の体を揺さぶる。一心不乱に包丁を振り下ろす音が、腹の底に響く。
私の目の前には、死体が横たわっていた。
衣服は邪魔になるからと早々に裂かれ、脱がされ、ほぼ全裸になった男。
先輩に丸投げしている身だというのに、私はその行為を直視することができなかった。だが、代わりに彷徨わせた視線の先に水虫だらけの足の指を見つけて、余計に気持ち悪くなった。
おまけに、1週間前から痒さに悩んでいる親指と人差し指の間が疼き始める。水虫の感染経路はカーペットか共用の外履きか。思い当たるものは幾つもあって、この男との繋がりが、ただひたすらに気持ち悪かった。
上から押さえている都合上、下を向く方が力を入れやすい。私は仕方なく、青白い肌とすね毛とにらめっこをする形になった。初老に差し掛かった男の脚には、シミが至る所にあってハリがない。
先輩が包丁を振り下ろす度に、足は胴体から切り離されていく。始めの頃は骨に阻まれているのか、鈍い音だった。それから徐々に柔らかい音へと変化していく。
場違いなことに、ふと脳裏をよぎったのは昨晩のとんかつだった。それは、男の機嫌の良い日を見計らって作る定番料理だった。いつも私に割り当てられた量では物足りなくて、こっそり揚げたてを摘み食いしていたが、男にはバレていたように思う。端の数切れ程度ならばと見逃されていただけだろう。それでも、サクサクの衣と脂の乗った肉をアツアツの内に味わうのは、数少ない至福のひと時だった。そして、柔らかいジューシーな肉に仕上げるには、仕込みの時点で”叩く”のが有効的である。
その音と現実が重なって眉を顰める。同時に、私はもう二度と好物が食べられないことを悟った。
「硬いな……」
先輩は少しだけ息が上がっていた。もしくは、心的な疲労の方が大きいかもしれない。
私と違って、彼は全てを直視している。
「引っ張ってくれないか」
「……分かりました」
上から押さえつけていた足首を、両手で包み込むようにして持ち直す。私の片手では、足首の半分がやっと覆えるかどうかだ。そのまま綱引きのような要領で思いっきり引っ張った。
際限ない力比べをしているように、男の足はそう簡単に動いてくれなかった。左右に若干揺らしながら引くことで、僅かに断裂音がする。
ブチブチッ
私は思わず息を呑んだ。先輩は変わらず、包丁を叩き下ろしている。
風呂場に響く地獄のような打撃音に混じる生々しい肉の音。
歯を食いしばり、私は与えられた役目を継続した。目を閉じても木霊する音は、男の怨嗟の声にも聞こえた。
その後、同じように他の手足を切断すると、残りは自分だけでやると風呂場から追い出された。
すりガラス越しでは、中の状況を窺い知ることは出来ず、人の動いている気配だけがする。浴室と脱衣所など、たかがドア一枚挟んだだけだというのに、まるで世界ごと断絶してしまったように感じた。ここだけ見ればありきたりな日常なのに、向こうには非日常が広がっている。
暫く静かだったが、再び鳴り始めた音がこちらにまで侵食してくると、私は逃げるようにリビングへと向かった。そのまま真っ先に、隣接しているキッチンの蛇口を捻る。
何度も何度も洗う。それでも、さっきの感触は一向に洗い流されない。結局、手がふやけたところで諦めて水を止めた。ぎゅっと自分自身を掻き抱く。もう夏も近いはずなのに、震えが止まらなかった。
あまりにも必死で麻痺していたあらゆる感覚が正常に戻る。とんでもないことをしでかした実感が、ジワリジワリと這い上がっている。
「殺したんだ……」
咄嗟に口元を手で押さえた。唇を噛み締めて、これ以上の言葉も嗚咽も全て飲み込む。自分だけ絶望に浸るのはまだ早い。ただ、吐き出せない気持ち悪さだけが胸の奥に残った。
人様の部屋だからと出来るだけ見ないようにしても、視線は勝手にあちらこちらを彷徨う。急な来訪にもかかわらず、先輩の家は綺麗に整頓されていた。むしろ余分なものがなさすぎて、薄気味悪いレベルだ。本当にあの人はここに住んでいるのだろうか? だが、モノトーンで統一された室内は、彼の私服姿と一致していて、納得感が強いのも事実だった。
ノロノロと私はソファーへと辿り着いた。何もする気になれないのに、何かしなければ落ち着かない焦燥感。なんとなく目の前にあったテレビのリモコンを握った。
ゴールデンタイムのクイズ番組から老若男女の笑い声が響く。
ブッブー。ピンポーン。
問題文は頭の中を空回りして通り過ぎ、映像は網膜上に投影されるだけ。確かに見ているのに、内容が全く分からない。
だが、画面の向こうで日常が広がっていることだけは理解できた。
「……ふふっ」
不意に漏れた声に目を瞬かせた。
どうして? と疑問に思う間もなく、沸々と生じる断続的な声はやがて肩を震わすほどになった。感情と一致しない表情の発露は、止めようと思っても止められなかった。人は、最低な気分の中だと笑ってしまうのだと初めて知った。
私は意味も分からないクイズ番組で爆笑した。笑いすぎて泣きそうだった。
「終わった」
端的な言葉で私は現実に引き戻された。慌てて振り返ると、先輩は捲った袖を戻している所だった。
冷や水を浴びせられた気分だった。客観的に見て、人を殺したばかりの女が爆笑しているなんて異常だと確信が持てる。だが、青ざめた私とは対照的に、先輩は無表情を崩さない。何を考えているか分からない瞳が、ジッとこちらを向いている。
「疲れてるなら、もう少し休んでもいい」
「い、いいえ。むしろ先輩の方が大変だったんじゃ……」
「俺は別に。力仕事は慣れてるから」
普段通りの平坦な声が、頼もしい筈なのに空恐ろしくもあった。
実を言えば、私はこの先輩の事を何も知らない。ただ大学のサークルで一緒だっただけだ。無口で無愛想な彼が談笑している姿を見たことはないのに、何故か彼の周りから人が途絶えたことはない。本当に不思議な魅力を持つ人だった。
「さっきも言ったけど、これから埋めに行く。特に良い場所が無いなら、俺の実家の山にするけど」
「えっ、山を持ってるんですか?」
「北の県境ら辺って田舎だから、田畑と同じ感覚で山を持ってる家が多いんだ。きのこも山菜も生えないショボい所だから登山者も滅多に来ないだろうし、もしも開発が入るならうちに連絡が来る」
「でも、万が一見つかったら、確実に先輩が疑われ──」
彼は首を横に振ると、珍しく早口で言葉を挟み込んだ。
「万が一はない。見つかったら”おしまい”だ」
私は息を呑むと、了承と共に深く頭を下げた。結局、どこまでも頼ってばかりだった。
「それじゃあ、日付が変わる前には着きたいから早く出よう。あれ、纏めてくる」
あれよあれよという間に先輩は支度を済ませると、マンション横から車を発進させた。スコップといった別途必要なものは実家で調達するらしい。
大きな黒いビニール袋は、トランクに詰め込んである。
私は助手席で揺られながら、フロントガラスにポツポツと落ちる水滴を見ていた。これから本格的に降れば厄介なことになる。
私も先輩も、あれからずっと事務的な会話しか行わなかった。先輩は普段通りと言えばそうだったが、私の中には胸の奥が詰まったような言い表せない息苦しさがある。
沈黙で覆われた車内に流れる音楽は、意外なことに流行りのJ-POPだった。
私の好きな曲だ。
小気味良い明るいテンポが、陰鬱な気分にさざ波を立てる。
「先輩はどうして──」
だが、やっぱり思ったように声が出ない。中途半端に開いた口が結局閉じてしまって、その先の言葉は聞けなかった。私たちの関係を決定づけてしまいそうで怖い。
だが、隣の共犯者は分かっていると言わんばかりに平然と答える。
「別に。これを手伝うくらいには君のことが好きだから」
聞きたかった筈なのに、求めていたモノではない。それは私を縛りつける最低最悪な言葉だった。
「そう……ですか」
その声は自分でも驚くほど悲哀に濡れていた。
法定速度を遵守した車は、滑るように高速道路へと進入する。ワイパー越しの風景は、海底のように真っ暗だった。
「時間かかるし、寝ててもいい」
先輩の声がくぐもって聞こえて。
私は、消え入るような声で返事をした。
涙が溢れた。あぁ、なのに泣いても怒られない。私はあの男に人生を支配されていた。だがこれでは、その鎖が別の男に変わっただけである。
嗚咽が漏れた。運転席から少しでも距離を取りたくて、コツンと頭から窓に寄りかかる。これから先、私が死ぬその瞬間まで、
私はそのままゆっくり目を閉じると、肩の力を抜いた。
我ながら本当に酷い女だと思う。これだけ散々手伝わせておいて、私はどう頑張ってもこの人を好きにはなれない。だって、一緒に居るとアイツを思い出して苦しい。囚われていることを自覚して苦しい。それに今更気づくなんて、本当に愚かで仕方がない。
悪夢の予感がしたが、私は睡魔に身を任せた。雨粒の音がする。
ただ、暗闇に落ちる意識の中で、少しだけ、ほんの少しだけ。この絶望に浸るのが先輩で良かったとも思うのだ。
今夜、私は罪を犯した。