彼女がある日暗い顔をしていたのをみた同じエンジニア部の猫塚ヒビキは心配に思って、その顔を明るくしようと試みました。
これはそれまでとそれからの、豊見コトリの自己否定です。
懐かしい景色でした。
そこはいつも微かな音がポツポツと響く図書館でした。
利用者の方は大抵散らばって本を読んでいるようで、見えない場所からも、身じろぎの音であったり、ペンが走る音であったりと、耳に届くものがありました。
ですがそれは微かですから、少し心持ちが変われば届かなくなリます。その時の私はようやく見つけた古書に夢中になって、立ったまま一気に読んでいましたから、その気配には全く気づきませんでした。
吐息を一つ吹いて、ふと本から視線を外すと、目の端にこちらを向く顔がありました。同じような背丈の女の子で、切長の青い瞳がとても深い色合いの女の子。
私はなんだか恥ずかしくなってしまって、繋がっていた視線を外しました。すると机の上に珍しいものが留まって、つい、微かに声が漏れました。
その題名は私が探していた古書のひとつで、正直に表すとかなりニッチな分野に属しています。
同じ分野に興味を持つ、同じ年頃に見える女の子。
顔を上げると、彼女の真っ青な瞳に、私の瞳の赤が薄く映り込んでいたことを、今でもはっきりと覚えています。
そして視線が記憶と同じように上がると、そこには思い返すと今でも思わず笑みが漏れるような、とても綺麗な紫色がやはりあって、私はこれが夢であると悟りました。
同じ歳で、同じ工学分野に興味を持っていて、そしてとっても博識なあなたに、私は食い気味に話かけています。
そうです。この時、私が古書について話を振ると、少し微笑んで、とても興味深い工学的研究アプローチについて話してくれて。
そしてあなたの巧みな語り方に魅了されたんでした。
筋道の立った、わかりやすく、それでいて聞き取りやすい言葉の連なり。
あなたの説明はとてもわかりやすくて、それでいて面白くて、興味深くて……
羨ましい。
あなたのようになりたい。同じ言葉を並べてみても、私の説明はとても面白そうとはいえなかった。それでも近づきたい……
何度も練習しました。
それに、とっても勉強しました。
私はあなたになりたかったわけではないけれど。
あなたが……
気づいたんです。
豊見コトリは「」になることはできないんじゃないかって。
そう思っているのに、それでも諦めることができない。だから違うアプローチを試すことにしました。
彼女が狭くわかりやすく説明するなら、私はもっと広く説明してみよう。
あなたになれなくても、私はあなたに……
ふと、手のひらの痛みで目が覚めました。
腕をあげてみると、ひどく手のひらに食い込んだ爪が見えました。
指はこわばっていて、ゆっくりと動かすと関節がきしみます。
そして昨日、彼女を見かけたことを思い出しました。
見知らぬ生徒と楽しげに笑い合っている姿が、閉じてもいない瞼に映り込みます。
私は深く息を吐いて、表情をいつも通りのものに変えようとしました。
鏡でみると、全くもって、普段通りの笑みに見えました。
けれど気がつくと、手が小さく萎んでしまっていて。
私は冷たい水を顔に浴びせて、頭を冷やすことにしました。
廊下に出ると、窓のそとは僅かに明るくて、そしてそこには無表情の少女が映り込んでいます。口を閉ざし、歯を噛み締めて、爪を手のひらに食い込ませている女の子です。
なんだか見覚えがないような気がしました。
そしてしばらくしてから、いつもような雰囲気を纏えなかったまま、私は部屋に戻りました。
手指は緩く伸ばされ、頬も緩んでいます。
けれど手のひらにははっきりと爪の跡があったので、それを隠すように、少し包帯を巻くことにしました。
その日も、豊見コトリはいつものように振る舞い、いつものように笑えたはずでした。
全くもって、皆が知ったままの豊見コトリだったはずでした。
ある日、私がいつものようにエンジニア部の部室に入ると、聞き覚えのない声色で話しかけられました。
猫塚ヒビキという同級生のここまで真剣な表情を見るのは、初めてのことでした。
私が驚いて「ど、どうかしましたか」と返すと、彼女はこう切り出しました。
「コトリ、「」さんに会ってみない」
予想外の言葉でした。
不自然に硬直した笑顔を動かせないまま、私は口を動かします。
「え、ええと。
それは「」さんのこと、ですよね」
できません、と呟こうとして、けれど食い気味にヒビキは続けます。
「彼女の友人から話を聞くことができたんだけど……」
「私は」
思わず遮った声は、ひどく低い。
私の表情は笑みから全く変わっていなかったはずなのに、おかしいですね。
でも言葉が溢れて、どうも変えられません。
「決して、彼女に会いたいわけではありません。むしろ会いたくないんです。
私は彼女に、今の私をみられたくない。
みせられるようなものじゃないし、みせたいものがないんです」
ヒビキが少し押されたようにのけぞって、けれどこちらに、変わらず真剣な表情で語りかけました。
「コトリ、彼女自身が会いたがっているんだよ」
「だから会いたくないんです! 絶対に、あの笑みが消えるところだけはみたくない!
私が、私は「」に見合うほど上手く喋れないし、だから……だから」
笑ってくれない。
気がつくと漏れていた声に驚いて、私は自分の口を塞いで、俯きました。
ひどく胸が苦しい。
頭がきんと冷たくなって……
そして扉が開く音がして、そこから静かで、しかし耳に残る声が響きました。
「それじゃあ初めから笑っていなければいいのかしら」
「」がそこに立っていました。
気がつくと、私は彼女を見ていました。
「」をまっすぐとみるのは、随分と久しぶりですね、なんてことを思いました。
「私はあなたの説明が上手だろうが下手だろうが、聞いていて笑みを浮かべれるから、あなたと話していたのよ」
「」は鉄でできたような無表情のまま、小さな口を動かしました。
やはり透き通るような声色でした。
「コトリ、ひとまず聴きなさい。
はっきり言うけれど、私のことを嫌ったから離れたのだと思っていたし、だから会わなかったわ。ですからあなたが私を嫌っていない以上、私に会わない理由はない。
そしてあなたを思いやる気もなくなった」
「え!?」
思わず口から声が漏れました。
ですが「」は全く表情を変えません。
「当然でしょう、あなたはこちらを慮るばかりに余計なことをしでかしたのよ。私が同じ轍をゆく道理はないわ。
これからは勝手にそっちへ行くから」
急展開に混乱に陥った豊見コトリは、しかししばらくの沈黙のあと、はいと答えを返しました。
私はそんな自分を、どこか遠くからみている気がしました。
次の日、私は混乱を引きずったままで、エンジニア部の部室に向かう最中も、我ながらそわそわと、ポケットの中のスマホを触っていました。
指先で弄る画面の奥には、新しく追加された連絡先があります。
昨日の夜からずっとそうでした。送る文言も思いつかず、つい睡眠不足になってしまいましたから、少し頭が重い気がします。
考えのまとまらないままの私は、どんな表情なのか、ちょっと不安でした。
ですがなるべく普段通りに振る舞いたい、なんてことも思います。
ですから部室の扉を開いてすぐに挨拶をしようと口を開いて、けれどそこからは、ただ細い息だけが漏れました。
「」が私の机のそば、私がいつも使っている椅子の上で、ヒビキの作業を見ています。
じっと、動かない視線。
気がつくとウタハ先輩が側にいて、小さな声でささやきました。
「君の作業を見たいんだって」
私はびっくりしてしまって、返事をしないまま勢いよく先輩の顔を見ました。
先輩は微笑んで、指をさします。
「」がやはり、私の椅子に座ったまま、こちらを見ていました。
ぎくしゃくと近寄って、先日までやっていた作業を始めます。
口を開いたり閉じたりするのがやめられないのに、言葉は「ああ」とか「ええと」のようなものしか出てこなくて、そして視線もふらふらと彷徨います。
ふと「」をみると、私の赤い瞳が彼女の青い瞳に映り込んでいるのをみて、慌てて焦点をずらしました。気恥ずかしさから顔が熱くなってきます。
「」は気にした素振りも見せないまま黙っていますから、再び私はチラリと視線を向けました。やはり、こちらをじっと見ています……
「あ、あのですね!」
私はつい口を開いてしまいました……
そこからどう喋ったのか、はっきりと覚えていません。
ただ、「」の微笑みと、あの青く澄んだ視線だけが記憶に残っています。
気がつくと作業は終わっていました。
手元から視線を外すと、「」は笑みを深めて、ちょうどいいし、お昼にしようか、と言いました。
びっくりしてしまって、私はつい視線をあたりに彷徨わせました。
確かに時計はちょうどいい時刻です。そしてエンジニア部の皆は笑顔で黙っています。
ギクシャクと頷くと、「」は私の手を引きながら立ち上がりました。
私はもう、ついていくほかのことを考えつきませんでした。
布団に包まり目を閉じていることに、ふと気がつきました。
瞬く間に時が過ぎてゆくという言葉は、比喩ではなく全くもって正しい表現です。
微睡はまだ遠く、すぐそばに記憶が寄り添っていますから、私は瞼の裏、あるいは頭の奥深くで、今日を振り返りました。
鮮やかに浮かび上がってくるその景色、音、そして言葉に、私の感覚はだんだんと鋭敏になっていきます。
そしてついに、目が冴えてしまいました。
私はばっと跳ね起きて、机に向かいました。
取り出したノートに、ペンが走り出しました。
まるで遠くから覗き込むような気持ちで、私は豊見コトリが書いている言葉をなぞります。
腕の動き、みじろぎ、髪を弄る指先、足を伸ばした時の微かな音。
「」の声、眼差し。
そして豊見コトリの言葉。
ぴたりと、動けなくなりました。
その文字から滲み出す記憶に、どこかが奇妙な痛みを訴えます。
口の中がいやに甘くなって、ふと、それが血だと気がつきました。
歯が舌の端をかすりながら、強く噛み締めあっていますから、私は口を開きました。
すると大きな吐息が漏れました。
息をすることを忘れていた体が苦しみを訴えましたから、しばらく荒い呼吸を続けると、その音がやけに耳に残って、私はなんだかいやになったのですが、これまたどうしてか動けず、随分と長い間、その場に立ちすくんでいたのでした。
豊見コトリが「」と話している声を、私、つまり豊見コトリが聞いていると、私はどうしても、その私という存在が、あまりにも不安なものに感じて、いっそのこと崩してしまいたいと思い、あるいは置き換えてしまいたいと思い、はたまたどこか別のところへとやってしまいたいと思います。
感覚的で非論理的な感情だと、私はそれを定義します。
指先、ペン先、インクの染みるノートの紙の表面を通して、聞き覚えのない声色で語りかける聞き覚えのある声を聞きました。
豊見コトリはこのように語りました。
「あなたが思っているほど「」は完璧ではないし、私は不完全でもありませんよ」
私は口元を抑えようとして、けれどペン先は走りますから、そしてノートが動かないように強く、強く抑える腕を目の端に捉える他になすことがありませんでした。
声というものは音の連なりであり、そこから意味や意図を類推するのは、聞き手の行う理解や解釈という行為に基づく試みによるものでしかありません。
しかしその明るく朗らかで聞き覚えのある声は、しかし冷たいメスを頭蓋の内に差し込むようにして、するするとその言葉を理解させてゆきます。
冷たい温度が脳漿に染み渡り拡散してゆくのを感じて、私はむしろ熱いものが皮膚のうちを迸っていることを理解しました。
汗でしょうか?いいえ、私は全くもって汗をかいていません。
それは血管を押し流すようにして押し出されている血そのものでした。
脈動が一見不規則なリズムと規則的な周期をもってその音を響かせていました。
「これは知覚過敏ですね、自律神経失調症が近いようです」
やはり明るく朗らかに喉が囀ります。
ですが、ふと気がつきました。
私はただそのことを、穏やかに受け入れているようでした。
それを入れ子のように豊見コトリが知っていることを私は知りました。
「」と話していると、なんだか穏やかな気持ちになって、それでいて楽しくて、胸の内からぽかぽかと熱が染み渡るような気がします。
ある日そんな言葉を脳裏に浮かべると、しかしそこから類推される言葉が、私の表情を困ったように歪ませるのを感じました。
暖かいという感覚は寒暖差や温度差によって発生するので、もとよりある程度温度が低くなければ、伝播することもないでしょう。
「」の言葉で暖まるということは、私の身体が冷えているのでしょうか。
いいえ、暖かい、熱いという感覚は比較ではありません。
ただの知覚情報であり、神経の刺激にすぎませんから、たとえば非常に冷たいものに触れた時など、冷たいものを逆に熱く感じたりする場合があります。
私はそこまで言葉を並べて、では、などと続けようとして、けれど先ほどあげた表現が逆説的な論法を否定していることを思い返し、安心したのでした。
もしかすると、これは夢なのではないでしょうか。
ずっと夢を見ているのではないでしょうか。
論理性や連続性を失った現在が絶え間なく続いて、そして今日が終わったのを感じて、私は自らを心配に思います。
ですが私は、それとは別のことが最も不安でした。
もし、これが一種の狂気や精神疾患だとするならば、豊見コトリが「」に抱いていたこれまでは、同様なのでしょうか。
そのことを否定したいあまり、歯が噛み合った末擦れて、嫌な音をたてました。
私は瞼を閉じています。電気を消した部屋は暗いようで、瞼の裏もまた黒く、見えるのは私の妄想であったり想起などといった幻覚的なものでしかありません。
音もまたそうです。過敏になった知覚から、錯覚を起こしているのです。
「……コトリ?」
「え?」
そう口から音が漏れるのを聞いて、ハッと我に返りました。
気がつくと隣に「」がいて、私は慌ててそちらを向きました。
彼女は怪訝そうな表情でこちらを見ています。私はえへへと笑って誤魔化して、なんの話をしていたか頭の中で反芻します。
そう、確か……
なんの話をしていたんでしたっけ。
私はえへへと笑って誤魔化しました。
「」は不思議そうに、こちらを見ています。
話題を切り替えようと、笑いながら考えました。
困ったことに何も思いつきません。何も……
私は本当に、笑いながら誤魔化すほか、なすすべがありませんでした。ですから言葉を吐き出すことができなくて、けれどそのおかげで自分の変化を知ることができました。
私は随分と、「」のような格好をしています。
豊見コトリとはこのような服装だったでしょうか……そう思い返して、きっとそうだと思いました。
やがて夕焼けが視界を赤焼けた橙に染め始めて、「」の頬が美しい陰影を生み出すのが見えました。街並みもまた色合いを変えてゆきます。
他愛もない話をしながら、道を歩きました。車の通らない、人通りの少ない道です。ですから空気は静かで、私たちの言葉ばかりが耳に残りました。
だんだんと影が地面を伸びてゆきます。空を見上げれば、地平線の方が白んでいて、どこか奇妙に思いました。
この現象は、一体なんだったでしょうか。
「」に聞くと、困ったように笑いましたから、私は彼女も知らないのだと思います。
私たちが帰路を歩み終える頃には、もう日が沈んで、空が青紫に染まっていました。夜に飲み込まれかけの雲が暗い色合いで浮かんでいます。
その端に月がありました。大きな月で、少しだけ欠けているようで、やや歪んだ楕円でした。それでも美しいことは間違いありません。
私は「」が、月よりもずっと綺麗な笑顔で別れを告げるのを見送りました。
ノートにペンが走ります。染み出したインクが黒く太い筆跡となって刻まれるのを目で追っていると、その内容も自然と入ってきます、
今日のことが書いてあるようでした。自らの筆致でしたが、私はまるで他人の作業をいているように思います。
ふと、ノートが随分と増えたことに気づきました。
作業机の上に乱雑に散らばったままのノートがいくつもありましたから、片付けようと手に取って、そして何の気なしにパラパラとめくりました。
エンジニア部の皆の写真が挟まれています。私は気崩した制服で笑っていて、なんだか気分が悪くなりました。それが随分と奇妙に感じて、私は自らの服を改めて見ました。
見慣れた服です。
私は「」がこの服を着ている姿を想像しました。同じ服装の「」は、しかし豊見コトリよりもずっと魅力的に思えます。
私はなんだか頬が熱くなって、再び作業机に向き合いました。
ノートにしみがついています。
私は鳴り響く着信音を無視していることに気がつきました。
慌てて端末を開くと、見覚えのある名前が写り込んでいましたから、私は電源を落として、ふと自分の行動が奇妙であることに気がつきました。
ノートを開くと、しみがついています。
インクが滲んでいるのでしょう、筆跡が濃く、太く刻まれたその表面は少し汚れてくすんでいます。
読み進めるうちに、非常にまずいと感じてきます。
豊見コトリの状態はかなり悪化しています。「」の行動を模倣するうちに、どうやら自他の境界線が曖昧になってきているようで、内容が支離滅裂な部分がいくつも見受けられました。
しかしそれよりも問題なのは、私がそれでも彼女の模倣をやめたくないと思っていることです。より言うならば、私はもっと彼女に近づきたいのです。
このことを否定する理論、理屈、言い回しは、ノートに山のように積み上がっていました。もちろん私自らの筆跡でです。
最近の出来事を確認できる範囲で把握したところ、私はエンジニア部の皆に随分と心配されているようです。まだどれほど危険な状況かはっきりとは伝わっていないようですが、さまざまな点から異常であることが伝わっているはずです。
それでも私は豊見コトリという存在が足りていないと思いました。
やや狂気めいてきた自らの思考に戦慄しながら、私の腕はペンを握り、私のノートは新しいものに変わり、そしてインクがページに染み込んでいきます。
今日の内容ですが、読めません。文章を理解することができないのです。
思わず笑みが漏れました。理由のわからない笑みでした。もしかすると文章の内容を想起した豊見コトリが笑ったのかもしれませんが、私にはさっぱり理解できない笑みでした。
ノートを書き終えた私は病院に連絡しました。
誰にも知られないように、ひっそりと。
私の机に空になった薬の包装が残っていることに、ふと気がつきました。
私は気がついたことに気がついたので、穏やかな気持ちで薬と水を飲み込みました。
けれどそのせいで「」が遠ざかったように思って、寂しくて、涙がこぼれます。
そんなはずもないんですけれどね、豊見コトリにはもちろんわかっていました。
私は豊見コトリという少女が好きだし笑っていて欲しいのでもっと幸せな話を書きたいです。