あたしがトレセン学園に入学してから、それなりの時間が経った。毎日の授業にも、トレーニングにも慣れたし、大事な友達も、超えたい目標だってできた。だけど、
「すごい雨だねー、キタちゃん。」
これだけは、いつまで経っても慣れない。
夕飯も食べて、お風呂も入った後の夜。あたしと反対側のベッドに座ったダイヤちゃんが、窓の外を見ながらそう呟いた。
視線の先には、言う通りざあざあ降りの大雨。強い風が吹くたびに、窓ガラスがガタガタ震えている。見える木も風になびいて揺れっぱなしで、なんだか尻尾もくったりしちゃう。
「キタちゃん、大丈夫?お茶淹れよっか。」
あたしの顔が曇っていたのか、ダイヤちゃんがベッドを降りた。あたしも手伝って、急須やお茶っ葉の入った缶を出す。そのままダイヤちゃんは、いつもレース前に差し入れてくれるお茶を淹れてくれた。せっかくなので、いつも使っている湯呑に注いでもらう。ありがとう、ダイヤちゃん。このお茶、飲むと安心できるんだよね。だからレース前にも、やるぞーって思えるの。もう一回言うけど、いつもありがとう!
「ううん、気にしないで。私もちょっと、不安になって来ちゃったから。キタちゃんもそう?」
うん。なんだかちょっと、怖くなっちゃってさ。こんな台風みたいな天気、学園に来て以来で初めてじゃない?父さんたちは大丈夫かな……。熱々の美味しいお茶をすすりながら、電話するかどうか迷っていたその時。
ピカリと屋根の外が光った瞬間、すぐ側で和太鼓が思いっきり叩かれたような轟音。
「きゃーっ⁉」
悲鳴をあげたダイヤちゃんと一緒に思わず眼を閉じて、湯呑を置く。尻尾がぼわっと膨らんで、耳が頭に強く伏せた。ダイヤちゃん、大丈夫⁉
「私は大丈夫……って、あれ?」
素っ頓狂な声に、あたしは恐る恐る眼を開けて……気付いた。あれ?さっきまで明るかった部屋が、真っ暗になってる。ダイヤちゃん、電気消したの?
「まさか。私の場所からじゃ消せないよ。」
言われてみればそうだ、電気のスイッチにはあたしの方が近い。ならばと早速スイッチを押す。もう一回押す。……何回押してみても、電気は点かない。あれぇ?
「キタちゃん、見て!」
ダイヤちゃんの声がした方に慌てて眼を向けると、そこは部屋の外、寮の共用廊下。まだ消灯までは時間があるはずなのに、廊下も電気が全て消えていた。ええっ、なんで⁉
「なんでだろう……もしかして、さっきの雷が原因?」
そんなことを言っている間にも、他の部屋からウマ娘さんが次々に様子を伺うべく顔を出してくる。どの顔にも、不安がありありと浮かんでいた。と、その時。廊下の向こうから、軽い足音と声が聞こえてくる。
「無事かい、ポニーちゃんたち。」
こんな呼び方をする人なんて、一人しかいない。
「フジ先輩!」
「怖い思いをさせちゃったね、大丈夫かい?」
廊下から部屋を覗いてきたのは、大勢のファンを魅了する甘いマスクのウマ娘さん、フジキセキ先輩。
「立ち話でごめん、だけど状況が状況だから勘弁してほしいな。」
「うふふ、大丈夫ですよフジ先輩。それぐらいはわかってますから。」
かっこいいフジ先輩と、お嬢様のダイヤちゃん。二人が並ぶと、なんだか劇のワンシーンみたいであたしの居場所がなくなっちゃうな、としょうもない事を考えていると、突然フジ先輩が真剣な面持ちになった。
「中々カンがいいよ、ポニーちゃん。さっきの雷が寮に直撃したみたいでね、電気のシステムがやられちゃったみたいでね。幸い、美浦寮の方は無事そうだから、ヒシアマ姐さんが手伝ってくれるみたいだけど。」
そこで一度言葉を切り、小さくため息をついて。
「かわいい後輩の前で口に出したくないけど、参っちゃうよ。雷が落ちたらその晩中は電気が使えない、って言われてるぐらいなのにさ。」
そうフジ先輩が吐き出した、その途端。ダイヤちゃんの瞳が、暗闇の中でもはっきりと分かるくらいにキラリと輝いた。
「それ、ジンクスですよね?」
あっ、ダイヤちゃん?
「ああ、ポニーちゃんがジンクス破りを趣味にしてるのは知ってるよ。だがそれはレースの話だろう?」
レースかどうかは関係ないんです。ダイヤちゃん、『言い伝え』とか、『お決まり』とか、そういう言葉にも全部反応しちゃうので……。
あたしがそう説明している間にも、ダイヤちゃんの尻尾は勢いよく振られていて。それを聞いたフジ先輩は、しばらく頭に手を当てて考えるような顔をしてから。
「……まあいい、手が大いに越したことはないか。せっかくだ、アシスタントをやってもらおう!ついておいで!」
「はいっ!」
その言葉に元気よく返事をすると、あたしが急な展開に置いて行かれている間にダイヤちゃんはすごい勢いで部屋を飛び出していった。……で、出遅れた!あたしも行きます!みんなきっと困ってるでしょうし、出来ることは何かありますよねっ?あたしも負けじと行こうとして、上着を羽織ろうとベッドの上を手探りで探していると、その時。
コン、コンと控えめなノックが、一回、二回、三回。……少し待っていると、癇癪を起したような勢いで何度も何度も。待って待って、そんなに叩いたらドアが壊れちゃう!どちら様ですか⁉あたしがたまらずドアを開けると、ノックの標的を失ったその子の拳が、あたしのお腹に振り下ろされた。そこにいたのは、
「遅いのよキタサン、アタシが呼んでるんだから無視しないで!」
泣いているような声で拳を握るのは、魔女のとんがり帽子を被った小さなウマ娘さん。って、スイープさん⁉
「大声出さないでよ、もうすぐ消灯時間なんだから!」
驚くあたしをぐいぐい押して、部屋に入ってこようとするスイープさん。ちょ、ちょっと待ってください!雷で電気が使えなくなっちゃったみたいで、フジ先輩が直しに行ってくださったんですけど。あたしも手伝おう、と、思ってて……。
「……っ。」
あたしが言葉を続けるたびに、スイープさんの瞳が潤んでいく。もうすぐ透明な雫が零れそうになって、さすがに口をつぐんだ。
……えっと、入ります?部屋。
「入る。」
ただ一言だけ口を開くと、スイープさんは静かに中へと足を踏み入れてきた。いいのかな、とも思ったけど、すぐに頭を振ってその考えを振り払う。お助け大将、なんて呼ばれてたし、寮を直して皆を助けるのも大事だとは思うけど。そっちはフジ先輩と、ダイヤちゃんが行ってるし、なによりここで泣きそうなスイープさんを見捨てて行っちゃうのは、「お助け大将」としても、父さんの娘としても間違ってる。そんな気がしたから。
相変わらず真っ暗な部屋の中、あたしが思考を巡らせている間にも、スイープさんは胸の内を隠すかのようにずかずかと踏み入ってくる。入ってきてからずっとだんまりかと思っていたら、ぴかり、と窓の外が光った瞬間。帽子を深くかぶって黙っていたスイープさんが、突然堰を切ったように話し始めた。
「同室の子は外泊するって言ってたから、アタシ一人だったのよっ。だからキタサンのことが気になっただけで、べべ別に一人で真っ暗は怖いとかじゃないからね、アタシはただキタサンが怯えてたりしないかって心配しただけなんだからっ!わかったら入れて!」
震える手であたしを押しのけて部屋の中に足を勧めながら、スイープさんは一人でどんどん喋り続ける。
「大体、魔女が雷を怖がるはずないじゃない。雷どころか大嵐を呼ぶ呪文だって知ってるんだからねっ、なんならもっとひどい天気にしたっていいんだから!今更止めたって遅いのよ、トネール・トネリコ・トル」
雷を呼ぶらしき呪文の詠唱が始まったその時。ドカーン!と、部屋のすぐ近くでまた思い切り叩きつけるような轟音が鳴った。
「きゃああっ!」
さすがに魔法どころじゃなくなったようで、スイープさんが高い声で悲鳴をあげる。待ってよスイープさん、一回落ち着いてってば!さすがに変だよ⁉
「やだ、やだやだやだ!アタシ変じゃないもん、いつも通りだもん!」
両手をバタバタさせて癇癪を起こすのも、いつも通りだけどいつも通りじゃない!どうしよう、どうにか……!思わず部屋中を見回すあたしの視界に、色んな物が飛び込んでくる。ダイヤちゃんのベッド、あたしの荷物、テーブルの上で眼が止まった。ダイヤちゃんがいつも使ってる、急須。普段はお茶を飲み終わったら片付けてるけど、今日は出しっぱなしになってる。……これかも?
「あ、あのスイープさん!」
考えるより先に、あたしは声を出していた。
「一回、お茶を飲みませんか?」
「お茶?」
不思議そうな声を出したスイープさんに、あたしは大きく頷いてみせる。はいっ!飲むと安心できる、魔法みたいなお茶です!
「ふーん、魔法みたいなお茶?飲みたい!ちょうだい、キタサン!」
さっきまでの調子はどこへやら、いつものスイープさんの声を背に受けながら……あたしはこっそり、頭を悩ませていた。
これ、どうやるんだっけ……?家庭科の授業でやった、のは覚えてるんだけど。お湯を入れて、それから……。あたしは人差し指を頭に当てて、必死で授業を思い出す。出てこい、あたしの記憶!
ちかちかっと脳裏で浮かんでは消える記憶を頼りに、あたしは急須と向き合った。え~っと、まず同じお茶っ葉でも何回か使えたはず。薄くなっちゃうけど、三回だったかな?それぐらいは、お茶が出たような気がするから。あたしは蓋の空いた急須にお湯を注いで、くるくると回してみる。どれぐらい待つんだっけ。これ、ちゃんとお茶が出るかな。つい急須を突っついたり、くるくる回してみたり。覚束ない手つきであれこれやってみてから、適当に出したマグカップにお茶を注いでみる。真っ暗だから色は分からないけど、香りはするから多分大丈夫。
「はい、どうぞスイープさん!」
出されたカップを手に取って、ふぅふぅと息を吹いて冷ましてから、一口すするスイープさん。あたしが固唾を飲んで見守る前で、スイープさんはカップを下ろし……額に小さなシワを寄せた。
「……苦い。」
あ、あれ⁉普段ダイヤちゃんが淹れてくれるのはそんなに苦かったり渋かったりしないはずなのに!あたしも大慌てで自分の湯呑に注いで飲んでみる。……うわぁ、本当だ。いつもと違って、お茶のおいしさよりも苦みが先に出てきちゃってるよ。
「全然魔法って感じじゃないんだけど。もういいわ。」
ごめんねスイープさん……。がっくり肩を落とすあたしの横で、スイープさんが立ち上がる。
「キタサン、ちょっと貸しなさい。アタシがもっと美味しく淹れてあげるわ。葉は入れ替えていい?」
そう言いながら、缶の蓋を開けるスイープさん。え?あ、うん。あたしが戸惑いながらも頷くと、そこからはもう、あたしとは比べ物にならないくらい手際がよかった。お茶っ葉を手際よく入れ替えて、お湯を入れて。
「さっき、急須を回してたでしょ?アレやると苦みが出ちゃう、ってグランマが言ってたわ。」
そんなことまで教えてくれながら、しばらく待つスイープさん。
「マナリア・カメリア・シネンシス!美味しいお茶になーれ!」
最後に呪文を唱えて、急須の蓋をちょんと突くと。スイープさんはあたしの湯呑に、淹れたてのお茶を注いでくれた。
「はい、飲んでみて。」
……美味しい!そうそう、この味だよ!香ばしくて、ふんわりあったかくて!
「そうでしょ?ふふん、天才魔法少女スイーピーにはこれくらい簡単だもの!」
スイープさん、こういう事も上手なんだね。初めて知ったよ!
「魔女は薬草を扱うんだから、お茶だって淹れられるわ。それに、グランマが飲ませてくれたことがあったから。そうだ!」
そこで一回言葉を着ると、中身が半分ほどになったカップをテーブルに置いて突然、服のポケットを探り始めたスイープさん。すぐに何かを取り出して、あたしの手に押し込んできた。見てみると、紙に包まれたビー玉のようなものがいくつか。これは?
「魔女のエリクシールキャンディーよ。舐めると元気が出る魔法だって、グランマが作り方を教えてくれたの。本当は秘伝なんだけど、落ち込んでるみたいだからキタサンにはあげるわ。」
そう答えながら、もうひとつ取り出して自分の口に放り込むスイープさん。あたしもお礼を言って、舐めてみると。
「あ、美味しい!」
「でしょ?ふふん、グランマのレシピに間違いはないのよ!お砂糖じゃなくて蜂蜜の甘さだから、疲れてる時に効くの!」
香ばしいお茶に、キャンディーの優しい甘さがよく合う。つい頬が緩んだあたしを見て、スイープさんがいつものような笑顔になった。そのまましばらく、二人して変わらず暗い部屋の中でお茶を飲む。湯呑が空になったその時、あたしはひとつ聞き忘れていたことを思い出した。あの、スイープさん。
「なぁに、キタサン?」
なんで、あたしの部屋に?
「……う。」
顔は見えないけど、スイープさんの声が硬くなった。
「笑わないでよ。」
笑わないよ、どんなことでも。あたしがすぐにそう答えると、スイープさんはカップを置いて。
「アタシ、暗いの得意じゃないの。魔女を目指してるのに変だと思うだろうけど。」
喋りながら、いつものとんがり帽子を深く被った。
「一人の部屋で、真っ暗で、グランマが教えてくれた元気の出る魔法とか、勇気が湧く魔法とか、何回唱えても怖さがなくならなくって、誰かに会いたくって。キタサンなら、一緒にいてくれるって思ったの。いっつもお話してくれるから、頼っていいって思っちゃったの。」
ぎゅっと両目をつぶって、あたしに頭を下げる。帽子のつばに隠れた下から、雫が一滴シーツに落ちた。
「ごめんなさい、キタサン。あたし、どうしてもっ……!」
待ってよスイープさん!どうして謝るの?
「だって、だって!」
揺れる声のスイープさん、その両手をあたしはぎゅっと握った。ぽたり、と手の上に冷たいものが落ちてくる。
あたしだって、暗いのはちょっと怖いよ。お祭りの時は提灯とか屋台で明るくなるから平気だけど、帰りの道はやっぱりちょっと早歩きで通っちゃう。
「そう、なんだ。」
今日も、真っ暗な中で不安だったもの。ダイヤちゃんにも出遅れちゃったし。でもさ?そこにスイープさんが来てくれたんだよ。淹れてくれたお茶も、このキャンディーもすっごく美味しかったし。なによりお話できて安心したし!
「……そう?」
これまでだって、あたしが大変な時はスイープさんがよく魔法をかけてくれたりしたでしょ。いつもいつも、助けてもらってるのはあたしの方だよ!
「スイープさん、いつもありがとう!」
「……そ、っか。あたしの魔法、キタサンには効いてたんだ。」
あたしが心から言ったお礼に、スイープさんが眼を開けた。視線が段々上がっていく。
「うん!だから、他にも魔法があったら知りたいな。今の怖い気持ちも、吹き飛ばせちゃうようなのとか!」
「……そう。じゃあ、色々教えてあげてもいいわよ!」
ぐいっと目元を拭って、声色もすっかりいつも通りになったスイープさん。その尻尾が、あたしの手に絡んでくる。窓から差し込む月明かりが、久しぶりな笑顔を照らして。あたしはずっと、その楽しそうな顔から繰り出される魔法講義に耳を傾け続けた。
「魔法の儀式と言っても、色んな種類があるのよ。例えば、基本の小五芒星儀式っていうのは……」
そのままの姿勢を続けて、それなりに経った頃。天井の蛍光灯がちかちかっと点滅すると、一拍置いてぱっと点いた。あ、電気が復活したんだ。と同時に、聞き慣れた足音が部屋に近づいてくる。
「ただいまーキタちゃん!フジ先輩と一緒に、どうにか直してきたよ!」
疲れた足取り、だけど誇らしげな歩みで、ドアを開けたダイヤちゃんが部屋に帰ってきた。
「とりあえずの応急処置だったから、明日にでも業者さんを呼ぶって。でも、頑張って手伝ってきた!」
そう嬉しそうに報告してくるダイヤちゃんの顔は明るい。ジンクス破りが成功して、よっぽど楽しいのかな。
「それにしても、ちょっと意外だったよ。てっきりキタちゃんも、『あたしだって手伝います!』とか言ってくるかと思ったのに。」
やっぱり、ダイヤちゃんもそう考えてたか。あたしは座ったまま、そっと脚の上を指した。
「……なるほどね。」
あたしの膝を枕にして、すやすやと眠るスイープさん。魔法のお話をしている途中にもこっくりこっくり舟をこいでいたけど、ついさっき限界が来ちゃったみたいで。そのまま夢の中に行っちゃった。
「色々、お話をしてもらってたんだ。」
そう言いながら、あたしはテーブルの上にあったキャンディーをダイヤちゃんに渡した。スイープさんに貰った、残りのひとつ。
「なぁに、これ?」
元気が出る魔法だよ、ダイヤちゃん。効き目抜群、あたしも食べたから間違いなし!
「……なるほど。魔女さんが分けてくれたんだ。」
くすりと笑うダイヤちゃんに、あたしも笑顔を返す。素敵な魔法をくれた優しい魔女さんは、安らかな顔で眠り続けていた。