まだかすかに残っていた秋の残滓も消え去り、空気も冷たく澄んだ12月のはじめ。
もはや日課となりつつあった歩行練習が終わり、二喜は廊下を渡って病室へ戻っていた。
しかし、その姿は数日前とは明確に違っている点がある。
二喜は車椅子には乗っていなかった。
松葉杖を突きつつも、確かに、自分の足で立って歩いていた。
「今日もリハビリですか? 毎日精が出ますね、橋渡さん」
病室へ入ると、大社職員が待っていた。
「まぁ、僕にできるのはこれくらいですから……それより、今日って何か予定ありましたっけ」
大社職員が病室で待っているのは珍しいので、何か二喜が忘れている予定があったかと思い、たずねる。
「いえ、そういうわけではありません。今日は橋渡さんに報告と提案があって来ました、ひとまずお掛け下さい」
促され、二喜はベッドに腰掛ける。
「それで、なんのお話でしょう」
「まず報告ですが、少し前、高嶋友奈様に他の病院へ行って、ある事をやってもらうようお願いをした事があります」
「ああ、僕以外の天恐患者と会わせて症状回復の効果があるか確かめたんでしたっけ」
「? 何故、知っているのですか」
「友奈が自分で言っていましたよ」
「なるほど、そういう事でしたか。確かに、特に口止めはしていませんでしたね」
納得したように頷く職員。
「それを知っているのなら話は簡単です。高嶋友奈様と会った患者たちに、ごく僅かですが回復の兆候が見られました」
「それは、よかった。本当に」
「あなたほど目に見えて改善した患者はおりませんでしたが、取り敢えず、一歩前進と言っていいでしょう」
自分の存在が、何かの役に立てたという事実が嬉しかった。
「次に、提案ですが……どちらかといえばこちらが本題です」
大社職員の声色が、さらに真剣なものへと変わった。
その雰囲気に、二喜も姿勢を改める。
「橋渡さん、外の世界を見るための練習を始めてみませんか?」
「──ッ」
「もちろん少しずつです。しかし、最近は症状も落ち着いて来ている」
「……」
「どうしますか、橋渡さん、今はやめておきますか? もちろん、それでも構いませんよ」
なにも急いているわけじゃない、と大社職員は優しく言った。
「いや、やります。僕も、そろそろ必要だと思っていましたから」
「そうですか……それでは、まずは空の写っている写真や映像を見るところから慣れていきましょう」
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それから、二喜は外の写真や映像など、空が写ったものをひたすら見るという、はたから見れば楽で、何でもないようなことをした。
しかし、良くなりつつあるとはいえ、まだまだ天恐患者である二喜にとっては、想像をはるかに超えて辛い作業であった。
「ハア、ハア、ハアッ……ぐ……」
三年間、徹底的に空から隠れてきた二喜は、例え写真であっても空を視界に入れるのは久しぶりだ。
それもあって、もう恐怖は薄れつつあると期待していたのだが、さすがにそれは甘かった。
一目見るだけで胸がきつく締め付けられるような気分になる。
冷や汗が滲み、心臓の鼓動が早まる。
軽い吐き気すら感じる。
一括りにするならば、かなり重いストレスを感じていた。
「……ここまでですね、今日はやめましょう」
二喜によくない症状が出始めたため、大社職員はこの、「外の世界を見るための練習」を終わらせた。
「橋渡さん、すいません、いきなり無理をさせすぎましたね」
大社職員は二喜に謝罪した。
もともと、この方法にリスクがあることは大社側も承知していた。
これは、空を見るという行為そのものに慣れさせて、恐怖を軽減させるための作業であったが、ステージ1程度の軽症患者であればまだしも、まだ強く症状の残る患者にこれをやれば、逆に強すぎるストレスから症状を悪化させてしまう可能性すらあった。
それでもこの方法を今の二喜にやらせたのは、大社が”天恐のステージ4から完全に立ち直った患者”という前例を早く作りたくて焦っているのか、それとも何か二喜に希望を見ているのか、それはわからない。
しかし、二喜からすればそれはどうでもよかった。
「いえ、謝罪なんてしなくてもいいですよ。大丈夫です……いや、こんな体たらくでそんなことを言ってもダメか……でも、僕が決めたことですから、気に病む必要はないです」
別にこれは大社職員に気を遣って言っただけの言葉じゃない。本心だった。
例え大社職員が提案してこなくても、いずれ二喜の方から外に出るために何か訓練させてくれと頼んでいただろう。
とはいえ、想像以上にきつかったのも事実。
ここは大社職員の言葉に甘えて、休ませてもらうことにした。
「これは、時間がかかりそうだな……」
この日の夜、二喜はひとり、ベッドで考える。
たかだか写真や映像、つまるところ偽物の空なのに、恐怖が心に溢れてきた。
どうしても、当時の様子が頭の中によぎってしまう。
もう、三年も前のことなのに。
正直なところ、もう空なんて見たくない、一生室内で暮らせばいいじゃないか、と考えてしまう弱い心が二喜の中にあるのも事実だ。
こんな状態では、外に出て実際の空の下を歩けるようになるのはいつになることやら。
「まあ、地道に続ける以外ないか……」
そう呟いて、二喜はこの日は眠りについた。
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「勇者様が面会を希望されているそうです。どうしますか?」
次の日の昼。
歩行練習と空の映像を見る作業を終えたところで、別の職員から何やら耳打ちされた大社職員が、二喜にそんなことを聞いてきた。
予定の無い日に勇者が面会希望、また友奈あたりが遊びに来たのだろうか。
「今日は心身ともに疲れているでしょうし、お断りしておきましょうか?」
「いや、大丈夫です。会います」
二喜の負担を気遣ってくれているのだろうが、勇者と会うのに特別大きな緊張や負担はもうない。
二喜自身も、勇者との友人関係に慣れ始めてきていた。
「わかりました、お連れします」
大社職員が病室から出て行き、しばらくしたら扉をノックする音がした。
「どうぞ」
二喜がそう言うと、扉が開き、そこにいたのは意外なことに千景だった。
「お邪魔するわ」
「千景? 珍しいね、今日はどうしたの?」
千景がこの病室に来るのは、この前の、友奈がいなかった日以来だ。
「どうしたってわけじゃないけど、そろそろこれ、渡したほうがいいと思って……」
「これって……」
千景が差し出した紙袋を受け取る二喜。
中身はそこまで重いものではなかった。
「約束しておいて、あまり長く待たせるのも……悪いし」
「もしかして、ゲーム?」
紙袋の中には、携帯ゲーム機と、ゲームソフトがひとつずつ入っていた。
確かに、前回来た時に、二喜の暇つぶしになるようなゲームを持ってきてくれるという約束をした。
「まさか、今日はこのためにわざわざ来てくれたの?」
「別にそういうわけじゃ……たまたま、今日はこの病院に予定があったのよ、勇者の定期健診、のようなものが。今日は私が受ける日だったから」
バーテックスとの戦いを勇者が一身に担っている以上、勇者のコンディションはそのまま人類の運命を左右しかねない。
だから、定期的に検診を行い、勇者の体調を認識しておくのも、大社の仕事の一つということらしい。
「正直、いちいち身体検査とかするのは面倒なのだけどね」
千景は小さな声でそう言う。
「それより、ちょっと遅くなっちゃったわね、面会の予定も全然なかったし、機会がなくて……」
そういえば、当初はもっと交流の機会を設ける予定だったはずだが、友奈をはじめとして割とプライベートで二喜に会いに来る勇者がいることで、大社が予定する面会の機会を少し減らしたと職員が言っていた気がする。
「いいんだ、会うタイミングがなかったんだから仕方ないよ。それに、僕は遅れただなんて思っていないよ」
もとより、仮にゲームを渡す約束を千景が忘れていたとしても文句を言うつもりはなかった。
それに、遅れたと言ってもたかだか一か月経つか経たないかという程度だ。
「それより、本当にこんなの貸してもらっていいの? ソフトもだけど、ゲームの本体も入っているじゃないか」
「気にしなくていいわ、私たくさん持っているし、それこそ人にあげたって困らないくらい」
「そっか……そういうことなら、ありがたく受け取らせてもらうね。嬉しい、本当に嬉しいよ、ありがとう、千景」
紙袋を落とさないように大切に抱え、二喜は千景に感謝する。
「……あなた、ちょっと大げさじゃない? 私が言うのもなんだけど、そんなにゲームがやりたかったの?」
二喜があまりにも嬉しそうにゲームの入った紙袋を見ているものだから、千景はやや呆れたようにそう言った。
「んー、というより……千景がこうしてこれを渡してくれたことが、かな」
「? 何を言っているのかよくわからないわ。それって、結局ゲームを貰ったことが嬉しかったんじゃないの?」
二喜の言っていることの意味がわからず、千景は困惑している様子だ。
でも、二喜にも今の自分の喜びが何なのか、うまく伝えられない。
「そうじゃなくて、なんて言うか、たぶん……また千景と会えたことが、嬉しかったんだ」
「はあ?」
二喜が歩く練習を始めて、前を向くようになったのは、千景との面会がきっかけだったように思う。
そのことの感謝がしたかった。
ただ、前回千景と別れる直前に千景の機嫌を損ねてしまったことが、やはりどうしても気がかりだった。
それで、心の奥のどこかで何かもやもやしたようなものが残り続けていたような気がする。
だからこそ、こうして直接再び会う機会を得て、彼女が約束通りにゲームを渡してくれたことが嬉しかった。
もやもやが晴れていくのがわかる。
「……橋渡君、あなた変な人ね」
「あ、ごめん……確かにちょっと変なこと言ってる、かも……気を悪くしたかな」
嬉しさのあまり、また千景の機嫌を損ねてしまったのかと焦る二喜。
キモがられでもしたら、せっかく晴れたもやもやがまた元通りだ。
「いや別に……変だなって思っただけ。特別悪い気はしなかったわ」
「そう? それなら、よかったかな、あはは……」
「じゃあ、確かに渡して、約束は守ったから」
そう言って、千景は後ろを振り向き、病室から出て行こうとする。
「あ、もう行くの?」
「ええ」
「そっか……」
まあ、ついでに寄っただけなのだから、もともと長話をする時間などなかったのかもしれない。
それとも、口ではそんなことないと言いつつも、内心二喜の言葉をキモいと思って、さっさと出て行こうとしているのだろうか。だとしたら終わった。
「ねえ」
「は、はい!」
そんなことを考えていると、病室の扉に手をかけた千景から声をかけられた。
思わず返事がかしこまってしまう。
「次会うときまでにやっておいてね、それ。……感想とか、聞くから」
「え、うん……」
「じゃ、さよなら」
千景は出て行き、病室の扉が閉まる音がした。
二喜の思考は、しばらく空白になる。
次、次会うとき。
そのときの話題を、千景からふってくれた。
次に二喜と会うときのことを、前向きにとらえてくれていた。
「……」
なんというか、心が晴れるとはこのことか。
口角がどんどん上がっていくのを感じる。
きっと、今、鏡を見たら自分の顔はすごいことになっているのだろうというのがわかる。
「なんだこれ、すっげえ嬉しい……」
今なら何でもできそうな気がする。
空の写真や映像を見ることの恐怖なんて、今ならばこの気持ちで押しつぶせそうな気さえした。
「頑張れそうだ、僕」
そう言って、二喜は大社職員を呼んで、本日二度目の「外の世界を見るための練習」を実施した。
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翌日
「昨日だけ、たまたまだと思っていましたが……まさか今日になっても変わっていないだなんて……」
二喜に空の写真や映像を見せ、どうなるかを見守っていた大社職員は、頭をひねっていた。
それもそのはず、この訓練を初めてまだ三日目だというのに、二喜の様子には劇的な変化が見られたのだから。
昨日の昼まで、これをやると二喜は動機が激しくなり、嫌な汗を滲ませながら時々口を押えて気分が悪そうにしていた。
なのに、今はそれがない。
さすがに多少の負担は感じているようだが、それでも当初の想定では考えられないような回復の速さだ。
「いったい、あの後何があったのですか?」
昨日の夕方ごろに二喜が「もう一度空を見る訓練をさせてくれ」と申し出てきた。
さすがに負担が大きすぎると判断して無理だと言ったが、どうしてもというので一度だけやらせた。
そうしたら驚くことに天恐の症状があまり出なかった。
一時的なものか、あるいは何かの間違いだと思い、今日再びやってみたのだが、結果は変わらなかった。
「知っているでしょう、千景と会って話しました」
昨日の昼、勇者が一人、面会を申し出てきた。そのとき一度この大社職員は病室を離れた。
面会に立ち会おうとも考えたが、すぐ終わる用事と言っていたので、廊下で勇者が出てくるのを待っていたのだ。
だから、二人が何を話していたのか、わからない。
「それだけ、ですか……本当に驚きました。他の天恐患者は勇者に会っても、さすがにここまで劇的な変化はありませんでしたから。あなたは何か特別なのでしょうね……」
さすがの大社職員も驚きを禁じ得ない。
それだけ急な変化だった。
「あの、お願いがあるんですけど」
「どうしましたか」
「僕の病室、変えてくれませんか」
「病室を? 何か不備がありましたか?」
「いえ、そうではなく、普通の、窓のある病室に移してもらうことって、できますか?」
「────」
大社職員は一瞬言葉を失った。
天恐患者の最初に現れる症状の一つが、できるだけ窓を避けることだ。
だというのに、自分から窓を求めるだなんて。
「ここまできたら、やれるだけやってみたいんです」
「いいでしょう、この結果を考えるに試してみるのもありかもしれません……こちらへ」
大社職員に案内された空き病室は、大社関係者が患者になったときのために用意された病室だった。
機密情報を取り扱う上級の職員は、一般の人間が入ることが容易な場所には入院させられない。
だから、この大社が管理する病院の中には、そういう特別な人用の病室がある棟が用意されている。
しかし、現在そういう患者はほぼいないため、この棟は空き病室が少なくない。
「この病室でいいですか」
職員にそう聞かれた二喜は、病室を見渡した。
大社関係者用といっても、内装は普通の病室だ。
そう、普通。当然、窓もある。
「はい、ここにします。でもいいんですか? 僕がこの棟の病室使って」
「ええ、あなたもすでに機密をいつ知ってもおかしくない立場になっている、問題ありません」
カーテンの隙間から、日光が入ってきている。
それを見て、二喜は少し身構えた。
「外、見てみますか?」
大社職員がカーテンのそばへ立つ。
「……はい。何かあったら、頼みます」
「それはもちろんです。でも、そのときはこの病室は諦めてくださいね」
職員はそう言ってカーテンに手をかけた。
シャーと音がなり、そのまま陽射しが室内に入ってくる。
「うっ」
眩しくて反射的に目をそらす。
いや、目をそらしたのはそれ以外の理由かもしれない。
写真ではある程度大丈夫になったが、実物を見るのはやはり不安だった。
汗も出るし、心臓も少しうるさい。
それでも、二喜は外へ、太陽へ目を向けた。
「あ……」
久しぶりに見た、もはや懐かしい太陽。
昔は好きだった。
でもこの三年間は避け続けてきた。
怖かったから。
今も、正直怖い。身体が、少し震えるのがわかる。
この調子じゃ、きっと夜空はまだ見られない。
あの日が夜だったから。
でも、昼の象徴たる太陽ならば見ることができた。
怖いと思いつつも、目をそらすことなく、見ることが。
昔みたいに綺麗だと、感じることができた。
「ちなみに、カーテンはロックをかけて、それを解除しなくては動かなくするようにもできます」
簡易的に窓のない状態を作ることもできるというわけか。それなら夜空を間違ってみてしまうこともない。
「……もう一度聞きます、この病室でいいですか?」
同じことを、再び大社職員は問うた。
だから二喜も再び同じ答えを返した。
「はい、ここにします」
読んでいただきありがとうございます!
感想、評価等もお待ちしております。
次回「勇者の悩み」もお楽しみに!