Ⅰ:はじまりの少年
「ハァ……ハァ……ッ」
その日、一人の少年が町の中を走っていた。
いや、正確には、町だった場所を、だ。
周囲に広がるのは、崩れた家屋、潰れた車。
もはやここを町とは言えない。
「うっ!?」
少年は顔をしかめ、反射的に鼻をつまんだ。
酷い異臭がしたからだ。
少年は、その異臭の正体を知っていた。
ここ数日で何度か嗅いだことのあるものだったから。
「また、か……う、ぐ……」
異臭の発生源に目を向けると、吐き気がこみ上げてきた。
気分が悪くなるようなものが、少年の視界に入ったからだ。
それは、肉の
夏なのもあって虫がたかっている。
それだけでも気分が悪くなるが、さらに最悪なことに、それは千切れてぐちゃぐちゃになっているものの、形をよく見ると、その
「駄目だ、っ吐くな……」
すでに似たようなものを何度も見たが、とても慣れない。
でも、少年はこみ上げてくる吐き気を必死でこらえる。
元は人間だったものに吐瀉物をまき散らすのは気が引けたし、なにより今は余計な体力を消耗したくなかった。
「あと少し、この近くのはずなんだ……っ」
再び少年は移動を開始する。
そして、
「あそこだ……あっ……柱だ、柱がある!」
目的地は諏訪大社。諏訪湖周辺の四か所の神社からなる、日本でも全国的に有名な、諏訪神社の総本社だ。
その四つの神社をすべて取り囲むように、広大な諏訪盆地に大量の、大きな柱が連なってそびえ立っていた。
「やった、やった……!
ようやく見えたゴールは、期待通りの姿をしており、その事実に少年は心を震わせる。
そして、一秒でも早くそこに辿り着きたい、という焦る思いが、少年を物陰から飛び出させた。
しかし、その判断は少年にとって最悪な結果を招いてしまう。
「──ッッッ!?」
何か、心臓を舌で舐められたかと錯覚するほどの嫌な予感がして、ばっ、と少年は後ろを振り向いた。
「そんな……アイツらは──ッ」
その視線の先、数百メートルは離れた空中に、
さらに、少年の方を向いている。
全身の毛が逆立つ、というのがどういう感覚か少年は身をもって体験した。
「き、気付かれた……ッ!」
人間よりも遥かに巨大で、不自然なほどに白い体。不気味な口のような器官を持ち、まるで魚が泳ぐように空を移動する異形たち。
街を、世界を壊した化け物。
絶望が形となって、少年に襲いかかる────。
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西暦2015年7月30日
連日の自然災害で日本中が混乱していたその日、それに追い討ちをかけるように、大量の化け物が空から降ってきた。
──化物。
本当に、白い化物としか言いようがない。不気味で、生き物かどうかすらも不明なそれは、人間を含む地球上の生命とは根本的に「格」が違った。
戦車の砲撃が直撃してもかすり傷ひとつ付くことなく、平然と、口と思われる器官でその戦車ごと人を喰らう。
実にシンプルなその攻撃に、人類はなすすべなく食いちぎられ、潰され、惨殺されていった。
一週間もしないうちに、国家と呼べるものはほとんど壊滅したのではないだろうか。
そう思えるほどの圧倒的な暴力性が世界中を襲った。
後にこの現象は「7・30天災」と呼ばれることになる。
人類のどんな兵器を使っても倒すことができない化物相手に、人々はどうすることもできず、ただ逃げまどい、隠れるしかすべを持たなかった。
少年も、もちろん例外ではない。
天災のとき、たまたま外に出ていた彼は、人々が死んでいく光景を目の当たりにし、必死で逃げ、近くの大型ショッピングセンターに逃げ込んだ。
自分の家の方角から化物が来たので、家には帰れなかった。
そしてその日から、家族にも友人にも会っていない。
その人たちがどうなったかは、考えたくはなかった。
逃げ込んだその場所にはたくさんの人がいた。
それこそ、老若男女様々だ。
しかし、表情は皆同じ。誰もが絶望を隠せずにいた。
何が起こっているのか知っている者などいるはずもない。
情報を集めようとラジオや電化製品売り場のテレビのチャンネルを回しても、放送している局はほとんどなかった。
やっとのことで知ることができたのは、白い化物は人を執拗に襲うこと、そして世界のどの軍隊でもその化け物には全く歯が立たないという、知らない方が良かったと思えることだけだ。
そんな絶望に溢れた空気のショッピングセンターで、少年は数週間を過ごすことになる。
不幸中の幸いか、ショッピングセンターには食品売り場があるので、食べ物や飲み物に困ることはなかった。
しかし、生活環境は決して良くない。いや、むしろ悪かった。
どういうわけか空に恐怖を覚える人が多く、生活空間は自然と窓のない地下になった。
しかし、このショッピングセンターの地下はやや狭く、どうしても密集するような形になってしまっていた。
そんな中で、死への不安と理不尽への怒りを抱えた人々が一緒にいるわけだから、ちょっとしたことですぐに口論が始まり、ひどい時は激しい暴力へと発展した。
そんな最低な避難生活を過ごす中で、少年はこんな話を聞いた。
『化物の襲来があったあの日、襲来とほとんど同じタイミングで巨大な柱が何本も出現したのを見た』
その話をしたのは、近くの高台からこのショッピングセンターに逃げてきた男性だ。
高い場所からようやく確認できるほど遠い距離だったのと、すぐに化物が襲ってきたせいで、ちゃんとは確認できなかったがらしいが、諏訪大社の方角でそれは起こったそうだ。
ただ、その話を聞いたからといって、その場所まで行って確かめようとする者はいなかった。
当然だ。わざわざ化物で溢れかえる外に出るなど自殺行為なのだから。
しかし、全ての避難民が、否が応でもショッピングセンターから出なければならない事態が起こってしまった。
襲来の日から、もうじきひと月が経とうとしていた頃、化け物の大群が壁や屋根を突き破り、侵入してきたのだ。
今まで侵入してこなかったのが不思議なくらい、いとも簡単に。
皆、散り散りになって逃げた。そしてほとんどが殺された。
だから、少年は独りになった。
生きる可能性のほぼ全てを失った少年は、残された最後の希望に運命を託す。
それは、諏訪大社の方角に出現したという複数の柱の話。
そこに行けば助かるという保証があるわけではない。
助かるどころか、逆に化物どもの巣窟かもしれない。
だが、もはや行くあては残されていない。
少年は倒壊した家屋の瓦礫に隠れつつ、慎重に少しずつ移動した。
壊された家から食べ物を探し、化物に殺される恐怖を必死に抑え、そこらじゅうにある死体に神経をすり減らされながらも、前に進み続けた。
それは、幼い子供が本来経験するべきではない地獄だった。
だからこそ、いったい誰が責めることなどできようか。
その瞳に、高くそびえ立つ巨大な柱を捉えた瞬間、心に達成感が溢れ出し、瓦礫に隠れることをやめ、走り出してしまった少年のことを。
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「き、気付かれた……ッ!」
──白い化物は自分を認識した。
まだ遠くの空に小さく見えるだけであったが、少年は直感でそれを理解した。
事実、化物は少年に向かってきた。
全身から冷たい汗が噴き出る。
心臓が跳ね上がり、少年はすぐさま大きな柱へ向き直り全力で走った。
「まずい、まずい、まずいッ……!」
見つかってしまった以上、身を隠したところでもう遅い。
家屋や瓦礫の陰に隠れても、あの化物はその場所ごと少年を食い破ってしまうだろう。
かといって走ったところで撒けるわけではない。
奴らのスピードは人間の走る速度よりはるかに速いのだから。
しかし、それでも少年は走った。そびえ立つ柱に向かって。
普通に考えれば、柱にたどり着いたところで助かるはずがない。
だから少年も何か考えがあって柱に走っているわけではなかった。
死に追いかけられる少年の本能がそこを目指したのである。
「うわあああああああ!」
少年は持ち得る体力を全て使って全速力で駆けた。
しかし、みるみるうちに化物の白い身体は迫ってくる。
はじめは数百メートルは離れていたのにもう数十メートル後ろにまで来ていた。
「くっ……そぉおおおおお!」
──間に合わない。
確信だった。はっきりと分かるほど、明らかに化物との距離は急激に縮まっていた。
たとえ、火事場の馬鹿力で自分の想像する以上に速く走れているとしても、間違いなく柱にたどり着く前、それも柱よりだいぶ手前で自分は化物に追いつかれる。
いや、というより、そもそも柱まで走り切る体力が身体に残されていない。
絶望が心を侵食し、諦めの気持ちが滲み出る。
(どうせ届かないなら、もう走るのはやめてしまおうか……身体はもうとっくに限界だし……)
そんな思いが、少年の心を折って気力を奪いそうになるその瞬間────。
「こっち! こっちだよ! 頑張って!」
声がした。
見れば一人の少女が、柱の向こう側からこちらに呼び掛けている。
「ッ──!」
全く予想していなかった少女の出現は、少年の心に一瞬だけ絶望を忘れさせた。
そしてその一瞬が、少年に最後の力を振り絞る活力を与えた。
「おおおおおおおおおおっ!」
まさしく全身全霊。全てを出し切った。
心臓の鼓動は、一回一回が胸を突き破るのではないかと思うほどに大きく鳴った。
足は疲れが溜まりすぎてもはや感覚がない。
激しい運動で酸素が足りなくなったのか、視界まで暗くなってきた。
それでも走った。全力で。
だからこそ、当然のようにその時は来た。
「あ……」
ガクン……と少年の姿勢が崩れる。
立て直そうと踏ん張るも、足にうまく力が入らない。
文字通り、力を全て使い果たしてしまったのだ。
(ダメ、だったか……)
やはりというべきか、柱にたどり着く前に体力が底を尽きてしまった。
あともう少しだけ、届かなかった。
「ちく、しょう……」
脳の酸欠状態も限界が迎え、視界は真っ暗になり何も見えないし、音も聞こえない。
足が身体を支えることができなくなり、崩れ落ちる。
少年は自らの苦難が実を結ばなかったことを悔やみながら、地面に倒れ込む──はずだった。
「……?」
顔が硬い地面に叩きつけられるのだから強い衝撃を覚悟していたが、思ったよりも随分柔らかい衝撃が顔に当たった。
消えかかっていた視界と音が少しずつ晴れてきたことで、その理由は明らかになる。
「もう、大丈夫だからね……!」
あの少女だ。
柱の向こうから来ていた少女が、崩れ落ちた少年を抱きしめてくれていた。
暗くなる視界のせいで気付かなかったが、少女もまた、少年の元に全力で駆けてくれていたのだ。
────しかし、だからどうしたというのか。
(なんで、来ちゃったんだ)
もはやまともな声すら出せなくなった少年は、心の中で必死に訴えかけた。
大丈夫なものか、早く逃げるんだ、と。
化物はもう、すぐそこまで迫っている。このままではあいつに殺されるのが二人になるだけだ。
「大丈夫だよ」
そんな少年の不安を打ち消すように、少女は重ねてそう言った。
身体は化物への恐怖で震えているのに、その声は力強く、はっきりとしていた。
そして少女は、一度息を吸い込み、絶大な信頼を込めて叫ぶ。
「だってここには……うたのんがいるから!」
その瞬間。
「はぁぁあああああああああああッッ!!!」
その声に応えるように、別の少女が柱の奥から飛んできた。
そう、走ってきた、ではなく飛んできたのだ。少なくとも、そう思えるほど信じられないスピードで彼女は現れた。
彼女は不思議な服に身を包み、手には鞭を握っていた。
そのまま彼女は、すでに少年たちの目と鼻の先まで近づいていた白い化物に向かって鞭を叩きつける。
パッシィッッ、という空気が破裂したような音が響きわたった。
するとどうだ、あの巨大な化物が光を放ちながら崩れ去り、やがて消滅した。
それを確認した彼女は、ふう、と一瞬息をつくと、こちらを向いて言った。
「みーちゃんったら、急に飛び出すんだもの、驚いたわ。一人で行くなんてデンジャラスよ」
「ごめんうたのん……」
「でもすごいじゃない! その子のこと、助けられたのね」
「そんな、私は何も……うたのんが来てくれたおかげだよ」
「あら、そんなことないわ、みーちゃんのお手柄よ」
二人の少女はなんて事のない会話を続けていたが、少年の頭は混乱でいっぱいだ。
どこからともなく現れたうたのんと呼ばれる少女は、まさかあの化物を倒したというのだろうか。
何が起こっているのかさっぱりわからないし、少女達が何者なのかもわからない。
しかし、唯一「自分は助かった」という事だけは理解できた。
「っと、それよりあなたは一人みたいだけど……本当に、よく頑張ったわね。怖かったでしょう、でももう安心して大丈夫よ、お疲れ様」
「あ……」
“お疲れ様”
実にシンプルな、たった一言の労いの言葉だ。
けれども、この言葉が、このときの少年の心に与えた安堵は計り知れない。
どっ……と、少年の心と体の緊張の糸が急速にほどけていく。
「それであなた、名前は何ていうのかしら」
薄れゆく意識の中、少年は最後に聞こえた声に対してこう答えた。
「
答えると同時に、少年──創一は、その意識を手放した。
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「ぅ……ここは……?」
創一が目を覚ますと、どこかの室内にいた。
身体を起こし周囲を見渡してみるが、見覚えのない部屋だ。
まだぼやける頭でも、どうやらこの部屋の敷布団の上で寝ていたらしい、ということは理解した。
布団の上で寝る、ただそれだけの当たり前のことに、とても懐かしさを感じた。
天災以来、その当たり前の環境で寝られることはなかったから。
そんなふうに感慨にふけっていると、誰かが部屋の扉を開けた。
「あ、気が付いたみたいだよ。うたのん」
そう言って、最初に駆けつけてくれたおとなしそうな少女が、もう一人の、化物を倒した少女に呼びかける。
「あら本当ね、とりあえず目が覚めたみたいで何よりだわ」
二人の顔を見て、創一は何があったのかを思い出した。
そう、自分はこの人たちに助けられたのだ。
「あ、あの! さっきはありがとうございました、二人がいなければ俺……」
「いいのよ。それより、念の為聞いておきたいんだけれど……あなた以外に一緒だった人っている?」
「いえ、ここへは一人で……その前は結構いたんですけど……」
「そう……ごめんなさい」
うたのんと呼ばれた少女は、申し訳なさと悔しさが混じった様な表情になり、拳を強く握りしめる。
空気が暗くなるのを感じて、創一は話を切り替えた。
「あの……ここは……?」
「え? ああそうか、まだ何も説明してなかったわね。ここは土地神様が作った結界の中。あの化け物は入ってこれないから、ドントウォーリーよ」
「と、土地神様の結界……?」
予想だにしていなかった発言に、創一は戸惑った。
「あはは……やっぱり簡単には信じられないよね」
みーちゃんと呼ばれていた少女が、同情するようにそう言った。
「い、いやそんなこと……あの、少し外を見てもいいですか?」
「いいけど……体は大丈夫なの?」
「はい、おかげさまで」
立ち上がり、玄関へ向かう。
扉を開いて見えた景色に、創一は目を輝かせた。
「すごい……どの建物も崩れてない……」
天災以来、ここまで無傷な街並を見るのは初めてだ。
化物が襲ってこないというのは本当だったのだ。
ここには人が安全に暮らせる環境が残っている。
「驚いた? ここが、これからあなたが暮らしていく街、諏訪よ」
そうだ、これからはここで暮らせるのだ。いつ死んでもおかしくない、まるで気の休まる時間のなかった日々はもう終わりなのだ。
「諏訪の案内はまた明日軽くするから、今日はもうゆっくり休んだほうがいいわ。あ、この家で寝泊まりしていいからね」
少女は、創一が目を覚ました家を指してそう言った。
「え、いいんですか……?」
驚く創一に対して、みーちゃんと呼ばれた少女は少し声のトーンを落として言う。
「その、ここは空き家なんだ……
「あ……」
あの日から、という言葉で創一は察した。
諏訪に住んでいたとしても、天災当時に結界の中にいたとは限らない。
この家の家主も、きっと仕事か何かで遠くへ行っていたのだろう。
そして、帰ることはできなかった。
「こういう空き家がね、いくつもあるのよ……この家だってきっと、誰かが住んでいたほうが喜ぶわ」
うたのんと呼ばれていた少女の声も、どこか悲しそうだ。
「……わかりました、ありがたく住まわせていただきます。えっと……?」
なんて呼べばいいのかわからず、言葉が詰まる。
「ああ、私たちの自己紹介がまだだったわね。私は
「君は確か……種島創一くんって言ってたよね」
「はい、学年は小四です……あの、これから、よろしくお願いします!」
こうして、当時、まだたったの10歳だった創一は、地獄の中を生き抜き、たどり着いた諏訪の地で、白鳥歌野、藤森水都の二人の少女と出会い、ささやかな安息を手に入れた。
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それから創一はいろいろなことを知った。
空から降ってきたあの白い化け物は、バーテックスと呼ばれていること。
そして今現在、諏訪は四国と連絡を取り合っており、四国もここと同じように無事であること。
しかし、連絡が取れるのは四国とだけで、外国も含めて、ほかにバーテックスによる蹂躙から逃れている地域があるかはわからないということ。
また、歌野がバーテックスを倒せるほど強いのは、土地神様から力を授かっているからだそうだ。
彼女のように、神様から力を貰って戦う者達は「勇者」と呼ばれ、四国には複数人いるらしい。
そして、水都は土地神様からのお告げ、「神託」を受けることができ、それによってバーテックスの襲来を察知することが出来るようだ。
水都のような力を持つ少女は「巫女」というとのこと。
勇者も巫女も7・30天災のときに力が目覚めた。
また、これらの力を得た者達に男はいない。皆、年端もいかぬ少女であったという。
こうした、今までの常識ではとても理解できない事柄に戸惑いながらも、創一は必死に順応して日々を重ねていった。
やがて時は過ぎ、そして────。
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ミンミン、ジジジジ、と響くセミの鳴き声のうるささに、創一は顔をしかめながら目を覚ました。
「ああくそ、暑っちぃ」
身体を起こすと、背中が寝汗でぐっしょりと濡れており、朝起きて早々に不快感が心に染みつく。
朝からこんなに暑いというのは本当に困る。
しかし、真夏とはいえ、普段からここまで暑かっただろうか。
「朝っていつもこんなに暑かったっけ……あれ、今何時だ?」
壁に掛けてある時計に目をやると、朝8時30分を示していた。
「やべっ」
この日は9時から畑仕事を手伝う予定だった。
これでは遅刻してしまう。
「急がないと……!」
創一は急いで支度を始めた。
今すぐ外に出れば普通に間に合うが、そういうわけにもいかない。
着替えるのは当然として、朝食も食べなくてはならない。
真夏の農作業は非常に体力を使うので、朝飯抜きではバテてしまうから。
それ以外にもやることはある。
一人暮らしには色々あるのだ。
かなり急いだものの、準備が終わったときには、すでに遅刻は免れない時間になってしまった。
「ああ、歌野さん達に謝んないとな」
もっとも、歌野らはそこまで怒らないだろうが、と心の中で思いつつ、創一は玄関を出る。
「そんじゃ、行ってきます!」
自分以外にこの家に住んでる人はいないが、つい言ってしまった挨拶に自分で苦笑しつつ、創一は走り出した。
西暦2018年、夏。
あの天災から、そして創一が白鳥歌野、藤森水都の二人と出会ってから三年の月日が流れた。
創一も13歳になった。学校があれば中学生になっている。
もう立派にこの町の一員だ。
そんな創一に、すれ違う諏訪の住民達は声をかける。
「おっ創一、今日は寝坊か? 気を付けて行けよー」
「あら創一君、いってらっしゃい」
「創一にーちゃん、今日も頑張ってね!」
かけられた声に手を振る。
「はい! 種島創一、行って来ます!」
そうやって、大きな声で返事をしながら、創一は大地を蹴って元気いっぱいに駆けていく────。
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これは、始まりのお話。
やがて遠い四国の地へ、それも三百年という長い時の中で繋がれ続ける「勇気」という名の二本のバトン。
その出発点、諏訪の物語────。
読んでいただきありがとうございます。
新章の開幕です。
次回、Ⅱ:「諏訪の日常」
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