ヂリピリナについての正しい説明から始めます。
そのためには、イエズス・クリストがいかなる存在であるのか、から話さねばなりますまい。
その前に、デウスとは、すなわち創世記の物語も必要ですね。
困りました。そこまでは、一日では無理です。
イエズス・クリストは、人の子であり、同時に、父なるデウスの子でもあります。
地上に生まれ、人として生き、人として裁かれ、ゼルザレンで磔刑に処されました。
このとき、兵士たちに葦竹で頭をぶたれたのですが、これがヂシピリナの由来です。
私たちは、イエズス・クリストの生涯をお手本として、清く正しく美しく生きることを定められています。
そのことを忘れぬよう、毎年四旬節にイエズスの御受難をなぞり、断食し、聖体を拝領し、その復活を祝い、昇天されスピリツサントスが降り注がれるまでを追体験するのです。
すべての信徒にとって大切なつとめです。
聖金曜日に、コンヒサンをした信徒の中から何名かが、鞭で叩かれます。
苦しめ抜くことが目的ではありませんから、何回も何回も打ったりなど、しません。子供をお仕置きするように、慈愛を込めて、打つべしです。
これが正しいヂシピリナの作法です。
ところがです。
日本では、このヂシピリナが、大人気だというのです。
しかも、より強く、より烈しく、血のにじむまで、血が飛び散り床を汚すまで、打たれないと、気がすまないらしい。
あなたの罪は赦されたのですといくら言っても、きかないらしい。
涙を流して鞭を欲しがり、それを他の信徒たちも涙を流し嗚咽にむせびながら見守り、ひとりが力果てくずおれると、次は私を次は私をと、そんな光景が夜通し続くのだそうです。
おかしいだろそれ。いくらなんでも。
そんな報告、読んでないぞ。ヂシピリナを行いました、くらいは見た記憶あるけど。
いやしかしまあ、書けないか。書けるわけないか。
私も書け……書かないかもしれないかな。どうだろう。
この目で実際見てみないと、わからないな。
「日本人は、裸になることに抵抗がない。
男も女も、幼児でも老人でも、いつでも胸や尻を往来でも平気でさらす。服装も、ゆるくて脱ぎやすいしね。
さすがに服が血まみれになると洗うのも大変なので、ヂシピリナをするときには裸になり、四つん這いになって、尻を向ける。しつこいようだが、老若男女、誰でもだ。
そういえばアジュダでは、ヂシピリナを見せなかったね。他にやることがいっぱいあったし、新しい教会だったから汚したくなくて、一応禁止にしてたんだ。
そうか。じゃあパードレは、降誕祭で初体験ということになるかもね」
ちょっとまてちょっとまてちょっとまて。水を一杯飲みたい。ごくり。ふう。
……イルマン・フェルナンデス。君が冗談を言っていないことは、信じよう。
だが、私には、まだ納得がいかない。
それは、いくらなんでも、布教のありかたとして、カウトリカの聖旨に照らして、何かが躓いている気がする。ように私には思えるのだが、君の意見はどうですか。
「言われてみると、そうかもしれない。
しかし本来、ヲスチヤと葡萄酒で行うべき聖体拝領も、我々はコメとサケで代用せざるをえない。
いろんな要素を、日本では現地に即した形に適応させねば誰一人信徒にはなれないし、我々にも授洗するための用意がないということになってしまう。
コンヒサンだって、エウロパ人でやっているのは私だけだからね。
その一要素として、日本式のヂシピリナが信徒を惹きつけ、未信徒が興味を抱くきっかけになっているのならば、雑念をふりはらって活用すべきともいえないだろうか。
それとも、厳格にするべきですか?
教会では子供だましのヂシピリナしか味わえない、となれば信徒たちは家へ籠もるようになるよ。
まあ、それでも来てくれる信徒ならばホンモノだという線引きにもできるとは思いますけど」
私は、頭の中を整理しきれないまま過ごした。
まもなく降誕祭が訪れた。
新しく借りた藁小屋をせいいっぱい飾りたてて、信徒たちを出迎えた。
雪が真横から吹きすさぶ中、聖歌を合唱し、ささやかな演劇を行い、祈りを唱え、新生児に洗礼を授け……そして、ヂシピリナの時間がやってきた。
フェルナンデスの鞭さばきは、私の想像を超えていた。
美しいとさえ思った。いや、美しかった。
磨き上げられた達人芸を思わせた。
信徒たちは目を輝かせて、四つ足で踏ん張る同朋を応援し、サケを酌み交わす。
私も交代して何人か打ったが、一人も満足させられなかった。
申し訳ない。申し訳ありません。もっと体力を鍛えます。
「もっと」
これも副詞だそうだ。ヂシピリナの最中、この言葉が叫ばれ続ける。
覚えてしまった。
でも、汗をかくのはいいことだ。
私は久々に、ぐっすりと、眠りにおちた。