戰國ぢあぼろす   作:ひねもす@HAMELN

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SengokD.1581/002.hmos

サンガには一泊しかできなかったが、多くの情報を得ることができた。

 

私がブンゴへ転任した年すなわち77年の、夏。サンガ王サンティエゴ殿はオーザカとの密通を疑われ、カヅサ殿より城を逐われた。

この件については、ニエッキやステファノーニの報告ではさっぱり概要がつかめなかった。今も真相には辿りつけていない。

嫌疑は晴れ、サンティエゴ殿は城へ戻ることができたものの、身分を大幅に下げられた。今ではサンガ城内聖堂の管理人として日々を過ごしている。かつての栄光からは、隔世の感がある。

 

もともとカワチ国は小領主乱立の態が甚だしかったのだが、オーザカ攻囲戦が長引いたことによって、更に離合集散を重ねた。現在、最大派閥はヤオ城を拠点とする3人の領主たちということになろうか。サンガはその配下に置かれている。

カワチには、信徒である領主が領内の信徒たちを保護してくれている町がいくつもある。だがどれも規模が小さく、しかもほぼすべてがツノ国タカツキと軍事同盟を結び、その庇護に頼っているという構図だ。

キナイの信徒たちにとって、タカツキの存在はかくも大きい。ジュスト殿の進退がかれらの生存にも関わる重大事だったであろうことを、私はやっと肌身で思い知った。

 

悲しい報せがもう一つ。

カヅサ軍古参家臣のひとり、私もさんざんお世話になったサクマ殿。昨年カヅサ殿から身分を剥奪され、コーヤのテラに追放された。サンティアゴ殿を捕縛するよう命じられたが情けをかけ、しばらく匿っていたそうだ。罪状は他にもあるようだが、それにしても厳しすぎる。

敵にさえ恩情をかけて接するというのは、カヅサ殿の信条ではなかったですか。

サクマ殿への処分は何が理由だったにせよ、あまりにひどすぎると思います。

だいたいサクマ殿がカヅサ殿に反逆するなんて、どう考えても何の得にもならないわけで。むしろ貴重な手駒をひとつ、自ら放擲する行為ですよ。

いったい、何があったのだろう。

追放先がテラとなれば、会いに行くわけにもいかないしなあ。

私は、ただただ、やるせないのです。

 

 

大勢の信徒たちと一緒に、タカツキまで歩く。

オーザカの焼け跡を見物していこうという案も出たのだが、周辺はまだ物騒だからと反対意見の方が多かったので、従った。

オーザカ城は、焼失したのだ。昨年の秋に。

カヅサ殿があれほど無傷で手に入れたいと願い、無血開城にこだわった、イコ衆の総本山が。

縦横無尽に入り組んだ水濠に囲まれ、邪宗徒たちの町を衣にして聳える魔の城。迷路のように入り組み、数々の罠が仕掛けてあり、伏兵もいたるところに待ち構える伏魔殿。各階層にも隠し扉に脱出口と、およそ地上で考え出せるすべての侵入者撃退装置を結集させたとの噂高き、バベルの塔。

それがこの世から消え去った。すべての闇を、永遠の謎へと連れて行ったのだ。

 

昨年春、イコ宗の頭領は城から脱出した。その息子が抵抗戦を指揮し、無駄なあがきを秋まで続けていたのである。

だが降伏した。カヅサ殿に投降者全員の生命を保証し財産の持出しまで許可させるという条件を呑ませ、城から撤退した。

10年ぶりに、初めて訪れた静寂の夜。

それは長く続かなかった。

火の手があがり、3日間燃え続け、すべてを灰にする。

柱の一本すら原形を留めぬ姿だったと、見た者は言う。

周到な仕掛けが施された上での放火であることは明白だが、それを根拠に残党を問責や処罰すればイコ衆に再蜂起の口実を与えるだけだ。口惜しいが、ここは見送ってやらねばなるまい。

 

いま気付いたが、オーザカ攻め方面軍の総指揮官は、サクマ殿だった。

 

いかなる犠牲を払ってでも手に入れるべきだった城の焼失は、全作戦の失敗を意味しよう。その責任を取らせられたのではないかな。

そうでないと、カンガ方面軍やアキ方面軍の諸将たちに対しても示しがつかないだろう。

それであれば追放は一時的な処遇だ。早ければ1年ほどで復帰を命じられるだろう。なら納得がいく。

 

 

我々はタカツキに到着した。

年報では、この都市には15千人の信徒がいる。担当はセスペデスだから、信用してよい数字だと思う。

私ですら驚くことがあった。タカツキではエウロパの暦が使われているのだ。太陽暦だ。

我々の到着した81年3月21日火曜日は、日本の暦では2月17日になる。日本には曜日という概念が存在しないが、タカツキの住民は週6日働いて、主日には休息する。すべての家族が教会を訪れ、ミゼレレを歌う。

巡察師は、ラウマへ帰ってきた気がすると瞳を潤ませた。

私ももらい泣きをした。ここまで整えられた日本の町など、見たことがない。

 

広々とした教会でミサを行う。

この教会は、私たちが必死でエウロパ風建築の特徴を説明して、日本人がそれを手探りで模倣したものだ。

苦心の末に生まれた、かけがえのない建築である。

笑わば笑え。しかし、誰もが圧倒させられていた。ことにパードレ・メシヤは屋根の上にまで登りたがり、図面を見せろと要求した。

日本人は建築に図面を用いない、と何度も説明したのだが、絶対にそんなことは不可能だと食い下がられた。

当時の人夫たちに、今から図面をつくってもらえないかと交渉してみるつもりでいるが、本末転倒にもほどがあるよな。

願わくばこれによって、長さを正確に測れない日本人がどうして建築物だけは寸分の狂いもなく木材を加工して組み合わせできるのだろうという永遠の謎に、解決のいとぐちが見出せればよいことだなあと思う。

 

巡察団の歓迎会も、エウロパの王侯たちに見せてやりたいほど荘厳かつ礼儀正しい式典であった。セスペデスはこれのために何週間もかけて、日本人に徹底的な指導をしたらしい。

 

ジュスト殿は父親を追放させられはしたが、あの事件を経たことで、より領主としての貫禄を深めた。

巡察師は彼に、いずれタカツキにも、アヅチより大規模のセミナリヨとコレジオをつくることを約束した。

 

日本人が世界中に羽ばたく日は、来世紀どころか、もっとずっと早まりそうだ。

 

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